2020年は人類史に遺る年となった。
昨年の12月31日に武漢で存在が公表された原因不明の肺炎患者27名が始まりだった。
それから1年、地球上には8230万人の感染者がいて180万人が死亡している。
極東の列島国では22万7千人が感染して3196人が死亡した。
愛も欲望もない新型コロナウイルスは淡々と自分をコピーしつづける。
僕にとっては、電通脱藩から10年という節目の年だった。「十年はるかな昔」という中間報告をしたのが7月9日。
大晦日たる今日、「帰らざる日々」はさらに遠くなった気がする。
毎年恒例の年末文脈レポートを書くために今年のタイムラインを整理してみた。
8月25日(火)から9月9日(水)までの16日間は単純である。
箕面市立病院入院。以上。
68歳にして人生初の入院だった。まさに想定外。まさか!ってやつ。
スケジュール表的には単純だが、その日々のことを記憶し記録しないと、年は越せない。しっかり書いておくことは来年から「下り坂をそろそろと下りる」ための道標になりそうだ。
8月25日はどのような文脈の日だったのか?
COVID-19、国内の1日の感染者数は711人。累計感染者数は63210人。
第二波の下り坂。つまり動く判断をするには適していた日だったと思う。
コロナ禍に加えて、長雨過ぎたら猛暑。人と作物にとっては過酷な夏が続いていた。
僕はStayFarmな日々。
8月25日・キンカントマト |
ちょいと遠出したくなった僕は26日から和歌山県の龍神温泉に鮎釣りに行こうとしていた。民宿「せせらぎ」、35年以上通い続けている常宿を予約する。
今年はじめて、ようやくやっと龍神で竿が出せる。川にコロナウイルスはいない、たぶん。日高川上流なら十分なソーシャル・ディスタンスが保てる、間違いない。
しばらく畑に行けなくなるので、午前中は野良仕事。キンカントマトは猛暑に負けない。大豆の世話はカマキリくんにお任せする。
畑から帰って昼餉。だし巻き玉子を焼く。出雲の米を食う。キンカントマトをかじる。
結果的には、この食事から長い間、食べることができなくなった。
さあて、明日からの釣行に備えて、仕掛けをつくろう。浮き浮きする。
8月16日から23日までは箕面市議と市長選挙だった。
「大阪維新の会」が跋扈するストレスフルな選挙戦。黄緑色の大音量に対抗する市民派の候補者を応援する。
「半径300キロ」生活からの撤退を余儀なくされたこともあり、僕は、はじめて地元の選挙に関わった。
市長は残念な結果だったが、応援した候補者たちは当選した。喜ぶ。
8月22日・箕面駅前 |
ところが。腹具合が悪くなる。トイレに行く。下痢症状。なんかおかしい。便器が血に染まっている。なあにたいしたことはない。
実は、かなり以前に痔瘻の手術をしたことがある。痔疾の中では悪性なので入院の要ありかもしれなかった。でも日帰りで施術できる技量を持った病院のおかげで歩いて帰った。
盲腸もまだ大切に持っている。入院無縁生活。他人のお見舞いには数限りなく行ったけど。
ときどき、便に血が混じった経験は痔主なら誰でもあるだろう。
何度かトイレに通ったが、そのうち治るから、ひと休みして仕掛けつくり。と思って横になる。
だが。すーっとお尻から何かが抜けていく感覚がくる。あれれ。血便が漏れている。
山の神(妻のこと)は外出していた。電話する。「病院に行きなさい」。はい。
トイレに通う間隙を縫って、近くのかかりつけ医に行った。休診である。そうだった、火曜日午後は休診だった。すでに正常な判断ができていない。
では、もう一軒のクリニックへ。こちらも休み。
猛暑である。この間、歩行十分くらいだろうか。自動販売機でスポーツドリンクを買って飲む。へろへろとマンションの階段を上がる。吐き気もする。冷や汗が出る。おそらくは熱中症も。ドアを開けてトイレに駆け込む。
吐く。血はダダ漏れ。
そのとき、「ただいま~!」と山の神。救いの神。「救急車を呼んで」。
そこから先の記憶は朦朧としている。
救急隊員さんが「自分で階段を下りられますか?」はい。手すりを頼りに下りる。
「携帯、ケイタイ、けいたい」とつぶやく患者。「ここにありますよ」と隊員さん。
「すみません、すみません」どこまでもGAFAな生活から離れられない患者。
救急車内。事情を説明する。痔がなんとか。隊員さんは的確に判断して病院を選ぶ。
箕面市立病院。17時頃到着。はじめての救急車体験は短いものだった。
8月25日・赤オクラ |
「ここはどこですか?」両腕を点滴につながれた患者が問う。「回復室です」と医療スタッフ。回復室、変な言葉、あっそっか。ERってことか。
意識は赤いオクラのように鮮明にはならない。山の神がおわします。あら長男もいる。
駆けつけてくれたのか。ありがたい。
血圧を測る。CT検査をしたような気もする。ストレッチャーで移動しながら、マスクを出してつけた。もちろん体温も。発熱していたら現場はもっと大変だったのだろうな。
なぜか便意は催さなくなっている。
「血圧がどーんと落ちている」と言われたような記憶がある。
大量出血したけんね。路上で倒れたら危なかったのかもしれない。
「家に帰る、帰りたい」とうわごとを言う。
「入院を強くおすすめします」と断言される。そりゃそうだ。
かくして、人生初入院となった8月25日21時頃。
とまあ、こんな調子で書いていったら、拙文は節分まで書き終わらない。先を急ごう。ちなみに2021年の節分は2月2日だ。
入院した夜は四人部屋だった。人生初、オマルで排尿する。排便を試みるが出ない。あれほどダダ漏れしていたのに。血がついたサンダルで入院していた。
8月26日(水)。
午後から個室に移ることができた。僕はSAS(睡眠時無呼吸症候群)なので寝るときはCPAPを必要とする。もしマスクが外れたら夜中に叫ぶこともある。贅沢と言われても個室を切望していた。
美しくデザインされた田んぼが見える。これはありがたい。眼福である。
消化器内科の主治医と会話する。
病名「大腸憩室出血」。「けいしつ」、どこかで聞いた覚えがあった。
2月に人間ドックに入ったとき、便潜血反応があった。精密検査の必要ありで3月に大腸CT検査をしている。「憩室はあるがガンはない」と診断されていた。
「けいしつってどんな字を書くのですか?」
3月と同じ質問を主治医にしていた。漢字を思い出す。
憩室とは大腸の内側から外側に膨らんだ風船のようなものである。
「憩室がある限り、出血の可能性はある。今回はガンによる出血ではないと判断している」と主治医の見立てが伝えられた。
僕は単なる出血だった。単純な人間でよかった。自然治癒を目指す。抗生剤は使わない。
要するに大腸憩室の傷口に血小板くんが集まって凝固してくれるのを待つわけだ。
マクロファージちゃんの出番はなさそうである。
3月の大腸CT検査の結果を伝えると、今回は大腸内視鏡検査はパスしましょう、ということになった。
血液検査ではヘモグロビンの数値が低下。ごぞんじ、酸素を運ぶやつ。ヘモグロビンの回復には1ヶ月以上かかると言われた。造血剤を処方される。便を柔らかくする薬とともに。
電気式点滴スタンドにつながれたまま絶食生活が続く。がらがらと点滴スタンドを引き連れて、頻繁にトイレに通う。だが、便は出ない。
食べなければ出ない。シンプルな話。
8月27日(木)。
この時点では31日には退院できそうと楽観していた。
「元気な養生!」
平熱、痛みなし。血圧正常値。本がたくさん読める。
安倍晋三の辞任と僕の退院とどちらが早いか、などとフェイスブックに投稿する。
8月28日(金)。
72時間ぶりに食べる。三分粥と高野豆腐とコーンスープとヨーグルト。極めて薄味。意外なほど空腹は感じていなかった。久しぶりの飯は、いと美味し、と言いたいところだが、でもね。
その後、入院以来、はじめての排便。血はついていなかった。
「食べることと出すこと」というシステムは正常に作動しているようにみえた。
夕刻、安倍晋三辞任会見。あれほど待ち望んでいた「アベはやめろ!」なのに、あまり感慨はなかった。ほぼ予想どおりの日程。「潰瘍性大腸炎」の再燃という自らの政治的責任とは違う理由による辞任。世間の風は同情の方にも吹く。
憲政史上、最長最悪の安倍政権を引き継ぐ「冷血陰険姑息」菅義偉政権が既定路線だった。
退院してから2018年3月13日の朝日新聞を取り出して8月29日と並べてみた。
8月29日(土)。
3日間以上、行動を共にした点滴から解放された。トイレに行くのが楽になる。ランチには五分粥と白身魚とインゲンの胡麻炒めを食べた。写真はない。「元気な養生」生活が忙しかったから撮り忘れた。
安倍晋三辞任に関する報道のキュレーションをする。「報道特集」のテレビ画面を撮影する。赤木雅子さんが出演していた。
そして、読書は続く。Kindleは忙しい。
8月30日(日)。
点滴を見つめながらフェイスブックに投稿した。
【点滴考】
光のなかでも闇のなかでも、ぽたりぽたりするやつ。命の水を血管に届けてくれる管。
人生初の入院で点滴に90時間つながった。救急搬送されたときは両腕にダブルだった。電源コードを引き抜いて支柱片手に歩いていた。
針が腕から抜けたときの解放感。点滴と分け合っていた自分の左腕が返ってきた。
点滴を見つめながら思いだしたこと。
父は2008年に香川県坂出市の病院で逝った。喉頭癌で食事はできず、点滴で生きていた。最後に会いに行ったとき、父は点滴スタンドをいなしながらトイレに行った。支柱を蹴っ飛ばした。白いスーツに身を固めたロックスターのように。かっこいいと思った。その後、僕が電車で瀬戸大橋を渡っている途上で、父の死を告げられた。
母は2018年に坂出の老人介護施設で逝った。老衰で経口での栄養補給ができなくなった。主治医からは点滴だけになったら余命三カ月です、と告げられていた。点滴のみになって、その期限が近づいた日の朝、僕は小豆島の家で草を刈っていた。納屋のガラスが割れた。草刈りを中断して瀬戸内海を渡った。その夜だった。
まったく突然に、訪れた自分自身の点滴体験であれこれ考えさせてもらった後、経口で食事をすること、5回。明日の朝には退院できます。
みなさん、心温まるメッセージ、ありがとうございます。
ということで、当初は8月31日には退院できるはずでした。だがしかし、甘かった。
僕の大腸はもう少し、養生を必要としていたのです。
「元気な養生」後半を書く前に、この時期の箕面市立病院のCOVID-19対策、医療スタッフへの感謝、入院生活のルーティンなどをまとめてみます。
僕が入院していたのは5階の東病棟でした。西病棟はコロナ患者専用としてゾーニングされていました。この時期の病院には、それほどの緊迫感はありませんでした。あまりコロナ患者はいなかったのかもしれません。
「何人、コロナの人が入院しているのですか」と看護師さんに訊ねても「それは言えないんです」とのこと。
面会は感染症対策のため、できません。必要なものは山の神にお願いして受付まで届けてもらいます。16日間、僕が顔を合わせていたのは主治医、看護師、清掃スタッフ、消毒係、配膳係さんのみです。
動ける範囲は東病棟の廊下とB1のコンビニ通いのみ。毎朝、コンビニに毎日新聞を買いにいきました。朝日新聞は山の神が届けてくれたので。
窓下の田んぼには、田見舞いの軽トラが定期的に来ていました。自分の畑のことを考えますが、どうしようもありません。雨が降ってくれることを祈るのみ。
主治医は平日の毎朝、「羽鳥慎一モーニングショー」の時間帯に来てくれました。質問を用意して待ちます。清掃スタッフは年配の男性。顔なじみになると窓から見える風景について他愛ない会話を交わしたりしました。
そして看護師さんたち。本当にお世話になりました。採血、体温と血圧測定、点滴、トイレチェック……。
申し訳なかったのは着替え。点滴につながれていると着替えすら自分ではできません。
箕面市立病院は老朽化が進んでいるように見受けられました。個室でもエアコンの調整がうまくいきません。上着を着たり脱いだりする必要がありました。
そのたびにナースコールを押してしまいます。
また、窓のサンシェードを開閉する棒もはずれてしまいました。各部屋で、そういうことが起こっているとのことでした。
箕面市政を牛耳っている「大阪維新の会」の皆様は新自由主義者です。医療資源を含めた社会的共通資本を削減するのが「身を切る改革」だとお考えになっています。箕面市立病院には長い間、市からの補助金が届いていないそうです。民営化計画も進んでいるとか。
現在、COVID-19第三波の真っ只中で、入院病棟の医療スタッフがどのような思いで働かれているのか。想像すると頭が下がります。
箕面市議選挙中、日本共産党の訴え |
退院後の採決検査日、9月25日まで一滴も呑みませんでした。それほど呑みたいとも思わない。あれれ、僕ってモノホンの呑みスケではなかったのかな。ちょっと寂しくなりました。
さて、話を8月31日(月)に戻そう。
朝食後に下血。2日間、排便できなった。便意はあるのに出ない。ここが踏ん張りどころだと思っても出ない。で、久しぶりに出たら便器が真っ赤になった。
看護師を呼ぶ。主治医が来る。午前10時に予定されていた退院は中止。山の神に電話する。
大腸内視鏡検査をすることに決定。自然治癒に近道はなかった。
また窓から田んぼを眺める日が続くことになった。
今から思えば、退院直前に下血してよかった。あのまま帰ったら、再入院という事態になっていたのかもしれない。
検査のために下剤を2リットル飲む。また点滴につながれた。
午後、内視鏡検査。鎮静剤点滴のため痛みも記憶もなく終了。
9月1日(火)。
入院8日目。最悪の日。
午前3時に下血。
主治医から検査報告あり。大腸内、出血箇所は特定できず。したがって内視鏡的止血術はしていない。ガンはなし。
ヘモグロビンが6.6に減少。輸血することに決定。これも人生初体験。点滴に止血剤を入れる。
その後、10回下血。点滴と輸血を引き連れてトイレに通う。個室からナースコールを押して見てもらう。
「ホラ、マタ血ガデタヨ」
情けないが、しかたがない。
9月2日(水)。
まだヘモグロビンは回復しない。輸血した分、下血してプラマイ0。
再び輸血、400㎖を2本、4時間。
こうなったら、腰を、いや尻を据えて養生する必要がある。それならば読書以外にも楽しみが必要である。
『アウトブレイク〜感染拡大』
2020年1月から3月にカナダでオンエアされた連続テレビドラマ、全10話。
COVID-19を予言していた。あまりにリアリティがあるので入院中に見るのは悪趣味かな、とも思ったけど。
新しいルーティンができた。寝る前に『アウトブレイク』を1話見る。これは緊張感のあるドラマ。緊張の後には緩和がいる。桂枝雀がそう言っている。
で、YouTubeで枝雀落語を見る。枝雀はロングドライブの友として音声ではほとんど聞いている。でも、当たり前だが、落語はヴィジュアルがあった方がいい。「鴻池の犬」のマクラで「B29のものまね」というのがあった。なるほど、こういう仕草だったのか。
「緊張と緩和」で、就寝に問題はなくなっていく。
9月3日(木)。
点滴差し替えの合間に9日ぶりにシャワーを浴びる。ひたすら気持ちいい。予想された問題が起こる。「都構想=大阪市廃止」住民投票が11月1日に強行されることが決定。
またカウンター情報発信に忙しくなった。ノートパソコンを届けてもらって、箕面の山を見ながら、言いたいことの山々をフェイスブックに投稿していく。
9月4日(金)。
午前0時に少量のお漏らしをしちまったぜ。
三分菜食、始まる。いつか来た道で食べる訓練の再開。でも、まだ鉄分いりブドウ糖とのダブル点滴は続く。
9月5日(土)、6日(日)。
点滴とノートパソコンを友として、ああじゃこうじゃ、と書き続ける。
「島根大学のモノクローナル抗体治療薬」「大阪大学のRNAワクチン開発と吉村知事の態度」などなど。「元気な養生」は忙しい。
9月7日(月)。
11時40分、点滴から完全解放される。僕の腕は自由になった。シャワー、しゃわしゃわ!
毎日新聞1面に「都構想=大阪市廃止」住民投票の結果が報じられる。これはまずい。
(※後日談:11月1日の住民投票は市民の力で反対多数でした。凛とした市民たちに敬意を表します)
9月8日(火)。
朝、主治医と話す。翌日の退院希望を伝える。許された。
食事は軟采軟飯食。便はあまり出ない。
そして、読んで書く。書いて読む。
9月9日(水)。
その日の朝が来た。
午前5時50分、少し排便。下血なし。便固い。
午前8時40分、ようやくやっと普通の排便。下血なし。
午前10時退院。山の神が迎えに来てくれた。ありがとー!
9月9日夜明け |
このようにして、僕の16日間「元気な養生」は無事終了した。
あらためて医療スタッフとお見舞いメッセージをくれたみなさんに感謝いたします。
それから、入院中に大量に発信したフェイスブック投稿を読んでいただいた友達にも御礼申し上げます。
「食べることと出すこと」ができなかった日々を含んで、入院中に書いたことを本稿執筆のためにまとめたら、その量に自分でも驚いてしまった次第だ。
本稿を書き始める前に読んだ本がある。文学紹介者である頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)さんが病気について書いた。
『食べることと出すこと』(医学書院/2020年8月1日発行)
ただの病気ではない。難病に指定されている「潰瘍性大腸炎」と十三年間、向き合ってきた記録と記憶と心に留めた言葉が書かれてある。
誰かさんのおかげで有名になった病気だが、「大腸憩室出血」とは血の出し方に大きな違いがある。鹿の糞と象の糞の違いみたいに。
〈あとがき〉に、こんな一節があった。
「病気の話とペットの話ほど面白くないものはない」と言われるが、その理由がよくわかった。話している当人には、自分の話の面白さの判断がつかないのだ。(314頁)
例によって長々と書いてきた。僕が書くときの基本コンセプトは「極私から普遍への通路はそれほど狭いものではない」ということである。
だが、本稿に関しては、どうやって、極私から普遍へ管を通したらいいのか、よく分からない。悩みます。
人間は、食べて出すだけの一本の管。(だが、悩める管だ……。)
「メメント・モリ」すぎるほど病気とつきあっている頭木さんの本は、今年の極私的読書ナンバーワンに認定しよう。
僕の読書感想文はこちら。
https://www.facebook.com/fumio.tanaka/posts/3525727780837357
68年間、僕は基本的には「無病息災」だった。「脳天気」と言い換えてもよい。
今年、よく聞いた「基礎疾患」を自分にあてはめてみる。
「睡眠時無呼吸症候群」は呼吸障害のひとつには違いない。
でも、CPAP(Continuous Positive Airway
Pressure)をつけて寝ることに慣れたら、どうってことはない。機器の持ち運びが面倒くさいだけだ。
こんな書き方をするのを「脳天気」という。
高血圧の薬はかかりつけ医からもらっているが、飲むのを忘れることも多かった。
「メメント・モリ(死を想え)」という言葉は頭の片隅で理解しているのに過ぎなかった。
この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。
(藤原新也)
僕の本棚には藤原新也の『メメント・モリ』が2冊もあった。
10月末日、電通の同期から久しぶりに電話があった。いやな予感がする。仲の良かった同期が逝ったとの知らせだった。
後日きたハガキによれば、死因は「大腸憩室穿孔による敗血症ショック」。
享年69歳。合掌するしかない。ビールとパイプ煙草が好きなやつだった。
「大腸憩室出血」と「大腸憩室炎」と「大腸憩室穿孔による敗血症」は紙一重なのかもしれない。大腸でうごめく血染めの風船玉と免疫システムのご機嫌次第、という気がする。
さらにいうならば、あの「潰瘍性大腸炎」との段差もそれほど高いものではないのだろう。
2020年は感染症の年だった。年を越してもコロナ禍は続く。サイトカイン・ストームが吹き荒れる。
SARS-CoV-2のスパイクがヒト細胞の受容体と握手する。
ウイルスが細胞内で自己主張を始めた。
自然免疫チームのマクロファージが突撃する。
貪欲にウイルスを喰らいながら、獲得免疫チームに敵の情報を伝える。
情報満載の伝達物質がサイトカイン。
こいつは手強い、緊急出動、サイトカインがけたたましく鳴り響く。
あちらでもこちらでも、サイトカインの年末年始特別大放出。
T細胞もB細胞もフル回転、休みなし。
嵐は止まない、免疫崩壊。
あらら、自分の細胞も攻撃してしまった。
(コンテキスターが想像したイメージです)
「死は生の水準器のようなもの」(藤原新也)
2020年、クリエーティブ・ディレクターからコンテキスターに看板を変えてから十年。
僕は「下り坂をそろそろとおろおろと下りる」と決めた。
年が明ければ、69歳になる。一年前、木内みどりさんが逝った歳である。
下り坂には「まさかの坂」もある。きっとある。
お大事に、お大事に、みなさん、ひたすらお大事に。
入院患者の間では「お大事に」という言葉は院外とは違う重みを持っている。
そんなことも学んだ。死を想えば、学ぶことも増えていく。
0 件のコメント:
コメントを投稿