2021年8月26日木曜日

『きみが死んだあとで』僕が語ること

 「死ぬまで18歳」というのは、とても魅力的な言葉だ。問題は、いつまでそう言い張ることができるのか。

僕はこの夏、18歳まで住んだ家の時を止めた。生きるということはいつも自分のナラティブを書き換え続けることなのだ。

村上春樹はトライアスロンにチャレンジしていた頃、自分のバイクに“18 'till I die”と書いていた。

 ブライアン・アダムズのヒット・ソング『死ぬまで18歳』のタイトルを借用した。もちろんジョークだ。 

死ぬまで十八歳でいるためには十八歳で死ぬしかない。

(『走ることについて語るときに僕の語ること』)

 「きみ」は死ぬまで18歳だった。山﨑博昭は19481112日に生まれて18歳で死んだ。

1967108日、羽田・弁天橋で。「佐藤首相南ベトナム訪問阻止闘争」。

学生たちが機動隊と初めて力で対峙し始めたときであった。大阪の大手前高校生だった山﨑さんは、京大に入り中核派の活動家として羽田に行く。その死は1968年、全共闘時代への狼煙となる。

代島治彦監督の映画『きみが死んだあとで』は山﨑さんの死の文脈に連なる者たちの語り(ナラティブ)を映像にしたものである。さらに書籍『きみが死んだあとで』も上梓した。登場人物の物語(ナラティブ)をテキストにした。

映画は〈ナラティブ・ドキュメンタリー〉の傑作である。ナラティブがアクションつなぎで編集されている。書籍には「ぼくの話」が8編収録された。1958年生まれの代島監督の世代論である。

2021724日。『きみが死んだあとで』出版記念トークショーが大阪十三のシアターセブンであった。ナラティブ版(映画)を観たのは二度目。テキスト版(晶文社)も読了していた。

トークショーで代島監督と話してから、あの時代のことを考え続けている。

「ジュッパチ」という言葉は今でも自然に出てくる。「ジュッテンニーイチ」や「ヨンニッパー」と同じように。全共闘は残り香しか嗅いだことがないのに。山﨑博昭さんが死んだ日、香川県立丸亀高校1年生だった15歳の僕が何をしていたのか記憶も記録もない。

坂出にある実家を閉じようとすると、リアルに18歳だった自分が蘇ってきた。そこに身をおくことは楽しいのかもしれないが、楽なことではなかった。時はセピア色ではなく総天然色で蘇ってくる。

18歳の自分と文脈がつながる本を再読する。いずれも初版本を本棚の奥深くから取り出した。

『ぼくの大好きな青髯』(庄司薫/1977年)

庄司薫は僕の丸亀高校と「ちょっと相当」いやったらしく直結している。201199日に〈ガリをキル〉という文脈レポートを書いていた。https://bunmyaku.blogspot.com/2011/09/blog-post.html

丸亀高校の「赤い応援団」だった僕は『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969年)の文体を真似てラブレターを書いていた。まだ17歳だった。坂出の家から丸亀に自転車で通っていた。

「赤頭巾ちゃんシリーズ」のラストである「青髯」から代島監督が引用している箇所は以下である。

人間にとって、いや、少なくともこのぼくにとってほんとうに怖いのは、年老いて、遙かな時間と疲労の厚い壁の向こうに夢と情熱に溢れた十八歳を持つそのことではなく、実は十八歳の自分をそのまま持ちながら年老いることなのではあるまいか? 
自分にも十八歳の時には夢があったと年老いて語ることが怖いのではなく、そう語りながらもなお夢は消えないというそのことこそ恐ろしいのではなかろうか?(158頁)

1973年のピンボール』(村上春樹/1980年)

僕は1970年春、18歳で早稲田大学政経学部に入学した。早大全共闘の残り香をかいだ。九号館に部室があった〈出版事業研究会=出研〉が僕のワセダだった。授業は少なく単位はレポートでもらえた。成績が悪くゼミに入れなかった。したがって卒論も書いていない。

村上春樹は九号館のことを書いている。

気持ちよく晴れわたった十一月の午後、第三機動隊が九号館に突入した時にはヴィヴァルディの「調和の幻想」がフル・ボリュームで流れていたということだが、真偽のほどはわからない。六九年をめぐる心暖まる伝説のひとつだ。(6頁)

ただし、僕は九号館の先輩たちから、この伝説を聞いたことはない。彼らは終わってから入ってきた後輩に〈九号館の栄光〉を多くは語らなかった。

出研には様々なメンバーがいた。あまり他と交わらない先輩もいる。彼は〈ケルンパー〉だった。〈ケルン〉は〈核〉。〈パー〉は〈パーでんねん〉。中核派のことだと教わった。

1970年以後、革マル支配の早大でどうして彼が九号館に通えたのか、そのあたりのことも彼は語らなかった。酔えば吉本隆明の「恋唄」を讃えていた。

おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ

おれが讃辞と富を獲たら捨ててくれ

もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ

もしも おれが死んだら世界は和解してくれ

もしも おれが革命といつたらみんな武器をとってくれ

『吉本隆明詩集』(思潮社/1963年)152

彼は199110月、不慮だかなんだかよく分からない火事で死んだ。享年43歳。1949年生まれ。団塊世代だった。死の十日前の夜、大阪のバーから東京の彼に電話していた。「死ぬな」と。翌日、「夕べのことは忘れろ」と電話が返ってきた。

年末には金の無心をしてくる厄介で大切な先輩だった。彼が死んでも世界は和解していない。

忘れられないことがある。1971年だったか。九号館の屋上で彼は角材を見つけた。「えやーっ」と角材を振る。びゅんとした音をゲバ棒が発した。いつもへらへらしていた彼とはちがう。「単ゲバのケルンパー」とは、とても言えない空気が屋上に流れた。



『兵どもが夢の先』(高橋公/2010年)

「僕はハムさんの出来の悪い後輩だった」と代島監督に言った。ハムさんとは高橋公さん。公は「ひろし」だが、あの世代にとっては永遠のハムさんだ。1947年生まれ。早大反戦連合(全共闘)のレジェンド。現在、「認定NPO法人ふるさと回帰支援センター」の理事長だ。

74歳の草莽の士は変わらず志を貫いている。ご同慶の至りである。ハムさんのことも田中文脈研究所に書いた。〈ガリをキル〉から一ヶ月後のこと。https://bunmyaku.blogspot.com/2011/10/blog-post.html

代島監督と話したあと、その場にいた映画宣伝プロデューサにハムさんのことを言ってみたら高橋伴明監督につながった。そういえば、伴明さんも早大全共闘だった。ならばと映画を観る。

『痛くない死に方』(高橋伴明監督/2021年公開)

山﨑博昭さんは18歳で痛い死に方をした。彼とつながる人々、すなわち『きみが死んだあとで』の登場人物は70歳を超えた。

団塊=全共闘世代は〈生きざま〉という言葉を好んでいたように思える。宇崎竜童が演ずる元全共闘の棟梁は、伴明さんを色濃く投影しているそうだ。「一度だけ浮気をした」と死の直前に許しを乞うた妻は「救援連絡センター」で活動していたという設定である。棟梁はあっぱれな〈死にざま〉を見せる。

団塊世代とは1947年~1949年生まれ。今や74歳~72歳である。日本人の平均寿命は女性が87.74歳、男性が81.64歳。

「きみが死んだあとで」も生き続けてきたみなさんは、1949年生まれの伴明監督の映画を観ているだろうか。ハムさんは観たことと思う。

『痛くない死に方読本』30頁

ずいぶんと回り道をしてしまった。本稿は代島治彦監督の『きみが死んだあとで』を巡るものだった。

それにしても年号の記述が多い。しかたがない。この映画は、観る者の年齢の微妙な差によって、様々な感想と想像を喚起するものなので。自分の18歳と比較検証しながら観ざるをえない構造になっていると僕は思う。

僕は1952313日生まれ。代島治彦監督は195824日生まれ。団塊世代の「かっこいいお兄さんやお姉さん」に憧れたそうである。僕はもう少し団塊に近接している。僕も彼らに憧れた。でも、それは厄介をともなう憧れだった。若干の違和感が憧れにつきまとっていた。

向井千衣子さんという登場人物がいる。山﨑博昭さんとは大手前高校の同級生。向井さんに似た女の子を僕は知っている。その女性の18歳は覚えているが、現状は分からない。

向井さんのナラティブは理路整然。さらに書籍を読むと首尾一貫した彼女の〈生きざま〉が見えてくる。

彼女は早大の〈革マル〉だった。取扱が難しい女性だったようだ。僕が入学した1970年には党派からは離れているが、対立した早大反戦連合でも有名な存在だったのかもしれない。

実のところ、僕は向井さんにはかなりの違和感を持った。100%〈異議なし〉とは言えない。その感覚を書くのは難しい。僕は向井さんと同時期、早稲田大学第一文学部に在籍した姉がいる。僕は「国際学連の歌」を唄ったことがない。

大手前高校時代に、向井さんの提案で「国際学連の歌」を唄ったと語るのは黒瀬準さん。「恋と革命」に生きた青春だったという。中核派からはオルグされなかった。

1967108日、羽田弁天橋で山﨑さんのそばにいた。その現場で「北上夜曲」を挽歌として唄う。登場人物のなかで、ただひとり、キャメラの前で涙を見せた。黒瀬準さんに対して〈ナンセンス〉とは言えない。

我は古希 18のままの山﨑よ

君は駆け 翔び 生を生きたのだ

「黒瀬さんはこのインタビューの前年に70歳になった。山﨑さんが1811ヶ月のままだということについて思うところはあるかを問うた」代島監督に、黒瀬さんは追悼の歌を披露した。

黒瀬さんは「死ぬまで18歳」を体現しているのではないだろうか。そのことがよいのかわるいのか、他者が言うべきことではない。

そして、大手前高校同学年のひとりが島元恵子さん。彼女がスクリーンに登場したとき、僕にはすぐ分かった。〈半農半Xという生き方〉をしていると。

「地に足をつけてX(志)をつなぐ生き方」というのが僕の〈半農半X〉の定義である。

三派全学連委員長から農的生活にシフトした先輩が1944年生まれの藤本敏夫さんだ。鴨川自然王国の創始者。「地球に土下座して、ゼロからやりなおさなあかんな」と言った。島元恵子さんが『農的幸福論~藤本敏夫からの遺言』を読んでいるのかどうかは分からない。この人は孤独に自分の頭でのみ考えて行動する人なのだろう。

「虐殺抗議山﨑博昭君追悼中央葬」で彼女は友人代表として追悼の言葉を述べた。

世の中の多くの人々が小さな正義感、少しの真理への憧憬をもちながらも、結局は現実と握手している中で、彼の真面目さ、誠実さは、それを許しはしなかった。私たちは言葉じゃなく、真に彼の死を超え、中断された彼の平和への渇望を受け継いでいかなければならない。

島元恵子さんは山﨑くんの志を受け継いでいるように見える。20218月現在、「彼の平和への渇望」はまだ満たされていない。島元さんの「死ぬまで18歳」も続いているのだと思う。

その他の登場人物。山﨑健夫、岩脇正人、岡龍二、島元健作、佐々木幹郎、三田誠広、北本修二、赤松英一、田谷幸雄、それぞれの人が受けとめた「死者の鞭」については、代島監督の映画もしくは書籍、できれば両方をご覧になっていただきたい。

僕は自分の18歳目線で観た登場人物について語りたかった。彼らと同じクラスにいたら、ともに「シェー!」(赤塚不二夫)をしていただろう学友たち。

公式パンフ表4

そして、団塊世代に先駆けた登場人物もいる。山本義隆さん。1941年生まれ。山﨑博昭さんより7年前に大手前高校を卒業した。

元東大全共闘代表に対する憧れは、1958年生まれの代島監督と僕に共通している。山本さんへの僕の憧れに厄介さも違和感もない。映画で初めて、憧れの人のナラティブを観た。28歳、東大全共闘代表としてのそれと78歳、駿台予備校講師としての語り。

山本義隆さんは何かを持て余して生きてきたのではないだろうか。憧れはマスコミがつくった虚像であると言う。「自己否定」を流行らせてごめんなさい、と言う。

科学史家としての山本義隆さんがいる。3・11後に『福島の原発事故をめぐって~いくつか学び考えたこと』という本を読んだ。

201110月、高橋ハムさんを「ふるさと回帰支援センター」に訪ねたとき教えてもらった本である。僕は東大全共闘の山本義隆さんしか知らなかった。1967108日から64年が経過した10月、3・11から7カ月後に僕は科学史家としての彼をはじめて知った。

そうだったのか。「科学技術幻想とその破綻」がフクシマ事故につながっていたのだ。

そして「科学技術性善説」による「成長幻想信仰」の是非を問う闘いが、山本義隆さんの1968年、69年だった。

公害訴訟が一斉に始まり、高度成長が日本中で公害をひき起こしてきたことが明らかになっていった一九六〇年代末は、敗戦でもほとんど無傷で生き延びた「科学技術性善説」と「成長信仰」を見直すべきときであった。一九六八・六九年の学園闘争は、そのことを問うていたのだ。しかし政治権力は、高度成長に付随する影の部分・負の側面を直視せず、財界も官僚機構も成長方針を放棄することはなかった。

『近代日本一五〇年~科学技術総力戦の破綻』(山本義隆/岩波新書/2018年)242

ようやく分かってきた。山本さんは全共闘のアイコンとなったことで、物理学研究者、ひたむきに科学と向き合いたい自分を持て余しながら生きてきたのではないだろうか。18歳の大手前高校生としての彼は語られていない。でも、山本義隆さんの「死ぬまで18歳」は持続しているような気がしてならない。

ジュッパチを母の立場で支援した登場人物もいる。水戸喜世子さん。代島監督とともにトークショーに出演した。以下は724日にフェイスブックに投稿した文脈レポートを再構成したもの。

代島治彦監督が水戸喜世子さんの物語を引き出していく。

喜世子さんは歴戦の闘士である。なにしろ1960615日にも国会前にいたのだから。樺美智子の死のそばに。喜世子さんは筋金入りで持続する優しさを持った闘士とお見受けした。

1967108日、山﨑博昭の死の周りでは救援を待つ多くの学生が拘置されていた。水戸巌・喜世子夫妻が立ち上がる。「救援連絡センター」。その名は時代を駆け抜けた若者たちにとって心強い響きがあったはずだ。半世紀以上にわたって。

核物理学者、水戸巌さんは反原発の闘士でもあった。1971年には福島第一原発が稼働する。政治の季節が終わりアトムの子供たちはしらけていく。原発は核のゴミを貯めこみ続ける。水戸夫妻の双子の息子も父と母の意思を受け継ぎ、科学としての反原発研究をしようとしていた。

19864月チェルノブイリ原発事故。その年の大晦日、父と息子たちは厳冬の剱岳で遭難する。真相はいまだに不明。小出裕章さんによれば「不可解な死に方」をした反原発活動家は多いとのこと。喜世子さんはバックパックを背負って世界を放浪する。日本で失ったものの大きさに、中国で永住しようとまで考えていた。

しかしながら、3・11が喜世子さんを列島に呼び戻す。現在に至るまで、福島の子供たちの保養活動を続けている。

代島監督が言う。「これは青春映画です。思春期に悩まなければ主権者意識は育ちません」。しかしながら、悩んで走って橋を渡ろうとした青春は、あっというまに蹉跌してしまった。しかも血塗られた蹉跌。バトンは血で汚れてしまった。

だから、1968年と69年に向き合った人々は口が重い。山本義隆さんも口が重い、というのが監督の実感だ。現在も、それぞれの持ち場でミッションを果たそうとしているはずだが、「さあ、連帯してがんばろー、と明るい笑顔ではいえない」そうだ。そのことは1952年生まれの僕でも分かる。

彼らは語らなかった。でもね、と水戸喜世子さんがリベラルの現在形を語り始めた。

「血塗られたかもしれないけど、60年と70年の経験でいいところは引き継がれている。特に大阪では。エルおおさかの〈表現の不自由展〉を支えたのは若い人たち。名前と顔を出して動いたのは、この会場にいるようなオジサン、オバサンだけど、現場は若い人が支えてくれた。珍しく充実感のある動きができた。大阪地裁の森鍵裁判長のような司法判断も出てきた」

ここは僕の一番聞きたいところだった。2016年にSEALDsが解散してから、若い人(としか表現できなくてすみません)の政治意識と行動はどうなっているのかがよく分からないから。この国の民主主義は崩壊寸前だ。投票率40%の「民主主義ってなんだ?」

映画のなかで、水戸喜世子さんの後ろで動いていた黒猫がいた。「グウちゃん」と言う。その猫ちゃんも失われてしまったそうだ。また喜世子さんは嘆いたのだろう。でも、「人ってちゃんと立ち直っていける」。そのとおりなのだと思う。歴戦の闘士は、いま、ここで笑顔で語っている。

会場にいた高知県東洋町の田中農園さんが、NUMO(原子力発電環境整備機構)を追い出した経緯を報告すると、見事なフォローをする喜世子さん。ああ、この人はこうやって住民運動を支えてきたのだな。これからも支えるのだな、と納得した。

そろそろ「きみ」に対する僕のナラティブも書いたほうがいい。

映画には「きみ」の本棚が出てくる。山﨑先輩の本には新潮文庫と旭屋書店のブックカバーがかけてある。律儀な筆跡でタイトルが書いてある。とても親しみを感じた。自分の18歳の本棚を見ているような気分になった。本そのものは先輩よりも軟派なものが多かったが、ブックカバーと筆跡に魅せられる。

『きみが死んだあとで』79頁

代島監督の映画と本は、僕のなかの時を呼び起こした。たまたま、実家を閉じるタイミングと重なったときに、この「記憶映画」を観た。記憶を律する術を持っていなければ、生まれ育った家の処分は難事業になる。

さらには816日に4人目の孫が生まれた。記憶は個人的なものだが、受け継がれるべきものは記録する必要がある。

『きみが死んだあとで』は観客それぞれに、自分史を含む世代論を考えさせる力を秘めているように思う。

印象的なことがあった。映画を一回目に観たのは第七藝術劇場。その暗闇のなかで、僕の3列前にいた人は手帳にメモを書きながら見ていた。シートの下の暗い灯りにときどき手帳をかざしながら。あの人は194×年生まれだろうか?映画館を出たあと、自分史と映画のタイムラインをつき合わせていたのだろうか?

1952313日に生まれた田中文夫の世代論は〈ラスト・オキュパイド・チルドレン〉というものである。

日本国は、その年の428日、サンフランシスコ講和条約が発効するまでは「占領国」だった。僕たちは〈Last Occupied Children・LOC〉〈最後の占領された子供たち〉である。19458月から1952428日まで、日本の輸出品には「Made in Occupied Japan」という表示が占領国によって課せられた。

「寫眞機商コウジヤ」サイトより

最後の人には後片づけをする義務がある。義務を果たしてこそ新しく発言する権利が生じる。で、何を後片付けするのか?と質問されたら、LOCよりも前の団塊世代がとっちらかしたことも含まれると答えよう。

代島治彦監督の世代は〈しらけ世代〉〈三無主義〉〈モラトリアム人間〉と呼ばれたそうだ。ただ、僕の記憶に間違いなければ、1952年生まれの世代にも〈しらけ世代・三無主義〉のレッテルは貼られていた。『朝日ジャーナル』がそうしていたような気がする。

わずか半年、1年の差がその後の人生物語に大きな影響を与えた発熱の時代があった。そこに近接する者の世代論には、なにか基準線のようなものが必要だ。僕たちのすぐ後ろには〈1952年のヨンニッパー〉があった。

新型コロナウイルスが関係性を分断しはじめて18カ月が過ぎた。動きを止めても時は光の陰となって過ぎ去っていく。体力知力は衰えていく。戦後史はいまだ継続している。戦前史に切れ目なくつながっていくかもしれない。

時の流れに棹さすとき、僕にできることは何か。結局のところ、書くしか能がない。で、またまた長々と書いてしまった。

『ラスト・オキュパイド・チルドレン』というタイトルの本を書くまで、僕の「死ぬまで18歳」は続く。そんな気がしてきた。やれやれ。

 「時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある」

(『猫を棄てる』村上春樹/2020年/帯文)

【参考資料

 映画『きみが死んだあとで』(代島治彦監督/20214月公開)

同公式パンフレット

書籍『きみが死んだあとで』(代島治彦/晶文社/2021630日)

『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹/2007年/文藝春秋)

『ぼくの大好きな青髯』(庄司薫/1977年/中央公論)

『僕って何』(三田誠広/1977年/河出書房新社)

『風の歌を聴け』(村上春樹/1979年/講談社)

1973年のピンボール』(村上春樹/1980年/講談社)

『農的幸福論~藤本敏夫からの遺言』(加藤登紀子編/2009年/角川文庫)

『兵どもが夢の先』(高橋公/2010年/ウエイツ)

『吉本隆明詩集』(吉本隆明/思潮社/1963年)

映画『痛くない死に方』(高橋伴明監督/20212月公開)

『映画「痛くない死に方」読本』(「痛くない死に方」製作委員会/ブックマン/2021216日)

『福島の原発事故をめぐって~いくつか学び考えたこと』(山本義隆/みすず書房/2011825日)

『私の1960年代』(山本義隆/金曜日/2015年)

『近代日本一五〇年』(山本義隆/岩波新書/2018年)

『猫を棄てる~父親について語るとき』(村上春樹/文藝春秋/2020年)

田中文脈研究所

「ラスト・オキュパイド・チルドレン」(2010810日)

https://bunmyaku.blogspot.com/2010/08/blog-post.html

「丸亀高校」(20101022日)

https://bunmyaku.blogspot.com/2010/10/blog-post_22.html

「ガリをキル」(201199日)

https://bunmyaku.blogspot.com/2011/09/blog-post.html

「草莽の士・高橋公さん」(2011年10月6日)

https://bunmyaku.blogspot.com/2011/10/blog-post.html

「村上春樹とコンテキスター」(2014年11月29日)

https://bunmyaku.blogspot.com/2014/11/blog-post.html

SEALDs for Contexter」(2016年4月11日)

https://bunmyaku.blogspot.com/2016/04/sealds-for-contexter.html

 ふるさと回帰支援センター

https://www.furusatokaiki.net/