2010年10月22日金曜日

文脈日記(丸亀高校)

ようやく秋も深まってきた。僕の脱藩生活も深まってほしいものだ。
と、人ごとのように言っていると誰かに叱られそうだ。
僕は変わり続けているのだ、と信じたい。
ようやく畑仕事を始めたし、料理修行のスタンバイもした。
どこまでやりきれるかは保証の限りではないが、やったことがないことをやってみるのは変わり続けるための必要条件だ。

さとなおも「変わり続けること」というエントリーで決意表明を新たにしている。

いきなり決意表明などとアジエン(アジテーション演説のこと)のようになるのは、「街場のメディア論」(内田樹)の影響だ。以下、引用。

総数600万と呼ばれるブログには、これまで身辺雑記エッセイが多く含まれていました。ところが、ここにツイッターという新しいメディアが出てきました。これはいかにも日常の出来事を「随筆風」に点描するのにジャストフィットなツールですので、ブログの書き手たちの相当数はすでにツイッターに流れています。いずれ、ブログにはそういう「やわらかいネタ」を排除した残りの、政治経済社会文化のもろもろの事象についての「演説」に類するものが残されるのではないかと僕は予測しています。

このブログの更新頻度が少ないのは、演説するための心の準備に時間がかかるからです。
しかも、文脈研究所のエントリーは自分で自分に対して演説しているので、さらにハードルが高いのです。

と例によって言い訳をしておこう。

そして今回のエントリーは、僕の演説の原点を語りたいと思う。
僕は1970年に香川県の丸亀高校を卒業している。そして早稲田大学に行った。

正直に言って、早稲田大学への愛着はない。「都の西北」は歌ったことがない。その代わりに「ワルシャワ労働歌」や「友よ」を歌っていた。

だが、丸亀高校校歌への愛着はある。なぜなら、僕は丸亀高校応援団であったから。
15歳から18歳まで、丸亀高校(以下、丸高)で過ごした日々は面白かった。

ラスト・オキュパイド・チルドレンである僕は丸高時代にモノの考え方のプロトタイプを構築した。そして58歳の今に至っている。

丸高卒業後の40年間で同窓会には一度しか出席したことがない。
そこで僕は18歳からほとんど変わっていないと言われた。もちろん、見た目は充分に老けているが。

「死ぬまで18歳」と歌ったのはブライアン・アダムスだ。それはクールなことなのだろう。
だが、実際のところ、18歳のややこしい精神構造のまま生き続けるのなんて面倒くさいと思う。変わっていないと言われると複雑な気分だ。

18歳から変わっていないのではなく、あの頃に原点を持つ文脈にまだこだわりを持っている、と言う方が正解だと本人は思っている。

その文脈が形成されたのは1967年から1970年だ。丸高時代の3年間は全世界的に激動の時代だった。

パリでは想像力が権力を奪取しそうだった。サンフランシスコではフラワー・チルドレンたちがレイド・バックしていた。東京では神田にカルチェラタンができて大きな講堂が水浸しになっていた。

そして僕は片田舎の高校生だった。坂出から丸亀まで自転車を飛ばし、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み、ビートルズの赤盤を買いあさり、応援団の練習で声をからせていた。その状況は、まさに芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」そのものだった。

純朴な丸高生だった僕に、東京に行った応援団の先輩から熱い手紙が届く。

俺は新宿で石、投げじょるんで。よいよ、おもっしょいけんな。お前もはよ来てつか。

讃岐弁で言えば、こういう主旨のことを書き連ねてくる。その手紙はテレビで見る全共闘の映像よりも激しく、僕のパトスをあおってくれた。

重ねて言うが、応援団である。普通は右翼集団である。
ところが、この先輩も含めて、当時の丸高応援団は妙に左翼のニオイがした。
東京に行ってはじめてデモに参加したとき、応援のリズムとデモのリズムって似ている、と僕は感じた。

丸高の真ん中には広場がある。
もしくは、あった。最近、行ったことがないのでよく分からないが。
その広場には赤いタイルが敷きつめてある。
僕たちの応援団は、その広場を「赤の広場」と呼んでいた。

その頃の高校生にとって左翼的なるものは、すべからくかっこよかったのですね。
モスクワであろうが、毛沢東であろうが、チェ・ゲバラであろうが、あまりコンセプトの違いは関係なかった。

かっこいいと自分勝手に思いこんでいた僕たちは派手好きだった。
文化祭には講堂で演舞をやった。けっこうな人気だったと思うのだけど。
芦原すなおの小説に出てくるようなロックバンドの代用品だったのかもしれない。

そして赤い応援団には妙な縁脈があった。大江健三郎をきどって難解な文体の詩を書いていたやつ、琴平の旅館の息子で僕にはじめてのビールをしこたま飲ませてくれたやつ、などなど。

もしかしたら、僕だけが勝手に赤い志向を持っていたのかもしれない。他のメンバーは普通の応援団だったのかもしれない。僕は丸高応援団は今でも大好きだが、丸高野球部のことはほとんど覚えていない。応援団なんだから、野球の応援はしていたはずだけどね。

ただ、はっきり言えるのは、僕は丸高生時代に「永遠の左翼青年」たる文脈を形成してしまった、ということだ。ここでいう左翼というのは、必ずしも思想信条的なものとは限らない。もっと単純に言えば、「へそ曲がり」「天の邪鬼」というほうが当たっているのかもしれない。

その気質で得をしたのか、損をしたのかは今でも分からない。ただ、D社の社風には合っていたようには思う。

考えてみれば、スティーブ・ジョブズだって、ビル・ゲイツだって「永遠の左翼青年」のようだ。
スティーブ・ジョブズは左翼急進主義で、ビル・ゲイツは議会制民主主義型左翼という違いはあるが。

赤い丸高応援団だった僕は、早大全共闘に馳せ参じて・・・となれば文脈は単純なんだが、ラスト・オキュパイド・チルドレンの人生は複雑ですね。これもまた宿題エントリーですね。

ではなぜ、そのような気質を持つに至ったのか。

まずは丸亀という土地が持つコンテキストが妙に明るかったことだ。
それは街の真ん中に素敵なお城を持っていることとも関係していたように思う。
丸亀城は丸高生の運動場であり遊び場であった。思い出は尽きない。

その「亀城のほとり、富士の下」にあった丸亀高校には自由な雰囲気が漂っていたように思える。
一応、香川県ではナンバー2の進学校だった。受験の重い現実は当時もいっしょである。
でも、自由気ままな赤い応援団である僕が、その受験にさえ「へそを曲げて」も受け入れてくれる寛容度は充分にあった。そのはずだ。

と書いているうちに、もしかしたら僕は真面目な受験生たちの邪魔をしていたのかもしれない。いや、そうに違いない、という気がしてきた。今さらながら、ごめんなさい。

当時の丸亀高校関係者がこのエントリーを読んだら、またあいつが勝手なことを、とお怒りになるかもしれない。
でも丸高に対する僕の愛着は本物です。

脱藩して、こういうブログを書き連ねるようになった原点は、丸高の3年間で培われた。
その文脈にのっとって、僕はこれからも変わり続けねばならない。

そのためには、ときどき、こうして自分で自分の応援演説をする必要がある。

フレー、フレー、自分。

2010年10月11日月曜日

文脈日記(コンテキスターふたたび)

最近、コンテキスターって何ですか、というメンションをツイッターでもらった。
とりあえず、以前のエントリーをご紹介させていただいた。しかし、そろそろまたコンテキスターについて語らないと、この言葉にサステナビリティがなくなりそうだ。
CONTEXTER、コンテキスターというのは僕の造語だ。正しい英語かどうかは分からない。
脱藩後の自分の肩書きをを考えていたときに、ふと思いついた言葉だ。今年の2月のことだった。

元々、コンテキストという言葉に興味があった。
コンテキストとは背景、世界観、関係性、織り方、そして文脈。なかなか味わい深い。

この言葉は広告業界では、あまり頻繁に使われる言葉ではなかった。CMを中心とする広告はコンテンツという言葉でくくられることが多い。ところがメディアが変化するにつれて、単独のコンテンツでコミュニケーションを浸透させるのは困難な時代になってくる。

僕はD社にいた最後の10年間でネットの世界と深く関わった。しかもほとんど先人がいなかったインタラクティブ・クリエーティブのCDだった。iCRというチームでさまざまな経験をしてきた。
そこでは、しばしばコンテキストという言葉を使った方がものごとをうまく説明できたような気がする。

たとえば、「ワン・ソース、マルチ・ユース」という広告用語があった。ひとつのコンテンツをクロス・メディアして使用するという意味だ。4マスで広告コミュニケーションが成立していた時代にはそれでもよかったが、ネット環境では少しそぐわない感じがした。

インターネットが体液のようになった生活者に対しては、「ワン・コンテキスト、クロス・ソース」という表現の方が当たっている。そのブランドのベネフィットを一定の文脈で、たくさんの口がしゃべる方が強く伝わる。
というようなことを2009年秋にはしゃべっていた。

また、2002年には「ブランド戦略シナリオーコンテクスト・ブランディング」という本を棚入れしている。あまりマーケティング系の本を保存することはないのだが、「文脈競争優位」というキャッチフレーズに惹かれて、会社のデスクにいれておいたのであろう。

このエントリーは広告関係でまとめる気はない。ただ、コンテキストという言葉が広告業界でもキーになりつつあることを確認しておく必要はあると思う。

「使ってもらえる広告」の著者、須田和博さんも、生活者はコンテンツ消費からコンテクスト消費へとシフトしつつある、と説いている。

さらに、最近は出版界でもコンテキストはキーワードになっているらしい。
佐々木俊尚さんは「電子書籍の衝撃」を紙とeブックの両方で出版することにより、コンテキストの循環プロセスを実践したそうだ。
読者とコンテキストを共有した本は、時代の集合的無意識をすくいあげて、また新たなコンテキストを生み出していく、ということだ。

その佐々木さんを師匠と仰ぐ「リストラなう!」たぬきちさんの言葉を引用して、これからはコンテキストの時代である、ということを再認識しよう。

なぜその本が書かれたのか、この本を読む意味は、読んでどうトクするのか、今この本を読む必然性とは……そういったことがお客さんである読者に伝わるよう周辺を整理しなきゃならない。そして大勢の読者にその本について語り合ってもらえる場を用意すること、などなどなど。
つまり読者の人生にその本の居場所を作ってやる。それが「本をソーシャル化する」ことだと思う。

本をソーシャル化する、ということは本を生活者のコンテキストの中で価値あるモノにする、と言い替えてもいいですかね、たぬきちさん。

さてさて、コンテキスターの話をしなきゃ。
脱藩後、1クールを経過した現時点では、僕の考えるコンテキスターとは単純な話になりつつある。

コンテキスターとは、文脈の接続者である。

あまりに簡単な定義ですみません。でも、そうなんです。
このエントリーで、僕がつたなくも試みていることがコンテキスターのことはじめなのだ。

たとえば、広告界と出版界を「コンテキスト」という文脈で接続してみること。
たとえば、リアルな世界で自分の親戚と仕事仲間を接続してみること。
たとえば、ツイッターで@と@をメンションしてRTして接続してみること。

これらの行為がコンテキスターのミッションなのだ。
よろず、ものごとを接続する者をコンテキスターと呼んだら、自分の中ではすごくすっきりする。

考えてみたら、文脈を接続する行為を表す言葉ってなかったのですね。
コネクターでは、あまりに物理的だ。
フィクサーでは、生臭い。
プロデューサでは、お金がからむ感じがする。
コンテキスターというのが、僕にとって適度な温度感を持った言葉だった。

さらに考えてみたら、坂本龍馬だってコンテキスターと言えるのではないか。
長州と薩摩と土佐の文脈を接続して、未来を指向した。
その未来が1945年8月15日に繋がったのは情けない話だが、これは別エントリーに棚入しておこう。

と書いているうちに、聞こえてきたメロディがある。
恥ずかしながら(笑)、D社の社歌だ。

♪おお、D社、◯◯と◯◯つなぐ~、というあれですね。

現役時代、あまり社歌に対するロイヤリティはなかった。でも、確かにこれはコンテキスター賛歌とも言える。繋いで、接続して、そして前に行くのだ。
D社のDNAのよいところは、ひたすら前向きなところだった、と僕は思っている。いかに問題が多くても、猪突猛進と言われようとひたすらポジティブなDNAだ。

そう、コンテキスターは接続して前に行かなければならない。
善循環説に立たないと、接続する行為は持続しない。
そういう意味では、D社を卒業した僕がコンテキスターという肩書きを目指しているのは正しい道のような気がする。

僕はまだ世の中に対しては、コンテキスターと名乗ったことはない。
ツイッターとこのブログの中でのみ、すなわち自分に対する道筋としてコンテキスターという言葉を使っている。

まずは身近なモノとコトから文脈を接続していき、それが世の中全体に何らかの善循環をもたらせば最高だ。

だが、今の僕には、そこまで高らかにコンテキスターのミッションを宣言する自信はない。
明確に言えるのは、僕は自分の文脈を正しく接続していきたい、ということだ。

1952年から今日まで生きてきた僕の中にはさまざまな文脈がからまっているはずだ。
その文脈をひとつの流れに接続していけば、必ず見えてくるものがあると思う。

過去の自分と今の自分と未来の自分を繋ぐ接続者でありたい。

これが、僕のコンテキスターとしてのスタートラインだ。