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2010年6月1日火曜日

讃岐のデンデケデケデケ

小豆島新聞 2010年4月30日掲載 双葉要

讃岐の音ってなんだろう。キーンと澄んだサヌカイトの音だろうか、あるいは瀬戸内海をひねもすのたりする潮騒だろうか。元来がのんびりとした風土なので、それほど派手な音はないはずだ。

その素朴な世界にあって、衝撃的な音に啓示された讃岐の若者たちがいた。芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」という小説に描かれた高校生たちである。

これは1965年から1968年の物語。舞台は観音寺。ポップスという言葉は、まだ一般的ではなかった。いや、ほとんど誰も知らなかった田舎町の話だ。

「デンデケデケデケ」というのは、エレキギターのトレモロ・グリッサンド奏法が創りだす音のことだ。ベンチャーズによって一気に有名になった例のあの音である。「テケテケテケテケ」、「ズンドコドコドコ」、表現の仕方は人それぞれであったはずだ。

書店に「デンデケデケデケ」という言葉を発見した瞬間に、「パイプライン」という楽曲のイントロが聞こえてきた人は同世代だ。つまり、文化放送の「9500万人のポピュラーリクエスト」にトランジスターラジオを必死にチューニングさせながら、受験勉強をしていた世代だ。

物語は、ベンチャーズやビートルズに憧れた高校生たちが、ロックンロール・バンドを結成していくサクセス・ストーリーである。というと、とても垢ぬけた、ハイカラな感じがする。しかし、重ねて言うと1965年の観音寺の話だ。マクドナルドどころか、喫茶店は町に1軒、予讃線は1時間に1本程度の世界である。僕は、芦原すなおに遅れること2年、1967年に丸亀の高校に入学した。

今や死語に近くなった「垢ぬけた」「ハイカラな」な感じにも届かない高校生たちが、知恵と汗をしぼって、あくせくと自分たちの夢を実現していく。その世界を体感するためには、小説だけでなく、大林宣彦監督の映画「青春デンデケデケデケ」も見てほしい。讃岐弁のリズムと町に流れる空気感から元気ももらえるはずだ。「青春」という言葉は恥ずかしいし、あんなややこしい時代に二度と戻りたくはない、と僕は思っている。それでも、あの時代が自分の原点であることは間違いないし、胸が締めつけられるくらい懐かしい。

その頃、僕の友達にもエレキギターを買ったやつがいた。でもさすがに、アンプを買う金はなかったようだ。「つんつかつかつか」、としか彼のギターは鳴らなかった。妙にものほしそうで、貧乏くさい響きであった。オノマトペを分析するのはともかく、この小説の世界観を理解するために讃岐弁は重要な要素である。

「こづかい、つか。ギターほしいきんな」「見てご。あのギター、けっこいな」こういうふうに言ったとき、その青年がロックンロールを志しているとは、とても思えないだろう。そんな垢ぬけない世界に落ちてきた「デンデケデケデケ」の衝撃度は東京の高校生とは比べものにならなかったはずだ。

「讃岐のデンデケデケデケ」と「東京のデンデケデケデケ」では、値打ちが違う。もちろん讃岐の方が値千金である。

小説家の分身たちは、あくせくと努力してロッキング・ホースメンと名付けたバンドをつくる。そのクライマックスは高校三年生の文化祭だ。

そうなのだ。文化祭なのだ。僕は今でも、文化祭の前夜を思い出すと、あまずっぱくなる。秋の始まり、空気はヒンヤリしてきても、学校中が昂っていた夜。晴れ舞台の準備は万端なのに、まだまだやることがあるような気がして、男子も女子も去りがたかった夜。

ロッキング・ホースメンのコンサートは大成功であった。これも大林監督がみごとに映像化してくれている。リードギター、サイドギター、ベース、ドラムのサウンドが喜びに満ち溢れている。ビートルズの「アイ・フィール・ファイン」を伸びやかに唄いあげる。拍手、拍手。

しかし、祭りは長く続かない。文化祭が終われば、別れの準備が始まる。「青春デンデケデケデケ」の高校生たちは、それぞれの道を行った。芦原すなおは、東京の大学に行く。その後、彼が讃岐と東京の「デンデケデケ格差」をどのように埋めていったかは分からない。ただ、42歳で「青春デンデケデケデケ」を著わし、直木賞を受賞するまでずっと心底で「讃岐のデンデケデケデケ」が鳴り響いていたのは間違いのないことのように思える。

その音は、真摯に夢を見ていた観音寺や丸亀の高校生たちにとって、遠い世界に飛躍していくための原点だったのである。

讃岐のカフカ

小豆島新聞 2010年1月20日掲載 双葉要

2009年6月、この列島にオタマジャクシが空から降ってきた。原因はまだ解明されていない。村上春樹の「海辺のカフカ」という小説にも同じような不条理なシーンがあったと日経新聞のコラムでも伝えられた。この事件がきっかけで、「海辺のカフカ」を再読した。小説の中でイワシとアジが2000匹、空から降り注いだのは、東京都中野区だ。

それはそれとして、この小説は、讃岐が舞台の「ひとつ」になっている。「ひとつ」というのは、春樹ワールドの常として、多重構造の世界観が複雑に絡み合っていくからだ。

主人公は田村カフカという15歳の少年だ。彼は夜行バスで東京から瀬戸大橋を渡って、高松までやってくる。そして、「讃岐のカフカ」になる。

カフカ少年の他にカラスと呼ばれる少年、ナカタさん、星野青年は、それぞれの「損なわれた部分」を回復するために、高松に集結してくる。父を殺し、母と姉と交わることになるカフカ少年は、讃岐で、「損なわれた部分」を回復するために、不思議な経験を積み重ねていく。

といっても、村上春樹を読んだことがない人には、想像を絶する話だと思う。元祖、フランツ・カフカは、チェコの小説家だ。ある朝、目が覚めると、虫に「変身」した男の話が代表作だ。

村上春樹が、少年に「カフカ」という名前を与えたのは、もちろんフランツ・カフカの存在があったのだろう。カフカという固有名詞には、常に不条理のニュアンスがつきまとう。ちなみに、カフカというのはチェコ語でカラスのことらしい。

では、なぜこの小説の舞台が「讃岐」だったのか。なぜ「阿波のカフカ」でも「伊予のカフカ」でもなく、「讃岐のカフカ」だったのか。あらためて語感を確かめていると、これはもう、「讃岐のカフカ」しかないという気がしてくる。不条理な物語のバック・グラウンドとして、寒くもなく暑くもなく、温暖平穏、可もなく不可もない讃岐の風土はある種の落ち着きを与えてくれるからだ。

村上春樹はこの小説の前に「辺境・近境」というエッセー集の中で讃岐うどんのルポをしたためている。裏の畑で、自分で葱をとってくる「中村うどん」をはじめとする超ディープなうどん屋の話だ。その取材時に、うどんでお腹をいっぱいにしながら、カフカの舞台設定を考えたのだろうか。

それにしても、讃岐の中でもなぜ高松なのか。高松にはこの哲学的官能小説をメタフォリカルにサポートする資格があるのだろうか。

舞台の中心は、高松にあると設定された「甲村記念図書館」である。田村カフカくんと図書館職員たちとの間で展開される隠喩に満ちた会話を支える空間だ。その静謐で知的なたたずまいは、リアリティを持って描写されている。

讃岐平野のうどん行脚とは、かけ離れたイメージの図書館にモデルはあるのか、という疑問には、村上春樹自身が「少年カフカ」という本の中で答えている。

「甲村記念図書館はもちろん実在します。というのは嘘です。実在しません。僕が勝手にこしらえたものです。すみません。なにしろ勝手にこしらえるのが好きなもので」

それでも、ネット上では、春樹ファンがモデルを求めて、さまざまな見解を展開している。そのモデルのひとつとして、坂出の鎌田共済会郷土博物館が挙げられている。坂出出身の僕としては、カマタといえば、醤油の香りである。不条理な会話が交わされる建物のモデルとは少し違う気がする。

僕は、高松空港のそばにある「漫画図書館」の建物を見たときに、甲村記念図書館をイメージしてしまったことがある。なぜ、自分がそんなことを思ったのか、高松空港に行く機会があれば再確認してみよう。

「海辺のカフカ」は、「讃岐のカフカ」になることによって、讃岐人の想像力をかきたてる。考えてみれば、この小説の中でイワシやアジが空から降ってくるシーンも、なんとなく瀬戸内海っぽいイメージがある。このイワシがカタクチイワシであれば、大量のイリコダシの原料になって、讃岐うどんに貢献したのに、とまた勝手なことを思うのも「讃岐のカフカ」の楽しみであろう。

何を隠そう、僕は村上春樹の偏愛者である。まだ「海辺のカフカ」を読んでいない讃岐人には、ぜひご一読をお勧めしたい。

田井の釣り、タイはいらぬ。

小豆島新聞 2009年7月30日掲載 双葉要

小さな頃から釣りが大好きで、小豆島でもよく釣りをしていた。という書き出しであれば、ごく自然であるのだが、実はそうではない。

釣りは三十歳を超えて覚えた遊びだ。最初の息子が生まれた年だ。父と息子といえば、キャッチボールが定番だ。残念ながら、私は野球が苦手だ。ほとんどまともにボールを投げられない。小さな頃から強度の近視で野球の仲間には入れなかったからだ。

そこで、ビギナーパパは考えた。野球がダメなら釣りにしよう。おおそうだ、息子と釣りをするのが正しい日本の親子だ。これはいい。

ところが、である。実は、釣りなどというものはそれまで一度もしたことがなかったのだ。そのあたりが、実に大胆な発想であった。それでも幸いなことに師匠がいた。会社の同期に、釣りの達人がひとりいた。その師匠に弟子入りしたのが釣り始めである。そして、この師匠は川釣り師であった。私の釣り師人生は決定づけられた。

渓流のアマゴ、イワナと清流の鮎という小豆島とは何の関係もない魚たちをひたすら追っていく日々が始まった。息子と遊ぶためという名目で始めた釣りという趣味であるが、本来の目的は忘れ去られて、お父さんは釣り師の道をひた走る。

息子が地域のソフトボールクラブに入っても、キャッチボールにコンプレックスのある私はなじめない。ソフトボールのハイシーズンはまた、鮎釣りの季節でもある。はっきりいってソフトボールはさぼった。

息子よ、すまぬ。お父さんは親子のコミュニケーションよりも、鮎との対話を優先した。

そんなわけで、「田井の釣り」というテーマは微妙な感じになっていく。ここで解説をすれば、田井というのは、小豆島の大部にある地名である。私の母の実家は田井の浜辺から徒歩2分だ。

もちろん、私は夏休みにはよく田井の浜で泳いだ。思い切り浜辺で遊んだあと、プロ野球のオールスター戦ラジオ中継がもれ聞こえる道を家まで帰ったことをよく覚えている。しかし、釣りというものとは無縁であった。では、このエッセーのタイトルは偽装であるのか。

そうではない。田井の浜で釣りをしたことはある。私が40歳近くになってからであるが。おかげさまで、次男は釣り好きになった。次男を連れて、田井の浜でサビキ釣りをしていた時代があった。

季節は秋である。ひと夏、鮎を追いかけて家族サービスをしなかった罪滅ぼしに田井でサビキ釣りをすることがあった。ちなみに、私の子供たちは海水浴という経験はあまりない。海で泳ぐよりも、綺麗な川でシュノーケリングをするほうが楽しいというお父さんの独断にしたがってくれたのだ。

田井の浜は海に向かって右手に沖にむかって、まっすぐ伸びる堤防がある。その堤防から砂浜を回り込んで左手には防波堤がある。この防波堤が絶好のサビキ釣りポイントであった。

釣り師の至福は入れ掛かりである。サビキ釣り、すなわちコマセを使い、たくさんの針で雑魚をひっかけるこの釣りは、天国への階段だ。オキアミをカゴに入れる。キャストする。ぷるぷるする。さらにぷるぷるする。リールを巻くと、サビキ針にアジがぶらさがっている。ときどきイワシも混じってくる。さらには、つぶらな瞳のグレの赤ちゃんも挨拶にくる。カラフルなベラがその存在を主張する。ぷくーっとフグ様がお怒りになる。

そうなのだ。波止場の釣りは五目釣り、来るもの拒まずの博愛精神に満ちた釣りなのだ。私と次男が嬉々としてサビキ釣りを楽しんでいる横では正統派のチヌ師たちがいる。ぴしっと餌を投げ込み、ウキの動きに注視する。わずかなアタリも見逃さずに電光石火の合わせをする。クロダイの見事な肢体が浮かび上がる。実に洗練された無駄のない釣り師たちは、好き勝手なことをしている親子を少し軽蔑の目で見る。

それでいいのだ。釣り師は基本的にエゴイストだ。自分さえ釣れればいいし、他人のやり方には興味がない。

私の田井の釣りにはタイは無用の長物だった。雑魚と戯れて息子のオキアミまみれの笑顔を見られたら最高だったのだ。

コシよりダシだ

小豆島新聞 2009年5月20日掲載 双葉要

讃岐うどんの話である。今さら、という方もいるかもしれない。しかしながら、昨今の軽薄なブームとは視点がちがうのでお付きあい願いたい。私は、讃岐の原住民だ。元々、讃岐に住んでいた民だ。坂出生まれで、丸高卒業である。うどんがソール・フードであるのは当然だ。

18歳で讃岐を出て、東京の大学で4年間過ごした後は、大阪にずっと住んでいる。その間、ソール・フードを追求する旅は続いている。ブームのおかげで、東京にも大阪にも自称「讃岐うどん」の店は増えてきた。讃岐うどんのコシは有名になり、おばあちゃんの足で、小麦粉を踏めば踏むほど、コシが強くなるという話がまことしやかに伝えられている。別におじいちゃんでも兄ちゃんでもいいのだが。

ただし、「讃岐うどん」を名乗るからには、コシよりもダシにこだわってほしい。東京でも大阪でもコシは合格の店はあっても、ダシには問題がある。

コシが強い麺類を批判するものは世界中でほとんどいないはずである。だが、ダシというのは、魂の根源に触れるものだから受け入れられるものとそうでないものがある。


讃岐うどんは、いりこダシである。魚くさいなどという人は、讃岐に来ないでほしい。のっぺらぼうの土地にお饅頭のような山をぽんぽんとレイアウトしたような讃岐平野は、いたるところで、いりこダシの香りが充ち満ちているのだ。

いりこダシあらずんば、讃岐うどんにあらず。讃岐以外の讃岐うどんを評価するときのポイントは、ダシと生姜にあり、というのが私の独断だ。

そこで、東京の「讃岐うどん」の話だ。ごぞんじのように、東京には空がないと同時にうどんもない。ただ、真っ黒な醤油のなかにのたうち回る「うどんもどき」があるだけだ。だが、奇跡の店があった。

浜松町、大門交差点の「金毘羅」。今では、讃岐うどんの店として、一部ファンの間では有名になっている。だが、驚くなかれ、このうどん屋は39年前から存在するのだ。しかも大門交差点のランドスケープとして、外装も内装もまったく変わっていないのだ。私が東京の大学に行っていた頃、泣きたいくらいに、いりこダシが飲みたくなったときは大門に行っていた。おすすめメニューはただひとつ、「こんぴらうどん」。金毘羅のこんぴらうどん、ネーミングどおりのシンプルなかやくうどんだ。ただ、いりこダシがひたすらうまい。

それから、大阪にも讃岐うどん屋は多数、存在する。会社のそばで、「讃岐うどん」の看板を上げた店があれば、私は地回りのようにチェックをかけていく。ただ、悲しいことにうどんの腰が合格する店があっても、ダシはほとんどが昆布ダシなのだ。

以前、西本智実さんというロシアで活躍されていた大阪出身の女性指揮者と仕事をしたときに、彼女が言っていた。コンブダシ、私はコンブダシ、寒いロシアでコンブダシを飲んでいると、私は大阪人なんや、と思うて元気がでてくる。

そう、大阪人にとっては、昆布ダシがソール・フードなのだ。それを否定する気はまったくない。ただし、大阪の讃岐うどんは、あまりに昆布ダシに迎合しすぎているのではないか。あの東京においてすら、羽田空港第2ターミナルビルの立ち食いうどん屋さんでも、いりこか昆布か、ダシのオプションが選べるのに。

それから、生姜である。最近は、永谷園に生姜部という組織ができるくらい生姜の効用が見直されている。ただ、讃岐うどんというのは、開闢以来、生姜とともにあったのだ。なぜなのかは知らないが、そうなのだ。大阪の讃岐うどん屋で生姜を見かけることは滅多にない。これって、しょうがないではすまないのである、責任者でてこい、というのが私の本音である。

麺類がないと生きていけない私は、海外に出ると、当然のようにパスタを食べる。沖縄に行けば、ソーミンチャンプルーを食べる。松江に行けば、割子そばを食べる。それぞれの土地でそのときの気持ちで好きな麺類をチョイスしていく。

でも、最期の瞬間には、いりこダシと生姜とともに旅立ちたいと切に願う私の気持ちは変わらないのである。

うどんとそうめん

小豆島新聞 2009年3月10日掲載 双葉要

讃岐といえば、うどん。小豆島といえば、そうめん。ならば、小豆島は讃岐ではないのか。そんなことはないはずだ。しかし、全県あげて、うどんで盛り上がる讃岐にあって、小豆島はそうめんという特異な麺類が喉にひっかかっているようにも見える。

統計学的に見てみよう。いまや、讃岐うどんツアーのバイブルとなった「恐るべきさぬきうどん全店制覇2008」の掲載店数によれば、香川県のうどん店は全県で658店、小豆島では9店。うどん店比は、1.4%。ちなみに、香川県の人口は100万3千人、小豆島の人口は3万2千人。人口比は3.2%。このデータによれば、やはり小豆島のうどん店は少ないのではないか。人口比に対して、半分以下のうどん店比だ。少し違う文化圏の匂いがする。

ここで、私のスタンスを明確にしよう。私は坂出生まれで丸高卒、現在は大阪在住だ。ただし、母は小豆島の大部に実家がある。ということは、どちらかといえばうどん寄りのスタンスでこの文章は展開されつつ、そうめんにも敬意をはらうつもりである。

まずは、敬意から。そうめんというものは、ある程度の年代になってから、うまさを感じるもののようだ。灼熱の昼、もしくは二日酔いの朝、冷たいそうめんほど癒される食物はないだろう。それから、かなり大人になってから知った味だが、温かいにゅうめんも捨てがたい。したたかに飲んだ後、ラーメンはいらない。うどん屋はとっくに営業時間が終わっている。そんなときに、北新地のとあるバーで食べるにゅうめんは最高だ。細い麺に上品なダシがからんでくる。そう、問題は麺の太さにあるのだ。ウィキペディアによれば、そうめんの麺の太さは直径1.3ミリ未満とされている。うどんは1.7ミリ以上だ。

若いときは、圧倒的に太いものがいい。夏の部活が終わったあとに、いい若い者がそうめんなど啜るわけにはいかないのだ。氷水に、ぶっというどんを大量に浮かべた冷やしうどん以外にエネルギー補給の道はないのだ。ところが、自慢の腹筋は跡形もなく、咀嚼力も衰えてくると細いものの価値も分かってくるのだろう。

とはいえ、讃岐育ちの場合は、生きている限りうどんを食い続けねばならむ業を背負っている。そうめんはヒーリング・フードにはなりえても、ソール・フードにはなりえない。このあたりは、小豆島育ちの皆様もご納得いただけるのではないか。

で、話は一気にうどん寄りになっていく。うどんをソール・フードにする原住民(元々、そこに住んでいた人の意)にとって、昨今の軽薄なうどんブームはいかがなものか。私が讃岐育ちだと知って、うどん談義をしてくる人々に対して、私は「まぼろしのうどん屋」の話をする。

宇高連絡船、と言って分かる方はどのくらいいるだろうか。私は1970年に18歳で坂出から東京の大学に行った。高松と宇野間の交通機関は、当然ながら船しかなかった。帰省する場合、東京から新大阪まで新幹線で3時間半。新大阪から宇野まで在来線特急で4時間、7時間半掛かって、ようやく宇高連絡船にたどりつく。船に乗りこむやいなや、飢えた若者たちは二階デッキに駆け上がる。そこにうどん屋があった。立ち食いうどんである。いわゆる、かけうどんである。ねぎと生姜とかまぼこが浮かんでいる。

うまかった。東京のうどんに虐げられた若者の胃袋に染みわたった。駆けつけ2杯は食べていた。いりこダシに涙した。宮武も山内も、何ぼのもんじゃ。宇高連絡船二階デッキの立ち食いうどんこそ我らのソールうどんなのだ。7時間半という郷愁のトッピングにかなうものはない。そのうどんって、どうやったら食べられるのかって。今となっては、誰も食べられぬ。食いたかったら、タイムマシンを発明しろ。と言って、軽薄なブームをあざ笑うのが快感だった。

ところが、である。2006年に「UDON」という映画ができた。さっそく見た。ところが、なんと、この私オリジナル秘話が、まったく同じ論調で語られていたのだ。丸亀出身の本広監督にこの話をした覚えはない。そもそもこの監督とは面識がない。1970年当時、5歳だった本広監督が郷愁うどんを体感したはずはない。

なのに……少しだけ口惜しくて、少しだけ嬉しかった。うどんにしろ、そうめんにしろ、気持ちを麺の腰とダシに練りこんだものが、いちばんうまいということなのだ。

2010年5月31日月曜日

脱藩まで30日(小豆島)

5月27日、正式に早期退職が承認された。会社が募集してそれに応募したものが拒否されるはずもない。だが、なんとなくほっとした。周りには「辞める」とカミングアウトしていたのが、人事情報として流れると実感が増す。うれしい実感だ。

承認と同時に退職への動きが加速する。退職金、健康保険その他もろもろが実務的に処理をされていく。会社を辞めるのって、けっこう忙しいことなんだ。

その忙しさとは別に、僕にはやるべきことがあった。小豆島だ。
小豆島には母方の実家がある。浜から2分。しかも畑も竹林もある。ついでに問題もある。

問題は母方の家に後継ぎがいなくて、この家には長い間、誰も住んでいないことだ。仏壇もお位牌もそのままになっている。久しぶりに家を空けると蜘蛛の巣だらけで、歩くこともできない。
しかもお墓は山の上にあって、ときどきお参りをしていただいている親戚に負担をかけている。

この家はアウトドア好きの僕には魅力的だ。海が近い。里山が近い。畑がある。僕の家の近辺は昔も今も何もない。飯を食う場所も車で20分近くかかる。もちろんコンビニなどあるはずもない。ただ、そのことは僕にとっては魅力的だ。
素朴な景観に好感が持てる。この季節は鶯が美しい声で鳴いている。

どうにかして、永住はともかく寝泊まりができるようにはしたい。そのためにはまずご先祖様のケアーをする必要があった。

お墓を山の上から海のそばに移動すること。仏壇を閉めてご位牌の整理をすること。僕はそのための仏事に手をつけた。ただし分からないことだらけである。

「ショーネ」を抜いて、移動してから再び「ショーネ」を入れる必要がある、と言われても即座には理解できない。「ショーネ」は性根で、近所のお寺さんを呼ぶ段取りと石屋の手配をすること、など親戚のおじさんの指導を受けて、なんとかその儀式を終了させた。

これでようやく次のステップに進むことができる。そのプロセスはまた書いていこう。

この次のエントリーからは小豆島新聞の「タケサン文化欄」に連載しているエッセーをまとめてアップします。

これらの記事は双葉要というペンネームで3カ月に一度ほど掲載されている。読んでいただければ、小豆島と讃岐への僕の思いがご理解していただけると思います。