2021年3月16日火曜日

IN MY LIFE Part2~中﨑義己さん

 3月13日で69歳になった。いわゆる「古希」まで後一年である。古来、希であった年齢も、今ではそれほどありがたみがなくなったようだ。

ならば「新希」。新しい希望が一年後に生まれる。

2016年9月、萩野正昭氏70歳パーティにて

豊かな土を育てるのは〈関係性〉だと思う。SARS-CoV-2が人と人の〈関係性〉を破壊する時代になっても、僕の人生はまだ豊かな〈X=関係性〉に支えられている。希望は自分で実らせる。結実のためには土壌がいる。

そのことに深く深く感謝したい。

還暦になったとき、「IN MY LIFE」という文脈レポートを書いた。

60歳になる直前に電通時代の戦友を失った。享年63歳だった。僕はその友より年上になって久しい。

IN MY LIFE」はジョン・レノンの名曲である。

 ♪~Some are dead and some are living,

  In my life Ive loved them all~♪

 死んでいる人も生きている人も僕は僕の人生の中ですべての人を愛してきたのだ。ちょっと恥ずかしい言葉も、ジョンのボーカルを借りれば語れる。

69歳になる直前に、年下の友を失う。216日に56歳で逝去した中﨑義己さん。

「僕もあと4年で還暦です。気をつけなきゃ」という言葉を遺し、川を渡って往った中﨑義己さんのことを書きたい。

最期に会ったのは2月13日、梅田のコワーキングスペースだった。いつもは現場で実践的な会話を交わすだけなのに、珍しく(おそらくは初めて)、これからのことを長い時間打ち合わせた。僕の「予兆なき人生初入院」の話をしたとき、返ってきたのが「あと4年」だった。

どうして、あの日、中﨑さんの写真を撮らなかったのだろうか。

「これからは、ここをベースにします。いつでも来てください、また話しましょう」と言われて、受付で別れを告げた。

中﨑さんの心肺が致命的に突然停止した216日の夕刻、僕は落語の「死神」を箕面メイプルホールで聞いていた。

自分の寿命の蝋燭を「ほっ」と吹き消して、バタンと息絶える。

中﨑さんの棺を180度回し、「アジャラカモクレンテケレッツのパッ」と呪文を唱えて柏手を2度打ったら、生きかえらないだろうか。

そんなことを思いながら、219日の通夜でお顔を拝見した。

まるで寝ているような安らかなお顔でした。そんなステレオタイプな言葉を使いたくなるくらい、悔しくて悲しくて。

僕は「往生」という言葉が好きだ。「往って生きる」。だから旅立つ人には、いってらっしゃい、と声をかける。

2020年4月29日、大円棚田
僕が知っているのは、希代の六次産業化プランナーのごく一部である。それほどの頻度で会っていたわけでもない。おそらくは誰も中﨑さんの全体像をホリスティックにとらえた人はいないように思われる。

僕に彼を紹介してくれたのは、なかがわ空庭みよこさん。関西の農的コネクションの元締めである。

最初に会ったのは『出雲國まこも風土記』を上梓した2016年の秋。僕と中﨑さんの縁脈はまこもさんがつないでくれた。彼は僕のまこも本二冊の伝道師でもあった。

2017429日には豊能町の大円(おおまる)棚田にはじめて行く。

2010年の同日、中﨑さんは綾部から72本のまこも株を棚田に移植した。以来、そこは北摂まこもの母田となった。

毎年、同じ日に株分けイベントをする。母なる田からまこもを持ち帰った人々は、それぞれのポジションでまこもさんを慈しむ。

2018年4月29日、大円棚田

今年も429日が巡ってくる。中﨑義己さんはいないのに。

遺志を継ぐこと。

2017年4月29日、大円棚田

2018年4月29日、大円棚田
中﨑さんの声は穏やかでまろやかだった。どちらかというと低い声。その声が棚田やマルシェに沁みとおる。

毎月の第二土曜日、難波神社で開かれる「ぐりぐりマルシェ」。主催する空庭みよこをサポートした中﨑さんのきめ細かさが十全に発揮されていた。

どんなイベントにだって裏方はいる。裏がなければ表はない。

2019年3月9日、ぐりぐりマルシェ

2021313日。空庭は「中﨑さん、ありがとうマルシェ」を開いた。

中﨑義己さんがいない「ぐりぐりマルシェ」にその志が飾られた。

空から雨が降りそうで降らない。降れば涙雨になりそうだから。

中﨑さんは難波神社の楠の枝に座っていた。たぶん。だめですよ、そこは国つ神の指定席なんだから。ははは、そのとおりですね、と声が聞こえた。

次から次へと中﨑縁脈がつながっていく。


ささやかな追悼文集が目の前にある。ささやかだけどつながっている。
前に行くための言葉がつらなっていた。

中﨑さんの笑顔は歯が可愛い。いつも楽しそうにプレゼンをしていた。

パナソニックに20年間勤めていたときは、最先端のIT系担当だったとのこと。ノートPCはもちろん「レッツノート」。発酵デザイナー、小倉ヒラクさんの講演をアシストしたときには「Mac、わかりませーん!」とぼやいていたのが懐かしい。

なんだか、彼の言葉の断片を想い出す。「松田聖子は蒲池法子です」。そんな酒呑み話をしたこともある。僕が電通で仕事をしたアイドルのことを話した数少ない仲閒でもある。

僕は文系コンテキスターだ。言葉の文脈を接続していくことしか能がない。

ところが、中﨑さんは「文理の統合(言葉と数学の融合)」を目指していた、という話を逝去後に聞いた。

「数学的思考による物事の洞察・理解」が行動規範だったという。

うーん、僕の知らない理系の顔をした中﨑さんがいる。さらには「カタカムナ」にも興味を示していたという。橋を渡って向こう岸に行く機会がきたら、ぜひ会って話を聞かせてください。

そういえば、八坂神社(大阪市大正区)の茅の輪をつくるために、毎年、大円棚田からまこも葉を運んでいた。夏越しの祓のときには、滔々と祝詞を唱えていた。

幸い、僕が預かっている彼のプレゼンパワポは文系でも理解できる。


中﨑さんは棚田を愛でていた。荒廃した棚田の復活の道を探っていた。

耕して天に至る棚田。田毎の月が映る。向こう岸でも見えてるかい?

大阪の南では千早赤坂村の早乙女たちが今年も田植え唄を口ずさみながら「植え筋とらえて手際よく」前に進んでいくことだろう。秋のハゼ干しも、もう何度もやっている。

大阪の北には能勢町天王の「空田」がある。こちらの棚田では、まこもがすっくと青空を目指す。「天空のまこも谷」というネーミングを採用していただき、ありがとうございます!

6枚の棚田をまこもが蘇らせるという夢のような景観を、中﨑さんとともに観たい。そう願っていた地元の人々は、あの山道を登りつづけることだろう。

2020年6月22日、天空のまこも谷

忘れない。往ってしまった人を人を悼むためには想い出すこと。その人が何を愛していたかを覚えておくこと。


風に吹かれたまこもさんがしゃらしゃらとおしゃべりするとき、そこには中﨑さんの声も混じることになる。きっとそうなる。


中﨑義己さんはまこもの香りに包まれて旅立った。

どうか、向こう岸のまこもさんにもよろしくお伝え下さい。

いってらっしゃい、またいつかどこかで会いましょう。

僕は、新希のためのリセットを始めます。




2021年1月28日木曜日

君に総理大臣になってほしい

 2021年1月25日、衆議院予算委員会。立憲民主党・小川淳也が質疑に立った。

小川は現在、「議員運営委員会野党筆頭理事」。普通は質疑に立つことはないポジションだという。

異例の抜擢は新型コロナ感染の当時者だから。さらには「お控え答弁」しかできない菅義偉首相と、その閣僚たちをロゴスとパトスで追及するためなのだろう。

小川淳也は香川1区の衆議院議員。現在、五期目。同区には菅内閣デジタル相の平井卓也がいる。

今年は必ず選挙がある。選挙区で小川が平井に勝ったのは2009年、民主党の「政権交代」選挙の一度だけ。ワニ動画を好むデジタル相には、実家である四国新聞と西日本放送が味方につく。ならばわたしたち小さなメディアが小川淳也のことを伝えよう。僕は香川県坂出市の出身で実家は大平正芳の大ファンだった。

2020917日に『なぜ君は総理大臣になれないのか』(大島新監督/2020年)という映画を見た。高松市で見ようとして見逃し、人生初入院をしてなかなか見れず、ようやく大阪のシアターセブンで見ることができた。見られて良かった。50歳になろうとしている国会議員の持っている誠実さにまっすぐ共感した。この人の言葉は力を持っている。ちなみに、この日は菅義偉が第99代内閣総理大臣に指名された翌日である。

「誠実さを笑うか泣くか、いまの日本が浮かび上がる」というのが映画のキャッチフレーズだった。いまの日本は沈みかけているようにみえる。

「立憲民主党の小川淳也です。わたしからもすべての犠牲者に哀悼の意を表し質問に立たせていただきます。総理、まず……」

議場から拍手が起こる。野党質問のトップバッター。イントロから惹き付けられる。

「総理、まず(短い間)咳がとまらないとか、咳こむとかいう報道が散見されます。今朝も朝からちょっと声のかすれが気になる。体調はいかがですか?」

「ご心配ありがとうございます。喉が痛くて声が出ないだけで、いたって大丈夫です」

「前総理のこともございましたし、想像以上のストレス、プレッシャー、重圧だと思います。くれぐれもご自愛をいただきたいと思います」

当日のNHKニュース7は、このシーンを菅総理の答だけを切りとって編集していた。「野党側」というのは小川淳也のことである。

続けて、質問通告しなかった問いを発する小川議員。

「政権内の発信の乱れがありましたので、総理自身の手でけりをつけてください。テーマはふたつです。ワクチンの確保は今年前半を見込んでいるのか、目指しているのか?そしてオリンピックの対応、様々に検討されていると思うが、中止も検討の対象に入っているのか、いないのか、この2点です」

「ワクチンについては目指してます。で、オリンピック、パラリンピックについては挙行する準備を整えてます」

「これ、あえて河野大臣にも苦言を呈しますが、発信力には敬意を表します。が、よく中で調整してから発信してください。総理、簡潔な答弁、ありがとうございます」

「今日は感染当時者として質問するのですが、その前にトップバッターとして補正予算と特措法に関して、ひとつふたつ訊きます。補正予算は、総理も反省があると思うんですね、GoToをもっと早くやめていたら、どうなったのか。緊急事態宣言をもっと早く発出していたら状況は変わっていたのかもしれない。外国人の流入をもっと早くとめていたら、変異種の流入を防げたかもしれない。総理なりにいろいろ反省があると思う。でも、全部、あとの祭りですよ。そこでひとつだけお訊きします。この補正予算にわたしは一兆円のGoTo予算が入っていることは不謹慎だと思う。3月までにやるのですか、税金つかって、旅行キャンペーン。撤回して組み替えを求めたいと思います」

「補正予算はコロナ対策をしている。丁寧に説明し早期に成立させコロナ予備費を活用し……」

と官僚作文を読み上げる菅義偉くん。

「脱炭素については、あっ、GoToトラベルについては地域経済の下支えに貢献するものであり(中略)然るべき時期に事業を再開する時期に備えて計上しています」

我らが宰相は言い間違いが多すぎる。紙を読んでいてさえ。

「総理、通告すると紙を読まれるので困るんですよ。最初の一問、わたし、通告してませんから単純に答えてくださいましたよね。総理の言葉が国民に届くか届かないか、これ、政治的に大きな争点になっていますから。ぜひ善処をお願いしたい。

「さっきちょっと言い忘れたのですが、『ワクチンの今年前半確保を目指す(ゆっくりと強調)』、という答弁は去年の秋、所信表明で総理は『来年前半までにすべての国民に届く数量を確保し、無料で接種します』とおっしゃっているんですね。だからこれは明らかに後退しているんですよ。もちろん、相手がある話ですからそう簡単ではないと思う。そこらあたりは、まあ充分(ちょっと考える間)、これね、だけどそうはいっても不都合なことをどれだけきちんと国民に説明できるかが、ますます問われてきますからね。そういう意味では必要以上に責めるつもりはないんですが、きちんとした発信なり答弁、ぜひお願いしたいと思います」

小川淳也が質疑に立つときには徹底的にロジックを組み立てるようだ。言葉を事実が支える。

「それと、GoToキャンペーンの実施を3月にやる、という意思表示ですからね。医療予算が足りるとか足りないとかいう話とはちょっと別に、わたしはまた国民に誤ったメッセージを発すると思いますよ。今回の補正予算にGoToキャンペーンが入っていること自体が。その意味で警鐘を鳴らしたいと思います」

小川の持ち時間はわずか20分、先を急ごう。

「もう一点、特措法です。やはりこの政権は前政権から夏に極めて無策だった。検査の拡大も病床の確保も。わたし、これ、あえて申し上げますが、前厚生労働大臣たる加藤官房長官の責任も大きいと思う。散々、去年、厚生労働委員会で議論させていただきましたよ。そのうえで、今、都内だけで6千人の方が入院を待ってる。全国で3万人、4万人と言われてる。この状況のなかで、入院を拒否したら懲役刑だと。わたし、ちょっと、気がしれないんですよ。どういう神経で、これ議論してるのか?!詳しくはまた後続の質疑者がおこなわれると思いますが、端的に、この入院拒否に対する懲役刑については撤回のうえ修正に応じることを求めます。総理」

議長が厚生労働大臣を指名する。

「総理に訊いてます」議長は無視する。

「協力要請というのがございまして、信頼のもとに病床を確保しないと」と滔々と病院対策に関する答弁を始める田村厚労相。小川議員が総理に質問したのは懲役刑についてである。

「あっ、入院拒否ですか、失礼しました。正統な理由があったら、ということでして、入院したいのに入院する場所がないのに、それは当然、懲役刑がありうるはずがないわけでございまして、よほど悪質な場合において、しかも立法事例としては今も病院から逃げ出される方がおられる、ということにおいて知事会からの要請があったということです」

議場が騒然としているなかで「そんなことは当然なんです」という小川の声が聞こえる。

「そんなことは当然なんです」小川が立ち上がる。議長の指名の声とかぶる。

「あえて、国民感情と申し上げますよ。今、不安で自宅待機している人がたくさんいる。総理、聞いてくださいよ。そして(詰まったような間)、自宅で亡くなる方も多発していますよね。そういう状況のなかで、懲役刑を議論すること自体が笑えないんですよ、これ。皮肉にもほどがある、逆説。なので……これ、まあ後続質疑者に譲りたいと思いますが、これは与野党で大きな議論ですよ。ね、総理」

議場から「そうり、そうり」という声が小さく聞こえる。

「ちょっと、わたしも野党内のいろいろ、声があるので、総理、一言、いただけますか」

「まず、新型コロナの患者のなかには医療機関から、これ、無断で抜け出してきたという事案もあります。先刻、知事会からも罰則の創設を求める緊急提言をいただいてます。こうしたことをふまえて、感染拡大防止策の実効性を高めるために罰則を設ける、とこういうふうに考えております」総理、立つ。

確かに全国知事会は1月6日に事業者に対する休業や営業時間の短縮要請に実効性を持たせるよう、罰則規定を盛り込んだ新型コロナ特措法の改正を求めた。

ただし、入院拒否者に対する懲役刑は求めていない。これは感染症法の改正案である。

「まさに、そこがこれから与野党協議になると思いますが、立法事実を立証する責任がありますからね。一体、どのくらいあるのか、把握してるのか、それも含めて。そういう前提で、わたしは国民感情と申し上げたわけですが、国民感情からすれば、むしろ処罰されるべきは満足な入院環境を整えられなかった政府の側じゃないのか、と」

「そうだ」と野党の声がそろう。

「それこそが、国民の今、抱えている思いだと思いますよ。そのことは強く申し上げます。それで、入院に関して、いろいろ、ちょっと確認するのですが、石原元幹事長が感染されて入院されたという一報に接しました。この点は(短い間)、心からお見舞いを申し上げ、一日も早いご回復をお祈りしたいと思います。ちょっと坂本大臣にお聞きしますが、大臣、これ発症日に会食、会合されてますね。わたし、不謹慎だと思う。てっきり今日は濃厚接触者として来ないのかと思った。ちょっと時間もないので先に厳しめに申し上げますが、厳しくいえば、これ引責に値すると思いますよ、大臣。いかがですか?」

この時点で持ち時間の半分を消化した小川淳也はちょっと焦りつつ、タイムリーな話題にふっていく。これは質問通告していたのだろうか。

1月21日の石原派閥内会食について釈明する坂本(地方創生・一億総活躍担当)大臣。

「(前略)食べるときだけマスクをはずして、ということでございます。その後、石原先生がコロナ陽性であったと予算委員会の説明のあと聞きましたので、宿舎でしばらく待機をした。そしてPCR検査を受けて陰性であり保健所から濃厚接触者ではないという判定を受けたところです」

「いったん、答弁、受けとめますが、にわかには信じがたいのですね。こういう不用意な会食をこの期に及んでする人たちが会食時以外、用意周到にほんとにマスクつけたんですか。坂本大臣、これ脅かすわけじゃなく、これ、わたし感染当時者としての経験として申し上げますが、だいたい、これ濃厚接触者と認定される場合とされない場合があります。そして、された方のうち、発症する方はだいたい一週間か十日でほとんどの方が発症される。だからみんな十四日間、自宅待機するんですよ。初日、2日目に検査を受けただけではすまないのが、こういうことなんです。だから控えなきゃいけなかったんですよ。総理もこれだけ会食批判を受けて、今この期に及んで閣僚が会食しているというのは、極めて忸怩たる思いだと思う。総理、これも厳しめに申し上げます。更迭すべきじゃないですか?」

小川淳也は生真面目で気づかいの人だ。922日、僕は故郷の国会議員とzoomで会合したことがある。丸亀高校の同級生が招待してくれた。

様々な質問に対して、小川は「諸先輩、ありがとうございます!」という誠実な声から話を始めた。隣の香川2区、玉木雄一郎にも気をつかっていた。

「さきほどの坂本大臣のここでの発言を信じていますから更迭は考えていません」

20年以上先輩のかすれた声の政治家が端的に答える。

「まあ、野党の立場だから厳しめに申しあげるのですが、それにしても(短い間)、情けないですよ。ほんとにこういう報道に接するとね。それでねえ、総理、わたし、これはほんとに気をつけて言わなきゃいけないんですが、この件に関して国民の間にこういう声もあると受けとめていただきたいんです。一部報道です。一部報道ですが、『あれだけ会食ダメと言っておきながら自分たちだけは特権かよ、症状ある人が入院できないのになんで無症状で即入院できるんだ?』という声もあるんですよ。これは石原さんご本人、あるいはご家族のお気持ちを考えると、とても(長い間)、言えないし言いにくい。しかし現実問題、今も申し上げたように入院できない、自宅で亡くなっているという方々が多発している状況のなかで、この国政に携わる、しかも自民党の大幹部がこういうことだと疑念を生じるのも無理はないとわたしは思う。この声に対して総理大臣として自民党総裁として、ひとつ受けとめてコメントいただけませんか」

「石原元大臣がどういうかたちで入院したのか、わたしは承知をしていません。ただ、今、委員からご指摘のあったこと、ひとつのご意見として受けとめさせていただきます」

ただの意見として受けとめたという回答である。声はかすれていても趣旨はくっきり明解だ。

「あの、難しいおたずねであることはよく承知のうえでのおたずねでした。もう残り時間、ほんとにわずかなのですが、本題に入らせていただきます」

気づかいには時間がかかる。気づかいをスルーできる人は、その時間に気をつかわない。


ようやく1116日に当時者となったコロナ感染経験に基づく質疑に入った。

「わたしも、ですね、11月に、ほんとに無念でした。感染が分かったときは。そして多くの方にご迷惑とご心配をおかけした。さらにいえば、医療関係者のみなさまにほんとにお世話になって、こうして、回復、した(短く区切りつつ)ことの責任を逆に感じて、今日は質疑の時間をいただいてます。経過をざっとまとめてあるのですが、このなかで、課題が、わたしの体験からいって六つ浮かび上がっているんです。田村大臣、よくお聞きになっていただきたいんですが。まず、近所のクリニックで検査を断られているんですね。これは平時にはやってるんですよ。ところが発熱したら来ないでくれ、ということなんですよ。聞いてみると、約6万の内科クリニックのうち発熱外来に対応しているのが2万だそうです。3分の1。きわめて不充分だと思う。ふたつめ。都の相談センターに一私人として電話しました。幸いかな、当時は一日、二、三百人でしたから、都内。すぐに電話がつながり素早く対応をいただいた。しかし、そこで紹介をいただくまで、どこで検査しているか分からないから、これはみんなそうだと思いますが、事前に準備できない。この非公表の問題がある。そして、その後、秘書にも頼めない、家族にも頼みにくい、さいわい1キロ離れたところに検査のクリニックあったんですが、徒歩でいきました。39度の熱をかかえて。ほんとにこういうときにたとえば防護タクシーとか。つまり陽性が確定したら保健所の監督下に入るんですね。しかし、それまでは自助努力なんですよ。ここをなんとかサポートしないと。わたしは都心でしたが、たとえばこれが郊外なら地方ならどうなのか。ほんとにいろんなことを想像しながら病院まで歩きました。そして陽性確定後は保健所の監督下に入り防護車両で入院をさせていただいたんですが、その間、さまざまもろもろ濃厚接触者のヒアリングを受けます。これ、なかなか、一番しんどいときですので、大変なんですね。しかしまあ、記憶をたどりながら誠意をつくす、という作業に入ります。これ濃厚接触と指定された人は公費で検査を受けられてるんです。ところが、そうじゃない人は自費検査に追い込まれている、ほとんどの人がね。あとでお聞きします。そして入院後、検査の結果、軽症と診断されました。しかし自覚症状、強いんですよ、十日くらい発熱続きましたから。そのうえで、投薬はしませんという医師のご判断がありました。つまり呼吸器につなぐような状態にならなければ投薬はないんだというのが大方針なんですね。その背景には投薬状況、非公表で、おそらく、輸入薬品ですから、レムデシベルにしても、公表できないという事情があるんだそうです。この投薬状況が明らかになっていないということも患者の立場からすれば不安材料のひとつです。そして、最後に、約10日間、11日間、病室から一歩も出ない日々でした。しかし、看護師さんが、日々の看護や健康チェックはもとより、なんですが、部屋の清掃からゴミ出しから非常に加重な負担を負っている。今回、補正予算でこの支援措置は入ってますが、実際に委託先がほんとに見つかるのかどうか、これきわめて重大な問題です。ほんとはひとつひとつ丁寧にやらなきゃいけないのですが、このなかで今日あえておたずねしたいのは、検査政策に関わるのでお聞きします。わたしは折しも、発症当日、16日、月曜日、厚生労働大臣に雇用調整助成金の期限延長の要望にまいりました。そのときに面会をさせていただき、もちろんマスク着用です。そして一席、席をあえて離して距離を取りました。しかし面談したことを大変申し訳なく、その後思っていました。それは香川県の鳥インフルエンザ、鳥インフルでまいった農林大臣もそうです。それから、ご一緒させていただいた平井大臣もそうです。閣僚3人と接点を持ったことを非常に悔いてました。しかし、さいわいかな、その後、陽性者でなかったわけですが、ちょっとそういう情緒的な問題とは別に検査政策に関わるのでお聞きします、田村大臣。わたしとの接触が明らかになって以降、自らPCR検査を、濃厚接触者にはあたらなかったと思いますよ、PCR検査を受けられたのかどうか、その点、答弁をお願いします」


パネルを使いながらの長い質問であった。小川淳也は香川県の支援者に対して、自分は〈毛穴から伝わるような言葉を発したい〉と言っている。僕もzoomで聞いた。

本題の質問はまさに感染当時者たる国会議員の毛穴から出てきた言葉だと思う。39度の発熱をした毛穴からの汗と震えを感じた。

「あの、これに関しては個人情報になってまいります」

論点をずらそうとする田村大臣。したたかな政治家であることは確かだ。

「わたくしがそれをここでそれを申し上げることによって、国民のみなさまで同じような状況の方がおられたときに、そのような圧力がかかる。これ実はですね、国会の審議のなかでもワクチンで、やはり打ったか打たなかったかを言うことに対して、聞くこと自体もいろんな圧力になる、というご指摘もいただいております。だからわたしがここで言うのは適当でないので控えさせていただきます」

「委員長!」小川の手が素早く挙がる。

「今、坂本大臣、自分がPCR検査を受けましたとおっしゃったじゃないですか。田村大臣、これね、自分が安全かどうかという問題ももちろん大事なんです。しかし、同じ状況に置かれた方がどうすべきかを、あなたの行動はこの国の厚生労働大臣として体現していなきゃいけないんですよ、だからもし受けてないなら受けてないでいい。受けたならなぜ受けたのか、濃厚接触者にあたらないのに。というのは濃厚接触者の範囲が狭いってことです。それは実際、どうなっているのか。そういう方々はね、みんな、自費検査に追い込まれてるんですよ。これは個人的な不安もある。社会的責任、社会的圧力もある。この対応を放置してきたのが厚生労働大臣(短い間)、この国のです。ということを申し上げ残念ですが、時間ですので。これー(間)、まっ、わたし今日、議員運営員会なんです。本来の所属は。なので、異例のかたちで質疑をさせていただいていて、ほんとに貴重なお時間をお預かりしているのですが、もし、緊急事態宣言に今後なんらかの変動がある場合は、総理、ぜひ議員運営員会に自らご出席なさってください。今日はほとんどのことが指摘に終わってますので、はなはだ不本意ですが、また改めての機会をと思います。ありがとうございました」

最後の質問を田村大臣は自席で首を横に振りつづけながら聞いていた。感染症対策の要、厚生労働大臣の真意は分からない。


小川淳也の2010秒が終わった。

君には、ぜひ、総理大臣になってほしい、と僕は思った。

なぜ、主権者たる国民は君を総理大臣にできないのだろうか、と考えつづける。


彼の息づかいは映像を見てください。小川淳也登場シーンを頭出ししています。

https://youtu.be/NZe2RnkWp8M?t=17452

質疑のあと、小川淳也は以下のツイートをした。

久々の国会質疑で緊張しました。わずか20分の時間に野党トップバッターとしての役割と患者当事者としての役割の両方を押し込むのは、本当に至難の業で悶絶しました。荒い質疑に加え、最後に伝えたかった大切なことも結局伝えずじまいです、、ごめんなさい」

コンテキスター(文脈家)として補足をしておこう。僕に香川1区の選挙権はないが、一応、故郷の先輩でもあるし。

2020125日。朝日新聞・WEB論座にノンフィクション作家、中原一歩の小川淳也インタビュー記事が掲載されている。

「国会議員3人目の新型コロナ感染で感じたこと、考えたこと」

https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020120500004.html?page=1

小川淳也衆議院議員がコロナ感染。国会議員で3人目――

1117日の夕方に配信されたニュースを見て驚いた。というより、慌てた。さかのぼること6日前、私はある出版社の編集者と2人で、永田町にある衆議院会館で小川淳也氏本人にインタビューをしていたからだ。

人間は正直な生き物だと思った。その一報を聞いた時、小川氏よりも、まず自分の身体を案じた。すぐに行きつけのクリニックで抗原検査をし、翌日、別の病院でPCR検査を受けた。結果はいずれも「陰性」だった。

 中原一歩が濃厚接触者と認定されるはずがない。もちろん自費であろう。感染当時者である小川淳也が「伝えたい大切なこと」は、このインタビューの後半にあった。

――実際に感染して分かったことはありますか?

陽性が判明すると、記憶をたどりながら濃厚接触者を洗いだすのですが、基本的にマスク着用で接触した人は濃厚接触者として認定されてないのです。つまり、私の場合、これに該当するのは、家族、事務所秘書、後援会関係者などマスクを外して会食をした数人でした。幸いにも、いずれも「陰性」でした。

しかし、実際にはマスクをつけて接触した非濃厚接触者は大勢おられます。濃厚接触者と認定されれば公費で感染の有無を検査できますが、非濃厚接触者の方は、自費で高額の検査を受けてもらわなければなりません。

マスクをつけていたから公費では検査できませんというのは、やはりおかしい。濃厚接触者を狭く絞って、できるだけ公費負担を減らすという従来の政府の方針は限界がある。やはり、誰しもがいつでも、どこででも、何回でも検査を受けることができる仕組みを確立すべきです。

感染当時者、しかも国会議員という国民の権利を代表する立場としての〈毛穴から出た言葉〉であろう。

小川淳也の主張は「いつでもどこでも誰でも何度でも無料で」というニューヨーク方式の「社会的」PCR検査体制を国の施策とすべし、ということだと思われる。間違っていたら、ごめんなさい。

2020年11月19日感染報告
感染した! 

濃厚接触者の判断がされた。でも、濃厚な人以外、自分がマスクをして会話をした人にほんとに感染させていないのだろうか? 大切なあの人、この人に。

そこにさらに「社会的圧力」がかかる。感染者は39℃の高熱下で自分の「責任」について悩む。

小川淳也が「社会的PCR検査」を熱望しても無理はない。無症状者でも「いつでもどこでも誰でも」、感染者の社会的不安を払拭するためにも検査を受けられるようにすること。

感染症対策の基本は「検査して隔離」である。感染経路を絶てば感染は広がらない。SARS-CoV-2は「人類史上、一番変なキャラのウイルス」(岩田健太郎)である。

サイレント・キャリアの発見のためにも、PCR検査のキャパシティ・ビルディングを心の底から訴えかけねばならない。小川淳也は自分のミッションについて自覚的である。

立憲民主党は羽田雄一郎参院議員をCOVID-19で失っている。 


小川淳也に関する文脈レポートも例によって長くなってしまった。

書いている間に、第三次補正予算は修正されずに国会で承認されてしまう。

128日、感染症法改正案から刑事罰(懲役刑・罰金刑)は削除された。あたりまえの結果が得られたことを喜びたい。

小川淳也は誠実に自らの質疑を振り返る。「報告とお礼」として映像をツイッターに投稿した。その2回目(127日)を書き起こす。

短い質問時間のなかで言及できなかったことがあります。これ、とても大切なことだと感じています。質疑をとおして、閣僚や偉い人たちが会食も、そして検査も、そして入院もなんだか特別あつかいされているように見えること。これが、国民の共感や信頼につながらない最大の理由のひとつのような気がします。そこでわたしは、こんなことを申し上げるのは、不格好だし、そんなことはまったくつもりもなかったんですが、実は、ひとつ、思い起こすことがありまして。退院したあと、社会復帰する前に、PCR検査受けた方がいいと、ある大学の高名な先生に言われました。今、運用上、それは必要ないことになっているのですが、先生に言われたのでそうしようと思ったんです。その先生からうちの大学においで、と。わたしが検査してあげるから、と言われました。ありがたいな、と思ったんです。でも、ふと、そういうところから自分がおかしくなるんじゃないか、と思って丁重にお礼を申し上げてお断りしたんです。そして、都内に新設されたばかりの検査センターに自転車で行って、その列に並びました。ささいなことであり、どうでもいいようなことなんですが、今多くの方が何を不安に思っているのか、どういうところで、ご苦労をなさっているのか、そういうことにできるだけ自分の身体をひきつけないと、そこに身を置かないと、やっぱり正しい政策判断や政策決定というのは難しい。そのことをぜひ、政権に対して、また与党幹部に対して訴えたかった。時間があれば、ぜひ、そういったエピソードも盛り込んで政権の姿勢を正したかった。そんな思いでした。ありがとうございます。

https://twitter.com/junyaog/status/1354315315358752773?s=20

 「そこに身を置いた」当時者としての小川淳也は新型コロナウイルス対策に身体をひきつけていくことであろう。


【補足資料】

 『日本のコロナ対策はなぜ迷走するのか』

(上昌広・倉重篤郎/毎日新聞出版/20201120日)

小川淳也の質疑に関連しているとコンテキスターが判断した部分を引用します。

――さて問題のPCR検査です。ズバリなぜ増えないのでしょうか。(倉重)

端的に言ってこれは人災だと思います。なぜなら感染症法の問題だからです。現行の同法で、検査対象を濃厚接触者に限定している部分を無症状感染者にまで広げられるようにすればいいだけのことです。なぜ対象を限定しているのか。この検査を特定の組織、団体だけで利権化しよう、という動機があったのだと私は睨んでいます。(中略)

日本では本当の意味での国民主権の議論をしていないのではないか、という問題提起です。64頁)

――国民主権の議論というのは?

例えば、コロナの時に休まずに働いてくれる方々のことを考えてください。医師や看護師や医療スタッフから介護職、学校の先生、警察官や自衛官、こういう方々をエッセンシャルワーカー(社会で必要不可欠な労働者)と呼びますが、こういう方々こそ率先してPCR検査を受ける権利があるはずだと思いませんか。(中略)

ただ、今の法制度の立て付けでは、そういう方々は無症状者であるがゆえに、つまり法で規定された濃厚接触者という範疇には当てはまらないがゆえに検査対象者にはならないのです。彼らを検査対象に加えるためには感染症法の改正が必要になるのですが、これに強硬に反対してきたのが厚労省であり、その官僚集団に担がれた加藤勝信前厚労相であり、後任を引き継いだ田村憲久現厚労相なのです。田村さんは、自民党のコロナ対策本部長の時は、テレビの討論番組で、エッセンシャルワーカーに対して検査をすべきだと主張されていたにもかかわらず、です。(65頁・66頁)

【参考資料】

2020924日、小川淳也zoomイベント後の拙投稿

https://www.facebook.com/fumio.tanaka/posts/3271246586285479

朝日新聞・WEB論座(20201230日)

「勝ち馬追わず、敗者を背負え 問われる政治家の覚悟と矜持」大島新

https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2020122900008.html?page=1

『なぜ君は総理大臣になれないのか』公式パンフレット

『僕が「PCR」原理主義に反対する理由』

(岩田健太郎/集英社/20201212日)

『丁寧に考える新型コロナ』

(岩田健太郎/光文社/20201030日)

朝日新聞、毎日新聞、東京新聞

 ※NHKニュース、羽鳥慎一モーニングショーから画像をお借りしました。敬称は略させていただきました。


2020年12月31日木曜日

元気な養生してみた

2020年は人類史に遺る年となった。

昨年の12月31日に武漢で存在が公表された原因不明の肺炎患者27名が始まりだった。

それから1年、地球上には8230万人の感染者がいて180万人が死亡している。

極東の列島国では22万7千人が感染して3196人が死亡した。

愛も欲望もない新型コロナウイルスは淡々と自分をコピーしつづける。

僕にとっては、電通脱藩から10年という節目の年だった。「十年はるかな昔」という中間報告をしたのが79日。

大晦日たる今日、「帰らざる日々」はさらに遠くなった気がする。

毎年恒例の年末文脈レポートを書くために今年のタイムラインを整理してみた。

825日(火)から99日(水)までの16日間は単純である。

箕面市立病院入院。以上。

68歳にして人生初の入院だった。まさに想定外。まさか!ってやつ。

スケジュール表的には単純だが、その日々のことを記憶し記録しないと、年は越せない。しっかり書いておくことは来年から「下り坂をそろそろと下りる」ための道標になりそうだ。

825日はどのような文脈の日だったのか?

COVID-19、国内の1日の感染者数は711人。累計感染者数は63210人

第二波の下り坂。つまり動く判断をするには適していた日だったと思う。

コロナ禍に加えて、長雨過ぎたら猛暑。人と作物にとっては過酷な夏が続いていた。

僕はStayFarmな日々。

8月25日・キンカントマト

ちょいと遠出したくなった僕は26日から和歌山県の龍神温泉に鮎釣りに行こうとしていた。民宿「せせらぎ」、35年以上通い続けている常宿を予約する。

今年はじめて、ようやくやっと龍神で竿が出せる。川にコロナウイルスはいない、たぶん。日高川上流なら十分なソーシャル・ディスタンスが保てる、間違いない。

しばらく畑に行けなくなるので、午前中は野良仕事。キンカントマトは猛暑に負けない。大豆の世話はカマキリくんにお任せする。

畑から帰って昼餉。だし巻き玉子を焼く。出雲の米を食う。キンカントマトをかじる。

結果的には、この食事から長い間、食べることができなくなった。

さあて、明日からの釣行に備えて、仕掛けをつくろう。浮き浮きする。

816日から23日までは箕面市議と市長選挙だった。

「大阪維新の会」が跋扈するストレスフルな選挙戦。黄緑色の大音量に対抗する市民派の候補者を応援する。

「半径300キロ」生活からの撤退を余儀なくされたこともあり、僕は、はじめて地元の選挙に関わった。

市長は残念な結果だったが、応援した候補者たちは当選した。喜ぶ。

8月22日・箕面駅前

やれやれ、という心持ちだったので、川に行けるのが嬉しくて楽しくて。

ところが。腹具合が悪くなる。トイレに行く。下痢症状。なんかおかしい。便器が血に染まっている。なあにたいしたことはない。

実は、かなり以前に痔瘻の手術をしたことがある。痔疾の中では悪性なので入院の要ありかもしれなかった。でも日帰りで施術できる技量を持った病院のおかげで歩いて帰った。

盲腸もまだ大切に持っている。入院無縁生活。他人のお見舞いには数限りなく行ったけど。

ときどき、便に血が混じった経験は痔主なら誰でもあるだろう。

何度かトイレに通ったが、そのうち治るから、ひと休みして仕掛けつくり。と思って横になる。

だが。すーっとお尻から何かが抜けていく感覚がくる。あれれ。血便が漏れている。

山の神(妻のこと)は外出していた。電話する。「病院に行きなさい」。はい。

トイレに通う間隙を縫って、近くのかかりつけ医に行った。休診である。そうだった、火曜日午後は休診だった。すでに正常な判断ができていない。

では、もう一軒のクリニックへ。こちらも休み。

猛暑である。この間、歩行十分くらいだろうか。自動販売機でスポーツドリンクを買って飲む。へろへろとマンションの階段を上がる。吐き気もする。冷や汗が出る。おそらくは熱中症も。ドアを開けてトイレに駆け込む。

吐く。血はダダ漏れ。

そのとき、「ただいま~!」と山の神。救いの神。「救急車を呼んで」。

そこから先の記憶は朦朧としている。

救急隊員さんが「自分で階段を下りられますか?」はい。手すりを頼りに下りる。

「携帯、ケイタイ、けいたい」とつぶやく患者。「ここにありますよ」と隊員さん。

「すみません、すみません」どこまでもGAFAな生活から離れられない患者。

救急車内。事情を説明する。痔がなんとか。隊員さんは的確に判断して病院を選ぶ。

箕面市立病院。17時頃到着。はじめての救急車体験は短いものだった。

8月25日・赤オクラ

「ここはどこですか?」両腕を点滴につながれた患者が問う。「回復室です」と医療スタッフ。回復室、変な言葉、あっそっか。ERってことか。

意識は赤いオクラのように鮮明にはならない。山の神がおわします。あら長男もいる。

駆けつけてくれたのか。ありがたい。

血圧を測る。CT検査をしたような気もする。ストレッチャーで移動しながら、マスクを出してつけた。もちろん体温も。発熱していたら現場はもっと大変だったのだろうな。

なぜか便意は催さなくなっている。

「血圧がどーんと落ちている」と言われたような記憶がある。

大量出血したけんね。路上で倒れたら危なかったのかもしれない。

「家に帰る、帰りたい」とうわごとを言う。

「入院を強くおすすめします」と断言される。そりゃそうだ。

かくして、人生初入院となった82521時頃。

とまあ、こんな調子で書いていったら、拙文は節分まで書き終わらない。先を急ごう。ちなみに2021年の節分は22日だ。

入院した夜は四人部屋だった。人生初、オマルで排尿する。排便を試みるが出ない。あれほどダダ漏れしていたのに。血がついたサンダルで入院していた。

826日(水)。

午後から個室に移ることができた。僕はSAS(睡眠時無呼吸症候群)なので寝るときはCPAPを必要とする。もしマスクが外れたら夜中に叫ぶこともある。贅沢と言われても個室を切望していた。

美しくデザインされた田んぼが見える。これはありがたい。眼福である。

消化器内科の主治医と会話する。

病名「大腸憩室出血」。「けいしつ」、どこかで聞いた覚えがあった。

2月に人間ドックに入ったとき、便潜血反応があった。精密検査の必要ありで3月に大腸CT検査をしている。「憩室はあるがガンはない」と診断されていた。

「けいしつってどんな字を書くのですか?」

3月と同じ質問を主治医にしていた。漢字を思い出す。

憩室とは大腸の内側から外側に膨らんだ風船のようなものである。

「憩室がある限り、出血の可能性はある。今回はガンによる出血ではないと判断している」と主治医の見立てが伝えられた。

別の症状に「大腸憩室炎」がある。こちらは腹痛と発熱があり痛いらしい。炎症だから重篤になる可能性も否定できない。

僕は単なる出血だった。単純な人間でよかった。自然治癒を目指す。抗生剤は使わない。

要するに大腸憩室の傷口に血小板くんが集まって凝固してくれるのを待つわけだ。

マクロファージちゃんの出番はなさそうである。

3月の大腸CT検査の結果を伝えると、今回は大腸内視鏡検査はパスしましょう、ということになった。

血液検査ではヘモグロビンの数値が低下。ごぞんじ、酸素を運ぶやつ。ヘモグロビンの回復には1ヶ月以上かかると言われた。造血剤を処方される。便を柔らかくする薬とともに。

電気式点滴スタンドにつながれたまま絶食生活が続く。がらがらと点滴スタンドを引き連れて、頻繁にトイレに通う。だが、便は出ない。

食べなければ出ない。シンプルな話。

827日(木)。

この時点では31日には退院できそうと楽観していた。

「元気な養生!」

平熱、痛みなし。血圧正常値。本がたくさん読める。

安倍晋三の辞任と僕の退院とどちらが早いか、などとフェイスブックに投稿する。

828日(金)。

72時間ぶりに食べる。三分粥と高野豆腐とコーンスープとヨーグルト。極めて薄味。意外なほど空腹は感じていなかった。久しぶりの飯は、いと美味し、と言いたいところだが、でもね。

の後、入院以来、はじめての排便。血はついていなかった。

「食べることと出すこと」というシステムは正常に作動しているようにみえた。

夕刻、安倍晋三辞任会見。あれほど待ち望んでいた「アベはやめろ!」なのに、あまり感慨はなかった。ほぼ予想どおりの日程。「潰瘍性大腸炎」の再燃という自らの政治的責任とは違う理由による辞任。世間の風は同情の方にも吹く。

憲政史上、最長最悪の安倍政権を引き継ぐ「冷血陰険姑息」菅義偉政権が既定路線だった。

退院してから2018313日の朝日新聞を取り出して829日と並べてみた。

829日(土)。

3日間以上、行動を共にした点滴から解放された。トイレに行くのが楽になる。ランチには五分粥と白身魚とインゲンの胡麻炒めを食べた。写真はない。「元気な養生」生活が忙しかったから撮り忘れた。

安倍晋三辞任に関する報道のキュレーションをする。「報道特集」のテレビ画面を撮影する。赤木雅子さんが出演していた。

そして、読書は続く。Kindleは忙しい。

830日(日)。

点滴を見つめながらフェイスブックに投稿した。

【点滴考】

光のなかでも闇のなかでも、ぽたりぽたりするやつ。命の水を血管に届けてくれる管。

人生初の入院で点滴に90時間つながった。救急搬送されたときは両腕にダブルだった。電源コードを引き抜いて支柱片手に歩いていた。

針が腕から抜けたときの解放感。点滴と分け合っていた自分の左腕が返ってきた。

点滴を見つめながら思いだしたこと。

父は2008年に香川県坂出市の病院で逝った。喉頭癌で食事はできず、点滴で生きていた。最後に会いに行ったとき、父は点滴スタンドをいなしながらトイレに行った。支柱を蹴っ飛ばした。白いスーツに身を固めたロックスターのように。かっこいいと思った。その後、僕が電車で瀬戸大橋を渡っている途上で、父の死を告げられた。

母は2018年に坂出の老人介護施設で逝った。老衰で経口での栄養補給ができなくなった。主治医からは点滴だけになったら余命三カ月です、と告げられていた。点滴のみになって、その期限が近づいた日の朝、僕は小豆島の家で草を刈っていた。納屋のガラスが割れた。草刈りを中断して瀬戸内海を渡った。その夜だった。

まったく突然に、訪れた自分自身の点滴体験であれこれ考えさせてもらった後、経口で食事をすること、5回。明日の朝には退院できます。

みなさん、心温まるメッセージ、ありがとうございます。


(インターミッション)

ということで、当初は831日には退院できるはずでした。だがしかし、甘かった。

僕の大腸はもう少し、養生を必要としていたのです。

「元気な養生」後半を書く前に、この時期の箕面市立病院のCOVID-19対策、医療スタッフへの感謝、入院生活のルーティンなどをまとめてみます。

僕が入院していたのは5階の東病棟でした。西病棟はコロナ患者専用としてゾーニングされていました。この時期の病院には、それほどの緊迫感はありませんでした。あまりコロナ患者はいなかったのかもしれません。

「何人、コロナの人が入院しているのですか」と看護師さんに訊ねても「それは言えないんです」とのこと。

面会は感染症対策のため、できません。必要なものは山の神にお願いして受付まで届けてもらいます。16日間、僕が顔を合わせていたのは主治医、看護師、清掃スタッフ、消毒係、配膳係さんのみです。

動ける範囲は東病棟の廊下とB1のコンビニ通いのみ。毎朝、コンビニに毎日新聞を買いにいきました。朝日新聞は山の神が届けてくれたので。

窓下の田んぼには、田見舞いの軽トラが定期的に来ていました。自分の畑のことを考えますが、どうしようもありません。雨が降ってくれることを祈るのみ。

主治医は平日の毎朝、「羽鳥慎一モーニングショー」の時間帯に来てくれました。質問を用意して待ちます。清掃スタッフは年配の男性。顔なじみになると窓から見える風景について他愛ない会話を交わしたりしました。

そして看護師さんたち。本当にお世話になりました。採血、体温と血圧測定、点滴、トイレチェック……。

申し訳なかったのは着替え。点滴につながれていると着替えすら自分ではできません。

箕面市立病院は老朽化が進んでいるように見受けられました。個室でもエアコンの調整がうまくいきません。上着を着たり脱いだりする必要がありました。

そのたびにナースコールを押してしまいます。

また、窓のサンシェードを開閉する棒もはずれてしまいました。各部屋で、そういうことが起こっているとのことでした。

箕面市政を牛耳っている「大阪維新の会」の皆様は新自由主義者です。医療資源を含めた社会的共通資本を削減するのが「身を切る改革」だとお考えになっています。箕面市立病院には長い間、市からの補助金が届いていないそうです。民営化計画も進んでいるとか。

現在、COVID-19第三波の真っ只中で、入院病棟の医療スタッフがどのような思いで働かれているのか。想像すると頭が下がります。

箕面市議選挙中、日本共産党の訴え
当然のことながら、人生初入院は酒を呑まない日々でした。

退院後の採決検査日、925日まで一滴も呑みませんでした。それほど呑みたいとも思わない。あれれ、僕ってモノホンの呑みスケではなかったのかな。ちょっと寂しくなりました。


さて、話を831日(月)に戻そう。

朝食後に下血。2日間、排便できなった。便意はあるのに出ない。ここが踏ん張りどころだと思っても出ない。で、久しぶりに出たら便器が真っ赤になった。

看護師を呼ぶ。主治医が来る。午前10時に予定されていた退院は中止。山の神に電話する。

大腸内視鏡検査をすることに決定。自然治癒に近道はなかった。

また窓から田んぼを眺める日が続くことになった。

今から思えば、退院直前に下血してよかった。あのまま帰ったら、再入院という事態になっていたのかもしれない。

検査のために下剤を2リットル飲む。また点滴につながれた。

午後、内視鏡検査。鎮静剤点滴のため痛みも記憶もなく終了。

91日(火)。

入院8日目。最悪の日。

午前3時に下血。

主治医から検査報告あり。大腸内、出血箇所は特定できず。したがって内視鏡的止血術はしていない。ガンはなし。

ヘモグロビンが6.6に減少。輸血することに決定。これも人生初体験。点滴に止血剤を入れる。

その後、10回下血。点滴と輸血を引き連れてトイレに通う。個室からナースコールを押して見てもらう。

「ホラ、マタ血ガデタヨ」

情けないが、しかたがない。

92日(水)。

まだヘモグロビンは回復しない。輸血した分、下血してプラマイ0。

再び輸血、400㎖を2本、4時間。

こうなったら、腰を、いや尻を据えて養生する必要がある。それならば読書以外にも楽しみが必要である。

配信ドラマを見始める。

『アウトブレイク〜感染拡大』

20201月から3月にカナダでオンエアされた連続テレビドラマ、全10話。

COVID-19を予言していた。あまりにリアリティがあるので入院中に見るのは悪趣味かな、とも思ったけど。

新しいルーティンができた。寝る前に『アウトブレイク』を1話見る。これは緊張感のあるドラマ。緊張の後には緩和がいる。桂枝雀がそう言っている。

で、YouTubeで枝雀落語を見る。枝雀はロングドライブの友として音声ではほとんど聞いている。でも、当たり前だが、落語はヴィジュアルがあった方がいい。「鴻池の犬」のマクラで「B29のものまね」というのがあった。なるほど、こういう仕草だったのか。

「緊張と緩和」で、就寝に問題はなくなっていく。

93日(木)。

点滴差し替えの合間に9日ぶりにシャワーを浴びる。ひたすら気持ちいい。予想された問題が起こる。「都構想=大阪市廃止」住民投票が111日に強行されることが決定。

またカウンター情報発信に忙しくなった。ノートパソコンを届けてもらって、箕面の山を見ながら、言いたいことの山々をフェイスブックに投稿していく。

94日(金)。

午前0時に少量のお漏らしをしちまったぜ。

三分菜食、始まる。いつか来た道で食べる訓練の再開。でも、まだ鉄分いりブドウ糖とのダブル点滴は続く。


95日(土)、6日(日)。

点滴とノートパソコンを友として、ああじゃこうじゃ、と書き続ける。

「島根大学のモノクローナル抗体治療薬」「大阪大学のRNAワクチン開発と吉村知事の態度」などなど。「元気な養生」は忙しい。

97日(月)。

1140分、点滴から完全解放される。僕の腕は自由になった。シャワー、しゃわしゃわ!

毎日新聞1面に「都構想=大阪市廃止」住民投票の結果が報じられる。これはまずい。

(※後日談:111日の住民投票は市民の力で反対多数でした。凛とした市民たちに敬意を表します)

98日(火)。

朝、主治医と話す。翌日の退院希望を伝える。許された。

食事は軟采軟飯食。便はあまり出ない。

そして、読んで書く。書いて読む。


99日(水)。

その日の朝が来た。

午前550分、少し排便。下血なし。便固い。

午前840分、ようやくやっと普通の排便。下血なし。

午前10時退院。山の神が迎えに来てくれた。ありがとー!

9月9日夜明け

このようにして、僕の16日間「元気な養生」は無事終了した。

あらためて医療スタッフとお見舞いメッセージをくれたみなさんに感謝いたします。

それから、入院中に大量に発信したフェイスブック投稿を読んでいただいた友達にも御礼申し上げます。

「食べることと出すこと」ができなかった日々を含んで、入院中に書いたことを本稿執筆のためにまとめたら、その量に自分でも驚いてしまった次第だ。

本稿を書き始める前に読んだ本がある。文学紹介者である頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)さんが病気について書いた。

『食べることと出すこと』(医学書院/2020年8月1日発行)

ただの病気ではない。難病に指定されている「潰瘍性大腸炎」と十三年間、向き合ってきた記録と記憶と心に留めた言葉が書かれてある。

誰かさんのおかげで有名になった病気だが、「大腸憩室出血」とは血の出し方に大きな違いがある。鹿の糞と象の糞の違いみたいに。

〈あとがき〉に、こんな一節があった。

「病気の話とペットの話ほど面白くないものはない」と言われるが、その理由がよくわかった。話している当人には、自分の話の面白さの判断がつかないのだ。(314頁)

 例によって長々と書いてきた。僕が書くときの基本コンセプトは「極私から普遍への通路はそれほど狭いものではない」ということである。

だが、本稿に関しては、どうやって、極私から普遍へ管を通したらいいのか、よく分からない。悩みます。

人間は、食べて出すだけの一本の管。(だが、悩める管だ……。)

「メメント・モリ」すぎるほど病気とつきあっている頭木さんの本は、今年の極私的読書ナンバーワンに認定しよう。

僕の読書感想文はこちら。

https://www.facebook.com/fumio.tanaka/posts/3525727780837357 

68年間、僕は基本的には「無病息災」だった。「脳天気」と言い換えてもよい。

今年、よく聞いた「基礎疾患」を自分にあてはめてみる。

「睡眠時無呼吸症候群」は呼吸障害のひとつには違いない。

でも、CPAP(Continuous Positive Airway Pressure)をつけて寝ることに慣れたら、どうってことはない。機器の持ち運びが面倒くさいだけだ。

こんな書き方をするのを「脳天気」という。

高血圧の薬はかかりつけ医からもらっているが、飲むのを忘れることも多かった。

「メメント・モリ(死を想え)」という言葉は頭の片隅で理解しているのに過ぎなかった。

この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。 
(藤原新也)

僕の本棚には藤原新也の『メメント・モリ』が2冊もあった。

10月末日、電通の同期から久しぶりに電話があった。いやな予感がする。仲の良かった同期が逝ったとの知らせだった。

後日きたハガキによれば、死因は「大腸憩室穿孔による敗血症ショック」。

享年69歳。合掌するしかない。ビールとパイプ煙草が好きなやつだった。

「大腸憩室出血」と「大腸憩室炎」と「大腸憩室穿孔による敗血症」は紙一重なのかもしれない。大腸でうごめく血染めの風船玉と免疫システムのご機嫌次第、という気がする。

さらにいうならば、あの「潰瘍性大腸炎」との段差もそれほど高いものではないのだろう。

2020年は感染症の年だった。年を越してもコロナ禍は続く。サイトカイン・ストームが吹き荒れる。

SARS-CoV-2のスパイクがヒト細胞の受容体と握手する。

ウイルスが細胞内で自己主張を始めた。

自然免疫チームのマクロファージが突撃する。

貪欲にウイルスを喰らいながら、獲得免疫チームに敵の情報を伝える。

情報満載の伝達物質がサイトカイン。

こいつは手強い、緊急出動、サイトカインがけたたましく鳴り響く。

あちらでもこちらでも、サイトカインの年末年始特別大放出。

T細胞もB細胞もフル回転、休みなし。

嵐は止まない、免疫崩壊。

あらら、自分の細胞も攻撃してしまった。

(コンテキスターが想像したイメージです)

MÉMENNTO-MORI 死を想え

「死は生の水準器のようなもの」(藤原新也)


2020年、クリエーティブ・ディレクターからコンテキスターに看板を変えてから十年。

僕は「下り坂をそろそろとおろおろと下りる」と決めた。

年が明ければ、69歳になる。一年前、木内みどりさんが逝った歳である。

下り坂には「まさかの坂」もある。きっとある。

お大事に、お大事に、みなさん、ひたすらお大事に。

入院患者の間では「お大事に」という言葉は院外とは違う重みを持っている。

そんなことも学んだ。死を想えば、学ぶことも増えていく。

長い一年だった。考えることの多い一年だった。

2020年が暮れていく。

入院で3キロ減った体重はリカバーしつつある。尻の筋肉がなくなって、ずり落ちていたジーパンは、それなりに安定してきた。

長い管のような悩める文章のラストは、上り坂の人たちで。

7月23日・千種川三室渓谷

723日。少年Rは、はじめてのアマゴ釣りをした

10月24日・フミメイファーム

1024日。少女Sは、はじめての芋掘りをした。


いのちは譲られていく。

僕と山の神は、確実に垂直にDNAを次世代へ譲っている。

ウイルスによる横槍は入ってないはずだ。たぶん。

今年も真菰で注連飾りをつくった。

譲り葉はヴァージョンアップされた。

我らが心は裏まで白い。