2011年12月28日水曜日

上山集楽、山の上の雲人たち。


2011年も最終局面だ。
今年は1868年の明治維新、1945年の敗戦に匹敵する節目の年として歴史に残るだろう。年の終わりにコンテキスター、フミメイとして1年の文脈をサマリーしておく必要がある。

2011年、僕は上山集楽とともにあった。
集落、集まって落ちるところではなく、集楽、メリーが集まるところ。
岡山県美作市上山はまさにMerry Togetherな地域である。

山の上の雲人(くらうど)たちは上山のさいぼう庵といちょう庵をベースにして、風とゆききし雲からエネルギーをもらいつつ、情報発信と百商発力を続けている。
僕を含めてひ弱な都人(みやこびと)たちは上山に行くことにより地宝のお裾分けにあずかることができる。

上山に初めて行ったのは今年の1月だった。その頃、転職で悩んでいた長男といっしょだった。
その後の僕の上山を巡るささやかな冒険は文脈日記に綴ってきた。

年末なので、あらためて時系列的に整理してみよう。

2月7日、Merry Project@上山棚田。水谷孝次さんに出会い、いきなり撮影のディレクションをしてしまった。そんなつもりではなかったのだけど、現場に入ると身体が動く癖が抜けていなかったのですね。
その翌日、小豆島の中山棚田でもメリープロジェクトを実施したあと、塩見直紀さんの松江講演会に絡めて3月生まれのお誕生日会をやりましょ、とかっちにつぶやいてしまった。
その一言はあっという間に3月7日、島根県飯南での村楽LLPの設立準備サミットに繋がっていった。

村楽サミットの前日、妻の実家、松江の野津旅館での楽しい宴会は忘れられない。ボブによれば、後世に「野津屋会談」として語り継がれるそうだ。

そして、その4日後、311が起こった。

3月11日の15時半頃まで僕は原徹郎さんという映像作家の「動画つくりの新レシピ」という草稿の校正作業に集中していた。
妻の友人から電話がかかってくるまで、東北の異変に気がついていなかった。
慌ててテレビをつけると……、それから後はツイッターに張り付いた。

東京にいる長男夫婦のことが気になる。
フクシマがメルトダウンする、という情報は3月12日にはツイッター上に流れてきた。マスコミにはデマだと否定されたが。

3月15日、この時期、妊婦は東京にいるべきではない、という僕の説得に応じて嫁が箕面に疎開してきた。
東京に残された長男は毎週、箕面に帰って来つつ、上山にひとりで行くこともあった。

5月になると、綾部での米つくりが始まる。それでも上山のことは気にかかる。
ボブ編集長の本の最終校正作業もあり、綾部から上山に直行したこともあった。

そして6月25日と26日、村楽LLPキックオフとMerry Forest @美作上山が開催された。
上山発の流れがこの国をメリーランドに変えていきそうですね、と水谷孝次さんと話合いながら雨中で東北の子供たちの傘を開き、みんな笑顔で棚田を歩いて行った。

この日は、協創LLP出版プロジェクトの「愛だ!上山棚田団~限界集落なんていわせない」(吉備人出版)がついについにお目見えした記念すべき日でもある。

7月14日、初孫、杏奈が誕生する。
2011年生まれの子供たちのメリーな未来には村楽が深く関わるような予感がする。

上山での《出来事多様性》はまだまだ続く。
8月20日、上山の雲海上にメリー空彦気球が上がった。2月にメリー海彦山彦空彦というコンセプトとストーリーを妄想したものがまさか実現するとは思わなかった。

上山という集楽はメリーな人財を集める磁力をもっているようだ。
山の上の雲人たちは縁動脈の心臓になりつつある。

その雲人たちの中心にいるかっちと美々の棚田結婚式にからめて11月12日には村楽ガチ討論会に全国から同志が集結した。
さらに上山に住む地元の人たちを巻き込んでの棚田映画上映会。地元民たちからのかっちと美々への祝福メッセージ。感動的な一日だった。
この日には、これも2月以来の課題であったメリーライスがカタチになった。

僕と上山集楽との関わりは「知恵と知恵との物々交換」だと思っている。
僕は自分にできることを集楽に提供する。たとえばメリープロジェクトのイベントプロデュースであり、メリーライス制作ディレクションであり、コンテキスターとしての発言だ。そのかわり、それ以上のものを貰ってきたのが、この1年であった。

12月になってから、僕は電通関西支社の仲間たちと再会していった。
彼らは一様に「文夫さんは変わっていない。ますます元気になっている姿に感動して刺激をもらった、たぶん周囲の人に頼りにされているのでしょうね」などと言ってくれた。ちょっと照れくさかったが、本当に嬉しかった。

僕がこのように元気に脱藩生活を続けられるのも上山集楽の雲人たちとコンテキストが繋がっているからだろう。

本音をちょっと言うと、上山集楽はけっこう過激な集団なので、ときどきしんどいこともあるのですがね。

来年、上山集楽はますます過激度と多様性を深化させようとしている。
さあて、僕はどこまでついて行けるのか。




2011年12月20日火曜日

文脈日記(協和から協創へ)

2年前の秋、僕は中国東北部の旅をした。
満州という国が1932年3月1日から1945年の8月15日まで存在していた地域だ。
なぜ2年前のことを今頃、書いているのか。
それは2012年の展望を考えるためには満州国まで遡る必要がある、と個人的に感じているからだ。

満州には僕の妻もいっしょに行った。妻の家族のコンテキストも満州と深く繋がっていたからだ。満州は「消えた国」だ。そして妻の叔母は「消えた国から帰ってきた」人だ。
一方、僕の祖父、祖母、父、母たちも大連からの引き揚げ者だ。
大連そして長春(新京)、満州の歴史が色濃く残った2つの町を妻と友人の中国通夫妻とともに旅しながら、僕は家族の足跡を探していた。

大連港。うちの家族はすぐ近くに住んでいた。

かつて新京と呼ばれた長春

918を忘れるな、江澤民

偽満皇宮博物院

現在、中国では「偽満州国」と呼ばれている「国家」=共同体の文脈はこの列島の今に繋がっているはずだ。

満州に関する歴史書、評論、小説は無数にある。
満州の一大コンテキストの中では、さまざまな家族があの大地で暮らしを営んでいたはずだ。そして敗戦後の大波に翻弄されたことだろう。

甘粕正彦、石原完爾、李香蘭、岸信介など満州の著名人たちの周辺には無名の家族たちの歴史が埋もれている。
たとえば僕の家族、僕の妻の家族、そして盟友原田基風の家族。
満州をめぐる家族史の登場人物たちは天寿を迎えた方が多い。
彼らの歴史を深く掘り返すことはもう不可能だし、あえてやる必要もないと思う。

ただし、その極私的出来事の連なりは普遍性を持った文脈となる可能性がある。
その文脈を孫たちの世代に繋いでいくのは来年、還暦を迎えるラスト・オキュパイド・チルドレン(LOC)しかできない、と僕は原田基風から煽られている。

2011年、田中フミメイと原田ボブの個人的縁脈がいつのまにか半農半X研究所、村楽LLP、そして協創LLPの大縁脈に繋がった経験からすれば、極私から普遍への通路はそれほど狭いものではない。

かつての満州映画協会社屋

妻の叔母はまだご健在だ。彼女は明治45年生まれ、すなわち百歳になろうとしている。
彼女は1990年に「消えた国から帰ってきた」という小冊子を出版した。
敗戦時にソ連が侵攻してきた満州国の首都、新京(長春)から朝鮮半島を経て島根県の松江市まで引き揚げるまでの体験がみごとな筆致で綴られている。
 夫は当時の満州映画協会(満映)に勤務しつつ出征しており、敗戦時は行方知れずだった。幼い子供たちを連れた彼女は満映理事長、甘粕正彦が手配した列車で1945年8月13日に新京を脱出する。

甘粕正彦は満映社員にとってはやさしいボスだったらしい。
そして叔母の夫は甘粕のお気に入りだったようだ。彼女は新京脱出の直前に子供たちを連れて甘粕理事長と会見した。その模様を「消えた国から帰ってきた」で自筆のイラストにしている。

満映理事室で甘粕理事長に逢う

無名の家族はひょっこりと歴史の中に顔を出す。
甘粕正彦が満映の理事をしていた頃の写真が「甘粕正彦 乱心の曠野」(佐野眞一著)という本の口絵に掲載されている。
主義者殺しとして恐れられていた甘粕が満映の運動会で葉巻を持って柔和な表情を見せている。その横で微笑んでいる男はどうやら彼女の夫らしい。残念ながらこの方は若くして亡くなったため本人に確認することはできないが。



無数の極私的エピソードから普遍を引き出す試みを続けよう。
彼女とその子供たちが引き揚げの途中、朝鮮半島で京城行きの汽車に乗る時にこんなエピソードがある。以下、「消えた国から帰ってきた」から引用してみよう。
【五等国】 
やがて汽車に乗る為ホームに出た。ホームとは名ばかり高く長く盛り土された所だった。汽車の来るのを此処でしばらく待つ事になった。その内、○○(彼女の息子の名前、引用者注)が急にオシッコと云い出した。周囲にはトイレらしい所もなく居場所を離れ汽車が入ってきたら大変とだれも居ないホームの一番端に連れて行き用をたゝせた。コスモスが背高くピンク、白と咲き乱れていた。突然、大きな声が複数で聞こえた。花の向こうの木材の積み重ねた上で5、6人の朝鮮人が一斉にこちらを向いて野次っていた。「あんな所で立小便しやがって、日本国はやっぱり五等国だ。日本の五等国、五等国、五等国」と口々にはやしたてた。二流、三流を飛び越え五等国とは、いかに日本を憎んでいるかをまざまざと感じた。
そうなのだ。キーワードは「五等国」だ。
なぜ敗戦後の日本人は二等でも三等でもなく五等と罵られたのか。

その理由は「五族協和」というスローガンにある。「王道楽土」とともに満州国の建国理念だった。日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人の五族が民族自決の原則に基づき協同して世界平和を目指す、という理念である。

しかしながら、「協和」の現実は理念とはほど遠いものであった。五族には厳然たる差別があり日本人は自らのみを一等国として振るまっていた。その態度が敗戦後の反動となって、日本人は五族の最下層、すなわち「五等国」だ、という声になったのだと思う。

無名の引き揚げ家族に浴びせられた「五等国」という罵りは「五族協和」という理念がいかに虚しいものであったかという普遍を物語っている。
しかしながら、この理念を文字どおり受けとめた若者たちが満州国にいて、彼らの学舎があったことも歴史的事実だ。

その建国大学(建大)は満州国の思想的バックボーンだった石原完爾が新京に設立した「国立大学」だ。満映のすぐそばにあった。
創立当初の建大は、五族が全世界の思想を自由に学び夜を徹して「協和」の現実化を語り合う「王道楽土」だったらしい。

だが、やがて「五族協和」は宙に浮き、赤い夕日の彼方に遠ざかっていく。
理念と現実の落差を建大生たちはどんな気持ちで見ていたのだろうか。
その学生たちの一人が現在、「協創LLP」の代表を務める原田基風の父だったという。

僕たちの家族が「協和の時代」を生きたという歴史的縁脈は、今や「協創する時代」の文脈に繋がろうとしている。
というと、いきなり話がワープしてしまったように見えるだろうか。

しかし今年、2011年を思い起こしてほしい。
大量生産・大量生産の天津神に対して国津神が怒り狂ったような大震災。
そしてフクシマが暴露したこの国の政治社会システムの欺瞞性。
2011年は明治維新、敗戦に匹敵する歴史的な年として記憶され記録される。

昨日、金正日が死亡したことも象徴的なできごとである。彼の父、金日成は満州の地で抗日パルチザンとして戦っていた。満州に絡んだ歴史がもうひとつ大きな転換点を迎えたような気がする。

来年、2012年は満州建国から80周年という節目の年だ。
還暦を迎える僕たちはその80年のうち60年を生きてきた。

今、この時点で父たちが経験した「協和」の理念を「協創する時代」に繋ぐことは「世の中のために働く」という旗印をあげたコンテキスターのミッションだと考える。

311で山河が破れて以来、国家や会社に依存するだけの生き方は限界が来ているように思える。これからは仲間と《協》力しあって、新しい時代を《創》造することが求められているのだ。
競争から協創へ。時代は急旋回している。

1945年の敗戦という《狂》乱の時を経て、《驚》異の戦後復興、団塊世代は《競》争を繰り返し、バブルという《饗》宴を演出し、そして311という《凶》事を経験して迎えようとしている2012年。

来年を《協》創する時代のスタートラインにするために僕たちは微力を尽くさなければならない。そして微力を美力にするためには《協》という漢字が持っている本質に寄り添う必要がある。

すなわち、力をあわせてひとまとめにすれば夢はかなう、ということである。
夢をかなえるための方策は必ずあるはずだ。


2011年11月20日日曜日

文脈日記(村楽ブランドことはじめ)


そして1年が終わろうとしている。
来年は辰年だ。つまり僕たち、ラスト・オキュパイド・チルドレン(LOC)は還暦を迎える。

1952年(昭和27年)、日米講和条約が締結される直前に生まれた「最後の占領された子供たち」が5回目の年男になるわけだ。
それは辰の落とし子が龍になる最後のチャンスかもしれない。
今、来日している国民総幸福の国、ブータンのワンチュク国王はフクシマを訪れてこう言った。

人の中には龍がいる。その龍は自分の内なる人格だ。
龍は経験を食べて育っていく。年を経るごとに龍は大きくなる。
みんな、自分の龍をコントロールすることが大切だ。

占領下の落とし子たちは、来年、還暦LOCドラゴンを制御しつつ世の中のために働きつづけることができるだろうか。

What’s Going On?
辰年がどうなっていくのかは分からない。
でも僕は僕のコンテキストを粛々と繋いでいくしかないのだろう。
村楽LLP、協創LLP、NPO法人英田上山棚田団のコンテキスターとして僕の龍が食べてきた経験を提供していこう。

村楽LLPは新しい展開を始めている。
農を超える農を展開する百商として村楽プロダクトのブランド化を開始した。



MERRY RICE、メリーライス。
メリープロジェクトのご協力で英田上山棚田米のマスコットパックをブランド化して販売することができた。

同志たちが丹精こめて育てたお米の周辺には限りない付加価値がある。
そのストーリーをまとって、僕たちのお米はメリーライスとなる。
7月の文脈日記、「自分のための百姓学」の後半に書いた「農を超える農」のメリーライスが今、現実に目の前にあるのは感動的な光景だ。
コンテキスターの妄想が、ずっしりと存在感のあるミニ米袋になっている。


メリーライスの製造から販売までには多くの仲間たちの力が結集されている。
上山棚田で水路掃除から畦塗り、田植えから草取り、稲刈りからはぜ干し、と汗を流した英田上山棚田団のエッセンスが、このマスコットパックには詰まっている。
そしてメリープロジェクトを推進している水谷孝次さんとバランスのいい米袋のデザインに注力してくれた柄本綾子さんの愛が詰まっている。
電光石火の早業でネット販売サイトを制作してくれた協創LLPの山ちゃんにも感謝だ。

どうか、このメリーライスの周辺価値を認めていただきたい。
この列島の農が農を超えて「超農力」を発揮するために。
そして子供たちの笑顔が未来永劫続くために。




地域おこし協力隊全国連合である「村楽LLP」のプロダクトをブランド化する方法論は、11月12日に美作市で開催された「村楽ガチ討論会」でも検討されている。
「デザイン×農業ブランディング」の分科会に参加した美作市地域おこし協力隊のかっちは言う。

村楽は全国に同志がいる。ということは日本列島の「旬」をブランド化することが可能なはずだ。地域差を文化としてブランド化する道はないだろうか。

村楽は地宝の塊だ。地方には地域の宝が詰まっている。
地宝は山彦と海彦の産物であり、後継者を求めている匠たちの知恵だ。
食べもの、工芸品、アート、技、そして生きる方法論そのものが地宝なのだ。

北から南まで長い列島には「旬」がある。「なう」がある。「旬」が連なる文脈がある。
311でずたずたに切断された「旬」の文脈を村楽としてブランド化していくこと。

そうすれば「旬」は季節の産物という意味合いを超えて「今を生きる」という付加価値を持つことができるかもしれない。

具体的にどう展開していけばいいのかはまだ分からない。コンテキスターひとりの力では無理だ。

だが、急がなくてはならない。うたかたのように消えようとしている地宝も多いはずだ。
映画「森聞き」に登場したカルコ登りの名人、杉本充さんの「これで終わりやな」という淋しそうな表情が忘れられない。杉本さんは吉野川上流、川上村の鮎釣り終焉も経験されている。

杉本充さん


「旬」をブランド化していくこと。そしてそのブランド・コミュニケーションをデザインしていくこと。
そのための基本的な方法論なら、僕の経験値で提供できそうだ。

まずは村楽ブランドの確立だ。「旬」ブランドの傘となるものを構築していく必要がある。これは傘だけにメリープロジェクト、笑顔の傘の力をまたお借りするかもしれない。

「村楽という生き方」に「旬」=「今をメリーに生きる」という付加価値を加えてブランド・ストーリーを展開してみたい。

傘=親ブランドができたら各地域の「今そこにあること」=事実(ファクト)の確認だ。
全国で「旬」ブランドの種を探していく。

メリーライスの場合は「英田上山棚田」というファクトがそこにあった。ファクトはブランドの種だ。

北海道平取町のトマト、二風谷のアイヌ産物、阿智村の清内路かぼちゃ、雲南市のホンモロコ、西粟倉の和紙、日名倉の山女魚、上北山村の虫おくり、大町の地酒、馬路村のゆず、鹿児島硫黄島の海岸露天風呂、全国の鹿肉などなど、すべての天地有情が村楽の子ブランドになる可能性を持っている。

清内路かぼちゃ


とここまでクリエーティブ・ディレクターが企画意図を書いて、営業がクライアントを見つけてくれば、あとはプロダクションのスタッフがなんとかしてくれるのが大手広告代理店の世界だった。

ところがコンテキスターの世界はちがう。
還暦LOCドラゴンの妄想が現実化するためには、村楽LLPメンバーである《自立した個の群れ》たちが知恵の物々交換をして、自分たちの力でものごとを前に進めていく必要がある。

僕たちには金融資本はない。でも豊かな自然資本と信頼資本はある。
同志の知恵がある。連帯がある。
そして知恵と連帯を拡散するソーシャルメディアがある。

自分がやりたいことをまず自分で突き詰めて、それを持続する志を持てば、「オモロイ」は「カタチ」になっていく。

小さな住民代理店は足腰の弱った内なる龍を叱咤激励しながら、そのお手伝いをしていこう。

2011年11月3日木曜日

里山研究庵 Nomad

ここのところ、また縁脈が拡がりつつある。
時代が新しい流れを切に求めているから、その流れが大きな河になりつつあるのかもしれない。

その潮流の中で、現在、台湾ロングステイ中の半農半X研究所/塩見直紀さんから、素晴らしいDVDをお借りした。

「四季・遊牧~ツェルゲルの人々」
ダイジェスト版(前・後編 2枚組 各1時間40分)
監督・撮影:小貫雅男
編集:伊藤恵子
発売元:里山研究庵 Nomad


1992年の秋から1年間、草原と遊牧の国、モンゴルで「地域おこし」を模索するツェルゲル村に住み込んで撮影された貴重な映像だ。

1989年にはベルリンの壁が崩壊している。その3年後、この地域社会にも旧体制からの脱却を志す動きが加速していた。
国と地域、管理と自立、という対立構造はイデオロギーを問わずこの星の緊急課題になっているようだ。

社会主義集団経営「ネグデル」から遊牧民協同組合「ホルショー」へ。
草原で太陽のリズムと山羊の生理とともに生きているノマドたちのトライアルが、小貫監督と伊藤女史の素朴な語りで綴られていく。

映像は荒削りながら、充分にモンゴルの叙情をとらえている。
だが、この映像のすばらしさは、自立を目指すストーリーを描ききった叙事にある。

そして、その叙事を語る伊藤女史も最初はチェルゲル村民から「わかもの、ばかもの、よそもの」扱いを受けていたのかもしれない。
しかしながら、この映像スタッフたちは大地と生きる村民に行動と意識をチューニングすることにより、見事なエンド・ロールを生み出した。

それがどんな「国家」であろうとも
この「地域」の願いを
圧し潰すことはできない。 
歴史がどんなに人間の思考を
顛倒(てんとう)させようとも
人々の思いを
圧し潰すことはできない。 
人が大地に生きる限り。 
春の日差しが
人々の思いが
やがて根雪を溶かし
「地域」の一つ一つが花開き
この地球を覆い尽くすとき
世界はかわる。 
人が大地に生きる限り。

この叙事詩は、この列島の「村楽」にもそのまま当てはまりそうだ。

原作の映像は三部作全6巻で7時間40分あるという。
このダイジェスト版は3時間20分だが、時間を忘れて見てしまう吸引力を持っている。

さて近いうちに里山研究庵 Nomad を訪問せねば。


《以下は2011729日に、フェースブックに書いた同じスタッフの本に関するノートです。
こちらにも再掲載しておきます


「菜園家族・山の学校」小貫雅男・伊藤恵子



またひとつ、すごいコンテキストに出会った。
「菜園家族・山の学校」

主宰、小貫雅男さんと研究員、伊藤恵子さんの共著だ。
とても薄いブックレットだが、コンテンツは詰まっている。
半農半X研究所の主任研究員、ボブ基風からもらった。

ニワカ百姓の僕は、今、身体を動かしつつ、共同体と地域と農に関する理論武装をしている。
「農を越える農」とは何か。「村楽」と「町楽」はいかにして連帯するか。
コンテキスターの課題は多い。
すべての文脈は通底しているはずだ。

里山研究庵は滋賀県、琵琶湖東岸に注ぎこむ犬上川の上流にある。
犬上川は30歳のとき、僕が始めてアマゴを釣った川だ。この水系にはよく通った。

「菜園家族・山の学校」は廃校になった保育園をベースにしているという。
くわしい内容は、WEBサイトにアクセスしてほしい。
このブックレットも販売している。

僕がこのノートで言いたいのは、「理論」と「実践」だ。
マルクス=エンゲルスは「共産党宣言」という薄っぺらい本でマルキシズムの理論を構築した。それは素晴らしい脚本だった。しかしながらその脚本を正しく演じる舞台も役者も監督も、結局のところ、この星には現れなかった。

というようなことを、かつて東ヨーロッパ上空を飛行しているときに、ある映像監督から示唆されたことがある。

小貫さんも同趣旨のことを言っている。

19世紀「社会主義」理論は、生産手段を社会的な規模で共同所有することによって、資本主義の矛盾を克服しようとします。 
しかし、20世紀に入ると、その実践課程において、人々を解放するどころか、かえって「個」と自由は抑圧され、「共生」が強制され、独裁強権的な中央集権化の道を辿ることになりました。
人類の壮大な理想への実験は、結局、挫折に終わったのです。そして、いまだにその挫折の本当の原因を突き止めることができず、新たなる未来社会論を見出せないまま、人類は今、海図なき時代に生きているのです。

小貫さんが里山研究庵で構築しようとしているのは、大量生産・大量消費の時代に終止符を打つ理論らしい。
自然循環型共生社会を経て、人類究極の夢である高度自然社会へと至る道を模索している、という。

311以降、その舌鋒は鋭くなっているのがWEBサイト上で見てとれる。
その実践のカタチがどうなっているのかは、犬上川に行ってみるのが一番早いだろう。

理論=コンテキスト=ストーリーと実践=経験=現場の両輪が噛み合っていけば、この国は確実に変わっていく。

国破れて山河なし どっこい菜園家族は生きてゆく

2011年10月25日火曜日

村楽と町楽「口より土だ」


この列島の歴史的転換点となった2011年も一気に年末になだれ込もうとしている。
311の直前に設立サミットを開催した村楽LLPも、今年の総決算に向けて動いている。

村楽のコンテキスターとしては、この時期にあらためて、「村楽」と「町楽」の文脈を整理しておきたい。来年から「村楽」は一気にブレイクしていく予感もするので。

村楽LLPとは、全国地域おこし協力隊連合である。
各地で活躍する地域おこし協力隊の経験値と知見、問題と解決を共有するネットワークだ。
そのコンセプトは以下に集約される。

みんなでMERRYな村づくり!
全国の地域おこし協力隊を中心にした生業(百商&百匠)づくりで、
村から私たちの未来に繋がる「百笑」をつくりだそう!
村楽LLPは地宝の可能性と未来を信じて現場で活動する同志を、
志縁サポートする有限責任事業組合です。

この組織はまさにオープンでフラットだ。
一点に集中する場所を持たないインターネットの申し子ともいえる。
今のところ代表と有志による役割分担が決められているだけで、リアルな事務所などは存在しない。

それでも「村楽」は燎原の火のごとく、全国にネットワークを拡大している。
このうねりが生じたのは、この組織が徹底した現場至上主義だからである。

上から指令が出て、末端の組織構成員が駒として動く、というような組織とは対極にあるのが村楽LLPである。

都市から地域に住民票を移して活動する地域おこし協力隊は、それぞれの現場でそれぞれのスタンスで活動を続けている。
そして、それぞれの問題がある。その問題は各現場にしか解決方法はない。
ただし悩みごとを村楽LLPにぶつけることによって解決の糸口を見つけることはできる。
facebook上で情報と本音のやりとりを行い、リアルな場で顔を合わせて真摯に話合う。
リアルとバーチャルのスパイラルが善循環しているのが、「村楽」の現状だ。

次のステップはヨコに繋がった現場の声をタテ割の行政に届けていくことだろう。

圧力団体ではなく、現場力を最大化する「発力団体」として。

現場の繋がりの根底には各地の土がある。
地域おこしのやりかたは様々なようだが、百商の生業は土に近いところで成り立っているのは間違いない。口で能書きだけをたれても繋がりは深化しない。

村楽の情報ネットワークでは、稲刈りの季節には、各地で刈った稲を天日干しする様子が伝わってくる。それぞれの土と風の薫りが伝わってくる。風土というのは、こういうことだったのだ。





一方、「町楽」のコンセプトは以下である。

太陽の光は町にも村にも平等に降り注ぎます。
メリーな志があれば、ビルの屋上でも 町を楽しむメリーファーミングは可能です。
町という漢字の中には「田」というパーツがありました。
町楽は、都会にも「村的楽しみ」を 提供します。
村楽と連帯した 土と町人(まちびと)のメリーな志が集まった空間が「町楽」です。

「村楽」は地方と地方の繋がりをつくるLLPという組織だ。
「町楽」は都市と地方の繋がりの基盤となる空間だ。

村から町に人が集まり、大量生産、大量消費を礼賛した時代は 確実に終わった。
かつての人の流れは逆転した。今や町が村にラブコールを送り、町は地域おこしを志す若者の供給源になっている。

村人と町人の関係が逆転しようとしている時代に、都市で生業を続けるのは大変なことだ。
そこに「町楽」という志が集まる空間が増えて、「村楽」とのコラボレーションが強化されていけば、「日本メリーランド計画」は一歩ずつ前進していくはずだ。



そして「町楽」においても重要なポイントはまずは土に触れることである。
現在、「町楽」のベースは六本木のMERRY GARDEN 屋上農園だ。
先日、ここで「村楽&町楽」収穫祭を実施したときも、参加メンバーがまずは土に触れることで空間の雰囲気ががらりと変わった。
土を通じて志が手から手に伝わっていく感覚を持ったのは僕だけだろうか。

町では口先だけで生きていくことも場合によっては可能である。
だが、町楽でも、まずは土に触れてほしい。

混迷を深めるこの列島には論客が輩出している。
その中にあって、駆け出しコンテキスターの僕は、村楽と町楽の文脈を繋ぐ上で確信していることがある。

口より土だ。

2011年10月6日木曜日

文脈日記(草莽の士、高橋公さん)


1970年4月、僕は早稲田大学に入学した。
そこに大先輩、ハムさんがいた。
早大全共闘、反戦連合のハムさんがいた。
現在はふるさと回帰支援センターの専務理事であり事務局長の高橋公さんだ。

高橋公さん、本名はひろしだ、ということをつい最近になって知った。
僕たちはみんな「公」の字からハムさんと呼んでいる。

ハムさんのことは忘れていた。
意識の奥深いところに押し込めていた、というのが正確な言い方だが。

ところが、昨年、電通を脱藩する直前に、「農村六起プロジェクト」の新聞広告で久しぶりにハムさんのお顔を見た。

農山漁村が抱える社会的課題を、1次、2次、3次産業を効果的に結合・融合した6次産業(1×2×3=6)によって解決していく。

菅原文太さんとの対談広告を見て、いつかハムさんと繋がるような気もしていた。


今年、綾部で田植えをしている頃、盟友、原田ボブに連れられて伊丹のフレンズという本屋さんに行った。
ここには「半農半X堂」という本屋の中の本屋がある。
半農半X研究所の塩見直紀さんの文脈に連なる本が並べられている棚のことだ。
その文脈棚を眺めて驚いた。
「高橋公」の「兵たちが夢の先」という本の背表紙が目に飛びこんできたのだ。


「おお、ハムさんの本や!」と僕は興奮して手に取った。
聞けば、塩見さんとハムさんは、一度、対談したことがあったらしく、塩見さん経由、ボブの推薦でこの本はここに存在したらしい。
脱藩してコンテキスターという勝手な職能を名乗り、さまざまな縁脈の渦に飛びこんでいるが、まさかこんなに早くハムさんにたどりつくとは思わなかった。

ハムさんは1947年生まれだ。まさに団塊の世代である。

僕とボブの重要なコンテキストにラスト・オキュパイド・チルドレンという世代論がある。
1952年4月28日、日本が占領国でなくなる直前に生まれた子供たち、という意味だ。LOCLast Occupied Children) は、団塊世代とは明らかに違っている。

ハムさんは僕にとって団塊世代の代表選手だ。
電通時代の36年間もさまざまな団塊に揉まれてきた。
が、ハムさんのような人は唯一無二だ。ハムさんはぶれない。

香川県立丸亀高校を卒業して、憧れの東京に出てきた18歳男子は早稲田のキャンパスにいる。正門の柱によじ登ってアジテーションをしている男が見える。それまで早稲田で出会った学生たちとは明らかに見た目がちがう。魚屋のお兄さんのようだ。

それがハムさんだった。
本の表紙、バルコニーの上で皮ジャンを着て微笑んでいる男だ。

アジ演の内容はまったく覚えていない。が、ハムさんが強烈なオーラを放っていたことだけは今でも鮮明に覚えている。

当時の早稲田大学には全共闘運動の最終ステージがかろうじてあった。70年安保闘争というものは、実質的には1969年に終わっていたのだ。
だが、ハムさんのファイティング・ポーズは田舎高校生が想像していた全共闘そのものだった。

丸亀高校の赤い応援団であった僕は、当然、デモに参加する。ただし、早稲田学内の諸事情など何も分からない。ただ、全共闘の残り香をかぐために「ノンセクト・ラジカル」の黒いヘルメットには憧れた。

ハムさんは当時の全共闘の必須アイテムであったヘルメットをあまり被らない人だった記憶がある。
70年の春、早稲田キャンパス内でヘルメットを被らずにデモしていた僕に、自分の黒ヘルをぽんとくれた人がいた。
僕の記憶の中では、それがハムさんであったような気がしてならない。以後、大学を卒業するまで、その黒ヘルは神田川近くの僕の下宿にあった。

大学を卒業してから、この時代のことは封印していた。
でも、一部の団塊世代とはちがって、LOCは燃え尽きていない。

「世の中のために働く」という夢想を持って動き出した時、全共闘のことはいつも頭の片隅にあった。オープンでフラットなタテ型ではない組織体とは全共闘の理想だったような気がする。

僕の「全共闘」は美化されすぎているのかもしれない。
1968年と1969年を実体験した人は、僕が「全共闘」を語るとこう言うだろう。

お前らみたいな「みそっかす」に全共闘の何が分かる、ゲバルトのひとつもしたことがないくせに。

そうなんです。ぼくたちラスト・オキュパイド・チルドレンにはあなたたちのやってきたことが分からない。だからこそ、皆さんに語ってほしいのです。

団塊にぶら下がっていた最後の世代は、ものごとの後始末をする義務がある、団塊文脈を整理整頓するミッションがある、と僕と原田ボブはよく話している。

もう脱藩して1年以上になったので、はっきり書くが、電通にも団塊=全共闘経験者はたくさんいたはずだ。企業戦士たちは黙して語らないが。

だが、ハムさんは語ってくれた。
「兵(つわもの)どもが夢の先」を読んで、僕は僕が入学する以前の早稲田で何が起こっていたのかをはじめて時系列で理解した。

こんなことがあった。
入学してすぐの頃、キャンパス内を歩いていた僕にすっと近づいてきた学生がいる。
彼は問う。
「君は反戦連合のシンパなのか?」
18歳の僕はとびきりの笑顔で答える。
「はい、そうです!」

その学生は憐れむような呆れたような表情で僕から去って行った。
もちろん彼は生え抜きの革マルだったのだろう。
あまりに無邪気なみそっかすはまったく相手にもされなかった。
もしも、当時の僕が早稲田大学内の政治状況をシビアーに理解していたら、こんな対応はできなかっただろう。

当時、僕は「早稲田大学出版事業研究会」というサークルに所属していた。
その出研の先輩たちから「兵(つわもの)たち」の話はよく聞いていた、と思う。

あの頃の僕は今より感受性が強かったはずだが、59歳になりハムさんの本に出会って、ようやくすべてが理解できた気がする。

ハムさんが僕の大先輩であることを塩見直紀さんにお話させていただいてから、不思議なことが起こった。

ハムさんから塩見さんに連絡があって、9月16日に大阪の「ふるさと回帰フェア」で塩見さんが基調講演をすることになったという。

もちろん、僕はハムさんに会いに行った。ハムさんの声を聞きに行った。


ハムさんと塩見さんはお二人とも、「妙に気が合う」と口にされている。
それもそのはずである。

お二人とも「草莽(そうもう)の士」なのだから。

草莽とは、「くさむら、田舎、民間、在野、世間」のこと、と大辞林にある。
草莽の志士とは幕末にあって、変革思想の先駆けとなりヨコのネットワークを構築して世の中を変えていった吉田松陰たちのことである。

塩見直紀さんと高橋公さん、くさむらの中から野火をあげた草莽の士たちの行動様式は311後の重要な指針になると思う。

ハムさんは反戦連合で政治運動をされていたわけではなかったのですね。
ハムさんは塩見さんが言うところのX探しをされていたわけですね。

多くの学生は、理論よりも時代の風潮や戦後社会の矛盾、管理社会の浸透やアメリカ一辺倒のやり方などに反発して全共闘に共鳴したのではないだろうか。言い方を変えれば、全共闘はイデオロギーではなく、行動様式こそが全共闘たるゆえんではないだろうか。  
「兵たちが夢の先」P67

現在、ハムさんは「認定NPO法人ふるさと回帰支援センター」でふるさと残しのための草莽ネットワークを模索されている。そして団塊世代へのアジテーションを続けている。

あれから四十年、時代が変わるかもしれないという予感を感じさせることが、この国には何回かあったように思う。しかし、我らが全共闘の諸君は黙して語らず。何か行動でも起こすのかと思ったが、結局何もなかった。ただ、各地で取り組まれている目新しい活動が起こると、そこにはかつての全共闘運動の経験者が活躍しているケースが多いことも確かだ。しかし、残念ながらそうした運動のネットワーク化はできていない。こうしたネットワークをつくるのが難しいのも事実だ。政治や政治党派によって一度は裏切られたり、だまされたりしている世代であるから、なかなか人を信用しない。まただまされるのではないか、と思ってしまうのだろう。だからといって沈黙を決め込むのは無責任だ。 
 「兵たちが夢の先」P210

今、僕がコンテキスターとして関わっている全国地域おこし協力隊連合=村楽LLP(有限責任事業組合)もまた、この国を変える草莽ネットワークのひとつになる可能性がある。

ふるさと回帰支援センター専務理事の高橋公さんと村楽LLP、微力ながらそのコンテキストを繋いでみよう。
ラスト・オキュパイド・チルドレンとして。

いまや日本という国が崩壊の瀬戸際に追い込まれているといっても過言ではない。二十一世紀に入った今こそ、これからの日本をどのような国として再生するのかを真剣に議論するときに来ていると考える。そのためにも歴史は語り継がれなければならないと思うのである。 
「兵たちが夢の先」P2

これは311後に書かれた文章ではない。2010年の盛夏に書かれたものだ。
ハムさんは、福島県相馬市の出身だ。
フクシマの山河が破れて以来、いまだにふるさとには帰っていないという。


ハムさんはこの本の序文でこう書いている。

あの四十年前の全共闘運動で亡くなられたり、あるいはその影響を受けることによって自らの命を絶った多くの仲間たちのご冥福をお祈りするとともに、この本が戦後の民主教育を受け、生き抜いてきた一人の団塊世代の記録として、国を憂い社会のために生きたいと思う、心ある草莽の士を自負される皆さんの明日に生きるなにがしかの糧になればと愚考する。 
 「兵たちが夢の先」P9

ハムさん、ありがとうございます。
ハムさんのメッセージは僕の明日への糧になりました。

僕自身はとても草莽の士とは言えないけれど、今、この列島には草莽から出て草莽の火付け人になっている志士たちが輩出しつつある。

その動きはもう止まらない。

2011年9月18日日曜日

後世への最大遺物


9月16日、一冊の本の初版が出た。
「後世への最大遺物・デンマルク国の話」内村鑑三。


岩波文庫の新装版だ。

半農半X研究所の塩見直紀さんのセミナーで必ず出てくる言葉がある。

我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か、事業か、思想か。

内村鑑三が33歳のときにした講演の言葉にインスパイアされて、塩見さんも33歳で会社を辞めて「半農半X」の伝道師になられた。

何度も塩見さんのセミナーを聞いて、この言葉は気になっていた。
が、内村鑑三の原典は読んだことがなかった。

たまたま今週、僕は札幌にいて北大=札幌農学校関連の観光もしていた。時計台、清華亭と回っていると、内村鑑三の表示をよく見た。彼は札幌農学校の第二期生だ。


そんなことがあって、昨日、ふるさと回帰フェア大阪で塩見さんのセミナーを聞いて、原典を読みたくなった。

そこで今日、紀伊國屋に行くとこの文庫が平積みされていた。
「新装版本日発売」というPOPとともに。

この種の情報縁脈炸裂時には即、アクションをするのが情報の善循環を呼び込むコツだと思う。

で、読みました。

明治という時代、坂の上の雲を目指した時代の人々の言葉は熱いですね。

前述の内村の言葉の後半をサマリーすれば、こうなる。

・・・何人にも遺し得る最大遺物・・・それは勇ましい高尚なる生涯である。

また、こんな美しい記述もある。

私に50年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。

もし内村が311後に、この国の原発村がやっていることを見たら、どのような言葉を発するだろうか。

北海道の行政の発祥は、開拓使である。
彼らのシンボルマークは北極星だ。若き行政マンたちは胸に星を抱いていた。


善くも悪くも、ひたすら星の指し示す方向に邁進できた明治初期と比べて、今、この国のカタチは木っ端微塵ではないだろうか。



内村の講演は以下の言葉で締められている。

われわれに後世に遺すべきものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞと覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを、後世の人に遺したいと思います。 (拍手喝采)

僕も僕の人生を終わる時、ほんの少しでいいから拍手がもらえたら本望だ。


2011年9月11日日曜日

ふたつの11を悼む

今日は911だ。あれから10年。そして311から半年だ。

2001年9月11日、僕は出張で東京のホテルにいた。2機目の飛行機がツインタワーに突っ込む映像を見た直後、当時、テキサス州フォートワースに留学していた息子に電話をした。
何が起こっているのか分からなかった。
とにかく連絡をくれ、とメッセージをしたものの連絡がとれたのは翌日だった。

幸い、南部の片田舎では何事もなかった。
その後、エアライン・フリークで空港に飛行機の写真をよく撮りにいっていた息子はFBIの訪問を受けたらしいが。

2011年3月11日の午後、僕はある人の原稿の校正をしていた。集中するために音楽を聞きながら。
知人からの電話で事態を知った直後、当時、東京にいた息子に電話した。

そしてテレビとツイッターに張りついた。息子の嫁は妊娠していた。
ツイッター上では312の時点で、フクシマ・メルトダウンの情報が流れていた。その情報はデマを流すな、とマスコミに叩かれていたが。
僕は息子の嫁に東京からの疎開を勧めた。そして孫は無事に大阪で生まれた。

このノートの主旨は新しい命の誕生ではない。
失われた命を悼む話だ。


小説のラストシーンを読んで泣いたのは久しぶりだった。
文庫版は2011年5月10日に発刊されている。

「その人は誰を愛しましたか、誰に愛されましたか、何をして人に感謝されましたか」

これは、死というもののひとつひとつをないがしろにせず、ただひたすらに悼む人、坂築静人の物語だ。

小説家は911の直後に、この物語の着想を得たらしい。
そして311に遭遇して、こんなコメントを述べている。

 「悼む人」という小説で、事件や事故で亡くなった人が誰を愛し、誰に愛されていたかを聞く旅を続ける静人という青年を描きました。 
彼がここにいたら、あまりに多くの死者にぼうぜんとしながらも、被災地へ行き一人ひとりに話を聞いて回ったと思います。 
 被災した方が健康な生活を送る環境を整えることはすぐにも必要です。ただつらい思いをした人を根底から支えるのは、大切な人が失われたことを私たちが忘れていないという姿勢であり、喪失をわかちあう静かな連帯感だと思います。 
被災していない私たちこそが変わっていく必要があるのです。つらい思いをしてきた人が隣にいるかも知れないと思って接するような社会。今とは異なる社会のあり方が浮かんでくるはずです。 
 静人の旅を考えたのは9・11テロと報復の連鎖の中でした。悼む人がいてくれれば怒りが増幅されることはなくなり、絆が生まれると信じます。私も目をそらさず、災害のつらい現実を見続けていこうと思います。 
2011/5/9 asahi.comからの転載)

311で失われた人は、死亡15781人、行方不明4086人。(9月10日現在)
ここには2万人の悼まれる人がいる。

この事実を2万人の死者が出たというとらえ方をせずに、ひとりの人が死ぬという事件が2万件起こったのだ、という見方をすれば本質が見えてくる。
そう言ったのは北野武監督だっただろうか。

911では2973人の「誰かを愛し誰かに愛され感謝された」命が失われた。
イラク戦争の民間人犠牲者は10万人以上という説もある。

そしてこの列島では、毎年、3万人の人が自死している。

今日は、この星のすべての人が悼む人になるべき日なのかもしれない。

合掌。

2011年9月9日金曜日

文脈日記(ガリをキル)

ジブリのアニメ映画「コクリコ坂から」を見た。

始まって間もない時に「ガリをキル」という台詞が出てきた。
不覚にもすぐに意味を理解できなかった。
僕の中に出てきたイメージは寿司屋のガリだった。なぜ、このシーンで
生姜を切らなければならないのかと、虚をつかれた。
そして次の瞬間、理解してあの懐かしいロウの匂いとガリの手応えが蘇ってきた。

それから先はもう駄目だった。
何でもないシーンで涙が流れてくる。


 ラスト・オキュパイド・チルドレンはこの種の映画に極端に弱いのだ。

僕は1952年の3月生まれだ。日本はこの年の4月28日までアメリカの占領国だった。
僕たちは最後の占領された子供たちなのだ。

盟友ボブがLOC(Last Occupied Children)、ロックとネーミングしてくれたこのテーマは田中文脈研究所の重要な研究課題だ。
僕たちは世代というコンテキストからは逃れられない。

この映画は1963年が舞台だ。LOC、団塊世代からさらに遡った敗戦直後に生まれた世代たちが主人公になっている。

「ガリをキル」話は、この映画においてはサブアイテムだ。
だが、コンテキスターとしてはガリ版印刷の文脈から、この映画を語ってみたい。
 ガリは僕たちの素敵なマイクロ・メディアだった。
団塊とLOCたちなら、必ず接触しているはずだ。

ガリ版印刷は1894年に堀井新次郎という人がエジソンの発明を換骨奪胎してつくりあげたらしい。近代日本の土くさい発明品のひとつだ。
このあたりのことは、津野梅太郎「小さなメディアの必要/ガリ版の話」からの受け売りだ。
この本は理想書店で電子書籍が無料で手に入る。




ガリをキル、とはロウの原紙を鉄板の上において、その上から鉄筆でがりがりと文字を刻んでいく作業だ。
できあがったガリはローラーで根気よく一枚ずつ印刷していく。コピーマシンというものが存在しない時代ではガリは唯一無二の印刷物メディアだった。

少女は少年のためにガリをキル。
少年は少女のためにガリをローラーでこする。
ガリ版刷りのビラは二人の思いをのせて空に舞う。

ちょっと相当、恥ずかしい描写をしてしまったが、この時代のコミュニケーション・デザインはシンプルだった。

さらに僕の涙腺を刺激したのは、このガリをキル現場だった。
「コクリコ坂」の町にある高校。その高校のカルチェ・ラタンと呼ばれる古い校舎。
文化部の男子学生たちの魔窟であり、取り壊しの危機が迫っている。
ガリ版という小さなメディアは、この建物の中で粛々と生産されていた。


僕の高校にもカルチェ・ラタンはあった。
香川県立丸亀高校記念館。1968年、ぎしぎしと鳴る廊下の上には混沌があった。

海と俊の高校と同じく、丸高の記念館にも文化部の部室がひしめいていた。
新聞部があり文芸部がありESSがあり、生徒会があった。
そして、僕らの「赤い応援団」があった。


この田中文脈研究所を主宰してから1年2ヶ月になるが、この間、いちばんアクセスが多いのが「丸亀高校」というエントリーだ。

映画「コクリコ坂から」は、7年の世代差を乗り越えて、もろに僕の丸高時代とシンクロしている。

「カルチェ・ラタン」という言葉も、その文脈を繋いでいる。
1968年、「神田カルチェ・ラタン闘争」の興奮を田舎の高校生である僕は、東京に行った先輩からの手紙で読んでいた。
また丸高記念館も1959年には取り壊しの話が出ていたらしいが、先輩諸氏の努力で部室として存続したとか。ここも映画と同じストーリーだ。

今年の正月に僕は丸亀で同窓会に出席した。卒業して41年間で2度目の同窓会出席だった。

現在の丸高の校長は僕たちの同窓生だったらしい。
彼の計らいで卒業以来、はじめて丸高の校内に入った。校舎は建て直すらしいが、丸亀高校記念館は健在だった。
ばかものたちの夢の跡は国の登録文化財になっており、当時よりもこぎれいになって僕たちを迎えてくれた。

さすがにガリ版印刷の機材は見当たらなかったが。


今、僕は小豆島フミメイ庵の再生を図っている。
取り残された大量の荷物の中に、僕の高校生時代の遺物もあった。

そこには、1968年の丸亀高校生徒会や文芸部のガリ版印刷物が現存しているのですね。
はてさて、これらをどうしたものか。文脈家の悩みはつきない。

来週は丸高同窓会番外編@札幌、そして早稲田大学の先輩にして団塊世代の代表、ふるさと回帰支援センターの専務理事、高橋公さんと会う。

そろそろ僕の関係と信頼を巡る冒険にラスト・オキュパイド・チルドレンの文脈研究をプラスしていく時期が来たようだ。

時は今だ。

2011年8月30日火曜日

文脈日記(地宝のお裾分け)

相変わらず走り回っている。
愛車、フミメイ号の走行距離は4年で6万4千キロ、この1年で3万キロ以上、走っている。さすがに傷だらけになってきた。
僕の身体も首肩腰が凝り固まっている。

どこへ走っているのか。山や川や森や田や海だ。つまり都会以外の方向性だ。
これらを総称してなんと呼べばいいのか、考えてしまう。

地方、地域、田舎、中山間地、村、様々な言葉があるが、どれも一面的な感じがする。
そういう意味では「村楽」というワーディングはよくできている。
行政区分としての村は市町村合併とやらで、方向音痴の僕には訳が分からなくなっているが、いわゆる村的地域に行けば、そこには楽しみがある。

何のために走っているのか、と聞かれたら「村的楽しみ」のお裾分けをいただきに参ります、としか答えようがない。

車と身体を痛めつけながら走っているのは、稼ぐためではない。
仕事か、と聞かれたら、「世の中のためにコンテキストを繋いでストーリーをつくる」仕事をしている、とちょっと照れながら答えることにしよう。
おかげさまで、コンテキスターという肩書きは僕周辺では浸透してきたようだ。

世の中の方が僕の動きをどう見ているのかを気にし始めると、思考が悪循環を始めて出口がなくなる。そこはペンディングにしておこう。別に見返りがほしいわけではないのだから。

還暦まであと半年になって、人混みの中に行くと人酔いしてしまう身になった僕は、しばらくこんな生活を続けていくのだろう。
なんといっても、「村的楽しみ」をお裾分けしてもらうのは楽しいことなのだから。

先日は岡山の西粟倉村にいた。ここは美作市との合併を拒否して純粋に村として存続している。
この村で、百年の森林事業の間伐に邁進するブルの背中には「森は地域の宝もの」というスローガンがあった。


地域の宝、地宝という言葉は田中優さんの本のタイトルでもある。
「村的楽しみ」は地域の知恵である地宝から生まれる。
村楽のお裾分けは地宝のお裾分けでもあるのだ。


西粟倉では川のお裾分けとして天然うなぎを食べさせてもらった。
また森のお裾分けとして百年の時の流れを感じながら吉野川源流まで散策させてもらった。
そして僕の個人的好みでいえば、この地方の地宝は素敵な水の流れる渓流だ。
渓流のお裾分けで天然アマゴを釣らせていただいた、というわけにはいかなかったが、久しぶりに泡の浮いていない川を見た。

惜しむらくは護岸工事だ。なぜ、ここまでコンクリートで川を固めなければいけないのか、それは公共工事のばらまきというやつだろう、と自問自答しながら眺める川に澄んだ水が粛々と流れていた。

地宝を見つけるためには、ないものねだりをやめる必要がある。あるもの探しから地宝は発掘されていくのだろう。
西粟倉では、森に豊富にあるミツマタから和紙アートをつくろうとしている若者と出会った。
森の産物を地域の中でブランド化して、消費者に直接送り届けようとしている「森の学校」も訪問した。

あるものを昇華させて、なかったものを創り出すのが地宝の善循環だ。
それは村楽的に言うならば、百商の生業(なりわい)づくりでもある。

この国の未来は都会にはない。
311で破れた山河を修復するためには、全国の村楽で生業を模索している人々の力がいる。

村楽LLPは、その力を結集するためにつくられた発力団体だ。

僕自身は、いまさらどこかの村楽に移住して地宝探しをするわけにもいかない。
現在、再生プロジェクト進行中の小豆島フミメイ庵が完成した暁には、海の地宝を楽しむため、釣り竿を持って長期滞在するかもしれないが。

それでも、自分自身の生業探しというものは一生、やり続ける必要がある。

村楽LLPメンバーとして地域おこし協力隊に協力するために、さまざまなコンテキストを書き連ねていくことは生業のレベルになるまでなんとか続けていきたい。
そうすることによって、孫たちの世代までなにかが残れば嬉しい。

ただ、人はPCの前だけでは生きていけない。やっぱり身体も動かす生業がなければ。
そういう意味では、夏場には鮎の一夜干しを生業にしたくてトライをしている。


ただし、この生業のためには、まずはおいしい鮎を釣らなくてはいけない。
そのためには、素敵な香りがする苔が生える川がなければいけない。
そんな川を持続可能にするためには、保水力がある森が必要だ。

やっぱり地宝を守る人々がいなくては、僕の目指すささやかな生業すら、成り立たない時代になっている。

すべては繋がっているのだ。