ようやく秋も深まってきた。僕の脱藩生活も深まってほしいものだ。
と、人ごとのように言っていると誰かに叱られそうだ。
僕は変わり続けているのだ、と信じたい。
ようやく畑仕事を始めたし、料理修行のスタンバイもした。
どこまでやりきれるかは保証の限りではないが、やったことがないことをやってみるのは変わり続けるための必要条件だ。
さとなおも「変わり続けること」というエントリーで決意表明を新たにしている。
いきなり決意表明などとアジエン(アジテーション演説のこと)のようになるのは、「街場のメディア論」(内田樹)の影響だ。以下、引用。
総数600万と呼ばれるブログには、これまで身辺雑記エッセイが多く含まれていました。ところが、ここにツイッターという新しいメディアが出てきました。これはいかにも日常の出来事を「随筆風」に点描するのにジャストフィットなツールですので、ブログの書き手たちの相当数はすでにツイッターに流れています。いずれ、ブログにはそういう「やわらかいネタ」を排除した残りの、政治経済社会文化のもろもろの事象についての「演説」に類するものが残されるのではないかと僕は予測しています。
このブログの更新頻度が少ないのは、演説するための心の準備に時間がかかるからです。
しかも、文脈研究所のエントリーは自分で自分に対して演説しているので、さらにハードルが高いのです。
と例によって言い訳をしておこう。
そして今回のエントリーは、僕の演説の原点を語りたいと思う。
僕は1970年に香川県の丸亀高校を卒業している。そして早稲田大学に行った。
正直に言って、早稲田大学への愛着はない。「都の西北」は歌ったことがない。その代わりに「ワルシャワ労働歌」や「友よ」を歌っていた。
だが、丸亀高校校歌への愛着はある。なぜなら、僕は丸亀高校応援団であったから。
15歳から18歳まで、丸亀高校(以下、丸高)で過ごした日々は面白かった。
ラスト・オキュパイド・チルドレンである僕は丸高時代にモノの考え方のプロトタイプを構築した。そして58歳の今に至っている。
丸高卒業後の40年間で同窓会には一度しか出席したことがない。
そこで僕は18歳からほとんど変わっていないと言われた。もちろん、見た目は充分に老けているが。
「死ぬまで18歳」と歌ったのはブライアン・アダムスだ。それはクールなことなのだろう。
だが、実際のところ、18歳のややこしい精神構造のまま生き続けるのなんて面倒くさいと思う。変わっていないと言われると複雑な気分だ。
18歳から変わっていないのではなく、あの頃に原点を持つ文脈にまだこだわりを持っている、と言う方が正解だと本人は思っている。
その文脈が形成されたのは1967年から1970年だ。丸高時代の3年間は全世界的に激動の時代だった。
パリでは想像力が権力を奪取しそうだった。サンフランシスコではフラワー・チルドレンたちがレイド・バックしていた。東京では神田にカルチェラタンができて大きな講堂が水浸しになっていた。
そして僕は片田舎の高校生だった。坂出から丸亀まで自転車を飛ばし、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み、ビートルズの赤盤を買いあさり、応援団の練習で声をからせていた。その状況は、まさに芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」そのものだった。
純朴な丸高生だった僕に、東京に行った応援団の先輩から熱い手紙が届く。
俺は新宿で石、投げじょるんで。よいよ、おもっしょいけんな。お前もはよ来てつか。
讃岐弁で言えば、こういう主旨のことを書き連ねてくる。その手紙はテレビで見る全共闘の映像よりも激しく、僕のパトスをあおってくれた。
重ねて言うが、応援団である。普通は右翼集団である。
ところが、この先輩も含めて、当時の丸高応援団は妙に左翼のニオイがした。
東京に行ってはじめてデモに参加したとき、応援のリズムとデモのリズムって似ている、と僕は感じた。
丸高の真ん中には広場がある。
もしくは、あった。最近、行ったことがないのでよく分からないが。
その広場には赤いタイルが敷きつめてある。
僕たちの応援団は、その広場を「赤の広場」と呼んでいた。
その頃の高校生にとって左翼的なるものは、すべからくかっこよかったのですね。
モスクワであろうが、毛沢東であろうが、チェ・ゲバラであろうが、あまりコンセプトの違いは関係なかった。
かっこいいと自分勝手に思いこんでいた僕たちは派手好きだった。
文化祭には講堂で演舞をやった。けっこうな人気だったと思うのだけど。
芦原すなおの小説に出てくるようなロックバンドの代用品だったのかもしれない。
そして赤い応援団には妙な縁脈があった。大江健三郎をきどって難解な文体の詩を書いていたやつ、琴平の旅館の息子で僕にはじめてのビールをしこたま飲ませてくれたやつ、などなど。
もしかしたら、僕だけが勝手に赤い志向を持っていたのかもしれない。他のメンバーは普通の応援団だったのかもしれない。僕は丸高応援団は今でも大好きだが、丸高野球部のことはほとんど覚えていない。応援団なんだから、野球の応援はしていたはずだけどね。
ただ、はっきり言えるのは、僕は丸高生時代に「永遠の左翼青年」たる文脈を形成してしまった、ということだ。ここでいう左翼というのは、必ずしも思想信条的なものとは限らない。もっと単純に言えば、「へそ曲がり」「天の邪鬼」というほうが当たっているのかもしれない。
その気質で得をしたのか、損をしたのかは今でも分からない。ただ、D社の社風には合っていたようには思う。
考えてみれば、スティーブ・ジョブズだって、ビル・ゲイツだって「永遠の左翼青年」のようだ。
スティーブ・ジョブズは左翼急進主義で、ビル・ゲイツは議会制民主主義型左翼という違いはあるが。
赤い丸高応援団だった僕は、早大全共闘に馳せ参じて・・・となれば文脈は単純なんだが、ラスト・オキュパイド・チルドレンの人生は複雑ですね。これもまた宿題エントリーですね。
ではなぜ、そのような気質を持つに至ったのか。
まずは丸亀という土地が持つコンテキストが妙に明るかったことだ。
それは街の真ん中に素敵なお城を持っていることとも関係していたように思う。
丸亀城は丸高生の運動場であり遊び場であった。思い出は尽きない。
その「亀城のほとり、富士の下」にあった丸亀高校には自由な雰囲気が漂っていたように思える。
一応、香川県ではナンバー2の進学校だった。受験の重い現実は当時もいっしょである。
でも、自由気ままな赤い応援団である僕が、その受験にさえ「へそを曲げて」も受け入れてくれる寛容度は充分にあった。そのはずだ。
と書いているうちに、もしかしたら僕は真面目な受験生たちの邪魔をしていたのかもしれない。いや、そうに違いない、という気がしてきた。今さらながら、ごめんなさい。
当時の丸亀高校関係者がこのエントリーを読んだら、またあいつが勝手なことを、とお怒りになるかもしれない。
でも丸高に対する僕の愛着は本物です。
脱藩して、こういうブログを書き連ねるようになった原点は、丸高の3年間で培われた。
その文脈にのっとって、僕はこれからも変わり続けねばならない。
そのためには、ときどき、こうして自分で自分の応援演説をする必要がある。
フレー、フレー、自分。
と、人ごとのように言っていると誰かに叱られそうだ。
僕は変わり続けているのだ、と信じたい。
ようやく畑仕事を始めたし、料理修行のスタンバイもした。
どこまでやりきれるかは保証の限りではないが、やったことがないことをやってみるのは変わり続けるための必要条件だ。
さとなおも「変わり続けること」というエントリーで決意表明を新たにしている。
いきなり決意表明などとアジエン(アジテーション演説のこと)のようになるのは、「街場のメディア論」(内田樹)の影響だ。以下、引用。
総数600万と呼ばれるブログには、これまで身辺雑記エッセイが多く含まれていました。ところが、ここにツイッターという新しいメディアが出てきました。これはいかにも日常の出来事を「随筆風」に点描するのにジャストフィットなツールですので、ブログの書き手たちの相当数はすでにツイッターに流れています。いずれ、ブログにはそういう「やわらかいネタ」を排除した残りの、政治経済社会文化のもろもろの事象についての「演説」に類するものが残されるのではないかと僕は予測しています。
このブログの更新頻度が少ないのは、演説するための心の準備に時間がかかるからです。
しかも、文脈研究所のエントリーは自分で自分に対して演説しているので、さらにハードルが高いのです。
と例によって言い訳をしておこう。
そして今回のエントリーは、僕の演説の原点を語りたいと思う。
僕は1970年に香川県の丸亀高校を卒業している。そして早稲田大学に行った。
正直に言って、早稲田大学への愛着はない。「都の西北」は歌ったことがない。その代わりに「ワルシャワ労働歌」や「友よ」を歌っていた。
だが、丸亀高校校歌への愛着はある。なぜなら、僕は丸亀高校応援団であったから。
15歳から18歳まで、丸亀高校(以下、丸高)で過ごした日々は面白かった。
ラスト・オキュパイド・チルドレンである僕は丸高時代にモノの考え方のプロトタイプを構築した。そして58歳の今に至っている。
丸高卒業後の40年間で同窓会には一度しか出席したことがない。
そこで僕は18歳からほとんど変わっていないと言われた。もちろん、見た目は充分に老けているが。
「死ぬまで18歳」と歌ったのはブライアン・アダムスだ。それはクールなことなのだろう。
だが、実際のところ、18歳のややこしい精神構造のまま生き続けるのなんて面倒くさいと思う。変わっていないと言われると複雑な気分だ。
18歳から変わっていないのではなく、あの頃に原点を持つ文脈にまだこだわりを持っている、と言う方が正解だと本人は思っている。
その文脈が形成されたのは1967年から1970年だ。丸高時代の3年間は全世界的に激動の時代だった。
パリでは想像力が権力を奪取しそうだった。サンフランシスコではフラワー・チルドレンたちがレイド・バックしていた。東京では神田にカルチェラタンができて大きな講堂が水浸しになっていた。
そして僕は片田舎の高校生だった。坂出から丸亀まで自転車を飛ばし、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み、ビートルズの赤盤を買いあさり、応援団の練習で声をからせていた。その状況は、まさに芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」そのものだった。
純朴な丸高生だった僕に、東京に行った応援団の先輩から熱い手紙が届く。
俺は新宿で石、投げじょるんで。よいよ、おもっしょいけんな。お前もはよ来てつか。
讃岐弁で言えば、こういう主旨のことを書き連ねてくる。その手紙はテレビで見る全共闘の映像よりも激しく、僕のパトスをあおってくれた。
重ねて言うが、応援団である。普通は右翼集団である。
ところが、この先輩も含めて、当時の丸高応援団は妙に左翼のニオイがした。
東京に行ってはじめてデモに参加したとき、応援のリズムとデモのリズムって似ている、と僕は感じた。
丸高の真ん中には広場がある。
もしくは、あった。最近、行ったことがないのでよく分からないが。
その広場には赤いタイルが敷きつめてある。
僕たちの応援団は、その広場を「赤の広場」と呼んでいた。
その頃の高校生にとって左翼的なるものは、すべからくかっこよかったのですね。
モスクワであろうが、毛沢東であろうが、チェ・ゲバラであろうが、あまりコンセプトの違いは関係なかった。
かっこいいと自分勝手に思いこんでいた僕たちは派手好きだった。
文化祭には講堂で演舞をやった。けっこうな人気だったと思うのだけど。
芦原すなおの小説に出てくるようなロックバンドの代用品だったのかもしれない。
そして赤い応援団には妙な縁脈があった。大江健三郎をきどって難解な文体の詩を書いていたやつ、琴平の旅館の息子で僕にはじめてのビールをしこたま飲ませてくれたやつ、などなど。
もしかしたら、僕だけが勝手に赤い志向を持っていたのかもしれない。他のメンバーは普通の応援団だったのかもしれない。僕は丸高応援団は今でも大好きだが、丸高野球部のことはほとんど覚えていない。応援団なんだから、野球の応援はしていたはずだけどね。
ただ、はっきり言えるのは、僕は丸高生時代に「永遠の左翼青年」たる文脈を形成してしまった、ということだ。ここでいう左翼というのは、必ずしも思想信条的なものとは限らない。もっと単純に言えば、「へそ曲がり」「天の邪鬼」というほうが当たっているのかもしれない。
その気質で得をしたのか、損をしたのかは今でも分からない。ただ、D社の社風には合っていたようには思う。
考えてみれば、スティーブ・ジョブズだって、ビル・ゲイツだって「永遠の左翼青年」のようだ。
スティーブ・ジョブズは左翼急進主義で、ビル・ゲイツは議会制民主主義型左翼という違いはあるが。
赤い丸高応援団だった僕は、早大全共闘に馳せ参じて・・・となれば文脈は単純なんだが、ラスト・オキュパイド・チルドレンの人生は複雑ですね。これもまた宿題エントリーですね。
ではなぜ、そのような気質を持つに至ったのか。
まずは丸亀という土地が持つコンテキストが妙に明るかったことだ。
それは街の真ん中に素敵なお城を持っていることとも関係していたように思う。
丸亀城は丸高生の運動場であり遊び場であった。思い出は尽きない。
その「亀城のほとり、富士の下」にあった丸亀高校には自由な雰囲気が漂っていたように思える。
一応、香川県ではナンバー2の進学校だった。受験の重い現実は当時もいっしょである。
でも、自由気ままな赤い応援団である僕が、その受験にさえ「へそを曲げて」も受け入れてくれる寛容度は充分にあった。そのはずだ。
と書いているうちに、もしかしたら僕は真面目な受験生たちの邪魔をしていたのかもしれない。いや、そうに違いない、という気がしてきた。今さらながら、ごめんなさい。
当時の丸亀高校関係者がこのエントリーを読んだら、またあいつが勝手なことを、とお怒りになるかもしれない。
でも丸高に対する僕の愛着は本物です。
脱藩して、こういうブログを書き連ねるようになった原点は、丸高の3年間で培われた。
その文脈にのっとって、僕はこれからも変わり続けねばならない。
そのためには、ときどき、こうして自分で自分の応援演説をする必要がある。
フレー、フレー、自分。
0 件のコメント:
コメントを投稿