2014年12月29日月曜日

消える時、『消えた街』

一年があっという間に消えた。いつのまにか年の瀬になっている。
年を重ねるごとに、時が消えるという感覚になってくる。

一日や一年を短く感じるのは、加齢により新陳代謝速度が遅くなってくるのが原因だそうだ。そうなれば体内時計も徐々にゆっくり回るようになる。
遅れた時計が一年を刻むのには時間がかかる。だが、現実世界は6歳の一年も62歳の一年も冷徹に同じスピードで時を刻み続ける。
実際の時間の経過に自分の体内時計=生命の回転速度がついていけないので、あっという間に時が過ぎていく感覚になる。
この説は分子生物学者、福岡伸一さんの受け売りである。

フミメイ流の言い方をすれば、経年劣化していく自分のCPUが情報大洪水の中で溺れてしまい、あわわとしているうちに一年が消えていく。
体力の方も同じく劣化していく。それでも意地を張って動き続けているうちに一週間が一月が一年がわっしょいわっしょいと消えていく。「半農半X家・フミメイ」の一年は素早く消えていく。

さらに輪をかけて、今年はアベシンゾーがあれこれしでかしてくれたので、そのカウンター情報を発信するのにも忙しかった。
アベシンゾーという用語は、第97代内閣総理大臣の安倍晋三を支える日本人の《集合的無意識》という意味で使うようにした。まだまだ良く分からない部分の方が多いが。
アベシンゾーの気持ちを慮るために、今年もたくさんの本を読んだ。そして多くの本を読み残した。
どう考えても今年中に読み切れないが、できるだけ早く読みたい一冊がある。
『忘却のしかた、記憶のしかた』(ジョン・W・ダワー/岩波書店)


「いまだ戦後ではない」と喝破した《東京の師匠》から薦められた本である。
アベシンゾーに対抗するためには、それなりの理論武装が必要だ。
劣化型の反知性主義者たちは歴史を修正したがる。自分たちに都合のいい理屈だけを一部の人々には心地良い情感に包んで訴える。反対意見には耳を貸さない。「見解の相違」と切って捨てる。
しかも、マスメディアはもう彼らの支配下にあるようだ。
急速に「自由と民主主義」(含む日本国憲法)が消えつつある時が今だ。

僕の一年が消え去ろうとどうってことはないが、1945年8月に、父や母や祖父や祖母が獲得したものを消してしまったら、彼らに顔向けできない。
敗戦時に消えたものの代償として獲得したものを失ってはならない。
消えた命、消えた家、消えた父母、消えた子供たち。
そして、そこには「消えた国」もあった。
中国東北部に大日本帝国が構築した傀儡国家である「満州国」。

「満州国」は1932年3月1日に出現して1945年8月15日に消えた。「建国」後、13年五ヶ月。元々、あるべきものではなかったのだから、消えるのは自明の理であったのだろう。
だが、「偽国家」は消えても、その瞬間、満州には生身の日本人が生きていた。多くの家族がいた。会社に勤め、農地を耕していた。たとえその会社が「国策」であり農地が略奪されたものであっても……。

その瞬間、安倍晋三の祖父、岸信介は「満州国」の高級官僚として財を成して内地にいた。
「満州国」をでっち上げた関東軍は自分たちの家族だけを連れて逃走していた。

取り残された家族の中に「白川妙子」がいる。僕の山の神の伯母さんだ。妙子の夫、「白川真之介」は満州映画協会(満映)に勤めていた。「真之介」は甘粕正彦のお気に入りだったという。
妙子さんは「消えた国の消えた街」、新京(現長春)から島根県松江市に引き揚げてくる。その記憶と記録を1990年に小冊子として出版した。


この歴史的事実を元にして、僕は小説を書いた。今年の始めのことである。
小説のタイトルは『消えた街』。

そして2月、平凡社の『こころ』という雑誌の〝第一回晩成文学賞〟に応募した。
長い間待って、今月、受賞作が発表されたvol.22号が届く。


落選だった。佳作にも入らなかった。



『消えた街』というタイトルの左側写真は白川妙子(登場人物名)、右側は野津修(登場人物名)だ。
これらの写真はもちろん応募原稿には入れなかったが。

野津修のモデルは、盟友、原田ボブの父である。
修さんは「建国大学」の学生として「新京」に1年半、住んでいたことがある。1943年建大入学、1944年学徒出陣。
僕が、この小説を書いた動機は妙子さんの冥土の土産にするためだった。明治45年(1912年)生まれの彼女は、来年3月で103歳になる。

盟友の父は2006年に逝去された。享年81歳。
『消えた街』での人物設定は僕の創作である。満州を巡る僕と原田ボブとの縁は、3年前の年末にも「協和から協創へ」という文脈レポートで書いたことがある。

ずっと書きたかった「満州国」のことを書き始める後押しをしてくれたのが〝第一回晩成文学賞〟だった。
「応募時に、満60歳以上の方に限ります」
「〝本〟〝未来〟〝まち〟のうち一つをモチーフにした小説を募集」
「400字×100枚以内」
「締切:2014年2月28日」
「選考委員:村田喜代子、半藤一利ほか」
「発表:2014年12月刊行『こころ』vol.22誌上」


僕は、この賞に飛びついた。「締切は執筆の父」なので。2カ月で書き上げて応募した。

その後、8月に最終候補作発表がある。
応募98篇、うち15作が一次選考を通過。7作が最終候補作となる。『消えた街』が入っていた。
正直に言うと、僕の中で助平心がむくむくと湧き上がった。が、その後は音沙汰なし。




そして受賞作は『浜辺の晩餐』(小森京子/65歳)。おめでとうございます!
佳作は三篇。
『風の賦人』(大山舞子/80歳)。『黒犬先生伝』(三島麻緒/65歳)。『あなたは何故、』(大森レイ/81歳)。おめでとうございます!



『消えた街』にも半藤一利さんが講評を書いてくれた。
「消えた町(ママ)」は構成に厚みがなく、やや〝あらすじ〟めいた作品になった。読後に感動が湧いてこないのはそのせいであろう。
辛口である。でも、そのとおりなのだろう。なぜなら執筆動機に「他人史」を書きたいという小説としては不純なものが含まれていたのだから。

《東京の師匠》からも『消えた街』とニワカ小説家への鋭いご指摘がきた。
小説家は「鳥瞰目線」を持たねばならない。登場人物に対して「酒に酔ったような同調」をしてはならない。生物学者が生態観察をするように登場人物を見つめ分析し、それを再構築して描かなければならない。
親戚や盟友の父への「ベタな愛情」は、小説表現には無用なものだった。『消えた街』の一般読者(今のところ10人程度)に「感動が湧かない」のはそのせいであろう。


ともあれ、昭和史の大家、半藤一利さんが『消えた街』を読み、講評してくれた。その事実はニワカ小説家にとって大きな励みとなる。「消える時」を内在させたニワカが、来年どのような小説を書くのか、あるいは書かないのかは誰にも分からない。何しろ本人に分かっていないのだから、他人に分かるわけがない。

しかしながら、書くことへの志は消えていない。僕にはまだ書きたいことがある。

『消えた街』は賞に落選したことによって、本来の目的を果たすことができるようになった。
『消えた街』は本になる。米子の今井出版でオンデマンド印刷をして本にする。
限定20部。お世話になった関係者への御礼本だ。

一世紀以上を生きた「白川妙子」さんにお迎えがきた日には、その棺に納めてあげよう。
盟友の父の墓前にも、きっと届けられることだろう。




書くということは孤独な行為だ。ドアを閉めて想像力の地下室に降りていくことだ。たとえ「あらすじ」であろうとも。僕は身の丈160センチまで地下室に降りた自信はある。
来年はもう少し深く降りて、また戻ってこよう。

僕の2014年は小説の執筆から始まった。その後も孤独な作業が多かった気がする。

夏の終わりには、文脈研究所のレポートを定本化した。アホみたいに長い800枚の原稿をまとめていく作業は自分のありかたを見つめ直す契機となった。そこで「鳥瞰目線」を少しでも獲得できていればいいのだが。

孤独に書いて、孤独に釣って、孤独に草を刈る。そんな一年……。
上山棚田団と協創LLPにも、多くの関わりは持たなかった。それでも心の底では彼らとの連帯を求めていた。それは確かなことだ。

消えゆく年を愛おしむだけでは何も始まらない。
「終わったのなら始めればいい」のである。
消えていくべきものには消えてもらい、ありつづけるべきものの後押しをすること。

来年は、きっと厳しい年になる。消えたはずのものが蘇ってくる。
肥料をやりすぎた野菜に虫たちがすり寄ってくるように不気味なものが蠢いている。
「戦争のできる銭ゲバ帝国」は消えたはずだったのに。

来年も僕は書き続けていこう。田んぼに這いつくばってコナギを取り続けるように。
言葉の力を信じて。「言霊の幸ふ国」に貢献できるように。
晩生(おくて)の書き手は「書くためのナイフ」を日毎夜毎に研いでいくしかない。

でもね、山の神には叱られるのですよ。
「書くのはいいけど、あんたは自分を追い詰めすぎて見てられない」と。
晩成文学賞の締切間近の僕を観察した結果の言葉なのだ。
はい、おっしゃるとおりです。ときどきはドアを開けて書くようにします。
そして来年の3月には、「白川妙子」さんの103歳の誕生日にご一緒させていただきます。


今月の文脈レポートもいつものようにドアを閉めて書いていたら、こんな笑顔が扉を開いてくれた。妙子さんから101年の時を隔てて生まれてきた笑顔だ。


僕と繋がっている皆さん!
今年も長い文脈レポートを読んでくれてありがとうございました。誰かがどこかで読んでくれているに違いない、という思いが僕の支えです。お世話になりました。良いお年を!

来年の大晦日こそは「そんな時代もあったねと」笑って話せる年になりますように。
昨年末にも同じメッセージを書いたのですが、来年こそは!

Never Never Never Give Up !

PS:小説『消えた街』に興味がある方は僕にフェイスブックメッセージをください。PDFファイルでお届けします。ご笑読ください。また『コンテキスターの日々』(定本・田中文脈研究所)もPDFでお届け可能です。ただし、こっちは長いですよ(笑w)。

2014年11月29日土曜日

村上春樹とコンテキスター

僕は村上春樹に会ったことがある。一度だけ業務上の都合で。
1990年頃だった。そのことについては書かない。まあたいした話でもないし。
そして、僕はピーターキャットのコースターを持っていた。ピーターキャットというのは、春樹が小説家になる前に千駄ヶ谷で営んでいたジャズバーの名前である。
それはある人にプレゼントしたので手元にはない。元々は村上夫妻と親しいCMプロデューサからもらったもので、僕自身がピーターキャットに行ったわけではない。


小説家と僕のリアルな関係は希薄なものである。
それでも夢想することがある。

村上春樹は1968年から1975年の間、早稲田大学第一文学部に在籍していた。
僕は1970年から1974年まで、その大学の違う学部にいた。
もしかしたら、キャンパスですれ違ったことがあったのかもしれない。

文学部は大隈重信の銅像がある本部とは少し離れた場所にある。
そのキャンパスにある長いスロープ。コンクリートの坂を昇らないと校舎にはたどりつけない。
坂の途中には無数のタテカンがある。タテカンは立て看板の略。当時の大切なコミュニケーションボードであった。大きくて太い肉感的な文字で「安保粉砕、斗争勝利」と書かれていたはずだ。赤文字からは血のような墨汁が垂れていることもあった。

タテカンに囲まれて僕はスロープを昇る。たまには文学部の学食で昼飯を食おうと思ったのかも知れない。
降りてきた学生がいた。ステンカラーのありきたりなコート。髪は短い。本とレコードを抱えている。
目が会った。18歳の僕は21歳の彼が持っている本とレコードを見る。
それは庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』ではなかった。それはビートルズの『ラバー・ソウル』ではなかった。それらは僕の知らないものだった。
僕と村上春樹の間にコミュニケーションはなかった……。

このようなことを想像したのは、春樹と僕の文脈を探っていたとき、新しい発見があったからだ。早稲田大学でも文脈は繋がっていた。

「問題はひとつ。コミュニケーションがないんだ!」
これは春樹が「ワセダ第9号」という学生誌に寄稿したエッセイのタイトルである。
早稲田大学出版事業研究会が1969年に発行したものだ。

出版事業研究会、出研(しゅっけん)!
大学生時代に授業にはほとんど出なかった僕にとって、早稲田大学とはすなわち「出研」であった。

1970年の4月に出研に入った僕は「ワセダ第9号」を見た記憶がない。今、僕の手元には「ワセダ第10号」があるだけだ。



考えてみれば、春樹が「ワセダ」に寄稿していても不思議はない。
当時の出研には春樹と同じ学生寮に住んでいた編集者がいたからだ。
この事実を僕に教えてくれた『村上春樹と小阪修平の1968年』(とよだもとゆき/新泉社/2009年)から引用してみる。
冒頭「何だか映画の評論を書けっていうもんで下宿に寝転がって煙草を三本吸う間考えをめぐらしてみたものの、バカバカしい程何も出て来ない」とあるから、編集部の知り合いからでも依頼されたのだろう。 「'68年の映画群から」とサブタイトルが付けられているとおり、映画について書かれたものだ。スチュアート・ローゼンバーグの『暴力脱獄』、高倉健の網走番外地シリーズもの、ウィリアム・ワイラーの『必死の逃亡者』、マイク・ニコルズの『卒業』、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』、キャロル・リードの『第三の男』、黒澤明の『野良犬』、ルイズ・ギルバートの『アルフィー』、今村昌平の『神々の深き欲望』など、その当時封切られたものや過去の映画を取り上げながら、現代のコミュニケーションの困難性について軽いタッチで書いている。(P54)

「コミュニケーションがないんだ!」というタイトルは1969年の村上春樹の根本命題を言い表しているのだろう。
あの時代については当研究所の「草莽の士、高橋公さん」も参照してほしい。ハムさんは映画『ノルウェイの森』の〝早稲田大学時代考証〟でクレジットされていた。

「コミュニケーションありやなしや」という文脈で春樹の今にワープする前に、もう少しコンテキスターとしてのパースペクティブで僕と彼の関係を見ていこう。

ハルキとサヌキ、という文脈がある。
『辺境・近境』という村上春樹の旅行記は、文脈家の僕にとって重要な文献だ。
発行は1998年。この頃、春樹はすでに世界のハルキになっていた。

その中に「讃岐・超ディープうどん紀行」という一章がある。
朝っぱらから石の上に腰掛けてうどんをずるずるとすすっていたりすると、だんだん「世の中なんかもうどうなってもかまうもんか」という気持ちになってくるから不思議である。僕は思うのだけど、うどんという食べ物の中には、何かしら人間の知的欲望を摩耗させる要素が含まれているに違いない。(P122)
へへへ、確かにうどんには、そういうところがあるかもしれない。お椀を伏せたような山がぽんぽんとあるだけの穏やかな狭っ苦しい平野で、うどんをすすっているときには、確かに、コミュニケーションがなんぼのもんじゃ!という気分になってくる。ちょっと哀しい話であるが。


めげずに知的欲望をこね回すために、僕はハルキが絶賛した「なかむら」に行ってみた。ネギは裏の畑から自分で取ってきたという伝説のうどん屋である。僕の坂出の家からは近い。

猫がいる。うどんをすすっているとみゃあーとすり寄ってくる。なるほど、猫好きのハルキなら、さらに知的欲望を鈍化させる風景になっている。


断っておくが、僕はマルキストではないのと同じくらいハルキストではない。そもそもなんちゃらイストであることを否定する傾向があるから、ハルキの書くものに共感できるような気がする。
これ以上、ハルキとサヌキの文脈に踏み込むのはよそう。


この紀行文が上梓された4年後、ハルキは『海辺のカフカ』という長編小説を書いた。
その舞台は香川県高松市。温暖な土地で不条理な物語が展開される。
ハルキはうどんで知性を(う)鈍化されるのに抗いながら、この小説の構想をこねていたのかもしれない。

ハルキストではないのだが……ひとつだけ。
文脈研究所でかつて書いたレポート「讃岐のカフカ」の後日談を。
『海辺のカフカ』の舞台である甲村図書館のモデルは、やっぱり坂出の「鎌田共済会郷土博物館」なのだろうな。最近、ここに初めて行ってみて確信した。


そして、『辺境・近境』の旅は、讃岐平野からモンゴルの草原に抜けていく。
白紙を1ページ挟むだけで「ノモンハンの鉄の墓場」へ。
白いうどんは白紙の壁を抜けたら白酒(パイチュウ)に変わった。


ノモンハン事変、というか戦争。1939年「満州国」とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、大日本帝国とソビエト連邦の間に起こった苛烈な殲滅戦。
1994年、ハルキが草原を訪れたとき、戦争の跡は乾いた風の中で風化されることもなく鉄片をばらまいていたそうだ。

ハルキは『ねじまき鳥クロニクル』という長編でノモンハン戦争を描いている。

「死んでこそ、浮かぶ瀬もあれ、ノモンハン」(作中人物、本田さんの言葉)


ここには、ハルキと中国という文脈がある。彼の父は中国に出征していた。
ハルキは、ほとんど個人的な周辺情報を語らない。
しかし、2009年9月25日のエルサレム賞受賞スピーチ、『壁と卵』では、父のことを語っていた。
私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食の前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人のために祈っているのだと父は私に教えました。父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。父が仏壇に座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。 
中国の戦場というのは満州だったのかもしれない。
『ねじまき鳥クロニクル』には、当時「満州国」の首都であった新京の動物園における中国人の虐殺が描かれている。

高校の古文の先生であった村上千秋さんが、どのような死に向き合ってきたのかは誰にも分からない。
ただ、中国という文脈がハルキの魂の襞にまとわりついているのは確かだ。手打ちうどんにはたっぷりの打ち粉が降りかかっているように。

中国=「満州国」という文脈を考えるときには、歴史を正しく認識する、という軸が必要である。僕はそう考えている。そうでなければ広大な大陸を覆う死の影たちに失礼だ。

ちなみに僕の父や母、親戚たちも深く「満州国」と関わっている。満州の文脈は研究ずみである。

「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」というセリフが最新長編の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に出てくる。

記憶を隠すことが巧みで歴史を変えることを望む内閣総理大臣が跋扈する昨今、ハルキはこんなことを言っている。
僕は日本の抱える問題に、共通して「自己責任の回避」があると感じます。45年の終戦に関しても2011年の福島第1原発事故に関しても、誰も本当には責任を取っていない。そういう気がするんです。例えば、終戦後は結局、誰も悪くないということになってしまった。悪かったのは軍閥で、天皇もいいように利用され、国民もみんなだまされて、ひどい目に遭ったと。犠牲者に、被害者になってしまっています。それでは中国の人も、韓国・朝鮮の人も怒りますよね。日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思います。原発の問題にしても、誰が加害者であるかということが真剣には追及されていない。もちろん加害者と被害者が入り乱れているということはあるんだけど、このままでいけば「地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった」みたいなことで収まってしまいかねない。戦争の時と同じように。それが一番心配なことです。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
歴史を正しく認識して自己責任を自覚するという地ならしをしたところにしか「魂の行き来する道筋」は開かれないのだろう。

2012年、尖閣諸島の国有化に際して中国の書店から日本の書籍が消えたことがある。その事態を憂えた小説家は朝日新聞に「魂の行き来する道筋」というエッセイを寄稿した。
文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。 
安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。 
「朝日新聞」(魂の行き来する道筋/2012年9月28日)
「安酒の酔い」とは、端的に言えばヒトラーが使った手口だ。
領土問題で国民感情を煽り頭に血を上らせて人々の粗暴な言動を誘うタイプの政治家には注意したい、とハルキは警告している。
このエッセイが書かれた時点では、野田首相だった。
2014年11月現在、安倍首相は酒も飲めないくせに、安酒を気前よく振る舞い、日本人の知正を麻痺させている、と僕は思う。


村上春樹の小説は中国、韓国、台湾で大学生を中心に幅広く読まれている。また東アジア文化圏内の若手作家に大きな影響を与えているそうだ。

実際、僕が会員になった「北浜現代中国文学読書会」では、「村上春樹メニュー」をつくる上海の美女が登場する短編小説を紹介していたりする。
そこには、美味なる中華料理が溢れる上海で、「キュウリとハムとチーズのサンドイッチ」をつくるアイロニカルなシーンが描かれている。(『白水青菜』藩向黎)

自分の作品のアジアにおける読まれ方について、ハルキはこう語っている。
これ(欧米)に対して、日本以外のアジアではストーリーの要素が大きい。ストーリーラインのダイナミズムに読者は自然な魅力を感じるのかもしれません。また、ある種の小説的ソフィスティケーション(洗練)、登場人物のライフスタイルやものの考え方に対する興味もあるみたいですね。「何とかイズム」みたいなことはあまり関係ない。例えば、僕の作品で主人公が井戸の底に座っていて石の壁を通り抜けてしまうといった場面を、欧米人は「ポストモダニズムだ、マジックリアリズムだ」みたいに解釈するけど、アジアの人は「そういうこともあるかもな」と自然に受け入れてしまう(笑い)。アジアでは荒っぽくいえば、何がリアルで何が非リアルかは表裏一体なんです、日本でもそうだけど。そういう物語の風土の違いは確かにあると思います。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
「東アジア(魂の)文化圏」は、村上春樹の文脈では深く静かに広まっている。
大陸の最高責任者にそっぽを向かれた、列島の首相の思惑とは関係なく……。

魂のバイブレーションは国境を越えて伝わる。
ハルキが小説を書く理由は「個が持つ魂の尊厳を表に引き上げ、そこに光を当てること」なのだ。「壁と卵」スピーチで、そう語っている。
小説における物語の目的は警鐘を鳴らすことにあります。糸が私たちの魂を絡めとり、おとしめることを防ぐために、“システム”に対しては常に光があたるようにしつづけなくてはならないのです。小説家の仕事は、物語を書くことによって、一人ひとりがそれぞれに持つ魂の特性を明らかにしようとすることに他ならないと、私は信じています。
魂の有り様を描くとき、小説家の魂は振動して読者の魂に伝わる。
特に東アジアにおいては、欧米的ではない自然体の魂というベースがあるので、伝導率が高いのかもしれない……。これは僕の仮説であるが。


1995年、阪神大震災と地下鉄サリン事件を契機として、村上春樹は「デタッチメント(かかわりのなさ)からコミットメント(かかわり)へ」と作風を変えていった。

デタッチメントは、1968年にコミュニケーションを巡る暑苦しい冒険をした村上春樹にとって自己防衛のための生活の知恵だったのだろう。
そこから再びコミットメントを始めるために、小説家は深い井戸を掘り、底に降りる必要があった。
コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。 
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫P84)
いっしょにスクラムを組んでデモしようぜ、それシュプレヒコールだ! などという脳天気なコミットメントではない。
村上春樹は、徹底的に想像力を鍛錬してから壁を抜けたのだった。

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」とコミットメントした村上春樹。
最近のインタビューでは、「孤絶」を極めないと壁は越えられない、と提言している。
いったんどこまでも一人にならないと、他人と心を通わせることが本当にはできないと思う。理想主義は人と人とをつなぐものですが、それに達するには、本当にぎりぎりのところまで一人にならないと難しい。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
「コミュニケーションがないんだ!」と20歳のときに嘆いた青年は、現在、65歳。
ハルキは深い井戸に降りていき、また昇ってくる体力を身につけて、「魂が行き来する道筋」に物語を送り続けている。

それでも彼にとって、ある種の壁はまだ抜けきれてはいないようだ。中国という壁。

村上春樹が父から伝達された中国=「満州国」文脈について、ハルキの長年の読者である内田樹は以下のように推論している。
村上春樹における「中国」とは、「飲み込むことができないもの」なんです。自分は「中国」を飲み込めない、咀嚼(そしゃく)できないと。どうしても「中国」を飲み込めないトラウマ的な核がある。トラウマというのは、それを記述する言葉がない「虚の経験」のことですから、「それについて」書くことができません。できるのは「それが書く」ことだけです。その「虚の経験」そのものが、村上春樹という書き手をおしのけて、自分が語り出すというかたちにする他に、この「飲み込めないもの」が何なのか、どのような機能を果たしているのかは、わからない。
この長く、個人的な苦闘が村上春樹の文学的営為のひとつの通奏的な主題をなしているように僕には思えます。 
『街場の文体論』(内田樹/ミシマ社/2012年)P291
村上春樹の小説群が、中国大陸で広く受け入れられているのは事実である。読書の側からの壁は抜けているのかもしれない。


早稲田大学、讃岐、満州、そして「非現実的な夢想家」、僕とハルキの文脈は繋がっているようだ。一方的に、こちらからそう思っているだけだが。

村上春樹と違って、僕にはまだ咀嚼できないものが多数ある。
あたりまえだ。僕には孤絶する訓練が足りない。
それでもハルキ先輩のあとに続いている、と確信できることがある。
何よりもまず「忘れないこと」。忘れないことは僕にも自信がある。
でも、僕にはうまく表現できないのだけど、どんなに遠くに行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうかと。でも少なくとも僕はそれらがそこにあり、あったことを決して忘れないだろう。忘れないこと、それ以外に僕にできることはおそらくなにもないのだから。
『辺境・近境』(ノモンハンの鉄の墓場/P230)
僕は僕の1968年を忘れないし、1932年から1945年まで中国東北部にあった「満州国」で何が起こったかを忘れない。父も母も忘れたことがない。自らのソウルフードであるイリコ出汁のうどんの味も忘れたことがない。村上春樹の新作小説を予約することも……。

忘れないこと。それが壁を抜けていくための出発点だと思う。

壁は2014年11月現在、厳然として世界中に存在している。
日本列島においては「無関心(デタッチメント)」という壁である、と僕は思う。
他者の痛みに対して想像力を持たない無関心。「愛の反対は無関心」。

自分勝手な理由で総理大臣が解散権を行使しても、多くの人々は選挙に無関心に見える今日この頃。僕はなんだかとても悲観的である。

ところが、村上春樹は出発点でうろうろしている僕とは関係なく、はるか先に行こうとしている。

ハルキは、彼らが1968年に持っていた理想主義を新しい形に変換して若い世代に引き渡すことを追求し始めたようである。
僕らの世代は60年代後半に、世界は良くなっていくはずだというある種の理想主義を持っていました。ところが、今の若い人は世界が良くなるなどとは思わない、むしろ悪くなるだろうと思っています。もちろん、それほど簡単には言い切れないだろうけど、僕自身はある程度、人は楽観的になろうという姿勢を持たなくてはいけないと思っています。
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
柔らかい魂を内包した卵が壁をしなやかに通り抜けることができたら、世の中はいい方に向かっていくはずだ。
それは、最後の一葉が落ちても(根っこがしっかりしていれば)新芽は必ず生えてくるのと同じくらい楽観的な事実である。

文脈家だって、忘れないことから出発して井戸を掘り続けたら、いつかは豊かな水脈にたどりつくことができるかもしれない。静かに楽観しながら、手を動かし続けていくしかないな。

タフでなければ生きていけない、楽観的でなければ生きている資格がない。



2014年9月30日火曜日

文脈日記(半農半X家・フミメイ)

僕は半農半X的生活を求めて、都会ではないどこかを彷徨っているものです。
こんなふうに自分を紹介することもある。

そして、僕の半農には3つあります、と続ける。

ひとつ、上山棚田団。



ふたつ、箕面マイファーム。

みっつ、綾部の半農半X田んぼ。


今年は綾部の1000本プロジェクト田んぼはお借りしていない。それでも、半農半X研究所主任研究員として、脱穀とコナギ取りの手伝いはした。


静かな里の秋空の下で、塩見直紀さんと農作業をするのは至福の時である。
久しぶりに「里山ねっと・あやべ」に泊まれば思索が深まっていく。


考えるということは、穂を垂れた稲の下に潜り込んで実りを刈っていく行為に似ている。
ひたすら鎌を進めていけば、いつかは視界が開けることもある。霧が光に溶けこんでいくように。

今、僕が考えているのは、田中文脈研究所をどのように定本化していくか、という課題である。
塩見さんが提言している「一人一研究所のススメ」にしたがって設立した当研究所。その研究レポートは膨大な量になっている。400字詰め原稿用紙に換算すれば790枚を超えつつある。

定本化作業は地道にやるしかない。WEB上のテキストを縦書きに移しかえて写真をレイアウトしていく。田んぼに残されたコナギの根を一本一本掘って土を綺麗にしていくように。
時間がかかる。だが、この原稿を読んでくれる人はもっと時間と労力がかかるはずだ。できるだけ丁寧にやるしかない。


電通を早期退職して4年になる。書き連ねてきたことをひと繋がりにしていくと、分かってきたことがある。

僕は、半農半Xというコンセプトに導かれて、その背後に広がるコンテキスト(文脈)を探求するために動いているのだ。

さらに今年の半農には「善通寺田んぼ」という丸亀高校文脈も加わった。
また、夏の里山を流れる川でしかできない鮎釣りだって「半農」の文脈に繋がっている。水脈かもしれないが。
里山の川は農に直結している。川のそばには田んぼがあり畑がある。
半農半Xの基本的心構えである「センス・オブ・ワンダー(自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性)」は川でも磨かれる。


僕の半農については、他人に分かるように説明する自信はある。
では半Xはどうか?
僕は半農半コンテキスターです、と言い続けてきた。
コンテキスターとは何か?
文脈家です。文脈を繋いで物語をつくる者です。詳しくはグーグルで「コンテキスター」と検索してみてください。そこには僕しかいませんから。これも僕の自己紹介の一パターンだ。

それはそれで自分の中では納得感がある。だが、他人が分かってくれているのかどうかは自信がなかった。

そんな気持ちのまま、相変わらず自由を友として動き回っていた。
そして、文脈原稿を整理しているうちに、自分の半Xの新しい考え方が見えてくる。

僕の半Xとは何か?
XはあくまでもXなのだ。
それは未知でありクロスである。関係性であり交錯である。

僕は「半農半X家」。
半農半Xか? と疑問形に聞こえないように発音しないと。
半農、すなわち小さな農をベースにして自分の天職、すなわちXを探していくのが「半農半Xという生き方」である。
たとえば、「半農半歌手」「半農半NPO」「半農半医」「半農半祈り」……。
ならば、Xを天職とする生き方があってもいいはずだ。

関係性を探究して、その交錯を楽しむ生き方。それを型として工作していく生き型……。

フミメイと呼ばれはじめてから現在まで、様々なことを見て聞いて、書いたりしゃべったりしてきたのは「半農半X家」としてのミッションだったのかもしれない。

上山棚田団での関係性は、右も左も上も下も交錯して〝複雑形X〟の宝庫になっている。
そこでのフミメイは固有の「楽しいことは正しいこと」というプリンシプルにしたがって動いていくしかない。


マイファーム箕面のフミメイ農園は15平米の有機栽培を文系百姓として続けている。
そこで始まった野菜縁脈は、自然栽培も交錯して様々な関係性を耕作しつつある。京都の日吉、島根の松江や山王寺と〝草の根X〟のエリアは拡大している。


綾部のXは明解だ。そこには塩見直紀さんがいるから。
田んぼを渡る風は、一定の方向へ吹き抜けていく。それは未来圏から吹いてくる颯爽とした風である。
〝あとから来る者のためのX〟が綾部にはある。


「半農半X家」という妙な言葉を主任研究員が勝手につくっていいものかどうか、疑問は残る。
ただ、Xに何をあてはめるかは〝使命多様性〟に基づき、人それぞれである。
ならば、Xに〝クロスして交錯すること〟をあてはめる変わり者がいてもいいはずだ。

「半農半Xカー」であるフミメイ号は、この4年間で86000キロを走破している。地球を2周以上。
「半農半X家フミメイ」は動いた距離に裏付けられている。自分の足と手でXを掴み取るための研究はしてきたつもりである。

君は半農半Xか? はい、自分は半農半X家であります。
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう 
(『詩集 二度とない人生だから』坂村真民)


最近、当研究所のレポートはやたらと長いものになっていた。
ブログという情報発信方式では、どうしても自分の語りたいことを一方的に届けることになってしまう。それでは読む方も大変だ。
文脈研究所の設立当時は、適度な原稿量であったと思う。原点に戻ろう。

今月は、定本・田中文脈研究所の章立て案をレポートして脱稿なのだ。

第一章 脱藩カウントダウン
第二章 《自立》する日々
第三章 そして311、アンガージュマンする日々
第四章 交錯し考察する日々
第五章 転がり続けて物語る日々
第六章 踊り場の日々
(以下未定)

2014年8月31日日曜日

解説・上山集楽物語

これは2013年の5月に書いた文章です。
当時、執筆中だった『上山集楽物語』(英田上山棚田団・編/吉備人出版/2013年12月24日発行)の「あとがき」として書いたものです。
この草稿は諸般の事情で本に収めることはできませんでした。
その時点から1年とちょっと。今もなお、岡山県美作市上山では《出来事多様性》が継続しています。その動きを理解するための参考になれば、と考えて今月の文脈研究レポートとしてアップしておきます。
横書きにして読みやすくするために、段落設定を変えました。それから参考書籍と上山の写真をインサートしています。テキストは書いた時点から変更はしていません。



「永久の未完成これ完成である」と世界の動きを見切ったのは宮澤賢治である。1926年に『農民芸術概論』の結論で詩人は断定している。

上山集楽物語はネバー・エンディング・ストーリーだ。その終章は見えそうにない。2013年夏現在、この物語はソーシャル・メディアという印刷所で「永遠のβ版」としての版を重ねている。「ベータ版」は常に深化しつづけて完成することがないバージョンを意味するWEB用語である。

インターネットを体液として、そこに浮かぶ自立した細胞が有機的につながっているのが上山集楽だ。その物語が編み出すものはすべてが試作品であると同時にその時点での完成品なのだ。

「なう」が創りだす物語の解説を語り部の一人である僕が書くというのは、タツノオトシゴがいきなり龍に乗った少年になるようなものかもしれない。
だが、すべての物語は、そのような「重層的構造」を持つものらしい。

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実態であり、同時にあなたは影である。あなたは物語をつくる「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレイヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒やしているのである。
『アンダーグラウンド』村上春樹


だとすれば、混沌と流動を基本的なコンセプトとする上山集楽物語の中にあって、僕は登場人物であり語り部であり解説者になっても、それはそれで上山集楽らしい展開なのかもしれない。
それに物語の文脈では書き切れない解説が本書には必要な気がしてならない。

本というメディアの本質はパッケージすることにある。エンディングはなくても、ある時点で句読点をうって時代にアンカーを下ろしておかないと、本はソーシャル・メディアを前にして意味を失う。

なんと言っても、メディアの威信を最終的に担保するのは、それが発信する情報の「知的な価値」です。古めかしい言い方をあえて使わせてもらえば、「その情報にアクセスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」。それによってメディアの価値は最終的に決定される。僕はそう思っています。
  『街場のメディア論』内田樹 


この物語の場合は、「世界の成り立ちについて理解が深まる」というよりも世界の混沌について再認識をする、という方向かもしれないが、解説を試みることにより僕のあとがきとしてみよう。

ということで、まずは登場人物からだ。複雑怪奇なミステリーのように入り組んで見える彼らも所属グループで分類をしてみれば、シンプルな構造になる。

はじめに協創LLPがあった。2007年、大阪で発足した異業種の有限責任事業組合。そのプロジェクトとして英田上山棚田団がスタートした。当然のこととして上山地区住民も登場してくる。

総務省の「地域おこし協力隊」制度ができたのが2009年。
「美作市地域おこし協力隊」も編成されて行政サイドからの登場人物も出てくる。
2011年、NPO法人英田上山棚田団設立。時期を同じくして全国の地域おこし協力隊のネットワークである村楽LLPが誕生した。

それぞれの登場人物が自らの所属グループでの本分を守り整然と活動しているのが上山である、となれば読者にもフレンドリーなのだが残念ながらそうはいかない。
誰がどこに属しているのか、ということは読者にとっては興味深いことかもしれないが、登場人物たちにとってはあまり意味はない。
彼らは究極のところ、自分にしか所属していない。そして行動原理はただひとつ。

楽しいことは正しいこと。

ただし、行動原理はひとつでも彼らはふたつの顔を持っている。本名とニックネームとを。
たとえば僕であれば田中文夫という本名とは61年間つきあっている。フミメイというニックネームとは3年間のつきあいだ。
僕たちは本の中と外を自由に行き来すると同時に本名とニックネームの間も出入りしている。その往来の頻度と、どちらの領域にいる時間が長いかは、登場人物それぞれの判断に任されている。

上山集楽物語がユニークなのは、登場人物名がニックネームオンリーで書かれていることだ。読者は脚注により本名を知ることはできるが、それはあまり重要なことではない。ニックネームで語ることにより、物語はその純度を高めている。
もし本名が持っている背景まで書いていけば、それはあまりに複雑なストーリーになってしまう。また、本書に登場しなかった人物、舞台裏に回った人物も大勢いる。それぞれに重要な役回りを持っていたはずだが、物語の流れの中で書き切れていないことがあれば、ご容赦いただきたい。

登場人物たちが上山集楽に惹かれた理由は様々であろう。また読者がこの本を手にとった理由も様々であろう。

ただ、僕としてはその理由のひとつはかっちの言動であったと思っている。かっちと、その従兄弟であるグロロ、本名で書くならば、西口/石黒家系の求心力なしには、この物語は成立しない。

ブラックホールのように強い重力を持ってヒトとコトを吸い寄せて、夜空に舞い上がるスカイランタンのように情報を発散していくかっちとグロロ。その本質についての解説もまたこの本には必要な気もする。
「棚田の先覚者たち」である「凄玉言霊師かっち」と「泣きと笑いの言霊師グロロ」。彼らが語っていることは物語のバックグラウンドで流れている音楽のようなものだ。それは常識を破壊して再創造を促すリズムを刻んでいる。

かっち、2014年8月12日
グロロ、2014年8月12日

ただし、BGMだけでは世の中は変わっていかない。この物語は上山に集楽して毎日をカーニバルにする「変人」と「へそ曲がり」の集団劇なのだ。

彼らは楽しいことだけを求めて、世の中の通常文脈を無意味にする試みを続けている。
それをビジネス書的展開として解説できるのは、まだ先のことであろう。今はまだ混沌の中で「けもの道」を進んでいる彼らの祝祭空間のことをより多くの人々に知らせていく段階だ、と僕は思って物語を書いてきた。

解説者になった僕が密かにそして分不相応に願っていることは、ドイツの作家、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の現実化である。

物語を読んでいるうちに、そのストーリーに文字どおり引きこまれて、本の中に入ってしまう少年の『はてしない物語』。映画化されたときのタイトルは『ネバーエンディング・ストーリー』だった。

あまり楽しくない学校生活や父親との暮らしを送っていた少年が、迷いこんだ書店で見つけた本を、学校の屋根裏で読み進むうちに、その本のストーリーの中に入りこんで、ついには物語に登場してしまうというファンタジー……。

「上山集楽物語」も読者が登場人物になる瞬間が訪れることを願っているし、そのことがこの本を編んだ目的のひとつであることは間違いない。

ただし、今の世の中はファンタジーで成立しているわけではない。
石川啄木が明治43年(1910年)に憂慮した「時代閉塞の現状」は103年を経過して、まだ持続しているように僕は感じる。
「時代閉塞」はファンタジーでは解決できない。夢物語のみを膨張させることを拒否して、日々の実践の中から時代突破の原則を発見していくこと。その原則に共感する人々が集まる場をつくり、登場人物を呼びこむこと。もしも、このような善循環の構造がつくれるのであれば、閉塞は開放に向かっていくのかもしれない。

この構造をマーケティング用語で解説することもできる。
かっちとグロロはイノベーター(Innovators)である。先覚者だ。
それに続く「変人」たちは、アーリー・アダプター(Early Adopters)と言える。先覚者の行いに素早く共感してともに行動し善循環のネットワークを構築する初期採用者だ。

マーケティング理論ではイノベーターとアーリー・アダプターは市場全体の16%にすぎないとされている。(※1)
その後に続くはずのブリッジ・ピープルとの間にある深い溝をどう乗り越えていくのかは一般的なマーケティング課題である以上に、上山集楽の大きな挑戦でもある。(※2)


さらに、その構造の解説を試みるならば、トリック・スターとウィル・ピープルという見方もできるだろう。
トリック・スターとは、文化人類学者、山口昌男が有名にした概念である。舞台が大きく展開するときに現れる「道化師」たちのことだ。
トリック・スターとは、その自由奔放な行為ですべての価値観をひっくり返す神話的いたずら者、いわば文化ヒーローとしての道化である。
(中略)
創造者であると同時に破壊者、善であるとともに悪であるという両義性をそなえて、トリックスターはまさに未分化状態にある人間の意識を象徴する。そして、既成の世界観のなかで両端に引きさかれた価値の仲介者としての役割をになう。
   『トリックスター』解説文

かっちとグロロはトリック・スターである。彼らは棚田の先覚者であると同時に道化師だ。
その詩的言語で人々を上山集楽へと誘い、価値観の再創造を試みる。
かっちの声は、「時代閉塞」の突破を告げる。グロロは棚田で火を吹いて、祝祭の始まりを高らかに宣言する。
楽しいことは正しいこと、というプリンシプルはテキストと同時に彼らのサウンドとアクションで人々を引きつけるのである。

しかし、閉塞を突破せよ、とアジテートするトリック・スターたちだけでは時代は変革していかない。彼らに導かれて物語の中に入ったウィル・ピープルが主役になってこそ、物事は動いていくのである。
ウィルとは意志である。僕は本書の中で志を持って上山に集まった人々を「志人」としている。ウィル・ピープルも志人も僕の造語だがネバー・エンディング・ストーリーの登場人物にふさわしいネーミングだと思っている。

右も左も蹴っ飛ばして、ひたすら「けもの道」を進むトリック・スター、その後からウィル・ピープルが踏み分け道をつけていく。さらにその道に花を植えるアーティストも集まってくる。
今のところ、上山集楽の善循環構造はこのようなカタチを取って「毎日をカーニバル」にしているのだ。
決して楽ではない道のりも、道化師と志人と芸術家のコンビネーションで、ひたすら前に拓けていくものなのだろう。

トリック・スターであり道化師でありイノベーターであるかっちとグロロ。直後に続くアーリー・アダプターでありウィル・ピープルすなわち志人である人々。

それでは、この登場人物たちが目指している未来はどのような方向性を持っているのだろうか。

この問題の解説は容易ではない。先覚者も志人たちも広告会社の鬼十則(※3)のように細かい行動指針を共有しているわけではない。
シンプルに「楽しいことは正しいこと」を標榜するのみである。その「楽しいこと」の判断基準は各自に委ねられ、時に共有され、時に個別化される。その流動的な状況は、外部から見れば「混沌」としか見えない時もあるだろう。

ただし、上山集楽物語が多くの登場人物を集めつつあるのには明確な理由がひとつある。
それは、「地に足をつけて棚田で米を創りつづける」というもっともベーシックで普遍性を持った「楽しいこと」を共有していることだ。
農をベースにして行動するものが強いことは、塩見直紀が提唱した「半農半X」という言葉が今や一般名詞になりつつあることでも分かる。

棚田団は米を創る。粛々と米を創る。種籾を選別する。苗を慈しみ、田植えに備える。畦を塗り代掻きをする。
上山の田植えは6月上旬だ。田植えはまさにカーニバル。稲が育つと草も育つ。コナギやヒエを手で草取りする。田見舞いをして棚田を愛でる。秋色の祝祭空間で稲刈りをする。ハゼ干しの楽しさは人の集まりに正比例する。脱穀し籾すりをする。

上山棚田では、瑞穂(みずほ)の周りに集楽するライフサイクルが繰り返される。繰り返しの美学を守りつづけることが「楽しいこと」の原点だ。
登場人物たちの共通項はそう信じることにある。その信念が上山の村人たちに伝わったとき、棚田は彼らを心の底から受け入れる。

  厳めしき祖父の一言「家を継げよ」従ひたれども棚田は守れず
   (小林和子による石碑の文言)

上山集楽物語には終わりはなくとも、始まるための推進力はあった。棚田の一画に立っている石碑の無念が、それなのだ。

小林和子、2013年2月25日撮影

「棚田で米を創りつづける」という地に足をつけた「楽しくて正しいこと」があったから、村人たちは先覚者と志人たちを受け入れたのである。
そこまで気持ちを共有することができたら、次の章は自由自在だ。
棚田にレストラン、棚田にヘリポート、棚田でコーラス、棚田でタップ、登場人物がやりたいことはすべて認められていく。

上山集楽は「懐かしい未来」に向かって開かれた特異な共同体になりつつある。
自らも山村に居場所を持つ哲学者、内山節は、かつては否定の対象となっていた「自然と人間の共同体」にこそ、閉塞状況を開いていく鍵となるものが存在するとしている。
そして上山集楽のような小さな共同体が成立する条件を以下のように説いている。

私たちがつくれるものは小さな共同体である。その共同体のなかには強い結びつきをもっているものも、ゆるやかなものもあるだろう。明確な課題をもっているものも、結びつきを大事にしているだけのものもあっていい。その中身を問う必要はないし、生まれたり、壊れたりするものがあってもかまわない。ただしそれを共同体と呼ぶにはひとつの条件があることは確かである。それはそこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。だから単なる利害の結びつきは共同体にならない。群れてはいても、ともに生きようとは感じられない世界は共同体ではないだろう。
  『共同体の基礎理論』内山節

英田上山棚田団代表理事のいのっちは、「ともに生きる世界がある」と自身も感じているから、今日も上山に通い続けている。彼女は上山集楽の混沌の中に一筋の光が見えているのだろう。

ともに生きることの意味を問い続ける『上山集楽物語』の未来はどのような方向性を持っているのか?

この問いに対して、解説者としての僕は客観的で具体的な答えを出すことができない。その答えは登場人物たちが、それぞれ自分の居場所を探すときに発見していくことなのだから。
だが、ひとりの登場人物フミメイとしては事例を語ることができる。

志人たちが水平に並ぶところ、その概念を僕はWill Flat 、ウィル・フラットと名づけてみた。
僕はコンセプトを言葉にしてみただけだ。その言葉を実体化していくのは先覚者かっちだ。

いつのまにかWill Flatは棚田を見下ろす水平な床が連なったテラス・レストランの名前になっている。そこには必然の結果として志人たちが集まってくる。未来を語り合い、集楽からの贈り物を食べ、時には酒を酌み交わす場所になってきた。
この言葉はやがて、上山集楽の明日を担う人財育成施設であるフューチャー・センターにも繋がっていくのかもしれない。

僕はこのようにして上山集楽の方向性と関わってきた。妄想を語る文脈家として志人の列に連なってきたつもりだ。
そして、僕の今後の関わり方は、また自分の「楽しいことは正しいこと」から考えていくしかないだろう。

WillFlat、2014年8月12日

いのっち、やっしー、きっちい、アロマン、お喜楽美々、笑顔のまさやん、やまちゃん、聖子、そしてボブ、その後にも続々と登場してきている志人たち。

詩人は韻を踏み、志人は田を踏む。自然と協創する志人は、横に繋がる志人との関係性のなかで明日を見つけていくしかない。


(※1)イノベーター理論……1962年に米・スタンフォード大学の社会学者、エベレット・M・ロジャース教授が提唱。

(※2)キャズム理論……1991年、マーケティング・コンサルタントのジェフリー・A・ムーアが提唱。

(※3)電通鬼十則

上山棚田団の原点田んぼ2014年8月12日
天燈、星に願いを。上山夏祭り2014