2012年11月30日金曜日

文脈日記(イーハトーブの空彦)

イーハトーブの空は低い。雲の間から天使の梯子が降りてくる。
この薄明光線のことを宮澤賢治は「光でできたパイプオルガン」と表現した。
東北の空に昇ったいのちたちが荘厳な音楽を奏でているのかもしれない。
あるいは梯子を使って、残された人たちの笑顔を見に来るのかもしれない。



11月7日、僕は豊穣な田園地帯を見ながら花巻空港に降下した。

311後、東北に来たのは3回目だ。
南相馬、亘理、東松島、石巻と北上して、前回は南三陸の手前で心を残した。
花巻から南下することで、南相馬からのラインが繋がる。

イーハトーブは秋だ。宮澤賢治の心象スケッチの中にある理想郷は秋の愁いの中にある。

まずは陸前高田まで。釜石街道には賢治が見た風景が残っている。



気仙川に寄り添いながら走る。ナビは陸前高田市役所にセッティングしてある。

僕はいつものように迷いながら、ようやく仮庁舎までたどりついた。
被災地でナビは役に立たない。目印になる建物は存在しないことが多いのだから。

仮庁舎で震災ガイドをしてくれる森さんをピックアップする。まずは高いところに行こうという彼女の言葉にしたがって、海を見下ろす山に登った。

その途中、雲間からもれてくる光を見て森さんが僕に聞く。

こういうのは何て言うのかしら。

天使の梯子、ですね、僕は即座に答えた。

山から見る広田湾は美しい。そしてこの美しい湾は震源に向かって開けていたのだ。陸前高田は根こそぎ津波に持っていかれた。



鳥の視線から生活者視線になって、市街を案内してもらう。
ぽつりぽつりと建物が取り残されている他は何もない海側。

夏場は草が生えるでしょう。
そうすると、そこは本当に元々何もなかったところにしか見えなくなるの。
今は、草も枯れてきて町の跡もはっきり見えますけど。
でもね、この写真を見てください。ここには……。



森さんが見せてくれる311以前の町と、今、自分が見ているもの重ね合わせる努力をする。
この町では1735人の物語があの日に強制終了させられたのだ。
その事実に対する想像力を失ってはならない。



陸前高田の戸羽市長が「早く陸前高田に来てほしい、被災地を見てほしい」と訴えていた意味がよく分かった。解体工事でますます想像力が働きにくい状況になるかもしれないのだ。



その夜、僕は不思議な場所に泊まった。
陸前高田ドライビングスクール附属の宿泊施設、マイウスとユニウス。

聞けば、免許取得合宿のための施設を一般にも開放したのだという。
陸前高田にはいまだホテルは存在しないのだ。

ひとり旅に出たら居酒屋に行くことにしている。
そのマイウスから坂を下りていくと、「車屋酒場」がある。

僕は大阪を出発する前にこの居酒屋の店主に電話をしていた。
グーグル・マップを見ながら。

明日、そちらにお伺いしようとしている大阪の者です。
営業はしてますか。
場所は陸前高田の駅前ですね。

一瞬、会話がフリーズした。

あっ、それは前の話です。今は仮店舗なので。

昼間、陸前高田の駅前に行って僕は自分の無邪気さを恥じた。

被災地に対する想像力を失ってはならない、と言い続けてきた自分としたことが、グーグル・マップを鵜呑みにしていた。

陸前高田駅前というものは、あの日から存在しないのだ。



午後5時半に一番客としてのれんをくぐった僕は、まず店主に謝った。
無神経なことを言ってすみません、と。
店主は笑っておいしい酒と肴を出してくれた。東北の人たちはやさしい。



翌朝、マイウスで朝食を済ませて出発しようとしている僕に宿泊施設の責任者、森谷さんが声をかけてくれた。
森谷さんは盛岡の方だが、何らかのカタチで三陸の復興に関わりたいという思いから縁があったこの施設の運営をしているそうだ。

陸前高田では今、復興予算の使い途が問われている。外から見た人が意見を言ってくれることが大切なんです。

森谷さんはこの施設で陸前高田と深く関わりながら思っていることを語り始める。

僕はわずか数時間、しかもあの日から1年8ヶ月もたって初めてこの地に来た立場でまだ意見を言うことはできません、とお答えするしかなかった。

マイウスにはボランティア、復興工事、視察、本来の運転免許取得合宿と様々な人々が訪れてきたのだろう。彼らと対話の現場を重ねてきた森谷さんの言葉は重みがある。

やはり現場で聞かないと分からないことがある。やっぱり陸前高田に来てよかった。

そして、僕は自分が来た目的を語り始めた。

明日、気仙沼でMerry Projectに参加するために来ました。
気仙沼中学校で子供たちの笑顔が描かれた凧を揚げます。その子供たちは負の財産を持った被災地の子供たちです。

メリー凧@気仙沼のフライヤーをお渡しすると、森谷さんはにっこりとうなずいてくれた。

子供たちの笑顔って本当に癒やされますね。僕も伯母さんと友達を10人亡くしたのですが、子供の笑顔を見るとほっとします。いいイベントですね。できたら僕も参加してみたいものです…。

よかった。フライヤーだけでも水谷孝次さんの思いは東北の人たちに伝わるのだ。
僕は調子に乗って、「愛だ!上山棚田団」も献本してしまった。
そしてまたいつか、と森谷さんに手を振った。



この日の夜は一関で水谷さんとお会いすることになっていた。メリー凧揚げイベントの打ち合わせをするためだ。

だが、陸前高田から一関に行く前に僕には寄るところがあった。

NPO法人森は海の恋人を表敬訪問する約束をしていたのだ。

311以来、ここに行くのは僕の熱望だった。
「森は海の恋人」、豊かな広葉樹林が濃厚な牡蠣を育む海をつくっていく。

Forest is longing for Sea. 森は海をお慕い申し上げます。

この名訳の由来も語ってくれた畠山重篤さんの講演を僕は7月に舞鶴で聞いていた。

畠山さんは津波で自らの牡蠣養殖施設とお母様を失ったにもかかわらず、311直後に「それでも海を信じ、海と生きる」というメッセージを全世界に向けて発信している。

昨年の6月に上山集楽で「MERRY FOREST@美作上山」という植樹イベントをしたとき、僕は「森は海の恋人」のコンセプトを読み上げた。

さらに植樹現場にメリー幟を吊してほしい、とお願いしたのは、「もりうみ」の植樹祭で大漁旗の下で木を植えている写真を見たからだった。



副理事長の畠山信(まこと)さんからは、満潮時は道が通れなくなるかもしれないので気をつけて、と言われていた。
折から強くなってきた雨の中、唐桑半島経由で無事に海辺の事務局にたどりついた僕は興奮して1時間以上も信さんと話し込んでしまった。
そして例によって、上山棚田団本を進呈する。



信さんは言う。

木を植えたからといって、すぐに海がよくなる、という速効性があるものではありません。
でもその行為は人の心持ちを変えるのです。
植樹祭に参加した子供たちが大きくなったときに自然に対する感性が変わると思うのです。

屋久島にも住んだことがあり、環境省とも関係が深い信さんの森と川と海を見るまなざしはやさしく深い。またこのあたりの川は渓流釣師の天国らしい。

そして、自然を見るまなざしが深いということは、2012年のこの列島にあっては放射性物質にもセンシティブにならざるを得ない、ということだ。

今度は夏にテンカラ竿を持ってきますよ、そのときはよろしく、などと例によって無邪気な会話をしつつも考えることが多い訪問だった。



雨が上がる。雲から天使が降りてくる。虹を連れて。



僕は畠山家からさらに東の海に向かう。

唐桑半島の先端、御崎神社でサンセット・タイム。最近、僕は夕陽の写真を撮ることが多い。たぶん夕陽写真家を目指している(?)息子の影響だろうな。



一関のホテルロビーで水谷さんと会う。
今回のイベントの主催者、仙台凧の会の庄子(しょうじ)校長先生はすでにメリー凧をスタンバイしてくれていた。

世界初公開、メリー凧のお目見えだ。



水谷さんも興奮していたが、僕もメリー凧に関しては思い入れがあった。

311の一ヶ月前に水谷さんとはじめて上山棚田でお会いし小豆島棚田でもメリー傘を開いたあとに、僕は水谷さんにこんなコンセプトを提示していた。

「MERRY TOGETHER 海彦山彦空彦」
海彦の願いが空彦に伝わる。空彦が繋いだ山彦の希望が海彦にかえる。
みんなメリーになった。




水谷さんが瀬戸内の島で思いついた子供たちの笑顔を凧にしたい、というアイデアを聞いたときに僕の頭の中で「空彦」というキャラクターが浮かんだ。

空彦は山と海を繋ぐ存在、子供たちの笑顔を天に届ける役割。
メリーな凧は空彦なのですよ、水谷さん、と僕は伝えていた。

そのメリー空彦凧が気仙沼の空に揚がるという話を聞いたとき、僕はすぐに3回目の東北行きを決めた。

これは水谷さんのお手伝いに行かねば。まさに「思いがカタチになる」のだから。

仙台市立高森中学校長にして宮城県造形教育連盟会長、そして仙台凧の会会員の庄子先生は凧に限りない愛を寄せるアーティストだ。校長室に自身の似顔絵凧を飾っている。

この庄子凧を見たとき、水谷さんはすぐに「東北で笑顔の凧を揚げましょう!」と提案されたという。




11月9日、子供たちの笑顔を乗せた空彦が舞い上がる日が来た。

気仙沼市立気仙沼小学校・中学校を会場にした第59回宮城県造形教育研究大会・南三陸大会が始まる。



メリー空彦凧が高く舞い上がるためには風速6メートル前後の風が必要なのだという。
僕は雨、晴れ、曇り、微風、無風と頻繁に移り変わる天候を朝から眺め続けた。

そして、信じる。空彦を舞い上げる風が吹くことを。
水谷さんのために、庄子先生のために、この日のために準備を重ねてきたすべての皆さんのために。そして校庭で待っている子供たちのために。




以下はMerry Project公式サイトに書かせていただいたコンテキスター:フミメイのレポートだ。
イベント直後に書いたこの文章に僕の想いは集約されているので、自分で自分を引用する。




東北の空は低い。ときどき天使が降りてきそうなビームがもれてくる。
雲を突き破って空の上にいる人々に被災した子供たちの笑顔を届けたい。
それが今回のメリーな凧揚げの目的だった。

仙台凧の会の庄子(しょうじ)校長先生は言う。

東北で凧揚げをしていると子供たちは嬉しそうに集まってきます。
その中にひとりで来ている子供がいました。僕はその子に「お母さんは来ないの?」と聞いてしまった。その子の表情が変わった。あっ、と思いました。



庄子先生の指導でメリーな凧つくりのワークショップをするのは宮城県造型教育研究大会参加の先生たち。
図工と美術の専門家だけに手際がいい。



すばやくメリー凧を完成させた後はメッセージの書き入れをする。



そして、この先生たちもまた被災者なのだ。おそらく生徒を失った経験もお持ちなのだろう。

仙台空港のすぐそばで壊滅的な被害を受けた閖上(ゆりあげ)地区。そこの中学校から来た先生は書く。

「早くみんなが普通の生活に戻れますように」



石巻の北、雄勝(おがつ)半島から来た先生のメッセージも切実だ。
「学校がほしい!雄勝中。たくましく生きてます」

だって学校がなくなったんだもん、と明るく笑う先生のガッツがメッセージに宿る。



響命、響く命、叫命、叫ぶ命、さまざまな命のメッセージが笑顔になって空を舞う時が近づいてきた。

空は晴れてきた。あとは追い風だ。空を仰ぐ庄子先生と水谷さん。



子供たちはメリー傘を持ってスタンバイしている。その明るい笑顔が校庭に映える。




連凧を操るのは仙台凧の会の皆さん。先生たちが凧を持った手を離すと同時に熟達の技で凧を引く。

「子供たちの笑顔は未来への希望です。天まで届け、みんなの想い!」



水谷さんのメッセージとともに子供たちの笑顔が手の届きそうな雲に向かっていく……。

風よ吹け、笑顔の凧を舞い上げろ、晴れた未来が見える空まで。


田中文脈研究所コンテキスター:フミメイ記





宮澤賢治の心象風景の中に実在したドリームランド、イーハトーブ。
その雲を空彦が突き破るには、まだ力が足りなかった。

イーハトーブの風が空彦を強く強く後押しするためには、311後の新しい倫理や規範を考え続ける必要があるのだろう。

そして、水谷さんとMerry Projectはその倫理や規範をソーシャル・デザインとして表現し続けている。

新しい教科書で未来へつながる造形を学んだ中学生たちは、きっと新しい風を起こしてくれるはずだ。



東北の日暮れは早い。
真っ暗闇の中で水谷さんと庄子先生に「おつかれさま」を言った僕は気仙沼の夜に溶け込んでいった。



光の中で目が覚める。ホテルの窓から見下ろす気仙沼湾は本当に美しい。
美しすぎてあの日の午後の波を想像するのは困難だった。



それでも波は来たのだ。第十八共徳丸は国道沿いに唐突に姿を現す。



気仙沼から海岸線を北上する。
イーハトーブの言葉の中に身をおいて秋色のドライブをする。

釜石の手前で海を見たくなって国道から下りたところに小白浜漁港があった。
防潮堤の真ん中が倒壊した海にはこんな言葉がある。

避難に勝る防護なし。


そのまま一気に、遠野の宿を目指そうと思っていた。さすがに疲れていた。



イーハトーブは海から山に入ると文脈が変わっていく。
光が斜めになっていくマジックタイムに山際の空を見ると時を忘れる。



遠野の手前で車を止めて、ぼーっと山と空を見ていた僕に、老人会で御神酒をいただいてきたというおばあちゃんが話しかけてきた。

だんなさん、なにをみてらっしゃる。
どこからきなすった。
えっおおさかからかね。おくさんといっしょかね。えっひとりかね。
やまがきれいかね。わたしらまいにちみてるけどね。ろっこうしさん。
めずらしいのかね。ふーん、そうなんかい。

イーハトーブのやまとそらは、それはそれはドリームランドなのですよ、おばあちゃん。
ほら、しばいぬブドリもそういっているでせう。

この山の麓で遠野物語が生まれ、あの個性的な東北大根も種の存続を図ってきたのだ。




遠野の町と川と山を見てから花巻に向かい、夜の飛行機で帰る日になった。



早池峰山の麓を駆け足で巡る。
もう宮澤賢治のまなざしなのか柳田国男のまなざしなのかよく分からなくなる。



それでもハゼ干しは見逃さない。



一瞬、どこを走っているのか不明になる不安にドライブされつつも「修羅のなぎさ」にたどりついた。釣り人がひとり、ひたすら餌を打ち返すイギリス海岸。



旅の終わりは空に近いところから見てみたい。
宮澤賢治記念館は北上川を見下ろす雲にちかいポジションにある。



農民芸術の興隆を唱えた地人にして四次元銀河の旅人でもあった希有の存在がちりばめられた館内は、文脈家である僕にとって知恵熱が出そうな空間だった。

一息つきに外に出る。
ああ、ここが宮澤賢治の輪廻の丘だったのか。
一瞬、賢治のフレームが垣間見えたような気がした。



もう帰ろう。この先の文脈は次の機会にしよう。

花巻空港はすぐそばだ。空を流れて箕面に帰ろう。

旅の途中、僕はfacebookでこんなことをつぶやいている。

「被災地を回ると魂の芯に澱(おり)が貯まる。もっと分かりやすく言うとひどく疲れる。でも、眉毛が太い東北の男たち(女も含む)の芯からの優しさに触れると暖かい気持ちになる。だから僕はまた東北の旅をするのだろうな」

長い文章におつきあいいただき感謝です。
最後にひとつ、今、発見したことを。

「雨ニモマケズ」の自筆原稿レプリカを見ていたら、見慣れた文字があった。
でもそれは逆転している。



311を113にすること。イーハトーブから311を逆転すること。

それが、イーハトーブの空彦からのメッセージである。



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