2012年12月30日日曜日

文脈日記(全記録・綾部文脈研究の日々)

初めて、田中文脈研究所のコンテキスターとして講演をした。
しかもその場所は半農半Xの聖地、綾部だった。
12月9日、綾部里山交流大学情報発信研究所の講師として3時間の講演。

お題は「綾部型情報に関する研究会~いま綾部から何を情報発信すべきか」である。

これはプレッシャーがかかりましたね。
なにしろクライアントはあの塩見直紀さんなのですよ。
そして綾部里山交流大学といえば2007年度から5年間、そうそうたる面々が講師としてラインアップされている。

スタートは骨太農学者、宇根豊さんだったらしい。
開墾モリモリで田舎を宝の山にする曽根原久司さん、マイファームのスティーブ・ジョブズ、西辻一真さん、情念の舞踏家、JUNさん、ダウンシフターズの高坂勝さん、歴代綾部市長などなど。

この列島をいい方向に変えていくための様々なまなざしを持った講師陣を見ていると、綾部里山交流大学は、ポスト311の価値観が大きくシフトする時代に出現した松下村塾のような気がしてきた。

そんなところで僕が講演をすることになったきっかけは、やっぱり上山集楽の拡道者、かっちだった。
かっちがこの大学の交流デザイン学科の講師に指名された。ならば、応援に行くしかない。

10月6日、自称、塩見直紀の第一発見者にして半農半X研究所の主任研究員、原田ボブ基風とともに綾部まで駆けつける。
この日のかっちは珍しく自分の生い立ちからしゃべりはじめた。一気にドライブがかかったらかっちは止まらない。


実は、この日、僕たち応援団はかっちのバックアップでそれぞれの「オモロイがカタチになったもの」をしゃべるつもりだったのですね。でも彼は「怒濤の2時間しゃべりたおし」で、僕たちの出番はなかった。

それはそれで気楽でよかった。僕はかっちのナビゲーターお喜楽美々の愛犬、上山メリーが大きなガラスにどすんとぶつかるのを見て笑いをこらえていたりした。
生まれて初めてガラスを見たので通り抜けられると思ったらしい。あほやね。


かっちの2コマ目はワークショップだった。彼はあまりワークショップは好きじゃない、と思っていたのだが、「自分のプロジェクトを実現するために他人との関係つくりをする方法」についてワークを展開していく。


そのとき、僕はでしゃばってしまったのですね。
自分もしゃべらなあかんと思っていた勢いで、コンテキスターとは文脈を繋ぐ者で世の中のためのコミュニケーション・デザインをします、とかなんとか熱弁してしまったらしい。
これが苦労の始まりだった(笑w)。



かっちの講演のあと、すかさず塩見さんから「情報発信研究所」の講師を依頼された。
僕は気楽に引き受ける。情報発信に関することなら電通時代の経験でしゃべることができるはず。協創LLPの定例研究会でもセミナーをしたことがあるし。

ところがですね。
これは情報発信の一般論ではなくて、「綾部型」の情報発信について研究してくれ、というご依頼だったのですね。しかも3時間。

これは悩んだ。相手はあの「綾部」なのだ。
塩見直紀さんの前で「綾部」についてしゃべるなんて。しかも半農半X研究所の主任研究員をさしおいて。

でも引き受けた以上はやるしかないのだ。
僕はやる気になったら、とことんやってしまう癖がある。
酒を呑んだら酔う癖もあるけど。

まずは、かちゃかちゃとパワーポイントつくりを始めるしかない。
行き着く先はどこか分からないけど、プレゼン資料つくりも現場至上主義なのだ。
頭よりも指先だ。
いやもちろん頭も使うのだが、僕の場合はかっちかっちとキーボードを叩いているうちに考えがまとまってくることの方が多い。

僕のパワポつくり現場の原則は以下。

20ポイント以下のフォントは使わない。
1枚のスライドに入れる文字数はできるだけ減らす。
その代わりスライドの枚数は何枚になっても気にしない。
写真はなるべく大きく使う。そのためにスライド枚数が増えても気にしない。
思いついたことは忘れないうちにとにかくスライドに打ち込んでおく。整合性はそのうちに取れてくる。
整合性がとれた部分から最終に近いくらいにレイアウトを整えていく。その作業の中でまた思いつきが出てくる。まずアウトラインで全体像をつくるというやり方はしない。
スライド文脈のつなぎに無理がないか、常に意識しておく。
アニメーションはカットインだけ。最後に自分のしゃべりのリズムを検証しながらつけていく。

もう皆さんお分かりだと思いますが、こういうやり方でパワポをつくっていくとスライド枚数はかなり増えていきますね。

この「いま綾部からなにを情報発信すべきか」というパワポの枚数は結局、第1部と第2部を合わせて274枚だった。

上記の原則でつくっていれば、1枚のスライドにかける時間は30秒もあれば充分だ。中には5秒しかかからないスライドもある。

僕は長い間、15秒CMの制作現場にいた。その世界では商品カットは最低2秒半あれば認識できるというのが常識だ。パワポのスライドだって全面写真にすれば3秒もあれば充分に認識できる。

デジタルという便利な道具を使いこなせばプレゼンも楽になる。昔は、パワポを印刷して配る必要があることも多かった。だからなるべくスライド枚数は少ない方がいいと思っていたのだが、今は違う。手持ち資料の代わりにどこかのクラウドにPDFをアップしておけばすむ話だ。

そうやってようやく完成したのが、このパワポです。


クラウドにアップする方法はいろいろある。

「いま綾部から何を情報発信すべきか」issuuはこちら。

「いま綾部から何を情報発信すべきか」googleドライブはこちら。

issuuの方がおしゃれなのだが、Flashを使っているためiPadでは開かないこともある。
つい最近、どうやらiPad対応も始まったようだが。

念のため、googleドライブでもバックアップする。ただしこのPDFは重すぎてプレビューはできないのでダウンロードの必要がある。

ご興味のある方はご覧下さい。とても長いPDFですが写真が多いのでざっと流してもらえれば、全体像は掴めると思います。

皆さんお察しのように内容的には例によってコンテキスターの思い込みと独断が多い。
特に第1部は「綾部」という深遠な文脈を自称アヤベイストが覗き見したものなので、反対質問も多いと思う。


反問に対する回答は僕なりに用意することはできるのだが、それはあくまでも半答でしかない。
回答の全体像を整えるためには、皆さんご自身が考えてください、という「逃げの一手」が第3部の「反問半答」タイムだった。


そして第2部には、いつのまにかデジタルじじになってしまった僕の経験値が反映されている。
「情報大洪水を楽しむため」の一般論として僕なりのソーシャル・メディアとのつきあい方とちょっとしたコツを書いている。
このパートだけならこんなに苦労はしなかったはずだ。綾部にご興味のない方は第2部だけをぱらぱらと見てください。


この種の研究会ではセミナーとワーク・ショップというのが一般的な組み合わせなのだろう。
でも僕はファシリテーターというのは得意じゃないのだ。どちらかというと他人の言うことを素直に聞く方ではないので。
ワーク・ショップをやらないで済ますためには、しゃべるパートをできるだけ長く用意して後は質疑応答に持ち込むしかない。

どこまで行っても僕はファシリテーターではなくアジテーターなのだ、と最近つくづく思う。
自身がワークショップに参加するのも正直に言えば、あまり好きではなかった。

しかし、そんな僕が参加して感動したワークショップがある。

塩見直紀さんの「半農半Xデザインスクール」。
「ノリノリ四天王寺まち×むら楽座」という大阪でのイベントで僕はこのワークショップに参加した。

綾部での講演の2週間前だった。

塩見さんというのはつくづく不思議な人だと思う。
彼が10年前に提唱した「半農半X」は今や一般名詞になりつつある。
そして数々の言霊を世の中に提供し続け、ときには日本を代表する思想家と言われることもあるのに、まったくオーラを出さない。あるいは出せない。

その塩見さんがファシリテーターをする場では、関係性の奇跡が起きることもある。
自分を無にすることができる塩見さんならでは技だろう。

四天王寺は聖徳太子が病人を癒やすためにつくられた寺だと言われている。
そのせいかもしれないが、このワークショップには医療系の皆さんの参加が多かった。

短い時間のワークショップが終了するまでに塩見さんがつくったエックス発見のための方法論が参加者に浸透していく。

そして終了時には場の空気感がエックスとエックスの新しい関係を祝福するようなものに変わる。

僕も珍しく素直に人の話を聞き、自分のミッションを分かりやすくしゃべることができたような気がする。
半農半コンテキスターと堂々と名乗れる気分になった。


綾部での講演の前に四天王寺で塩見さんのワークショップに参加できてよかった、とつくづく思う。最後まで悩んでいた第1部の結論が見えてくる。

塩見さんがよく言われる「綾部から型を出せ」の「型」とは「半農半Xという生き型」だったのだ。

すでに半農半Xという言葉に慣れ親しんでいる皆さんには、あたりまえの結論に見えるかもしれない。
だが、コンテキスターがめぐりめぐって綾部の文脈研究をした結果、たどりついた地平がここなのだ。
「半農半Xという生き方」は生き方の選択肢のひとつだった。
だが、「半農半Xという生き型」はポスト311の新しい倫理や規範のプロトタイプなのだ。


そして、そのプロトタイプを実践したら、こんな家族が増えてきてごく普通に革命が起こる。


半農半Xという生き型を綾部から発信して世界をぜんたい幸福にしてほしい。

そうしてほしい、きっとそうなるだろう、いやなってくれなくては困る。

これが綾部文脈を研究したコンテキスターの切なる願いである。

こんなことを一気にしゃべったのだ。会場は元小学校の教室だった。
オーディエンスは決して多いとは言えなかったが、僕自身としてはやり切った感はある。

2ヶ月間、綾部という底知れぬ文脈と向き合う日々を過ごした。
超ヘビー級の小説「邪宗門」も読破した。21世紀の平和学「イカの哲学」も読んだ。
ときには、坂村真民の詩で目を休め癒やされながら。

少々、くたびれたCPUでも、まだたまにはフル回転することができる、と分かっただけでも僕にとっては大きな収穫だった。

というように自己満足ばかりしていてもしかたないのだが。

つたない話を長時間にわたって聞いてくれた皆さんになにかひとつでもお伝えすることができたとしたら本当に嬉しい。聞いてくれてありがとう、と御礼を申し上げたい。

そして、還暦ドラゴンの年も終わろうとする時に、尊い機会を与えていただいた塩見さんにひたすら感謝したい。ありがとうございました。


年の瀬の忙しいときに、また長いエントリーをここまで読んでいただいた皆さんにも深謝です。
今年も好き勝手なことばかりを書き連ねたのが当研究所のレポートでした。

田中文脈研究所は永遠のβ版。
宮澤賢治の言葉を借りるならば「永久の未完成これ完成である」と言いたいところなのだが…。

そんな当研究所ではあるが、自慢できることがふたつある。

ひとつは「鶴の恩返し」をしていること。

盟友、原田ボブ基風が俳人独特の感覚で当研究所のことをそう言ってくれた。

僕たちは恵まれた時代の世の中に助けられて、ここまでの人生を送ってきた。
助けられたら恩返しするのは当然だ。
そして恩返しするときに鶴は自分の羽根をむしっていく。

僕は自分で現場に行って見たこと聞いたことを自らの内に貯めこんでいる。
研究レポートを書く時は、その肉(たぶん羽根ではない)をむしっている気がする。
僕の場合はその姿を見られても恥ずかしくはないが。

綾部パワポを創ったとき使用した写真は99%まで自分で撮影したものだ。それは自慢してもいいだろう。

ただし「鶴の恩返し」システムは貯めこむこととむしりとることのバランスが崩れたら破綻する。今のところ、顔も腹もお肉は余っているので大丈夫だとは思うが(笑w)。

また走り回る体力がなくなっても破綻する。このあたりは来年の課題ですね。

ふたつめは当研究所を応援してくれる同志がいること。

綾部での研究会にもNPO法人英田上山棚田団と協創LLPの仲間たちが遠くから駆けつけてくれた。そして、僕の野菜作りの師匠、寒吉つぁんも。

彼らの素晴らしいところのひとつは、自分たちが主催していないイベントでも最後まで残って気遣いと片付けをすることだ。
綾部型情報発信に関する研究会でもロングドライブの直後に3時間もおつきあいいただき、さらに会場である教室の片付けまで手伝ってくれた。

そして例によっておつかれさまショットを撮影する。
最近は僕たちのピースサインである「るるぷう」(LLPのひらがな読み)をどなたさまでもいっしょにやってくれるようになった。これもすごいことだ。

この同志たちは僕の自慢だ。


ということで今年最後のエントリーを終了します。

終わる前に、今年も1年間、好き勝手に走り回ることを許してくれた山の神に小さな声でありがとう、と言っておこう。

孫悟空はキント雲で一気に十万八千里を飛んだという。でもそこにあった5本の柱に落書きをしたら、それはお釈迦様の指だったのですね。
男なんて所詮、お釈迦様の掌で右往左往しているだけなのだ。

来年もまた変わらず「鶴の恩返し」ができて、同志たちに見捨てられないように山の神にお願いしなければ。

それでは皆さん、よいお年を。


2012年11月30日金曜日

文脈日記(イーハトーブの空彦)

イーハトーブの空は低い。雲の間から天使の梯子が降りてくる。
この薄明光線のことを宮澤賢治は「光でできたパイプオルガン」と表現した。
東北の空に昇ったいのちたちが荘厳な音楽を奏でているのかもしれない。
あるいは梯子を使って、残された人たちの笑顔を見に来るのかもしれない。



11月7日、僕は豊穣な田園地帯を見ながら花巻空港に降下した。

311後、東北に来たのは3回目だ。
南相馬、亘理、東松島、石巻と北上して、前回は南三陸の手前で心を残した。
花巻から南下することで、南相馬からのラインが繋がる。

イーハトーブは秋だ。宮澤賢治の心象スケッチの中にある理想郷は秋の愁いの中にある。

まずは陸前高田まで。釜石街道には賢治が見た風景が残っている。



気仙川に寄り添いながら走る。ナビは陸前高田市役所にセッティングしてある。

僕はいつものように迷いながら、ようやく仮庁舎までたどりついた。
被災地でナビは役に立たない。目印になる建物は存在しないことが多いのだから。

仮庁舎で震災ガイドをしてくれる森さんをピックアップする。まずは高いところに行こうという彼女の言葉にしたがって、海を見下ろす山に登った。

その途中、雲間からもれてくる光を見て森さんが僕に聞く。

こういうのは何て言うのかしら。

天使の梯子、ですね、僕は即座に答えた。

山から見る広田湾は美しい。そしてこの美しい湾は震源に向かって開けていたのだ。陸前高田は根こそぎ津波に持っていかれた。



鳥の視線から生活者視線になって、市街を案内してもらう。
ぽつりぽつりと建物が取り残されている他は何もない海側。

夏場は草が生えるでしょう。
そうすると、そこは本当に元々何もなかったところにしか見えなくなるの。
今は、草も枯れてきて町の跡もはっきり見えますけど。
でもね、この写真を見てください。ここには……。



森さんが見せてくれる311以前の町と、今、自分が見ているもの重ね合わせる努力をする。
この町では1735人の物語があの日に強制終了させられたのだ。
その事実に対する想像力を失ってはならない。



陸前高田の戸羽市長が「早く陸前高田に来てほしい、被災地を見てほしい」と訴えていた意味がよく分かった。解体工事でますます想像力が働きにくい状況になるかもしれないのだ。



その夜、僕は不思議な場所に泊まった。
陸前高田ドライビングスクール附属の宿泊施設、マイウスとユニウス。

聞けば、免許取得合宿のための施設を一般にも開放したのだという。
陸前高田にはいまだホテルは存在しないのだ。

ひとり旅に出たら居酒屋に行くことにしている。
そのマイウスから坂を下りていくと、「車屋酒場」がある。

僕は大阪を出発する前にこの居酒屋の店主に電話をしていた。
グーグル・マップを見ながら。

明日、そちらにお伺いしようとしている大阪の者です。
営業はしてますか。
場所は陸前高田の駅前ですね。

一瞬、会話がフリーズした。

あっ、それは前の話です。今は仮店舗なので。

昼間、陸前高田の駅前に行って僕は自分の無邪気さを恥じた。

被災地に対する想像力を失ってはならない、と言い続けてきた自分としたことが、グーグル・マップを鵜呑みにしていた。

陸前高田駅前というものは、あの日から存在しないのだ。



午後5時半に一番客としてのれんをくぐった僕は、まず店主に謝った。
無神経なことを言ってすみません、と。
店主は笑っておいしい酒と肴を出してくれた。東北の人たちはやさしい。



翌朝、マイウスで朝食を済ませて出発しようとしている僕に宿泊施設の責任者、森谷さんが声をかけてくれた。
森谷さんは盛岡の方だが、何らかのカタチで三陸の復興に関わりたいという思いから縁があったこの施設の運営をしているそうだ。

陸前高田では今、復興予算の使い途が問われている。外から見た人が意見を言ってくれることが大切なんです。

森谷さんはこの施設で陸前高田と深く関わりながら思っていることを語り始める。

僕はわずか数時間、しかもあの日から1年8ヶ月もたって初めてこの地に来た立場でまだ意見を言うことはできません、とお答えするしかなかった。

マイウスにはボランティア、復興工事、視察、本来の運転免許取得合宿と様々な人々が訪れてきたのだろう。彼らと対話の現場を重ねてきた森谷さんの言葉は重みがある。

やはり現場で聞かないと分からないことがある。やっぱり陸前高田に来てよかった。

そして、僕は自分が来た目的を語り始めた。

明日、気仙沼でMerry Projectに参加するために来ました。
気仙沼中学校で子供たちの笑顔が描かれた凧を揚げます。その子供たちは負の財産を持った被災地の子供たちです。

メリー凧@気仙沼のフライヤーをお渡しすると、森谷さんはにっこりとうなずいてくれた。

子供たちの笑顔って本当に癒やされますね。僕も伯母さんと友達を10人亡くしたのですが、子供の笑顔を見るとほっとします。いいイベントですね。できたら僕も参加してみたいものです…。

よかった。フライヤーだけでも水谷孝次さんの思いは東北の人たちに伝わるのだ。
僕は調子に乗って、「愛だ!上山棚田団」も献本してしまった。
そしてまたいつか、と森谷さんに手を振った。



この日の夜は一関で水谷さんとお会いすることになっていた。メリー凧揚げイベントの打ち合わせをするためだ。

だが、陸前高田から一関に行く前に僕には寄るところがあった。

NPO法人森は海の恋人を表敬訪問する約束をしていたのだ。

311以来、ここに行くのは僕の熱望だった。
「森は海の恋人」、豊かな広葉樹林が濃厚な牡蠣を育む海をつくっていく。

Forest is longing for Sea. 森は海をお慕い申し上げます。

この名訳の由来も語ってくれた畠山重篤さんの講演を僕は7月に舞鶴で聞いていた。

畠山さんは津波で自らの牡蠣養殖施設とお母様を失ったにもかかわらず、311直後に「それでも海を信じ、海と生きる」というメッセージを全世界に向けて発信している。

昨年の6月に上山集楽で「MERRY FOREST@美作上山」という植樹イベントをしたとき、僕は「森は海の恋人」のコンセプトを読み上げた。

さらに植樹現場にメリー幟を吊してほしい、とお願いしたのは、「もりうみ」の植樹祭で大漁旗の下で木を植えている写真を見たからだった。



副理事長の畠山信(まこと)さんからは、満潮時は道が通れなくなるかもしれないので気をつけて、と言われていた。
折から強くなってきた雨の中、唐桑半島経由で無事に海辺の事務局にたどりついた僕は興奮して1時間以上も信さんと話し込んでしまった。
そして例によって、上山棚田団本を進呈する。



信さんは言う。

木を植えたからといって、すぐに海がよくなる、という速効性があるものではありません。
でもその行為は人の心持ちを変えるのです。
植樹祭に参加した子供たちが大きくなったときに自然に対する感性が変わると思うのです。

屋久島にも住んだことがあり、環境省とも関係が深い信さんの森と川と海を見るまなざしはやさしく深い。またこのあたりの川は渓流釣師の天国らしい。

そして、自然を見るまなざしが深いということは、2012年のこの列島にあっては放射性物質にもセンシティブにならざるを得ない、ということだ。

今度は夏にテンカラ竿を持ってきますよ、そのときはよろしく、などと例によって無邪気な会話をしつつも考えることが多い訪問だった。



雨が上がる。雲から天使が降りてくる。虹を連れて。



僕は畠山家からさらに東の海に向かう。

唐桑半島の先端、御崎神社でサンセット・タイム。最近、僕は夕陽の写真を撮ることが多い。たぶん夕陽写真家を目指している(?)息子の影響だろうな。



一関のホテルロビーで水谷さんと会う。
今回のイベントの主催者、仙台凧の会の庄子(しょうじ)校長先生はすでにメリー凧をスタンバイしてくれていた。

世界初公開、メリー凧のお目見えだ。



水谷さんも興奮していたが、僕もメリー凧に関しては思い入れがあった。

311の一ヶ月前に水谷さんとはじめて上山棚田でお会いし小豆島棚田でもメリー傘を開いたあとに、僕は水谷さんにこんなコンセプトを提示していた。

「MERRY TOGETHER 海彦山彦空彦」
海彦の願いが空彦に伝わる。空彦が繋いだ山彦の希望が海彦にかえる。
みんなメリーになった。




水谷さんが瀬戸内の島で思いついた子供たちの笑顔を凧にしたい、というアイデアを聞いたときに僕の頭の中で「空彦」というキャラクターが浮かんだ。

空彦は山と海を繋ぐ存在、子供たちの笑顔を天に届ける役割。
メリーな凧は空彦なのですよ、水谷さん、と僕は伝えていた。

そのメリー空彦凧が気仙沼の空に揚がるという話を聞いたとき、僕はすぐに3回目の東北行きを決めた。

これは水谷さんのお手伝いに行かねば。まさに「思いがカタチになる」のだから。

仙台市立高森中学校長にして宮城県造形教育連盟会長、そして仙台凧の会会員の庄子先生は凧に限りない愛を寄せるアーティストだ。校長室に自身の似顔絵凧を飾っている。

この庄子凧を見たとき、水谷さんはすぐに「東北で笑顔の凧を揚げましょう!」と提案されたという。




11月9日、子供たちの笑顔を乗せた空彦が舞い上がる日が来た。

気仙沼市立気仙沼小学校・中学校を会場にした第59回宮城県造形教育研究大会・南三陸大会が始まる。



メリー空彦凧が高く舞い上がるためには風速6メートル前後の風が必要なのだという。
僕は雨、晴れ、曇り、微風、無風と頻繁に移り変わる天候を朝から眺め続けた。

そして、信じる。空彦を舞い上げる風が吹くことを。
水谷さんのために、庄子先生のために、この日のために準備を重ねてきたすべての皆さんのために。そして校庭で待っている子供たちのために。




以下はMerry Project公式サイトに書かせていただいたコンテキスター:フミメイのレポートだ。
イベント直後に書いたこの文章に僕の想いは集約されているので、自分で自分を引用する。




東北の空は低い。ときどき天使が降りてきそうなビームがもれてくる。
雲を突き破って空の上にいる人々に被災した子供たちの笑顔を届けたい。
それが今回のメリーな凧揚げの目的だった。

仙台凧の会の庄子(しょうじ)校長先生は言う。

東北で凧揚げをしていると子供たちは嬉しそうに集まってきます。
その中にひとりで来ている子供がいました。僕はその子に「お母さんは来ないの?」と聞いてしまった。その子の表情が変わった。あっ、と思いました。



庄子先生の指導でメリーな凧つくりのワークショップをするのは宮城県造型教育研究大会参加の先生たち。
図工と美術の専門家だけに手際がいい。



すばやくメリー凧を完成させた後はメッセージの書き入れをする。



そして、この先生たちもまた被災者なのだ。おそらく生徒を失った経験もお持ちなのだろう。

仙台空港のすぐそばで壊滅的な被害を受けた閖上(ゆりあげ)地区。そこの中学校から来た先生は書く。

「早くみんなが普通の生活に戻れますように」



石巻の北、雄勝(おがつ)半島から来た先生のメッセージも切実だ。
「学校がほしい!雄勝中。たくましく生きてます」

だって学校がなくなったんだもん、と明るく笑う先生のガッツがメッセージに宿る。



響命、響く命、叫命、叫ぶ命、さまざまな命のメッセージが笑顔になって空を舞う時が近づいてきた。

空は晴れてきた。あとは追い風だ。空を仰ぐ庄子先生と水谷さん。



子供たちはメリー傘を持ってスタンバイしている。その明るい笑顔が校庭に映える。




連凧を操るのは仙台凧の会の皆さん。先生たちが凧を持った手を離すと同時に熟達の技で凧を引く。

「子供たちの笑顔は未来への希望です。天まで届け、みんなの想い!」



水谷さんのメッセージとともに子供たちの笑顔が手の届きそうな雲に向かっていく……。

風よ吹け、笑顔の凧を舞い上げろ、晴れた未来が見える空まで。


田中文脈研究所コンテキスター:フミメイ記





宮澤賢治の心象風景の中に実在したドリームランド、イーハトーブ。
その雲を空彦が突き破るには、まだ力が足りなかった。

イーハトーブの風が空彦を強く強く後押しするためには、311後の新しい倫理や規範を考え続ける必要があるのだろう。

そして、水谷さんとMerry Projectはその倫理や規範をソーシャル・デザインとして表現し続けている。

新しい教科書で未来へつながる造形を学んだ中学生たちは、きっと新しい風を起こしてくれるはずだ。



東北の日暮れは早い。
真っ暗闇の中で水谷さんと庄子先生に「おつかれさま」を言った僕は気仙沼の夜に溶け込んでいった。



光の中で目が覚める。ホテルの窓から見下ろす気仙沼湾は本当に美しい。
美しすぎてあの日の午後の波を想像するのは困難だった。



それでも波は来たのだ。第十八共徳丸は国道沿いに唐突に姿を現す。



気仙沼から海岸線を北上する。
イーハトーブの言葉の中に身をおいて秋色のドライブをする。

釜石の手前で海を見たくなって国道から下りたところに小白浜漁港があった。
防潮堤の真ん中が倒壊した海にはこんな言葉がある。

避難に勝る防護なし。


そのまま一気に、遠野の宿を目指そうと思っていた。さすがに疲れていた。



イーハトーブは海から山に入ると文脈が変わっていく。
光が斜めになっていくマジックタイムに山際の空を見ると時を忘れる。



遠野の手前で車を止めて、ぼーっと山と空を見ていた僕に、老人会で御神酒をいただいてきたというおばあちゃんが話しかけてきた。

だんなさん、なにをみてらっしゃる。
どこからきなすった。
えっおおさかからかね。おくさんといっしょかね。えっひとりかね。
やまがきれいかね。わたしらまいにちみてるけどね。ろっこうしさん。
めずらしいのかね。ふーん、そうなんかい。

イーハトーブのやまとそらは、それはそれはドリームランドなのですよ、おばあちゃん。
ほら、しばいぬブドリもそういっているでせう。

この山の麓で遠野物語が生まれ、あの個性的な東北大根も種の存続を図ってきたのだ。




遠野の町と川と山を見てから花巻に向かい、夜の飛行機で帰る日になった。



早池峰山の麓を駆け足で巡る。
もう宮澤賢治のまなざしなのか柳田国男のまなざしなのかよく分からなくなる。



それでもハゼ干しは見逃さない。



一瞬、どこを走っているのか不明になる不安にドライブされつつも「修羅のなぎさ」にたどりついた。釣り人がひとり、ひたすら餌を打ち返すイギリス海岸。



旅の終わりは空に近いところから見てみたい。
宮澤賢治記念館は北上川を見下ろす雲にちかいポジションにある。



農民芸術の興隆を唱えた地人にして四次元銀河の旅人でもあった希有の存在がちりばめられた館内は、文脈家である僕にとって知恵熱が出そうな空間だった。

一息つきに外に出る。
ああ、ここが宮澤賢治の輪廻の丘だったのか。
一瞬、賢治のフレームが垣間見えたような気がした。



もう帰ろう。この先の文脈は次の機会にしよう。

花巻空港はすぐそばだ。空を流れて箕面に帰ろう。

旅の途中、僕はfacebookでこんなことをつぶやいている。

「被災地を回ると魂の芯に澱(おり)が貯まる。もっと分かりやすく言うとひどく疲れる。でも、眉毛が太い東北の男たち(女も含む)の芯からの優しさに触れると暖かい気持ちになる。だから僕はまた東北の旅をするのだろうな」

長い文章におつきあいいただき感謝です。
最後にひとつ、今、発見したことを。

「雨ニモマケズ」の自筆原稿レプリカを見ていたら、見慣れた文字があった。
でもそれは逆転している。



311を113にすること。イーハトーブから311を逆転すること。

それが、イーハトーブの空彦からのメッセージである。