2020年12月31日木曜日

元気な養生してみた

2020年は人類史に遺る年となった。

昨年の12月31日に武漢で存在が公表された原因不明の肺炎患者27名が始まりだった。

それから1年、地球上には8230万人の感染者がいて180万人が死亡している。

極東の列島国では22万7千人が感染して3196人が死亡した。

愛も欲望もない新型コロナウイルスは淡々と自分をコピーしつづける。

僕にとっては、電通脱藩から10年という節目の年だった。「十年はるかな昔」という中間報告をしたのが79日。

大晦日たる今日、「帰らざる日々」はさらに遠くなった気がする。

毎年恒例の年末文脈レポートを書くために今年のタイムラインを整理してみた。

825日(火)から99日(水)までの16日間は単純である。

箕面市立病院入院。以上。

68歳にして人生初の入院だった。まさに想定外。まさか!ってやつ。

スケジュール表的には単純だが、その日々のことを記憶し記録しないと、年は越せない。しっかり書いておくことは来年から「下り坂をそろそろと下りる」ための道標になりそうだ。

825日はどのような文脈の日だったのか?

COVID-19、国内の1日の感染者数は711人。累計感染者数は63210人

第二波の下り坂。つまり動く判断をするには適していた日だったと思う。

コロナ禍に加えて、長雨過ぎたら猛暑。人と作物にとっては過酷な夏が続いていた。

僕はStayFarmな日々。

8月25日・キンカントマト

ちょいと遠出したくなった僕は26日から和歌山県の龍神温泉に鮎釣りに行こうとしていた。民宿「せせらぎ」、35年以上通い続けている常宿を予約する。

今年はじめて、ようやくやっと龍神で竿が出せる。川にコロナウイルスはいない、たぶん。日高川上流なら十分なソーシャル・ディスタンスが保てる、間違いない。

しばらく畑に行けなくなるので、午前中は野良仕事。キンカントマトは猛暑に負けない。大豆の世話はカマキリくんにお任せする。

畑から帰って昼餉。だし巻き玉子を焼く。出雲の米を食う。キンカントマトをかじる。

結果的には、この食事から長い間、食べることができなくなった。

さあて、明日からの釣行に備えて、仕掛けをつくろう。浮き浮きする。

816日から23日までは箕面市議と市長選挙だった。

「大阪維新の会」が跋扈するストレスフルな選挙戦。黄緑色の大音量に対抗する市民派の候補者を応援する。

「半径300キロ」生活からの撤退を余儀なくされたこともあり、僕は、はじめて地元の選挙に関わった。

市長は残念な結果だったが、応援した候補者たちは当選した。喜ぶ。

8月22日・箕面駅前

やれやれ、という心持ちだったので、川に行けるのが嬉しくて楽しくて。

ところが。腹具合が悪くなる。トイレに行く。下痢症状。なんかおかしい。便器が血に染まっている。なあにたいしたことはない。

実は、かなり以前に痔瘻の手術をしたことがある。痔疾の中では悪性なので入院の要ありかもしれなかった。でも日帰りで施術できる技量を持った病院のおかげで歩いて帰った。

盲腸もまだ大切に持っている。入院無縁生活。他人のお見舞いには数限りなく行ったけど。

ときどき、便に血が混じった経験は痔主なら誰でもあるだろう。

何度かトイレに通ったが、そのうち治るから、ひと休みして仕掛けつくり。と思って横になる。

だが。すーっとお尻から何かが抜けていく感覚がくる。あれれ。血便が漏れている。

山の神(妻のこと)は外出していた。電話する。「病院に行きなさい」。はい。

トイレに通う間隙を縫って、近くのかかりつけ医に行った。休診である。そうだった、火曜日午後は休診だった。すでに正常な判断ができていない。

では、もう一軒のクリニックへ。こちらも休み。

猛暑である。この間、歩行十分くらいだろうか。自動販売機でスポーツドリンクを買って飲む。へろへろとマンションの階段を上がる。吐き気もする。冷や汗が出る。おそらくは熱中症も。ドアを開けてトイレに駆け込む。

吐く。血はダダ漏れ。

そのとき、「ただいま~!」と山の神。救いの神。「救急車を呼んで」。

そこから先の記憶は朦朧としている。

救急隊員さんが「自分で階段を下りられますか?」はい。手すりを頼りに下りる。

「携帯、ケイタイ、けいたい」とつぶやく患者。「ここにありますよ」と隊員さん。

「すみません、すみません」どこまでもGAFAな生活から離れられない患者。

救急車内。事情を説明する。痔がなんとか。隊員さんは的確に判断して病院を選ぶ。

箕面市立病院。17時頃到着。はじめての救急車体験は短いものだった。

8月25日・赤オクラ

「ここはどこですか?」両腕を点滴につながれた患者が問う。「回復室です」と医療スタッフ。回復室、変な言葉、あっそっか。ERってことか。

意識は赤いオクラのように鮮明にはならない。山の神がおわします。あら長男もいる。

駆けつけてくれたのか。ありがたい。

血圧を測る。CT検査をしたような気もする。ストレッチャーで移動しながら、マスクを出してつけた。もちろん体温も。発熱していたら現場はもっと大変だったのだろうな。

なぜか便意は催さなくなっている。

「血圧がどーんと落ちている」と言われたような記憶がある。

大量出血したけんね。路上で倒れたら危なかったのかもしれない。

「家に帰る、帰りたい」とうわごとを言う。

「入院を強くおすすめします」と断言される。そりゃそうだ。

かくして、人生初入院となった82521時頃。

とまあ、こんな調子で書いていったら、拙文は節分まで書き終わらない。先を急ごう。ちなみに2021年の節分は22日だ。

入院した夜は四人部屋だった。人生初、オマルで排尿する。排便を試みるが出ない。あれほどダダ漏れしていたのに。血がついたサンダルで入院していた。

826日(水)。

午後から個室に移ることができた。僕はSAS(睡眠時無呼吸症候群)なので寝るときはCPAPを必要とする。もしマスクが外れたら夜中に叫ぶこともある。贅沢と言われても個室を切望していた。

美しくデザインされた田んぼが見える。これはありがたい。眼福である。

消化器内科の主治医と会話する。

病名「大腸憩室出血」。「けいしつ」、どこかで聞いた覚えがあった。

2月に人間ドックに入ったとき、便潜血反応があった。精密検査の必要ありで3月に大腸CT検査をしている。「憩室はあるがガンはない」と診断されていた。

「けいしつってどんな字を書くのですか?」

3月と同じ質問を主治医にしていた。漢字を思い出す。

憩室とは大腸の内側から外側に膨らんだ風船のようなものである。

「憩室がある限り、出血の可能性はある。今回はガンによる出血ではないと判断している」と主治医の見立てが伝えられた。

別の症状に「大腸憩室炎」がある。こちらは腹痛と発熱があり痛いらしい。炎症だから重篤になる可能性も否定できない。

僕は単なる出血だった。単純な人間でよかった。自然治癒を目指す。抗生剤は使わない。

要するに大腸憩室の傷口に血小板くんが集まって凝固してくれるのを待つわけだ。

マクロファージちゃんの出番はなさそうである。

3月の大腸CT検査の結果を伝えると、今回は大腸内視鏡検査はパスしましょう、ということになった。

血液検査ではヘモグロビンの数値が低下。ごぞんじ、酸素を運ぶやつ。ヘモグロビンの回復には1ヶ月以上かかると言われた。造血剤を処方される。便を柔らかくする薬とともに。

電気式点滴スタンドにつながれたまま絶食生活が続く。がらがらと点滴スタンドを引き連れて、頻繁にトイレに通う。だが、便は出ない。

食べなければ出ない。シンプルな話。

827日(木)。

この時点では31日には退院できそうと楽観していた。

「元気な養生!」

平熱、痛みなし。血圧正常値。本がたくさん読める。

安倍晋三の辞任と僕の退院とどちらが早いか、などとフェイスブックに投稿する。

828日(金)。

72時間ぶりに食べる。三分粥と高野豆腐とコーンスープとヨーグルト。極めて薄味。意外なほど空腹は感じていなかった。久しぶりの飯は、いと美味し、と言いたいところだが、でもね。

の後、入院以来、はじめての排便。血はついていなかった。

「食べることと出すこと」というシステムは正常に作動しているようにみえた。

夕刻、安倍晋三辞任会見。あれほど待ち望んでいた「アベはやめろ!」なのに、あまり感慨はなかった。ほぼ予想どおりの日程。「潰瘍性大腸炎」の再燃という自らの政治的責任とは違う理由による辞任。世間の風は同情の方にも吹く。

憲政史上、最長最悪の安倍政権を引き継ぐ「冷血陰険姑息」菅義偉政権が既定路線だった。

退院してから2018313日の朝日新聞を取り出して829日と並べてみた。

829日(土)。

3日間以上、行動を共にした点滴から解放された。トイレに行くのが楽になる。ランチには五分粥と白身魚とインゲンの胡麻炒めを食べた。写真はない。「元気な養生」生活が忙しかったから撮り忘れた。

安倍晋三辞任に関する報道のキュレーションをする。「報道特集」のテレビ画面を撮影する。赤木雅子さんが出演していた。

そして、読書は続く。Kindleは忙しい。

830日(日)。

点滴を見つめながらフェイスブックに投稿した。

【点滴考】

光のなかでも闇のなかでも、ぽたりぽたりするやつ。命の水を血管に届けてくれる管。

人生初の入院で点滴に90時間つながった。救急搬送されたときは両腕にダブルだった。電源コードを引き抜いて支柱片手に歩いていた。

針が腕から抜けたときの解放感。点滴と分け合っていた自分の左腕が返ってきた。

点滴を見つめながら思いだしたこと。

父は2008年に香川県坂出市の病院で逝った。喉頭癌で食事はできず、点滴で生きていた。最後に会いに行ったとき、父は点滴スタンドをいなしながらトイレに行った。支柱を蹴っ飛ばした。白いスーツに身を固めたロックスターのように。かっこいいと思った。その後、僕が電車で瀬戸大橋を渡っている途上で、父の死を告げられた。

母は2018年に坂出の老人介護施設で逝った。老衰で経口での栄養補給ができなくなった。主治医からは点滴だけになったら余命三カ月です、と告げられていた。点滴のみになって、その期限が近づいた日の朝、僕は小豆島の家で草を刈っていた。納屋のガラスが割れた。草刈りを中断して瀬戸内海を渡った。その夜だった。

まったく突然に、訪れた自分自身の点滴体験であれこれ考えさせてもらった後、経口で食事をすること、5回。明日の朝には退院できます。

みなさん、心温まるメッセージ、ありがとうございます。


(インターミッション)

ということで、当初は831日には退院できるはずでした。だがしかし、甘かった。

僕の大腸はもう少し、養生を必要としていたのです。

「元気な養生」後半を書く前に、この時期の箕面市立病院のCOVID-19対策、医療スタッフへの感謝、入院生活のルーティンなどをまとめてみます。

僕が入院していたのは5階の東病棟でした。西病棟はコロナ患者専用としてゾーニングされていました。この時期の病院には、それほどの緊迫感はありませんでした。あまりコロナ患者はいなかったのかもしれません。

「何人、コロナの人が入院しているのですか」と看護師さんに訊ねても「それは言えないんです」とのこと。

面会は感染症対策のため、できません。必要なものは山の神にお願いして受付まで届けてもらいます。16日間、僕が顔を合わせていたのは主治医、看護師、清掃スタッフ、消毒係、配膳係さんのみです。

動ける範囲は東病棟の廊下とB1のコンビニ通いのみ。毎朝、コンビニに毎日新聞を買いにいきました。朝日新聞は山の神が届けてくれたので。

窓下の田んぼには、田見舞いの軽トラが定期的に来ていました。自分の畑のことを考えますが、どうしようもありません。雨が降ってくれることを祈るのみ。

主治医は平日の毎朝、「羽鳥慎一モーニングショー」の時間帯に来てくれました。質問を用意して待ちます。清掃スタッフは年配の男性。顔なじみになると窓から見える風景について他愛ない会話を交わしたりしました。

そして看護師さんたち。本当にお世話になりました。採血、体温と血圧測定、点滴、トイレチェック……。

申し訳なかったのは着替え。点滴につながれていると着替えすら自分ではできません。

箕面市立病院は老朽化が進んでいるように見受けられました。個室でもエアコンの調整がうまくいきません。上着を着たり脱いだりする必要がありました。

そのたびにナースコールを押してしまいます。

また、窓のサンシェードを開閉する棒もはずれてしまいました。各部屋で、そういうことが起こっているとのことでした。

箕面市政を牛耳っている「大阪維新の会」の皆様は新自由主義者です。医療資源を含めた社会的共通資本を削減するのが「身を切る改革」だとお考えになっています。箕面市立病院には長い間、市からの補助金が届いていないそうです。民営化計画も進んでいるとか。

現在、COVID-19第三波の真っ只中で、入院病棟の医療スタッフがどのような思いで働かれているのか。想像すると頭が下がります。

箕面市議選挙中、日本共産党の訴え
当然のことながら、人生初入院は酒を呑まない日々でした。

退院後の採決検査日、925日まで一滴も呑みませんでした。それほど呑みたいとも思わない。あれれ、僕ってモノホンの呑みスケではなかったのかな。ちょっと寂しくなりました。


さて、話を831日(月)に戻そう。

朝食後に下血。2日間、排便できなった。便意はあるのに出ない。ここが踏ん張りどころだと思っても出ない。で、久しぶりに出たら便器が真っ赤になった。

看護師を呼ぶ。主治医が来る。午前10時に予定されていた退院は中止。山の神に電話する。

大腸内視鏡検査をすることに決定。自然治癒に近道はなかった。

また窓から田んぼを眺める日が続くことになった。

今から思えば、退院直前に下血してよかった。あのまま帰ったら、再入院という事態になっていたのかもしれない。

検査のために下剤を2リットル飲む。また点滴につながれた。

午後、内視鏡検査。鎮静剤点滴のため痛みも記憶もなく終了。

91日(火)。

入院8日目。最悪の日。

午前3時に下血。

主治医から検査報告あり。大腸内、出血箇所は特定できず。したがって内視鏡的止血術はしていない。ガンはなし。

ヘモグロビンが6.6に減少。輸血することに決定。これも人生初体験。点滴に止血剤を入れる。

その後、10回下血。点滴と輸血を引き連れてトイレに通う。個室からナースコールを押して見てもらう。

「ホラ、マタ血ガデタヨ」

情けないが、しかたがない。

92日(水)。

まだヘモグロビンは回復しない。輸血した分、下血してプラマイ0。

再び輸血、400㎖を2本、4時間。

こうなったら、腰を、いや尻を据えて養生する必要がある。それならば読書以外にも楽しみが必要である。

配信ドラマを見始める。

『アウトブレイク〜感染拡大』

20201月から3月にカナダでオンエアされた連続テレビドラマ、全10話。

COVID-19を予言していた。あまりにリアリティがあるので入院中に見るのは悪趣味かな、とも思ったけど。

新しいルーティンができた。寝る前に『アウトブレイク』を1話見る。これは緊張感のあるドラマ。緊張の後には緩和がいる。桂枝雀がそう言っている。

で、YouTubeで枝雀落語を見る。枝雀はロングドライブの友として音声ではほとんど聞いている。でも、当たり前だが、落語はヴィジュアルがあった方がいい。「鴻池の犬」のマクラで「B29のものまね」というのがあった。なるほど、こういう仕草だったのか。

「緊張と緩和」で、就寝に問題はなくなっていく。

93日(木)。

点滴差し替えの合間に9日ぶりにシャワーを浴びる。ひたすら気持ちいい。予想された問題が起こる。「都構想=大阪市廃止」住民投票が111日に強行されることが決定。

またカウンター情報発信に忙しくなった。ノートパソコンを届けてもらって、箕面の山を見ながら、言いたいことの山々をフェイスブックに投稿していく。

94日(金)。

午前0時に少量のお漏らしをしちまったぜ。

三分菜食、始まる。いつか来た道で食べる訓練の再開。でも、まだ鉄分いりブドウ糖とのダブル点滴は続く。


95日(土)、6日(日)。

点滴とノートパソコンを友として、ああじゃこうじゃ、と書き続ける。

「島根大学のモノクローナル抗体治療薬」「大阪大学のRNAワクチン開発と吉村知事の態度」などなど。「元気な養生」は忙しい。

97日(月)。

1140分、点滴から完全解放される。僕の腕は自由になった。シャワー、しゃわしゃわ!

毎日新聞1面に「都構想=大阪市廃止」住民投票の結果が報じられる。これはまずい。

(※後日談:111日の住民投票は市民の力で反対多数でした。凛とした市民たちに敬意を表します)

98日(火)。

朝、主治医と話す。翌日の退院希望を伝える。許された。

食事は軟采軟飯食。便はあまり出ない。

そして、読んで書く。書いて読む。


99日(水)。

その日の朝が来た。

午前550分、少し排便。下血なし。便固い。

午前840分、ようやくやっと普通の排便。下血なし。

午前10時退院。山の神が迎えに来てくれた。ありがとー!

9月9日夜明け

このようにして、僕の16日間「元気な養生」は無事終了した。

あらためて医療スタッフとお見舞いメッセージをくれたみなさんに感謝いたします。

それから、入院中に大量に発信したフェイスブック投稿を読んでいただいた友達にも御礼申し上げます。

「食べることと出すこと」ができなかった日々を含んで、入院中に書いたことを本稿執筆のためにまとめたら、その量に自分でも驚いてしまった次第だ。

本稿を書き始める前に読んだ本がある。文学紹介者である頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)さんが病気について書いた。

『食べることと出すこと』(医学書院/2020年8月1日発行)

ただの病気ではない。難病に指定されている「潰瘍性大腸炎」と十三年間、向き合ってきた記録と記憶と心に留めた言葉が書かれてある。

誰かさんのおかげで有名になった病気だが、「大腸憩室出血」とは血の出し方に大きな違いがある。鹿の糞と象の糞の違いみたいに。

〈あとがき〉に、こんな一節があった。

「病気の話とペットの話ほど面白くないものはない」と言われるが、その理由がよくわかった。話している当人には、自分の話の面白さの判断がつかないのだ。(314頁)

 例によって長々と書いてきた。僕が書くときの基本コンセプトは「極私から普遍への通路はそれほど狭いものではない」ということである。

だが、本稿に関しては、どうやって、極私から普遍へ管を通したらいいのか、よく分からない。悩みます。

人間は、食べて出すだけの一本の管。(だが、悩める管だ……。)

「メメント・モリ」すぎるほど病気とつきあっている頭木さんの本は、今年の極私的読書ナンバーワンに認定しよう。

僕の読書感想文はこちら。

https://www.facebook.com/fumio.tanaka/posts/3525727780837357 

68年間、僕は基本的には「無病息災」だった。「脳天気」と言い換えてもよい。

今年、よく聞いた「基礎疾患」を自分にあてはめてみる。

「睡眠時無呼吸症候群」は呼吸障害のひとつには違いない。

でも、CPAP(Continuous Positive Airway Pressure)をつけて寝ることに慣れたら、どうってことはない。機器の持ち運びが面倒くさいだけだ。

こんな書き方をするのを「脳天気」という。

高血圧の薬はかかりつけ医からもらっているが、飲むのを忘れることも多かった。

「メメント・モリ(死を想え)」という言葉は頭の片隅で理解しているのに過ぎなかった。

この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。 
(藤原新也)

僕の本棚には藤原新也の『メメント・モリ』が2冊もあった。

10月末日、電通の同期から久しぶりに電話があった。いやな予感がする。仲の良かった同期が逝ったとの知らせだった。

後日きたハガキによれば、死因は「大腸憩室穿孔による敗血症ショック」。

享年69歳。合掌するしかない。ビールとパイプ煙草が好きなやつだった。

「大腸憩室出血」と「大腸憩室炎」と「大腸憩室穿孔による敗血症」は紙一重なのかもしれない。大腸でうごめく血染めの風船玉と免疫システムのご機嫌次第、という気がする。

さらにいうならば、あの「潰瘍性大腸炎」との段差もそれほど高いものではないのだろう。

2020年は感染症の年だった。年を越してもコロナ禍は続く。サイトカイン・ストームが吹き荒れる。

SARS-CoV-2のスパイクがヒト細胞の受容体と握手する。

ウイルスが細胞内で自己主張を始めた。

自然免疫チームのマクロファージが突撃する。

貪欲にウイルスを喰らいながら、獲得免疫チームに敵の情報を伝える。

情報満載の伝達物質がサイトカイン。

こいつは手強い、緊急出動、サイトカインがけたたましく鳴り響く。

あちらでもこちらでも、サイトカインの年末年始特別大放出。

T細胞もB細胞もフル回転、休みなし。

嵐は止まない、免疫崩壊。

あらら、自分の細胞も攻撃してしまった。

(コンテキスターが想像したイメージです)

MÉMENNTO-MORI 死を想え

「死は生の水準器のようなもの」(藤原新也)


2020年、クリエーティブ・ディレクターからコンテキスターに看板を変えてから十年。

僕は「下り坂をそろそろとおろおろと下りる」と決めた。

年が明ければ、69歳になる。一年前、木内みどりさんが逝った歳である。

下り坂には「まさかの坂」もある。きっとある。

お大事に、お大事に、みなさん、ひたすらお大事に。

入院患者の間では「お大事に」という言葉は院外とは違う重みを持っている。

そんなことも学んだ。死を想えば、学ぶことも増えていく。

長い一年だった。考えることの多い一年だった。

2020年が暮れていく。

入院で3キロ減った体重はリカバーしつつある。尻の筋肉がなくなって、ずり落ちていたジーパンは、それなりに安定してきた。

長い管のような悩める文章のラストは、上り坂の人たちで。

7月23日・千種川三室渓谷

723日。少年Rは、はじめてのアマゴ釣りをした

10月24日・フミメイファーム

1024日。少女Sは、はじめての芋掘りをした。


いのちは譲られていく。

僕と山の神は、確実に垂直にDNAを次世代へ譲っている。

ウイルスによる横槍は入ってないはずだ。たぶん。

今年も真菰で注連飾りをつくった。

譲り葉はヴァージョンアップされた。

我らが心は裏まで白い。



2020年12月1日火曜日

コロナな日々の本と本屋

1130日、COVID-19の感染者数は日本全体で149千人。死亡者数は2076人。世界全体で6320万人。死亡者数は147万人。

コロナ第三波の真っただ中で、田中文脈研究所は何を記録するべきなのか。やっぱり本と本屋について書きたい。

安倍晋三が緊急事態宣言を7都道府県に発出したのは47日。全国に拡大したのは416日。当初、56日までとされたが、54日には531日までに延長された。結果的には、525日に緊急事態宣言は終了した。

そして、長雨と熱波と第二波を経て、今にいたる。ステイだのホームだのゴーだの、犬のように命令された国民は右往左往している。

緊急事態宣言発出以来、「要請される自粛」「補償なき自粛」「自律なき自粛」の嵐が吹き荒れたが、街の本屋は休まずに開いていた。駅前のビルなどに入っている大型店を除いて、「街の灯」は灯し続けられた。まずは、そのことに敬意をはらいたい。

以下のテキストは418日、隆祥館書店の「文化のインフラとしての本屋のあり方」というイベント用に書いたものである。

隆祥館書店は大阪の谷町六丁目にある「13坪の奇跡の本屋」だ。


「文化のインフラとしての本屋」を応援する者として

 書店もまた「社会的共通資本」です。

「社会的共通資本」とは宇沢弘文が提唱した経済概念で、「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持する――このことを可能にする社会的装置」のことです。「自然資本」「制度資本」「社会的インフラストラクチャー」の三つの領域があります。

書店は電気やガスや水道と同じく、社会的インフラのひとつだと思います。

3・11後、インフラが切断された東北で、被災者が「生活必需品」としての本を求めた事実がありました。そのことは『復興の書店』(稲泉連/小学館/2012年)というルポルタージュに書かれています。

わたしたちは言葉で生きています。言葉は本によって育まれます。

本は本屋の棚で読者との出会いを待っています。本は著者と読者の関係性を支えます。同時に言葉による関係性を豊かなものにしていきます。

文化というものは適度な距離感をもった寛容な関係性に支えられているのかもしれません。

ところが、世界は「社会的距離(social distancing)」によって制約をかけられてしまいました。適度な距離感には密着も含まれています。本来、関係性の距離は個々人の多様な判断にゆだねられるべきしょう。

今、この国の文化は焼け野原になるかもしれない危機を迎えています。何の補償もないままに映画館は閉じられ、図書館も知の自由空間としての業務を放棄せざるをえません。

書店はかろうじて休業要請からは外れていますが、先行きは見えません。地域の毛細血管たる「町の本屋さん」が行き詰まれば、町の息も詰まることでしょう。

インフラは安定的に維持されることによって、その機能を果たします。

「町の本屋さん」の機能はふたつあります。「出会う」と「集う」です。

隆祥館書店は「集う」を大切にしてきた本屋です。地域と密着した本屋でありつづけようとしています。残念ながら、現在、「集う」ことは難しい情況となってしまいました。

それでも「出会う」ために本屋に行くことはできます。マスクをして人との距離をとってじっくり棚を見る。隆祥館の場合なら「作家と読者の集い・100回突破記念フェア」。

僕は、その棚で1冊の本と出会ったことがあります。

『波の上のキネマ』(増山実)。寡聞にして増山さんのことは知りませんでした。ごめんなさい。その本は2018年以来、タテ置きで棚にあったらしく、少し上下に歪みが出ていました。書店員の長浜さんは気にしていましたが、僕は問題なしと言って買います。

読みました。尼崎と八重山の話。キネマへの愛。なんで、この小説のことを知らなかったのだろう、と恥じました。同時に棚での出会いに感謝です。あの日の僕は「知らない作家の本を選ぼう」という意思を持たされました。

正直なところ、僕は電子書籍の愛好者でもあります。自著の電子出版もしています。でも、Amazonのリコメンド機能と本屋の棚での出会いは本質的な違いがあるようです。

それは端的にいえば、Amazonは「情報」であり、町の本屋は「場」であるということです。「場」はそれ自体がある種の意思を持っているような気がします。本と本屋が築いてきた集合的意思と言ってもいいのかもしれません。

町の本屋さんはわたしたちのささやかな日常を支える場です。だからこそ文化のインフラなのだと僕は思います。

「本屋というのは神社の大木みたいなものでね。伐られてしまって初めて、そこにどれだけ大事なものがあったかが分かる。いつも当たり前のようにあって、みんなが見ていて、遊んだ思い出がある場所。震災が浮かび上がらせたのは、本屋は何となくあるようでいて、そんなふうに街の何かを支えている存在なのだということなのではないか。僕はそんなふうに思うんです」

(ジュンク堂書店・工藤恭孝氏/『復興の書店』118頁)


隆祥館が、418日(土)が企画していた「本と本屋の未来を考える・文化のインフラとしての本屋のあり方」というイベントは、もちろんリアルなものだった。

作家の木村元彦氏、武部好伸氏、増山実氏が隆祥館のホールに集まってオーディエンスを入れて開催する計画をしていた。

ところが、このタイミングである。418日、日本の感染者数9795名。

今から考えると可愛らしい数字だが、当時はコロナカオスだった。同じく本を扱っても古書店は休業が要請された。古い本を探すのは「不要不急」の行為と判断されたようだ。

幸い、新刊書店は休業対象からは除外され、かろうじて「知る権利」は保たれた。

羽鳥慎一モーニングショー4月15日

227日に安部晋三が官邸官僚の助言により小中高校の一斉休校要請を表明した。32日、全国で多くの学校が休校になった。

 国会図書館の東京館は35日に休館。関西館は孤塁を守っていたが、411日に落城した。「真理がわれらを自由にする」というスローガンを掲げた知の集積地が閉ざされた。

これにともない、公立図書館も右にならう。「図書館の自由」も失われた。

箕面市立図書館

まさにコロナの暴風。隆祥館の二村知子店長は悩んでいた。まだzoomが全盛になる端境期のこと。会場の定員制限をしてリアルに開催すべきか、どうするか?

でも、会場での感染症対策を万全にしても、参加者が公共交通機関を使ったらリスクは避けられない。僕は「現時点で、このイベントにこだわるよりも〈隆祥館という場を守る〉ことにこだわった方がよろしいのではないでしょうか」とアドバイスした。

結果、418日のイベントはユニークなカタチとなった。

三人の作家だけを会場に招いて無観客でトークショーをする。その模様を録画する。録画をDVDにして、参加費を前払いしていた人に発送する

あらためてDVDを見直してみた。zoomの録画を観るよりも臨場感がある。僕の上記のテキストも読み上げられていた。

二村店長は緊急事態宣言下で開いている書店の現状を語る。

小さな本屋に対する「ランク配本」の問題を語る。

武部氏は、街の本屋は「街の灯」だという。チャップリンも大きくうなづいたことだろう。

木村氏は、ドイツと日本の文化に対する視線の違いを語る。もちろんメルケル首相とドイツの文化相の卓見にも言及した。

朝日新聞「折々のことば」3月21日

増山氏は「善き人のためのソナタ」というドイツ映画を紹介してくれた。残念ながら、僕は未見である。オンライン配信はしていない。こういうとき、DVDレンタルという昔ながらのシステムが懐かしくなる。

三人の作家と二村店長はオンラインとリアルの有様を様々に語った。

映画は試写室と映画館で観るものとして、監督の志がこめられている。

落語は舞台の袖で直接、聴いて修行するもんや。

本は本屋で買ってほしい。Amazonではなく。

すべてはバランスだと思う。僕の生活の多くの部分はオンラインでも成り立っている。

僕はKindleの愛用者でもある。散歩の途中にリアル本屋に立ち寄るのも大好きだ。残念ながら、僕の散歩コースにはヘイト本が並んでいる本屋しかないが。

リアルな講演会、イベントにも数多く参加してきた。4月、5月は、それもままならない。寄席も落語会もなくなった。

zoomを本格的に使用し始めたのは4月以降だ。リアルイベントに参加したときと同様に写真(PC画面)を撮り、文脈レポートを書くことができた。

zoomでまこも話をパワポプレゼンしたこともある。

隆祥館書店の「作家と読者の集い」もzoomに切り替わっていく。現在は、リアルな会場参加とリモート参加を融合して展開している。

もし、オンラインがなければ「コロナの時代の僕ら」の生活は完全に閉ざされてしまっただろう。

リアルかオンラインか、それは二律背反ではない。リアルもオンラインも、どちらの特性もケースバイケースで使い分けるのが、コロナたちが自己増殖に勤しむ世界での〈新しい間(ま)の取り方〉だと思う。

もちろん、 どうしても、リアルでしかできないこともある。様々なイベント(全国まこもサミット含む)が中止になるなかで、残念なこともある。

本と本屋の文脈を語るなら、やはり、今井書店グループの永井伸和さんのことは、はずせない。38日、サントリー文化財団設立40周年記念フォーラムがNHK大阪ホールで開催されるはずだった。

この日、永井さんは米子から大阪に来てフォーラムに参加すると同時に隆祥館書店も訪問する予定にしていた。

ちなみに永井さんは1991年、サントリー地域文化賞を個人として受賞している。

サントリー文化財団が制作した永井伸和さんの業績映像はこちら。

二村知子さんと永井伸和さん。お二人は「知のインフラ」としての本屋の存続、日本の出版業界の問題点、ドイツの出版流通と書籍業学校の視察など、共通の問題意識が多い。

お二人のリアルな対面は、いまだ実現していないが、zoomでの仲立ちはさせていただいた。

永井さんの業績のうち、長年持続しているものがふたつある。

ひとつは「ブックインとっとり・地方出版文化功労賞」

2020年で第33回となる。残念ながら、これも中止、ではなかった。zoomイベントとして111日に開催されている。

今年の功労賞は『信仰と建築の冒険~ヴォーリズと共鳴者の軌跡』

(吉田与志也/サンライズ出版)


奨励賞は『日本産鳥類の卵と巣』

(内田博/まつやま書房)


受賞者の講演をzoomで見聞して、実行委員長・中川玄洋さんが表彰状をオンラインで渡す姿も拝見できた。

もうひとつはNPO法人・本の学校」。その出版産業シンポジウム。

例年なら秋に東京は神田の古本まつりにあわせて、開催されていた。リアルにはできない。

117日、zoomにて開催。

「災害と書店と読書~大災害・コロナ禍で考える本屋と本の価値」

コーディネータ:永江朗(『私は本屋が好きでした』著者)

柳美里(作家、フルハウス・南相馬市)

土方正志(荒蝦夷・仙台市)

森忠延(井戸書店・神戸市須磨区)


大災害があった地域で本屋を営む三者による対話は考えるところが多かった。

1995年、阪神淡路大震災。2011年、東日本大震災。2020年、新型コロナ禍。

放射能汚染と感染症パンデミックは現在進行形である。


「本があったら別世界に飛べる」

「本は生活に関わることのすべてを提供できる」

「本屋は避難所たりうる」

「仮設住宅とステイ・ホームは似ている」

「現実の読者は取次の統計で本を読むわけではない」

「本と人をつなぐ仲人が本屋」

「親密、秘密、本屋は本来、密な場所」

1時間後には日本列島の誰かがどこかで被災者になっているかもしれない」

2021年には〈出版被災共同体〉が必要になるかもしれない」

「コロナは共同体を破壊していく。地震とは別な種類のスローな災害だ」

総合司会をした星野渉・本の学校理事長は締めの言葉を語る。

「この対話はオンラインの方がよかった。それぞれの居場所で緊張感なく本音を語り合う。示唆に富んだ話をありがとうございます」

僕もそう思う。PC画面の向こう側で話し手の人柄と志がくっきりと見えてきた。

柳美里さんは1119日、『JR上野駅公園口』で全米図書賞を受賞した。2014年春に福島と仙台の「復興の書店」で買い求めた本を読みなおすことにしよう。

南相馬市おおうち書店(2014年4月)

いつかまた南相馬に行ける日がきたら、常磐線小高駅前の「フルハウス」にも行ってみたい。

いや、その前に「本の学校」リアル店舗のある米子に行きたい。

拙著を並べてくれた松江市田和山の今井書店・グループセンター店に行きたい。

緊急事態宣言下のオンライン全盛のときに、やらなかったことがある。

zoom呑み会ってやつだ。やらなくてよかった。

親しい顔を画面の向こうに見ながら呑んだら、さびしくなって、とめどなく呑んだかもしれない。

出雲では呑み会のことを直会(なおらい)という。直接会って呑むとも読める。

3月17日松江市伊勢宮町にて

松江での直会に参加できる日はいつか。その日はいつか。

2020年中に実現することはない。今はまだCOVID-19に対して自分を律するときである。