2016年12月28日水曜日

国つ神と半農半X・安来篇

〈眞知子の世界〉をのぞきにいく


年の初めに奥出雲のことを書いた。年の終わりには安来(やすぎ)のことを書こう。
島根県は東西に長い。東の端の安来と西の端の吉賀町とは直線距離で170キロある。
安来は奥出雲の北東35キロだ。

2016年、文脈家の行動範囲は狭かったのか?そんなことはないが、それはまた別の話だ。
西の方はとっくに調べがついている。あとは情報を再整理するだけだ。

遅れに遅れている『国つ神と半農半X』原稿を仕上げるために、僕は(ぼろぼろになった)島根県の地図を眺めていた。『出雲國まこも風土記』の初稿を上げたお盆の頃。
本として完成させるときには、場所で章立てをしようと思っているからだ。

どうも東の端に気になる地名がある。安来だった。米子道から山陰道に乗り継いで松江までという通い慣れたルートの途中にある。野津旅館に通うようになった初期は9号線で安来を通っていた。

安来の足立美術館は観光バスの定番コースだ。そして安来節。これはドジョウすくいの仕草であるが、砂鉄を拾い上げる動作を現したものだ、という説もある。奥出雲から連なるたたら製鉄の流れの最下流が安来である。
といっても、僕は半農半X研究所の主任研究員だ。たたらの話はサブストーリーである。

安来にも半農半X的生き型をしている人がいた。結局は人だ。
2016年8月26日、文脈家は西村眞知子さんに会いにいく。

眞知子さんが気になっていた。不思議な文体で綴られる「眞知子のブログ」。
その8月14日の投稿に映画『つ・む・ぐ~織人は風の道をゆく』のことが書いてある。

自らが主催した上映会終了後の挨拶で眞知子は泣いた。はじめて人前で。二十年前に亡くなった「お父ちゃん」のことを思いだして。扉が開いて奥の方にいたものが出てきた。

『つ・む・ぐ』なら僕も松江で見たことがある。
松江出身の吉岡敏朗監督が綾なす縁を織り上げた映画だ。そこには末期癌の終末医療をしている医師も登場する。
確かに素晴らしい映画である。でも「奥の方にいたもの」って何だろう?


「NPO法人眞知子農園」の設立趣旨書にはこうある。
年齢や性別、地域を越えて、同世代並びに世代を越えた人たちとのコミュニケーションの場並びに学習の場を提供するとともに、社会に出にくい子どもや大人に対し、農業を通じて自らが社会で生きる上で必要な力を備え、積極的に社会へ参加していけるための支援の場として活動する事に取り組みます。
このような活動を継続していくにあたっては、より多くの人に活動を理解頂くとともに、活動に参加して頂かなくてはなりません。そのためには、公正かつ透明性の高い運用を行い、社会的な信用を得て活動していく必要があり、法人化は急務であると考えます。
しかし、この会は事業目的も営利を目的とはしていないので会社法人の形式は似つかわしくありません。よって、特定非営利活動法人の設立が望ましいと考えています。皆様のご理解と、幅広いご参加、ご支援をお願い致します。
これだけを読めば、日本中にたくさんあるNPO法人のひとつにしか見えない。学習の場としての映画上映会では『地球交響曲』が奏でられている。

だが、「眞知子の世界」の奥は深かった。
その世界は生死の境も超えていたように思える。


その人は草を刈っていた。でーんと構えた身体に刈り払い機を持っている。
暑い日。真新しい看板には「なかうみ産海藻肥料使用農場」とある。

はじめまして、とお互いに挨拶する。でも実はすれ違っていた。
2016年6月1日の出雲大社。「まこも講演会&シンポジウム」の集合写真には眞知子さんも写っている。まこもの地下茎はここでも縁脈を繋いでいた。


七反七畝の農場では様々な人が働いていた。僕は写真を撮ったあと鎌を持つ。ほんの少し、草刈りのお手伝いをする。

ここでは身体を動かさずに昼飯を食べることはできない。話を聞くことができない。そのことは直感的に分かった。


風鈴の音とともに


眞知子さんは「NPO法人眞知子農園」の看板が上がったのを喜んでいた。
2015年10月13日、特定非営利活動法人設立。原邸という古民家をベースにしている。

まずは、首タオルをはずした眞知子さんを撮る。


ランチタイムになっても、眞知子さんの女友達、丸山さんは帰ってこない。鎌を持つと止まらない性格らしい。
でも慌てることはない。僕と眞知子さんと丸さんは、それから4時間話すことになるのだから。


今年の夏もゲリラ豪雨が激しかった。安来でも警報が鳴る。
天から激しいものが落ちてくるからこそ、眞知子さんは話しつづけたのかもしれない。

ときどき、風鈴がちりんちりんちりんと相づちをうつ。
聞こえてくるおんぼらとした出雲弁がここちよい。僕の耳は山の神三姉妹のそれに慣らされている。


山の神系のおばはんの話はワープ(跳躍)が多い。が、そんなことは気にならない。僕の仕事は文脈をつなぐことだ。

「なんであんたにそぎゃんことがわかるだあか?」
眞知子さんにそう言われるかもしれない。それでも僕は、この女性の「愛」「命」「縁」のダイアローグ(対話)を書きとめたい。

そうなのだ。おかあちゃんはいつも誰かと対話している感じがする。その相手はおとうちゃんとおとうちゃんに愛された自分が多いような気がしてきた。


話は中海(なかうみ)の環境問題から始まった。安来の国つ神は宍道湖ではなく中海に面している。

「一番、最初はゴミ拾い。捨てない大人をつくるには子供から育てないと。ゴミを捨てるような大人になってほしくない」
眞知子さんは〈ちゃーんとしたオトナ〉をいつも頭に描いている。

生活排水の流れこむ中海で「うまい赤貝が食いたい」という思いから動き始めた眞知子さんは「てんつくまん」と出会う。

2006年と翌年のモンゴル植林ツアー、そして2009年の南アフリカ共和国植林ツアー。
そこでは一緒に木を植えた子供たちに「だんだんねー」(thank you)という出雲弁を教えたという。そのやりとりが目に見えるような旅の話。

続けて、おとうちゃんと行ったアメリカの東西海岸とカナダの旅につながる。

眞知子さんの話は過去と現在と未来が混ざってひとつになり、おおらかにひろがっていく。それでも一周巡って、おとうちゃんに帰ってくる。

おとうちゃん、西村勝憲さんは1996年2月29日に帰天された。享年54歳。
四年に一度しかない命日。

2016年も閏年だ。20年目に僕は眞知子さんと勝憲さんの「夢と絆」をすっかり聞いてしまったわけだ。ご夫婦と寄りそっていた丸さんもはじめて耳にする話だったという。


眞知子さんの出雲弁は同じ言葉を繰り返していくことが多い。風でうたう鈴のようにリフレイン(反復)していく音感が心地良い。

そこに異質な単語が混じる。「結局、アスベストだった」。
アスベスト! それなら僕も詳しい。

アスベスト(石綿)は残酷な物質である。僕の友人の父上が同じく1996年に帰天された。
尼崎の街にクボタがまき散らしたアスベストが長い潜伏期間を経て中皮腫を発症させたからである。
僕は「尼崎クボタアスベスト」訴訟の応援団をやっていた。
以下、田中文脈研究所:「高度成長を観察する」より引用する。
アスベストの真実。
石綿は熱や火に強く、腐食しにくく、加工もしやすい。そして安価であった。
石綿は極めて微細な天然鉱物である。微細ゆえに風に乗って飛んでいき体内に取り込まれやすい。いったん取り込まれると劣化せず半永久的に体内にとどまる。
体内にとどまった石綿は、絶え間なく細胞を刺激し続け、やがて中皮腫、肺がん、石綿肺などの石綿疾患を発症させ、死に至らせる。
その潜伏期間は20年から50年。

眞知子と勝憲の30年


眞知子さんは1946年7月に安来の農家で生まれた。父上は百姓一本で家族を支えた。
娘は中学卒業後に和歌山の紡績工場に勤める。高度成長が始まった翌年、1961年には15歳にしてもう働いていた。

1965年、大阪で造船関係の仕事をしていた西村勝憲さんと出会い19歳で結婚。東京オリンピックの翌年である。
アスベストはこの頃から勝憲さんの肺に突き刺さっていたのかもしれない。
勝憲さんは1942年2月11日、山口県生まれ。

1966年、長男誕生。やがて次男誕生。
横浜に転勤。会社を辞めて「船の電気屋」として自営を始める。資金繰りに行き詰まり倒産。

1972年安来に帰る。30歳の勝憲さんが島根に行って一からやり直したい、と言い出す。島根なら俺がんばる、とのことだった。眞知子さんにとってはUターン。
勝憲さんは「陸の電気屋」となる。家の建築と内装に関わる。この頃の建築基準法では住宅の不燃材料としてアスベストが認定されていた。

1991年、癌が発見された。初孫ができた眞知子さんは保育園を辞める。その退職金を自由に使っていいよ、と勝憲さんに言われて行ったのがアメリカとカナダの旅だった。

「おとうちゃんはかっこよく生きてかっこよく死んだ」と眞知子さんは繰り返す。

野鳥とアマチュア無線とパチンコとバレーボールが大好きで、器用で陽気でなんでもできた勝憲さん。
ママさんバレーで付き合いのあった丸さんをはじめとして、他の女性にも優しかったらしい。
「にくめん人だった。可愛い人。眞知子さんとは早いこと別れることになっちょったけん、密度が濃かった」と丸さんはいう。他の奥さんの誕生日にも花を贈っていたそうだ。

「やさしいだわね、おんなには。ええかっこしいだし。ほんで、わたしにはマチコー、くそばばあ!って怒鳴っておいて」
勝憲さんを語るとき、女友達ふたりは腹の底から笑う。

僕は生きている勝憲さんに会いたくなった。今となってはどげしゃもならないが。

1995年11月1日、再度の入院。
その夜、夫は妻に言う。
「おかあちゃん、ありがとう。ありがとういわずに自分はいくのはできん。したいことはみんなした」
「したわよねー」と妻が笑う。
「最高の女房だったよ」

それから翌年2月29日までの4カ月にわたる闘病生活は壮絶なものだった。

アスベストによる死のつらさは、僕も友人から聞いている。
逝く人に対して「もういいから、がんばらなくていいから」としか言えなくなるそうだ。

眞知子さんは、僕と丸さんにすべてを語ってくれた。
死の18日前、2月11日。勝憲さんの54歳の誕生日。「骨と皮になった」おじいちゃんは三人の孫からお祝いをされた。
その後、勝憲さんは安楽死を望む。眞知子さんは医師に聞く。答えは「医師免許もっちょーだけん」。

旅立つ前の夜、眞知子さんは勝憲さんと添い寝した。
昔話をする。楽しかった話だけをする勝憲さん。
「あーだったね、こーだったね、相づちをうってるうちに、これ以上、がんばれ、とも言えん、とわたしが言ってしまったけん」
眞知子さんは策略に乗せられたと言う。

勝憲さんの「ほんなら行ってくる」が始まった。
「わたしはどーするの?」と妻が問う。「そしたら、どげいったと思う?」
「おかあちゃんはね、みーんながみてごしなあけん。おかあちゃんはみんながみてごしなあけん」。夫は最期の言葉を二回繰り返したそうだ。

54歳は早すぎる。現在70歳の眞知子さんは49歳で大きなものを失った。
強いこというけど、すごいさびしがりやの夫婦は、こうして別れた。

「なんとかする、なんとかするって。だいじょうぶ、なんとかするわー、ありがとーねって言いながら送ってしまったものだから、なんとかするしかない。わたし、するっていっちゃったもん。わたし、するっていったもんな」

「だけんね、なんか目に見えないものにずっとひっぱられちょう。流れるしかないです。流れちょうね、眞知子さん」
おかあちゃんは自分との対話をその後20年間続けているように思える。


てごされたら、てごする


てごする、という出雲弁がある。手伝うという意味だ。
てごしたらてごがかえってくるだあね。
「恩送り」、「ペイ・フォワード」、だんだんねーにだんだんを返すこと。

てごしたら、眞知子さんは家をもらった。現在、NPO法人のベースになっている古民家である。
原さんという老夫婦が住んでいた。眞知子さんの父上の友人だったという。


1996年3月2日は雪だった。勝憲さんの葬儀の日。
その人を慕う大勢の人がやってくる。葬儀場は十分な準備ができていなかった。

眞知子さんは緊張で能面のような顔をしていたそうだ。丸さんは言う。
「なに挨拶しちょうかきこえんだった。眞知子さんは開きなおっちょーと思った」
この二人は二十年前の葬儀を昨日のことのように話す。

近所の原さんは、早朝、耕耘機にハデ木を乗せてやってきた。新しいシートも乗っていた。葬儀場のふきっさらしの駐車場に受付を組み立ててくれた。雪がふっちょった、ちらちら。

「おじさん、おばさん、だんだんねー」
そのとき、眞知子さんはこの夫婦を最期まで面倒みよ、と胸の奥にはっきりと入れたそうだ。

その流れに乗って、原のおじさんが脳梗塞で亡くなったときにてごした。
2009年におばさんが心臓をわずらっているのにひとり暮らしをしていたときには、親戚でもないのに、勝手に救急車を呼んで入院させた。南アフリカ植林ツアーに行く直前のこと。

そぎゃんことは民生委員がすること、との声もあった。
「なんがー、わたしは世話になったけん、かえしちょうだけだわね。できーとこまではわたしがみーが」
ぽーんと眞知子さんが言うが、おばさんの最期にはてごできることもなくなった。

原邸は草ぼうぼうになった。


眞知子さんの人生になにかの転機が訪れたときには、おとうちゃんの声が聞こえるという。
勝憲さんの形は見えないけど、声は聞こえる。20年間、ずっとそうだという。

見えないものが見える人が眞知子さんのところに来たことがある。
「ここらへんにいつもいる。眞知子さんが動くたびに楽しそーによろこんじょーなーよ。いつもここにおらーがな」

「いまだー、いまだー、いまやれ、いけー、マチコ!」
お父ちゃんの声が降ってきたとき、マチコは決断する。


誰も住まなくなった原邸をもらってくれ、と言われた。
「わーっ、きたー!どーしよーどーしよーどーしよー?」ってすごく焦る。

それで、世話になっているお坊さんにも相談する。
「ご縁でしょうね、と一言いいなった」
もやもやがすとーんと胸のうちに入った眞知子さんは、2010年に家をもらった。

「ご縁の国」出雲。その東の端では縁で家が手に入る。
こう書いて、うらやましい、いいな、と思う人は少し甘い。
坂出と小豆島に空き家を2軒持っている僕には、家を引き継ぐ苦労がよく分かっている。


ちゃーんとしたオトナ


原邸をもらった眞知子さんは考える。
この家は子供たちを〈ちゃーんとしたオトナ〉にするために使おう。
相続の苦労をかけないよう、NPO法人をつくろう。

話は1996年までさかのぼる。
二十年前、勝憲さんの葬儀の一カ月後に当時5歳で、おじいちゃんが大好きだった孫と約束したことがある。

「おばあちゃんが死んだら、あんたが火葬のスイッチをおしなあよ。だけん、それまでにちゃーんとしたオトナになるだあね」

自分で言った〈ちゃーんとしたオトナ〉という言葉が自分の中にがーんと入ってきた眞知子さんは考え続ける。

眞知子さんは70歳にして、ちょんぼしオトナになった、と丸さんは言う。
お役所がうまく使えるようになったらしい。
そんな実用的なオトナになるより前に眞知子さんにはやることがあった。

さびしさを乗り越えること。
それもまた、オトナになるために必要な階段だったのだろう、と僕は思う。

勝憲さんは犬も大好きだったらしい。自分の死期を設定して、残される妻のためにブリーダーの施設を整えていた。ゴールデン・レトリバー、ラブラドール・レトリバー……。
ムツゴロウさんみたいに犬と暮らしたらさびしくないだろう、という気遣いだったらしい。

でも、犬小屋はわたしの「泣き場」だったと眞知子さんは言う。孫と犬、両方の世話に明け暮れる日々。

そんなとき、ラジオから〈五行歌〉が流れてきた。
今のなんだった? 山陰放送に電話する。
眞知子さんは歌と出会った。言葉の息づかいを大切にして五行で書く歌と。
新々・五行歌五則(平成20年9月制定) 
一、五行歌は、和歌と古代歌謡に基いて新たに創られた新形式の短詩である。
一、作品は五行からなる。例外として、四行、六行のものも稀に認める。
一、一行は一句を意味する。改行は言葉の区切り、または息の区切りで行う。
一、字数に制約は設けないが、作品に詩歌らしい感じをもたせること。
一、内容などには制約をもうけない。 
『すぐ書ける五行歌』(草壁焔太/市井社)
「気持ちのまま、いつも使っている言葉で」歌う自由な形式は眞知子さんのさびしさを開放していく。
仏壇に向かって五行歌を始めてつくった。
あなたの笑顔が
好きだから
あなたの笑顔が
見たいから
このままでいい
そして迎えた誕生日にも五行歌をうたう。
ピアスや花は
いらない
そっと抱いてくれる
あなたがほしい
わたしの誕生日
五行歌の縁で、彫刻家の佐藤信光さんと出会った。原邸の上がり口には木彫りの母子像がある。母の顔が眞知子さんに似ている、と思うのは僕だけであろうか。


時は流れて2003年、おとうちゃんの七回忌。
「それが過ぎたら、犬をもらってもらえると思った。もういいぞ、という感じ」
眞知子さんはブリーダーの施設と犬たちを譲る。

〈ちゃーんとしたオトナ〉作戦は新展開をした。

犬小屋から畑へ。そして眞知子さんは環境問題に取り組みはじめる。
ようやく、『国つ神と半農半X』の取材らしくなってきた。
話はじめて3時間以上たっていた。

〈ちゃーんとしたオトナ」はゴミを捨てない。川を汚さない。海を大切にする。
農薬、除草剤、化学肥料、そんな余計なものを土にいれない。微生物も人参も大根もすべての生命に感謝する。地球(ガイア)のことを想う。

2010年、新しい「遊び場」をもらった眞知子さんは、NPO法人眞知子農園に向かって走り始めた。

タマゴ大作戦


眞知子はダラだがあ、と両親に言われ続けてきたそうだ。娘は「このダラはあんたたちの子だよー」と言って父と母を指さす。

ダラとは出雲弁で馬鹿のこと。僕にとってはおなじみの「変人へそ曲がり」のニュアンスもあるように思える。

ダラは調子にのったら止まらない。
2015年、NPOが立ち上がったら「わたしだけのわたしではなくなっちゃった」。
やがて灰になる土になる
命のすべてが愛しいのです
人生にも
おまけがあることを知ったの
楽しまなくちゃ。
眞知子さんの現在は、「おまけ」というには、あまりに忙しい。
それでも、点滴を打ちながらでも「楽しまなくちゃ」と考えるのが、この人の本性である。

「今日も1日、楽しくあそびまーす!」とおとうちゃんに言って、眞知子さんは動き始める。
おっと、その前に〈六方拝〉もしなければ。
東西南北に天と地を加えて、ありがとうございます!


足元の
花の蕾にも
気づかず
わたしの心は
遠くの花畑

「遠くの花畑」とはカンボジアのことだった、と眞知子さんは言う。
地球を見渡して、外国の子供たちの支援をしてきたが、現在は「足元」を見る方向に転じた。

安来にも松江にも救いを求めている子供たちはたくさんいる。不登校児や知的障害がある子供たちと農作業をして収穫を持ち寄り、一緒に料理をして食べる。そのようにして、子供たちが自分の志を取り戻すこともある。

自分の孫に「ちゃーんとしたオトナになれ」と言った眞知子さんは、他人の孫にも同じ事を言い始めた。

他人の孫、タマゴである。タマゴ大作戦!
眞知子さんと丸さんのイメージはこうだ。

先頭は眞知子さん。麦わら帽子に首タオル、前掛けをして旗を持っている。旗には堂々、タマゴ大作戦のロゴマーク(まだできていないけど)。
その後にエゴエゴと続く自分の孫と他人の孫。眞知子さんのタマゴはアヒルのイメージらしい。
丸さんが「自分もいれてごせ」と行進に加わる。最後尾、落ちこぼれる子がいないように見張る役。エゴエゴガーガー、ジマゴとタマゴは鳴きたいように鳴き、歩きたいように歩く。
誰の子供も置いてきぼりにはしない!

「アジール」(Asyl)という言葉がある。避難所、聖域。
それはマイナスを背負った人がプラスに変わるための場所だと僕は思う。
眞知子さんに小難しい言葉は似合わない。しかし、現在を語りながら、どんどん綺麗な顔になっていくおかあちゃんを見ているうちに、「ここはアジールなんだ」という思いが文脈家の中で膨らんできた。

アヒルたちはアジールに逃げ込む。おかあちゃんアヒルがそこにいる。
育っていく。やがて羽ばたくこともある。アヒルにだって羽根はあるのだ。
いや、無理に飛ばなくてもいい。その足を地にしっかりとつけて前に進んでいけばいい。


島根県は「半農半X」と同じように「農福連携」施策も充実している。

農業と福祉の連携。
働く場としての農業と、働き手としての障がい者をつなぐこと。そこから多様性に富んだ地域コミュニティを生み出し、日本の食、経済、暮らしを元気にしていくこと。

眞知子農園で働く子供たちは「使命多様性」を持っているようだ。

ある男子は包丁で上手に野菜を切ることができた。
料理人の道もある、と眞知子さんが未来を語る。おかあちゃんの次男は松江で「そら」という中華料理店を開いている。
いくらでも紹介するけど、義務教育だけはちゃんとやりなーよ、と言うと学校に行きだしたそうだ。

別の男子は、畑で石灰とボカシを混ぜる。農作業に自信ができてきた。自分の畑を持ちたい、と言いだした。

女子もいる。普通の家庭の生活を眞知子さんに習う。自分にできるペースで。無理じいはしない。

みんな、眞知子さんの笑顔が大好き。眞知子さんが点滴を打つと心配する。
眞知子さんの言いつけにしたがって大きな声で挨拶ができるようになった。

子供を預けるなら親も先生も畑に来い、取材したかったら作業を手伝え!
眞知子さんは、理不尽なことをされると怒る。

ああ、よかった。鎌を持って草刈りを手伝って……。僕はほっとした。


眞知子の半農半X


眞知子さんの父親は農業だけだった。母親は40歳を過ぎてから運転免許をとって勤め人になったそうだ。それは専業農家なのか兼業農家なのか? どっちでもいい。

専業農家だって、世の中のために何かしたいという志、すなわちXをもっていたら「半農半Xという生き方」である。

半農半X研究所の主任研究員が偉そうなことを言うまでもなく、眞知子さんは、その本質を理解していた。

塩見直紀のことは知らないが、2003年に上梓された『半農半Xという生き方』とはどこかで接していたらしい。眞知子さんが環境問題に目覚めた頃である。

「わたし本読む人じゃないけど、農業だけじゃだめだ、というのがすごく頭に残って。農業だけでは人生おくれない」と語った眞知子さんはすぐに続けた。
「世のため人のためお役に立つ人間になります。お導きくださいますよう一心にお願い申し上げます」
そう唱えながら、四国巡礼に二回行ったこともあるそうだ。

世のため人のため役に立つ。これって究極にして普遍的なエックスですよね、塩見直紀さん。

一方、眞知子さんの半農生活はガイア(地球)を汚さないという大目標で動いている。そのために、EM菌(有用微生物群)を活用しているそうだ。

眞知子農園の有機肥料はすぐそばで生み出されたものを使った独自のものだ。
看板を上げたばかりの「なかうみ産海藻肥料」も入っている。はるか昔から、この地域で作物を育てるのに使われていたミネラル分が豊富な海藻が原料である。


米糠をベースにして、その海藻、EM活性液、油粕、鶏糞、籾殻、広島産牡蠣の有機石灰、安来市内の「砂流(すながれ)牧場」の牛糞、近所にある「ポニーの森」の堆肥などを混ぜ合わせる。
眞知子さんの経験値がオリジナルブレンド肥料をつくった。

僕が訪問した8月26日、眞知子農園は秋冬作の準備中。
堆肥の真ん中には籾殻が置かれて素敵な模様を描いていた。


あそこに播かれた野菜たちは、今頃、映画上映会やライブで農園に集まる客人たちの胃袋を満足させていることだろう。
眞知子自慢の「人参の味がする人参」を味わったら、他の人参が食べられなくなってしまうのでは? と余計な心配までしてしまいそうだ。

半農半天衣無縫


眞知子さんはどこか遠いところから湧き出てくる志を「縁(えにし)の場」で言葉にして伝える技を持っているようだ。

僕は何の技も持っていない。ただし、引き寄せる、あるいは引き寄せられる力はついてきた。
『国つ神と半農半X』の取材を続けるうちに。様々な田んぼと畑と自然の中で祀られたものを見続けるうちに。

この日、眞知子さんは僕に心を開いてくれたようだ。

長い話の最後に「で、田中さんは何を取材しに来たの?」と聞く。
「『つ・む・ぐ』を見て、眞知子さんがどうして泣いたのか知りたかった」と答えた。

僕の方からその質問をする前に、眞知子さんはおとうちゃんのことをしゃべってくれた。
聞きたかったのだが、聞きにくいと思っていたことを。

「おとうちゃん、しゃべっちゃった!」と眞知子さんは天を仰ぐ。


生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和

これは五行歌ではない。吉野弘の「生命は」という詩の一節である。
この詩を引用しながら、「半農半Xと別のことばでいえば関係性である」と塩見直紀は言った。

Xはクロスであり関係性である。半農半Xは自分と他者の関係性を回復していく生き方、自然(じねん)なものを関係づけていく生き方。

眞知子農園で僕は不思議なものを見た。水槽に浮かぶ生命が関係性を結んだ姿。
生命の背中に生命が乗っている。


あなたの背中
いっぱいいっぱい
見たの
わたしは
どんな背中を
眞知子さんの五行歌を聞く前に見た生命の姿を見ながら僕は思う。
おかあちゃんの背中は広すぎる……。

おかあちゃんはおとうちゃんに後ろからハグされている。強く永遠に。

西村眞知子は「半農半天衣無縫」である。
自然のままに美しく完成している。



2016年11月9日水曜日

宮古島で電通の夢を見た

まず夢である。
10月30日、宮古島5泊6日の旅から帰ってきた夜、すばやく寝た僕はまた夢を見る。
今回の旅も楽しかった。出会いがあり発見があった。でも見た夢は悪夢に近い。何度かフェイスブックにアップしている電通時代の「間に合わない」夢シリーズだった。

宮古島と電通系悪夢の文脈レポートを書いて、言葉を外にださないと、また悪夢を見そうだ。
書いて、頭に滞留しているものを腹におさめてしまおう。
人は言葉で語って初めて、体験を腹におさめます。書くことで自分と距離を取ってこそ、感情の激しい波の下に潜り込み、底に潜んでいる本質を見つめられます。
(『本の未来』富田倫生/青空文庫)
帰ってきた日に見たのは、こんな夢。

ある外資系クライアントのCM撮影をしている。なんだか難しそうな商品撮影だ。プロダクションではなく、優秀なCR(クリエーティブ)局員のSがあれこれとディレクションをしている。でもうまくいかない。すでに午前2時。この撮影がいつ終わるのかは分からない。立ち会っているクライアントは、こんな時間なのに他の代理店と電話をしている。どうやら別件のゲラチェックをしているらしい。(註:ゲラとはCMに入れるスーパーのレイアウトをした紙のこと。僕の夢は古い時代のCM制作が多い)。
そして大きな声で見積の話をしている。そしてなぜか僕にその見積の整合性をたずねた。「他の代理店の仕事なんて知らねえよ」(ここは東京弁が似合いそう)、と思いつつも僕は誠実そうに整合性があるようにお答えする。
そこに通りかかったのが、大先輩のOさんだ。なぜかそのまま撮影に立ち会ってしまう。クライアントがOさんにあれこれ声をかけたので、帰れなくなってしまったのだ。
早く帰ればいいのに、不器用な人だ、と僕は思う。
夜は更けていく。撮影はうまくいかない。クライアントたち(なぜか何人も立ち会っている)は中断して打ち合わせをしようと言う。どこかで珈琲でも飲みながら。でも、深夜3時の北新地(なぜか)で、そんな場所があるはずもない。でもクライアントはあてがあるという。ついた場所はカラオケボックス。でも満室である。クライアントは待つ。露骨に先客にプレッシャーをかけながら。やがて寝ぼけまなこの先客が出てくる。ようやくカラオケボックスに入れる。僕はトイレに行きたくてしかたがない。トイレ、トイレ、トイレ……。そこで目が覚める。

宮古島にいたときはこんな夢を見た。

あるCMのMAをしている。これも古い時代のCM制作の夢だ。MAとはMaster Audio のこと。さらに昔はダビングと言っていた。映像を編集したあと、音楽、ナレーション、SEなどを録音スタジオでミックスして音声を完成させること。CM制作の最終工程。
そのMAをするために、僕は年老いた男性ナレータの手を引いている。なぜか階段を降りながら。苦労しながらそのナレーターの声を録る。MA自体はうまくいったようなのだが、クライアント試写用のテープをつくるときに何らかのトラブルがあったようだ。
僕はVHSではなく、¾インチのテープに変えて試写したいと主張している。それでも何かトラブっている。起きてすぐに書きとめなかった夢なので、さすがにディテールは忘れた。
(註:VHSももう死語か。家庭用ビデオ再生機で使用された½インチ幅のカセットテープ。¾は当時の業務用テープ。大きな再生機が必要だった)

いずれも電通時代の、しかも初期の頃の夢である。
なぜ、宮古島まで行って、こんな夢を見るのか。どうやらこの頃、僕は電通に引き寄せられているらしい。


宮古島に行ったのは自分の意志ではない。
ここのところ、長男一家は宮古島にハマっています。もれなくあんちとりゅうちもついてくるわけで。そこに山の神が着いて行くと言い、宿六(役に立たない亭主のこと)もお供しました。そういうことで名残りの夏休みであります。
2016.10.26 田中文夫on facebook
宮古島行きが決まった頃に、そのことをフェイスブックに投稿したら、反応してくれた女性がいた。ずっと江馬民夫さんに寄りそっていたYさんである。秘書のような存在だった彼女は「エマじいは宮古島が大好きだった」と僕に教えてくれる。特に神事や祭祀に興味を持っていて『スケッチ・オブ・ミャーク』という映画を真っ先に見にいったという。

江馬民夫さん、2013年1月12日帰天。享年82歳。

電通時代の僕が一番お世話になったキャメラマンでありプロデューサだった。
だが、長い付き合いのなかで、江馬さんと宮古島の話をしたことはなかった。
それはそうだろう。僕自身は宮古島に興味がなかったのだから。

この島の文脈を調べたのは今回の旅の直前だった。息子まかせの旅をするとき、僕はあまりガイドブックを読まない。一夜漬けで情報をとったとき、「大神島」という言葉をキャッチする。ここだけは積極的に行きたい、と思う。
そして、Yさんが薦めてくれた那覇の出版社、ボーダーインクの『読めば宮古!』を手に入れた。


宮古島には関西電通CR局の後輩が会社を辞めて帰郷していることもフェイスブックで知っていた。
でも、これは息子の背中を追いかける旅だ。彼のプランにしたがい、姉と弟、ふたりの孫とできるだけ行動を共にすることに決める。後輩に連絡は取らなかった。

かくして僕はじじばか全開で島を旅する。
琉球泡盛の多良川酒蔵で弟が成人したときにいっしょに飲むための洞窟貯蔵酒までキープする。17年後に呑むための酒である。そのとき、僕は81歳。江馬さんが亡くなった歳に近づく。


旅の最終日、息子一家とは別行動で大神島に向かう。山の神もついてきた。

ずっと晴れていた空がこの日は風を吹かす。時折、雨も混じる。サトウキビ畑がざわわと揺れている。
それにしても宮古島の畑は一島総砂糖黍になっている。沖縄製糖がすぐに換金してくれるからだろう。ヨソモノが口出しすることではないが、半農半X研究所、主任研究員としては少々、物足りない風景である。

強風の中、島尻漁港に着く。フェリーを待つ。10月29日は、大神島の神事があるそうで、山の七合目までしか行けないと聞いていた。ところが、待合室にいた島人の話によれば、神事は明日で今日は「遠見台」まで登れるという。

海を渡る。風の割りには揺れない。波が立たない航路を知り尽くしているようだ。
大神島は「おおがみじま」。奈良の大神神社は「おおみわじんじゃ」。後者は山全体がご神体として知られる神社だ。であるなら大神島は島全体が御神体なのだろう。


島で唯一の食堂、おぷゆう食堂の下地さんにガイドをお願いする。なにしろ立ち入ってはいけない聖域があるのだから。
神事は明日、今日の夕方からは、おばあが山籠もりの準備をするので遠見台を登ることはできないが、午前中なら大丈夫とのこと。
神域といわれる場所に来ると僕は興奮する。どうやら山の神も同じ気持ちのようだ。


海抜74.5メートルの遠見台に登る。途中に神の岩と樹がある。


海を見下ろす。
間違いない、江馬さんはここに来た。僕には何の霊感もないが、それは分かった。


僕の「大神島に渡る」投稿を見たYさんがリアルタイムに写真を送ってくれた。
陰の中にエマじいの首から上が写っている。不思議な写真だ。
小さな船「シマヌかりゆし」で江馬さんも僕も島に渡った。
懐かしくて寂しい。江馬さんと大神島の話がしたくなった。


大神島の神は親神様と呼ばれている。火と水をはじめとする5体の神らしい。
それは高天原にいたとされる神々とは別系統だろう。
彼女と彼は自然神。この場合の「自然」は「じねん」と読みたい。おのずからそこにいる神々。山川草木、そして岩に宿る神。

そうであれば、大神島の神もまた国つ神なのであろう。
遠い昔、南の方から海伝いに日本列島に来た神々は、宮古島をステッピング・ストーンとしたと思われる。踏み石が気にいって留まった者がいても不思議ではない。

石灰岩と風化花崗岩の違いはあれ、宮古諸島と出雲には同じく巨石信仰がある。このあたりの文脈研究は宿題にしよう。

自然神を拝むための場所を「うたき」という。
その漢字は「ごこく」と書く、という下地さんの言葉を聞いて僕はますます興奮した。
「五穀」と書いて「うたき」と読む、と文脈家特有の早とちりをしたのだ。いくら宮古言葉が独特でも、これは牽強付会(けんきょうふかい)というやつだ。
自然神に五穀豊穣を願うための「うたき」を「五穀」と書くなら、できすぎた話。
もっとも現在の宮古には五穀はなく、砂糖黍しかない。


「うたき」は「御嶽」と書く。これを下地さんは「ごこく」と発音したわけだ。

大神島御嶽への入り口

かくも無知なまま、宮古島ツアーをしていた僕だが、江馬さんを通じて電通時代のことはしっかりと思い出していた。
そして大神島に渡った日の夕方には後輩と会う約束もできていた。僕のフェイスブックを見てコンタクトしてくれたのだった。

江馬さん、宮古に帰った後輩、それだけでも宮古島で電通の夢を見るには充分なのかもしれない。

いや、本当のことを言うと、電通時代のことを忘れるはずはない。なにしろ64年間の人生で36年間過ごした会社なのだから。

2010年6月30日に会社を辞めてからは、電通のことは封印してきた。電通系人脈とはほとんど付き合いはなかった。盟友原田明を除いては。
この6年間、いろいろなところで自己紹介をしてきた。そのときに自分から電通と言うことはあまりなかった。あっちの世界を引きずっていたら、こっちの世界とはなじめないからだ。

ただし、拙著『消えた街』と『出雲國まこも風土記』の著者プロフィールには電通関西支社と明記してある。そのせいもあって、最近は、自己紹介の場にいる誰かが「元電通」とフォローしてくれることもある。
隠しても仕方がないことであるが、盟友がアドバイスをくれた。僕が、この先、本を書く時、本文中では「広告会社」と書いた方がいい、と。


確かに「電通」には色が付きすぎている。いい意味でも悪い意味でも……と言いたいところだが、最近、電通は悪の巣窟になったようである。

10月8日、高橋まつりさんの過労死自殺のニュースを知った。ずっと気になっている。それが宮古島で電通の夢を見る遠因になっていることも間違いない。

高橋まつりさん。女性、新入社員、東大卒、美人などの余分な情報は要らない。24歳の個人が自分で自分を殺した。個が全体に圧迫されて死を選んだ。僕の目の前には、その冷厳な事実があるだけだ。
自殺を自死と言い換えようとする人びとがいる。でも自殺は自殺だ。

ネット上では、まつりさんに関して様々な情報が氾濫している。僕もほんの少し、書きたくなった。だが、その前に何よりも合掌しよう。ご冥福を祈ろう。

宮古島はスピリチュアルな島だと言われている。「スピリチュアル」とは、様々な文脈がつきまとう言葉である。
宮古島の旅から帰って、自分なりの「スピリチュアル」の定義ができてきた気がする。
僕にとっての「スピリチュアル」とは「メメント・モリ(memento mori)」、すなわち「死を想え」である。

宮古島で「死を想う」。この島は「メメント・モリ」を誘う島のようだ。宮古空港で見つけた『ぴるます話』には、その種の話が満載されている。


ごく親しかった江馬民夫さんの死を想う。見ず知らずの高橋まつりさんの死を想う。
僕の無意識に詰まっている様々な死を想う。

高橋まつりさんの自殺に関しては、前田将多さんのコラム「広告業界という無法地帯へ」(月刊ショータ/2016-10-20)という記事が本質をとらえていると思う。

前田さんは電通関西支社のCR局で15年働いた後に会社を辞めたという。90%共感する。

午後10時に消灯しても問題は解決しない。サービス残業が増えるだけだ。深夜、会社から強制退館させられた社員は、下請け会社に行く、または自宅に仕事を持ち帰る。なぜなら、期日までに片付けなければならない仕事が無制限に流入してくるからだ。入り口を制御しなければ、出口は氾濫し続ける。

以下は当コラムからの引用である。僕は2010年6月までの電通しか知らない。この6年間で電通は昔の企業風土を失ったようだ。詳しくは分からないが。
電通はグローバル化を推進していて、外国の大きな会社を買収し、取締役に外国人を招き、会計年度まで海外に合わせて三月から十二月に移した。外ヅラだけグローバル企業を取り繕い、内実は昔ながらのドメスティックなやり方で、現代ならではの非人間的な組織運営を進め、どうするつもりなのか。
欧米の広告会社がどうしているのかは知らないが、グローバル気取りするなら、仕事の前に契約書でも取り交わして、することとしないことと、できることできないこと、その料金表を提示して、それを遵守したらどうなのか。「働くな。しかし任務は死んでも完遂せよ」と、社内の締め付けを強化して何かが解決するのか。
 広告界にもルールはあるはずだ。協会とかあるなら、広告主へのベンチャラ団体、内輪の親睦団体にしておかず、ルールを明文化することに寄与でもしたらどうなのか。四代社長、吉田秀雄が作ったメディアビジネスの枠組みで大儲けしてきたのだから、次は業界で働く人が命を落とさないための基本的なルールを広告に関わる全ての企業に説いたらどうなのだ。
少し、僕の考えを補足しておきたい。1974年から2010年までの電通時代経験値の範囲で。

「吉田秀雄がつくったメディアビジネスの枠組み」とは端的にいえば「民放テレビの番組CMとスポットCMで儲ける仕組み」である。
僕が電通から脱藩した2010年当時、電通はマスメディアだけの広告ビジネスに限界を感じて、インターネット広告でもビジネスチャンスを拡げようとしていた。僕はそういう部署でのクリエーティブ・ディレクターをしたこともある。

でも、インターネット広告では儲からない。儲からない部署は人員を減らされる。高橋まつりさんがいた部もそういうことだったのだろう。

マス広告で大きな利益を上げてきた電通。だが、ネットの世界では利益を上げる方法を発見することがいまだにできていない。したがって効率というシステムの必然により人員削減となる。何しろ大企業の人件費はコストとして計上されるのだから。

さらに、ネット広告の実績報告分析作業というのは、時間がかかるが、本質的には単純労働ではないか、と誤解を恐れずに言ってしまおう。
前田将多さんのコラムはいわゆるクリエーター(僕はこの言葉があまり好きではないが)の視点で書かれている。彼らの仕事への矜持が伝わってくるし、そのとおりなのだと思う。

でも、高橋まつりさんが課せられていたことは仕事ではなく作業であり「やりがい」などというものとはほど遠いものではなかったのか、と愚考する。

僕は2010年6月30日に電通関西支社のフラッパーゲートを出た。社員証を返したとき、インターネット広告の世界で苦労を分かち合ったHさんと出会った。ハグした。泣いた。

Hさんも2015年に早期退職して綾部に移住した。今年の春、はじめて彼の半農半Xハウスを訪れて酒を飲んだとき、当然のように電通時代の話になった。
僕はしゃべりながら、気がつけば涙を流していた。6年前にハグしたとき、彼と話したかったことがあふれ出てきたのだろう。

記憶を封印するというのは、ネクストステップに行くときには必要なプロセスだ。
でもたまには封印を解かないと閉じこめられたものは、毒素をはらむこともある。Hさんと飲んでデトックスができたのはありがたかった。
Hさんなら、高橋まつりさんが置かれていた立場が僕よりも分かるのかもしれない。
彼女はデトックスできる相手もなく、自分を殺してしまった。ひたすら哀しい。

電通時代の晩年、僕は管理職というものだった。36協定に違反した部下の始末書を何枚書いたか分からない。始末書にはいつも「人員増を求む」と書いていた覚えがある。願い事は叶ったり叶わなかったりだった……。

もはや僕の知っている電通は「古き良き時代」となってしまったらしい。見知らぬ人の自殺について、現在の僕が何をどういっても意味がないことかもしれない。

ただし、しかしながら、僕たち電通で口に糊をしたことがある者は自らにこう問いかける必要があるのではないか。

「もし自分が彼女の上司だったら、あるいは同僚だったら、彼女の自殺を止めることはできたのだろうか?」


宮古島は「メメント・モリ」の島だというところから、随分、文脈が飛躍してしまった。
コンテキスターというのは難儀な商売だと思う。でも、その書いたものを読んでくれる人はもっと大変なので、このあたりで終わりにしたい。

とはいえ、こんな小難しいことをずっと考えながら島旅をしていたわけではない。
最終日以外は、シマー(泡盛)をロックでたしなみながら、心地良い眠りを楽しんでいた時間も長かったのだ。今ある生を言祝ぎながら。


旅の最終段階で、電通時代の後輩に会う。
元気そうで何より。
彼は広告会社というソフト産業から島のインフラを担うハード産業の経営者に転身した。生活は電通時代ほどタフではなさそうだ。それに宮古島の風土と彼の風貌はみごとにマッチしていた。



「タヤでなければ生きられない。しかしヤパーヤパでなければ、生きていく資格がない」
(『読めば宮古!』さいが族/ボーダーインク/2002年)

みんな、タフに優しく生きていこう。そして、お迎えが来るまでは死ぬなよ。


2016年9月21日水曜日

キンカントマト物語(フミメイ版)

フミメイ農園ことはじめ


キンカンと僕の付き合いは4年になる。
キンカンとは北摂(大阪北部)の在来種、キンカントマトのこと。僕とは「半農半X的生き型」を模索するコンテキスター・フミメイのこと。
始まりはマイファームだった。株式会社マイファームの体験農園を箕面で借りたのは2010年10月。それまで畑や田んぼとは縁のない生き方をしていた。紀伊半島を中心に渓流釣りと鮎釣りにはのめり込んでいたが……。

2010年11月7日

「十五平米」の善循環が始まった。
そのとき会ったのが、のちの「寒吉つぁん」。いや、そのときから、芦田喜之(あしだよしゆき)さんは自分のことを「寒吉」と名乗っていた。
初めての「農園管理人」のちの「自産自消アドバイザー」が寒吉つぁんだった。京都は日吉胡麻の専業農家。僕とはほぼ同世代。これはラッキーだと今でも思う。

寒吉つぁんには、それ以来、ずっとお世話になっている。
フミメイの半農半Xのベースをつくってくれた。本当にありがとうございます!


2012年12月29日

僕は、現在、デジタル「じじ」である。そうなったのは2011年7月14日。最初の孫が生まれてから。
ただし、今世紀初めから僕はデジタルの世界には慣れ親しんでいた。
で、畑や田んぼの情報はネットの世界でオーバーフローしている。

マイファームの畑を始めたとき、僕は(なんとなく)決めた。ネットで農の情報は取らない。寒吉(先生)の言うことだけを聞こう。
これは今でも正解だったと思っている。何しろ百姓は百人百派なのだから。迷い始めたらきりがない。

以下は2011年10月24日のFB投稿である。
マイファームで農園を借りて、ニワカ百姓を始めてから1年になる。「野菜は甘やかしたらあかん」という芦田喜之、寒吉さんのご指導により、水も肥料も最小限にして覆いモノはほとんどせず、いろいろな野菜を育ててみた。他のことはネットで詳細に調べたりするのだが、農園に関してはプロの百姓、寒吉さんのお言葉のみにしたがった。おかげさまで、わずか15平米の天地だが有情はそれなりに楽しめた。まず土に触って土から恵みをいただく経験は貴重だった。半農半コンテキスターとほんの少し胸を張って言えるようになった。口であれこれ言う前にまずは土なのですよ。口より土だ、ということでマイファームの理念をシェアーしておきます。「自産自消」の先に見える「何か」って何だろう。またコンテキスターの宿題が増えたなあ。

畑にはビギナーズラックがあるらしい。まず色っぽい大根ができた。

2011年2月12日

そして、2011年5月にはじめて収穫して寒吉つあんに縛ってもらったタマネギ。これはフミメイ農園史上、最大のタマネギだった。

2011年5月7日

寒吉つぁんは昔も今も農園デザイナーである。独自のデザイン感覚で変なことばかりしていた。

2011年12月4日

変なことが大好きで、すぐ影響を受ける僕も「稲藁大魔神」などと。

2011年10月12日

2012年春にはスナップエンドウを畑で取って、そのまま食う快感を覚えた。
「自分でつくった野菜はなぜ甘いのでしょうか?」と様々な人に訊ねるキッカケとなった体験である。
にしても、この頃のフミメイ農園は今と比べたらシンプルだな、と他人ごとのように思う。

2012年4月23日
2012年4月23日

畑を始めたときの目標は「自分でつくった白菜でてっちりを食う」だった。
これは2010年の年末にはもう実現できていた。

2013年2月には「野武士白菜」とネーミングされるものができた。以後、野武士と呼べるような白菜をつくったことはないが。

2013年2月8日

というようなことで一気にフミメイ農園のタイムラインを遡ってみた。

だが、世の中は動きはそれほど単純ではない。
2011年3月11日がある。世界は変わった。

2011年3月12日箕面川
2011年3月20日フミメイ農園

311の一カ月前に、僕はMERRY PROJECTの水谷孝次さんと出会った。文脈が大きく旋回した。詳しくはこちらのレポートを読んでほしい。

メリープロジェクトにはMerry Farming というコンセプトがあった。My FarmとMerry Farming、ふたつのMFは以後、僕の「半農半X的生き型」を支えるようになる。看板を掲げた。

2011年5月4日

キンカントマトがやってきた


さて、キンカントマトの話である。2013年の春にはマイファーム・キンカントマトプロジェクトが始まった。以下はキンカン・フライヤーからの引用。
日本のトマトにも野生の時期があったといいます。その野生トマトの血を引き継いでいるのがキンカントマトです。今時、稀有な存在です。大阪北部の山中でも、かつては野生のトマトがありました。その実は金柑(きんかん)に色と形、大きさが似ていたので、村人は「キンカン」と呼んでいたそうです。当時は野辺で金色に輝いていたのでしょう。やがて、村のおばあちゃんたちはキンカントマトを畑に持ち帰り、「うちの子」として慈しみ大事に種を繋いできました。暑い夏、野良仕事をひと休みするとき、谷水で冷やしたキンカンを口にする。汗がひく。キンカンの甘さで身体が蘇る。現在、大阪では野生のトマトを確認することはできません。おばあちゃんたちも年をとってしまいました。「このままでは種が途絶えてしまう」おばあちゃんの志を引き継ぐ人々が立ち上がります。貴重な在来種、キンカントマトの種を繋いでいく物語が始まったのです……。キンカントマトは在来種です。交配種(F1)ではありません。つくる人、土、場所によって味と形がちがってきます。基本は中玉トマトです。産毛が際立ち、六枚のガクがダンスをしているようにピンと立ちます。

マイファーム管理人のひとりが北摂の高山からキンカントマトを譲り受け、タネを取る。その最初の400粒から物語が始まった。
高山はキリシタン大名、高山右近の生誕地として知られている。そこでは今でもキンカンを「うちの子」と呼ぶおばあちゃんがいる。



春には定植、夏には実る。僕はキンカントマトに魅せられた。

2013年5月18日

ところが、このあたりが変人ファーマーの僕らしいのだが、「キンカンと名乗るからにはキンカン色でも食えるはずだ」というドグマに陥る。食ってみる。舌がしびれた。

2013年6月25日

以後、緑キンカンは口にしていないが、襟元にキンカン色をまとった赤いやつは無数に食っている。2013年8月6日には第1回キンカントマト食べ比べ会が開催された。


あけて2014年。キンカントマト物語は加速していく。ドライブをかけるのはもちろんこの人。

2014年3月8日


そして第2回の食べ比べ会は8月8日。フミメイのキンカントマトはなぜか一等賞になってしまった。


この頃から、寒吉つぁんは「キンカントマトをアンデス山脈に返す運動体」を勝手にこしらえて、そのリーダーとなる。


「キンカンよ、東北東を目指せ!」と唱えて定植し誘引するのだが、文系百姓の僕にはいまだになぜ、南米のアンデス山脈が日本列島の東北東になるのか理解できない。
まあ京都大学農交ネットの理系学生さんが、そう言い張るのだから間違いないのだろう。

僕は孫がキンカンを喜んで食ってくれたら、それで満足なわけで……。


そしてフミメイも「タネとりじいさん」となった。


タネに目覚める


ああ、ようやく2015年までたどり着いた。ペースを上げないと稲刈りの季節になってしまう。
うんとこどっこいしょ! と先を急ごう。

2015年2月7日。箕面桜島大根

2015年春、僕は突然、タネに目覚めてしまった。

先達がいた。笑顔満開で僕をこっちの世界に引きずりこんだやつだ。

こっひーこと小東和裕(こひがしかずひろ)さん。
彼とは大きなイベントをともにしたことがあった。こちらも「自産自消」をコンセプトにして「百菜畑」を営む強者(つわもの)である。

また水谷孝次さんとも繋がっている。


とったら配る。これが「タネとりじいさん」の本能らしい。
こっひーは僕に絶好の機会を提供してくれた。2015年4月5日、「たねの森」系「たねの交換会」


僕はキンカントマトの話をしてタネを配った。このあたりがニワカ百姓の強みと無鉄砲さである。そうそうたるタネとりメンバーが並ぶなかで、堂々とはじめての自家採種タネを売り込んでしまう。


ちなみに、このときもらったベネズエラあらためペルー紫玉蜀黍は、3メートル近く育って、フミメイ農園の旗竿のようなものになった。ただそれだけだった。いったいどんな玉蜀黍なんだろうか?

2015年9月ペルー紫玉蜀黍の根

2015年春はもうひとつキンカン史上、忘れてはならないできごとがあった。
なんと、あの木村秋則さんにキンカントマト、しかも越冬したそれを食わせた男がいる。
4月26日、マイファームの「アグリイノベーション大学校」。

もちろん、それは我らが寒吉つぁんである。そして、さすがは変人代表、木村秋則さん。
「インカの世界だね」と「バカになるのってむずかしいよお」という回答をくれた。
これは、ぜひ映像でシュールな会話をするふたりを見てほしい。


自然栽培の木村秋則さんが有機栽培のマイファームで講義する。こう書いただけで、なぜだ?! と目くじらを立てる人がいるかもしれない。
それは「有機」という言葉の意味を深堀りしていないからでしょう、と愚考するのだが、それはまた別の話。


木村さんはトマトの「ななめうえ」を教えてくれた。ななめうえを見ながら天に豊作を願うのではない。
苗の芯を残して、軸の葉はできるだけ切断する。根も切る。土に斜めに横たえる。芯が天を向くように枕を差しあげる。


ポットの中にあった根は役割を終えて、斜め軸から生まれる新根がしっかりと土を掴む。
すべての根源は根である。


そして、トマトの根の隣には根粒菌を!
大豆の根粒菌が窒素固定をして肥料の代わりをしてくれる。ただし、「黒豆はだめです。黒豆はけちで窒素をくれないんです」と奇跡のリンゴをつくった人は言った。
ニワカ百姓はいまだになぜかは分からない。でも、それでいいのだ。信じる人にはしたがうのみ。緑豆か白豆をコンパニオンしよう。

2016年5月16日、カミャータ農園

こっひーの「タネの交換会」、木村秋則講習会での「キンカントマトプレゼン」を経て、僕は野口種苗から固定種タネを取り寄せた。それが苦労の始まりだった。

断っておくが、僕はF1を否定しない。F1苗を使えば野菜は(比較的)簡単にできる。まずは収穫し自産自消しなければ、百姓入門の門は高すぎる。

F1から固定種に行った僕は、道楽に突入したともいえる。
固定種は楽しい。旨い。でも遅い、小さい、苗をつくる手間がかかる。
そして「どうしてもっと普通の野菜がつくれないの?」と山の神に問われるようになる。


道楽を極める手伝いをしてくれたのは、またしても寒吉つぁんである。

マイファームは毎月、ニュースレターという冊子を送ってくる。付録には少量の固定種タネがついてくる。
その「菜の花の種」20粒を僕が適当に播いた。2014年9月30日のことだった。
2015年の春、菜の花はほったらかし農法で立派に育ってくれた。

育ちすぎて抜くに抜けず困っている僕に寒吉つあんが提案する。「タネとりをしましょう。まかせてください」。
で、知らない間に「20万9千粒」のタネが出現した。「一粒万倍」が実証されたのだ。
しかも、そのタネが「田中さんの菜の花の種」として再び付録になる、という循環の世界。

マイファーム・ニュースレター2015年10月号

さらには菜種から菜種油を絞り、それを農園の行灯用のエネルギーにしてしまうのが寒吉つぁんの底力だ。
まいりました。降参です。

2015年10月10日

これは「キンカントマト物語」なので「菜花種取物語」もまた別の話。
興味のある方は以下の写真をクリックしてください。プレゼン資料が読めます。


このようにして固定種(在来種)道楽は明るい迷宮に入っていく。
真夏の祭典「キンカントマト食べ比べ会」は続く。

2015年8月8日


キンカン2016全面展開


そして2016年8月6日。第4回食べ比べ会。
出品数は33点。しかも各地から。集合写真は同じように見えても、内容は大きく深化している。


食べ比べ会に先立つこと5か月、「キンカントマト1000本プロジェクト」が(なんとなく)始まっていた。

2015年秋、僕は各地にキンカンタネを配っていた。そうなると立場上、発芽するかどうか心配になる。
発芽実験をする。発芽率98%。安心するが、この苗たち、どげするだ(どうしましょうか)?


結局、フミメイだけで169本のキンカン苗をつくってしまった。


種1000粒、苗1000本、そして食べ比べ会に集まってきた実が500個!
多少、「主催者発表」の匂いはするが、キンカンシーズン2016は北摂の在来種が各地の在来種となるべく全面展開したのは事実である。

フミメイ号はキンカン苗を乗せて、各地に走る。


そして、こっひーがまた僕の背中を押した。
2016年5月1日。大阪は枚方の星ヶ丘洋裁学校にキンカントマト苗を持ってきてちょうだい!
――はい、分かりました。


星ヶ丘洋裁学校は結界だった。
僕はそこで『いのちの種を抱きしめて』という映画を初めて見た。多様性、ダイバーシティ、diversity という言葉が多用されている。

クリックしたらリンクあり

映画を見たあと、こっひーのネタ、じゃなかったタネ話を聞いた参加者たちは“Share Seeds(シェアシード)の趣旨に共鳴する。キンカン苗はすぐになくなった。


その3日後、キンカンは出雲に行った。
寒吉号が日吉胡麻から雲南の山王寺棚田まで往復700キロを走破した。

山王寺棚田2016年8月24日

山王寺棚田は、もはや僕のホームグラウンドといっても差し支えないだろう。
まさか寒吉つぁんが日帰り訪問をするとは思わなかった。
目的はマコモの株分けだったが、それはキンカン苗と物々交換される。キンカントマトとマコモの縁で日吉胡麻と出雲が直結した。

2016年5月4日、寒吉つぁんと野津健司さん

僕は1年以上前から『国つ神と半農半X』というコンテキストを追いかけて出雲に通い続けている。執筆は停滞し、「書く書く詐欺」に近いものとなっていて申し訳ない。

それでも、この文脈のスピンオフ・ストーリーは完成した。
『出雲國まこも風土記』(田中文夫/発行:里山笑楽校/発売:今井出版)というブックレットとなって、もうすぐ発刊される。まこもの話はこちらを読んでいただきたい。


まこものことを書くためにはマコモを観察せねばならない。
マコモを求めて半農半Xの聖地、綾部を取材するとき、キンカントマトの物語と苗も広めていく。

2016年春、『キンカントマト物語』と『出雲國まこも風土記』は同時進行していたのだ。

綾部、出雲、石見、隠岐、安曇野、兵庫、奈良……物語は繋がり、『キンカントマト物語』のフェースブックグループは、現在、参加者130名。

各地から様々なキンカン模様が伝えられている。なかにはキンカンの故郷、北摂高山に近いところにいながら、箕面→日吉胡麻→綾部経由で苗を手に入れたファーマーもいる。

2016年8月6日

8月6日、キンカントマト食べ比べ会ではカタチも大きさも味も様々なものが集まって来た。ほぼ同じタネ、同じ苗から育っているのに。

たとえば、奥出雲に行ったフミメイ苗は八川農園、橋本さんのハウス栽培で、大きく甘く育っていた。フミメイキンカンと比較してみたら大きさは3倍で、酸味が強いフミメイものより数倍、甘かった。


人、土、場所によって多様な顔を見せるキンカントマト。

その聖地(といってもいいだろう)、マイファーム箕面1号農園のキンカン畝では2016年、不可思議な栽培をしていた。
自動発芽の試みである。お察しのとおり、寒吉つぁんの発案だ。

正月にはキンカン初詣をして2月16日は昨年の仕舞いをした。当然のことながらたくさんの実が落ちている。

2016年1月3日
2016年2月16日


仕舞いしたあと、完熟堆肥をかぶせる。あとは何も引かない、何も足さない。
で、芽がでてくるのだ。理論的にはあたりまえのことだが感動する。

2016年4月26日

適度な大きさに育ったら鉢上げする。今年、各地に配ったキンカン苗のうちの多くは自動発芽したものだった。

ここのキンカンはまだまだ円熟した味を実らせてくれるだろう。


2016年8月6日

一方、日吉胡麻の出荷農家としての芦田家でもキンカントマトは育ち続けている。
「ビジネス農」をしているときの寒吉つぁんは表情が違う。専業農家歴30年の風格がある。

2016年8月17日 日吉胡麻キンカン畑

いつもは僕の戯れ言を聞いてくれるのだが、こんなとき、ニワカ百姓は余計なことを言わない方がいい。

カルチャーとしての在来種と固定種


キンカントマトは野生であり在来種である。固定種ともいえる、などと曖昧な言い方をしていると文脈の神様に叱られる。

超文系百姓フミメイは畑の設計とか年間計画とかペーハーとか理系の要素はすぐ忘れる。
しかし、有機農法、自然栽培、自然農、菌ちゃん野菜、モヒカン栽培、自給農……などの言葉を聞くとミーハーな反応をしてしまう。
興味のある言葉を提唱した人物に会いたくなってくるのだ。できれば著書にサインをしてもらいたくなる。
西村和雄氏、木村秋則氏、川口由一氏、吉田俊道氏、道法正徳氏……。

いずれも慣行農法ではない世界において一家言をお持ちの人である。彼らの文脈を繋ぐのもまた別の話にしておかないと。たぶんニワカ百姓の手には余る課題だけど。

西村和雄氏 2010年11月28日
川口由一氏 2016年8月21日

在来種って何? 固定種って何?
気になり出すと調べてみないと気がすまない。
キンカン食べ比べ会の前日、僕はこんなFB投稿をした。
キンカントマトという北摂の在来種をつなぐお手伝いをしている。今年は春先からたくさんのタネと苗を各地に配った。その実りが、明日8月6日の「キンカントマト食べ比べ会」に集まりつつある。なぜ、在来種のタネを繋ぐことに物語を感じるのか?それは在来種が文化そのものであるから。 
中尾佐助は『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書/1966年)で、こう述べている。「『文化』というと、すぐ芸術、美術、文学や、学術といったものをアタマに思いうかべる人が多い。農作物や農業などは〝文化圏〟の外の存在として認識される。しかし文化という外国語のもとは、英語で『カルチャー』ドイツ語に『クルツール』の訳語である。この語のもとの意味は、いうまでもなく『耕す』ことである。地を耕して作物を育てること、これが文化の原義である」 
また青葉高は『日本の野菜文化史事典』(八坂書房)で文化財としての野菜に言及した。「各地に残されている在来品種は、それがその地に伝わり、一つの品種として成立した歴史を秘めている生き証人であることに気付いた。この意味で在来品種は生きた文化財として価値の高いものであると思う」「野菜は現在一代雑種万能の時代で、在来品種は見すてられていることが多い。それでも味の勝れている点などで注目されていることもある。在来品種はそれぞれが独特の特性をもっていて、もしその品種が失われれば、その品種特有の遺伝子は地球上から失われ、それを再現することは非常にむずかしい」上記は1983年に書かれたものである。今はさらに遺伝子組み換え作物という怪物も出現している。キンカントマト物語に関与することは文化財を守ることでもある。だから、この物語はメリーなのだろう。 
2016年8月5日 田中文夫on facebook①


文系百姓が耕す文化財としての在来種に惹かれるのは当然なのだ。
以下は同投稿で書いた在来種と固定種の定義についてである。
ただし「農水省品種登録」 などという「ビジネス農」の世界がからんでくると話はもっと複雑になる。僕の話はどこまでいっても「ホビー農」なので、あしからず。

この機会にずっと疑問を持っていた在来種と固定種の文脈を整理しておこう。こちらは静岡県浜松の浜名農園の「種と苗と土のカタログ」が分かりやすい。以下、引用。
「在来種・固定種」(伝統野菜)も人間に必要な作物として育種して産まれました。食味が良かったり収穫量が多いなど目的にあった野菜を選び何年もかけて種採り選抜を繰り返していくと、目的にあった同じ性質のものになっていくものです。交配種が全盛になる以前の野菜はすべて在来種・固定種でした。在来種も固定種も同じ意味でとらえていますが、選抜していく中で性質がほぼ同じになってくると「だいぶ固定したね」と表現するように固定種は学問的な呼び方で在来種は文化的な呼び方かも知れません。伝統野菜の年代的な定義はなく私達はその地域で採れた野菜がその地域で食べられていた頃の野菜と考えています。長所は食味が良いこと(個人差はあります)生育のスピードにバラツキがあるので大きいものから収穫する家庭菜園には向いている、誰もが種採りができ種の多様性(遺伝資源)を守ることができることです。短所は形や色や生育のスピードが揃わないため現状の市場では販売しにくいことです。
コンテキスターの私見では「在来種」の方が「固定種」よりも広義だという気がする。 
そういう意味ではキンカントマトは「在来種」という方がふさわしい。だって、「固定」していないのだから。 どれだけ固定していないのかは、明日の食べ比べ会のお楽しみ!
イラストは『成形図説』(1804年刊)より。『日本の野菜文化史事典』の裏表紙である。江戸時代後期にはこのような絵が描かれていたのも、在来種が文化であることの証なのだ。 
2016年8月5日 田中文夫on facebook②


メリーとキンカン


「食べ比べ会2016」には六本木のビルの屋上に行ったキンカントマトも帰ってきた。

MFからMFへ。My FarmのキンカントマトはMerry Farmingの根拠地、「六本木メリー屋上農園」にも行っていたのだ。
2016年5月10日 六本木にて

あの六本木ヒルズを見上げるビルにMerry Projectはある。見下ろせなくて残念ではあるが。

屋上農園というのは魅力的だが持続するのが大変な試みだ。六本木以外の屋上農園の話もいくつか聞いたが、撤退したものもある。

MERRY PROJECTは持続する運動体である。
そのコンセプトのひとつ、Merry Farmingには「知る」「育てる」「つながる」「食べる」をコンセプトに「農」を通じて人を幸せにしたい、というミスターメリー、水谷孝次さんの願いが込められている。

「六本木メリー屋上農園」は2008年6月から8シーズン、命を繋いでいる。
子供たちの笑顔が集まる場所に花が咲き野菜が実り稲穂が揺れる。その善循環を愚直に繰り返している。


僕が初めて、その農園に行ったのは2011年10月だった。311を経て「口より土だ」との思いを強くしていた頃。


この日、六本木で僕は初めて「茹で落花生」を食べた。以後、落花生はフミメイ農園の定番作物になる。

2011年10月7日

水谷さんは『デザインが奇跡を起こす』(PHP研究所/2010年)の中でこう言っている。
咲くことはもちろんMERRYだけれど、次の世代のためにエネルギーを蓄えて命をつなげていく、その姿もMERRYだ。
ならば、野生の在来種、キンカントマトのタネも繋いでほしい。いや、そんなことよりも六本木で日夜、世界中に笑顔のコミュニケーションを巡らすため奮闘しているメリースタッフにキンカントマトを食べてもらいたい。旨いのだから。

ふたつのMFの文脈をキンカントマトが接続するのは自然なことだ、と考えたコンテキスターは10本のキンカン苗を六本木に送った。

2016年8月5日

実りは帰って来た。“daijobu”のメッセージとともに。

僕は野生の力を信じている。コンクリートの上に構築された土でもキンカンは実ってくれるはずだ。
それでも……一抹の不安はあった。「だいじょうぶ?」
六本木のキンカンは「だいじょうぶ!」と応えてくれた。

人や作物に向かって「ガンバレ!」というのは、もうやめにしよう、と水谷孝次さんは言う。
MERRY PROJECTは「笑顔は世界共通のコミュニケーション」をコンセプトにして展開するソーシャルデザインである。
そこに、まず笑顔がある。笑顔が“daijobu?”“daijobu!”の応答をする。
大丈夫であれば、そこにメリーなアートが生まれることもある。


2016年、各地で実ったキンカンは多様な顔を見せてくれているはずだ。
そのなかでも、六本木キンカンは気になる存在だった。

六本木で撮影されたキンカンアートに寒吉つぁんが素早く反応する。
食べ比べ会では写真を屏風アートにして展開してくれた。



もしかしたら、この会に参加した人たちは、あの写真の意味をあまり分かっていなかったかもしれない。
別にそれでもいいのだけど、コンテキスターとしてはふたつのMFが繋がり、水谷孝次と芦田寒吉の志がX(クロス)したのが嬉しい。
自分の半農半X生活が様々な文脈を繋いで、ひとつのカタチになった気がした。



キンカントマトと多様性(diversity)


最近、よく、なぜそんなにキンカントマトに入れ込んでいるのか? と質問される。

答えのひとつは、文化(カルチャー)としての農(アグリカルチャー)、その象徴としてキンカントマトが好きになったから、と言おう。

もうひとつは、世界の平和を語るのも在来種のタネを繋ぐのも同じことだから、と大きく構えたい。

世界は窮屈になってきている。特に日本列島は。
大陸と半島からたくさんの野菜を受け継いできた列島は、その大元と反撥している。

狭い島国には同調圧力が強まり、太平洋の向こうから均質化と効率性を求める声がする。
個人、家族、共同体、そして食物の多様なあり方をノッペラボーにしたがる動きが強まってきた。

前述の映画『いのちのタネをだきしめて』でヴァンダナ・シヴァは言った。
「大量生産は均質性を要求する。でも私たちにとって大切なのは多様性と地域性」

この星の上で無数に存在する襞(ひだ)を互いに大切にすることから、ヴァンダナの言う地球民主主義(アース・デモクラシー)は始まるのだろう。


クリックすると予告篇

作物における多様性をGMO(遺伝子組み換え食品)は否定する。
共同体の地域性をTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は否定する。

それがキンカントマトのタネを繋ぐこととどういう関係があるのか、と問われたら多いにあります、と応えるしかない。

各地に散らばったキンカントマトは多様性の塊になるだろう。
北摂の山で培った地域性を基にして、キンカントマトは新しい地域になじんでいけばいいと思う。

世界の平和は生命の多様性を包みこんで認めあうことから始まる。
在来種のタネを繋ぐのは小さな試みだけど、その第一歩かもしれない。

そんな小さなことで大丈夫なのか?
“daijobu !”という水谷孝次さんの声が聞こえてくる。


ようやく『キンカントマト物語』(フミメイ版)が書けました。

2016年、キンカントマトの縁脈に繋がった人たちが、それぞれの志、すなわちエックスを持って、それぞれの『キンカントマト物語』(X版)を書いてくれたらいいな……。と切に願います。
読んでくれてありがとうございました。