2014年3月11日火曜日

文脈日記(「書く」と「読む」ことについて)

2月は嵐の季節だ。電通を脱藩して以来、4度目の2月もそうだった。
2011年の2月には、水谷孝次さんと出会い、上山と小豆島でメリープロジェクトのお手伝いをしている。それから村楽LLPの設立準備サミットのために動き、松江の野津旅館で前夜祭をやった。

その直後に311。世界は変わった。

2012年の2月には、協創LLP主催の「復興から見えるあなたの未来」イベント。仲間内では226集会と呼ばれているイベント準備のために走り回っている。
昨年の2月は上山集楽の「ウメリー」を実現するために集中していた。

それぞれの年の2月に、僕の中では嵐が吹いていた。
過去3年間は「協創LLP」と「上山棚田団」の文脈の中で吹いた嵐だった。

しかし今年は違う。僕の個人的な文脈の中での風雪だ。
ある文学賞に応募するために小説を書いていたのだ。「満州国」にまつわる家族の物語。
賞応募作品なので、内容に関しては、これ以上、触れない。
落選したら公開します。別に落選を望んでいるわけではないけどね。

その賞の締切が2月28日だった。「締切は執筆の父」なので、締切があるのはありがたい。
だが、スケジュールがタイトすぎた。きつすぎた。
きつい理由はふたつある。
ひとつ、この種の小説を書くときは、一次資料探しと読み込みに時間がかかること。
ふたつ、小説を書くには、ある種のテクニックがある。その基本的な技法を習得しないまま、書き始めてしまったこと。

僕は「ニワカのプロ」、あるいは「プロのニワカ」なのだが、さすがに、このニワカ小説家修業はきつかった。

おかげで、田中文脈研究所の随想とも評論ともノンフィクションともつかぬ雑文書きスケジュールに、穴を開けてしまった。当研究所の開闢以来、初めて、1本も投稿できない月が2014年2月だった。

歴史的な事象をコンセプトにして、モノを書く(小説ではなくても)場合の一次資料探しは、こんなイメージだ。

海に、たくさんの釣船が浮かんでいる。それぞれの船には凄腕の船頭がいて、見た目も味も素晴らしい料理を提供している。
ニワカ小説家が、その料理を味わって、素材を探しに行く。海から川を遡る。どんどん遡って源流に近づき、ひと安心。
ところが、その水脈は大きな湖から流れ出ていたのだ。湖には、一次資料の藁が無数に浮かんでいる。溺れるニワカは藁を掴もうとする。ところが、どの藁が「わらしべ長者」の素なのかが分からない。この藁か、あの藁か。わらわらわら。ああ、もう時間がない。間に合わない。うわあーっ、と叫んで目が覚める。山の神に叱られる。


「モノを書くためにはナイフを研ぐ必要がある」、と世界有数の小説家が言っている。

その小説家の『書くことについて』という文章読本は、ずっと僕のベッドサイドに積んであった。

拙い小説を書いてしまって、賞応募した後に読み始める、というちぐはぐさが、ニワカ小説家の真骨頂なのだ。

スティーヴン・キングの名著には、ニワカ小説家が習得すべき基本的な技法が簡潔にして明解に書かれていたのである。以下、引用の嵐。

まずは、小説家がアイデアを掴む瞬間について。

ひとつここではっきりさせておこう。小説に関するかぎり、アイデアの集積所も、ストーリーの中央駅も、埋もれたベストセラーの島も存在しない。 
いいアイデアは、文字どおりどこからともなく湧いてくる。あるいは、虚空から落ちてくる。太陽の下で、ふたつの無関係なアイデアが合体して、まったく新しいものが生まれることもある。 
われわれがしなければならないのは、そういったものを見つけだすことではない。そういったものがふと目の前に現れたときに、それに気づくことである。

小説家がストーリーを育てる場所について。

私は別のところにいる。まぶしい光と鮮明な映像に満ちた地下室だ。ここは私が何年もかけてつくってきたところで、見晴らしはすこぶるいい。

「地下室に降りる」あるいは「井戸の底に降りる」という感覚は村上春樹も同様なことを言っている。春樹の方には、とても暗いイメージがあるが。

書くときと推敲のちがいについて。

ドアを閉めて書け。ドアをあけて書きなおせ。言いかえるなら、最初は自分ひとりのものだが、次の段階ではそうではなくなるということだ。原稿を書き、完成させたら、あとはそれを読んだり批判したりする者のものになる。 
何かを書くときには、自分にストーリーを語って聞かせればいい。手直しをするときにいちばん大事なのは、余計な言葉をすべて削ることだ。

書くときの具体的テクニックについて。

下手な文章の根っこには、たいてい不安がある。自分の楽しみのために書くなら、不安を覚えることはあまりない。
あなたは自分のことがよく分かっているはずだ。自信を持ち、能動態でどんどん書き進めていけばいい、それで何も問題はない。〝彼は言った〟と書くだけで、読者はそれがどんな口ぶりだったのか(早口か、ゆっくりか、嬉しそうにか、悲しそうにか等々)わかってくれる。  
描写の不足は読者を混乱させ、近視眼にする。描写の過剰は読者をディテールとイメージに埋没させる。その匙加減が難しい。ストーリーを紡ぎつつ、何を描写し、何を切り捨てるのかという選択はきわめて重要な問題だ。 
描写は作者のイマジネーションから始まり、読者のイマジネーションで終わるべきものである。 
直喩や暗喩は、読むのも楽しいし、書くのも楽しい。的確な比喩は、人ごみのなかで昔馴染みに出会ったような嬉しさを我々に与えてくれる。 
描写や、会話や、人物造形のスキルとは、つまるところ、目を見開き、耳を澄まし、しかるのちに見たもの聞いたものを正確に(手垢のついた余計な副詞は使わずに)書き移すことにすぎない。 
テンポのことを考えるとき、私はいつもエルモア・レナードの〝退屈なところを削るだけでいい〟という言葉を思いだす。テンポをよくするには、刈りこまなければならない。それは最終的に誰もがしなければならないことである(最愛のものを殺せ。たとえ物書きとしての自尊心が傷ついたとしても、駄目なものは駄目なのだ)

はい、キング先生、分かりました。次回作から気をつけます。僕に、そんな機会が訪れるのかどうかは分かりませんが……。


さて、文脈家(コンテキスター)に戻ろう。
ニワカ小説家だって、ほんの少しは地下室に降りて死者と対話する必要があった。明るいところに戻ってリハビリをしよう。

「書く」ことから「読む」ことに文脈を繋いでみたい。


ここのところ、僕は「本の器」について、あれこれ考えている。

その愚考は活字中毒者の趣味の範疇だったはずだが、今や、普遍的意味合いを持ち始めている。「器」が紙であれ、電子であれ、とにかく本が読まれてほしい。

「器」の置き場所が、書店であれ、クラウドであれ、図書館であれ、若者が本を読む習慣を身につけてほしい。

「近頃の若者は―」というステレオタイプの言葉を使うことを許してもらいたい。
あと2日で62歳の「本読みじじい」には、もうその資格があるはずだ。

小説であれ、エッセイであれ、ノンフィクションであれ、評論であれ、詩集であれ、とにかく本が読まれてほしい。

人は本を読むことでモノを考える習慣を身につける。そして、世の中で起こることに対する客観的判断基準を磨き始める。その切磋琢磨が想像力の育成に繋がる。

そのはずだったが、今や、本は売れない。読まれない。
売れる本は「自己啓発本」だけだそうである。

1時間で読めてすぐに「いいね!」ボタンを押せる本が売れやすい。自己啓発本には、タイトルしか心に残らないような本が多く、1年後には、忘れ去られています。 
文化や言葉を育てるには時間が必要です。時間をかけて本を読み、じっくりと考える。こうした習慣が急速に失われています。 
思想哲学などの人文分野の本は売れませんが、人間とは何か、どう生きるべきかについて内省を深めることは、困難を乗り越える上で欠かせません。 
(東浩紀/朝日新聞2月6日)

いいんですけどね、自己啓発本だけでも売れて、町の書店が生き残ることができれば。
だけど、「書く」方の勤勉さと「読む」方の意欲がアンバランスになってきているのは、とても危機的な状況に思える。

毎日、200冊以上の新刊が生産される現場では、勤勉さとはちょっと違うやり方で書かれた本もあるかもしれない。でも、それは「読む」方の意欲減退に較べたら許される範囲だと思う。

本を読まないことは、「自分の頭でモノを考える」能力の低下に繋がっている。
映画監督・是枝裕和は朝日新聞のインタビューで警鐘を鳴らした。

同調圧力の強い日本では、自分の頭でものを考えるという訓練が積まれていないような気がするんですよね。自分なりの解釈を加えることに対する不安がとても強いので、批評の機能が弱まってしまっている。 
その結果が映画だと『泣けた!』『星四つ』。こんなに楽なリアクションはありません。何かと向き合い、それについて言葉をつむぐ訓練が欠けています。これは映画に限った話ではなく、政治などあらゆる分野でそうなっていると思います。
(朝日新聞2月15日)

さらに半農半哲学者の内山節も「社会の劣化」について発言する。

長い時間幅で思考することができなくなって、いまの都合だけを、あるいはいまの愉悦だけを求める思考が、この社会を劣化させている。 
ここから過剰なほどの自己肯定、現状肯定を望み、自分にとって不都合なことは無視する傾向も生まれてくる。困った事にこの傾向が、一部の経営者や政治家にまで広がっていることだ。 
不都合な事は無視し、自己肯定という愉悦だけを求める。深刻にとらえなければいけないのは、現在はびこっているこの様な傾向である。 
(東京新聞3月9日)

「自分の頭で考えない劣化した社会」は、「金がすべてで自己肯定しかできない政権」を生んでしまう。安倍晋三に「最高責任者」と名乗らせ、その一派が自分だけに通用する言葉を弄ぶ事態を許容してしまう。

安倍政権は「歴史を学ばない」「世界を俯瞰することができない」「他人の気持ちを想像することができない」がゆえに、愚昧政権なのだ。

「ナチスの手口を真似て、こっそりと憲法改正したらどうか」
「デモはテロみたいだ」
「政府が右を向けと言えば公共放送も右を向くのが正しい」
「アメリカが〝失望〟と言ったのは日本に対してではなく中国に対してだ」
「自分が支持する候補者以外は〝人間のくず〟だ」

書き起こすだけで、無知な悪意のオーラが伝わってきて気持ち悪くなってきた。

現在、安倍一派のこのような傾向は「反知性主義」という言葉で語られている。

「反知性主義」とは、佐藤優の定義によれば「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」である。

また内田樹は「反知性主義」を教養への蔑視と置き換えている。

教養とは一言で言えば、「他者」の内側に入り込み、「他者」として考え、感じ、生きる経験を積むことである。 
死者や異邦人や未来の人間たち、今ここにいる自分とは世界観も価値観も生活のしかたも違う「他者」の内側に入り込んで、そこから世界を眺め、世界を生きる想像力こそが教養の本質である。そのような能力を評価する文化が今の日本社会にはない。 
(〝内田樹の研究室〟ブログ)

この「反知性主義」の蔓延は、本を読まない人々の増加と無縁ではないだろう。
誰もが〝自分に都合がいい流動食のような物語〟しか認めなくなると、社会も文化も退化していく。
問題は、「本の器」から「教養の器」に転化していくのだ。

たとえば、都知事選。2月の嵐。
細川護熙は「脱原発・自然と寄り添う生き方」を訴えた。
彼の演説の中に、こんな一節がでてくる。

山川草木すべてに神仏が宿る、という自然感で日本人の感性は育まれてきた。
道元禅師は「春は花 夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷( すず )しかりけり」と四季の移り変わりがある日本の美を讃えた。

この道元禅師の言葉は、川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの『美しい日本の私』というスピーチで引用したものである。
僕の「教養の器」の底に、かろうじて記憶が残っていた。

ところが、反知性主義が広まっている世の中では、殿の主張は理解されない。結果は惨敗である。

日本列島の「教養の器」が狭まると、ますます情けないことが起こる。

15世紀、グーテンベルグの時代から、人類が営々と築きあげてきた活字文化に対するリスペクトは、最先端の電子回路のように薄くなっている。



「アンネ・フランクの受難」。焚書である。

ベルリンには「本のない図書館」がある。1933年5月10日、ナチスドイツはマルクス、フロイト、ハイネ、ブレヒトなど「自分に都合の悪い物語」2万冊以上を焼き捨てた。
焚書の現場となった広場の一画に天窓がついた空間がある。覗きこむと真っ白な本棚が見えるだけ。2万冊の空白が見える。


「これは序幕の出来事に過ぎなかった。書物が焼かれるところでは、最後には人間までもが焼かれるのだ」

焚書を記憶にとどめる図書館のそばには、こんな言葉が刻まれたプレートもあるそうだ。
ハイネが1820年に自らの著作で焚書を警告したものだという。
(facciamo la musica!さんのブログより引用、写真も)


さて、「本読みじじい」は反知性主義に対抗する術を考えよう。
反知性の反対は知性である。
であるなら、知性主義によるカウンターパンチが必要なのか。
にしても、「知性主義」という言葉はいまいちだね。「学者ばか」という言葉とニュアンスが近くなりそうだ。
「知性」という言葉に含まれるスノビズムがどうも気になる。
今、僕たちに求められている知性の回復は、内田樹が言うように「一般教養」レベルから始める必要がありそうだ。

歴史を勉強しましょう。
基本的人権を守りましょう。
表現の自由は憲法で保証されています。
他人の気持ちを考えましょう。

どうやら、知性ではなく「知正」という言葉が当てはまりそうだ。

「知正」―正しいことを知ること。
「知正主義」―正しいことを知る権利を主張すること。

正しいことを知って、自由に発言し、自分と他者の自由を尊重すること。
知正を前提とし、リベラルな立場を維持し続ける人たちが増えていけば、反知性主義への対抗勢力ができるのではないだろうか。

「知正リベラル連合」。
まずは言葉ありき。そんな連合体ができればいいのに、とコンテキスターは夢想する。

そして、知正リベラル連合には「アホ派」と「カシコ派」ができていく……。
夢想は続く。

僕の仲間うちでは、「アホ!」は誉め言葉である。

正しいことを知るために、本を読むのは、とても有効な方法論だ。
だけども、「現場という名の本」から直感的に正しいことを掴み取る一派もいる。彼らは「知正リベラル連合アホ派」だ。尊敬の念をこめて、アホと呼ばれ、カシコにはない突破力を持つ。

一方の「知正リベラル連合カシコ派」は、本を読んで得た知識、知恵、哲学を、本の外の世界に活かしていく……。「アホ派」の行動をトレースして情報発信部隊となっていく。

「知正リベラル連合・アホ派/カシコ派」は、世界正福のために協創していくのだ。

あはは。まだニワカ小説家から抜けきっていないようですね。
ちなみに、僕はカシコの皮を被ったアホである、という風評があるような、ないような……。


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