2013年1月31日木曜日

文脈日記(本を出すということ)

2013年がスタートして一ヶ月だ。
だが、僕には正月気分は皆無だった。仕事始めも何もなく、いきなり書きたい書かねばという気持ちの中に突入していった。
そして、書いて書いて書きまくっている、と言えればいいのだけど、残念ながら遅筆状態なのである。えへん、と胸を張って言うことではないが。

「愛だ!上山棚田団~限界集落なんて言わせない!」
編著:協創LLP出版プロジェクト/発行:吉備人出版

もう皆さん、よくごぞんじの棚田団本が新展開している。吉備人出版のご厚意で続編を出版できることになった。

書かねばならない、と言っているのはそういうわけだ。
書けば本が出る、というありがたい状況になったのだから。

かつて僕は文脈研究所でこんなことを書いている。
「文脈日記(協創する大縁脈/序章のはじめに)」2012年8月31日

さて、このあたりで、ひとつ明確にしておこう。
「本を書きたい」と「本を出したい」の間には一線があるのだ。 
僕は本を書こうとしている。でも本を出す当てはない。 
この国の出版社は当然、ビジネスとして本を出版する。売れる見込みのある本を優先して出版していくのが原則だ。しかも紙の新刊本は1日に200冊も出てくる。貴重な熱帯雨林の木を消費しながら。 
出版社があり取次があり書店があり読者がいる。出版社の編集者自身が歪な構造という業界の中で、いわゆる商業出版をするのは至難の業だと思う。

こんな思いを抱きつつ、実は「本を書く」という行為をさぼっていた。
そこに飛びこんできたのが吉備人さんからの嬉しいオファーだ。

棚田団本第二巻は僕だけで書けるはずはない。
第一巻の敏腕編集長、原田ボブと天下無敵のアンカーマン、武吉きっちいとの共同執筆になる。

吉備人出版との打ち合わせとライター3人の意識あわせのために、まず僕は本の設計図をつくってみた。ものごとを始めるときには最終的なアウトプットのカタチから逆算した方が早いこともある。これは長い間、広告クリエーティブをやった経験値からも言えることである。

棚田団第二巻のアウトプットのカタチは以下だ。

体裁は46版。230ページ前後。写真と図版あり。口絵4ページ。
すなわち、ごく普通の大きさの単行本だ。たとえば10万部売れている山崎亮の「コミュニティデザイン」や曽根原久司の「日本の田舎は宝の山~農村起業のすすめ」のような本である。


1ページの文字組を47字×16行としたら、752文字。
それを230ページで掛けると172960文字。
400字詰め原稿用紙に換算すると432枚だ。

432枚はけっこうな量だ。こんな計算ばかりしていないで1行でも書いていった方がいいくらいの量だ。
しかも締め切りがある。第一巻と違って賞応募でもないし「できるだけ早く」という締め切りでもいいはずなのだが……

しかし、締切を設定しないと書けるはずがない。この文脈日記だって、自分に課した月末締切という約束があるから、あと2時間以内に書き上げることができるのだ。

電通のスター・クリエーターがかつて名言を吐いたことがある。
「締切は広告の母」

広告表現というアイデア消費量が膨大になる修羅場で第一線を張り続けるのは並大抵のことではない。企画アイデアを絞り出す最大の力はクライアントによって設定された締切だ、と彼は言っていた。

昔も今も僕はスター・クリエーターなどとはほど遠いし、これからもそんな者になれるはずもない。
それでも「締切は執筆の母」であることは間違いない。
締切は一応、3月末としている。梅の後に桜が咲く頃だ。

書くという行為には体力がいる。これは想像以上に体力がいる。
しかも書いているうちに1行目からは想像もつかなかった方向に展開していくこともある。僕のようなふつつか者のライターでも言霊の流れに翻弄されることはあるのだ。そして未熟な言霊使いほど収拾がつかなくなる。

その流されていく身に錨を打てるのが締切のありがたさなのだろう。

さらに棚田団第二巻の主人公は、あの上山集楽の面々だ。
あそこは出来事多様性の宝庫であり自立した個が協創ガバメントをする混沌の聖地だ。

締切がなければ、どこかで期限を切ってまとめに入らなければ身がもたない。
しかもその締切は早めに設定しておかないと、本が上山の現実に置き去りにされていく。

本というメディアは印刷所入稿から初版発行まで三ヶ月を要する。
本はそれだけの時間と決して安くはない制作費をかけてできるパッケージメディアだ。

だからこそ、本というメディアはステータスであり値打ちがあるのだ。

上山集楽で起こっていることをリアルタイムに伝えるメディアはソーシャルメディアが最適だ。
フェースブック上のオモロイをかぎつけてマスメディアが食いついてくる。そのマスメディアの報道をまたソーシャルメディアが拡散していく。

上山集楽は今、情報と共感が善循環しながら大きな渦をつくっている。
そこに新規投入される本というメディアの役割は重要だ。
この本で「オモロイ」を一区切りして「カタチ」にパッケージする必要がある。
そして、その「カタチ」は「オモロイ」ものでなければならない。
つまり書き手の実力が問われるわけである。

ねっ、書いているうちに言葉はどんどんひとり歩きしていくでしょ。
書けば書くほど、自分にプレッシャーをかけることにしかならないのにとまらない(笑w)。

今、よく売れている本はビジネス本と生き方啓蒙書だという。棚田団第二巻は残念ながらそのどちらのジャンルにも入らないものになると思う。

僕は棚田団第二巻を「よくできたノンフィクション」にしたい、と設計図で提案した。今のところ、出版社とライターの中で合意はできている。

上山集楽で起こっていることをライブ感覚で書くこと。しかも「なう」から一歩引いた視線で上山の志が向いている方向を明確に示すこと。「なう」を描きつつ何年経っても古くならない普遍性を持つこと。

ああ、またハードルを上げてしまった。
そういう本になるかならないかは、書いてみないと分からないのに。

でも僕たち3人のライターにアドバンテージがあるとしたら、外から上山集楽をあらためて取材しながら書くのではなく、それぞれが上山の現場を踏んで中からの視線はすでに獲得していることである。
たとえ無名のノンフィクションライターであろうともリアリティでは外部ライターに負けるはずはない。

現場での実践を何よりも大切にする人たちのことを書くためには執筆も現場至上主義になる必要がある。

僕は吉備人出版にライター3名で打ち合わせに行った直後に、こんな投稿をフェースブックにアップした。

小豆島で寝る前に書いておきたいこと。
今朝、坂出の家でうなされながら目覚めた。
こんな夢を見ていた。
僕はどうやら東大受験をしているらしい。そんなもの、実際には僕はしたことがないが。問題は動物の世話と草刈りに関することで僕にはその正解が分かっている。
でも、解答用紙が見当たらない。そのへんにあったポストイットを利用して解答用紙にしようとしているのだが、うまくいかない。時間は過ぎていく。どうしても解答用紙は見つからない。
うわあ~と声を上げて目覚める。
冷静に考えたらこんな夢を見た理由はすぐに分かる。
坂出の家は僕が受験生時代に過ごしたところだ。それなりに受験のプレッシャーはあったし。しかも昨日は、岡山の出版社と本の執筆に関して打ち合わせをした直後だった。どんな本にするのか設計図を書いて皆さんのアプルーバルはもらった。解答は分かっているのだ。しかし、その解答をどんな用紙に書けばいいのかはまだ分からない。
とりあえず書いてみるしかないのだ。
その本の主人公は現場至上主義者たちだ。したがって原稿も書いてみないと分からない。書くという現場の中で解答用紙を見つけるしかない。
書くという行為は僕にとって楽しいことだ。楽しいことは正しいことだ。だが、それはまったくもって楽なことではない。
2012年12月21日


こんなことばかりを書いていると吉備人出版の皆さんが「こいつほんまに書けるんかいな」と心配されるかもしれないな。

ならば「よくできたノンフィクション」とはなにか、という指針だけは明解にしておこう。



2012年第十回開高健ノンフィクション賞受賞作「エンジェルフライト国際霊柩送還士」
(佐々涼子/集英社)

これは泣けるノンフィクションだ。国際霊柩送還というコンテンツも泣けるし文体も泣ける。

国際霊柩送還という一見グローバルな命題を書き記すつもりでいて、そこに見えてきてしまうのはごくパーソナルな悲しみだった。 
たとえ大きな事件、事故の犠牲者であっても、帰ってくる時は、たったひとりの息子だったり、娘だったりするものだ。
山科の教えてくれた言葉にこんな一節がある。 
親を失うと過去を失う。
配偶者を失うと現在を失う。
子を失うと未来を失う。 
(P141)

そしてすぐれたノンフィクションならば、現実がその本を追いかけることもある。
アルジェリアで犠牲になった皆さんもきっと、この本の主人公たちによって国際霊柩送還されたのだと思う。

彼らはこれまでもずっと遺体を搬送し続けていた。
報道されるような大きな事件、事故には必ず彼らの働きがある。
災害時にも、紛争時にも、彼らは海外で亡くなった邦人とその遺族を助けてきた。 
カメラの前を何度も通っているはずなのに、誰も彼らに気を留める者はいない。
なぜなら死を扱う仕事だからだ。 
社会を本当に支えているのは誰か教えよう。海外で家族を亡くして悲嘆に暮れている時に、誰が力になってくれるかを教えよう。それは彼らのような人々だ。
そっと人々に寄り添い、そっと人々の前から消えていく、いつも忘れ去られる人々だ。 
(P270)

アルジェリアからお帰りになったご遺体を羽田空港で迎える写真を撮った記者も、もしかしたら、国際霊柩送還士のことを読んでいたのかもしれない。この件では僕も深く哀悼の意を表したい。


本の主人公たちと現実との関わりを伝えて、少しでも世の中をいい方向へ動かしていくアシストをするのが「よくできたノンフィクション」だと思う。

もう一冊、時代の文脈から生まれた「よくできたノンフィクション」がある。

「復興の書店」(稲泉連/小学館)


すべての本を愛する人たちのために書かれたノンフィクションだ。
311直後に被災した本屋さんが何を感じどう行動したかの記録はずしんと腹の底に響いてくる。

仙台はもう被災地じゃない、とよく言われるけれど、一見きれいになったこの街にも傷跡はたくさん残っています。 
それに心の中ではまだまだ震災が続いている。 
本の力を借りて、言葉の力を借りて、 
そして私たち自身が元気でいれば、誰かの涙を乾かすことくらいならできるんじゃないかな、って。 
(P117)

時代の潮目には「よくできたノンフィクション」も求められているのだ、と思う。

そして、必ずしもよくできているとは限らないライターには、またプレッシャーがかかっている。
そんな時、やはり救いになるのは「半農半X研究所」塩見直紀さんからもらった言葉だ。
しかもこの言葉は1年前のお正月にいただいている。

才能というのは、
研いでいないナイフのようなものだ。 
毎日、ただ毎日書き続ければ、
そのナイフを研ぐことができる。 
人によってナイフの大きさは違う。
しかし研いでみないことには、
そのナイフがどんな形なのかわからない。 
小さくてよく切れる果物ナイフなのか。
巨大な岩もまっぷたつに切り裂く大ぶりの刀なのか。 
才能のある・ないというのは
このナイフのサイズのことだ。 
大きな刀なら歴史的な大作が書けるだろう。
でも小さなナイフでも、本を買ってくれる人を
一晩夢中にさせる程度の作品を書くには充分だ。 
だからナイフのサイズが問題じゃない。
それが本当にナイフか、
つまり「研がれているか」どうかが問題なのだ。 
だから大事なことは、ナイフを研ぐこと。
毎日書くことである。 
(「才能」について/作家スティーブン・キング)

この1年間、僕は曲がりなりにもナイフを研いできたような気はする。
たぶん、それは小さなナイフだろう。
「よくできたノンフィクション」の先達のような感動作が書けるはずもない。

書いてみなければ分からないのだが、とりあえずの目標は「本を買ってくれる人を一晩夢中にさせる程度の作品」だな。

それでも今の僕には充分に高い目標値ではある。

でも書くと言ってしまったら書くしかない。
それが上山棚田団と関わってしまったもののマナーだから。

ありがたいことに時には有能なアシスタントが来て、僕といっしょにかっちかっちとキーボードを叩いてくれるし。


棚田団本第二巻が出版される初秋には、「復興の書店」を巡って、僕たちの本を置いてください、と書店営業をしたいな。

そんな妄想を抱きつつ、どうやら今年最初の文脈研究レポートは締切に間に合ったようだ。


2013年1月17日木曜日

たまには昔の話を

たまには昔の話をしよう。
1月12日に上山さいぼう庵に着いた直後に携帯が鳴った。
発信者は昔の仕事仲間。嫌な予感がした。用件は予想どおり。
江馬民夫さんが亡くなった。

電通でCMをつくっていた時代にとてもお世話になった人だ。享年82歳。
骨太のドキュメンタリーカメラマンから敏腕プロデューサに変身した江馬さん。
戦後のCM界の生き字引だった江馬さん。
宝塚映画といっても、もう分かる人はいないだろうな。
エマ・クリエーティブ、エマクリの江馬さん。もちろんもうこの会社もない。

サンミュージックの江馬さんといえば、業界人には分かるはずだ。
今はなき赤坂ホテルニュージャパンのロビーでデビュー前の松田聖子に江馬さんといっしょに会ったことがある。
江馬さんはその後、聖子の後見人的立場を長い間、続けていた。
僕は江馬さんと組んで、何本か若き日の聖子のCMを制作した。

そんな思い出よりも、江馬さんと僕はとにかく気があった。
なぜだかはいまだによく分からないが。
僕が結婚したときはハワイまで来ておめでたムービーを撮影してくれた。

その仲のよさが極まったのがアフリカ・ケニアロケだった。
1981年。そのとき、僕は29歳、江馬さんは49歳。

とっくに自分でカメラを回すことを止めていた江馬さんが、このロケではカメラマンになった。2台の16ミリカメラを持って最小スタッフでケニア奥地のトルカナ湖まで入る。
16ミリカメラのうち、1台はアリフレックス。もう1台は写真家・西宮正明さんにお借りした手巻きのボレックスだった。もちろんビデオではない。銀塩フィルムの16ミリだ。
厳しいロケ環境でバッテリーが充電できないことも考えて手巻きのムービーカメラ、ボレックスも持って行くことにした。

トルカナ湖でのロケの朝。江馬さんは湖のほとりにある井戸で顔を洗い、その水を飲む。
江馬さん、その水はやばい、と僕は思う。それでもプロデューサからカメラマンの面構えになった江馬さんは気にしない。

トルカナ集落での食事シーン、彼らが巨大魚ナイルパーチを捕獲するシーンと撮影は続いていく。
僕はボレックスのネジをギリギリ巻いて江馬さんに手渡す。江馬さんはカメラを手持ちで回していく。
江馬さんの気合いが現場を圧倒していたロケだった。そのCMとプロモーションムービーは僕の宝物だ。

トルカナ湖からナイロビまで、行きはヘリで飛んだ行程を帰りはクッションの悪い4駆で道なき道を行く。
僕と江馬さんにはある思惑があった。
クライアントからリクエストされた映像だけでなくアフリカ難民のドキュメンタリーを撮影しよう。
飢えて石を握りしめる人々の動きを追えるだけ追っていこう。
これはかなり無謀な話だった。遭遇するアフリカ難民のきつい視線と対峙してカメラを回し続ける江馬さん。
その日はついに宿がみつからなかった。たまたまたどりついた赤十字の施設に潜りこむ。
食料もない。荷物の中に残っていた撮影商品を食べてしまう。このロケは凄かった。

その後、僕が49歳になって、その時、少ししょぼくれていた自分と江馬さんを比較してみる。
49歳にしてケニアの地でカメラを回した江馬さんを思い出し自分を叱咤激励した。

江馬さんとはその後も長いつきあいが続く。忙しいCM撮影の合間に江馬さんはよく僕に言っていた。
「田中ちゃん、アフリカの16ミリはそのままエマクリにおいてあるんや。いつか編集しよな」

それが、僕の方の環境の変化で江馬さんと仕事をすることは次第に少なくなっていった。
「田中ちゃん、エマクリもう閉めようと思って倉庫を整理したけど、アフリカの16ミリ、どっかにいったみたいや。ごめんな」

江馬さん、そんなことはどうでもいいのです。
仕事が遠のいてもあなたは時々、僕のデスクに電話をかけてきてくれた。
電話を取った僕の部下は「いつもの変なおっさん」という感じで受話器を渡す。
僕は長話をした。

電通を脱藩してからもあなたは時々、電話をくれた。
「江馬でえす。田中ちゃん、どうしてるの。たまには電話ちょうだいよ。東京には来ないんか?」
僕は広告業界とは別の世界に行ってしまい、江馬さんにこちらから電話することもほとんどなくなった。

江馬さん、電話しなくてごめんな。
あなたといっしょにたくさんの仲間を見送ってきたとき、僕はいつも言っていたはずですよ。
「最後に全員を見送るのが江馬さんの役目やな。江馬さんはそう簡単にはくたばるはずないから」

江馬さん、僕はあなたを見送りに1月20日、五反田に行きます。
何度も何度も、深夜いっしょに通ったイマジカのすぐそばで見送ります。
江馬さんにはイマジカではなくて東洋現像所と言った方がよく似合いますね。

さようなら。合掌。