2014年3月30日日曜日

文脈日記(今井書店物語)

書いて読んで耕して釣っているうちに、すっかりおろそかになったことがある。
映像編集の修行である。師匠の手ほどきで基本的なカット編集とタイトル入れができるようにはなっている。だが、映像編集ソフトのプレミアは、間隔が空くとすぐに操作方法を忘れてしまう。このあたりが62の手習いの悲しさだ。

悲しんでばかりいてもしかたがない。この種のテクニックはマニュアルを読むよりも身体で覚えるしかない。すなわち、プレミアを触り続けるしかない。
師匠には「杏奈ムービー」を仕上げます、と宣言したのだが、いっこうに進展しない。それどころか、二人目の孫、隆之亮まで出現して、映像素材は増える一方なのに編集はまったくできていない。
すでにオールラッシュ(撮影全素材)は2時間を超えているような気もする。
見るのが怖い。可愛すぎて見るのが怖い。この可愛い映像を編集してくれ、と迫られるのが怖い。

などと、また横道から話が入っている。
では本題の始まりです。まずはムービーから。



2月3日、僕は鳥取県米子市の今井書店発祥の地に行った。今井書店グループの永井伸和会長に会うためだ。
すっかり遅くなってしまったが、今井書店のことを書いてみたい。

永井会長を訪問したのは『上山集楽物語 限界集落を超えて-』(吉備人出版)の書店営業が目的だった。共同著作者として、鳥取と島根に24店舗を構える今井書店グループの店頭に本を置いてもらうお願いをしたかったのだ。

永井会長を知るきっかけになったのは、2012年の「ブックインとっとり」で、『愛だ!上山棚田団』(吉備人出版)が第25回地方出版文化功労賞を受賞したことだった。
この表彰式でスピーチをした棚田団出版プロジェクトリーダーである原田ボブは、永井会長との出会いを以下のように書いている。
表彰式・受賞スピーチを終え、ブックインとっとりの関係者の皆様との懇談会。ここで、この団体の凄さを垣間見ることになる。実行委員長の小谷寛さんは地元のお菓子屋さん、自ら「鳥取飯酒」と名乗り、気取りのない誰とでも楽しいお酒を飲む方だった。その小谷さんに地方から、本に纏わる文化運動を興そうと呼び掛けたのが、地元の書店グループの会長・永井伸和さん。お二人の話を聞いているうちに、行政主導の文化イベントという印象であったボブは、ブックインとっとりが全くの草の根型運動であったことを知る。出版と言えば東京一極集中という常識を覆し、地方と地方が本を仲立ちとして結びつく。その思いが賛同する仲間を呼び、たがいに刺激をもらいながら四半世紀続いてきたのがこのブックインだった。
『上山集楽物語』草稿より

このときに、永井会長からもらった「本との出会いは本当の出会い」という言葉は、ともに本好きの僕とボブの胸のうちに格納されていた。

棚田本第二弾が発刊されると同時に、僕は永井会長に献本して米子訪問のアポをとる。
今井書店は僕にとって、とても近しい存在だった。僕の山の神(妻のこと)の実家は、松江の野津旅館である。
今井書店は松江市内で本を求めるときに、必ず行く本屋だった。米子は松江から東へ約35㎞。隣町だ。

米子市尾高68の今井書店は江戸時代の建造物だった。年季の入った看板がかかっている。
開業は、明治5年(1872年)、142年前のこと。
♪汽笛一声新橋を~♪、と日本初の鉄道が正式営業を開始した年である。




この店舗は今でも現役で、活字文化博物館のような展示がされている。
懐かしいガリ版まで見せてもらった。この日は一日中、活字中毒者である僕はテンションが上がりぱなしだった。

テンションが上がった理由はもうひとつある。
田中文脈研究所のレポートを永井会長はかなり読み込んでくれていた。
最近、僕が書いた「本の未来」「昭和27年生まれの私的メディア論」というエントリーを読んだ会長は驚いたという。

僕がメンションしていた富田倫生さん、萩野正昭さん、津野梅太郎さん、濱野保樹さんたちは、永井会長と周知の仲だったのだ。

彼らはいずれも「大山緑陰シンポジウム」の参加者だったという。

「緑陰」という言葉に、僕は無条件に惹かれる。木漏れ日の光、夏の風。
その「緑陰」が名峰「大山(だいせん)」にある。
しかも「シンポジウム」だ。「シンポジウムとは参加者が夜を徹して飲むことだ」とブックインとっとり実行委員長の小谷寛さんは言っている。

「大山緑陰シンポジウム」は、世紀末の1995年から1999年まで今井書店グループの実習研修店舗『本の学校』の主催で開かれた。

『本の学校』の三原色は「生涯にわたる読書の推進」「出版界や図書館界のあるべき姿を問うシンポジウム」「業界書店人の研修講座」である。
その三原色で描かれたのが「大山緑陰シンポジウム」だったという。
著者から読者まで、出版界、図書館界、教育界、マスコミ界と垣根を越えた横断的な二泊三日の合宿シンポジウムに延べ2000人が集い、5冊の記録集を残している。



1995年といえば、日本のインターネット元年である。まさに「揺らぐ出版文化」が始まった年だ。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件もあった。
今に至る「電子書籍」の流れも水源が構築された頃である。

このようなシンポジウムが東京ではなく、地域を起点としたムーブメントとして起こっていたのだ。
まさに「知の地域づくり」。

永井会長は言う。
初代・今井兼文(芳斎)が米子市に「今井郁文堂」を開業したのが今井書店のルーツです。長崎の鳴滝塾で蘭学を学んだ医者です。学制発布の明治5年に40何歳かで本屋を開業したのですが、最後の仕事は世界を見てしまったんですね。これからは本当に知識が必要だという認識で、本屋を始めたということです。そういうDNAが私にも流れているわけですが、その中で、やはり私は地域にこだわるんですね。それも電子図書館か、電子書店かという話の一方で、便利なものは使えばいいのですが、やはり本は基本的には五感六感で接することが大切だと思っています。「リアル、出会い、空間」、これがまた地域というものになければならないと思っています。地域の一つの生活圏の中になきゃいかんという思いを強く持っています。

地域おこしは、田んぼの耕作放棄地をなくすことだけではない。知の不毛の解消を東京からではなく地域から仕掛けていくこと。永井会長の主張は明確である。

ちなみに、彼は総務省で「地域おこし協力隊」と深く関わった椎川さんや「里山資本主義」の藻谷浩介さんとも知己である。

商業便覧 明治20年4月 大阪龍泉堂
創業者、今井兼文の凄味は、書店だけに留まらず印刷所まで起こしたことだった。
明治17年(1884年)、書肆の隣に今井印刷工場を開設。

「書店は知識文化の普及発展に寄与しえても、創造はできないと考えて、書籍の販売だけでなく、書籍そのものをつくる印刷出版事業を起こしたのです。現在の言葉でいえば、情報を受けるだけでなく、情報の発信をしなければ地方文化は育たないと考えたのです」と今井書店の由来紹介文書にある。

僕は、今井書店には慣れ親しんでいたが、今井印刷のことはまったく知らなかった。
そんな僕を永井さんは今井印刷に連れて行ってくれた。
米子空港のすぐそばにある美しい敷地。エントランスロビーに展示されているハイデンブルグの活版印刷機にはステンドグラスからの光が射し込む。


「進化に深化を重ねてきた、私たちのスキルに真価がある」という企業理念に支えられた知の生産工場を見て、僕はまた興奮してしまった。

なにしろ活字中毒者がはじめて活字が紙に定着する現場を見たのだ。

どんなにデジタル化が進んでも「活字」中毒者は、あくまでも「活字」だ。
不思議なことに「フォント」中毒者とは言わない。
あるいは、自分の文章が「フォント」になる、とも言わない。


「創業時より印刷にかける不屈の気骨を受け継いでいる」工場の現社長は田淵康成さん。現場からたたき上げた人で剣道の達人だそうだ。



「なるほど剣道ですか。だからこの工場は間合いがいいのですね。デジタルとアナログの間合いが絶妙ですものね」と僕は言った。
この工場では、デジタル部門とアナログ部門のバランスが素晴らしい。

ずらりとマックが並んだ部屋の奥には、最新のオンデマンド印刷機がある。データを放り込めば、5分ほどで本が出来上がるのだ。
大きな出版の仕組みをくるくる回さなくても、地域の思い、わたしとあなたの主張は活字になることができる。



デジタルルームの先には、アナログ印刷機が律儀に知を紙に打ち込んでいる。

「美しい印刷のためには、印刷機が最上のレベルで稼働できるよう、日頃から入念に保守することが重要です。インクの腹圧、ローラーの摩耗調整など、見過ごしがちなところをとくに丹念に調整する。そのごくあたり前のことが、美しい印刷を左右する。それが私たちの長い経験の中で、身につまされて学んだことでした」
会社案内にあるとおり、職人気質の筋が一本、通っている感じがした。



製造工程だけではなく、古典コンテンツの発信でもアナログとデジタルの間合いは、図られている。
「訓注明月記」、この重厚なコンテンツの修訂版は電子書籍になっている。


知の世界で、もしも地方と中央の間に壁があるなら、デジタルを使えば軽々と超えられるはずだ。地方の豊かな知を東京に流すのも容易になるだろう。


それから、永井さんは僕を「本の学校」に誘う。
ここでもグーテンベルグに出会う。600年の時を経て、彼の志はしっかりとこの空間に根付いていた。


ギャラリーもカフェも研修室も談話室もすべてが「知の地域づくり」のために……。
今井書店グループは、「知のワンストップサービス」なのだ。

本の過去から未来がリニアにつながっている。本を巡る良心もつながっている。
製造から販売まで、学校から広報まで、一貫して本のための活動をしている。


2012年3月にNPO法人となった「本の学校」の初代理事長も永井伸和さんである。

彼は、今の自分の立場を「ゴミ拾いみたいなものです」と謙遜されている。ところが、このゴミは誰かが拾っていかないと、この国の未来が大変なことになりそうだ。
反知性主義に対抗するべき若いキャプテンたちは、水路をふさぐゴミに行く手を遮られてはならない。


米子に行った翌日、松江は大雪だった。雪を振り払いながら、僕は今井書店殿町店に入る。ここも素敵な棚つくりをしている本屋だった。

電通にいたときと較べると圧倒的にリアル書店に行くことが少なくなっている僕にとって、この2日間の今井書店巡りは至福のときだった。



今井書店グループセンター店の岩波書店フェアーで見つけた一冊。
『「大東亜戦争」期出版異聞』(小谷汪之/岩波書店2013年)
こんな本との出会いは、プル型でAmazon暮らしをしていてはあり得ない。


表現の自由を奪われ、出版が検閲される世の中がどんな悲惨な結果をもたらすかは、歴史が証明している……そのはずだった。

「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります」
ナチスドイツの犯したことを直視したヴァイツゼッカー大統領(ドイツ連邦共和国)の言葉を理解しない首相が存在する国の未来は危うい。

今井書店で出会った一冊は、このような文脈で締めくくられている。
戦争ごっこの好きそうなお坊ちゃま宰相の「再臨」という薄闇のような時代を迎えた今、戦前・戦中の時代を粘り強く生き抜いた、彼ら「在野」知識人たちの生き方は、私たちにある大きなものを遺してくれている。それは、どんな時代にあっても、人は譲ることができないものを心中に持しながら、柔軟に、しかしまた、したたかに生き続けなければならないということである。
「譲ることができない」正しいことを知る態度、「知正」を守るために、僕も永井会長の後ろでゴミ拾いのお手伝いがしたくなった。

世界中のすべての本好きのために……と言うと、なんだか頭でっかちのインテリちゃんのように聞こえるのかもしれないですね。
でも、僕のお手伝いは、身体が動く限り、現場至上主義でいきたい。
本を読み、現場に行って、自分の目で見て耳で聞いたことを情報発信していく……何をどこまで伝えられるかは分からないが、コンテキスターとして微力を提供すること。

ということで、明日からは福島市、南相馬市、飯舘村に行ってきます。今回のガイドブックは『復興の書店』(稲泉連/小学館)


本屋というのは神社の大木みたいなものでね。伐られてしまって初めて、そこにどれだけ大事なものがあったかが分かる。いつも当たり前のようにあって、みんなが見ていて、遊んだ思い出がある場所。震災が浮かび上がらせたのは、本屋は何となくあるようでいて、街の何かを支えている存在なのだということなのではないか。(P127)
311の直後から、人々は食料や水と同じように「活字」を求めたという事実がある……。


2014年3月11日火曜日

文脈日記(「書く」と「読む」ことについて)

2月は嵐の季節だ。電通を脱藩して以来、4度目の2月もそうだった。
2011年の2月には、水谷孝次さんと出会い、上山と小豆島でメリープロジェクトのお手伝いをしている。それから村楽LLPの設立準備サミットのために動き、松江の野津旅館で前夜祭をやった。

その直後に311。世界は変わった。

2012年の2月には、協創LLP主催の「復興から見えるあなたの未来」イベント。仲間内では226集会と呼ばれているイベント準備のために走り回っている。
昨年の2月は上山集楽の「ウメリー」を実現するために集中していた。

それぞれの年の2月に、僕の中では嵐が吹いていた。
過去3年間は「協創LLP」と「上山棚田団」の文脈の中で吹いた嵐だった。

しかし今年は違う。僕の個人的な文脈の中での風雪だ。
ある文学賞に応募するために小説を書いていたのだ。「満州国」にまつわる家族の物語。
賞応募作品なので、内容に関しては、これ以上、触れない。
落選したら公開します。別に落選を望んでいるわけではないけどね。

その賞の締切が2月28日だった。「締切は執筆の父」なので、締切があるのはありがたい。
だが、スケジュールがタイトすぎた。きつすぎた。
きつい理由はふたつある。
ひとつ、この種の小説を書くときは、一次資料探しと読み込みに時間がかかること。
ふたつ、小説を書くには、ある種のテクニックがある。その基本的な技法を習得しないまま、書き始めてしまったこと。

僕は「ニワカのプロ」、あるいは「プロのニワカ」なのだが、さすがに、このニワカ小説家修業はきつかった。

おかげで、田中文脈研究所の随想とも評論ともノンフィクションともつかぬ雑文書きスケジュールに、穴を開けてしまった。当研究所の開闢以来、初めて、1本も投稿できない月が2014年2月だった。

歴史的な事象をコンセプトにして、モノを書く(小説ではなくても)場合の一次資料探しは、こんなイメージだ。

海に、たくさんの釣船が浮かんでいる。それぞれの船には凄腕の船頭がいて、見た目も味も素晴らしい料理を提供している。
ニワカ小説家が、その料理を味わって、素材を探しに行く。海から川を遡る。どんどん遡って源流に近づき、ひと安心。
ところが、その水脈は大きな湖から流れ出ていたのだ。湖には、一次資料の藁が無数に浮かんでいる。溺れるニワカは藁を掴もうとする。ところが、どの藁が「わらしべ長者」の素なのかが分からない。この藁か、あの藁か。わらわらわら。ああ、もう時間がない。間に合わない。うわあーっ、と叫んで目が覚める。山の神に叱られる。


「モノを書くためにはナイフを研ぐ必要がある」、と世界有数の小説家が言っている。

その小説家の『書くことについて』という文章読本は、ずっと僕のベッドサイドに積んであった。

拙い小説を書いてしまって、賞応募した後に読み始める、というちぐはぐさが、ニワカ小説家の真骨頂なのだ。

スティーヴン・キングの名著には、ニワカ小説家が習得すべき基本的な技法が簡潔にして明解に書かれていたのである。以下、引用の嵐。

まずは、小説家がアイデアを掴む瞬間について。

ひとつここではっきりさせておこう。小説に関するかぎり、アイデアの集積所も、ストーリーの中央駅も、埋もれたベストセラーの島も存在しない。 
いいアイデアは、文字どおりどこからともなく湧いてくる。あるいは、虚空から落ちてくる。太陽の下で、ふたつの無関係なアイデアが合体して、まったく新しいものが生まれることもある。 
われわれがしなければならないのは、そういったものを見つけだすことではない。そういったものがふと目の前に現れたときに、それに気づくことである。

小説家がストーリーを育てる場所について。

私は別のところにいる。まぶしい光と鮮明な映像に満ちた地下室だ。ここは私が何年もかけてつくってきたところで、見晴らしはすこぶるいい。

「地下室に降りる」あるいは「井戸の底に降りる」という感覚は村上春樹も同様なことを言っている。春樹の方には、とても暗いイメージがあるが。

書くときと推敲のちがいについて。

ドアを閉めて書け。ドアをあけて書きなおせ。言いかえるなら、最初は自分ひとりのものだが、次の段階ではそうではなくなるということだ。原稿を書き、完成させたら、あとはそれを読んだり批判したりする者のものになる。 
何かを書くときには、自分にストーリーを語って聞かせればいい。手直しをするときにいちばん大事なのは、余計な言葉をすべて削ることだ。

書くときの具体的テクニックについて。

下手な文章の根っこには、たいてい不安がある。自分の楽しみのために書くなら、不安を覚えることはあまりない。
あなたは自分のことがよく分かっているはずだ。自信を持ち、能動態でどんどん書き進めていけばいい、それで何も問題はない。〝彼は言った〟と書くだけで、読者はそれがどんな口ぶりだったのか(早口か、ゆっくりか、嬉しそうにか、悲しそうにか等々)わかってくれる。  
描写の不足は読者を混乱させ、近視眼にする。描写の過剰は読者をディテールとイメージに埋没させる。その匙加減が難しい。ストーリーを紡ぎつつ、何を描写し、何を切り捨てるのかという選択はきわめて重要な問題だ。 
描写は作者のイマジネーションから始まり、読者のイマジネーションで終わるべきものである。 
直喩や暗喩は、読むのも楽しいし、書くのも楽しい。的確な比喩は、人ごみのなかで昔馴染みに出会ったような嬉しさを我々に与えてくれる。 
描写や、会話や、人物造形のスキルとは、つまるところ、目を見開き、耳を澄まし、しかるのちに見たもの聞いたものを正確に(手垢のついた余計な副詞は使わずに)書き移すことにすぎない。 
テンポのことを考えるとき、私はいつもエルモア・レナードの〝退屈なところを削るだけでいい〟という言葉を思いだす。テンポをよくするには、刈りこまなければならない。それは最終的に誰もがしなければならないことである(最愛のものを殺せ。たとえ物書きとしての自尊心が傷ついたとしても、駄目なものは駄目なのだ)

はい、キング先生、分かりました。次回作から気をつけます。僕に、そんな機会が訪れるのかどうかは分かりませんが……。


さて、文脈家(コンテキスター)に戻ろう。
ニワカ小説家だって、ほんの少しは地下室に降りて死者と対話する必要があった。明るいところに戻ってリハビリをしよう。

「書く」ことから「読む」ことに文脈を繋いでみたい。


ここのところ、僕は「本の器」について、あれこれ考えている。

その愚考は活字中毒者の趣味の範疇だったはずだが、今や、普遍的意味合いを持ち始めている。「器」が紙であれ、電子であれ、とにかく本が読まれてほしい。

「器」の置き場所が、書店であれ、クラウドであれ、図書館であれ、若者が本を読む習慣を身につけてほしい。

「近頃の若者は―」というステレオタイプの言葉を使うことを許してもらいたい。
あと2日で62歳の「本読みじじい」には、もうその資格があるはずだ。

小説であれ、エッセイであれ、ノンフィクションであれ、評論であれ、詩集であれ、とにかく本が読まれてほしい。

人は本を読むことでモノを考える習慣を身につける。そして、世の中で起こることに対する客観的判断基準を磨き始める。その切磋琢磨が想像力の育成に繋がる。

そのはずだったが、今や、本は売れない。読まれない。
売れる本は「自己啓発本」だけだそうである。

1時間で読めてすぐに「いいね!」ボタンを押せる本が売れやすい。自己啓発本には、タイトルしか心に残らないような本が多く、1年後には、忘れ去られています。 
文化や言葉を育てるには時間が必要です。時間をかけて本を読み、じっくりと考える。こうした習慣が急速に失われています。 
思想哲学などの人文分野の本は売れませんが、人間とは何か、どう生きるべきかについて内省を深めることは、困難を乗り越える上で欠かせません。 
(東浩紀/朝日新聞2月6日)

いいんですけどね、自己啓発本だけでも売れて、町の書店が生き残ることができれば。
だけど、「書く」方の勤勉さと「読む」方の意欲がアンバランスになってきているのは、とても危機的な状況に思える。

毎日、200冊以上の新刊が生産される現場では、勤勉さとはちょっと違うやり方で書かれた本もあるかもしれない。でも、それは「読む」方の意欲減退に較べたら許される範囲だと思う。

本を読まないことは、「自分の頭でモノを考える」能力の低下に繋がっている。
映画監督・是枝裕和は朝日新聞のインタビューで警鐘を鳴らした。

同調圧力の強い日本では、自分の頭でものを考えるという訓練が積まれていないような気がするんですよね。自分なりの解釈を加えることに対する不安がとても強いので、批評の機能が弱まってしまっている。 
その結果が映画だと『泣けた!』『星四つ』。こんなに楽なリアクションはありません。何かと向き合い、それについて言葉をつむぐ訓練が欠けています。これは映画に限った話ではなく、政治などあらゆる分野でそうなっていると思います。
(朝日新聞2月15日)

さらに半農半哲学者の内山節も「社会の劣化」について発言する。

長い時間幅で思考することができなくなって、いまの都合だけを、あるいはいまの愉悦だけを求める思考が、この社会を劣化させている。 
ここから過剰なほどの自己肯定、現状肯定を望み、自分にとって不都合なことは無視する傾向も生まれてくる。困った事にこの傾向が、一部の経営者や政治家にまで広がっていることだ。 
不都合な事は無視し、自己肯定という愉悦だけを求める。深刻にとらえなければいけないのは、現在はびこっているこの様な傾向である。 
(東京新聞3月9日)

「自分の頭で考えない劣化した社会」は、「金がすべてで自己肯定しかできない政権」を生んでしまう。安倍晋三に「最高責任者」と名乗らせ、その一派が自分だけに通用する言葉を弄ぶ事態を許容してしまう。

安倍政権は「歴史を学ばない」「世界を俯瞰することができない」「他人の気持ちを想像することができない」がゆえに、愚昧政権なのだ。

「ナチスの手口を真似て、こっそりと憲法改正したらどうか」
「デモはテロみたいだ」
「政府が右を向けと言えば公共放送も右を向くのが正しい」
「アメリカが〝失望〟と言ったのは日本に対してではなく中国に対してだ」
「自分が支持する候補者以外は〝人間のくず〟だ」

書き起こすだけで、無知な悪意のオーラが伝わってきて気持ち悪くなってきた。

現在、安倍一派のこのような傾向は「反知性主義」という言葉で語られている。

「反知性主義」とは、佐藤優の定義によれば「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」である。

また内田樹は「反知性主義」を教養への蔑視と置き換えている。

教養とは一言で言えば、「他者」の内側に入り込み、「他者」として考え、感じ、生きる経験を積むことである。 
死者や異邦人や未来の人間たち、今ここにいる自分とは世界観も価値観も生活のしかたも違う「他者」の内側に入り込んで、そこから世界を眺め、世界を生きる想像力こそが教養の本質である。そのような能力を評価する文化が今の日本社会にはない。 
(〝内田樹の研究室〟ブログ)

この「反知性主義」の蔓延は、本を読まない人々の増加と無縁ではないだろう。
誰もが〝自分に都合がいい流動食のような物語〟しか認めなくなると、社会も文化も退化していく。
問題は、「本の器」から「教養の器」に転化していくのだ。

たとえば、都知事選。2月の嵐。
細川護熙は「脱原発・自然と寄り添う生き方」を訴えた。
彼の演説の中に、こんな一節がでてくる。

山川草木すべてに神仏が宿る、という自然感で日本人の感性は育まれてきた。
道元禅師は「春は花 夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷( すず )しかりけり」と四季の移り変わりがある日本の美を讃えた。

この道元禅師の言葉は、川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの『美しい日本の私』というスピーチで引用したものである。
僕の「教養の器」の底に、かろうじて記憶が残っていた。

ところが、反知性主義が広まっている世の中では、殿の主張は理解されない。結果は惨敗である。

日本列島の「教養の器」が狭まると、ますます情けないことが起こる。

15世紀、グーテンベルグの時代から、人類が営々と築きあげてきた活字文化に対するリスペクトは、最先端の電子回路のように薄くなっている。



「アンネ・フランクの受難」。焚書である。

ベルリンには「本のない図書館」がある。1933年5月10日、ナチスドイツはマルクス、フロイト、ハイネ、ブレヒトなど「自分に都合の悪い物語」2万冊以上を焼き捨てた。
焚書の現場となった広場の一画に天窓がついた空間がある。覗きこむと真っ白な本棚が見えるだけ。2万冊の空白が見える。


「これは序幕の出来事に過ぎなかった。書物が焼かれるところでは、最後には人間までもが焼かれるのだ」

焚書を記憶にとどめる図書館のそばには、こんな言葉が刻まれたプレートもあるそうだ。
ハイネが1820年に自らの著作で焚書を警告したものだという。
(facciamo la musica!さんのブログより引用、写真も)


さて、「本読みじじい」は反知性主義に対抗する術を考えよう。
反知性の反対は知性である。
であるなら、知性主義によるカウンターパンチが必要なのか。
にしても、「知性主義」という言葉はいまいちだね。「学者ばか」という言葉とニュアンスが近くなりそうだ。
「知性」という言葉に含まれるスノビズムがどうも気になる。
今、僕たちに求められている知性の回復は、内田樹が言うように「一般教養」レベルから始める必要がありそうだ。

歴史を勉強しましょう。
基本的人権を守りましょう。
表現の自由は憲法で保証されています。
他人の気持ちを考えましょう。

どうやら、知性ではなく「知正」という言葉が当てはまりそうだ。

「知正」―正しいことを知ること。
「知正主義」―正しいことを知る権利を主張すること。

正しいことを知って、自由に発言し、自分と他者の自由を尊重すること。
知正を前提とし、リベラルな立場を維持し続ける人たちが増えていけば、反知性主義への対抗勢力ができるのではないだろうか。

「知正リベラル連合」。
まずは言葉ありき。そんな連合体ができればいいのに、とコンテキスターは夢想する。

そして、知正リベラル連合には「アホ派」と「カシコ派」ができていく……。
夢想は続く。

僕の仲間うちでは、「アホ!」は誉め言葉である。

正しいことを知るために、本を読むのは、とても有効な方法論だ。
だけども、「現場という名の本」から直感的に正しいことを掴み取る一派もいる。彼らは「知正リベラル連合アホ派」だ。尊敬の念をこめて、アホと呼ばれ、カシコにはない突破力を持つ。

一方の「知正リベラル連合カシコ派」は、本を読んで得た知識、知恵、哲学を、本の外の世界に活かしていく……。「アホ派」の行動をトレースして情報発信部隊となっていく。

「知正リベラル連合・アホ派/カシコ派」は、世界正福のために協創していくのだ。

あはは。まだニワカ小説家から抜けきっていないようですね。
ちなみに、僕はカシコの皮を被ったアホである、という風評があるような、ないような……。