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2014年12月29日月曜日

消える時、『消えた街』

一年があっという間に消えた。いつのまにか年の瀬になっている。
年を重ねるごとに、時が消えるという感覚になってくる。

一日や一年を短く感じるのは、加齢により新陳代謝速度が遅くなってくるのが原因だそうだ。そうなれば体内時計も徐々にゆっくり回るようになる。
遅れた時計が一年を刻むのには時間がかかる。だが、現実世界は6歳の一年も62歳の一年も冷徹に同じスピードで時を刻み続ける。
実際の時間の経過に自分の体内時計=生命の回転速度がついていけないので、あっという間に時が過ぎていく感覚になる。
この説は分子生物学者、福岡伸一さんの受け売りである。

フミメイ流の言い方をすれば、経年劣化していく自分のCPUが情報大洪水の中で溺れてしまい、あわわとしているうちに一年が消えていく。
体力の方も同じく劣化していく。それでも意地を張って動き続けているうちに一週間が一月が一年がわっしょいわっしょいと消えていく。「半農半X家・フミメイ」の一年は素早く消えていく。

さらに輪をかけて、今年はアベシンゾーがあれこれしでかしてくれたので、そのカウンター情報を発信するのにも忙しかった。
アベシンゾーという用語は、第97代内閣総理大臣の安倍晋三を支える日本人の《集合的無意識》という意味で使うようにした。まだまだ良く分からない部分の方が多いが。
アベシンゾーの気持ちを慮るために、今年もたくさんの本を読んだ。そして多くの本を読み残した。
どう考えても今年中に読み切れないが、できるだけ早く読みたい一冊がある。
『忘却のしかた、記憶のしかた』(ジョン・W・ダワー/岩波書店)


「いまだ戦後ではない」と喝破した《東京の師匠》から薦められた本である。
アベシンゾーに対抗するためには、それなりの理論武装が必要だ。
劣化型の反知性主義者たちは歴史を修正したがる。自分たちに都合のいい理屈だけを一部の人々には心地良い情感に包んで訴える。反対意見には耳を貸さない。「見解の相違」と切って捨てる。
しかも、マスメディアはもう彼らの支配下にあるようだ。
急速に「自由と民主主義」(含む日本国憲法)が消えつつある時が今だ。

僕の一年が消え去ろうとどうってことはないが、1945年8月に、父や母や祖父や祖母が獲得したものを消してしまったら、彼らに顔向けできない。
敗戦時に消えたものの代償として獲得したものを失ってはならない。
消えた命、消えた家、消えた父母、消えた子供たち。
そして、そこには「消えた国」もあった。
中国東北部に大日本帝国が構築した傀儡国家である「満州国」。

「満州国」は1932年3月1日に出現して1945年8月15日に消えた。「建国」後、13年五ヶ月。元々、あるべきものではなかったのだから、消えるのは自明の理であったのだろう。
だが、「偽国家」は消えても、その瞬間、満州には生身の日本人が生きていた。多くの家族がいた。会社に勤め、農地を耕していた。たとえその会社が「国策」であり農地が略奪されたものであっても……。

その瞬間、安倍晋三の祖父、岸信介は「満州国」の高級官僚として財を成して内地にいた。
「満州国」をでっち上げた関東軍は自分たちの家族だけを連れて逃走していた。

取り残された家族の中に「白川妙子」がいる。僕の山の神の伯母さんだ。妙子の夫、「白川真之介」は満州映画協会(満映)に勤めていた。「真之介」は甘粕正彦のお気に入りだったという。
妙子さんは「消えた国の消えた街」、新京(現長春)から島根県松江市に引き揚げてくる。その記憶と記録を1990年に小冊子として出版した。


この歴史的事実を元にして、僕は小説を書いた。今年の始めのことである。
小説のタイトルは『消えた街』。

そして2月、平凡社の『こころ』という雑誌の〝第一回晩成文学賞〟に応募した。
長い間待って、今月、受賞作が発表されたvol.22号が届く。


落選だった。佳作にも入らなかった。



『消えた街』というタイトルの左側写真は白川妙子(登場人物名)、右側は野津修(登場人物名)だ。
これらの写真はもちろん応募原稿には入れなかったが。

野津修のモデルは、盟友、原田ボブの父である。
修さんは「建国大学」の学生として「新京」に1年半、住んでいたことがある。1943年建大入学、1944年学徒出陣。
僕が、この小説を書いた動機は妙子さんの冥土の土産にするためだった。明治45年(1912年)生まれの彼女は、来年3月で103歳になる。

盟友の父は2006年に逝去された。享年81歳。
『消えた街』での人物設定は僕の創作である。満州を巡る僕と原田ボブとの縁は、3年前の年末にも「協和から協創へ」という文脈レポートで書いたことがある。

ずっと書きたかった「満州国」のことを書き始める後押しをしてくれたのが〝第一回晩成文学賞〟だった。
「応募時に、満60歳以上の方に限ります」
「〝本〟〝未来〟〝まち〟のうち一つをモチーフにした小説を募集」
「400字×100枚以内」
「締切:2014年2月28日」
「選考委員:村田喜代子、半藤一利ほか」
「発表:2014年12月刊行『こころ』vol.22誌上」


僕は、この賞に飛びついた。「締切は執筆の父」なので。2カ月で書き上げて応募した。

その後、8月に最終候補作発表がある。
応募98篇、うち15作が一次選考を通過。7作が最終候補作となる。『消えた街』が入っていた。
正直に言うと、僕の中で助平心がむくむくと湧き上がった。が、その後は音沙汰なし。




そして受賞作は『浜辺の晩餐』(小森京子/65歳)。おめでとうございます!
佳作は三篇。
『風の賦人』(大山舞子/80歳)。『黒犬先生伝』(三島麻緒/65歳)。『あなたは何故、』(大森レイ/81歳)。おめでとうございます!



『消えた街』にも半藤一利さんが講評を書いてくれた。
「消えた町(ママ)」は構成に厚みがなく、やや〝あらすじ〟めいた作品になった。読後に感動が湧いてこないのはそのせいであろう。
辛口である。でも、そのとおりなのだろう。なぜなら執筆動機に「他人史」を書きたいという小説としては不純なものが含まれていたのだから。

《東京の師匠》からも『消えた街』とニワカ小説家への鋭いご指摘がきた。
小説家は「鳥瞰目線」を持たねばならない。登場人物に対して「酒に酔ったような同調」をしてはならない。生物学者が生態観察をするように登場人物を見つめ分析し、それを再構築して描かなければならない。
親戚や盟友の父への「ベタな愛情」は、小説表現には無用なものだった。『消えた街』の一般読者(今のところ10人程度)に「感動が湧かない」のはそのせいであろう。


ともあれ、昭和史の大家、半藤一利さんが『消えた街』を読み、講評してくれた。その事実はニワカ小説家にとって大きな励みとなる。「消える時」を内在させたニワカが、来年どのような小説を書くのか、あるいは書かないのかは誰にも分からない。何しろ本人に分かっていないのだから、他人に分かるわけがない。

しかしながら、書くことへの志は消えていない。僕にはまだ書きたいことがある。

『消えた街』は賞に落選したことによって、本来の目的を果たすことができるようになった。
『消えた街』は本になる。米子の今井出版でオンデマンド印刷をして本にする。
限定20部。お世話になった関係者への御礼本だ。

一世紀以上を生きた「白川妙子」さんにお迎えがきた日には、その棺に納めてあげよう。
盟友の父の墓前にも、きっと届けられることだろう。




書くということは孤独な行為だ。ドアを閉めて想像力の地下室に降りていくことだ。たとえ「あらすじ」であろうとも。僕は身の丈160センチまで地下室に降りた自信はある。
来年はもう少し深く降りて、また戻ってこよう。

僕の2014年は小説の執筆から始まった。その後も孤独な作業が多かった気がする。

夏の終わりには、文脈研究所のレポートを定本化した。アホみたいに長い800枚の原稿をまとめていく作業は自分のありかたを見つめ直す契機となった。そこで「鳥瞰目線」を少しでも獲得できていればいいのだが。

孤独に書いて、孤独に釣って、孤独に草を刈る。そんな一年……。
上山棚田団と協創LLPにも、多くの関わりは持たなかった。それでも心の底では彼らとの連帯を求めていた。それは確かなことだ。

消えゆく年を愛おしむだけでは何も始まらない。
「終わったのなら始めればいい」のである。
消えていくべきものには消えてもらい、ありつづけるべきものの後押しをすること。

来年は、きっと厳しい年になる。消えたはずのものが蘇ってくる。
肥料をやりすぎた野菜に虫たちがすり寄ってくるように不気味なものが蠢いている。
「戦争のできる銭ゲバ帝国」は消えたはずだったのに。

来年も僕は書き続けていこう。田んぼに這いつくばってコナギを取り続けるように。
言葉の力を信じて。「言霊の幸ふ国」に貢献できるように。
晩生(おくて)の書き手は「書くためのナイフ」を日毎夜毎に研いでいくしかない。

でもね、山の神には叱られるのですよ。
「書くのはいいけど、あんたは自分を追い詰めすぎて見てられない」と。
晩成文学賞の締切間近の僕を観察した結果の言葉なのだ。
はい、おっしゃるとおりです。ときどきはドアを開けて書くようにします。
そして来年の3月には、「白川妙子」さんの103歳の誕生日にご一緒させていただきます。


今月の文脈レポートもいつものようにドアを閉めて書いていたら、こんな笑顔が扉を開いてくれた。妙子さんから101年の時を隔てて生まれてきた笑顔だ。


僕と繋がっている皆さん!
今年も長い文脈レポートを読んでくれてありがとうございました。誰かがどこかで読んでくれているに違いない、という思いが僕の支えです。お世話になりました。良いお年を!

来年の大晦日こそは「そんな時代もあったねと」笑って話せる年になりますように。
昨年末にも同じメッセージを書いたのですが、来年こそは!

Never Never Never Give Up !

PS:小説『消えた街』に興味がある方は僕にフェイスブックメッセージをください。PDFファイルでお届けします。ご笑読ください。また『コンテキスターの日々』(定本・田中文脈研究所)もPDFでお届け可能です。ただし、こっちは長いですよ(笑w)。

2013年11月30日土曜日

Beatles For Contexter-ビートルズとコンテキスター

僕はビートルズで英語を覚えた。
初めてリアルタイムに聴いたビートルズは“ROCK AND ROLL MUSIC/ロック・アンド・ロール・ミュージック”。文化放送の「9500万人のポピュラーリクエスト」というラジオ番組を必死でチューニングしていた中学2年生の僕、13歳。当時、香川県坂出市在住。

♪Just let me hear some of that rock and roll music~
この曲は今でも「♪とぅさみひざもら、ろっくんろーるみゅーじっく~」としか聞こえない。ビートルズの英語には独特の発音があった。

You got to はYou gotta、よーがった~。
I want toはI wanna、あいうぉな~
リバプールなまりの英語は僕にとって、今でもとても心地良い。

で、2013年11月11日。
「あいうぉな~みーちゅー、ぽーる!」ということで京セラドームに行ってきた。
ポールマッカトニー、「OUT THERE」コンサート。


1曲目は“EIGHT DAYS A WEEK/エイト・デイズ・ア・ウィーク”。
3曲目は “ALL MY LOVING/オール・マイ・ラヴィング”。

このあたりで、僕は1966年の女子高校生のように失神しそうになった。
ビートルズの最初で最後の日本公演は昭和41年。東京は武道館にて。
最初の曲は“PAPERBACK WRITER/ペイパーバック・ライター”だったことをよく覚えている。四国の中学生は白黒テレビにかじりついていたのだ。
当時の讃岐の青少年については「讃岐のデンデケデケデケ」をご参照ください。

今や「ひとりビートルズ」となったポールは唄い続ける。

“THE LONG AND WINDING ROAD/ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード”
山の神の実家である松江の野津旅館が改築されるときに「野津旅館の想い出」という映像をつくったことがある。そのバックに流したのが、この曲だった。

ビートルズの楽曲には、ほんとにお世話になった。公開しないプライベート映像を作るとき、僕はビートルズを使っていた。
電通を脱藩するときの卒業映像のキーミュージックは“IN MY LIFE/イン・マイ・ライフ”だった。このジョンの名曲をポールはコンサートでは歌わないが。

“AND I LOVE HER/アンド・アイ・ラブ・ハー”が聞こえてくる。甘酸っぱいものが込み上げてくる曲だ。このラブソングだけで短編小説が書ける。

そしてポールはギターを置いてキーボードの前に座り“LET IT BE/レット・イット・ビー”が始まる。

このコンサートはBGVも素晴らしい。サイケデリックなアニメーションや懐かしいPV風の映像つくりなど、耳だけでなく眼でも楽しむことができた。
この曲のときも、映像が浮かび上がってくる。
“♪LET IT BE~”のフレーズとともに映し出されたものを見て僕の涙腺はゆるみそうになった。
「天燈」すなわちスカイランタンがステージに浮かび上がったのだ。

この映像には見覚えがある。NPO法人英田上山棚田団の仲間たちが上山集楽の夏祭りで夜空に浮かべたのが、この天燈だった。
仲間のひとりがネット上で、今まさにステージ上で展開しているスカイランタンの映像を見つけてきたのがきっかけだった。
「あるがままに」ゆっくりと空に昇っていくスカイランタンの映像を見ながら、ポールの歌声を聞いていると、僕は本当に不思議な気分になった。

「OUT THERE」に行ったとき、僕は『上山集楽物語 限界集落を超えて―』(吉備人出版/12月下旬刊行予定)の校正作業中だった。その夏祭りの章には「天燈」が登場する。
英田上山棚田団出版プロジェクトチームの一員として没頭していたデスクワークから「外に出たかった」ので、コンサート前日にチケットを予約したのだ。

そのコンサートで「天燈」映像を見ると、『上山集楽物語』の登場人物たちの先見性がポールマッカトニーにも伝わっている気がしてきて感動を覚える。
ステージの写真では判別できないが、ここに確かに天燈が浮かんでいた。
仲間たちが2012年8月12日に上山集楽で上げたのと同じ天燈が……。



天燈を上げる棚田団
ポールマッカトニーは1942年6月18日生まれ。僕より10歳年上だ。
彼は相変わらず左手でギターを弾いていた。当たり前のことだが。
左利きのギターでジョージと同じマイクで唄うときのかっこよさは、田舎の青少年にも伝わった。


71歳のポールは唄い続ける。そのパワーは圧倒的だ。
僕は2010年に当時69歳だったボブディランのコンサートにも行ったことがあった。このおっさんは最低でしたね。観客は無視。自分だけの世界に陶酔しているようなコンサートだった。
ディランと較べるとポールのコンサートはインタラクティブだ。
もちろん、それは僕とビートルズの文脈が繋がっているので、余計に自分ゴトとしてポールの唄声が聞こえてくるせいかもしれないが。

コンテキスターと名乗っている身としては、もう少しポールを巡る文脈を書いておきたい。

ポールのコンサートには2002年にも行っている。
この時は山の神と一緒だった。仕事仲間からチケットをプレゼントされて嬉々として行ったことを覚えている。
DRIVING JAPAN 2002では“SHE'S LEAVING HOME/シーズ・リーヴィング・ホーム”が印象的だった。確かギター一本でやったのじゃなかったかな。

2002年から2013年、この11年の歳月は長い。ポールの唄声に関する限りは瞬間接着剤を使ったように時の流れがくっついているが。

2002年、僕は50歳。日本にもようやく「ブロードバンド」という言葉が浸透してきた時代。WEBクリエーティブをディレクションする、という訳のわからん仕事を任されたおかげで日進月歩の毎日だった。
犬のように働いて丸太のように眠るハードデイズナイト。
長男は20歳。アメリカの大学に留学していた。次男は17歳、メイは7歳。二人はずっと仲良しだった。
2013年も終わりに近づいた今、家族構成はずいぶん変わった。

一方、世の中のあり方はどんどん進化して、世界中に必要なラブはすべていきわたり、人々はあるがままに幸せに暮らせるようになったとさ。レットイットビー、レットイットビー……。

であればいいのだけど、残念ながら今現在、この国の政治情勢は退行して頓挫している。
黄金色のまどろみの中に逃げ込んで眼をつぶりたい気分だ。いつ物事は「ゲッティング・ベター」になっていくのだろうか。

と泣き言ばかりを言っていては子供たちに申し訳ない。文脈爺さんは、この愛おしい列島のコンテキストについて思いつくことを書き連ねて雲の上に遺しておこう。キーボードを叩く力が残っている限り。

2002年の総理大臣は変人宰相、小泉純一郎だった。彼はポールと同じ1942年生まれで現在71歳。
2013年のそれは……名前を書く気にもなれない。愚昧宰相のことを再び書くのは別の機会にしよう。

だが、僕たちはダウンしたわけではない。

政治のシーンでは退行頓挫しているが、草莽のフィールドでは新しい時代の胎動がしている。それは確かな脈動でもあり、リズミカルに列島を刺激し始めた。

2002年にはありえなかった動きが起こっている。脈動は永田町でも霞ヶ関でもなく、この国の中山間地からフェースブックを通じて発信され続けている。発信だけではなくアイデアは実践となって道を拓いているのだ。

ポールのコンサートの興奮が収まった後も、僕は『上山集楽物語』の校正を続けている。
2年前の年末に“上山集楽”という言葉が誕生した日の直後に僕は「上山集楽、山の上の雲人たち」という文脈レポートを書いていた。
その時点から始まった壮大で勇壮な物語を精緻に読みかえしてみると、上山集楽は“レボリューション”の方法論を常に模索し続けていることがよく分かる。

“REVOLUTION” ♪We all want to change the world~ 

上からではなく下から。タテではなくヨコに繋がって。町ではなく村から。
この列島の背骨として連なる中山間地から。

「僕たちはみんな世界を変えたいんだよ」と1968年にビートルズは唄った。
「ジュード、くよくよするのはおよしよ」という唄とカップリングされて。

もちろん、僕たちは政治の大情況から逃れることはできないし無視もできない。「あっしには関係ございません」という選挙行動が「子供たちの未来を担保できない」政権を生み出したのは間違いないのだから。しかしながら、政局を嘆いて誰かさんのせいにしていても世の中はシフトできない。

一人の変人が小さな火を点けて、二人目のへそ曲がりがやってきて燃えるものをくべる、三人目がそこに空気を送る。燎原の火はこのようにして広がっていくのだ。“上山集楽”の物語は読者が本の中に入って登場人物になるダイナミズムを持っている。


ビートルズは世界のポピュラーミュージックをシフトした。そしてポールマッカトニーはそのシフトの語り部となって、今なお世界中を唄い歩いている。

オデオンの赤いアナログレコードで育った世代は、今なおゴムのように弾む柔らかい心を持ち続けているだろうか。
「RUBBER SOUL/ラバー・ソウル」は僕の生涯ベストアルバムだ。久しぶりに紙ジャケットからLPを取り出して見たら、また甘酸っぱいものが浮かんできた。けれども感傷に浸るだけのじいちゃんには、まだなりたくない。


まだまだビートルズの名曲はある。じいちゃんの唄だってある。
“WHEN I'M SIXTY-FOUR/ホエン・アイム・シックスティー・フォー”
64歳になったら孫二人に囲まれて、まだ山の神にも愛されてワインを楽しむ幸せなじいちゃんの唄だ。

コンテキスター、フミメイは61歳で二人の孫を授かった。
歴史のターニングポイント、2011年に一人目。2013年11月25日に二人目。
今度は男の子だった。隆之亮(りゅうのすけ)と言うそうだ。

ポールは71歳になってもまだ“NEW”と唄う。
♪Then we were new~ そして僕らは生まれ変わった~

隆之亮は誰の生まれ変わりでもなく新しい命として外に出てきた。

OUT THERE!

願わくば、君が出てきた世界がメリーランドになっていきますように!


今月も長いエントリーを読んでくれてありがとうございました。感謝の気持ちを込めてほんの少し、ポールの唄声をお届けします。




トラブルはどこかに飛んでいってほしいね。


2013年9月8日日曜日

文脈日記(うちのメイのこと)

メイちゃんは? とあんなが聞く。
メイちゃん、ねんね! と家族全員が答える。
うちのメイが旅立った。

2歳1ヶ月のあんなに「旅立ち」がどこまで理解できたのかは分からないが。



1996年8月から2013年8月24日まで17年間、ずっといっしょにいた存在が突然、不在になると心臓の周りの肉をごっそり削られたような気分になる。

パピヨンという犬種を選んだのは「とても陽気で楽しく飼いやすい。辛いことがあってもなぐさめられる」と犬選びガイドに書いてあったからだ。
犬と暮らそうと決めたのは小さな頃から動物好きだった次男の切なる願いがあったから。

メイと名づけたのには深いわけがある。うちの山の神の名前が五月(さつき)で、五月の子分はメイという名前に決まっていたので。詳しくは『となりのトトロ』を見てください。



この1年ほどのメイは外には出ずに家の中で気ままにふるまっていた。
ちょっと認知症が入って、おしっこもうんちもお好きなところでする特権まで持って。
食欲は旺盛で、今自分が食べたことも忘れておねだりをする。

昔からひとりで留守番をするのは平気な子だったが、晩年は山の神が出て行くと、ずっとドアのそばで待つことが多かった。
家族全員で留守をすることはなく、誰かが家に残ってメイとともにいる、というのがうちの生活パターンだった。6月の時点ではまだまだ元気で、僕たちは9月までは死ぬことはないな、と話し合っていた。

死の一週間前、松江に帰る山の神を見送るメイ。じじが居残るんだけど、ちゃんと面倒みてくれるのかなあ、というまなざしをしている。この頃は足もしっかり踏ん張れたし、ぷるぷるもできた。
ふらついた後に、きゃいーんと悲鳴をあげて倒れおしっこを漏らす発作が起こっていたメイを獣医さんに見せたとき、犬はぷるぷるができれば大丈夫だと言われていた。


8月24日、土曜日。
朝からメイの様子がおかしい、と次男が言う。山の神も同意する。
ずっと立ったままだ。寝ようとしない。どうやら頭を下げると苦しいようだ。
それでもメイの腹は減る。食欲はある。

見かねた山の神がだっこをする。だっこをして寝やすい位置に彼女の頭をキープする。
夕飯の準備をするため、山の神に代わって僕がだっこをする。突然、いやいやをし始める。僕は慌てて、山の神にメイを渡す。

これはもしかして。もしかして……。
17年間、ずっとメイの守り神だった隣人を呼ぶ。そして、近くに住む長男と外出している次男に電話をした。

その瞬間はふわーっと訪れた。
「メイの足の力が抜けていく」と山の神。
「水を口に含ませてあげて」と隣人。
ふわーっと命は空に憧れて行った。
メイの眼は命が上がっても地上で開いている。



帰って来た次男にだっこされても、まだ眼は次男を見つめているようだった。
「眼を閉じて」と僕。「閉じない」と次男。



祭壇をつくった。通夜の準備をする。山の神が絵本を持ってくる。
「ずっーと、ずっとだいすきだよ」どうやらこの本は次男の小学校の教科書に載っていたらしい。それを山の神が気に入って絵本をずっと持っていたとのこと。
この本が出た1985年は次男が生まれた年でもある。


僕はメイの写真を集め始める。突然、メイ写真集をつくりたくなった。
今、僕のiPadにはメイのスライドショーがある。BGMは荒井由実「ひこうき雲」だ。

遺影は「ちょうだいちょうだいメイ」にした。ペット霊園に電話をしてお骨箱に収めるサイズの写真もつくる。何かをしていないと気持ちの納めどころがないのだ。

長男と次男はメイに添い寝する。



翌日は雨。ずっと日照りが続いていたのに雨。
うちの家族にとっては鉄錆色の味がする雨。

線香は絶やさない。デジタルフォトフレームを買ってきてメイの写真を映し続ける。
これまで、何度も親しい人を送り出してきた。その場合は葬儀社が来てあれやこれやと言ってくる。あれは悲しみを置き忘れるために編み出された方法論でもあるのだ。

犬の場合はすべて自分たち家族の判断に任される。メイは元々、無口でなんの遺言もしていないし……。

2日目の夜もメイをひとりにはしなかった。

悲しみは悲しみとして家に置いておくとしても、メイの身体はそのままにはできない。
3日目、火葬に出発する前に、長男が提案した。

いまから、家族ひとりひとりでメイにお別れを言おう。
順番にひとりだけでメイの部屋に入ること。時間無制限で。ちゃんとメイに御礼と挨拶をすること。
それから、メイと家族の写真を撮ろう。

長男がフェースブックで言っていた「悔いのないやり方で送り出す」とはこういうことだったのか。
なんだか成長しやがって。

僕もメイのそばに行く。なんだかごにょごにょとメイに話しかけるが、何が何だか分からない。
ありがとうとか先にいっとけとか。

メイは40時間を経過しても、そのままのメイだった。



ペット霊園につく。火葬車に入れる。みんなで見送る。メイ、行ってらっしゃい!

あとは待つだけ。

メイの骨は尻尾の先から喉仏まできれいだった。家族全員で骨を拾ってお骨箱にいれる。
そしてメイは家に帰って来た。10月11日の四十九日までは家にいる。


僕は変人でへそ曲がりなので「ペットロス症候群」などというおしゃれなものとは縁がないと思う。
手持ちの「睡眠時無呼吸症候群」だけで精一杯だ。夜中に叫ぶのは僕の日常なのだ。

夜中に眼が覚めて、寝ぼけながらベッドを降りるときに足下を白いものが動くような気がすること。これは、毎晩酔っぱらっているのでしかたがないことである。

メイのうんちを最後に踏んだ足裏のぐにゅとした感覚がときどき蘇ること。これは年の割には鋭敏な皮膚感覚を維持しているということで、よしとしよう。

家に帰ってドアを開けると、そこで尻尾を振っているメイがいないこと。これは物理的現象としてはあたりまえのことである。

そもそも、メイのことはお母さんにまかせっぱなしで、家の外にしか目を向けなかったお父さんなんだから。

それでも、そもそも喪失感というのはやっかいなものではあるな。
弔電代わりにある人が送ってくれた唄を聞いて荒治療をしたほうがいいのかもしれない。

Leftover Cuties~You Are My Sunshine


寝苦しい夜、ベッドにうつ伏せになって、右手をベッドサイドから下ろすと僕の叫び声で逃げ出していったメイが、その手に鼻面を押しつけてくることがあった。

僕は寝ぼけながら、メイを撫でる。メイは何度も何度も僕の右手を求める。

そんなこともあった、という事実をふと想い出しただけだが。


『虹の橋』
天国の、ほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。
この地上にいる誰かと愛しあっていた動物たちは、死ぬと『虹の橋』へ行くのです。そこには草地や丘があり、彼らはみんなで走り回って遊ぶのです。たっぷりの食べ物と水、そして日の光に恵まれ、彼らは暖かく快適に過ごしているのです。
病気だった子も年老いていた子も、みんな元気を取り戻し、傷ついていたり不自由なからだになっていた子も、元のからだを取り戻すのです。まるで過ぎた日の夢のように。
みんな幸せで満ち足りているけれど、ひとつだけ不満があるのです。それは自分にとっての特別な誰かさん、残してきてしまった誰かさんがここにいない寂しさを感じているのです。
動物たちは、みんな一緒に走り回って遊んでいます。でも、ある日その中の1匹が突然立ち止まり、遠くを見つめます。その瞳はきらきら輝き、からだは喜びに小刻みに震えはじめます。
突然その子はみんなから離れ、緑の草の上を走りはじめます。速く、それは速く、飛ぶように。あなたを見つけたのです。あなたとあなたの友は、再会の喜びに固く抱きあいます。そしてもう二度と離れたりはしないのです。幸福のキスがあなたの顔に降りそそぎ、あなたの両手は愛する動物を優しく愛撫します。
そしてあなたは、信頼にあふれる友の瞳をもう一度のぞき込むのです。あなたの人生から長い間失われていたけれど、その心からは一日たりとも消えたことのなかったその瞳を。
それからあなたたちは、一緒に「虹の橋」を渡っていくのです。
原作者不詳 和訳:YORISUN

想像力は時として権力を奪取するが、想像力は涙腺を刺激する。
フミメイの半分はメイだったのだ。



2013年7月29日月曜日

文脈日記(高度成長を観察する)

暑中お見舞いの言葉は「おあつうございます」のはずだが、なんだかお寒い感が否めない毎日が続く。
それはまあ、僕の偏見と主観であり、日本列島の民意は安倍晋三政権を選んだのだから、選挙の結果は厳粛に受けとめるべきなのでしょうね。
などと柄にもなく素直なことが言えるのは、とある映画を見てすかっとしているからだ。
「すかっとさわやか、コカコーラ」
あれ、このコピーもすでに死語だったのかな。最近、物忘れが激しいのだが。

想田和弘監督の「選挙2」、観察映画の第5弾だそうだ。



この映画を見て、すかっとするという感想も持つのもいかがなものか、という批判はどうぞお好きなように。僕は笑ってほろっときたのだから、すかっとしたというのが一番適切な感想だ。

ドキュメンタリーを見てこういう感想を言うと、「選挙2」はマイケル・ムーアの「華氏911」みたいに時の権力者を徹底的に批判して風刺した映画なのか、と想像される方もいるかもしれない。

悪代官じいみんを正義の素浪人やまさんが撃つ、なんてね。
そんなつまらん映画だったら、すかっとするはずがない。

想田監督のやり口は、マイケル・ムーアとは真逆だ、とだけ言っておこう。
あとは、ご自分で映画を見て感じるところがあれば、また教えてください。

あらゆる映像の基本はホームビデオである、というのが僕が敬愛している映像作家のテーゼである。長い間、彼の映像論に影響を受けてきた僕は、想田監督の「観察映画」を見て、その主張は正しいことを確信した。

ドキュメンタリーの本質を「観察映画」と言うならば、文脈研究の本質も「観察文」にあるのかもしれない。そして、今月は「歴史観察」にフォーカスをしてみたい気分だ。

歴史と言っても「国津神」と「天津神」の対立まで遡る気はない。それはそれで、松江と出雲に縁脈が深い僕にとっては大切なテーマなのだが、まだ手にあまる。

しつこいようですが、僕は1952年、昭和27年生まれのラスト・オキュパイド・チルドレンです。昭和の自分史を観察すると、そこには大きなコンテキストがあることに気づく。

「高度成長」というものだ。
「高度成長」という言葉は聞き慣れているが、そういうものこそ詳細に観察していくと見えてくるものがあるはずだ。

「高度成長」観察の手引き書として、僕は保坂正康『高度成長-昭和が燃えたもう一つの戦争』を選んだ。

1960年(昭和35年)から1974年(昭和49年)までの14年間を「高度成長」と位置づけて保坂は詳細な分析をしている。
高度成長胎動期:1960年から東京オリンピック(1964年)まで。
高度成長躍動期:東京オリンピックから大阪万国博(1970年)まで。
高度成長終焉期:大阪万国博から石油危機の翌年まで(1974年)まで。

この14年間で僕は8歳から22歳になっている。
8歳の時、僕はとある出来事に遭遇して今なお影響を受けている。22歳といえば電通に入社した年だ。

自分の人生のエポックメーキングな期間が、みごとに「高度成長」と重なっているのを発見して愕然とする。そうだったのか、僕の人生の背景、文脈、すなわちコンテキストは「高度成長」そのものだったのだ。

であるなら、コンテキスターとしては自分がアンガージュマンしている情況を、「高度成長」文脈で観察していく必要があるだろう。また、自分史を「高度成長」を視座にして見直すこともやってみたい。

アンガージュマンとは「自己主導的社会参加」という意味で僕は使っている。
20歳の頃に聞いた言葉がずっと心の底に引っかかっていて、脱藩した頃のキーワードだった。
そして、311後は、ものすごく意識するようになった言葉である。


8歳の記憶。「あんぽはんたい」「しょとくばいぞう」「わたしはうそはもうしません」。
61歳の今に至るまで、僕は政治的な人間であったことはないが、この年は小学校3年生でも、こんな言葉をつぶやきながら遊んでいたのだ。

今の自分が8歳の頃の自分を観察してみる。
ビニールくさい月光仮面のお面をかぶって、白いシーツを背中にかけて訳も分からず「あんぽはんたい」と言っている。その手にはB29のプラモデルがある。
祖母がその銀色の飛行機を見て「うらみ、はてなし」と言う。少年はきょとんとしている。

こんなことを延々と書き連ねるのが、このエントリーの主旨ではなかった。
「高度成長」を観察するときに、ひとつの軸を入れてみて、今、自分が考えていることを文脈化していくこと。

その軸は「高度成長とアスベスト」だ。
僕は今、「尼崎アスベスト訴訟」を支援しようとしている。僕にできる支援のカタチはテキストを書き連ねて、その本質を明らかにすることだ。

change.orgで原告、山内康民さんが訴えていることの背景を「事実の積み重ね」として客観的に書きだしてみたら、見えてくるものがあるはずだ。
そして「事実」を編集して「観察文」にしてみたい。この場合の編集とは「事実」と「事実」を繋ぎあわせて、その文脈を顕在化させることだ。
原告、山内康民さんの父、山内孝二郎さんは1996年に中皮腫で死亡。
康民さんの妹、前多康代さんは僕と誕生日が1日ちがいであり、NPO英田上山棚田団の仲間だ。

原告、保井安雄さんの妻であり、保井祥子さんの母である保井綾子さんは2007年に中皮腫で死亡。

2005年クボタショック。
クボタの元従業員79人がアスベスト関連疾患で死亡と新聞報道。
その後、「道義的責任」による「救済金」支払い開始。クボタは「法的責任」は認めず。
また「救済金」を受け取れば裁判を起こすことはできない。

2007年、加害企業クボタと国の責任を問う尼崎アスベスト訴訟、神戸地裁に提訴。
原告は山内康民、保井安雄、保井祥子。

2012年8月7日、判決。勝訴。
山内さんのケースは全国ではじめてアスベスト公害の企業責任を認めた。
ただし問題点あり。
もうひとりの原告、保井さんの請求は居住地が1キロを超えていたとして認めず。
また、国の責任は「周辺住民の中皮腫リスクが高いという医学的知見」は確立していなかったとして認めず。

2012年8月20日、大阪高裁に控訴。
2013年末に判決の予定。

以上がこの訴訟のタイムラインだ。
続けて、クボタの事実と「高度成長」を繋いでみる。

1954年、尼崎市の旧神崎川工場で青石綿を使って石綿水道管の製造開始。
青石綿は中皮腫発生リスクが白石綿の500倍。
1960年、高度成長の始まりの年、日本のアスベスト消費量の約1割がクボタ旧神崎川工場で使われた。

1964年、東京オリンピックの年、アメリカへ石綿管を輸出。
1971年、大阪万国博の翌年、青石綿の使用量を減少させて白石綿を使った住宅用建材の製造開始。
この年、福島第一原発の1号機が運転開始。
1972年、高度成長が終わる2年前、石綿建材の生産を急増。
結果、クボタは1954年から1995年まで尼崎の町にアスベストをまき散らした。

アスベストの真実。
石綿は熱や火に強く、腐食しにくく、加工もしやすい。そして安価であった。
石綿は極めて微細な天然鉱物である。微細ゆえに風に乗って飛んでいき体内に取り込まれやすい。いったん取り込まれると劣化せず半永久的に体内にとどまる。
体内にとどまった石綿は、絶え間なく細胞を刺激し続け、やがて中皮腫、肺がん、石綿肺などの石綿疾患を発症させ、死に至らせる。
その潜伏期間は20年から50年。

尼崎アスベスト疾患の未来。
環境省が用いたアスベスト疾患の推計をあてはめると、2033年までに1400人の中皮腫患者と1400人の肺がん患者が発生する可能性がある。
そして、中皮腫患者は約1年という短期間で亡くなる可能性がある。

どうも「編集」するまでもなく、事実は単純明快なようだ。
さらに日本国の動きを観察してみると……。

1952年、簡易水道政策開始。簡易水道には石綿水道管を奨励。
1967年、公害対策基本法成立。
1968年9月、水俣病を「公害病」認定。
1970年、改正建築基準法で住宅の火気に関連するところにも不燃材料を用いるべし、と規定。建築基準法では当初から石綿スレートを「不燃材料」として認めていた。
1971年、富山のイタイイタイ病裁判、新潟水俣病裁判、四日市公害裁判で企業の責任を認める判決がでた。
1989年、石綿粉塵が規制対象になった。
※参考文献:尼崎アスベスト訴訟(環境型)原告側弁護団最終弁論他
「アスベストを世界の公害史に残したい、国とクボタは歴史の批判を受けてほしい」というのが原告、山内さんの願いのひとつである。
アスベストは取り残されている、という文脈が事実の観察から見えてこないだろうか。
しかも現在進行形であるにもかかわらず、である。

さらにアスベストは尼崎だけの問題ではない。
作家、藤本義一は2012年10月に中皮腫で亡くなった。阪神大震災後の復興支援活動が原因だと言われている。
2013年6月、イタリアではアスベスト被害で2千人の死亡が認定され、企業の経営者に禁錮18年、賠償金65億円のトリノ高等裁判所判決が出ている。



アスベストの文脈は空間軸と時間軸が交差しつつ、さまざまな問題をはらんでいるのは間違いない。

僕としては、そこに自分軸を重ね合わせると何が見えてくるのかを試行錯誤している。
観察の中でも「参与観察」というのは、そういうことなのだ。

「参与観察」という魅力的な言葉は、想田和弘さんの『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』からの受け売りだ。

したがって、観察映画の「観察」は、必ず「参与観察」という意味になる。参与観察とは、文化人類学や宗教学などで使われる用語で「観察者も参加している世界を、観察者の存在も含めて観察する」ということである。要するに観察映画では必ず、作り手である僕自身を含めた観察になるわけである。(P171) 

1964年、12歳の僕を観察してみる。
香川県坂出市の中学校。友達といっしょに机を跳馬のように並べかえてどたばたしている。床に音が響く。怖い先生に怒鳴り込まれる。おまえら、なにしょんな?!ウルトラCしよります、とぼくたち。小さな声でしょぼんとしながら。

そして、その瞬間にもクボタは尼崎で青石綿の粉塵をまきちらしていた。それはダイアモンドダストのようにキラキラしていた、と観察した人もいる。

東京オリンピックの開会式の2ヶ月前にはトンキン湾事件でベトナム戦争が開始していた。

そして、オリンピックが終わった直後に佐藤栄作政権が発足した。
今も活躍する俳優、佐藤B作がA作に対抗した芸名であることも歴史の闇に忘れられているだろう。まっ、忘れられても問題はないですがね。

「参与観察」は自分を見ること。自分を見て世の中との関係性を見直すこと。
と勝手に文脈を拡げておこう。

脱藩以来、「世の中のために働く」と妄想を宣言して前のめりに動いてきたが、なんだか一段落感が漂うのは先月のエントリーで書いた。
だが、すぅーと自分の存在を消してしまう観察者になれるのは、まだ先の話のようだ。

最近、綾部里山交流大学と京都カラスマ大学が共同主催した情報発信に関する研究会に参加した。
そこで講師の印象的な発言があった。

ソーシャルなことに関わるのは「おせっかい」な人です。

そのとおりだと思う。そして、その「おせっかい」度に基準値はない。ベンチマークは自分でつくり判断するしかない。自分が置かれた様々な情況要素を鑑みながら。

自分の「世の中のために働く2.0」を求めている僕の頭の中に、今、渦巻いている言葉がある。

Burst and Shrink. バースト・アンド・シュリンク。爆発と凝縮。拡大と縮小。成長と成熟。
これは塩見直紀的コンセプトスクールで発見した言葉である。


高度成長、アスベスト、おせっかい、参与観察、バースト・アンド・シュリンク。
今月は千々に乱れた文脈でした。読んでくれた人、ありがとうございます。

2013年6月28日金曜日

文脈日記(脱藩3周年・林住期)

6月末で電通を脱藩して3周年になる。ただ、今年は去年の高揚感とはほど遠い気分だ。

石川啄木が明治43年(1910年)に憂慮した「時代閉塞の現状」は103年を経過して、その「閉ざされた感覚」を深く濃くしている。
それは、もちろん現在の政治情況によるところが大きい。だが、僕自身の気分も転換点に来ているように思えてならない。
本音を言うと、ちょっぴり立ち止まりたい気持ちが強い。どうやら僕の文脈生活も停滞期に入ったらしい。

停滞期というとネガティブなので、ここは「林住期(りんじゅうき)」という大きな言葉の範疇に入ってみよう。

古代インドでは、生涯を四つの時期に分けて考えたという。「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、そして「林住期(りんじゅうき)」と「遊行期(ゆぎょうき)」。「林住期」とは、社会人としての務めを終えたあと、すべての人が迎える、もっとも輝かしい「第三の人生」のことである。 
『林住期』五木寛之/幻冬舎 前書き

人生のクライマックスは、後半の50歳から75歳にある。それまでの人生は「燃えながら枯れていく」林住期のための助走期間なのだ、と五木は言う。

61歳の僕は、その林住期の折り返し点にいるのでしょうね。58歳からの3年間を「極私彷徨」してきたから、折り返し点に近づくのも早いのかもしれない。

「死ぬまで18歳」と強がってはみても、老いは確実に来ているのだ。どこかの誰かさんが「老い」などというネガティブ・ワードは使うな、と言っても実際にそうなのだから。
アウトドアで身体を使った翌日は平気でも、2日後にどーんと身体が重くなる。やたらに眠い。もちろん「固有名詞忘却シンドローム」は深化する。いつも何か忘れ物を探している。

時には「老い」を自覚して、自分を客観視することも林住期を生き抜く知恵だと思う。でないと、そこに「鬱(うつ)」という怪物が忍びこむこともあるのだから。

「林住期」は人生におけるジャンプであり、離陸である、と私は思う。まったく新しくスタートするのではない。過去を切りすてて旅立つのでもない。それまでの暮らしを否定し、0からやり直すのでもない。これまでにたくわえた体力、気力、経験、キャリア、能力、センスなどの豊かな財産の、すべてを土台にしてジャンプするのである。その意志のあるなしこそ「林住期」の成功と失敗を左右する。
『林住期』五木寛之/幻冬舎 P35

はい、五木先生、そのとおりです。でも以下のような生活に憧れる気持ちも今の僕にはあるのですよ。

(林住期)はリタイヤの時期とみなされた。定年退職して、なにか趣味に生きる。妻にいやみを言われながら、ゴロゴロして暮らす。イヌの散歩につきあい、孫のお相手をする。(中略)そこでは「林住期」は、人生のオマケの季節のように扱われてきた。「濡れ落葉」とからかわれるゆえんである。
『林住期』五木寛之/幻冬舎 P62

「趣味に生きる」
いいですね。僕の場合は釣りという変人のための趣味がある。
「妻にいやみを言われる」
もう慣れっこなので平気です。あっ、言ってしまった。
「孫のお相手をする」
自分の子供の面倒は一切見なかったので、どうやって子守したらいいかも分からないでしょ、と山の神に指摘されながら、という注釈つきであればできます。
「ゴロゴロして暮らす」
寝っころがって、冒険小説やミステリーを読みながらであればウェルカムです。

「イヌの散歩につきあう」
残念ながら、これはもうできそうにない。自分のイヌという限定ですが。

うちの家族の犬はメイという。小型犬のパピヨンという犬種だ。
1996年6月10日生まれの満17歳。人間でいえば84歳の「遊行期」のおばあちゃんである。もう散歩はできない。そして、僕はもう自分で犬を飼うことはないだろう。
うちの犬はメイが唯一無二だ。

今月のエントリーは「時代閉塞を突破するために我々はいかに林住期を生き抜くべきか」などという勇ましいことを書く気にはなれない。もっとうじうじと昔を振り返ってみたい気分だ。

電通を脱藩して以来、自分の過去のコンテキストは封印してひたすら前を向いてきた。この1年間でもフミメイ号は2万4千キロ走っている。小休止しても問題はないはずだ。

36年間も電通のような変人だらけの会社勤めをしていれば、それなりに面白い話はたくさんある。もちろん、まだまだ書けないことのほうが多いが。僕はもうNDA(秘密保持契約)に縛られてはいないが、モラルとマナーとして。

そんなわけで過去を振り返るといっても限定的なものになるわけで、今回は犬の文脈にフォーカスして書いてみたい。

1996年8月中旬、僕が信州から帰ったら、そいつがちょこんと座っていた。
僕は44歳、「家住期」(朱夏)の頃。「家に住む」ことはあまりなく出張だらけの生活をしていた。
その日は玉村豊男さんのヴィラデストでCM撮影をして帰ってきたら、メイがうちに来ていた。

はじめて、メイを見た時、僕はあまりの可愛さにこう言ってしまった。

「よしよし、メイは何があってもお父さんが守ってあげるからね」
この発言は、家族から非難をあびた。なにしろ家をほったらかしで仕事と釣りしか見えてないお父さんがメイにだけは優しい言葉をかけたのだから。


メイという名前は決まっていた。
僕の山の神は五月生まれで「五月」という。メイは六月十日生まれなのに「メイ」だ。これには深いわけがある。

うちの家では山の神に逆らったら生きていけない。だからうちの犬も五月の子分になるべきだ。
五月の子分といえば「メイ」に決まっている。「となりのトトロ」を見てごらん。
たまたま誕生日が五月から十日遅れたけど、そこは誤差と考えなさい。

こんなふうに僕は六月生まれの子犬を説得して「メイ」と名づけたのだ。


犬の「学生期(がくしょうき)」すなわち青春はまことに短い。2年たつと人間の23歳になってしまうのだ。長いスカートを引きずっていた娘も大人になっていく。

「家住期」を迎えたメイは、僕の仕事のお手伝いもしてくれた。

2001年、メイは5歳(人間暦36歳の女盛り)、僕は48歳。
21世紀が始まったこの年、僕はインパク(インターネット博覧会)というネット上のお祭りのコンテンツを制作していた。
僕が担当していたサイトのひとつは動物と人間の共生をコンセプトにしたものだった。メイは当然のように、そのサイトのプロモーションに登場する。



動物といえば、動物王国のムツゴロウこと畑正憲さん。
このサイト制作のため僕は2001年には、何度も北海道は中標津と浜中の王国に足を運んだ。
そして僕は動物王国にいたたくさんの犬たちに触れている。家に帰るとメイは不審尋問をするように僕をくんくんしたものだった。



そして、王国には忘れられない犬がいた。
ボストンテリアのテリー、ムツさんが愛してやまない犬だった。



ムツさんがハーモニカを吹くとそれに合わせて唄う頭のいい犬がテリーだった。僕たちの仕事場であったムツ牧場の母屋でテリーはいつもそばにいた。


うちのメイとテリーは同い年だった。僕はこの頃、ムツさんに聞いたことがある。

ムツさん、もし愛犬が死んでしまった場合、どうやってショックを和らげたらいいのですか。

それはね、その犬の死期が近いと思ったらすぐにもう1匹、新しい犬を飼い始めるのさ、それしかないね。

このエントリーを書くためにあらためてテリーのことを調べていたら、彼は2009年7月に逝っていた。享年13歳。突然死だったらしい。

2年前にムツさんに会ったときに、僕はテリーのことを話した。
テリーが死んだと知らされて、僕はムツさんにどんな死に方をしたのですか、とたずねてしまった。
ムツさんは嫌な顔をして、そんなこと、僕に聞くなよ、と答える。
僕は無神経だった。ムツさんは本当にテリーのことが好きだったのだ。

うちのメイの方は17歳の誕生日を過ぎてもおかげさまで元気にやっている。

そして僕は、メイの美人日記を撮影し続けてきた。ソーシャルメディアがない時代で、僕はブログも書いていなかったので、初公開の写真ばかりだ。

2004年、ドコモがMOVAからFOMAに切り替わりつつあるとき、携帯で撮影したメイ。長い間、僕の携帯の待ち受け画面だった。メイ8歳(人間暦48歳)。


林住期(白秋)を迎えても、まだまだ美人だった。10歳(人間暦56歳)の頃はこんな感じ。


毅然として寒風に立ち向かうメイ、11歳(人間的には還暦)。


僕の方は今世紀の初めの10年間は激動だった。普通のCM制作からネットの世界の獣道に踏みこんで、誰もやったことがないことばかりにチャレンジして悪戦苦闘していた。

トラブルばかりが起こる。トラブル・バスターに徹する。血圧は上がる。

そして、当然のように家のことは山の神にまかせっぱなしだ。
メイの世話も熱心にやっていたとはいえない。散歩も毎日していたとはいえない。
それでもメイは僕が家に帰ると、一声、ワンと吠えて尻尾を振りながらお迎えしてくれた。ほとんど吠えない犬なのにお迎えの時だけは威勢よく吠えてくれていた。

そんなメイも遊行期(白秋)を迎えた。2011年6月10日、15歳(人間暦76歳)の誕生日。この頃までは、まだ元気に散歩をしていた。僕は311後の困惑に自分なりの対処をするのに夢中で、家ではさぞかし機嫌が悪かったことだろう。


2012年の誕生日には15歳年下の若い娘が強力なライバルになったが、ケーキのろうそくを吹き消そうとしている。




そして迎えた今年の誕生日、今から18日前のメイは奇跡的に可愛くなった、と親バカを言っておこう。
パピヨンは蝶々のような耳をしているのでパピヨン(フランス語で蝶)という。その耳も長い毛もカットしてメイは白いタヌキのようになった、いや、生まれたばかりの子犬のようになった。ちょっと言いすぎかな。



「死ぬまで18歳」とアホなことを言い張る林住期の父を横目で見ながら、メイは「18歳まで死なない」と健気な遊行期の歩みを始めている。うーん、すごい犬だ。


ドッグイヤーという言葉がある。犬の1年は人間の7年に相当するそうだ。その換算は大型犬の場合で、小型犬のドッグイヤーは幸いなことにもう少し緩やかな流れのようだ。

脱藩以来の3年間は、僕にとってはまさに小型犬のドッグイヤーだった。
今世紀の最初の年、ネットの世界にどっぷり漬かり始めてから、公私ともにドッグイヤーの経験値は積んできたつもりだ。
それでも、特にこの1年間の変化は激しすぎる。

こんなときは少し立ち止まること。過去を振り返ること。

で、メイが生まれた1996年のことを調べていると興味深い事実を見つけた。

バブルがはじけたのが1991年。そして阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が1995年。日本のインターネット元年と言われているのも1995年だ。

その翌年、1996年にはアトランタ・オリンピックがあって、メダルをとったマラソンランナーが「自分で自分をほめてあげたい」という名言を残して流行語大賞になっている。
僕もこの言葉が気に入って多用していた。特に管理職になって「人事評価」なるものをするときには部員たちに「まず自分で自分をほめなはれ」とよく言っていた覚えがある。

そんなことは電通時代の文脈からすぐに思い出せることなのだが、脱藩以来のドッグイヤーを過ごしていなければ、絶対に注目しなかった事実があった。

1996年は鳩山由紀夫が旧民主党を結成した年だったのだ。
「友愛」という言葉がもうひとつの流行語大賞になっていたのですね。

その旧民主党の基本理念を書いたのは、半農半ジャーナリストの高野孟さんだった。脱藩してからいろいろな論客に巡りあったが、その中でも特に尊敬している方のひとりが高野さんだ。

僕もメイにならって林住期の次の一歩を踏み出すために引用させていただこう。
私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという「個の自立」の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという「他との共生」の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない。
西欧キリスト教文明のなかで生まれてきた友愛の概念は、神を愛するがゆえに隣人を愛し、敵をも愛するという、神との関わりにおいて人間社会のあり方を指し示すもので、そこでは人間と自然の関係は考慮に入っていない。しかし東洋の知恵の教えるところでは、人間はもともと自然の一部であって、一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も、同じようにかけがえのない存在であり、そう感じることで自然と人間のあいだにも深い交流が成り立ちうる。そのように、自然への畏怖と命へのいつくしみとを土台にして、その自然の一部である人間同士の関係も律していこうとするところに、必ずしも西欧の借り物でない東洋的な友愛の精神がある。 
『高野孟の曼荼羅&あーかいぶ』より一部を転載

「一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も同じようにかけがえのない存在である」
そのとおりですね、高野さん。

僕と家族にとって、メイはかけがえのない存在だ。そのメイが生まれてからの17年で世の中はずいぶん変わってしまった。
そこのところを書き始めると、僕は「気分閉塞」になってうつうつと書き綴りたくなってくるので、もうやめにしよう。

こんなときは原点に帰った方がいい。どの時点の原点に戻るかが問題だが。政治的文脈は1996年の旧民主党基本理念に戻ってくれることを切望するが、その戻り道は草ぼうぼうで先が見えない。

僕が今、戻るべき原点は脱藩時に盟友を追いかけたときの基本理念、やっぱり「半農半X」しかないのだろうな。

脱藩3周年、僕は半農半X研究所代表の塩見直紀さんにお願いして、こんな名刺を持たせていただくことにした。



33歳、家住期まっただなかの内村鑑三は「金、事業、思想」の三択を提示したが、林住期の住民は金や事業を選べるはずもない。

だとすれば残りは思想なのだが・・・そうは言われてもねえ、と主任研究員のくせに弱気になる自分を見つめる脱藩3周年。