2010年6月30日水曜日

脱藩日

おはようございます。こちらは美しい朝です。会社人生最後の朝です。
と、今、Twitterでつぶやいた。

それからこのブログのエントリーを読み返す。田中文脈研究所のコンテキストがインターネットの大海に出て行くのだからお化粧を整えねば。7月のブログ公開までこの作業は続くだろう。と言ってももうほとんど時間はないが。

退職することに関してはまったく不安はない。あたりまえだ。このエントリーからブログを読み始めた皆さんはお手数ですが、5月14日まで遡ってください。そこから読んでいただいて、現時点で僕が「会社をやめるのが不安だ」などと言えるはずがない。言う気もない。

ただしブログを公開することに一抹の不安はある。自分のブログを生まれて初めて公開するのですよ。
今まで他人様のブログは山ほど見てきた。ネットの海で炎上する事例も知っている。消火作業の困難さも分かっている。

それがどうした、である。僕は会社を背負ってこのブログを公開するのではない。ひとりの社会人として自分の発言を公開できる場を持つのだ。

いまさらであるが、本当にD社にはお世話になった。おお、これからは「D社さん」と敬称をつけねば。
結婚できたのも、OKをいただいた仮編集ができたのもD社さんのおかげだ。

D社さんの悪口をあからさまに言うことは、今後も僕の無意識がブロックしていくことだろう。そんなことはありえない。

今まではD社人の規範に基づいて発言していた。そうすればD社人としてのバリアーの中で守られていた。これからはちがう。すべては自己責任だ。

天に向かって唾を吐けば自分に返ってくるのがネットの世界だ。
逆に言えば自己責任に基づき、自分に恥ずかしくない発言をすれば性善説は循環していくはずだ。

と僕は信じている。そう信じて、そろそろ会社に行く準備を始めよう。

(長い間)

会社の最終日はふわふわと浮いているような感覚だった。感傷に浸る間もなくあっという間に時間は過ぎていく。

先日の大送別会で目録をいただいたiPhone4の手続きも済ませた。久しぶりに手にしたアップルマークが嬉しい。予約に並んでくれた方に感謝します。

退職日には会社を一周して挨拶をするものらしい。では僕も、と思っていたのだが、結果的には中途半端なことになった。

会社メールを使って退職挨拶メールをBCCで送信するのに予想以上の時間を取られたからだ。
ありがたいことに一斉に返信をいただく。会社メールが使える時間は限られている。とにかくGmailに転送するしかない。

ようやくピンポイントで挨拶に行く。ふわふわした感覚が続いているので、階の認識を間違えて笑われる。元々、方向音痴なのですみません。

さらに曜日の認識もおかしくなる。明日は土曜日だろ、というおかしな発言をしてまた笑われる。自分的には明日は休日なのだが、世の中はちがう。あたりまえだ。

新しい健康保険証を受け取っていないと勘違いをして、大丈夫かいな、と笑われる。
大丈夫です。旅立ちの準備は万端です。そのはずです。

そして退社時間が近づいてくる。自分的にはクールに風のように去りたかった。だがしかし、やはり泣けてきた。

最後のフラッパーゲートを出る。そこに長い間いっしょに苦労してきたHさんが、たまたまいた。

「脱藩なう、脱藩なう」とうわごとのようにつぶやきながら、IDカードを返す。Hさんとハグする。泣けてくる。

僕の会社人生は終わった。

2010年6月29日火曜日

脱藩まで1日(縁脈)

ここのところ「縁脈」という言葉を多用している。文字どおり人と人との縁、繋がりという意味だ。類似辞典を引けば人脈という言葉がヒットするだろう。ただし「縁脈」は今のところ辞典には登録されていないようだ。

「縁脈」でググってみると「協創LLP」が、この言葉のオリジナルだと分かる。以下は協創サイトからの引用だ。

以前から『ご縁』だとか『人脈』だとか『人財』だとかいう言葉が世間でつかわれているとおもいます。これらの言葉を聴いていて思いました。だったら一緒にしてみたらどうだろうか、つまり『縁脈』なる発想。

縁脈というのはいい言葉だと思う。説明をしなくても直感的に意味を分かってもらえる。この言葉を生み出した「協創LLP」は面白い集団だ。僕は現時点で協創メンバーには会ったことがない。でも原田基風をつうじて、その存在を知った。そしてツイッターで縁脈が繋がっている。

LLPというのはLimited Liability Partnership の略だ。「有限責任事業組合」だ。法律的にすぐれた組織であると同時に、この国の閉塞状況を突破する可能性を秘めている新しい共同事業体だ。そして「協創」は同業種で形成されることの多いLLPの中にあって、異業種が有機的に繋がった集団である。弁護士や行政書士をはじめとする様々な職能が集まったソーシャル・キャピタルだ。

そして「協創LLP」はかなり過激なLLPだ。思い立ったことはすぐに実行に移す推進力を持っている。そのあたりのことはミクシィのコミュニティ・レポートを読むと激しく伝わってくる。身体を張っている。

協創LLPに対して僕がどう関わっていくのかはまだ未知数である。ただ縁脈という言葉を教えていただいた先達たちに何らかのお返しはしたいと考えている。できれば、協創メンバーの皆様と「知恵と知恵の物々交換」ができたら楽しいだろうな、と考えている。

楽しいことは正しいことなのだ。これも協創LLPからいただいた言葉だ。

僕は縁脈を求めて孤立を恐れない。

2010年6月28日月曜日

スコットランド、青い静寂

2003年の旅の記録。執筆は多分2003年10月頃。うーん、10年前の文章なのか。当時はブログも書いていなかったので読者は4人でした。新たに写真を入れてリニューアル。 そもそも田中文脈研究所のカバー写真はスコットランドのアイラ島で長男が撮影してくれたものです。 2013年10月3日追記。


そんな朝焼けは見たことがなかった。異様に透明度の高い空気が赤い光を透過している。鳥たちが飛び交う。今日もすばらしい天気のようだ。

2003年8月14日、ロンドン。午前5時。私は高層ホテルの窓辺に置いたバドワイザーごしに東の空を見ている。なぜかバドが冷蔵庫にあった。この部屋の前客はアメリカ人だったのかな、などと考えながら、少し酔っていた。

さきほど、息子はオランダに飛ぶためにルートン空港に向かった。私は少し身体と心の力が抜けた気分でぼんやりしている。この日の夕方には、私もヒースロー空港から飛び立つ。そして、2003年夏、8泊10日のスコットランドの旅は、終わりを告げる。

ロンドンという大都会は、つまらない街だ。というとロンドンに失礼かもしれない。なにしろ私にとってのロンドンは15年ほど前にヒースローでトランジットして以来、昨日と今日で24時間程度だ。昨日はスコットランドの北、インヴァネス空港からガトウィック空港に飛んできて、息子の洗濯につきあった。どこの観光地にも行っていない。時計塔ってどこにあるんだ。昨夜は何を食べたのだったか……。

旅の記憶は、ウィスキーの熟成に似ているのかもしれない。時間がたつにつれて、夾雑物が消えていき、本質だけが浮かびあがってくる。この旅のそれは、私の中でまだ充分、熟成されているとはいえない。だが何ヶ月かたった今、旅の遡行をこころみることは、私と息子にとって意味のあることだろう。


今回の旅は、突発的に始まった。初夏のある日、アメリカ留学から帰国していた息子とその両親は近くの和食屋で飲んでいた。

突然、息子が言う。長い夏休み、ヒマなのでヨーロッパにでも行って来るかな。すかさず、父親が反応する。おとうさんも連れて行け。半分、冗談のように始まったことが実現していくのが、うちの家族の特性である。足腰が軽いのだ。

昔は、家族でよく旅をした。父親の趣味で、大都会はほとんどパスしていく。オーストラリアに行ったときは、帰国便でどうしてもシドニーに寄らなければならなかった。家族全員、人と車の多さにくらくらした。

今回の旅も、息子の「ヨーロッパでも田舎の方がいい」というご託宣に父親としてネガティブはない。
ロードトリップとする。行き先は父親の好みで決める。レンタカーの運転は息子がする。英語も息子がしゃべる。費用は父親が負担する。えへん、エライだろう。(あたりまえだ)

こんなふうな取り決めでこの旅が動き始めた。どうしてスコットランドなのか、といわれたら、なりゆきで決めた、としか言いようがない。そこが田舎であることだけは確実だった。


昨夜は何を食べたのだったか……。旅の記憶は、また分かちがたく食い物と飲み物に結びつく。最後の夜は、しばらくジャパニーズが食えなくなる息子のためにロンドン市内の寿司屋を選んだ。

予想どおりの店。海外駐在の日本人ビジネスマンがたむろして、愚痴をこぼしている。世界の中の日本村の一典型だ。日本酒の種類はすばらしいが、こういう店はあまり好きではない。もちろん、団体客がコースメニューを食う店よりは百倍ましだが。そして、勘定は高い。これもこの種の店ではあたりまえのこと。

刺身をつまみながら、この旅のベスト・ディナーを思い出す。アイラ島、ボウモア村のシーサイド。The Harbour Inn のレストラン。ここの生牡蠣とムール貝は絶品ですぞ。生牡蠣はシングルモルトを垂らして味わってほしい。異常にジューシーな牡蠣エキスが浮き立ってくる。ムール貝はシンプルにスチームしたものがうまい。そうそう当店自慢のオリジナルブレッドもいけた。

8月9日の夜。この日は、珍しく雨模様で陰鬱な空だった。息子の体調が悪くあまりファインな日ではなかった。だが、このシーフード・ディナーはまちがいなく、このツアーの中でベストだった。

アイラ島の食い物はうまい。The Port Charlotte Hotel のブレックファーストは、Kippers、ニシンの薫製がいける。それから、スモークサーモンいりのスクランブルエッグ。サーモンの塩味が卵に絶妙にからむ。

The Machrie Hotel のラムステーキとハギス。羊は、そこら中を歩いているのでまずいはずがない。ハギスとはスコットランドの伝統料理で腸詰めソーセージの中身である。とても脂濃いバラバラのハンバーグといったら想像できるだろうか。

キーボードが動くままに文章をつづって行くとこのへんで当然、「イギリスの食い物まずい」談義になる。結論から言うと、世界中どこに行っても、まずいものはまずいのだ。そのへんで生きていそうなものを原住民ならぬ現住民が食べている食べ方で味わえば、まず問題はない。あの Fish&Chips だって近くの海で泳いでいる Haddock(鱈の一種らしい)で注文したら捨てたものではない。

とはいえ、予想できないことが起こるのも、旅のおもしろさだ。8月11日、スコットランド北部、アヴィモア村。The Boat Hotel のディナー。ここは、アイラ島を出て、フェリーで2時間、さらに3時間走ってたどり着いたところ。このホテルの名誉のために言っておくと、部屋の環境も従業員の態度もAAAにふさわしく快適なものであった。

しかし、である。前日までいたアイラ島のシーフードのうまさが忘れられず、私は当然のようにOyster を発注する。ところが、愛想のいいウェイトレスは、オイスターとはなんぞや?と答えてくる。怪訝な顔で、キッチンに問い合わせる。やがて、得意顔で帰ってくる。

OK、私どもはOyster の用意ができます。ほら、と出してきたお皿の上には、ムール貝。どうやら、キッチンの解釈では、Oyster とはシーフードの総称だったらしい。そのムール貝はアイラ島のものとは、似ても似つかぬぱさぱさの貝であった。

いろいろなところで Oyster を発注したが、このような対応をされたのは初めて。しかも、アイラ島の翌日だったので、よけいカルチャー・ショックを感じたものだ。食べ物の話は、これでおしまい。まずこれを書かないと落ちつかない。


さて、Islay Island アイラ島の話をしよう。今回の旅のメインテーマがアイラ島であったことはまちがいない。スコットランドの西岸沖の小さな小さな島、と言った方がロマンティックだが、本当は、淡路島くらい島だ。アイラ島のイメージは、アイレイ・ウィスキーとともにあった。シングル・モルト。しかもヨードチンキの味がする。磯臭い。でも癖になる。ボウモアとかラガブリンとかラフロイグとかのブランドは、ちょっと気取ったウィスキー飲みなら知っているはずだ。

アイラ島に行ってみたい。理由は、3つあった。

その1、田舎の中の田舎でありそうなこと。なにしろ、あの「地球の歩き方」にもアイラ島のガイドは載っていない。そもそも、この島の名前はアイレイではなく、アイラだそうな。

その2、ウィスキーとシーフードがうまそうで、フィッシングとゴルフが両方、楽しめそうだ。

その3、村上春樹がこの島のバイブルを書いている。「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」は、旅心を誘ってやまない。

私の場合、旅の目標が決まったら、徹底的に調べる癖がある。スコットランドのロードマップを買いあさる。デジタルおとんの本領発揮でネット検索をかける。カレドニアン・マクブレインというフェリー会社の時刻表を発見して、スケジュールが明確になる。アイラ島に渡るフェリーから逆算してすべての予定を組めばいいのだ。

実は、スケジュール設定で迷ったことがある。デジタルおとんはまた、ビートルズおとんでもあったのだ。私たちの世代は、ビートルズで英語を覚えた。今でも、アイ・ウォナ〜(I want to--)とかアイム・ゴンナ〜(I’m going to--)とかつい言ってしまいそうになる。そのビートルズの聖地といえば、リバプールである。イングランド北西部の港町。シングルモルトの聖地に行く前にこちらの聖地にも巡礼せねば。

こちらにもバイブルが存在する。郷土(ちなみにうどんの讃岐)の同輩、芦原すなおの「ビートルズ巡礼」である。本棚から探して再読する。実によく書けている本だ。よく書けすぎている。この本にしたがって、リバプールを訪れたとしても、これ以上の感動はしそうにない。すっかり追体験してしまった。行くのはやめよう。リバプール観光協会にとっては罪な本だ。そうなれば、ここは割り切ってスコットランドに徹しよう。イングランドとスコットランドは本来、別の国だし。

旅の全体像が見えてくる。おとんが決めたホテルに、息子がメールする。電話する。どんどん予約が取れていく。


アイラ島に行くには、2つの方法がある。スコットランド中南部の都市、グラスゴーからセスナで飛ぶか、西部のキンタイア半島からフェリーで渡るか。セスナはもちろん速いが、ロードトリップという趣旨に反する。それにしても、グラスゴーからキンタイア半島のケナクレイグまでは遠い。しかもそこから2時間フェリーに乗るのだ。ううむ、地図を眺めているうちに私はひらめいた。

島に行くには、島伝いに行けばいいのだ。キンタイア半島の東にアラン島という島がある。この島を経由していけば、近道だ。アラン島と言えば、ほとんどの人が「あのアラン・セーターで有名な」と問いかけてくる。ところが、セーターのアラン島はアイルランドの西岸にある島で、私たちが行ったアラン島とはまったく別だ。

ここは「地球の歩き方」に敬意を表して引用してみる。

アラン島は、スコットランドの縮図のような島だ。ハイランドとローランド、北と南が同居した風景は一見に値する。また、スコットランドでいちばん新しい蒸留所が存在する。

これは、面白そうだ。一泊してみよう。結果的には、アイラを見なければ、アランもすばらしい島だったと思う。グラスゴー市民の憩いの場というのもよく分かる。でも、アイラ島に比べたら、シングルモルトと日本産ウィスキーくらいのちがいがある。


では、アイラ島のすばらしさとは何か。いよいよ本題である。
息子によれば、「なんともいいあらわせない不思議な島」である。だが、なんともいいあらわせないことを表現するのが、モノ書きの仕事だ。私は別に専業モノ書きではないが、チャレンジしてみよう。

アイラ島には、ある種のエネルギーが存在する。それが旅人の気持ちに対してはたらきかけるのだ。そのエネルギーはプラスにははたらかない。マイナスにもはたらかない。ひたすら人々の気持ちをフラットにしていく。高揚でもなく下降でもなく、平衡感覚をとりもどす方向にはたらく。

別の言い方をしよう。アイラ島の空気に宿るスピリッチャルなものが、旅人に素直な心持ちとはなにかを思い出させてくれるのだ。スピリッチャルspiritualを日本語で表現したら霊的、とでもいうのだろうか。ただし、それは決して宗教的なものではない。

私たちはアイラ島に上陸してすぐに、ケルトクロスという遺跡を見に行った。遥かな昔、ケルト民族が残した石造りの巨大な十字架である。クリスチャンではない私たちでも、その場にたたずんだとたん、ドキッとするほどの静謐を感じた。

クロスが立っている。風が吹いている。周りを歩いてみる。小高い丘から海が見える。ただそれだけの風景が、ショッキングな平安とでもいうしかないものをもたらしている。


また、私たちはエレン港からボウモア村につながる15キロの直線道路を何度も走った。ここはイギリスでいちばん長い直線道路だそうだ。道の両側は何もない。見渡す限りの原野だ。車の背後には存在感のある静かさが広がる。

素直な心持ちとは、限りなく純化された日常に回帰すること、とも言える。

たとえば、こんな風景が展開する。島の西端、ナハバン村。海を見下ろす丘に白い家が映える美しい村だ。眼下の入り江で遊ぶ子供たちを見ながら、アイスクリームを食べる父と息子。その隣には、全盲で耳の聞こえない老犬がひなたぼっこをしている。空はどこまでも青い。

息子は、日本の母親に携帯電話している。DCカードの請求書がどうのこうのという話だ。目の前の風景に、そのあまりに日常的な会話がすんなりと溶けこんでいく。


ボウモア村のそばに眠たくなるほど美しい入り江がある。海岸にぽつんとベンチが置かれている。そこに半日、座って海を眺めていたら、大西洋の向こうにアメリカ大陸が見えるのかもしれない。


島にいくつもあるアイラ・モルトの蒸留所のうち、私がもっとも気に入ったのは、Ardbegアードベッグだ。アートディレクションを感じるモスグリーンの建物から、きわめてピートと磯の香りが強いシングル・モルト・ウィスキーが生まれている。

その蒸留所のアドバタイジングは、ジャック・ラッセル・テリヤ犬がキー・ヴィジュアルになっている。どうして犬なのかガイドに問いかけると、ある日蒸留所の入口に現れた犬が可愛かったからだ、と答える。海と風とその周辺にあるアイラ的日常を樽の中に蓄積して、ウィスキーが育っていく。


私たちがアイラ島に滞在したのは、8月8日から8月11日の3泊4日だ。予定では、2泊だったが、あんまり気持ちがよかったので1泊延長した。2泊は、スコットランドの典型的なゲストハウス、The PortCharlotte Hotelであった。予定外の1泊は、The Machrie Hotel、リンクスのクラブハウスだ。

リンクスというのは、海と陸がリンクする場所につくられたゴルフコースのこと。フラットで、あるがままに設計されている。アイラ島のリンクスは、ピートの原野である。このホテルの水はピートがとけこんでいて、茶褐色だ。

昼間は、フェアウェイにくっきりと自分の影を映して歩く。プレイではなく、歩く。リンクスに太刀打ちするには、まだ私の腕は甘すぎる。ボールの大量消費を招くだけだ。

日が暮れてからは、アードベッグ17年モルトを持って、1番ティーに上がる。澄み切った夜空の星と月に乾杯する。寝ていた息子も起こして乾杯する。無駄なモノをそぎ落としたアイラ的日常に乾杯する。


ここまで書いても、まだアイラ島の魅力をうまく伝えられた気がしない。しかたがない。先達の言葉をお借りしよう。

アイラは美しい島だ。家並みはこぎれいで、どの家の壁も見事に鮮やかな色に塗られている。きっと暇さえあればペンキを塗りなおしているのだろう。あてもなく通りを抜けて、ぶらぶらと散歩をしているだけで、こちらの心が少しずつ鎮まっていくのが感じられる。真っ白な鴎たちが、屋根の上や、煙突のてっぺんにとまって、じっと遠くをにらんでいる。省察と無意識のあいだに引かれた一線をにらんでいる。ときどき思い出したように飛び上がって、ひらりと強い風に乗る。

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』

かすかな風に音に聞きいるかのように、二人の間には沈黙の時間が流れていた。
「アイラ・アイテスという言葉を知っているか」
所長がそう訊いてきたのは、何杯目かのラフロイグを飲んでいるときであったか。
「アイテス……聞き慣れない言葉ですが」
私は思わず、そう訊き返していた。
「アイテスというのは病気のことだ。アイラ島に来た人間は皆この病気にかかり、立ち去りがたくなる。恋の病、アイラ熱とでも言ったらよいか。君もこの熱病に冒されつつある。(以下略)」

土屋守『スコットランド旅の物語』

またアイラ島に行ってみたい。息子もそう思っているはずだ。


アイラ島を出て、私たちはスコットランドを北上していく。2003年の夏、ヨーロッパは、というより地球は異常気象だった。猛暑がおそう。晴天が続く。私たちがアイラ島にいた8月10日にロンドンでは、観測史上最高の39℃を記録した。太陽が私たちの旅を歓迎してくれたことにしよう。

スコットランドといえば、夏でも肌寒くセーターを離せない国。陰鬱な雲が垂れ下がる国、というイメージがある。しかし、私たちのスコットランドはまったくちがった。毎日が晴天続き。青空の下にハイランドの絶景が描かれる。

車は、青いプジョー206。コンパクトカーだが、きびきびと走る。山々の連なりが風に流れる。眼下に複雑な輪郭をもつロッホ(Loch)、湖が広がる。ときどき古いキャッスルが見える。とある峠を登りきったパーキングに、目の前に迫る山々を眺める絶好のビュー・ポイントがあった。キャンピングチェアーがふたつ、仲良く並んでいる。老夫婦が座って読書をしている。読書するならインドアですればいいのに、と思う人は、日本的日常から抜けていない。

旅立ちの前に、知人からぜひ行ってみるようにと推薦された湖の周回道路を走ってみる。彼によると、何もなくてさみしさがたまらなく魅力的な場所だそうだ。だが、私たちが訪れたときはどこまでも空青く、水清く、ひたすらのどかで、感覚がちがう。少し異様なスコットランドを見たのだろうか。


ネス湖のほとり、インヴァネスに向かう途中で、私たちはアウトドア・アクティビティを楽しむ。乗馬トレッキング。しかも2時間、いちども馬から降りない。いささか退屈ではあったが。

クラガン・フィッシャリー&ゴルフコース。フライフィッシングとショートコース・ゴルフが一カ所でできる。日本では、反目状態にある川釣りとゴルフがスコットランドの日常では、あるがままにとけあっている。

そして、旅も終わりに近づく。ネス湖で何日ぶりかに日本語を聞いたところで、私たちのスコットランドは姿を消した。


旅の始まりは8月6日、ロンドン。午後5時。関西空港から飛んできた父親とダラスからシカゴ経由で飛んできた息子は、ヒースロー空港で待ち合わせた。

そのままロンドンからグラスゴーへ。1泊。グラスゴーでレンタカーを借りて、アラン島で1泊。キンタイア半島を経由して、アイラ島へ。3泊後、82号線を北上する。アヴィモア村に1泊。インヴァネスで1泊。最後は、ロンドンで1泊。

これが、スケジュールのすべてだ。たわいもない旅だ。それでも、旅の終わりはいつも憂鬱になる。

8月14日、ロンドン。午後3時30分。大英博物館で5時間、徘徊してヒースロー空港に向かう。ブラックキャブの運転手に、私はさっき息子と別れてきた、とつぶやく。

夜明け前からホテルの部屋で、旅の荷物軽量化作戦に取り組んだ息子は、父親といういちばん大きな荷物を下ろしてほっとしているかもしれない。

さあ、帰ろう。

参考文献

『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』村上春樹(平凡社)
『スコットランド旅の物語』土屋守(東京書籍)
『椎名誠シングルモルトウイスキーの旅』suntory.co.jp

脱藩まで2日(旅の準備)

いよいよ大詰めが近づいた。旅立ちの準備をしていこう。実務的にクールに卒業していくのが理想だ、と言いつつも感慨深いものはある。

概念としての旅の準備でもっとも大切なことは退職の事務処理と今後の生活設計だ。退職の事務処理に関しては懇切丁寧に説明していただき、迅速に済ませた。生活設計はしばらく無収入になるので支出を抑えていくしかない。ハローワークにも行かねば。

妻とはおかげさまで仲良くやっている、と勝手に思っている。
この1ヶ月は家にいる時間が長かった。左肩が動かないこともあるが、アウトドアよりもインドアライフの方が圧倒的に多かった。ほとんどPCの前に張り付いてデスクワークをしている。会社にいるときよりも長くデスクワークをしている気がする。家にいると当然、妻の友達が訪ねてくる。妻の方が友達が多いというのは冷厳な事実だ。
なので、なるべく邪魔をしないように部屋にこもるようにしている。コーヒーは自分で淹れられるようになったし。

家事手伝いはデスクワークが忙しくてさぼっている。今のところ妻も見て見ぬふりをしてくれているようだ。調理師学校に行くまでは見逃してくれるのか。そんな甘いことはないだろうな。

脱藩日に備えて会社からもらったチェック・シートを再点検する。どうやら忘れていることはないようだ。ただ、送別会は結局7月に回してもらったものが大阪で5回、東京で1回残っている。
7月になっても僕はどこにも行かない。精神的には相当変化すると思う。が、物理的にはしばらく箕面の家周辺から動かない。家周辺の中には坂出と小豆島も含まれるが。送別会が7月になっても問題はない。

退職記念に旅に出ます、放浪の旅に出ます。というのも魅力的なオプションだ。いつかはそういう旅にリアルに出てみたい。でも僕にはまだ早い気がする。

58年も生きてきたら、けっこう旅には行った。仕事とプライベートの両方で。CMの海外ロケも多かった。いずれも印象的で激しいロケだった。家族で海外にもよく行っていた時期がある。それらの旅を文脈化するのもコンテキスターのミッションなのだが、すこし時間が掛かるだろう。

まずは長男と二人でスコットランドに行ったときの記録を、この後にエントリーしておきます。まちがいなく自分史上、最高の旅だったので。

ちなみに田中文脈研究所のタイトル写真はスコットランドのアイラ島です。大西洋を見つめる僕を長男が切り取ってくれた。

2010年6月27日日曜日

小説「流れる」イントロ

【第一部は脱稿。現在第二部執筆中】未発表 奈良県吉野川川上村へのオマージュ

第一部 1993年

流介は、夜明けが好きだ。ジープ・チェロキーのアクセルを、めいっぱい踏みこむ。四千馬力のエンジンが心地よい唸りをあげて、真っ赤なボディが森を駆け抜ける。

透明な空気が流れる。生命が蘇る瞬間だ。河原流介は鮎師だ。六月から九月まで夏場のほとんどを鮎の川で過ごす。鮎の友釣り、この熱病を患ってから五年になる。川の石につく苔を一日中、食みまくる鮎の習性を見てこんな技法を発案した者を恨みたくなるほど、この釣りは面白い。

鮎は石についた苔しか食わない。美味しい苔のついている一等地の石の周りに自分の縄張りを持って、侵入してくる他所者の鮎を激しく追う。鮎師は縄張り鮎がいるポイントを見つけて、長い竿でコントロールしたオトリ鮎を近づける。野生の鮎が自らの餌場を守る執念はすさまじいもので、たちまち侵入者に体当たりをくわせる。その瞬間、オトリ鮎にセットされた掛け鉤で鮎を釣るのが友釣りだ。だからこの釣りは、友釣りではなく「喧嘩釣り」といった方があたっている。

「さーて、今年は、どんなシーズンになることやら」流介はつぶやく。六月一日は、鮎師の元日だ。今日の解禁日のために、流介は、デジタル・アートディレクターとしての仕事を整理した。オフィスのマッキントッシュには、秋まで、ひたすら川狂いをしても、あまりある情報をたたきこんである。新しいコンピュータ・グラフィックス・パターンのデータを小出しにしていくだけで、年収は確保できる見通しだ。

「時は今。いざ釣らんかな。鮎は愛。愛は河原に宿りたまう」でたらめな歌を口ずさんでいるとき、電話が鳴った。流介のチェロキーには電話とファックスがついている。夏中、気ままな生活をしている流介の必需品だ。

「流介、遅い、今どこだ」しわがれ声が受話器から飛びこんできた。「あっ、師匠。すみません。夕べちょっと遅かったもんで」

「女か」ぶっきらぼうに応対するのは、流介を鮎釣りの世界に引っ張りこんだ玉山秀次だ。「解禁前夜にそんな余裕あるわけないでしょう。ひと夏、鮎にのめりこむために、パソコンとにらめっこですよ」 「何でもいいが待ちきれん。蜂の巣ポイント、双子岩だ」それだけ言うと電話は切れた。

「師匠、気合い入ってるなあ」厳しいカーブが連続する林道を疾走しながら、流介の心も川に飛んだ。 玉山が電話をかけてきた杉山オトリ店まであと十五分。入漁券とオトリを仕入れて、指定された場所まで三十分。その間に師匠は五尾くらい掛けているだろう。

こいつは解禁日から厳しい勝負になりそうだぜ、と気持ちを引きしめた瞬間、バックミラーに飛びこんできた黒い車が、ブラインドカーブで追い越しをかけた。鋭いエアホーンをあびせながら追い抜いていったのはフルサイズのランドクルーザーだ。

解禁日には気持ちが焦る。他人よりちょっとでも早く良いポイントに入った者には、釣果が約束されているからだ。解禁日の鮎は、まだスレてなく、オトリ鮎が自分の縄張りに入ってくれば、必ず激しい追いを見せる。しかし、ポイントの選択を間違うと多くの人出のために移動もままならず、不本意な結果に終わることがある。

それにしても、解禁日から事故ったらどうしようもないだろうが、あの馬鹿。ブラインドカーブで追い越しをかけるのは、想像力がない証拠だぜ。

杉山オトリ店は、香美川の入漁券とオトリ鮎を求める鮎師でごった返していた。解禁日の興奮を楽しむ彼らの中にあって、長身に銀色のヴェストを着こなした流介の姿は、際だってスマートである。髪を後ろに束ねたその顔色はもう夏のものだ。

「流ちゃん、ええ友、持って行きや」流介を見つけた杉山のおっちゃんが声をかけてくる。鮎師はオトリ鮎のことを友と呼ぶ。その日の釣果を左右するのは最初のオトリだから、鮎師は誰でも、友の選択には慎重だ。

「おっちゃん、今年もお世話になります」  流介は笑顔で挨拶した。杉山が選んでくれた元気のいい友を二尾、オトリ缶に入れて、すぐにエアーポンプをセットする。「流ちゃん、今シーズンの目標は?」杉山が、友を鮎師に渡す手を休めずにたずねる。「目標千五百尾!」 と言いたいけど、自分で納得できる釣りができればいいよ」 「またまた、ええ子ぶってからに。ほんまは、今年こそ師匠を追い抜いて、リバーラン・カップの優勝、狙とんやろ」杉山の言葉にちょっと照れたような微笑みを返して、流介はジープ・チェロキーに乗りこんだ。

禁漁期の渓流師のために 「つりかげ-わが渓わが人生」(山本素石著)

【某同人誌のための書評】1993年頃?未発表。

山本素石(やまもとそせき)を知らない渓流師はもぐりである。わが国の渓流釣りの大先達として、素石は偉大な足跡を残している。渓流釣りとは、いわゆる川釣りの中でも、最も源流部で、最も釣りにくく、最も美しく、最もおいしい渓魚達、イワナ、アマゴ、ヤマメを狙う釣りだ。

山本素石に言わせればこの釣り以外のフィッシングゲームは思想も精神も伴わぬ魚との勝負事に過ぎないということになる。

素石は、全国の山河を彷徨して、渓流釣りに関する著作を数多く著した。渓流釣りを志す人は、何らかのかたちで彼の文章に接しているはずである。それほど、素石の技術論と釣場紹介は、多くのハウツー本のネタになっている。

しかし素石の真骨頂は、渓流師の心情論にある。憂愁とユーモアとリリシズムを餌に男たちの心を針に掛ける文体(スタイル)にある。そして、この「つりかげ」は、その文体の集大成といえるだろう。

「釣り師は心にどこか傷を負っているが自分でそれに気がついていない」という名言がある。その心の傷が何であるかを探すために、渓流師は今日も山の奥深く入っていくのだが、その心の振幅を山本素石ほど、正確に表現できた者は空前絶後だ。

この本には戦後すぐ、国破れて山河があった頃の日本の山里と、彼自身の心身の旅立ちが活写されている。この物語に登場する素石は、26才から35才の多感な青年だ。

素石は言う。

「野面にかげろうの立つ春が来ると、人は浮かれ出すと言うが、それは悲哀を知らぬ半ばの人なのであろう。晩春になると、物憂さが勝って、何とない旅心を誘うのも一般である。春愁というのだろう。(中略)朔風が梢に満ちる清明の疎林、碧い中空に抜き出る残雪の嶺、細雨に烟る草屋根の村里、黄金に波打つ麦畑、うらさびた漁村、月の浜辺、すすきの原野、遠い山波、落葉の山路、山峡の炊煙、峠の白雲…。そうした風景が、常に私の旅の心象にはある。身近な死者の面影は、行く先々のどんな風景の中にも宿っていた」

絵に描いたような、憂愁だ。その釣りの特性から渓流師は孤独な影を背負うが、素石のそれは、特製の極め付けのものだったらしい。渓流釣りは、ほとんど山歩きである。賢い渓魚は人の気配に敏感で、同じ場所で何匹も釣れることは希である。あの大岩の向こう、その崖の先、と渓流師は、大物のポイントを求めて歩き続ける。そして、一日歩き続けた果てに、魚籃(びく)の中には笹の葉だけというのもよくあることである。

そういう釣りを好む者は、いきおい求道者の体をなしてくる。

「一人旅というものは、やりかけると癖になる。日常の人間関係の中では満たされぬものが旅先にはあって、既成の生活の枠組みに位置づけられた自分の殻を抜ける解放感と、素肌で世間にふれてまわる好奇のたのしみがある反面、オドオドした緊張感が絶えず背中にへばりついている」と語る素石が旅をした戦後の混乱期には、この釣りをする求道者は少なく、彼の姿は、相当、女心をくすぐったらしい。

釣師本来の釣欲と憂愁と、その上、女の影まで引きずり、素石の旅は、ますます陰影の濃いものとなっていく。

道を求める者が、一瞬にして解放されるのは、勿論あの時だ。
「会心の手ごたえは胸の痞えが一気におりるような、集約した官能の放出を覚えさせる妙がある」と素石が感じ、釣師なら誰でも納得できるあの時、魚が掛かったアタリの瞬間だ。

その一瞬、釣師の頭の中の魑魅魍魎は、はじけ飛ぶ。釣師が、無念無想だなんてのは、まるっきりの嘘だ。釣師の頭の中では、さぁ釣るぞ、なぜ釣れぬ、どうして釣るか、まだか、まだか、まだか…とイライラの羽虫がぶんぶんうなっている。それでも釣師が一日飽きもせず竿を振るのは、その一瞬がいつ釣師を直撃するか分からないからだ。

その至福の時を、素石は緻密な筆致でこう表現する。

「岩の上を走る道糸の白い目印がツと横に走ったとき、垂れ下がった樹の枝をさけて斜めに竿先を撥ねると、黒い岩の狭間に銀色の魚体がひるがえって、川下の方へ矢のように疾走した。竿が激しく絞り込まれて、張りつめた糸のさきにキラキラと銀鱗が光る。八寸級のヤマメだ。あの黒い岩盤の隙間の、どこにこの白銀の魚体が潜んでいたのか。顎にかかった鉤を外そうとして、ヤマメはさまざまな姿態で反転した。うるしを引いたような黒い岩の上で、銀色に光ったり、白い条を描いたりして狂い回るダイナミックな輪舞を見ると、抜きあげてしまうのが惜しいような気がして、私は竿をたわめたまましばらく目を奪われた」

そして、渓流師は釣り上げたばかりの輝く渓魚に見惚れて、誰もいない谷で哄笑したりするのだ。

この「つりかげ」という本は、渓流師の心情を余すところなく表現してくれているが、一方で山本素石という一人の青年の人間関係論でもある。師との出会い、山人との交流、結婚、子供、母、そして恋。戦後の混乱期を舞台に多彩な人間模様が描かれる。彼にとって、渓魚との間合の取り方と同時にホモ・サピエンスとの距離感をも学習した日々なのであろう。

素石がこの本を出版したのは、1980年、61歳のときである。彼自身が後書きに書いているように、原体験を対象化するには25年の歳月が必要だった。彼は「つりかげ」の後にも先にも多くの著作を著すが、この本ほど濃密で赤裸々な人間関係を描いたものはない。他の単行本にふれる余裕はないが、最近、村起こしとやらで話題になる謎の蛇を「ツチノコ」という一般名称にしたのも、彼の業績の一つだということは覚えていてほしい。

山本素石、この希代の天才釣師文学者は「つりかげ」から8年後、享年69才で逝った。「川立ちは川に果てる」という諺どおりにはいかなかったようだが、その辞世は病院のベッドで昏睡状態のまま呟いた「ここから川が見えるか。川が見たいんや」という一言であったという。

この「つりかげ」、釣りに興味がある人は勿論、興味のない人も是非、読んでほしい。単行本は1984年にアテネ書房から発行されたが、最近PHP文庫にも収録されて手にはいりやすくなった。

これは、600 円で体験できる魂の遍路である。

鮎釣り経済学

『釣場速報』' 92/10/09掲載

暑い夏を走り抜けた鮎師の皆さん、今年の釣果は、いかがでしたか。サラリーマン鮎師の我々としては、どうやって釣行回数を増やし、1匹でも多く釣るかということに頭を悩ませ続けた夏でした。

釣行回数が増えるのはいいのですが、それに伴い出費のほうも増えていきます。鮎師の妻たちは、一家を支える男の狂乱ぶりに、思わず預金通帳を握りしめるひと夏でございました。

いったい我々は、1匹当たりいくらで鮎を釣っておるのか、平均的サラリーマン鮎師の私の場合を例にとって概算してみましょう。

まずは、竿先の計算です。今年の私は、百%金属糸を使用しました。4メートルで、鼻カン、掛け針等を含めますと竿先の合計は、約1500円というところでしょうか。その仕掛けの先につく友鮎は、500 円。つまり私の竿先には、常に2000円が、ぶら下がっているわけです。高切れ、根掛りなどしようものならその損失は、少なからぬものがあります。

今年の総匹数は、242 匹。20匹に一度仕掛けを変えたとして、1500×12=18000 、針はもっと頻繁に交換しているので仕掛け費は、20000 円と見積もっておきましょう。 そして、今年の釣行回数は、20回。平均走行距離を250 キロとして、5000キロ。リッター6、5 キロしか走らない車で、ガス代を@123 円として約95000 円。高速料金がどう少なく見積もっても、35000 円。

さらに、鑑札代。年券は、吉野川川上村と美山、20000 円なり。今年竿を出した日は、27日。そのうち、川上と美山以外が、13日。日券が、平均3000円として、39000 円。

エーイまだあるぞ。オトリが約40匹、20000 円。もう一声、宿泊費が、56000 円だ!

仕掛け  20000
ガス 95000
高速 35000
鑑札 59000
オトリ 20000
宿泊費 56000
計 285000

この経費は、全体に安めになっております。それは、この拙文を読む妻の目をかなり意識しているからです。

285000(総経費)÷242(総匹数)=1178円です!

この1178円が高いか安いかは、私には判断がつきません。

ただ言えることは、ひと夏、せせらぎの音に身を任せ、フィトンチッドに包まれ、ストレスを川に流し続けて、242 匹の天然鮎が、わが家族とわが近所の胃袋に収まり、おいしい酒を呑み、釣友と語り、川で出会った鮎師達の笑顔を胸に収めて、川遊びをする子供たちの笑い声を耳に残して、『あ~今年もいい夏だった』と心からそう思える秋を迎えたということです。

さて、来年は、1匹いくらの鮎になりますことやら。願わくば、1000円以下の鮎にしたいものです。そのためには、もっと腕を磨いて、もっと一日の数を伸ばさなくては。何せ、釣行回数を減らす気は、全くございませんので…。ごめんなさい、お母ちゃん。

山河有塵

『釣場速報』' 92/05/01号掲載

それにしても、岩魚というのはしたたかな魚だと思う。少々、濁っていようがゴミが多いところであろうが、しっかりと生き抜いている。滋賀県高時川水系、四月十一日。まだ寒い。骨酒が飲みたくて、今日は岩魚ねらいである。またまた雨が降っている。

北陸道木之本インターから丹生、管並を経て高時川本流沿いを溯る。まず、印象に残るのは川原の汚さである。いたる所にゴミが落ちている。そのうえ、ずいぶん山深いところに来ているのに水は澄んでこない。

大先達、山本素石さんは、『山河有情』と言う色紙を残されているが、これでは『山河有塵』である。川をゴミ捨て場と勘違いしている人が多いのには呆れる。

それでも岩魚は出た。まず、鷲見と半明間で二十センチが二匹。釣友は二三センチと十八センチ。ただし朱点がない。帰宅後、「西日本の山釣り」(山本素石著/釣りの友社)をひもとくと、この水系の岩魚は「色は甚だ悪い」と書いてあった。なるほど。

岩魚の色は悪くても、河原は春の色だ。山野草が咲き始めた。ゴミが多い割には自然が色濃く残っている不思議な川だ。黄色いミヤマキケマン、白いニリンソウ、赤いイカリソウ、そしてワサビ。駆け出し者のネイティブ・ウオッチャーにもそれくらいには分かる。

中河内でR365に出てさらに北上する。ついでに余呉高原スキー場、今庄365スキー場と冬場の遊びのために下見する。私も、釣友もスキーは、たしなむので新しいスキー場ができるのは歓迎するが、そのために北国街道沿いの川は、ますます濁ってくる。まぁ、ゴルフ場ができるよりはましか。

結局、日野川の上流で竿を出すことにする。やはり水はきれいとは言い難い。それでも、かろうじてキープサイズを二人で三匹ずつ。骨酒の素は確保したということで満足して今庄インターから帰宅の途についた。

それにしても、川のゴミと春の長雨と名神の渋滞、何とかならぬか。

神童子谷始末記

『釣場速報』' 92/04/10号掲載

「気をつけろ!」と釣友の声が聞こえたときは遅かった。ガタガタときて、激しくエアーの抜ける音がする。バースト、しかもダブルだ。谷を怖がるあまり、山側により過ぎて落石と接触してしまった。左の前輪と後輪のサイドが気持ちいいくらい見事に裂けている。 三月二十一日早朝、もう少しで夜が明け切る頃の出来事だ。

 「そろそろ綺麗なアマゴを釣ろうや」と言う釣友の誘いに乗って、選んだのが天川水系、神童子谷であった。昨年三月、釣友は赤鍋ノ滝上流まで釣り上り、二十五センチクラスを十五匹ほど堪能したらしい。久々に見つけた桃源郷をお前にも味合わせてやりたい、と興奮した釣友とともに私がこの谷を初めて訪れたのは昨年四月の事。しかし、このときは車止めに先行者がいて、入渓をあきらめた。

  そして、この日が満を持しての再挑戦のはずだった。小雨が降る絶好のアマゴ日和、間違いなく一番乗りということで、思わずアクセルに力が入ってしまった。しばし茫然としていた二人であったが、気を取り直して修理に取りかかる。しかし、一輪をスペアーに変えたのはともかく、指が二本入る傷にタイヤファンドが効く訳もなく、冷たい雨の中、とぼとぼと山道を降りる羽目になった。いくらス-パー4WDでもタイヤが無くっちゃ走れない。傾いたまま置き去りにする愛車を見ながら不注意な運転を反省することしきりであった。

さて、みたらい食堂のご主人、中山自動車と川合のモービルGSの皆さん、本当にありがとうございました。おかげさまで予想よりも、よっぽど早く戦線に復帰できました。一時は車を捨ててバスで大阪まで変えることを覚悟しておりました。

性懲りもなく神童子谷、沢又をめざして走る釣りバカ二人、今は崩れ果てた遊歩道の入口についたのは、昼前だった。私にとっては、念願の桃源郷、ダブルバーストの悪夢は忘れて気合いを入れ直す。トガ淵を越えるまでに私も釣友も二十五センチを一匹ずつ。これが神童子谷の実力だ、などとうそぶきつつ水量が増えた、へっついさん(両側から崖が迫る難所の名称)をこわごわ越える。朝からの雨はこの頃には吹雪に変わっていた。

問題は赤鍋ノ滝の高巻である。濡れて滑りやすく、迷いやすいルートを釣友の後からついていく。久々の本気の谷行きに緊張する。一直線に滝壺が見えるポイントは下を見ずに通過する。ようやく、高巻を終えようとしたとき、同じルートを下ってくる先行者に会った。聞けば、ノウナシ谷に一人で入っていたが、吹雪のため引き返してきたとのこと。大した釣果は無かったようだ。

少々がっかりしながらも河原に降りて、仕掛けを再セットしようとしたとき、またトラブルである。穂先のリリアンがとれている。予備の竿はない。残念、ここまで来て釣れない。なんてこった。
仕方がないので釣友だけに奥へ行ってもらう。河原で待つしかない。まあいいや、朝からいろいろあったことだし、ここはひとつ、のんびりと…などと余裕があったのは、三十分ぐらいか。釣り始めたのが遅かったせいもあって、次第に暗くなってくる。吹雪は強くなってくる。寒い。心細い。

動物園の白熊のように狭い河原をうろうろする。呼び子の笛を吹きまくる。ようやく釣友の姿が見えたときには、心底ほっとした。さすがは我が師匠、十八センチを二匹は確保していた。ただし、彼のほうも残した私が気になって、集中力に欠けたとのこと。

渓流釣りを始めて十年、この日ほどいろいろなことを経験したのは、珍しい。川合のかつら館に着いたときはさすがにほっとした。

それでも、翌二十二日、九尾谷、五色谷、山上川上流、小泉川、千本谷、天の川本流の中庵住、と走り回り、かろうじて数匹のアマゴを手にし、テンカラのお稽古までしたのは、よーやるわとしか言いようがない二人組でした。

脱藩まで3日(釣りの準備)

そろそろ文脈研究所のカテゴリーを整備していこう。
釣文(ちょうぶん)というカテゴリーがある。これは釣りに関するコンテキストをぼちぼちと書いていきたいと思っていたのだ。

僕は30歳で釣りを始めた。讃岐育ちで瀬戸内海はすぐそばにあったのに釣りはしたことがなかった。最初の子供が男の子だと分かったときにその子とどうやって遊べばいいのか、と考えた。

父と息子の遊びといえば、定番はキャッチボールだ。ところが僕は小さい頃から極度の近視で野球は苦手だった。今でもまともにボールを投げることができない。ならば、釣りをすればいいのだ、とここでも僕の短絡志向が発揮された。

そして師匠を探した。すぐそばにいた。D社同期のFさんだ。
師匠は山釣りの人だった。渓流のアマゴと鮎に関してはプロだった。さっそく弟子入りした。不肖の弟子だった。なにしろ当時はアウトドアの経験値が絶対的に少なかった。

ご迷惑ばかりかけてすみませんでした。
おかげさまで父と息子の対話はうまくいきました、と言いたいところだが少しちがう。父は息子をほったらかしにして、この遊びに夢中になったのだ。

渓流に関しては体力の衰えとともに回数は極端に減った。天然のアマゴとイワナを狙うのはほとんど山登りと同じ世界なのだ。鮎釣りは一時、ゴルフに浮気をしたが、今も行きたくてしかたがない。

僕に鮎釣りのことを聞いてくる皆さんには、鮎釣りに手をだすのだけはやめた方がいいと伝えている。それほどこの釣りは面白い。どこが面白いかというと、「いのちでいのちで操ることだ」と答える。

鮎釣りの基本は友釣りだ。9メーターの竿でオトリ鮎を操縦して縄張りを持っている野鮎に近づける。野鮎は怒って喧嘩を売ってくる。オトリ鮎の尾の先についた針に掛かる。2尾の鮎が流れに乗って疾走する。ああ、たまらない。

鮎釣りのことを書いているときりがないので、ひとまずこのあたりにしておこう。

今年も鮎釣りは解禁になっている。でも僕はまだ一度も行っていない。脱藩するため、さまざまな始末に追われていることもあるが、左肩の故障が大きく影響している。

疾走する鮎を取り込むためには、左手で腰にさした玉網(たも)を構えて川面から引き抜いた2尾の鮎をキャッチする必要がある。とてもスリリングなアクションだ。引き抜きに失敗したら鮎釣りのローテーションは回らない。

僕の左肩は50肩だそうだ。2月から思うように肩が上がらない。現在リハビリ中だが治りは遅い。今シーズンの鮎釣りはまだスタートできない。

とりあえず渓流と鮎に関して、今まで書いたコンテンツの一部を、この後にエントリーしておきます。お楽しみはこれからだ。

2010年6月26日土曜日

脱藩まで4日(大送別会)

昨夜は大送別会だった。自分史上、最高の宴会だった。

参加していただいた皆さん、ありがとうございました。
幹事の皆さん、おつかれさまでした。
ビデオメッセージをいただいた皆さん、涙で文字がみじみました。
祝辞をいたいだいた皆さん、僕も忘れていたことを思い出させていただきありがとうございました。

この大送別会の参加者は今世紀になってから深くおつきあいをさせていただいた皆さんだ。
幹事が大阪では有名な沖縄料理店の2階を貸し切ってくれた。
ゆったりとしたスペースに映写設備がある。

もちろんすべての進行はおまかせしている。
僕の用意したものは、「IN MY LIFE」というタイトルのDVD、僕のミッションシート、そして新しい名刺、それからウコンの力を36本だ。

雨の中、次々に集まってくれる人たちに「僕のフライヤーと名刺、それからとりあえずウコンの力をどうぞ」と声をかける。なんだか嬉しくなってくる。

司会は僕たちの宴会で、なんども大役を果たしてくれたO君だ。
乾杯のあと、司会が「参加者全員を知っているのは主役だけなので紹介をしてくれませんか」と言う。

今日、僕を壮行してくれる皆さんの縁脈を繋ぐのは望むところだ。ひとりひとりを紹介していくと様々な思いがこみ上げてくる。昔も今も言い間違いが多いので、チェック役のI君に「大丈夫か」と目配せをする。

この紹介プロセスで「コンテキスター」の意味を少しはご理解いただけたかと思う。

戦友のYさんも紹介する。少し声が詰まる。

そして今日のサプライズ。
なんと、iPhoneのモックアップが出現した。実物大ではありません。僕の上半身の3分の2くらいある巨大iPhoneだ。カポックボードでつくってある。ボタンまで突起している。

目録はありがたくいただいた。店頭に行けば本物がゲットできる手配をしてくれているそうだ。
宴会の最後まで、この巨大iPhoneは僕のアイコンになった。
感謝です。感謝の言葉をiPhoneでつぶやけるように早く手続きをします。

それから僕のプレゼンテーションだ。「IN MY LIFE」を上映する。
いつもクールな司会のO君までが感動しました、と言ってくれる。

僕は最後のプレゼンテーションを始める。

この映像はまだ仮編集です。僕の本編集はこれからです。ここにいらっしゃる僕のクライアントに仮編段階でOKをもらわないと僕は前に進めないんですけど…。

拍手とともにOKをいただいた。ありがたい。
それから僕のミッションシートの説明だ。フライヤーの表面はまだ僕の頭の中だけにある概念なので説明は省略する。裏面は3つのコミットメントだ。

ひとつ、コミュニケーションデザインのボランティアをやります。
世の中のお役にたつために、情報発信をしたがっている人のお手伝いをします。広告代理店を卒業したら住民代理店をやります。

ふたつ、釣りの合間に畑仕事をやります。
サステナブル・ライフをできるところから実践します。

みっつ、調理師免許取ります。
自立した暮らしをするために、料理ができるようになります。

と3つのできるかどうか分からないコミットメントを読み上げた後に、現実的な約束をする。

7月になったら「田中文脈研究所」というブログを立ち上げます。
そう、このブログのことだ。
もう少しがんばってカタチを整えれば、この約束は果たせるはずだ。

このあたりから会場は大酔っ払い集団になってくる。
いつもように先頭にたって酔う。

そして三線が登場した。店のニイニが僕の映像に感動して唄ってくれるという。
会場が踊り狂う。
今日、YouTubeにアップされた動画を妻に見せたら「あんた下手やね」と言われた。
いいじゃないか、楽しかったのだから。
ニイニとオバア、ありがとうございました。

興奮をひきづったまま2次会場のバーに移動。
完全無欠の酔っ払い集団を受け入れてくれたお店の方々に感謝します。

あちこちで抱擁が始まる。一体、何枚の写真が撮影されたのだろうか。
笑う、ときどき、涙目になる。

みんな、みんな、僕は最高に楽しかった。皆さんと縁脈を繋いでよかった。
事情があって参加できなかった人は、またゆっくりと話をさせてくださいな。

最後にタクシーに乗りこむ僕は、巨大iPhoneをカメラにむけて誇らしげに見せていた。そのつもりだった。
今日写真を見ると、そのiPhoneボードは裏返しで真っ白な面がフラッシュに光っていた。
僕の語り部がいたら、大喜びで言いふらすだろうね。

相も変わらず方向音痴でボケをかます僕ですみません。
こんな僕を支えてくれて、本当にありがとうございました。

2010年6月25日金曜日

脱藩まで5日(最後のプレゼン)

プレゼンテーションの準備ができた。
「IN MY LIFE」という卒業映像は完成した。ミッション・シートの出力も終わった。会社人として最後のプレゼンテーションは今夜だ。

僕の人生に対してはいろいろな見方があるだろう。

自身の感想はなんだかセンチメンタルなやつだった、ということだ。
おセンチということは仕事をやるうえでアドバンテージではない。

クールに判断しないとやっていけないシーンの積み重ねが会社というものの本質なのだから。

ただ今さらそんなことを言っても意味はない。あと5日で会社人生は失われるのだから。

編集は完成した。ただこれはあくまでも仮編集だ。
今晩、送別会に来てくれるのはいっしょにやってきた仲間たちだ。
彼らは僕のクライアントだった、とも言える。
彼らがオリエンテーションをしてくれたから僕はここまで来られたのだ。
そのクライアントに僕の仮編集を見せよう。

ディテールに関してはいろいろ問題はある。
でも全体的にはこのクライアント試写でOKをもらわないと、僕は次のステップに踏みだせない。

仮編集をやり直せ、と言われても無理だ。また58年かけて人生を編集すると僕は116歳になる。2068年だ。気が遠くなる。

仮編集はなにがなんでもOKをもらう。
OKをもらったうえでクライアントのご意見を集約する。

そして僕は本編集を始める。

2010年6月24日木曜日

脱藩まで6日(続コンテキスター)

続けてコンテキスターについて書いてみる。
さまざまな文脈が頭の中に氾濫している毎日ではあるが、徐々に整理していくしかない。

少し屋号の話に戻る。
定年退職後の生き方マニュアルには「個人事務所」を立ち上げましょう!というオプションがある。

早期退職を考え始めた頃は「田中文筆事務所」を立ち上げたいと僕も思っていたのだった。
でもこれは恥ずかしいなあ。今、書いてみたらとても恥ずかしいネーミングだ。

ただ早期退職願望の原点は「モノを書きたい」ということであったのは間違いない。「モノ書き」になりたい、という希望もなくはないが、まずは書きたかったのだ。そのベクトルにしたがって、こうしてつたない文章を書いている。

文章を書いて世の中に発表するだけであれば簡単だ。インターネットという高速道路に乗ればある程度までは誰でもできる。ただ、その先、世の中に影響を与える、あるいはパッケージの書籍にしようとすると獣道が待っている。
このあたりは、梅田望夫さんが以前に言っていたとおりだ。

僕はインフルエンサーになれるのか。たぶん無理だろう。
僕の書きたいことは僕の頭の中に厳然としてある。テーマは決まっている。でもそれは僕の個人的なテーマであり普遍的とは言い難い。

それでもいつかは本を出したい。これはすべての活字中毒者の夢であろう。
その本というのが紙なのか電子書籍なのか、そのコンテキストの整理はまた別のエントリーだ。
最近、宿題エントリーばかり自分で積みあげている気がするが。

「本を出す」ということに関してもD社には先達がいる。
さとなおだ。一時期、彼とは仕事仲間だった。さとなおが自分のブログで以下のようなことを書いていた。

頻繁にニューヨークに行っていた頃、NYで親しくなった友人に「いつか自分の本を出したい」と言ったときのことだ。いつかではなく、今、「やりゃーいいじゃん」と友人は言い切った。

さとなおの膨大なコンテンツの中から、このエントリーを探し出すことができずウロ覚えの引用でごめんなさい。

その後何年かして、彼は讃岐うどんの本を上梓した。

そうなのだ。「やりたい」ではなく「やりゃーいいじゃん」なのだ。やるしかないのだ。
脱藩後の僕には会社の仕事が忙しくて、という言い訳は効かない。夏の間だけは鮎釣りが忙しくて、と言い訳できるかもしれないが。

36年間、D社でクリエーティブの仕事をしてきた。CMなどの映像、ネットコンテンツ、グラフィック、いろいろなことをやってきた。それらを完成させるために多くの人たちに支えていただいた。

逆に言えば、ひとりでは何もできなかった。

脱藩後の僕がひとりでできること。それは、こうしてテキストをこつこつと織りあわせることしかない。

ようやくコンテキスターの話にたどりついた。

クリエーティブ・ディレクターを卒業したら、僕はコンテキスターになる。

2010年6月23日水曜日

脱藩まで7日(コンテキスター)

そろそろコンテキスターについて語ろう。
と言っても、そんなに偉そうなことではない。
そろそろ長い間D社で培ってきた(?!)「上から目線」を修正せねば。

脱藩後の自分について、屋号と肩書きを持ちたいと思った。
そう思ったのは、またしても原田基風(ボブ)の影響だ。ボブをつうじて知った塩見直紀さんの考えに賛同した。

以下、塩見さんの著書「半農半Xという生き方実践編」から引用させていただく。

エックス、ミッションと屋号、肩書きはとても関係がある。(中略)
名乗る、名づけるということには、何かチカラが秘められているのではないだろうか。
自分は何屋なのか。これが言えないと、自分の夢を人に伝えられないし、誰も夢を応援してくれない。
私の場合は、幸運にも半農半Xというコンセプトを発見できたおかかげで、世界で一つのそのことばに「研究所」とつけたら屋号となった。そして、研究所には、私しかいないので、肩書きは半農半X研究所の「代表」である。世界で一つしかない研究所だから、競争がない。ストレスフリーなのである。
世界で一つしかない屋号をつける。肩書きを誰かにつけてもらうのではなく、自分でつけることは、とっても大事なことだ。

そうなのだ。広告屋的に言うならば「自分ブランディング」だ。自分にネーミングすることによりベクトルを定めるのだ。
ブランディングなら36年間で数限りなくやってきた。
ただし、クライアント作業はやってきたが自分のことはやったことがない。

しばらく悩んでいたときに、ふっとコンテキスターという言葉が浮かんできた。

コンテキスト(CONTEXT)というのは深い言葉だ。背景、世界観、関係性、織り方、そして文脈。
文夫の文脈だ。世の中の文脈を研究してなにごとかを為していく、そんなミッション・コミットメントをしたら面白そうだ。

文脈を繋ぐ者、コンテキストを繋ぐ者ならコンテキスターだ。
とりあえず、コンテキスターという肩書きを名乗ってみるか。そうなると屋号は「田中文脈研究所」ということになる。このへんの短絡感は僕をよく知る人なら分かってくれるだろう。

コンテキスターという言葉はまだ聞いたことがない。まともな英語ではないがイメージは伝わるだろう。
コネクターのようなイージーな感じがするところも僕らしい。

肩書きと屋号を決めると、確かに思考と志向は深まっていく。

文夫と文脈というゴロあわせはともかく、コンテキストという言葉は「情報大爆発」時代を生き抜くキーワードになりつつある。

世の中にはコンテンツがあふれかえっている。そのコンテンツとコンテンツを繋いで織りなしていくこと。
すなわちコンテキストを考察していくことで見えてくるものがあるはずだ、と確信する。

コンテンツとコンテンツを繋いでいくことは人と人を繋いでいくことにもなる。
コンテキスターには人間関係の縁脈を繋ぐミッションもあるのだ。

今、僕は縁脈という言葉が大好きで愛用させていただいている。人脈では生臭い、金脈とは縁がない。有機的に能動的に繋がる人間関係を表現するには縁脈という言葉がフィットする。

縁脈という言葉の出典は別のエントリーにしよう。

2010年6月22日火曜日

脱藩まで8日(卒業映像)

いよいよ本当のカウントダウンだ。
それにしては忙しい。それだからこそ忙しいのか。
会社をやめるのが、こんなに大変だとは知らなかった。

まあ最初で最後の不慣れな経験ですからね。

会社のデスク周りはまだほとんど手つかずだ。
ほんとに退職する気ですか、と言われている。

今、すべてをほったらかして集中しているのは卒業記念映像の制作作業だ。
D社関連制作スタッフのご好意に甘えることにした。

36年間、広告制作に関わる仕事をしているとそれなりに表現物が貯まっている。またD社の若い人たちが、僕は何者なのかを知りたいと言う。

今週の金曜日には大型の送別会がある。
その参加者はほとんどがこの10年以内に深くおつきあいをさせていただいた皆さんだ。
それより前の僕を知らない。

その会場で上映するための映像だ。

僕の仕事と家族の歴史を語る映像を編集するためには、僕が脚本を書いて僕が素材を整理しなければならない。
あたりまえの話だが。

しかもタイムリミットがある。プレゼンテーションまであと3日だ。
スタッフと編集室はボランティアなので、こちらも時間は限られている。

これは想像以上にエネルギーがいる仕事になっている。36年の会社生活ですよ。人生で言うなら58年ですよ。

映像も写真もデータも散乱している。自慢じゃないが、僕は片付けが苦手だ。いろいろなものを貯めこんだままにしている。

衰え始めた自分の海馬にむち打つ。あの写真はどこかにあったはずだ。紙かデータか。家とデスク周りを探し回っている。捜し物をした後を片付ける時間がない。散らかったままでますます何がどこにあるか分からなくなる。

それでもこの作業は楽しい。まさか会社人生の最後にまた編集ごっこができるとは思わなかった。
この申し入れをしてくれたYさんには本当に感謝している。

彼は僕の戦友ともいうべき人物だ。いっしょに編集していると涙目になりそうになる。

でも感傷に浸っている時間はない。冷徹に実務的にものごとを進めないと間に合わない。僕の感傷を打ち消して、客観的な目で判断をしてくれるYさんにしたがっていくだけだ。

2010年6月12日土曜日

脱藩まで18日(サプライズ)

送別会が続いている。昨晩は現在所属している部屋の送別会だった。
つまり36年勤続したD社における最後のポジションでの送別会だ。

会場は会社のそばの中華料理店だ。実はこれも感慨深いものがあった。この店は36年前からある。
新入社員の頃はよくこの店で宴会をやっていたような気がする。もちろんその頃は下働き(?!)だったので初々しく幹事をしていた。

昨晩は主役らしい。本当は室会なのだが、ありがたいことに「文夫さんありがとう、みたいな」と看板が出ている。

途中までは普通の宴会だった。どこかのタイミングで退職挨拶をすればいいのだ、と思っていた。

ところが、普通に挨拶をする代わりに、36年前には影も形もなかった若い娘が僕にインタビューを始めた。僕の過去の振る舞いおよび仕事について訊いてくる。

ここのところ、過去を振り返ることが多いのでこのテーマはいくらでもしゃべれる。

そしてお約束の「これからどうするのですか」だ。

何度も書いているように、このテーマに関しても、単純化して分かりやすくしゃべることができる。
もちろん飲んでいるので調子よくしゃべる。

そういえば「僕のやりたいこと」、次のミッションをまとめたエントリーをまだ書いていない。もう少しお待ちください。

それはともかく。
インタビューは続く。僕がキレイにまとめようとすると昔の仕事仲間が激しい突っ込みをしてくる。
それをかろうじてかわしながら、進行していく。

「奥さんは文夫さんがやめることをどう思っているのですか」娘が訊く。この質問にも何度か答えたことがあるので簡単だ。

妻は僕がやめると言い出した頃からこう言っていた。

ほんまにやめるんやろね。やめんかったら承知せえへんで。
あんたが会社やめたら私も気楽になる。好きなことができる。
会社行っている間は我慢していたけど、会社やめたらあんたと私は対等だからね。

ということをためらわずに答えた。

そこで娘が言った。
「それでは、その奥さんがここにいらっしゃるとしたらどうしますか?」

えっ、あれっ、おや?!

扉が開いて妻が花束を持って会場に入ってくる。なんと次男までいっしょだ。

びっくりしましたね。あーよかった。妻の悪口を言わなくて。
今まで、他人のパーティや宴会の企画でサプライズを仕掛けたことはある。
でも、まさか、自分の送別会で、みたいな。

そこからの展開はよく覚えていない、ということにしておこう。

あとで妻に訊くと、妻も長男も次男も2週間前から知っていたとのこと。
幹事のひとりが「文夫さんはご家族を大切にしているそうですから」と妻を説得してくれたそうだ。

ありがとうございます。何よりのプレゼントでした。

これで退職後の家庭円満は生涯保証された、かどうかは分からないが、次の生活に大きなドライブがかかったのは間違いない。

円満生涯保証されるかどうかは今後の僕の生活態度次第だ、と妻が釘を刺しそうだ。

いただいた花が家の玄関を飾っている間は、大丈夫だと思う。

2010年6月10日木曜日

脱藩まで20日(身体の準備)

脱藩が近づいてくると諸準備がある。
そのうち、もっとも重要なのは身体の準備だ。

会社を離れると総務も人事も経理もいない。
すべては自己責任だ。

それは望むところであるが、身体がしっかりしていないとこの先は何もできない。
まして、僕はアウトドアをメインで生きたいと思っている。身体が資本のフリーランスになるのだ。

58歳になるまで入院はしたことがない。盲腸もまだ持っている。おかげさまで病気で長期休暇をとったことはない。でもこれからは分からない。

会社の医務室にはもう縁がなくなるので、近所の主治医で血液検査をした。

体力勝負で会社をやめるまでの日々を乗りきろうと思う、と言うと主治医は苦笑いをした。

結果は自分の予想よりもましであった。このへんがD社人の世間離れしているところだ。

勝手に自分たちの基準値を持っている。たとえばγ-GPT。一般人は87が限界だがD社人は100までは許される、と僕は勝手に言い続けてきた。1年に一度、100を切ればいいのだなどとヘボゴルファーのような言い訳をしてきた。どんなにドクター・アラームがあっても自分だけは大丈夫だと思っていると、どこかで仕返しをされそうだ。

実際にD社人の平均寿命は短いと言われている。以前は平均寿命が63歳とまことしやかに伝わってきた。

事実、僕の先輩たちも残念ながら短命の方たちがいた。新入社員のときに配属された最初のボスは63歳で逝ってしまった。ある年には半年でふたり、直属の上司を亡くした。

異常にストレスが高い職場であるようだ。僕の場合は、ストレス対抗措置として、けっこう酒を飲んできた。脱藩したら酒の量は減るはずだ。

酒だけの問題ではない。基本的にはデスクワークしかしない職能なので意識的に身体を動かす必要がある。

最近の僕は森歩きばかりしている。家から15分歩くと野生の猿がいる森だ。新緑の森の気持ちよさは格別だ。36年間、この地に住んでいるのはこの恵まれた自然があるからだ。

どうやらウォーキングには身体が慣れてきた。まだまだ足は適応力がある。

ところが衰えが激しく、あきらめているのが目だ。
現在、めがねを5つ持っている。遠近用、中近用、読書用、そしてコンタクトレンズを入れたときの読書用とPC用である。

これは辛い。でもこれは慣れるしかない。ケースバイケースでめがねに頼るしかない。
しかたがない。それなりに年をとってきたのだから。
抵抗してもしかたがない。

失うものがあるから得るものもあるのだ。

もうひとつ辛いのが左の50肩だ。ゴルフからは離脱している。このままでいくと、鮎釣りも無理だ。

なぜ釣りに左肩を使うかと言うと話が長くなる。それはまた別の機会に書こう。

2010年6月8日火曜日

脱藩まで22日(実務的に)

今日は会社で退職説明会があった。
実務的にリアルに淡々とものごとが整理されていくのは気持ちがいい。

退職金の振込先、健康保険の手続き、ハローワークと失業保険、年金の手続きなどやることは多い。

いよいよ近づいてきた。

このブログを始めるときに「もう会社行かんもんね。有給消化するもんね」と宣言したのだが、けっこう会社には行っている。
結局、有給は会社に献上することになりそうだ。

まだ相談役業務も残っている。
今さらなにを、と言われても、ずっとこのスタイルでやってきたのでまっとうしておきたいことがある。

やることの優先順位をつけていかないと回らない情況なので、ひとつひとつ実務的に解決していこう。

D社内部では僕のやめることがかなり浸透してきた。
ただ、今までおつきあいのあった外部の皆さんにはまだら模様でしかお伝えしていない。
もちろんごく親しい人たちに不義理はできないので、そこは押さえてある。

通りがかり、出会いがしらで「すんません、今月いっぱいでやめます」といきなりお伝えしている皆さん、ほんまにすんません。

いきなりお伝えすると答えは決まっている。
「で、次はどこにお勤めになるのですか」

いいえ、しばらくは悠々自適にボランティアをやります。
「どんなボランティアですか」

いまさら手話や点字という技術力がいるボランティアをやるのは大変なので、ずっと自分がやってきたコミュニケーション・デザインのボランティアをやります。

このへんで話は中断してしまう。

D社内部なら話を簡単にする方法論を見つけた。
相手によっては「そういえば原田さんがボランティアをやってますね」と切り出してくれるのだ。

ここでも僕は原田其風に助けられている。
彼の縁脈はD社で生きている。

そうです。原田と同じようなボランティアを僕もやろうと思っています。
「で、原田さんはどんなボランティアをされているのですか」

このへんで話はこみいってくる。

みなさん、説明責任は果たすのでもう少し待ってくださいね。

原田は言っていた。

会社という重力から離れるときにはなんだか身体がフワフワするような感覚になってくる。
妙に楽しくなって、ひとりでニタリとしたりする。
でも、会社をやめたその瞬間から、総務も人事もなくたった一人になる。
その冷厳な事実と向き合う覚悟だけはしておいたほうがいいよ。

無重力状態の僕は基本的には楽しいのだが、ときどき虚無に襲われそうになっている。

6月30日、D社人生最後の日にフラッパーゲートを出てIDカードを受付に返すとき、僕はどんな気持ちになるのだろうか。

2010年6月4日金曜日

脱藩まで26日(飲む打つ買う)

6月に入ったので「後1ヶ月メール」を発信した。
D社の組織表を見ながらお世話になった皆さんをBCCしていく。
文章はなるべくシンプルに淡々と事実だけを述べる。あれこれ考えていると、こんなメールは打てない。

発信後、メールが返ってくる。
かなりの人に6月30日に早期退職しますと言ったつもりだし、早々と退職挨拶もした。人事関係の情報も回っているはずだ。でもやはり「後1ヶ月」メールを発信してよかった。
まだ僕がやめることを知らない人もいた。知っている人でも、あらためてメールをもらうと嬉しい。

36年間も勤めていれば、いろいろなことがある。
あのとき、こんなことがあって、この人にあんなふうに助けてもらったなどと、思いはつきない。

返信していただいた方にはすべてメールバックする。昼飯や晩飯のお誘いはすべて受ける。こちらからも飯のリクエストをする。
必然的にマシンガン・メールになる。毎日飲むことになる。

「飲む」は文字どおり飲むである。話しているうちにどんどん酒が進む。

酔いが醒めるとまた「打つ」。
会社メールの量が加速度的に増えていく。もちろんツイートも打ち続ける。

それでは「買う」とはなにか。
7月からのステージに備えて新しいPCを買った。正確に言うと発注した。
これはかなり迷った。もともと僕はマッカーであった。漢字トーク7からOS8に移行する頃にマックを買ってこの世界に入ってきた。
でも会社にいるとウィンPCを使わざるを得ない。長いものに巻かれたわけではない。

それなら、会社を離れるとマックに戻ってもいいのではないか。
とも考えたが、やっぱりウィンにした。

世の中に出ていくと、長いものに巻かれる必要がある。
いくらスティーブ・ジョブズががんばっても、パソコンの世界では圧倒的にウィンである。
この先、「僕のやりたいこと」を考えるとウィンでないと仕事にならない。

で、結局はレッツノートです。タフさと軽さでこれ以上のものはない。

タフでなければ生きていけない。
やさしくなければ生きている資格がない。

とは、レイモンド・チャンドラーの名言である。
モバイル・マシーンの選択基準にもあてはまりそうだ。この場合の「やさしい」は身体にやさしいこと。すなわち軽いこと。さらに目にやさしいこと。

メインマシーンにしたいので一番ワイドで高解像度なF9を選ぶ。
ただ世の中にはシルバーのレッツノートが氾濫しているので、天板をライブ・ブルーにカスタマイズした。
メモリーもHDDも倍増した。

僕の新しい仕事場ができる。

2010年6月1日火曜日

讃岐のデンデケデケデケ

小豆島新聞 2010年4月30日掲載 双葉要

讃岐の音ってなんだろう。キーンと澄んだサヌカイトの音だろうか、あるいは瀬戸内海をひねもすのたりする潮騒だろうか。元来がのんびりとした風土なので、それほど派手な音はないはずだ。

その素朴な世界にあって、衝撃的な音に啓示された讃岐の若者たちがいた。芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」という小説に描かれた高校生たちである。

これは1965年から1968年の物語。舞台は観音寺。ポップスという言葉は、まだ一般的ではなかった。いや、ほとんど誰も知らなかった田舎町の話だ。

「デンデケデケデケ」というのは、エレキギターのトレモロ・グリッサンド奏法が創りだす音のことだ。ベンチャーズによって一気に有名になった例のあの音である。「テケテケテケテケ」、「ズンドコドコドコ」、表現の仕方は人それぞれであったはずだ。

書店に「デンデケデケデケ」という言葉を発見した瞬間に、「パイプライン」という楽曲のイントロが聞こえてきた人は同世代だ。つまり、文化放送の「9500万人のポピュラーリクエスト」にトランジスターラジオを必死にチューニングさせながら、受験勉強をしていた世代だ。

物語は、ベンチャーズやビートルズに憧れた高校生たちが、ロックンロール・バンドを結成していくサクセス・ストーリーである。というと、とても垢ぬけた、ハイカラな感じがする。しかし、重ねて言うと1965年の観音寺の話だ。マクドナルドどころか、喫茶店は町に1軒、予讃線は1時間に1本程度の世界である。僕は、芦原すなおに遅れること2年、1967年に丸亀の高校に入学した。

今や死語に近くなった「垢ぬけた」「ハイカラな」な感じにも届かない高校生たちが、知恵と汗をしぼって、あくせくと自分たちの夢を実現していく。その世界を体感するためには、小説だけでなく、大林宣彦監督の映画「青春デンデケデケデケ」も見てほしい。讃岐弁のリズムと町に流れる空気感から元気ももらえるはずだ。「青春」という言葉は恥ずかしいし、あんなややこしい時代に二度と戻りたくはない、と僕は思っている。それでも、あの時代が自分の原点であることは間違いないし、胸が締めつけられるくらい懐かしい。

その頃、僕の友達にもエレキギターを買ったやつがいた。でもさすがに、アンプを買う金はなかったようだ。「つんつかつかつか」、としか彼のギターは鳴らなかった。妙にものほしそうで、貧乏くさい響きであった。オノマトペを分析するのはともかく、この小説の世界観を理解するために讃岐弁は重要な要素である。

「こづかい、つか。ギターほしいきんな」「見てご。あのギター、けっこいな」こういうふうに言ったとき、その青年がロックンロールを志しているとは、とても思えないだろう。そんな垢ぬけない世界に落ちてきた「デンデケデケデケ」の衝撃度は東京の高校生とは比べものにならなかったはずだ。

「讃岐のデンデケデケデケ」と「東京のデンデケデケデケ」では、値打ちが違う。もちろん讃岐の方が値千金である。

小説家の分身たちは、あくせくと努力してロッキング・ホースメンと名付けたバンドをつくる。そのクライマックスは高校三年生の文化祭だ。

そうなのだ。文化祭なのだ。僕は今でも、文化祭の前夜を思い出すと、あまずっぱくなる。秋の始まり、空気はヒンヤリしてきても、学校中が昂っていた夜。晴れ舞台の準備は万端なのに、まだまだやることがあるような気がして、男子も女子も去りがたかった夜。

ロッキング・ホースメンのコンサートは大成功であった。これも大林監督がみごとに映像化してくれている。リードギター、サイドギター、ベース、ドラムのサウンドが喜びに満ち溢れている。ビートルズの「アイ・フィール・ファイン」を伸びやかに唄いあげる。拍手、拍手。

しかし、祭りは長く続かない。文化祭が終われば、別れの準備が始まる。「青春デンデケデケデケ」の高校生たちは、それぞれの道を行った。芦原すなおは、東京の大学に行く。その後、彼が讃岐と東京の「デンデケデケ格差」をどのように埋めていったかは分からない。ただ、42歳で「青春デンデケデケデケ」を著わし、直木賞を受賞するまでずっと心底で「讃岐のデンデケデケデケ」が鳴り響いていたのは間違いのないことのように思える。

その音は、真摯に夢を見ていた観音寺や丸亀の高校生たちにとって、遠い世界に飛躍していくための原点だったのである。

讃岐のカフカ

小豆島新聞 2010年1月20日掲載 双葉要

2009年6月、この列島にオタマジャクシが空から降ってきた。原因はまだ解明されていない。村上春樹の「海辺のカフカ」という小説にも同じような不条理なシーンがあったと日経新聞のコラムでも伝えられた。この事件がきっかけで、「海辺のカフカ」を再読した。小説の中でイワシとアジが2000匹、空から降り注いだのは、東京都中野区だ。

それはそれとして、この小説は、讃岐が舞台の「ひとつ」になっている。「ひとつ」というのは、春樹ワールドの常として、多重構造の世界観が複雑に絡み合っていくからだ。

主人公は田村カフカという15歳の少年だ。彼は夜行バスで東京から瀬戸大橋を渡って、高松までやってくる。そして、「讃岐のカフカ」になる。

カフカ少年の他にカラスと呼ばれる少年、ナカタさん、星野青年は、それぞれの「損なわれた部分」を回復するために、高松に集結してくる。父を殺し、母と姉と交わることになるカフカ少年は、讃岐で、「損なわれた部分」を回復するために、不思議な経験を積み重ねていく。

といっても、村上春樹を読んだことがない人には、想像を絶する話だと思う。元祖、フランツ・カフカは、チェコの小説家だ。ある朝、目が覚めると、虫に「変身」した男の話が代表作だ。

村上春樹が、少年に「カフカ」という名前を与えたのは、もちろんフランツ・カフカの存在があったのだろう。カフカという固有名詞には、常に不条理のニュアンスがつきまとう。ちなみに、カフカというのはチェコ語でカラスのことらしい。

では、なぜこの小説の舞台が「讃岐」だったのか。なぜ「阿波のカフカ」でも「伊予のカフカ」でもなく、「讃岐のカフカ」だったのか。あらためて語感を確かめていると、これはもう、「讃岐のカフカ」しかないという気がしてくる。不条理な物語のバック・グラウンドとして、寒くもなく暑くもなく、温暖平穏、可もなく不可もない讃岐の風土はある種の落ち着きを与えてくれるからだ。

村上春樹はこの小説の前に「辺境・近境」というエッセー集の中で讃岐うどんのルポをしたためている。裏の畑で、自分で葱をとってくる「中村うどん」をはじめとする超ディープなうどん屋の話だ。その取材時に、うどんでお腹をいっぱいにしながら、カフカの舞台設定を考えたのだろうか。

それにしても、讃岐の中でもなぜ高松なのか。高松にはこの哲学的官能小説をメタフォリカルにサポートする資格があるのだろうか。

舞台の中心は、高松にあると設定された「甲村記念図書館」である。田村カフカくんと図書館職員たちとの間で展開される隠喩に満ちた会話を支える空間だ。その静謐で知的なたたずまいは、リアリティを持って描写されている。

讃岐平野のうどん行脚とは、かけ離れたイメージの図書館にモデルはあるのか、という疑問には、村上春樹自身が「少年カフカ」という本の中で答えている。

「甲村記念図書館はもちろん実在します。というのは嘘です。実在しません。僕が勝手にこしらえたものです。すみません。なにしろ勝手にこしらえるのが好きなもので」

それでも、ネット上では、春樹ファンがモデルを求めて、さまざまな見解を展開している。そのモデルのひとつとして、坂出の鎌田共済会郷土博物館が挙げられている。坂出出身の僕としては、カマタといえば、醤油の香りである。不条理な会話が交わされる建物のモデルとは少し違う気がする。

僕は、高松空港のそばにある「漫画図書館」の建物を見たときに、甲村記念図書館をイメージしてしまったことがある。なぜ、自分がそんなことを思ったのか、高松空港に行く機会があれば再確認してみよう。

「海辺のカフカ」は、「讃岐のカフカ」になることによって、讃岐人の想像力をかきたてる。考えてみれば、この小説の中でイワシやアジが空から降ってくるシーンも、なんとなく瀬戸内海っぽいイメージがある。このイワシがカタクチイワシであれば、大量のイリコダシの原料になって、讃岐うどんに貢献したのに、とまた勝手なことを思うのも「讃岐のカフカ」の楽しみであろう。

何を隠そう、僕は村上春樹の偏愛者である。まだ「海辺のカフカ」を読んでいない讃岐人には、ぜひご一読をお勧めしたい。

田井の釣り、タイはいらぬ。

小豆島新聞 2009年7月30日掲載 双葉要

小さな頃から釣りが大好きで、小豆島でもよく釣りをしていた。という書き出しであれば、ごく自然であるのだが、実はそうではない。

釣りは三十歳を超えて覚えた遊びだ。最初の息子が生まれた年だ。父と息子といえば、キャッチボールが定番だ。残念ながら、私は野球が苦手だ。ほとんどまともにボールを投げられない。小さな頃から強度の近視で野球の仲間には入れなかったからだ。

そこで、ビギナーパパは考えた。野球がダメなら釣りにしよう。おおそうだ、息子と釣りをするのが正しい日本の親子だ。これはいい。

ところが、である。実は、釣りなどというものはそれまで一度もしたことがなかったのだ。そのあたりが、実に大胆な発想であった。それでも幸いなことに師匠がいた。会社の同期に、釣りの達人がひとりいた。その師匠に弟子入りしたのが釣り始めである。そして、この師匠は川釣り師であった。私の釣り師人生は決定づけられた。

渓流のアマゴ、イワナと清流の鮎という小豆島とは何の関係もない魚たちをひたすら追っていく日々が始まった。息子と遊ぶためという名目で始めた釣りという趣味であるが、本来の目的は忘れ去られて、お父さんは釣り師の道をひた走る。

息子が地域のソフトボールクラブに入っても、キャッチボールにコンプレックスのある私はなじめない。ソフトボールのハイシーズンはまた、鮎釣りの季節でもある。はっきりいってソフトボールはさぼった。

息子よ、すまぬ。お父さんは親子のコミュニケーションよりも、鮎との対話を優先した。

そんなわけで、「田井の釣り」というテーマは微妙な感じになっていく。ここで解説をすれば、田井というのは、小豆島の大部にある地名である。私の母の実家は田井の浜辺から徒歩2分だ。

もちろん、私は夏休みにはよく田井の浜で泳いだ。思い切り浜辺で遊んだあと、プロ野球のオールスター戦ラジオ中継がもれ聞こえる道を家まで帰ったことをよく覚えている。しかし、釣りというものとは無縁であった。では、このエッセーのタイトルは偽装であるのか。

そうではない。田井の浜で釣りをしたことはある。私が40歳近くになってからであるが。おかげさまで、次男は釣り好きになった。次男を連れて、田井の浜でサビキ釣りをしていた時代があった。

季節は秋である。ひと夏、鮎を追いかけて家族サービスをしなかった罪滅ぼしに田井でサビキ釣りをすることがあった。ちなみに、私の子供たちは海水浴という経験はあまりない。海で泳ぐよりも、綺麗な川でシュノーケリングをするほうが楽しいというお父さんの独断にしたがってくれたのだ。

田井の浜は海に向かって右手に沖にむかって、まっすぐ伸びる堤防がある。その堤防から砂浜を回り込んで左手には防波堤がある。この防波堤が絶好のサビキ釣りポイントであった。

釣り師の至福は入れ掛かりである。サビキ釣り、すなわちコマセを使い、たくさんの針で雑魚をひっかけるこの釣りは、天国への階段だ。オキアミをカゴに入れる。キャストする。ぷるぷるする。さらにぷるぷるする。リールを巻くと、サビキ針にアジがぶらさがっている。ときどきイワシも混じってくる。さらには、つぶらな瞳のグレの赤ちゃんも挨拶にくる。カラフルなベラがその存在を主張する。ぷくーっとフグ様がお怒りになる。

そうなのだ。波止場の釣りは五目釣り、来るもの拒まずの博愛精神に満ちた釣りなのだ。私と次男が嬉々としてサビキ釣りを楽しんでいる横では正統派のチヌ師たちがいる。ぴしっと餌を投げ込み、ウキの動きに注視する。わずかなアタリも見逃さずに電光石火の合わせをする。クロダイの見事な肢体が浮かび上がる。実に洗練された無駄のない釣り師たちは、好き勝手なことをしている親子を少し軽蔑の目で見る。

それでいいのだ。釣り師は基本的にエゴイストだ。自分さえ釣れればいいし、他人のやり方には興味がない。

私の田井の釣りにはタイは無用の長物だった。雑魚と戯れて息子のオキアミまみれの笑顔を見られたら最高だったのだ。

コシよりダシだ

小豆島新聞 2009年5月20日掲載 双葉要

讃岐うどんの話である。今さら、という方もいるかもしれない。しかしながら、昨今の軽薄なブームとは視点がちがうのでお付きあい願いたい。私は、讃岐の原住民だ。元々、讃岐に住んでいた民だ。坂出生まれで、丸高卒業である。うどんがソール・フードであるのは当然だ。

18歳で讃岐を出て、東京の大学で4年間過ごした後は、大阪にずっと住んでいる。その間、ソール・フードを追求する旅は続いている。ブームのおかげで、東京にも大阪にも自称「讃岐うどん」の店は増えてきた。讃岐うどんのコシは有名になり、おばあちゃんの足で、小麦粉を踏めば踏むほど、コシが強くなるという話がまことしやかに伝えられている。別におじいちゃんでも兄ちゃんでもいいのだが。

ただし、「讃岐うどん」を名乗るからには、コシよりもダシにこだわってほしい。東京でも大阪でもコシは合格の店はあっても、ダシには問題がある。

コシが強い麺類を批判するものは世界中でほとんどいないはずである。だが、ダシというのは、魂の根源に触れるものだから受け入れられるものとそうでないものがある。


讃岐うどんは、いりこダシである。魚くさいなどという人は、讃岐に来ないでほしい。のっぺらぼうの土地にお饅頭のような山をぽんぽんとレイアウトしたような讃岐平野は、いたるところで、いりこダシの香りが充ち満ちているのだ。

いりこダシあらずんば、讃岐うどんにあらず。讃岐以外の讃岐うどんを評価するときのポイントは、ダシと生姜にあり、というのが私の独断だ。

そこで、東京の「讃岐うどん」の話だ。ごぞんじのように、東京には空がないと同時にうどんもない。ただ、真っ黒な醤油のなかにのたうち回る「うどんもどき」があるだけだ。だが、奇跡の店があった。

浜松町、大門交差点の「金毘羅」。今では、讃岐うどんの店として、一部ファンの間では有名になっている。だが、驚くなかれ、このうどん屋は39年前から存在するのだ。しかも大門交差点のランドスケープとして、外装も内装もまったく変わっていないのだ。私が東京の大学に行っていた頃、泣きたいくらいに、いりこダシが飲みたくなったときは大門に行っていた。おすすめメニューはただひとつ、「こんぴらうどん」。金毘羅のこんぴらうどん、ネーミングどおりのシンプルなかやくうどんだ。ただ、いりこダシがひたすらうまい。

それから、大阪にも讃岐うどん屋は多数、存在する。会社のそばで、「讃岐うどん」の看板を上げた店があれば、私は地回りのようにチェックをかけていく。ただ、悲しいことにうどんの腰が合格する店があっても、ダシはほとんどが昆布ダシなのだ。

以前、西本智実さんというロシアで活躍されていた大阪出身の女性指揮者と仕事をしたときに、彼女が言っていた。コンブダシ、私はコンブダシ、寒いロシアでコンブダシを飲んでいると、私は大阪人なんや、と思うて元気がでてくる。

そう、大阪人にとっては、昆布ダシがソール・フードなのだ。それを否定する気はまったくない。ただし、大阪の讃岐うどんは、あまりに昆布ダシに迎合しすぎているのではないか。あの東京においてすら、羽田空港第2ターミナルビルの立ち食いうどん屋さんでも、いりこか昆布か、ダシのオプションが選べるのに。

それから、生姜である。最近は、永谷園に生姜部という組織ができるくらい生姜の効用が見直されている。ただ、讃岐うどんというのは、開闢以来、生姜とともにあったのだ。なぜなのかは知らないが、そうなのだ。大阪の讃岐うどん屋で生姜を見かけることは滅多にない。これって、しょうがないではすまないのである、責任者でてこい、というのが私の本音である。

麺類がないと生きていけない私は、海外に出ると、当然のようにパスタを食べる。沖縄に行けば、ソーミンチャンプルーを食べる。松江に行けば、割子そばを食べる。それぞれの土地でそのときの気持ちで好きな麺類をチョイスしていく。

でも、最期の瞬間には、いりこダシと生姜とともに旅立ちたいと切に願う私の気持ちは変わらないのである。

うどんとそうめん

小豆島新聞 2009年3月10日掲載 双葉要

讃岐といえば、うどん。小豆島といえば、そうめん。ならば、小豆島は讃岐ではないのか。そんなことはないはずだ。しかし、全県あげて、うどんで盛り上がる讃岐にあって、小豆島はそうめんという特異な麺類が喉にひっかかっているようにも見える。

統計学的に見てみよう。いまや、讃岐うどんツアーのバイブルとなった「恐るべきさぬきうどん全店制覇2008」の掲載店数によれば、香川県のうどん店は全県で658店、小豆島では9店。うどん店比は、1.4%。ちなみに、香川県の人口は100万3千人、小豆島の人口は3万2千人。人口比は3.2%。このデータによれば、やはり小豆島のうどん店は少ないのではないか。人口比に対して、半分以下のうどん店比だ。少し違う文化圏の匂いがする。

ここで、私のスタンスを明確にしよう。私は坂出生まれで丸高卒、現在は大阪在住だ。ただし、母は小豆島の大部に実家がある。ということは、どちらかといえばうどん寄りのスタンスでこの文章は展開されつつ、そうめんにも敬意をはらうつもりである。

まずは、敬意から。そうめんというものは、ある程度の年代になってから、うまさを感じるもののようだ。灼熱の昼、もしくは二日酔いの朝、冷たいそうめんほど癒される食物はないだろう。それから、かなり大人になってから知った味だが、温かいにゅうめんも捨てがたい。したたかに飲んだ後、ラーメンはいらない。うどん屋はとっくに営業時間が終わっている。そんなときに、北新地のとあるバーで食べるにゅうめんは最高だ。細い麺に上品なダシがからんでくる。そう、問題は麺の太さにあるのだ。ウィキペディアによれば、そうめんの麺の太さは直径1.3ミリ未満とされている。うどんは1.7ミリ以上だ。

若いときは、圧倒的に太いものがいい。夏の部活が終わったあとに、いい若い者がそうめんなど啜るわけにはいかないのだ。氷水に、ぶっというどんを大量に浮かべた冷やしうどん以外にエネルギー補給の道はないのだ。ところが、自慢の腹筋は跡形もなく、咀嚼力も衰えてくると細いものの価値も分かってくるのだろう。

とはいえ、讃岐育ちの場合は、生きている限りうどんを食い続けねばならむ業を背負っている。そうめんはヒーリング・フードにはなりえても、ソール・フードにはなりえない。このあたりは、小豆島育ちの皆様もご納得いただけるのではないか。

で、話は一気にうどん寄りになっていく。うどんをソール・フードにする原住民(元々、そこに住んでいた人の意)にとって、昨今の軽薄なうどんブームはいかがなものか。私が讃岐育ちだと知って、うどん談義をしてくる人々に対して、私は「まぼろしのうどん屋」の話をする。

宇高連絡船、と言って分かる方はどのくらいいるだろうか。私は1970年に18歳で坂出から東京の大学に行った。高松と宇野間の交通機関は、当然ながら船しかなかった。帰省する場合、東京から新大阪まで新幹線で3時間半。新大阪から宇野まで在来線特急で4時間、7時間半掛かって、ようやく宇高連絡船にたどりつく。船に乗りこむやいなや、飢えた若者たちは二階デッキに駆け上がる。そこにうどん屋があった。立ち食いうどんである。いわゆる、かけうどんである。ねぎと生姜とかまぼこが浮かんでいる。

うまかった。東京のうどんに虐げられた若者の胃袋に染みわたった。駆けつけ2杯は食べていた。いりこダシに涙した。宮武も山内も、何ぼのもんじゃ。宇高連絡船二階デッキの立ち食いうどんこそ我らのソールうどんなのだ。7時間半という郷愁のトッピングにかなうものはない。そのうどんって、どうやったら食べられるのかって。今となっては、誰も食べられぬ。食いたかったら、タイムマシンを発明しろ。と言って、軽薄なブームをあざ笑うのが快感だった。

ところが、である。2006年に「UDON」という映画ができた。さっそく見た。ところが、なんと、この私オリジナル秘話が、まったく同じ論調で語られていたのだ。丸亀出身の本広監督にこの話をした覚えはない。そもそもこの監督とは面識がない。1970年当時、5歳だった本広監督が郷愁うどんを体感したはずはない。

なのに……少しだけ口惜しくて、少しだけ嬉しかった。うどんにしろ、そうめんにしろ、気持ちを麺の腰とダシに練りこんだものが、いちばんうまいということなのだ。