2013年3月11日月曜日

311への想像力ふたたび


朝からあの日のことを思い出しながら、日本ペンクラブの「いまこそ私は原発に反対します」を読み続けていた。


僕は復興に関して、哲学者、内山節の以下の言葉に今も寄り添っている。

復興のグランド・デザインが何らかの設計計画だと考えている人たちは、おそらく、いま歴史が超えさせようとしているものに気づいていないのであろう。
 (中略)
大事なことは、まず、自分たちがつくっていきたい自分たちの生きる世界を、文学的に、文化的に語ることである。
その語りのなかにこめられている思想をつかみとること、グランド・デザインはこのなかにある。
                                            
自分の明日を「文学的」に想像してみよう。
原発がそこになじまないなら、もういらないということだ。

あの日から今に至るまで原発を巡る政治的文脈の本が氾濫している。
でも自分たちの明日を文学的に想像して違う世界を創造する物語を編んだ本は少ない。


この本の第二章は 【紡がれた物語】。

ここに編まれた9編の物語は文学的に文化的に復興を想像する示唆に富んでいる。
特に以下の2編は必読。

中島京子 よい未来のための小説

吉岡忍 老人と牛


第三章 【うたう、詠む、訴える】。

日本の短詩が内包している想像力と静謐さが持つ力に敬意を表する。
以下、黒田杏子の【「福島」から「うつくしま」への禱りをこめて】から抜粋。

 白百合の天に黙祷以後寡黙   林十市郎

 さくらさくらさくらさくら万の死者  桃心地

 3月の11日を生きて詫ぶ  田口昭子

 揚雲雀農夫これよりどう生きる  植木緑愁

 草を引き落ち葉を掃いて道遠し  坂本玄々

 広島の長崎のああ福島忌  保井甫

 倒木を山と積む浜福島忌  齋藤耕心

 放射能の雨降る青田眺め立つ  佐藤きよし




そして、俵万智の【目の前の命を】まで読み進んでページを繰る手が止まってしまった。

  子を連れて西へ西へと逃げていく愚かな母と言うならば言え

  まだ恋も知らぬ我が子を思うとき「直ちには」とは意味なき言葉

  簡単に安心させてくれぬゆえ水野解説員信じる



水野解説員、311直後のNHKでただひとり他の専門家たちとは違う情報を伝えようとしていた男。彼は今、NHKの中でどんな存在になっているのだろうか、と想像してみる。

僕は二年前の今日からしばらく、取り憑かれたようにツイッターとテレビに張りついて震災と原発情報をキュレーションし続けた。

フミメイは2011年3月15日に257件のツイートをしている。僕の家族と僕の友人に僕が正しいと思う情報を伝えるため必死だった。

田中文夫@fumimay

世界の原発史上、かなりのことが起こっている。人体に影響がある。NHKテレビなう。水野解説員の話です。最大400ミリシーベルトは一瞬浴びただけで症状が起こる。一般の人がいるとは考えられないが。
posted at 11:35:07 2011年3月15日

この日の夜、最終の新幹線でうちの嫁は東京から箕面に逃げてきた。
たくさんの外国人たちとともに。

僕は今日一日、日本ペンクラブ会長浅田次郎の気持ちを胸の深いところにしまいこんで、また自分の思いを書き続けよう。

私たちの先人は第二次世界大戦中に、思うところを書くことができず、むろん書物にして汎く訴えることなど許されませんでした。執筆者のみなさんはおそらく、そうした先人の無念に思いを致しながら、存分に筆を揮われたはずです。 
かつて核兵器の惨禍を体験してしまった私たちが、またしても原発事故という同根の災厄をひき起こしてしまった事実は、責任の帰趨を論ずる以前に、国家としての屈辱であり、歴史に対する背信であると私は考えます。 
この困難を国民こぞっての叡智で乗り越えなければ、たとえ日本という国が世界地図上に残っても、その存在価値は喪われてしまいます。
ねがわくばこの一書が、ひとりでも多くの読者の目に触れて、正しい議論の糧となり、日本と人類の未来を明るく照らしますように。
「いまこそ私は原発に反対します」はじめに 


2013年3月1日金曜日

文脈日記(ウメリー!物語がアートする)

ウメリー@上山集楽が無事終了した。

無事という意味はみっつある。
まずひとりの怪我人も出さなかったこと。
ふたつめは参加者全員がメリーな笑顔をしていたこと。
みっつめは僕とウメちゃんかっちがやりたかったことをすべてやり切れたこと。



ウメリーは物語が集楽したアートである。

ウメリーには、それぞれの参加者が物語を持ち寄った。
それぞれの楽しいことを集めて集楽するとキモチのアートになる。

これからのアートはカタチの完成度を求めても意味がない。
キモチを繋いで物語の集楽度を極限まで求めるのが新しいアートだ。

ウメリーはソーシャル・アートの中でストーリー・アートという新しいジャンルを確立した。

アートはカタチからキモチへ。

これが水谷孝次さんと僕がウメリーを協創体験して出した結論である。



ストーリー・アートの現場では参加者全員がそれぞれの物語を共有し大きな笑顔をかたちづくっていく。

僕はウメリーの総合プロデューサとしての役目を果たせたことを幸せに思う。
そして、僕は僕のウメリー物語を記録に残したい。

NPO法人英田上山棚田団のコンテキスターとして、ウメリーの企画書を書いたのは2012年9月9日だった。

すべての事始めはウメちゃんがさいぼう庵裏山の竹を伐ったことである。
上山名物、「下から火付けとことん野焼き」の炎を夏空にぶち上げて、そこにかっちが梅を植樹したいと言いはじめる。

僕としては久しぶりにMerry Projectを上山でやりたかったので、すべてのコンテキストを繋いで企画書を書き始めた。

ウメちゃんがウメを植えてメリーがやってくる。
ウメとメリーなら、ウメリー、Umerry ! しかないな、と言霊はすぐに思いついた。

そして、フェースブック上では、僕とかっちの「うめりいいい!」呪文が始まる。

こういうのをマーケティング用語ではティーザー広告と言います。
情報をチラ見せするだけで本番では何をやるかを隠して、期待感を高め興味を持続させること。

でも、僕としてはそんな高尚な戦術をとっている気分ではなかった。何しろ上山のイベントは本番で何をやるかは最後まで決まらないのが普通なのだから。あえて隠す必要もないのです。



ということで、最終の企画書ができた1月8日には「ウメリー」は平屋から三階建てになってしまっていた。

ウメちゃんのウメリーに、まず僕が二階をつける。

11月9日に気仙沼で揚げたメリー空彦凧を上山に持ってきてウメリーを祝いたい。

被災地と上山を空彦で繋ぎたいので、よろしく!

上山棚田団と関わる者のマナーは「言うたらやる、自分でやる」である。
これはかなり厳しい話だ。
でも、だからといって言うことをやめないのが棚田団の凄味なのですね。

僕は仙台凧の会庄子先生との交渉を始める。問題はこのメリー凧は単品凧ではなく、40枚が繋がった連凧だということだ。

被災地の子供たちの笑顔が繋がった連凧。
笑顔の下に宮城県の先生たちがメッセージを書きこんだ世界中でただひとつしかない凧なのだ。

この連凧を借りる了解はすぐにいただいた。
ただ、この凧を揚げるためには技術がいる。僕も上山の誰も凧揚げ技術は持っていない。

悩んでいた僕はフェースブックを眺める。そして、そこに凧揚げに関する投稿を見つけた。
百菜畑のこっひーがなんと凧揚げを趣味にしていた。凧つくり教室まで開いている。

喜んだ僕はさっそくこっひーにウメリーの企画書を送る。

上山で凧を上げたいのだけど、手伝ってくれないかな?
こっひーが上山に来られるのはいつ?

かつて僕がtwitterでかっちにナンパされたように、僕はこっひーを凧揚げ師としてfacebookでナンパした。
僕とこっひーは塩見直紀さんの半農半Xワークショップで一度顔を合わせただけだ。それでも塩見さんのX力で結ばれた縁は深くなる。



突然の上山凧上げ師指名に快く応えてくれたこっひーは上山デビューをする。
自作の凧と仙台から来た笑顔の単品凧を上山集楽の空高く上げてくれた。



1月12日に上山集楽で上がった1枚の凧がウメリーで上がった80枚の連凧に繋がったのだ。

1枚の次は40枚の連凧上げのリハーサルをしよう、僕が仙台から連凧を借りるから、みんなを集めるから。
こっひー、今度はいつ上山に来れる?

僕の執拗なお誘いにこっひーはまた乗ってくれた。

1月27日、仙台から届いた連凧を積んだフミメイ号は上山に向かう。
天気予報は全国的に雪。でも僕は上山の底力を信じていた。

青空の中で子供たちの笑顔が繋がる。メリーな空彦が舞い上がる。
そして、その下では全力疾走をしているチームがいた。

僕は情況を仙台に伝えるべくムービーを回す。
英田上山棚田団、みまさか梅の会、美作市役所、山陽放送のチーム力が風を起こした。




僕はこの日にウメリーの成功を確信する。
リハーサルに参加してくれた人がこんなに楽しそうなのだから。



すがる思いで「上山までどなたかお一人来ていただけませんか」とお願いした仙台凧の会からは三人で行きます、とのありがたい答えが返ってきていた。
庄子先生と吉田さん、林崎さん。仙台から上山までは七時間コースである。しかも交通費までご負担してもらった。
やっぱり東北の眉毛が太い男たちは志が高いのだ。



僕と棚田団理事いのっちはカフェになったいちょう庵でウメリーの話を広める。

物語の舞台は上山なのだ。村人たちの共感なしでは成功するはずがない。そういう意味では、ウメリー物語の脚本はいちょう庵で練られていったのだ。

毎週のようにいちょう庵に来てくれる「みまさか梅の会」のくんちゃんと話をしたのもいちょう庵だった。

くんちゃんはウメリーに入れ込んでいた。なぜなら、ウメリー二日目の英田小学校卒業記念植樹にはくんちゃんの孫も来るから。
孫のためにプロの写真屋を雇いたい、というくんちゃんに僕は言う。

写真は僕たちが撮りますよ、ご心配なく。
水谷さんというアート・ディレクターが東京から来てくれて、笑顔の傘を開きます。
植樹だけだと地味かもしれませんが、笑顔の傘はとても素敵な思い出になるはずですから。

それなら、凧も子供たちに上げさせてくれんかな。凧上げたら、ますますいい卒業記念になるで。

はい、分かりました、と僕は答える。
実はこの時点では二日目にはもう帰っている仙台凧の会ぬきで、連凧を上げる自信はなかったが。

こうして物語は積み上がっていく。



物事のプロデュースをしていくとき、僕はまず足し算をする。
そのイベントの理想形を頭の中でイメージする。目標からバックキャストをして成功へのプロセスを考え続ける。

そして現場に入ったら必ず引き算をせざるを得ない情況が出てくる。
その時は潔く引き算をする。現場で足し算は絶対にしてはいけない。
これが、電通時代にCMロケ現場の修羅場で培った僕の経験値だ。



ウメリーの三階はかっちが建て増した。

それならヘリも飛ばしましょう。
前から準備していた棚田ヘリポートのお披露目もウメリーでやったらものすごいことになります。
上山のおじんおばんを冥土の土産でヘリに乗せちゃいましょう。
ヘリできれいになったふるさとを見せてあげましょう。

さすがに、この足し算は厳しいかも、とプロデューサは思った。

でも、ここにはかっちの物語がある。
この五年間、上山棚田団の切り込み隊長として村人との信頼関係を積み上げてきたかっちのキモチも空に舞い上げる必要がある。

そしてヘリコを飛ばすのはまさにプロフェッショナルたちだった。

NPO法人市民航空災害支援センターの竹ちゃんと山ちゃん。
311直後に東北にヘリを飛ばして支援をしたパイロットたちだ。彼らは僕の経験とは比べものにならない本物の修羅場をくぐり抜けている。



そしてウメリー基礎部分の最終工事も進んでいく。
竹を伐って野焼きをしても、たくさんの参加者のために植樹現場はできるだけ整備する必要がある。

ウメちゃんのチェーンソーが唸る。



そして棚田団もさらなる野焼きをする。支え人がいるからこそウメリーなのだ。



聖子は野焼きも好きだが、棚田団の美術担当でもある。
どこかの広告代理店がやるプロダクションまかせのイベントではなく、ウメリーはすべてが手作りのイベントだ。

僕は美術担当の聖子にカンパ箱制作を依頼する。細かいディレクションはしない。
すべては聖子にお任せした。

完全無欠なウメリーなカンパ箱。ここに聖子の物語ができた。



このカンパ箱でウメリー子供代表のはなみが着飾る。
子供たちは「ウメリー未来物語」の序章になっていく。



僕はfacebook上に「ウメリー実行委員会」を立ち上げる。
そして勝手に役割分担を決めていく。プロダクションはなくても僕には協創する仲間たちがいる。

同時に公開されたウメリーfacebookイベントページには続々と参加表明が続く。
その勢いは100名を越えようとしている。
民泊の手配、食事の総数把握、食事材料の手配、いのっち理事長の頭脳がフル回転を始めた。

ウメの植樹とメリープロジェクト、メリー連凧上げ、さらには棚田ヘリコ。

三階建ての豪華イベントはこうして現場に突入した。



2月22日、僕はいのっちとともに上山に入る。

上山棚田団はコトを起こすときはfacebookで綿密な打ち合わせをしている。
だがスタンバイはスタンバイ、現場は現場だ。

現場至上主義者の集楽体である上山棚田団は現場での打ち合わせで集中力を高めていく。

オールスタッフ打ち合わせをするなどという余裕はない。常に走りながら物事を成し遂げていくのが棚田団の流儀だ。
その日に初めて会ったメンバーにもプロデューサ特権で役割をふっていく。facebookで繋がっている者どうしに遠慮は無用だ。

そして、僕にとって心強かったのは「進行統括」いっしょーの登場だった。彼は福山雅治のコンサートツアーで厳しいイベント現場を踏んできている。業界用語も通じるし。



ウメリーのすごいところは各方面のプロフェッショナルがさりげなくそこにいることだ。

ウメリーの果実をブランド化するためには梅酒ソムリエるってぃがいる。るってぃは植樹する梅の品種選定からみんなで梅植樹をした後のチェックまでプロならではの動きを見せてくれた。



上山集楽の密着取材を続ける半農半ディレクターのRSKおかぴー。
彼はリハでは連凧のヒモを持って全力疾走し、本番ではヘリコで凧揚げを空撮しつつ、地元おじん代表、みっちゃんとまさるさんのメリーな表情を撮ってくれた。



そして半農半バーテンダーにして突如、連凧ヒモ引き技師に指名されたヒデヤ。



ニューヨークから上山に流れてきたタップダンサーのアサキ。



このストーリー・アートはどうやらネバーエンディングストーリーとなったようだ。

そして明日のアクター、アクトレスたち。




2月23日、ウメリーの最終香盤表を現場で書いていた僕に思いがけないプレゼントが届いた。
聖子が僕に渡してくれたのはウメリー刻印だった。

上山に来れないシドがウメリーの成功を祈ってキモチをこめて篆刻(てんこく)してくれたものだ。

僕はこの瞬間からウメリー終了までシドのキモチをお守りにした。

そしてウメリー終了後、和気駅で僕はシドに Special Thanks ! メッセージを送る。

動画撮影してくれた能と合気道の達人、銅水は言う。

上山では異様に高いエネルギーを感じる。
そのエネルギーが乗り移ったあの連凧は龍のように見えた。



ウメリーは現場にいない者の物語も包みこんでいよいよそのカラーページを開いた。

僕は和気駅で仙台凧の会と水谷孝次さん、りょうこを待つ。
なんだか空を見上げたくなるような時間が流れていく。



日本を代表するアートディレクターの水谷孝次さんが来た。ミスターメリー、三度目の上山入りだ。

仙台凧の会が来た。七時間以上かけて上山さいぼう庵に来た凧揚げ侍たちはお茶の一杯を飲む間も惜しんで連凧揚げのリハーサルを始めた。

まったくすごいプロフェッショナルたちだ。少年の心で風を見つめることができる男たちだ。



しかも凧は80枚の笑顔が繋がっていた。80枚の被災地からのメッセージが繋がっていた。

そして風を読み切った仙台凧の会が、その練達の技でついに上山の空からウメリーを天に届けた。

僕は何よりも、ウメリーの思いが風に乗った瞬間をいのっちに見せられたのが嬉しかった。

棚田団おかんはでかいイベントの時、いつも食事担当で裏方に回ってしまう。
この日も夜にいちょう庵でやる村人のための縁会の準備に追われていたはずだ。



ヘリ試乗会の詳細は前日でも決まらない。
いちょう庵縁会の片隅で僕とパイロットは打ち合わせを続けていた。



やがて村を回って様々な調整をしてきたかっちが遅れて登場する。
彼は縁脈が繋がった同志たちに挨拶をするとき、声を詰まらせる。

そんなかっちを見ていると僕まで泣けてきてしまった。
そして修羅場ヘリパイロットの竹ちゃんに笑われてしまう。

ようやくヘリ運行の目処をつけ、ずっとモヤモヤしていた天気予報を振り切って僕は宣言する。

明日は晴れます。
なぜなら僕たちには天神様と上山権現がついているから。
うめりいいいいい!


2月24日、大阪からモーリーが手配したマイクロバスが到着する。
参加者が棚田を横断して植樹現場に近づいてくる。
このマイクロバスのドライバーもプロフェッショナルだった。



僕と水谷さんは気合いを入れる、もとい、笑顔を入れる。



上山棚田に三度目の笑顔の傘が開いた。



仙台凧の会の皆さんも植樹をした。
彼らは現場の一番上の穴を選んだ。僕はその位置を忘れない。



さいぼう庵までメリーウオークをして昼飯後はいよいよメリー連凧上げ本番だ。



僕はヘリコが舞い上がるタイミングを待つ。

だが、凧上げは風が最優先だ。棚田にカイト・ディレクター、庄子先生の声が響く。

ヘリコの軽快な音の下、メリー傘が開き80枚の笑顔が棚田の風とみんなのキモチに乗って空に舞う。


「子供たちの笑顔は未来への希望です。天まで届け被災地の思い!」

「Umerrrrrry! うめりいいいいいい!」

僕は叫んでいたらしい。



地上では凧揚げ師こっひーが飛びっ切りの笑顔を振りまいてくれた。



僕は仙台から来た凧揚げ侍たちに感謝をこめて拍手を贈る。



そして現場は棚田ヘリポートに移った。

棚田ヘリ、ウメリー号の試乗会。
地元の70歳以上の優先搭乗が終わったらウメリー参加者の搭乗だ。



僕はウメちゃん、庄子先生と最終便に搭乗する。仲間たちが手を振ってくれる。



このようにしてストーリー・アート、ウメリーの第一章は終わった。

美々と上山ゴロ-&めりいの笑顔とともに。
はじけるいのっちとやっしーの笑顔とともに。



2月25日。僕は新しいウメリー物語を発見した。

上山笑顔の撮影会。上山のおじんとおばんの家を訪ねる訪問笑顔撮影隊が村を回る。
隊長はかっち、カメラマンは水谷さんと上山棚田の歴史を撮り続けている高田昭雄さんという豪華メンバーだ。

その途中でくんちゃんと出会った。くんちゃんは僕に言う。

よう凧を上げてくれたな。ありがとう。

差し出されたくんちゃんの手を握りながら僕はまた上を向きたくなった。どうもこの物語は涙腺を刺激することが多い。



僕たちは笑顔の撮影隊だ。上山の笑顔を集楽していくとまたどんどん物語が積み上がっていく。

だが、ウメリーにはもう紙面がない。次のストーリー展開の予感を孕みながらウメリーは最終章のページをめくる。

最後の登場人物、英田上山小学校の卒業生と先生たちがウメリーの舞台に上がる。



植樹リーダーはもちろんウメちゃんだ。
みんなウメちゃんのようにメリーな大人になるのだよ。



卒業記念写真のカメラマンはウメリー現場にいる全員だった。
小学生の未来を担保するためにシャッターが切り続けられる。



あとはくんちゃんが熱望していた小学生の連凧上げだ。
残念ながら風が吹かないままタイムアップする。



でも、それでいいのだ。

「永久の未完成これ完成である」と宮澤賢治も言っている。
カタチではなくキモチのストーリー・アートに終章はない。

コンテキスターである僕はただ句読点を打つだけだ。
日本の春がウメリーから来たことを信じて。


だけどね、小さな声でウメリー物語のエンディングをささやきたくなってきた。

かっちが泣いたら僕も泣ける。
グロロが泣いたら僕も泣きそうになる。
こんな泣き虫たちの集楽的物語がウメリーだったとさ。