1970年4月、僕は早稲田大学に入学した。
そこに大先輩、ハムさんがいた。
早大全共闘、反戦連合のハムさんがいた。
現在はふるさと回帰支援センターの専務理事であり事務局長の高橋公さんだ。
高橋公さん、本名はひろしだ、ということをつい最近になって知った。
僕たちはみんな「公」の字からハムさんと呼んでいる。
ハムさんのことは忘れていた。
意識の奥深いところに押し込めていた、というのが正確な言い方だが。
ところが、昨年、電通を脱藩する直前に、「農村六起プロジェクト」の新聞広告で久しぶりにハムさんのお顔を見た。
農山漁村が抱える社会的課題を、1次、2次、3次産業を効果的に結合・融合した6次産業(1×2×3=6)によって解決していく。
菅原文太さんとの対談広告を見て、いつかハムさんと繋がるような気もしていた。
今年、綾部で田植えをしている頃、盟友、原田ボブに連れられて伊丹のフレンズという本屋さんに行った。
ここには「半農半X堂」という本屋の中の本屋がある。
半農半X研究所の塩見直紀さんの文脈に連なる本が並べられている棚のことだ。
その文脈棚を眺めて驚いた。
「高橋公」の「兵たちが夢の先」という本の背表紙が目に飛びこんできたのだ。
「おお、ハムさんの本や!」と僕は興奮して手に取った。
聞けば、塩見さんとハムさんは、一度、対談したことがあったらしく、塩見さん経由、ボブの推薦でこの本はここに存在したらしい。
脱藩してコンテキスターという勝手な職能を名乗り、さまざまな縁脈の渦に飛びこんでいるが、まさかこんなに早くハムさんにたどりつくとは思わなかった。
ハムさんは1947年生まれだ。まさに団塊の世代である。
僕とボブの重要なコンテキストにラスト・オキュパイド・チルドレンという世代論がある。
1952年4月28日、日本が占領国でなくなる直前に生まれた子供たち、という意味だ。LOC(Last Occupied Children) は、団塊世代とは明らかに違っている。
ハムさんは僕にとって団塊世代の代表選手だ。
電通時代の36年間もさまざまな団塊に揉まれてきた。
が、ハムさんのような人は唯一無二だ。ハムさんはぶれない。
香川県立丸亀高校を卒業して、憧れの東京に出てきた18歳男子は早稲田のキャンパスにいる。正門の柱によじ登ってアジテーションをしている男が見える。それまで早稲田で出会った学生たちとは明らかに見た目がちがう。魚屋のお兄さんのようだ。
それがハムさんだった。
本の表紙、バルコニーの上で皮ジャンを着て微笑んでいる男だ。
アジ演の内容はまったく覚えていない。が、ハムさんが強烈なオーラを放っていたことだけは今でも鮮明に覚えている。
当時の早稲田大学には全共闘運動の最終ステージがかろうじてあった。70年安保闘争というものは、実質的には1969年に終わっていたのだ。
だが、ハムさんのファイティング・ポーズは田舎高校生が想像していた全共闘そのものだった。
丸亀高校の赤い応援団であった僕は、当然、デモに参加する。ただし、早稲田学内の諸事情など何も分からない。ただ、全共闘の残り香をかぐために「ノンセクト・ラジカル」の黒いヘルメットには憧れた。
ハムさんは当時の全共闘の必須アイテムであったヘルメットをあまり被らない人だった記憶がある。
70年の春、早稲田キャンパス内でヘルメットを被らずにデモしていた僕に、自分の黒ヘルをぽんとくれた人がいた。
僕の記憶の中では、それがハムさんであったような気がしてならない。以後、大学を卒業するまで、その黒ヘルは神田川近くの僕の下宿にあった。
大学を卒業してから、この時代のことは封印していた。
でも、一部の団塊世代とはちがって、LOCは燃え尽きていない。
「世の中のために働く」という夢想を持って動き出した時、全共闘のことはいつも頭の片隅にあった。オープンでフラットなタテ型ではない組織体とは全共闘の理想だったような気がする。
僕の「全共闘」は美化されすぎているのかもしれない。
1968年と1969年を実体験した人は、僕が「全共闘」を語るとこう言うだろう。
お前らみたいな「みそっかす」に全共闘の何が分かる、ゲバルトのひとつもしたことがないくせに。
そうなんです。ぼくたちラスト・オキュパイド・チルドレンにはあなたたちのやってきたことが分からない。だからこそ、皆さんに語ってほしいのです。
団塊にぶら下がっていた最後の世代は、ものごとの後始末をする義務がある、団塊文脈を整理整頓するミッションがある、と僕と原田ボブはよく話している。
もう脱藩して1年以上になったので、はっきり書くが、電通にも団塊=全共闘経験者はたくさんいたはずだ。企業戦士たちは黙して語らないが。
だが、ハムさんは語ってくれた。
「兵(つわもの)どもが夢の先」を読んで、僕は僕が入学する以前の早稲田で何が起こっていたのかをはじめて時系列で理解した。
こんなことがあった。
入学してすぐの頃、キャンパス内を歩いていた僕にすっと近づいてきた学生がいる。
彼は問う。
「君は反戦連合のシンパなのか?」
18歳の僕はとびきりの笑顔で答える。
「はい、そうです!」
その学生は憐れむような呆れたような表情で僕から去って行った。
もちろん彼は生え抜きの革マルだったのだろう。
あまりに無邪気なみそっかすはまったく相手にもされなかった。
もしも、当時の僕が早稲田大学内の政治状況をシビアーに理解していたら、こんな対応はできなかっただろう。
当時、僕は「早稲田大学出版事業研究会」というサークルに所属していた。
その出研の先輩たちから「兵(つわもの)たち」の話はよく聞いていた、と思う。
あの頃の僕は今より感受性が強かったはずだが、59歳になりハムさんの本に出会って、ようやくすべてが理解できた気がする。
ハムさんが僕の大先輩であることを塩見直紀さんにお話させていただいてから、不思議なことが起こった。
ハムさんから塩見さんに連絡があって、9月16日に大阪の「ふるさと回帰フェア」で塩見さんが基調講演をすることになったという。
もちろん、僕はハムさんに会いに行った。ハムさんの声を聞きに行った。
ハムさんと塩見さんはお二人とも、「妙に気が合う」と口にされている。
それもそのはずである。
お二人とも「草莽(そうもう)の士」なのだから。
草莽とは、「くさむら、田舎、民間、在野、世間」のこと、と大辞林にある。
草莽の志士とは幕末にあって、変革思想の先駆けとなりヨコのネットワークを構築して世の中を変えていった吉田松陰たちのことである。
塩見直紀さんと高橋公さん、くさむらの中から野火をあげた草莽の士たちの行動様式は311後の重要な指針になると思う。
ハムさんは反戦連合で政治運動をされていたわけではなかったのですね。
ハムさんは塩見さんが言うところのX探しをされていたわけですね。
多くの学生は、理論よりも時代の風潮や戦後社会の矛盾、管理社会の浸透やアメリカ一辺倒のやり方などに反発して全共闘に共鳴したのではないだろうか。言い方を変えれば、全共闘はイデオロギーではなく、行動様式こそが全共闘たるゆえんではないだろうか。
「兵たちが夢の先」P67
現在、ハムさんは「認定NPO法人ふるさと回帰支援センター」でふるさと残しのための草莽ネットワークを模索されている。そして団塊世代へのアジテーションを続けている。
あれから四十年、時代が変わるかもしれないという予感を感じさせることが、この国には何回かあったように思う。しかし、我らが全共闘の諸君は黙して語らず。何か行動でも起こすのかと思ったが、結局何もなかった。ただ、各地で取り組まれている目新しい活動が起こると、そこにはかつての全共闘運動の経験者が活躍しているケースが多いことも確かだ。しかし、残念ながらそうした運動のネットワーク化はできていない。こうしたネットワークをつくるのが難しいのも事実だ。政治や政治党派によって一度は裏切られたり、だまされたりしている世代であるから、なかなか人を信用しない。まただまされるのではないか、と思ってしまうのだろう。だからといって沈黙を決め込むのは無責任だ。
「兵たちが夢の先」P210
今、僕がコンテキスターとして関わっている全国地域おこし協力隊連合=村楽LLP(有限責任事業組合)もまた、この国を変える草莽ネットワークのひとつになる可能性がある。
村楽LLPはまさにパルチザン(遊撃隊)だと、僕は考えている。
ふるさと回帰支援センター専務理事の高橋公さんと村楽LLP、微力ながらそのコンテキストを繋いでみよう。
ラスト・オキュパイド・チルドレンとして。
いまや日本という国が崩壊の瀬戸際に追い込まれているといっても過言ではない。二十一世紀に入った今こそ、これからの日本をどのような国として再生するのかを真剣に議論するときに来ていると考える。そのためにも歴史は語り継がれなければならないと思うのである。
「兵たちが夢の先」P2
これは311後に書かれた文章ではない。2010年の盛夏に書かれたものだ。
ハムさんは、福島県相馬市の出身だ。
フクシマの山河が破れて以来、いまだにふるさとには帰っていないという。
ハムさんはこの本の序文でこう書いている。
あの四十年前の全共闘運動で亡くなられたり、あるいはその影響を受けることによって自らの命を絶った多くの仲間たちのご冥福をお祈りするとともに、この本が戦後の民主教育を受け、生き抜いてきた一人の団塊世代の記録として、国を憂い社会のために生きたいと思う、心ある草莽の士を自負される皆さんの明日に生きるなにがしかの糧になればと愚考する。
「兵たちが夢の先」P9
ハムさん、ありがとうございます。
ハムさんのメッセージは僕の明日への糧になりました。
僕自身はとても草莽の士とは言えないけれど、今、この列島には草莽から出て草莽の火付け人になっている志士たちが輩出しつつある。
その動きはもう止まらない。
あの頃、関学にはそんな雰囲気はなかった。
返信削除タテ看とアジ演説も残っていたけど
みんな素通りだった。
敗北感のようなものが漂っていた。
「大学生の若大将」を見て
大学をイメージしていた俺は(笑)
階段教室の上の方で
「つまんない。ラジオ講座といっしょやん」って思ってた。
高校時代が良かっただけに
大学にはなじめなかった・・・。
フミメイの村楽にかける情熱のルーツを
知ることができました。
俺がオープンでフラットにこだわるんも
LOCだからかな?なんて思ってきました。
いつもありがとうございます。
秋高し気持ちはいつも十八歳 基風