2010年12月30日木曜日

文脈日記(疾風怒濤)

疾風怒濤の一年間だった。
2010年は自分の人生の中で大きな区切りになるだろう。

疾風怒濤、ドイツ語では「シュトルウム・ウント・ドランク」だ。
この言葉を覚えたのは18歳の頃、北杜夫の「ドクトルまんぼう青春記」を読んだときだった。

若いときに覚えたことは忘れない。
その後、シュトルウム・ウント・ドランクを重ねるうちに忘却の彼方に行ったことは多い。

最近では「固有名詞忘却シンドローム」がひどくなって、人とモノの名前がでてこない。
たとえば、その有名タレントの属性は全て覚えているのに、どうしても固有名詞だけが思い出せない。イライラしますね。
この現象には、海馬がどうしたこうしたという明確な原因があったはずだが、それも忘れてしまった。

と、ここまで書いているとき、次のツイートを発見した。

 協創LLP情報Producer@西口和雄 

本日13時より大人の隠れ家@西成BAR無心庵にて餅つき大会を致します。総勢30名を超える大賑わいで今年のうっといもんを振り払います~~~来年の飛躍のためにも西成の聖地にもちくいにこいっ♪

これは行かねば、ということで急いで西成まで行った。
ツイッターで繋がっていた皆さんとリアルに会い、餅を食べ、酒を飲んできた。

ということで、長い間がありつつ、エントリーを再開するなうだ。

そうである。僕の2010年はツイッターとともにあった。
今まさに、1000人の皆様にフォローされたところだ。ありがとうございます。

疾風怒濤の日々を記憶するのは難しい。
でも、twilogというツイッター記録アプリをひもとけば、僕の1年間が見えてくる。

今年の元旦には讃岐の志度にいた。瀬戸内海を望むペンションから初日の出を見ていた。


完全無欠の初日の出なう。
posted at 07:20:37



それから1年間、僕は日々のよしなしごとをつぶやき続けてきた。

もちろん、2010年は6月30日以前と以後で別世界だ。
脱藩したら横に拡がると宣言して、そのことが曲がりなりにも実現の方向に向かっているのは、ツイッターに助けられたからだ。

最近は、久しぶりに会った人でも近況報告をする必要がない。その人が僕のつぶやきを見てくれているとコミュニケーションは簡単だ。

そして、何度も言うが、脱藩生活は忙しいのだ。
自由というのは果てしなく続くタスクの中から自分の選択肢を選んでいく毎日だ。

頭の中には様々な文脈が渦巻いている。
そのもやもやはとりあえずつぶやいてみる。そうすれば、頭の中がすっきりしてくる。

しかし、つぶやき続けていても、まだ頭の中は整理しきれないときがある。

そんなときはGTD(Getting Things Done)の出番だ。
大学時代の友人が教えてくれたすてきなライフハックだ。
デビッド・アレンの新刊をamazonに発注したが、品不足なのか、なかなか届かない。


今、amazonで確認したら、新刊本は入荷待ちで古本が新刊本よりも高くなっている。
情報大洪水に溺れる生活者たちがGTDのテクニックを求めているのだろう。

GTDの基本は頭の中にある「気になること」をすべて受信箱に収集することだ。受信箱の処理をしてネクストアクションを決める。
そのプロセスを週次レビューで繰り返して、もの忘れの恐怖から解放されたとき人間の精神は目の前のタスクに集中できる。

と、口で言うのは簡単だが、なかなか実践は難しい。
たとえば、このエントリーを書こうと思っても次から次に新しい「気になること」が発生してくる。
そんなときにはGTDでアクションの最適化を図る。

GTDを始めていなかったら、僕は今日の協創餅つき大会には行かなかったかもしれない。割と融通が利かないところがあるので、このエントリーを書き続けるというアクションを選択しただろう。

でも、2010年の12月29日の午前10時30分という時点で、僕の取るべきアクションは西成に行って新しい出会いをすることだった。

縁脈を深化させることだった。

おかげで来年に向けて、またひとつ展望が開けてきた。

疾風怒濤の日々の羅針盤はツイッターとGTDだ。この2つのツールを使い続けることによって来年も前に行くことができそうだ。
コンテキスターを目指す僕にとって文脈の錯綜はいつものことだ。その錯綜を解きほぐして編みこんでくれるツールがあるのは頼もしい。

ただし、ツールはあくまでも手段であって目的ではないのですね。

航海していく目的地は自分で設定するしかない。年の終わりでも年の初めでも、それは簡単なことではない。というか、脱藩生活の目的地はまだ見えない。

羅針盤の指示に身を任せつつ、まだ見ぬ新大陸を目指す日々が来年も続きそうだ。

最後に僕の2010年を象徴する写真をアップしよう。


瀬戸内国際芸術祭で見たスゥ・ドーホーの作品だ。人と人の繋がりが海に向かって揺れていた。

縁脈のネットワークがあれば、その彼方には無限の時空が拡がる。

2010年11月30日火曜日

文脈日記(職能訓練)

気がつけば11月の最終日だ。龍馬伝は終わってしまった。明日からは師走だ。
脱藩者にも年末年始がやってくる。
そんなわけで、大慌てでブログを更新しよう。一ヶ月以上、ブランクが空いてしまった。

この間、僕は何をやっていたのか。一言でいえば職能訓練をやっている。

脱藩をするとき、僕は以下のミッション・ステートメントをした。

コミュニケーション・デザインのボランティアをします。

釣りの合間に畑仕事やります。

調理師免許とります。

今は、この3つのミッションを実現するための職能訓練に時間をとられているのですね。

コミュニケーションの仕事は長い間、やってきた。でも仕事としてのそれと、世の中と繋がるためのコミュニケーションは少しちがう。

脱藩してタテのコミュニケーションからは完全に脱出できた。そしてヨコに繋がっていく縁脈は確実に拡大再生産している。
会社をやめると孤立する、という説は信じられない。

ツイッターで繋がった皆さんとリアルに会い始めた。初めて会った瞬間からその人のことを分かっているコミュニケーションは新鮮だ。初対面のような気がしない。

年の差は関係ない。名刺も関係ない。

会社員時代は初対面の相手との間合いを図るのに時間がかかった。クライアントを頂点とするタテ構造は複雑だから。
でもネットの性善説に基づく間合いの取り方はシンプルなようだ。

誠実であること。相手の言うことを傾聴すること。

これはツイッター・オフ・ミーティングに限らず、新しい出会いでの大原則になりそうだ。

僕は今、さまざまな新しい出会いをしながら、この職能訓練を積み重ねている。
まだまだやな、という妻の声が聞こえそうだが。

コミュニケーションのスキルを改革しつつ、新しい出会いの場を構築することも始めた。

僕は小豆島に誰も住んでいない家を持っている。

瀬戸内国際芸術祭では「小豆島の家」というタイトルのアートがあった。竹で建築された涼やかな家だった。

僕の「小豆島の家」は骨太ではあるが、まだ寝泊まりすらできない。まずは上下水道の整備からだ。ずっと使っていた井戸水は水質検査の結果、飲用不可だった。

ツイッターで繋がった小豆島在住の仲間たちの助けを借りながら、少しずつ基本インフラの整備をしていこうと思う。
それから、家のリフォームだ。こちらは協創LLPの縁脈が頼りになりそうだ。

まだまだ先行きは不透明だが、前には進んでいる、と思う。

実は、もうひとつ、坂出にも誰も住んでいない僕の実家がある。こちらは妻の奮闘努力で寝泊まりができるようになった。現住所の箕面は大好きなのだが、諸事情で坂出滞在も多くなりそうだ。

次は畑仕事の職能訓練だ。

小豆島の家の周りには、けっこう広い土地がある。ところが、ここはセイタカアワダチソウを大将とする草たちの縄張りになっていた。彼らの生命力には恐れ入る。

畑仕事の基礎は草刈りだ。小豆島の家で畑をするのは時期尚早だが草刈りの訓練には最適の場所だった。親戚のおじさんにご指導を乞いながら、生まれてはじめて草刈り機のエンジンを回した。

これは快感ですね。フルスロットルにして草どもをなぎ倒す。暴れるハンドルを必死で支える。青臭い草の匂いに包まれる。前へ前へと進んでいく。

生まれてはじめての経験は楽しい。楽ではないが楽しい。

この草刈り体験の前に、僕は箕面のマイファームも始めていた。マイファームというのは休耕地を利用して、野菜作りの畑を都会のそばで持続していくプロジェクトだ。「自産自消」社会の構築を目的としている。

自慢じゃないが、畑仕事も生まれてはじめてだ。D社時代に、エコとかサステナビリティとかに関わったが、自分で手を動かして作物を育てたことはなかった。

野菜の芽って可愛い。話には聞いていたが、そのとおりだった。

箕面マイファームでの職能訓練では管理人さんが頼りだ。畑仕事に関しても膨大な情報がネット上にあふれている。でも、この分野では謙虚に一から管理人さんの話を傾聴しようと思う。
畑情報の大洪水に溺れたくはないので。
畑仕事の職能訓練は時間の経過とともに、身についていくと思うのだが。

さて、問題は3つめのミッションだ。

調理師免許取ります。

すみません、この件に関しては大嘘をつきました。ほらふきと笑ってください。
僕の性格では、調理師学校に1年間、通学して学生をやるのは無理と妻に認定されました。

よって調理師への道は諦めた。
以上終わり、ではあまりに無責任だし、本当に料理には興味があるので違う道を歩み始めている。

送別会でいただいた包丁は決して無駄にはしません。

今は調理師学校ではなく月に3回、料理教室に通い始めている。この職能訓練も楽しい。
マイ計量カップも買った。まだ包丁で指は切っていない。

コミュニケーションのスキルを改善して、新しい生活拠点をつくり、自産自消した野菜と魚を料理できるようになること。

これで《自立》のためのコンテキストは一応、つながるはずだ。
小豆島や坂出で、妻なしでも暮らしていけるはずだ。

でもまだ問題はある。元々、曲がりなりにも持っていた釣りのスキルを磨く時間がまったくないのである。

釣りの合間に畑仕事やります、の釣りにまったく行くことができない。
もちろん鮎釣りはオフシーズンだ。しかし僕に鮎釣りを教えてくれた師匠は、今や海釣りでも漁師並みの腕前になったと聞いている。そちらの教えも請いたいのだが。
この職能訓練も楽しそうだ。

よみかきそろばんとITスキルだけでは、人は生きていけない。

頭の中だけでのサステナブル・ライフからいつ脱出できるのかは、まだ分からない。
一歩一歩、できることからやっていく日々が続く。

2010年10月22日金曜日

文脈日記(丸亀高校)

ようやく秋も深まってきた。僕の脱藩生活も深まってほしいものだ。
と、人ごとのように言っていると誰かに叱られそうだ。
僕は変わり続けているのだ、と信じたい。
ようやく畑仕事を始めたし、料理修行のスタンバイもした。
どこまでやりきれるかは保証の限りではないが、やったことがないことをやってみるのは変わり続けるための必要条件だ。

さとなおも「変わり続けること」というエントリーで決意表明を新たにしている。

いきなり決意表明などとアジエン(アジテーション演説のこと)のようになるのは、「街場のメディア論」(内田樹)の影響だ。以下、引用。

総数600万と呼ばれるブログには、これまで身辺雑記エッセイが多く含まれていました。ところが、ここにツイッターという新しいメディアが出てきました。これはいかにも日常の出来事を「随筆風」に点描するのにジャストフィットなツールですので、ブログの書き手たちの相当数はすでにツイッターに流れています。いずれ、ブログにはそういう「やわらかいネタ」を排除した残りの、政治経済社会文化のもろもろの事象についての「演説」に類するものが残されるのではないかと僕は予測しています。

このブログの更新頻度が少ないのは、演説するための心の準備に時間がかかるからです。
しかも、文脈研究所のエントリーは自分で自分に対して演説しているので、さらにハードルが高いのです。

と例によって言い訳をしておこう。

そして今回のエントリーは、僕の演説の原点を語りたいと思う。
僕は1970年に香川県の丸亀高校を卒業している。そして早稲田大学に行った。

正直に言って、早稲田大学への愛着はない。「都の西北」は歌ったことがない。その代わりに「ワルシャワ労働歌」や「友よ」を歌っていた。

だが、丸亀高校校歌への愛着はある。なぜなら、僕は丸亀高校応援団であったから。
15歳から18歳まで、丸亀高校(以下、丸高)で過ごした日々は面白かった。

ラスト・オキュパイド・チルドレンである僕は丸高時代にモノの考え方のプロトタイプを構築した。そして58歳の今に至っている。

丸高卒業後の40年間で同窓会には一度しか出席したことがない。
そこで僕は18歳からほとんど変わっていないと言われた。もちろん、見た目は充分に老けているが。

「死ぬまで18歳」と歌ったのはブライアン・アダムスだ。それはクールなことなのだろう。
だが、実際のところ、18歳のややこしい精神構造のまま生き続けるのなんて面倒くさいと思う。変わっていないと言われると複雑な気分だ。

18歳から変わっていないのではなく、あの頃に原点を持つ文脈にまだこだわりを持っている、と言う方が正解だと本人は思っている。

その文脈が形成されたのは1967年から1970年だ。丸高時代の3年間は全世界的に激動の時代だった。

パリでは想像力が権力を奪取しそうだった。サンフランシスコではフラワー・チルドレンたちがレイド・バックしていた。東京では神田にカルチェラタンができて大きな講堂が水浸しになっていた。

そして僕は片田舎の高校生だった。坂出から丸亀まで自転車を飛ばし、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み、ビートルズの赤盤を買いあさり、応援団の練習で声をからせていた。その状況は、まさに芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」そのものだった。

純朴な丸高生だった僕に、東京に行った応援団の先輩から熱い手紙が届く。

俺は新宿で石、投げじょるんで。よいよ、おもっしょいけんな。お前もはよ来てつか。

讃岐弁で言えば、こういう主旨のことを書き連ねてくる。その手紙はテレビで見る全共闘の映像よりも激しく、僕のパトスをあおってくれた。

重ねて言うが、応援団である。普通は右翼集団である。
ところが、この先輩も含めて、当時の丸高応援団は妙に左翼のニオイがした。
東京に行ってはじめてデモに参加したとき、応援のリズムとデモのリズムって似ている、と僕は感じた。

丸高の真ん中には広場がある。
もしくは、あった。最近、行ったことがないのでよく分からないが。
その広場には赤いタイルが敷きつめてある。
僕たちの応援団は、その広場を「赤の広場」と呼んでいた。

その頃の高校生にとって左翼的なるものは、すべからくかっこよかったのですね。
モスクワであろうが、毛沢東であろうが、チェ・ゲバラであろうが、あまりコンセプトの違いは関係なかった。

かっこいいと自分勝手に思いこんでいた僕たちは派手好きだった。
文化祭には講堂で演舞をやった。けっこうな人気だったと思うのだけど。
芦原すなおの小説に出てくるようなロックバンドの代用品だったのかもしれない。

そして赤い応援団には妙な縁脈があった。大江健三郎をきどって難解な文体の詩を書いていたやつ、琴平の旅館の息子で僕にはじめてのビールをしこたま飲ませてくれたやつ、などなど。

もしかしたら、僕だけが勝手に赤い志向を持っていたのかもしれない。他のメンバーは普通の応援団だったのかもしれない。僕は丸高応援団は今でも大好きだが、丸高野球部のことはほとんど覚えていない。応援団なんだから、野球の応援はしていたはずだけどね。

ただ、はっきり言えるのは、僕は丸高生時代に「永遠の左翼青年」たる文脈を形成してしまった、ということだ。ここでいう左翼というのは、必ずしも思想信条的なものとは限らない。もっと単純に言えば、「へそ曲がり」「天の邪鬼」というほうが当たっているのかもしれない。

その気質で得をしたのか、損をしたのかは今でも分からない。ただ、D社の社風には合っていたようには思う。

考えてみれば、スティーブ・ジョブズだって、ビル・ゲイツだって「永遠の左翼青年」のようだ。
スティーブ・ジョブズは左翼急進主義で、ビル・ゲイツは議会制民主主義型左翼という違いはあるが。

赤い丸高応援団だった僕は、早大全共闘に馳せ参じて・・・となれば文脈は単純なんだが、ラスト・オキュパイド・チルドレンの人生は複雑ですね。これもまた宿題エントリーですね。

ではなぜ、そのような気質を持つに至ったのか。

まずは丸亀という土地が持つコンテキストが妙に明るかったことだ。
それは街の真ん中に素敵なお城を持っていることとも関係していたように思う。
丸亀城は丸高生の運動場であり遊び場であった。思い出は尽きない。

その「亀城のほとり、富士の下」にあった丸亀高校には自由な雰囲気が漂っていたように思える。
一応、香川県ではナンバー2の進学校だった。受験の重い現実は当時もいっしょである。
でも、自由気ままな赤い応援団である僕が、その受験にさえ「へそを曲げて」も受け入れてくれる寛容度は充分にあった。そのはずだ。

と書いているうちに、もしかしたら僕は真面目な受験生たちの邪魔をしていたのかもしれない。いや、そうに違いない、という気がしてきた。今さらながら、ごめんなさい。

当時の丸亀高校関係者がこのエントリーを読んだら、またあいつが勝手なことを、とお怒りになるかもしれない。
でも丸高に対する僕の愛着は本物です。

脱藩して、こういうブログを書き連ねるようになった原点は、丸高の3年間で培われた。
その文脈にのっとって、僕はこれからも変わり続けねばならない。

そのためには、ときどき、こうして自分で自分の応援演説をする必要がある。

フレー、フレー、自分。

2010年10月11日月曜日

文脈日記(コンテキスターふたたび)

最近、コンテキスターって何ですか、というメンションをツイッターでもらった。
とりあえず、以前のエントリーをご紹介させていただいた。しかし、そろそろまたコンテキスターについて語らないと、この言葉にサステナビリティがなくなりそうだ。
CONTEXTER、コンテキスターというのは僕の造語だ。正しい英語かどうかは分からない。
脱藩後の自分の肩書きをを考えていたときに、ふと思いついた言葉だ。今年の2月のことだった。

元々、コンテキストという言葉に興味があった。
コンテキストとは背景、世界観、関係性、織り方、そして文脈。なかなか味わい深い。

この言葉は広告業界では、あまり頻繁に使われる言葉ではなかった。CMを中心とする広告はコンテンツという言葉でくくられることが多い。ところがメディアが変化するにつれて、単独のコンテンツでコミュニケーションを浸透させるのは困難な時代になってくる。

僕はD社にいた最後の10年間でネットの世界と深く関わった。しかもほとんど先人がいなかったインタラクティブ・クリエーティブのCDだった。iCRというチームでさまざまな経験をしてきた。
そこでは、しばしばコンテキストという言葉を使った方がものごとをうまく説明できたような気がする。

たとえば、「ワン・ソース、マルチ・ユース」という広告用語があった。ひとつのコンテンツをクロス・メディアして使用するという意味だ。4マスで広告コミュニケーションが成立していた時代にはそれでもよかったが、ネット環境では少しそぐわない感じがした。

インターネットが体液のようになった生活者に対しては、「ワン・コンテキスト、クロス・ソース」という表現の方が当たっている。そのブランドのベネフィットを一定の文脈で、たくさんの口がしゃべる方が強く伝わる。
というようなことを2009年秋にはしゃべっていた。

また、2002年には「ブランド戦略シナリオーコンテクスト・ブランディング」という本を棚入れしている。あまりマーケティング系の本を保存することはないのだが、「文脈競争優位」というキャッチフレーズに惹かれて、会社のデスクにいれておいたのであろう。

このエントリーは広告関係でまとめる気はない。ただ、コンテキストという言葉が広告業界でもキーになりつつあることを確認しておく必要はあると思う。

「使ってもらえる広告」の著者、須田和博さんも、生活者はコンテンツ消費からコンテクスト消費へとシフトしつつある、と説いている。

さらに、最近は出版界でもコンテキストはキーワードになっているらしい。
佐々木俊尚さんは「電子書籍の衝撃」を紙とeブックの両方で出版することにより、コンテキストの循環プロセスを実践したそうだ。
読者とコンテキストを共有した本は、時代の集合的無意識をすくいあげて、また新たなコンテキストを生み出していく、ということだ。

その佐々木さんを師匠と仰ぐ「リストラなう!」たぬきちさんの言葉を引用して、これからはコンテキストの時代である、ということを再認識しよう。

なぜその本が書かれたのか、この本を読む意味は、読んでどうトクするのか、今この本を読む必然性とは……そういったことがお客さんである読者に伝わるよう周辺を整理しなきゃならない。そして大勢の読者にその本について語り合ってもらえる場を用意すること、などなどなど。
つまり読者の人生にその本の居場所を作ってやる。それが「本をソーシャル化する」ことだと思う。

本をソーシャル化する、ということは本を生活者のコンテキストの中で価値あるモノにする、と言い替えてもいいですかね、たぬきちさん。

さてさて、コンテキスターの話をしなきゃ。
脱藩後、1クールを経過した現時点では、僕の考えるコンテキスターとは単純な話になりつつある。

コンテキスターとは、文脈の接続者である。

あまりに簡単な定義ですみません。でも、そうなんです。
このエントリーで、僕がつたなくも試みていることがコンテキスターのことはじめなのだ。

たとえば、広告界と出版界を「コンテキスト」という文脈で接続してみること。
たとえば、リアルな世界で自分の親戚と仕事仲間を接続してみること。
たとえば、ツイッターで@と@をメンションしてRTして接続してみること。

これらの行為がコンテキスターのミッションなのだ。
よろず、ものごとを接続する者をコンテキスターと呼んだら、自分の中ではすごくすっきりする。

考えてみたら、文脈を接続する行為を表す言葉ってなかったのですね。
コネクターでは、あまりに物理的だ。
フィクサーでは、生臭い。
プロデューサでは、お金がからむ感じがする。
コンテキスターというのが、僕にとって適度な温度感を持った言葉だった。

さらに考えてみたら、坂本龍馬だってコンテキスターと言えるのではないか。
長州と薩摩と土佐の文脈を接続して、未来を指向した。
その未来が1945年8月15日に繋がったのは情けない話だが、これは別エントリーに棚入しておこう。

と書いているうちに、聞こえてきたメロディがある。
恥ずかしながら(笑)、D社の社歌だ。

♪おお、D社、◯◯と◯◯つなぐ~、というあれですね。

現役時代、あまり社歌に対するロイヤリティはなかった。でも、確かにこれはコンテキスター賛歌とも言える。繋いで、接続して、そして前に行くのだ。
D社のDNAのよいところは、ひたすら前向きなところだった、と僕は思っている。いかに問題が多くても、猪突猛進と言われようとひたすらポジティブなDNAだ。

そう、コンテキスターは接続して前に行かなければならない。
善循環説に立たないと、接続する行為は持続しない。
そういう意味では、D社を卒業した僕がコンテキスターという肩書きを目指しているのは正しい道のような気がする。

僕はまだ世の中に対しては、コンテキスターと名乗ったことはない。
ツイッターとこのブログの中でのみ、すなわち自分に対する道筋としてコンテキスターという言葉を使っている。

まずは身近なモノとコトから文脈を接続していき、それが世の中全体に何らかの善循環をもたらせば最高だ。

だが、今の僕には、そこまで高らかにコンテキスターのミッションを宣言する自信はない。
明確に言えるのは、僕は自分の文脈を正しく接続していきたい、ということだ。

1952年から今日まで生きてきた僕の中にはさまざまな文脈がからまっているはずだ。
その文脈をひとつの流れに接続していけば、必ず見えてくるものがあると思う。

過去の自分と今の自分と未来の自分を繋ぐ接続者でありたい。

これが、僕のコンテキスターとしてのスタートラインだ。

2010年9月27日月曜日

文脈日記(「リストラなう!」を自炊なう)

いつのまにか脱藩から3ヶ月が過ぎようとしている。
会社員にとっては1クールというやつだ。1クールくらいでは会社はそう簡単には変わらない。特に大きな会社は。

ところが、脱藩者にとっての1クールは急激な変化がある。
特に僕の場合はミッション・シートで自分を縛ってから脱藩したものだから、変化せねばならぬ、という妙なプレッシャーがある。その自分勝手なプレッシャーの中であがいているうちに手をつけるのが、すっかり遅くなったことがある。

それが本の「自炊」だ。iPadやiPhone、キンドル(僕はまだ持っていないが)などの端末に自分の本を自分でPDFにして収納することを「自炊」という。

僕がはじめて「自炊」という言葉に出会ったのは、西田宗千佳さんの「iPad VS.キンドル」という本だった。この本に関しては以前にも書いている。

そして、こんなつぶやきをしていた。 

「本を自炊する」という言葉は面白いなあ。自分で本を裁断してスキャンしてデジタル化してeBOOKリー ダーに搭載すること。初めて聞いた。「iPAD vs.キンドル」第3章より。僕も自炊したい。 

僕は脱藩する前から電子書籍には強い関心を持っていた。それは活字中毒者としては当然のことだ。
この本を購入した時点では、僕はiPhoneも持っていなかった。だが電子書籍の端末は欲しくてたまらなかった。「自炊」に強く憧れたのは、いつかそれらの端末を買うであろう自分がどうやってコンテンツを充実していくのか、そのイメージができたからだ。

脱藩カウントダウンをしている間も「自炊」のことは気になっていた。
そうこうしているうちに6月頭には早稲田大学時代の友人から、「自炊はじめたよ!」というメールまで来た。

「自炊」という行為は、自分のToDoリストにずっと存在していたのだ。
その証拠に7月3日には、もうドキュメント・スキャナーを購入していた。今や「自炊」標準スキャナーになったScanSnapだ。
その後、アマゾンで大型裁断機も買った。これは家族のひんしゅくも買った。やたらに重くて閉口した。

そして昨日にいたるまで、ドキュメント・スキャナーも大型裁断機も放置されたままだった。
ようやくスキャナーの梱包が解かれたのは、三つのコンテキスト(背後関係)が重なったからだ。

まずiPadを買ったこと。これは妻のものです、とつぶやいたものだから、友人に僕がiPadを見せるたびにこう言われる。「奥さんのiPadを持ち出していいのか…」
へい、そのとおりなのですが、僕の営業ツールにも兼用してます、と応えるしかない。

iPadはすばらしいツールだ。特に電子書籍端末としては感動的だ。
iPadに自炊本を収納したい、と切実に思い始めた。自炊本を読みたいのではない、収納したいのだ。このあたりのニュアンスは後で説明しよう。

次にiPhoneでも、電子読書体験をしたこと。近頃は電子書籍を「電書」と呼ぼう、というムーブメントもあるらしいが、ユーザ視線でいえば「電読」といいたい。ネパールにいる間は、待ち時間が長かったので電読にトライした。

僕のはじめての電読は、「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!肺がんで死にかけている団塊元全共闘頑固親父を団塊ジュニア・ハゲタカファンド勤務の息子がとことん聞き倒す!」という長いタイトルの本だ。
この本のコンテンツに関しては語らない。それは「ラスト・オキュパイド・チルドレン」としてのエントリーで、あらためて書くことにしよう。

初電読体験としては、「意外に快適」というのが正直な感想だった。カトマンズ郊外のホテルで読了したときは少し涙目になった。液晶画面で目が疲れたわけではなく。つまり紙の読書と同じくらい感情移入できたのだ。

それから、「リストラなう!」の単行本を読んで、心が動いたことだ。

「リストラなう!」は、K文社での早期退職優遇制度に応募したたぬきちさんのブログを新潮社が書籍化したものだ。
たぬきちさんは5月31日に45歳で脱藩した。
僕はこのブログは割と早い段階で読んでいる。佐々木俊尚さんのツイートで発見したのだ。
自分も脱藩問題で悩んでいたので他人ごとではなかった。僕が「脱藩カウントダウン」というブログを書き始めたのは「リストラなう!」の影響が大きい。

たぬきちさんの文脈はコンテキスターとしての僕に響いた。そのことは次のエントリーにしよう。
ここでは「自炊」話だ。
たぬきちさんはブログの最初から最後まで出版業界の未来を語り、電子書籍に強い関心を寄せていた。そのたぬきちさんの本が出て、読了した後、僕がぶあつい紙の本を自炊したい、という衝動に駆られたのは必然の流れだったと思う。

iPadの購入、iPhoneでの電読、そして「リストラなう!」の単行本。 このコンテキストでついに山は動いた。
不精者が重たい大型裁断機をセッティングして、ドキュメント・スキャナーの梱包を解いたという意味なんですけど。

そして自炊をしてみた感想は、僕にもできるゾ!である。

大型裁断機の切れ味は抜群だ。
ちなみに先に自炊老人となった友人が教えてくれた「自炊マニュアルサイト」でも紹介されているプラス製のものよりもさらに大型で重い裁断機を僕は購入していたようだ。
心地よく重いハンドルさばきだ。

ScanSnapはさすがにベストセラーだけあって、使い勝手はいい。
自炊の前の手慣らしとして大量に貯まった紙の書類をスキャンしてみる。さくさくとPDFになっていく。決して気が長くない僕が待ち時間を気にしなくていいレベルだ。新聞全ページをスキャンするテクニックも分かった。

次にオードブルとして、これも大量に貯まっている雑誌を裁断してスキャンしてみる。
この調理は雑誌のページをセレクトせずに、全部まるごとスキャンしてしまうのがコツらしい。少々ページが乱れても気にしない。どうせもう読まないんだから。

あれれ、だったらブックオフに持って行けばいいのに。
このへんが自炊の微妙なところなんです。いつかくる事態のために、食料を備蓄する心配性のお父さんのような感覚。
でもデジタルデータは腐ることはないのだ。雑誌という食材は迷わず自炊するべきだ。

次はセカンド・ディッシュとして新書。
なぜか本棚に2冊あった「しのびよるネオ階級社会」平凡社新書だ。新書というのは、実に自炊しやすい食材だ。スパッと切ってスルスルとスキャンして皿に盛る。じゃなかったiPadに収納する。

いよいよメインディッシュの単行本だ。
ここで駆け出し自炊師は考えた。本命の「リストラなう!」の前に、やっぱり1冊練習をしないとね、それもハードカバーの単行本で。
選ばれたのが「ハッピー・リタイアメント」幻冬舎。浅田次郎さんの本だ。単行本の場合は裁断機にかける前に下ごしらえがいる。

まず本を腹開きにして出刃包丁、じゃなかったカッターナイフを持って、ハードカバーを切り離す。カッターナイフが骨、じゃなかった本の堅い部分に当たっても躊躇せずに切り込む。
しかし、本にカッターを入れるときのグキッという感覚は切ないものがありますなあ。

そして、魚でいえば骨の周りの血合いにあたる部分をキレイにして裁断機で一刀両断、のはずだった。
だが結果は本が断末魔の一暴れをして、無残にも本文部分が斜めに切れてしまった。要するに裁断機の締め付けが甘くて、刃が入った勢いでずれてしまったのだ。
これは見るに堪えない。魚をおろすのに失敗して刺身がとれなくても、煮付けにすればよい。
でも本は無残だ。スキャンはできない。紙としても読めない。汚れたものは見たくないのでゴミ箱に直行だ。

ごめんなさい、本の神様。僕のハッピー・リタイアメントに呪いをかけないでくださいね。もう二度と単行本の自炊はしませんから。
と言いたかったが、「リストラなう!」を自炊したい、という欲望は抑えることができない。

慎重に、きわめて慎重にぶあつい383ページにカッターを入れる。裁断の失敗は致命的だとラーニングしたので、小分けにして裁断していく。
ページ分けした部分の継続スキャン設定は簡単だ。 それから表1と表4もスキャンする。魚のアラにあたる(?)カバーの折り返し、背表紙、帯も残らずスキャンする。
ばらばらにPDFにしたものをアドビ・アクロバットで結合したら、おいしい「リストラなう!」の自炊皿の完成だ。

たぬきちさん、書籍版「リストラなう!」に捨てる部分はありません。
全部まるごと自炊させていただきました。末永く保存食にいたします。

ということで、ここにまたひとり自炊老人が誕生した。
ただし自炊の技を身につけても、何を自炊するかという問題は残っている。

あたりまえの話だが、自炊するのは自分の本しかできない。
目の前に紙の本があるとする。その紙を読まずにいきなり自炊する度胸は、まだ僕にはない。まず紙の本を読みたい。もし、その本が面白くなければ話は簡単だ。ブックオフに直行するだけだ。
面白い場合は悩むだろうなあ。すでに収納能力の限界が来ているリアル本棚なのか、それともiPadの本棚に収納するのか。

「リストラなう!」の場合は迷わず自炊した。
この本の場合はiPadの本棚に収まるのが正しい姿だ。
でも僕のリアル本棚のかなりの部分を占拠している村上春樹の本はまだ自炊できないだろうな、というのが僕の本音だ。

さらに、自炊した後の調理素材をどうするのか、という問題もある。 魚をおろした後は捨てるしかない部分もある。でも解体されても本はまだ活字が生きている。

ちなみに、「リストラなう!」の調理素材は捨てられない。単行本として存在していたときよりも、もっとボリューム感が増して、まだ僕の本棚に鎮座している。

うーん、活字中毒者で、かつ自炊老人となった僕の悩みはつきない。

2010年9月15日水曜日

文脈日記(微笑みのネパール)

Directly to airport ?
と、カンチャがタクシーの中で聞いてきた。
Yes! と父と息子が声をそろえた。

ネパール・ロードの最終日のこと。正直、もう帰りたくなっていた。ネパールのローカルツアーは面白い。が、疲れる。そろそろ限界になっていた。これ以上、僕たちはどこにも行きたくない、早く空港へ行こうよ、カンチャ。
そしてカトマンドゥ空港に着く。セキュリティの問題でカンチャは出発エリアに入れない。まだバンコク行きのフライトまで時間はあるが、ここでお別れだ。

突然、カンチャが泣き出した。息子にハグして離れない。いつまでも泣いている。息子は28歳、カンチャとはほぼ同い年だ。ふたりであらためて連絡先を交換している。
そうだよ、君たち、Don't trust over thirty.
30歳以上なんて信用するな、君たちが世界を変えていくのだよ。
父の眼鏡の中にも少し水分が貯まった。カンチャはもっと僕たちと旅を続けたかったのだ。

カンチャというのはネパール語で末っ子の意味だ。今回、父と息子のネパール・ロードのガイドをお願いした彼のことを、僕たちはそう呼んでいた。カンチャの涙で、ネパール・ロードは終わった。

この旅も例によって、突然、決定した。夏休みにどこか行きたい、と言っていた息子が「ネパールどうかな」と提案してきた。アウトドア志向が強い父に異存はない。息子と二人旅をするのはスコットランド以来だ。

ただし、無職の父はどうでもいいが、息子の休みの都合で出発まで20日を切っている。これはさすがに焦った。いよいよパックツアーか、と覚悟した。これまでいろいろなところに旅をしてきたが、お仕着せの旅はしたことがないのだが。

そこで思い出したのがD社の先輩のことだ。先輩の娘さんはネパール人であるTさんと結婚している。Tさんは大阪にいる。

さっそくTさんに会いに行くと縁脈が繋がった。彼の弟がすべてガイドをしてくれるという。弟は末っ子なのでカンチャと呼ばれているらしい。カンチャがカトマンドゥまで迎えに来て僕たちの面倒を見てくれるそうだ。

これはありがたい。いつものことながら気ままな旅をしたい親子なので、自由度の高いプランは大歓迎だ。都会であるカトマンドゥでの滞在は最小限にして、カンチャが住んでいるポカラをベースにトレッキングを含んだ旅程をつくる。

そうなのだ。この旅のメインイベントはトレッキングだった。Tさん夫婦が中心になってポカラ郊外の村につくった診療所と、そこからさらに上ったところにある村の家を訪ねるトレッキング・プランを立てていた。

結論から言うと、トレッキングの目標だったところには2カ所とも到達できた。でも当初の予定であった診療所と村での宿泊はパスになった。
実際に診療所と村を訪ねてみると、僕たちのような軟弱な日本人には、日帰りでちょうどよかったような気もする。それでもこれは貴重な体験であった。出発前にTさん夫婦から諸事情は聞いていたが、行ってみなきゃ分からない。

58歳になるまでD社のクリエーティブをやっていたおかげで、いろいろな経験値は積んできたつもりだ。それでもまだまだ体験しないと分からないことがある。コンテキスターとして世の中の文脈を紡いで行くために身体が動くうちに行けるところに行っておくべきだ、と旅から帰ってつくづく思っている。

ネパール・ロードの時系列にそった記録は、僕のロード・ツイートを遡ってください。iPhoneでWi-Fiに入れるタイミングが限られていたので、実は時系列が混乱しているのだが、そこはアジア的寛容心でご容赦願いたい。

ここでは、キーワードにそって旅のサマリーをしておこう。

まずはラニーニョ。スペイン語で女の子の意味だ。でもそんな可愛い話ではない。この夏、全地球的に異常気象をもたらしているのはこいつのせいらしい。東太平洋の赤道付近で海水の温度が低下する現象だ。

ネパールにいた10日間のうち9日は雨が降った。世界はほとんど厚い雲に覆われていた。旅の雨は気が滅入る。どうしても出せないラブレターを持ち続けているように。ネパールはまだ雨季だということは分かっていた。でもここまで意地悪しなくてもいいでしょ、ラニーニョちゃん。

ずっとこんな空が続いた。サランコットからポカラを見下ろす。
それでも、ラニーニョのご機嫌伺いをしながら、かろうじて晴れた風景にも出会えた。ポカラのフェワ湖のベストショット。
青い空のある写真は貴重だ。サランコットから。
トレッキングで出会ったレディと青い空。


次のキーワードはマチャプチャレだ。ネパール、ポカラのガイドブックを見てほしい。ポカラの象徴はマチャプチャレだ、と書いてある。

マチャプチャレとは「魚の尾」という意味らしい。アンナプルナ連峰のなかでひときわ目立つその偉容は一目見たら忘れられないらしい。と、人ごとのように言うのは、ついに僕たちはマチャプチャレを見ることができなかったからだ。フェア湖畔でも、トレッキング中でも僕たちはずっとマチャプチャレを求めていたのに。

息子が望遠でとらえてくれたマチャプチャレの先っぽ。顔を出していたのは1分くらいか。
この雲の向こうに三角の魚の尾を想像してください。


そして、この旅にはメディカルという重要なキーワードがある。ポカラからアンナプルナに向かうルートの入り口、ヤンジャコット村にある診療所のことだ。
標高1700メートルの村にTさん夫妻が中心になって診療所をつくった。
このメディカルは、他にはまったく医療施設のないエリアで村人たちの診察をしている。山の中にこういう建築物をつくる、ということの意味は、自分の足で行ってみないと分からない。Tさん夫妻の努力に敬意を払おう。村の診療所を支援して、自立を促進するための会は現在も活動中らしい。

僕はiPhoneで、ここで働く医師のインタビュー動画を撮影した。その動画をどう活用すればいいのか、今のところ分からない。ただ世の中のために働く住民代理店を目指す者としては必要な行為であったと思う。

余談だが、この旅では本当にiPhoneのお世話になった。僕にPhone4を与えてくれた皆様にあらためて感謝します。暗い夜道を歩くときは懐中電灯になるし。こいつは本当に「Access to tools」だ。2010年の「WHOLE EARTH CATALOG」だ。

ずいぶん長いエントリーになりそうだ。ここらで一休みしよう。そこで次のキーワードはチョウタラ。ネパールを旅するときに必ずお世話になるものだ。菩提樹が植えられた石積みの休憩所のこと。
トレッキングの途中で、僕は何度も「カンチャ、テイク・ア・レスト!」と叫ぶ。でもカンチャは次のチョウタラまで止まってくれない。

さて、一休みしたら本題に入ろう。ここからがネパールの文脈研究なのだ。冒頭のカンチャの涙に繋がるはずだ。

ネパールという国のコンテキストは、その微笑みにある。彼らはとてもまったりとした微笑みの持ち主だ。それは顔の骨格と皮膚の間に張りついたような、とても自然なネイティブ・スマイルばかりだった。この微笑みを背景にネパールを歩けば、見えてくるものがある。

僕は、そのネイティブ・スマイルが生まれる瞬間に出会った。
生後8日目のカンチャの次男だ。このシャッターチャンスの直前、確かに彼の微笑みを見たような気がする。ほんの少しその残り香がある写真だ。

カンチャは僕にこの子の名前をつけてくれと頼んできた。ネパールでは誕生日から9日目で盛大なお祝いをして子供に名前をつけるという。そう言われたときに僕の頭の中にはEMIという名前が浮かんだ。

EMI for smile.
エミというのは、微笑みのエミだよ、と僕は解説を加える。ちなみにカンチャの長男はYUKI、ユキと言う。兄と弟の名前のバランスもいいのではないかな。

YUKI and EMI. YUKI and EMI. とカンチャは何度も口の中で転がした。彼はEMIというネーミングを選んだ。

YUKIもまた素敵な微笑みの持ち主だ。
こんな表情に出会ったら旅の疲れも吹き飛ぶ。そして僕は、この微笑みの由来をカトマンドゥ郊外、パタン博物館で見ることになる。
仏教にもヒンドゥー教にも疎いのでこの像の解説はできない。だがこのネイティブ・スマイルには心が動いた。
この微笑みは村のオジサンに引き継がれている。
 おばさんと愛犬も微笑む。
そのプロタイプはここにある。
ヤギさんも微笑む。
 きりがないので、このへんで写真はやめておこう。

僕たちはこの国を旅している間、まったりとした笑顔にいたるところで遭遇した。軟弱な日本人はトレッキングで歩くべき道をジープで疾走した。当然、歩いている人々には迷惑な行為だ。でも彼らは追い抜いていくジープを笑顔で見つめてくれていた、と思ったのは僕の錯覚だろうか。

あの微笑みを何に例えればいいのだろうか。

波紋かもしれない。水底から水面に浮かんできた何かが創りたもうた波紋かもしれない。静かな水面にそれが広がったあとの余韻が漂う。

光栄にもカンチャのベビーにEMIという名前をつけさせていただいたあと、僕たちはポカラをベースにして村を歩いた。そしてカトマンドゥに移動して、パタンやボガナートを訪れた。

村でも街でもネイティブ・スマイルは普遍的存在だ。それはこの国に富の偏在があるのと同じくらい明白な事実だ。
微笑みの普遍と富の偏在、その狭間で底抜けに明るく僕に心情を語ってくれた人物がいた。

ルワング村の17歳男子。カンチャの甥っ子だ。
 
彼は語る。

僕には父もいない。母もいない。僕は勉強をしたい。でもお金がない。僕には牛がいる。山羊がいる。猫がいる。犬がいる。ここが僕たちのお茶畑だ。すばらしい景色だろ。鳥の姿が見えたかい。ここが僕の世界のすべてだ。僕は勉強をしたい、お金はない。

僕は彼の微笑みトークに日本的曖昧笑いで応えるしかない。僕は彼の問いかけに応えられない。そして僕は、この村で写した写真を彼に届ける手段を持たない。

彼は今も微笑んでいるだろう。微笑みの持つ普遍の力がネパールの国境を越えていく日もあるだろう。そう願いたい。

カンチャの涙は微笑みの塊が一瞬、はじけとんだせいかもしれない。その涙はEMIの微笑みに繋がっているにちがいない。そして、僕と僕の息子の内側の深いところにも。

ナマステ、カンチャ。ありがとう。

2010年8月24日火曜日

文脈日記(ロード・ツイッター)

脱藩して50日が経過した。相変わらず毎日が急激に過ぎていく。そう言うと、会社に行く必要がないのだから時間はありあまっているはずだ、という反論が返ってくる。

ところが、脱藩者の実態はちがう。会社というものに制約されない分、あれもやりたい、これもやりたい、という思いが錯綜する。文脈が整理整頓できず、意欲が空回りしていくうちに時間は経過していく。今までは会社を言い訳にして、どうせできないのだから、とさぼっていた事柄が「さっさとやれよ」と迫ってくる。早期退職したという義務感(?)もあるし。

年をとると物理的にも時間経過が早くなってきた、と感じる。18歳の時間と58歳の時間は、64Kのダイヤルアップと光ファイバーの差くらいにスピード感が違う。日々は飛んでいく。

これは一般的には、年寄りの方が体内時計が早く回るからだ、と考えられていた。ところが事実は、体内の新陳代謝速度が老化現象でゆっくりになるにつれて、自分の処理能力が世の中の動きについていけないのが原因らしい。これは福岡伸一さんの「動的平衡」からの受け売りですがね。

そうなのだ。問題は世の中の動きと自分の処理能力なのだ。いつまでも若いつもりでいても、僕の古びたCPUは情報大洪水に溺れそうなのだ。本来のタスクを達成するまえに、レンダリングで1日が終わってしまうのだ。

情報のタイムラインは容赦なく流れていく。そこに棹を差しても無駄だ。最近の僕は「情報循環説」を唱えている。タイムラインに逆らわず、自分のペースで情報処理をしていけば、自分にとって必要なことはきっと必ず届いてくる。ネットの大原則、性善説に基づく楽観論だ。それでいいのだ。

ツイッターのタイムラインも「情報循環説」を信じてからは気楽になった。TVのスイッチをONにするのとツイッターのタイムラインを見るのは同じアクションだ。その時点で流れてくる情報をなんとなくキャッチして、時間がなくなればOFFにすればよい。それでも広告代理店時代の癖として、一度見たCMは忘れない。同じようにタイムラインを流れる面白そうなつぶやきは一瞬でキャッチできている、そのはずだ。キャッチできなくても、そのうちまた循環するだろう。

デジタル・シニアのみそっかすとして、僕はツイッターのヘビーユーザになっている。デジタル・ネイティブに対抗する気はないので、マイペースで情報の循環を信じて、日々つぶやいている。しかもロードで。

この50日の僕は、けっこう旅に出ていることが多い。僕の愛車は脱藩以来、3500キロ以上の走行距離を記録している。坂出、松江、小豆島、龍神温泉、各地のロードで僕はつぶやき続けている。自称、ロード・ツイッターだ。

坂出は僕の生まれたところ。坂出の西にある丸亀高校はラスト・オキュパイド・チルドレンとしての僕が青春を置き忘れたところだ。松江には妻の実家がある。野津旅館という露天風呂があって料理のうまい宿だ。小豆島には誰も住んでいない家と土地がある。龍神温泉は鮎釣りのホームリバーだ。

ツイッターの本質はホームではなく、アウエイすなわちロードにある。移動しつつつぶやくのは古びたCPUにとっては少々荷が重いが、つぶやかないと「どうしてつぶやかないの」と気にかけてくれる人もいるので、中古の指を酷使してつぶやいている。しかも写真つきでつぶやくように努力している。iPhone4は強い味方になった。当然、個人情報は流したくないので風景写真が多くなる。最近は#myskyへの投稿を意識的にしている。空の上の住人である@myskyさんたちがリプライしてくれるのが楽しい。

ロード・ツイッターは、加速度的な時間の流れにおびえつつも空と雲を眺める癖がついてきた。先週の小豆島では、不思議で神秘的なサンセットに遭遇することができた。これも空を見上げる楽しさを教えてくれた@myskyさんのおかげだ。ありがとうございます。

小豆島、海に落ちる夕日と不思議なかたちの雲。

クラウド・ドラゴンと名づけたい。

夕日が海に光の道をつくる。

このクラウド・ドラゴンは撮影していて敬虔な気持ちになった。クラウドの可能性を信じつつ、ロード・ツイッターを続ける僕へのご褒美だったのだろうか。

そして、ロード・ツイッターは今晩からネパールへのロードに出る。リアルタイムのツイートは難しいかもしれないが、なんとかつぶやく努力はしましょう。

2010年8月10日火曜日

文脈日記(ラスト・オキュパイド・チルドレン)

脱藩した夏はまれに見る異常気象になっている。雨が降り続いたあとは猛暑が続いている。大阪は完全に熱帯モンスーン・エリアになってきた。

この気象は列島の川を痛めつけている。増水続きで鮎が大きくなる時間がない。鮎師はそれでも川に行く。追いが悪い、型が悪い。水が高い、水が低い。ぶつぶつ文句を言いながらも「川の杭になる」のは鮎師たちの宿命だ。

脱藩したからには条件のいい日を選択して、鮎釣りに行きたかった。事実、行っていることは行っているのだが、どうにも納得できない釣行が多い。

腕の問題もあるが、鮎釣りができる川のサステナビリティを真剣に考えるべき時期に来ているのだろう。そのことはまた宿題にしておく。

「鮎師たち」と書いているが、この職能集団は最近、高齢化が激しい。若い者がエントリーをしてこない。川を歩いているのは肩とか腰とかに問題を抱えた世代が圧倒的に多い。もちろん、いまだに日本を牽引していると言われている団塊世代も多い。

そして僕もそのひとりだ、と書いていけばとても素直なコンテキストになる。ところがそうはいかない。

僕は団塊世代ではない。いつも団塊世代といっしょに見られるが、実はそうではない。

58年の人生で、僕のコンテキスト(背後関係)にはいつも団塊世代がいた。それは事実だ。でも、僕はそのコンテキストには違和感を感じていた。

団塊世代の定義は、ウィキペディアによれば以下だ。

最も厳密で一般的な定義としては、1947年から1949年までの3年間に亘る第一次ベビーブームに出生した世代を指し、約800万人に上る。

僕は1952年3月13日生まれだ。定義的にも団塊ではない。

脱藩を考えていた頃、コンテキスターとしてコミュニケーションに関わる考察をしてみたいという思いが強くなっていた。そのとき、自分の世代を表現する言葉がほしくなった。昔から「団塊ぶら下がり世代」とか「団塊後拭き世代」とかいろいろな言葉を使ってきたのだが、どれもしっくり来ない。

あれこれ考えているうちに、ふっと浮かんできた言葉が「ラスト・オキュパイド・チルドレン」だ。

ラスト・オキュパイド・チルドレン、「最後の占領されていた子供たち」という意味だ。団塊世代に対するアンチテーゼのつもりなのだが。

1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されるまで、日本はアメリカの占領国だった。敗戦からこの日の午後10時30分までに生まれたものたちは、占領下の子供たちである。その中核にいるのが、団塊世代だ。

実は、団塊より「占領下の子供」の方が格好いいと言い張っている1949年生まれの方がいる。「団塊パンチ1号」という雑誌の中で征木高司さんの文章を読んだとき、僕はこのワーディングに深く共感した。とはいえ、団塊世代に違和感を感じている僕が自分も「占領下の子供」だと主張することはしたくなかった。

ポイントはヨンニッパーだった。全共闘の末尾にくっついていた僕はこの日が「沖縄デー」であることを知っている。でも、そのヨンニッパーが1952年であったことは意識していなかった。

僕はヨンニッパーの直前に生まれたラスト・オキュパイド・チルドレンである。そこに団塊世代とは違う自分の立ち位置を求めたい。ラストに属する者にはものごとの始末をつける役目があるように思う。あまり大げさなことを言うつもりはないが、ラスト・オキュパイド・チルドレンもコンテキスターの研究課題だ。

鮎釣りの研究ばかりをしているわけにはいかない。65年目の敗戦記念日が近づいている今、このカテゴリーのエントリーをしておきたかった。

かつて占領国だったこの列島は、今も痛めつけられている。

2010年7月29日木曜日

文脈日記(棚卸読書)

脱藩してから一月が経過しようとしている。文脈の研究は遅れがちだ。僕にはなにごとも形から入る癖がある。会社の形から自立の形への変更手続きは煩雑だ。しかもデジタルとクラウドの世界では使ってみたい道具が無限にある。面白い。でも道具たちと遊ぶのはいい加減にして、中身を充実していこう。

ということで、新しい文脈をカテゴリーに加えていく。

「棚卸読書」というのは、ツイッターで本のことをつぶやくときに自分で勝手につくったタグだ。重度の「活字中毒者」である僕はツイッターを読書メモ代わりに使うことがある。
「活字中毒者」、この言葉と出会ったのは1981年だ。「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」椎名誠、本の雑誌社。

今、手元にその本を置いて、このエントリーを書いている。もちろんリアルな紙の本だ。少し黄ばんでいる。初版本である。初版に価値観を持つ人はすでに絶滅危惧種だが。

このエントリーは活字中毒者の端くれとして、自分が読んだ本のことを文脈化していく最初のエントリーにしたい。

コンテキスターは、さまざまなジャンルの本を読む必要がある。一冊の本に出会ってその面白さに没頭するのもいいが、違うジャンルの本を同じコンテキストの中で読んでいくのも興味深い試みだ。
そう意味で、2冊の本のコンテキストを紹介してみたい。

この2冊は同時に購入している。その日のつぶやきを引用しておく。

【棚入読書】「iPAD VS.キンドル日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏」「楽しみを釣る 小西和人自伝」どちらもエンターブレインの本。これだけジャンルの違う本を同時に出すのも変な出版社だが、同時に買う僕も変なのだろうか。
1:32 PM Mar 26th webから

「棚入読書」というタグは、文字どおり本棚に入れたという意味だ。棚卸をするまで時間がかかったが、どちらの本も面白いし役に立った。

エンターブレインという出版社の中で、この2冊がどういう位置づけになっているのかは分からない。が、僕は生活者、この場合は活字中毒者の視線からコンテキストを考えていこう。

「電子書籍」と「釣り」、一見すると何の関係もなさそうに思える。両方に同じレベルの興味を持っている僕のような者はそれほど多くないだろう。

この2冊は、ジャーナリズムというコンテキストで繋がっている。

『iPad vs. キンドル 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』の著者、西田宗千佳さんは気鋭のITジャーナリストだ。

『小西和人自伝 楽しみを釣る-釣り人のためのニッポン釣り史伝』の著者、小西和人さんは、日本ではじめて、釣りジャーナリズムというものを確立した人だ。

今はジャーナリズムというものの定義は難しい。
コンシューマーがコンテンツを自由自在に発信する時代にあって、それらの情報に一定の基準値を提供する仕組み、とでも言えばいいのだろうか。

ITジャーナリストは情報大洪水で溺れる生活者にとって頼れる存在になる可能性がある。ネットの大海にはどんな情報でもストックされている。でも自分で闇雲に探すよりも一定の方向性で情報を解説した本を読む方が効率がいい。

ITジャーナリストの西田さんは、eBookへの長い道を分かりやすく説いてくれた。それは僕のマックでの電子辞書体験と重なった。またすべての活字中毒者が抱いている「重い本を持ち歩くことなく、いつでもどこでも本を読める」という夢へのプロセスも語ってくれている。本を自炊する、すなわち、自分で本を裁断してドキュメントスキャナーでデジタル化する行為のことは、この本で初めて知った。

その後も電子書籍に関する情報はフォローしているが、西田さんの解説本が僕のスタートラインになっている。

一方、釣りジャーナリストというのは少ない。釣り名人の技術ノウハウ本は世の中にあふれている。でも釣りの社会的で時事的な側面を語ってくれる人はあまりいない。

小西和人さんは、関西の釣り好きの間では有名人だった。ただし海釣りがメインの方で、僕のテリトリーである渓流と鮎の釣りはあまりやられなかったようだが。

『楽しみを釣る』は日本の海釣りに関して、エポックメイキングな本になるだろう。基本的にエゴイストである釣師をまとめていくのは大変なことだったと思う。1977年に兵庫県高砂市で敢行されたという「世界初の釣竿デモ」の光景は目に浮かぶ。

実は渓流釣りの世界にもバイブルはある。山本素石さんの「西日本の山釣」だ。1973年に釣りの友社から刊行されている。この本は技術論であり文化論であり地勢論でもある。山本素石さんはジャーナリストというよりも文学者に近い存在だったようだ。

ジャーナリズムというコンテキストで本を眺めていると、いろいろな発見が今後もありそうだ。最近、出版界のトレンドはやたらにノウハウ本とマニュアル本に偏っているようにも見える。ジャーナリズムと単なる解説の違いは、縦書きと横書きの違いくらいはあるので、しっかりと見極めていきたいと思う。

それにしても、最近、読書量が目に見えて減ってきている。脱藩をして車での移動が多くなったこと。飛行機に乗らなくなったこと。そしてツイッターのせいだ。これではいかん。

活字中毒者は「本が切れる」恐怖感から棚入行為はやめられない。最近はeBookの棚入まで始めてしまった。これで「自炊」を始めたら、中毒を癒すために棚卸をする時間がますますなくなってくる。

すべてはバランスの問題なのですよ、と自分に言い聞かせる日々が続きそうだ。

2010年7月19日月曜日

文脈日記(家族史)

どうもまだ脱藩生活のリズムが掴めない。自分のすべてを自分で律すること、すなわち《自律の自立》には時間が必要だ。他律生活はそれなりに楽だったのだ。

と弱音を吐いても仕方がない。僕はこの道を選んだのだから。時間がない、忙しいと今までと同じ言い訳をするのはやめよう。時間はあるのだ。使い方が下手なだけだ。

このブログも早く更新せねば、と気持ちばかりが焦る。他人の情報を発信するお手伝いはいやというほどやってきたのだが、自分の情報発信は難しい。判断基準が自分しかないからだ。世の中と自分との間合いを図るのに、もう少し時間が掛かりそうだ。

なにしろ駆け出しブロガーですので、多少のもたつきはご容赦ください。

そんなわけで、文脈研究所、文研の更新はぼちぼちとやっていきます。自分の中では文脈があふれていても、それを世の中にそのまま出したのでは単なるオーバーフローだ。

こういうときは、また原田ボブ先達に頼るしかない。

自分の内なる声の指示に従えばよろしい。

そのとおりだと思う。自分の中でざらつきを感じること、違和感を感じることはしない、これが《自立》の判断基準、その1なのだろう。

そんなことを考えつつも、早く文研のカテゴリー・エントリーはしていきたい。一部の皆様にお配りした僕のミッションシートには、コンテキスターとしてのカテゴリーを並べてある。そのカテゴリーを織りなす作業を始めたい。

そのカテゴリーのひとつに「家族史」がある。自分史ではない。そして自分の家族の特別化でもない。複数の家族が織りなすコンテキストの中で見えてくるものを文脈化してみたい。

ミトコンドリア・イブやルーシーにまで遡るつもりはない。しかし我々は「遠くから来て遠くまで行く」のはまちがいない。

「遠くまで行くんだ」という言葉がずっと気になっていた。1970年頃、とある雑誌のタイトルで見た覚えがあり、ずっと心の片隅に残っていた。この言葉に関して調べてみたのは、長男の結婚式でのスピーチを考えていたときだ。いわゆる「両家を代表しての挨拶」というやつですね。

複数のブログを参考にさせていただいているうちに、「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」という台詞が白戸三平「忍者武芸帳」ラストシーンにあったことを思い出した。ブログなど影も形もなかった昔に読んだことがある。影丸のラストメッセージだったのだ。

この言葉のオリジナルはイタリア共産党の創始者、パルミロ・トリアッティだそうだ。きっとファシズムに対抗した人なのであろう。この人の言霊が僕の中で生き続けていたのだ。

「遠くまで行くんだ」という言葉が持つセンチメンタリズムに共感した僕は結婚式のラスト・スピーチをこの言葉をモチーフにして組み立てた。ただし、政治的な文脈でこの言葉を使うのは嫌だったので、ジョン・レノンの「ビューティフル・ボーイ」をBGMにしてしゃべってみた。

以下、そのサマリーです。

彼らが出会った瞬間から、二人は私たちのボーイとガールであることを卒業しました。正直、少し、というか、かなり淋しい気持ちがしますが、彼らの前には新しい道ができました。それは、単に私たちの息子と娘が出会ったということだけにはとどまりません。彼ら二人は遠くから来ました。両家の家族は遠くからの道を歩んできました。それから、生まれてから今日まで、たくさんの人に支えられながら歩いてきた道があります。彼らが出会ったとき、それら別々の道がクロスして、その瞬間、新しい道ができました。私たちの息子と娘は、遠くから来て遠くまで行きます。

おかげさまでスピーチはうまくいった。でも、一回限りのスピーチで家族史は語れない。あたりまえだが。

遠くまで行くのは、息子と娘たちの自己責任だ。ただし遠くから来たことを記録しておくのは、僕の役割だ。家族史は、田中家と妻の親戚関係から始めたい。それは満州へと繋がっていく。

2010年7月12日月曜日

文脈日記《自立》

《自立》の準備を進めている。僕のATOKは「じりつ」と入力すると《》がでてくる。この記号を僕は勝手に自立括弧と呼んでいる。1970年前後に吉本隆明さんが好んで使っていた記号だ。今でも自立括弧の中に自立という文字を入れると一本、筋がとおった感じがする。

《自立》のはなむけに、さとなおがメッセージをくれた。さなメモ「ある先輩の早期退職の日に」。このブログを公開するにあたって、ありがたくリンクさせていただく。ありがとう。本当にありがとう。

吉本隆明さんと1970年前後のコンテキストは別のエントリーで書いてみたい、とまたひとつ宿題を積みあげる。今は脱藩後の《自立生活》のことだった。自立するためには設備投資と環境設定がいる。今までD社から貸与されていたものをすべて自前で揃える必要がある。当たり前だが。

設備投資は繋がるための機材整備が主である。まずはレッツノートF9。このエントリーを書いているマシーンだ。ウインドウズ7/64bit、COREi5、メモリー4GB。今までD社で使っていたXPマシーンとは段違いに早い。このレッツノートはWIMAX内蔵だ。都会ではかなり早く繋がる。UQ Step、2段階定額プランで380円~4980円。

それからガラケー。ガラパゴス・ケイタイと揶揄されても、この列島では必要なシーンがまだある。D社で使っていた番号をそのまま使えることになった。ただし、あまりに古いので機種変更する。アウトドア志向が強いため、防水仕様にする。当然、パケホーダイダブルにして390円~4410円。

本命はiPhone4。プレゼントしていただいたものだ。こちらはパケットし放題フラット。4410円。

さらにドコモのモバイルWi-Fiルータだ。都会だけだと上記で充分なのだが、この先の僕は森や山や島にいることが多くなる。繋がるためにはドコモ3G回線が必要だ。定額データスタンダード割で1000円~4410円。

これだけの通信環境設定をすれば怖いものはない。どこでも繋がる。怖いのは通信料金だ。皮算用では、それぞれの回線をうまく使い分けて定額制の最低ラインでとどめる計算だ。でもそれぞれの最高料金までいってしまったとしたら……ぞっとする。ちなみに18210円です。

《自立》って経費が掛かるんです。もちろん自宅の無線LAN環境に居続けたらコストカットはできる。ただ、それでは《自立》とは言えぬ。妻がいやな顔をするのは目に見えている。

D社を退職して10日あまり、2日間の鮎釣り以外はほとんど自分の部屋にこもっている。リアルな環境設定のために必死で部屋のお片付けもしている。本や雑誌を「自炊」してスペースを確保するために大型カッターとドキュメントスキャナーも購入した。まだ梱包されたままだけど。

そろそろ環境設定にも飽きてきた。箱物企画は面白くないし不毛だ。立派な建造物があっても中身がないこの国の行政を見習うのはいやだ。コンテナにはコンテンツを詰めて文脈化せねば。

と言いつつもまだやり残していることがふたつある。

今朝からコグレマサトさんの「EVERNOTE」マニュアル本を読んでいる。この箱は相当使い勝手がよさそうだ。

それからiPadである。世界中の知恵と道具にアクセスするための入り口としては最強のような気がする。2010年のホール・アース・カタログなのかもしれない。妻へ僕からのプレゼントとして購入を検討しておる、と妻に言ってみたら「どうせあんたが使うんでしょ」と答えが返ってきた。

2010年6月30日水曜日

脱藩日

おはようございます。こちらは美しい朝です。会社人生最後の朝です。
と、今、Twitterでつぶやいた。

それからこのブログのエントリーを読み返す。田中文脈研究所のコンテキストがインターネットの大海に出て行くのだからお化粧を整えねば。7月のブログ公開までこの作業は続くだろう。と言ってももうほとんど時間はないが。

退職することに関してはまったく不安はない。あたりまえだ。このエントリーからブログを読み始めた皆さんはお手数ですが、5月14日まで遡ってください。そこから読んでいただいて、現時点で僕が「会社をやめるのが不安だ」などと言えるはずがない。言う気もない。

ただしブログを公開することに一抹の不安はある。自分のブログを生まれて初めて公開するのですよ。
今まで他人様のブログは山ほど見てきた。ネットの海で炎上する事例も知っている。消火作業の困難さも分かっている。

それがどうした、である。僕は会社を背負ってこのブログを公開するのではない。ひとりの社会人として自分の発言を公開できる場を持つのだ。

いまさらであるが、本当にD社にはお世話になった。おお、これからは「D社さん」と敬称をつけねば。
結婚できたのも、OKをいただいた仮編集ができたのもD社さんのおかげだ。

D社さんの悪口をあからさまに言うことは、今後も僕の無意識がブロックしていくことだろう。そんなことはありえない。

今まではD社人の規範に基づいて発言していた。そうすればD社人としてのバリアーの中で守られていた。これからはちがう。すべては自己責任だ。

天に向かって唾を吐けば自分に返ってくるのがネットの世界だ。
逆に言えば自己責任に基づき、自分に恥ずかしくない発言をすれば性善説は循環していくはずだ。

と僕は信じている。そう信じて、そろそろ会社に行く準備を始めよう。

(長い間)

会社の最終日はふわふわと浮いているような感覚だった。感傷に浸る間もなくあっという間に時間は過ぎていく。

先日の大送別会で目録をいただいたiPhone4の手続きも済ませた。久しぶりに手にしたアップルマークが嬉しい。予約に並んでくれた方に感謝します。

退職日には会社を一周して挨拶をするものらしい。では僕も、と思っていたのだが、結果的には中途半端なことになった。

会社メールを使って退職挨拶メールをBCCで送信するのに予想以上の時間を取られたからだ。
ありがたいことに一斉に返信をいただく。会社メールが使える時間は限られている。とにかくGmailに転送するしかない。

ようやくピンポイントで挨拶に行く。ふわふわした感覚が続いているので、階の認識を間違えて笑われる。元々、方向音痴なのですみません。

さらに曜日の認識もおかしくなる。明日は土曜日だろ、というおかしな発言をしてまた笑われる。自分的には明日は休日なのだが、世の中はちがう。あたりまえだ。

新しい健康保険証を受け取っていないと勘違いをして、大丈夫かいな、と笑われる。
大丈夫です。旅立ちの準備は万端です。そのはずです。

そして退社時間が近づいてくる。自分的にはクールに風のように去りたかった。だがしかし、やはり泣けてきた。

最後のフラッパーゲートを出る。そこに長い間いっしょに苦労してきたHさんが、たまたまいた。

「脱藩なう、脱藩なう」とうわごとのようにつぶやきながら、IDカードを返す。Hさんとハグする。泣けてくる。

僕の会社人生は終わった。

2010年6月29日火曜日

脱藩まで1日(縁脈)

ここのところ「縁脈」という言葉を多用している。文字どおり人と人との縁、繋がりという意味だ。類似辞典を引けば人脈という言葉がヒットするだろう。ただし「縁脈」は今のところ辞典には登録されていないようだ。

「縁脈」でググってみると「協創LLP」が、この言葉のオリジナルだと分かる。以下は協創サイトからの引用だ。

以前から『ご縁』だとか『人脈』だとか『人財』だとかいう言葉が世間でつかわれているとおもいます。これらの言葉を聴いていて思いました。だったら一緒にしてみたらどうだろうか、つまり『縁脈』なる発想。

縁脈というのはいい言葉だと思う。説明をしなくても直感的に意味を分かってもらえる。この言葉を生み出した「協創LLP」は面白い集団だ。僕は現時点で協創メンバーには会ったことがない。でも原田基風をつうじて、その存在を知った。そしてツイッターで縁脈が繋がっている。

LLPというのはLimited Liability Partnership の略だ。「有限責任事業組合」だ。法律的にすぐれた組織であると同時に、この国の閉塞状況を突破する可能性を秘めている新しい共同事業体だ。そして「協創」は同業種で形成されることの多いLLPの中にあって、異業種が有機的に繋がった集団である。弁護士や行政書士をはじめとする様々な職能が集まったソーシャル・キャピタルだ。

そして「協創LLP」はかなり過激なLLPだ。思い立ったことはすぐに実行に移す推進力を持っている。そのあたりのことはミクシィのコミュニティ・レポートを読むと激しく伝わってくる。身体を張っている。

協創LLPに対して僕がどう関わっていくのかはまだ未知数である。ただ縁脈という言葉を教えていただいた先達たちに何らかのお返しはしたいと考えている。できれば、協創メンバーの皆様と「知恵と知恵の物々交換」ができたら楽しいだろうな、と考えている。

楽しいことは正しいことなのだ。これも協創LLPからいただいた言葉だ。

僕は縁脈を求めて孤立を恐れない。

2010年6月28日月曜日

スコットランド、青い静寂

2003年の旅の記録。執筆は多分2003年10月頃。うーん、10年前の文章なのか。当時はブログも書いていなかったので読者は4人でした。新たに写真を入れてリニューアル。 そもそも田中文脈研究所のカバー写真はスコットランドのアイラ島で長男が撮影してくれたものです。 2013年10月3日追記。


そんな朝焼けは見たことがなかった。異様に透明度の高い空気が赤い光を透過している。鳥たちが飛び交う。今日もすばらしい天気のようだ。

2003年8月14日、ロンドン。午前5時。私は高層ホテルの窓辺に置いたバドワイザーごしに東の空を見ている。なぜかバドが冷蔵庫にあった。この部屋の前客はアメリカ人だったのかな、などと考えながら、少し酔っていた。

さきほど、息子はオランダに飛ぶためにルートン空港に向かった。私は少し身体と心の力が抜けた気分でぼんやりしている。この日の夕方には、私もヒースロー空港から飛び立つ。そして、2003年夏、8泊10日のスコットランドの旅は、終わりを告げる。

ロンドンという大都会は、つまらない街だ。というとロンドンに失礼かもしれない。なにしろ私にとってのロンドンは15年ほど前にヒースローでトランジットして以来、昨日と今日で24時間程度だ。昨日はスコットランドの北、インヴァネス空港からガトウィック空港に飛んできて、息子の洗濯につきあった。どこの観光地にも行っていない。時計塔ってどこにあるんだ。昨夜は何を食べたのだったか……。

旅の記憶は、ウィスキーの熟成に似ているのかもしれない。時間がたつにつれて、夾雑物が消えていき、本質だけが浮かびあがってくる。この旅のそれは、私の中でまだ充分、熟成されているとはいえない。だが何ヶ月かたった今、旅の遡行をこころみることは、私と息子にとって意味のあることだろう。


今回の旅は、突発的に始まった。初夏のある日、アメリカ留学から帰国していた息子とその両親は近くの和食屋で飲んでいた。

突然、息子が言う。長い夏休み、ヒマなのでヨーロッパにでも行って来るかな。すかさず、父親が反応する。おとうさんも連れて行け。半分、冗談のように始まったことが実現していくのが、うちの家族の特性である。足腰が軽いのだ。

昔は、家族でよく旅をした。父親の趣味で、大都会はほとんどパスしていく。オーストラリアに行ったときは、帰国便でどうしてもシドニーに寄らなければならなかった。家族全員、人と車の多さにくらくらした。

今回の旅も、息子の「ヨーロッパでも田舎の方がいい」というご託宣に父親としてネガティブはない。
ロードトリップとする。行き先は父親の好みで決める。レンタカーの運転は息子がする。英語も息子がしゃべる。費用は父親が負担する。えへん、エライだろう。(あたりまえだ)

こんなふうな取り決めでこの旅が動き始めた。どうしてスコットランドなのか、といわれたら、なりゆきで決めた、としか言いようがない。そこが田舎であることだけは確実だった。


昨夜は何を食べたのだったか……。旅の記憶は、また分かちがたく食い物と飲み物に結びつく。最後の夜は、しばらくジャパニーズが食えなくなる息子のためにロンドン市内の寿司屋を選んだ。

予想どおりの店。海外駐在の日本人ビジネスマンがたむろして、愚痴をこぼしている。世界の中の日本村の一典型だ。日本酒の種類はすばらしいが、こういう店はあまり好きではない。もちろん、団体客がコースメニューを食う店よりは百倍ましだが。そして、勘定は高い。これもこの種の店ではあたりまえのこと。

刺身をつまみながら、この旅のベスト・ディナーを思い出す。アイラ島、ボウモア村のシーサイド。The Harbour Inn のレストラン。ここの生牡蠣とムール貝は絶品ですぞ。生牡蠣はシングルモルトを垂らして味わってほしい。異常にジューシーな牡蠣エキスが浮き立ってくる。ムール貝はシンプルにスチームしたものがうまい。そうそう当店自慢のオリジナルブレッドもいけた。

8月9日の夜。この日は、珍しく雨模様で陰鬱な空だった。息子の体調が悪くあまりファインな日ではなかった。だが、このシーフード・ディナーはまちがいなく、このツアーの中でベストだった。

アイラ島の食い物はうまい。The Port Charlotte Hotel のブレックファーストは、Kippers、ニシンの薫製がいける。それから、スモークサーモンいりのスクランブルエッグ。サーモンの塩味が卵に絶妙にからむ。

The Machrie Hotel のラムステーキとハギス。羊は、そこら中を歩いているのでまずいはずがない。ハギスとはスコットランドの伝統料理で腸詰めソーセージの中身である。とても脂濃いバラバラのハンバーグといったら想像できるだろうか。

キーボードが動くままに文章をつづって行くとこのへんで当然、「イギリスの食い物まずい」談義になる。結論から言うと、世界中どこに行っても、まずいものはまずいのだ。そのへんで生きていそうなものを原住民ならぬ現住民が食べている食べ方で味わえば、まず問題はない。あの Fish&Chips だって近くの海で泳いでいる Haddock(鱈の一種らしい)で注文したら捨てたものではない。

とはいえ、予想できないことが起こるのも、旅のおもしろさだ。8月11日、スコットランド北部、アヴィモア村。The Boat Hotel のディナー。ここは、アイラ島を出て、フェリーで2時間、さらに3時間走ってたどり着いたところ。このホテルの名誉のために言っておくと、部屋の環境も従業員の態度もAAAにふさわしく快適なものであった。

しかし、である。前日までいたアイラ島のシーフードのうまさが忘れられず、私は当然のようにOyster を発注する。ところが、愛想のいいウェイトレスは、オイスターとはなんぞや?と答えてくる。怪訝な顔で、キッチンに問い合わせる。やがて、得意顔で帰ってくる。

OK、私どもはOyster の用意ができます。ほら、と出してきたお皿の上には、ムール貝。どうやら、キッチンの解釈では、Oyster とはシーフードの総称だったらしい。そのムール貝はアイラ島のものとは、似ても似つかぬぱさぱさの貝であった。

いろいろなところで Oyster を発注したが、このような対応をされたのは初めて。しかも、アイラ島の翌日だったので、よけいカルチャー・ショックを感じたものだ。食べ物の話は、これでおしまい。まずこれを書かないと落ちつかない。


さて、Islay Island アイラ島の話をしよう。今回の旅のメインテーマがアイラ島であったことはまちがいない。スコットランドの西岸沖の小さな小さな島、と言った方がロマンティックだが、本当は、淡路島くらい島だ。アイラ島のイメージは、アイレイ・ウィスキーとともにあった。シングル・モルト。しかもヨードチンキの味がする。磯臭い。でも癖になる。ボウモアとかラガブリンとかラフロイグとかのブランドは、ちょっと気取ったウィスキー飲みなら知っているはずだ。

アイラ島に行ってみたい。理由は、3つあった。

その1、田舎の中の田舎でありそうなこと。なにしろ、あの「地球の歩き方」にもアイラ島のガイドは載っていない。そもそも、この島の名前はアイレイではなく、アイラだそうな。

その2、ウィスキーとシーフードがうまそうで、フィッシングとゴルフが両方、楽しめそうだ。

その3、村上春樹がこの島のバイブルを書いている。「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」は、旅心を誘ってやまない。

私の場合、旅の目標が決まったら、徹底的に調べる癖がある。スコットランドのロードマップを買いあさる。デジタルおとんの本領発揮でネット検索をかける。カレドニアン・マクブレインというフェリー会社の時刻表を発見して、スケジュールが明確になる。アイラ島に渡るフェリーから逆算してすべての予定を組めばいいのだ。

実は、スケジュール設定で迷ったことがある。デジタルおとんはまた、ビートルズおとんでもあったのだ。私たちの世代は、ビートルズで英語を覚えた。今でも、アイ・ウォナ〜(I want to--)とかアイム・ゴンナ〜(I’m going to--)とかつい言ってしまいそうになる。そのビートルズの聖地といえば、リバプールである。イングランド北西部の港町。シングルモルトの聖地に行く前にこちらの聖地にも巡礼せねば。

こちらにもバイブルが存在する。郷土(ちなみにうどんの讃岐)の同輩、芦原すなおの「ビートルズ巡礼」である。本棚から探して再読する。実によく書けている本だ。よく書けすぎている。この本にしたがって、リバプールを訪れたとしても、これ以上の感動はしそうにない。すっかり追体験してしまった。行くのはやめよう。リバプール観光協会にとっては罪な本だ。そうなれば、ここは割り切ってスコットランドに徹しよう。イングランドとスコットランドは本来、別の国だし。

旅の全体像が見えてくる。おとんが決めたホテルに、息子がメールする。電話する。どんどん予約が取れていく。


アイラ島に行くには、2つの方法がある。スコットランド中南部の都市、グラスゴーからセスナで飛ぶか、西部のキンタイア半島からフェリーで渡るか。セスナはもちろん速いが、ロードトリップという趣旨に反する。それにしても、グラスゴーからキンタイア半島のケナクレイグまでは遠い。しかもそこから2時間フェリーに乗るのだ。ううむ、地図を眺めているうちに私はひらめいた。

島に行くには、島伝いに行けばいいのだ。キンタイア半島の東にアラン島という島がある。この島を経由していけば、近道だ。アラン島と言えば、ほとんどの人が「あのアラン・セーターで有名な」と問いかけてくる。ところが、セーターのアラン島はアイルランドの西岸にある島で、私たちが行ったアラン島とはまったく別だ。

ここは「地球の歩き方」に敬意を表して引用してみる。

アラン島は、スコットランドの縮図のような島だ。ハイランドとローランド、北と南が同居した風景は一見に値する。また、スコットランドでいちばん新しい蒸留所が存在する。

これは、面白そうだ。一泊してみよう。結果的には、アイラを見なければ、アランもすばらしい島だったと思う。グラスゴー市民の憩いの場というのもよく分かる。でも、アイラ島に比べたら、シングルモルトと日本産ウィスキーくらいのちがいがある。


では、アイラ島のすばらしさとは何か。いよいよ本題である。
息子によれば、「なんともいいあらわせない不思議な島」である。だが、なんともいいあらわせないことを表現するのが、モノ書きの仕事だ。私は別に専業モノ書きではないが、チャレンジしてみよう。

アイラ島には、ある種のエネルギーが存在する。それが旅人の気持ちに対してはたらきかけるのだ。そのエネルギーはプラスにははたらかない。マイナスにもはたらかない。ひたすら人々の気持ちをフラットにしていく。高揚でもなく下降でもなく、平衡感覚をとりもどす方向にはたらく。

別の言い方をしよう。アイラ島の空気に宿るスピリッチャルなものが、旅人に素直な心持ちとはなにかを思い出させてくれるのだ。スピリッチャルspiritualを日本語で表現したら霊的、とでもいうのだろうか。ただし、それは決して宗教的なものではない。

私たちはアイラ島に上陸してすぐに、ケルトクロスという遺跡を見に行った。遥かな昔、ケルト民族が残した石造りの巨大な十字架である。クリスチャンではない私たちでも、その場にたたずんだとたん、ドキッとするほどの静謐を感じた。

クロスが立っている。風が吹いている。周りを歩いてみる。小高い丘から海が見える。ただそれだけの風景が、ショッキングな平安とでもいうしかないものをもたらしている。


また、私たちはエレン港からボウモア村につながる15キロの直線道路を何度も走った。ここはイギリスでいちばん長い直線道路だそうだ。道の両側は何もない。見渡す限りの原野だ。車の背後には存在感のある静かさが広がる。

素直な心持ちとは、限りなく純化された日常に回帰すること、とも言える。

たとえば、こんな風景が展開する。島の西端、ナハバン村。海を見下ろす丘に白い家が映える美しい村だ。眼下の入り江で遊ぶ子供たちを見ながら、アイスクリームを食べる父と息子。その隣には、全盲で耳の聞こえない老犬がひなたぼっこをしている。空はどこまでも青い。

息子は、日本の母親に携帯電話している。DCカードの請求書がどうのこうのという話だ。目の前の風景に、そのあまりに日常的な会話がすんなりと溶けこんでいく。


ボウモア村のそばに眠たくなるほど美しい入り江がある。海岸にぽつんとベンチが置かれている。そこに半日、座って海を眺めていたら、大西洋の向こうにアメリカ大陸が見えるのかもしれない。


島にいくつもあるアイラ・モルトの蒸留所のうち、私がもっとも気に入ったのは、Ardbegアードベッグだ。アートディレクションを感じるモスグリーンの建物から、きわめてピートと磯の香りが強いシングル・モルト・ウィスキーが生まれている。

その蒸留所のアドバタイジングは、ジャック・ラッセル・テリヤ犬がキー・ヴィジュアルになっている。どうして犬なのかガイドに問いかけると、ある日蒸留所の入口に現れた犬が可愛かったからだ、と答える。海と風とその周辺にあるアイラ的日常を樽の中に蓄積して、ウィスキーが育っていく。


私たちがアイラ島に滞在したのは、8月8日から8月11日の3泊4日だ。予定では、2泊だったが、あんまり気持ちがよかったので1泊延長した。2泊は、スコットランドの典型的なゲストハウス、The PortCharlotte Hotelであった。予定外の1泊は、The Machrie Hotel、リンクスのクラブハウスだ。

リンクスというのは、海と陸がリンクする場所につくられたゴルフコースのこと。フラットで、あるがままに設計されている。アイラ島のリンクスは、ピートの原野である。このホテルの水はピートがとけこんでいて、茶褐色だ。

昼間は、フェアウェイにくっきりと自分の影を映して歩く。プレイではなく、歩く。リンクスに太刀打ちするには、まだ私の腕は甘すぎる。ボールの大量消費を招くだけだ。

日が暮れてからは、アードベッグ17年モルトを持って、1番ティーに上がる。澄み切った夜空の星と月に乾杯する。寝ていた息子も起こして乾杯する。無駄なモノをそぎ落としたアイラ的日常に乾杯する。


ここまで書いても、まだアイラ島の魅力をうまく伝えられた気がしない。しかたがない。先達の言葉をお借りしよう。

アイラは美しい島だ。家並みはこぎれいで、どの家の壁も見事に鮮やかな色に塗られている。きっと暇さえあればペンキを塗りなおしているのだろう。あてもなく通りを抜けて、ぶらぶらと散歩をしているだけで、こちらの心が少しずつ鎮まっていくのが感じられる。真っ白な鴎たちが、屋根の上や、煙突のてっぺんにとまって、じっと遠くをにらんでいる。省察と無意識のあいだに引かれた一線をにらんでいる。ときどき思い出したように飛び上がって、ひらりと強い風に乗る。

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』

かすかな風に音に聞きいるかのように、二人の間には沈黙の時間が流れていた。
「アイラ・アイテスという言葉を知っているか」
所長がそう訊いてきたのは、何杯目かのラフロイグを飲んでいるときであったか。
「アイテス……聞き慣れない言葉ですが」
私は思わず、そう訊き返していた。
「アイテスというのは病気のことだ。アイラ島に来た人間は皆この病気にかかり、立ち去りがたくなる。恋の病、アイラ熱とでも言ったらよいか。君もこの熱病に冒されつつある。(以下略)」

土屋守『スコットランド旅の物語』

またアイラ島に行ってみたい。息子もそう思っているはずだ。


アイラ島を出て、私たちはスコットランドを北上していく。2003年の夏、ヨーロッパは、というより地球は異常気象だった。猛暑がおそう。晴天が続く。私たちがアイラ島にいた8月10日にロンドンでは、観測史上最高の39℃を記録した。太陽が私たちの旅を歓迎してくれたことにしよう。

スコットランドといえば、夏でも肌寒くセーターを離せない国。陰鬱な雲が垂れ下がる国、というイメージがある。しかし、私たちのスコットランドはまったくちがった。毎日が晴天続き。青空の下にハイランドの絶景が描かれる。

車は、青いプジョー206。コンパクトカーだが、きびきびと走る。山々の連なりが風に流れる。眼下に複雑な輪郭をもつロッホ(Loch)、湖が広がる。ときどき古いキャッスルが見える。とある峠を登りきったパーキングに、目の前に迫る山々を眺める絶好のビュー・ポイントがあった。キャンピングチェアーがふたつ、仲良く並んでいる。老夫婦が座って読書をしている。読書するならインドアですればいいのに、と思う人は、日本的日常から抜けていない。

旅立ちの前に、知人からぜひ行ってみるようにと推薦された湖の周回道路を走ってみる。彼によると、何もなくてさみしさがたまらなく魅力的な場所だそうだ。だが、私たちが訪れたときはどこまでも空青く、水清く、ひたすらのどかで、感覚がちがう。少し異様なスコットランドを見たのだろうか。


ネス湖のほとり、インヴァネスに向かう途中で、私たちはアウトドア・アクティビティを楽しむ。乗馬トレッキング。しかも2時間、いちども馬から降りない。いささか退屈ではあったが。

クラガン・フィッシャリー&ゴルフコース。フライフィッシングとショートコース・ゴルフが一カ所でできる。日本では、反目状態にある川釣りとゴルフがスコットランドの日常では、あるがままにとけあっている。

そして、旅も終わりに近づく。ネス湖で何日ぶりかに日本語を聞いたところで、私たちのスコットランドは姿を消した。


旅の始まりは8月6日、ロンドン。午後5時。関西空港から飛んできた父親とダラスからシカゴ経由で飛んできた息子は、ヒースロー空港で待ち合わせた。

そのままロンドンからグラスゴーへ。1泊。グラスゴーでレンタカーを借りて、アラン島で1泊。キンタイア半島を経由して、アイラ島へ。3泊後、82号線を北上する。アヴィモア村に1泊。インヴァネスで1泊。最後は、ロンドンで1泊。

これが、スケジュールのすべてだ。たわいもない旅だ。それでも、旅の終わりはいつも憂鬱になる。

8月14日、ロンドン。午後3時30分。大英博物館で5時間、徘徊してヒースロー空港に向かう。ブラックキャブの運転手に、私はさっき息子と別れてきた、とつぶやく。

夜明け前からホテルの部屋で、旅の荷物軽量化作戦に取り組んだ息子は、父親といういちばん大きな荷物を下ろしてほっとしているかもしれない。

さあ、帰ろう。

参考文献

『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』村上春樹(平凡社)
『スコットランド旅の物語』土屋守(東京書籍)
『椎名誠シングルモルトウイスキーの旅』suntory.co.jp