最近、コンテキスターって何ですか、というメンションをツイッターでもらった。
とりあえず、以前のエントリーをご紹介させていただいた。しかし、そろそろまたコンテキスターについて語らないと、この言葉にサステナビリティがなくなりそうだ。
CONTEXTER、コンテキスターというのは僕の造語だ。正しい英語かどうかは分からない。
脱藩後の自分の肩書きをを考えていたときに、ふと思いついた言葉だ。今年の2月のことだった。
元々、コンテキストという言葉に興味があった。
コンテキストとは背景、世界観、関係性、織り方、そして文脈。なかなか味わい深い。
この言葉は広告業界では、あまり頻繁に使われる言葉ではなかった。CMを中心とする広告はコンテンツという言葉でくくられることが多い。ところがメディアが変化するにつれて、単独のコンテンツでコミュニケーションを浸透させるのは困難な時代になってくる。
僕はD社にいた最後の10年間でネットの世界と深く関わった。しかもほとんど先人がいなかったインタラクティブ・クリエーティブのCDだった。iCRというチームでさまざまな経験をしてきた。
そこでは、しばしばコンテキストという言葉を使った方がものごとをうまく説明できたような気がする。
たとえば、「ワン・ソース、マルチ・ユース」という広告用語があった。ひとつのコンテンツをクロス・メディアして使用するという意味だ。4マスで広告コミュニケーションが成立していた時代にはそれでもよかったが、ネット環境では少しそぐわない感じがした。
インターネットが体液のようになった生活者に対しては、「ワン・コンテキスト、クロス・ソース」という表現の方が当たっている。そのブランドのベネフィットを一定の文脈で、たくさんの口がしゃべる方が強く伝わる。
というようなことを2009年秋にはしゃべっていた。
また、2002年には「ブランド戦略シナリオーコンテクスト・ブランディング」という本を棚入れしている。あまりマーケティング系の本を保存することはないのだが、「文脈競争優位」というキャッチフレーズに惹かれて、会社のデスクにいれておいたのであろう。
このエントリーは広告関係でまとめる気はない。ただ、コンテキストという言葉が広告業界でもキーになりつつあることを確認しておく必要はあると思う。
「使ってもらえる広告」の著者、須田和博さんも、生活者はコンテンツ消費からコンテクスト消費へとシフトしつつある、と説いている。
さらに、最近は出版界でもコンテキストはキーワードになっているらしい。
佐々木俊尚さんは「電子書籍の衝撃」を紙とeブックの両方で出版することにより、コンテキストの循環プロセスを実践したそうだ。
読者とコンテキストを共有した本は、時代の集合的無意識をすくいあげて、また新たなコンテキストを生み出していく、ということだ。
その佐々木さんを師匠と仰ぐ「リストラなう!」たぬきちさんの言葉を引用して、これからはコンテキストの時代である、ということを再認識しよう。
なぜその本が書かれたのか、この本を読む意味は、読んでどうトクするのか、今この本を読む必然性とは……そういったことがお客さんである読者に伝わるよう周辺を整理しなきゃならない。そして大勢の読者にその本について語り合ってもらえる場を用意すること、などなどなど。
つまり読者の人生にその本の居場所を作ってやる。それが「本をソーシャル化する」ことだと思う。
本をソーシャル化する、ということは本を生活者のコンテキストの中で価値あるモノにする、と言い替えてもいいですかね、たぬきちさん。
さてさて、コンテキスターの話をしなきゃ。
脱藩後、1クールを経過した現時点では、僕の考えるコンテキスターとは単純な話になりつつある。
コンテキスターとは、文脈の接続者である。
あまりに簡単な定義ですみません。でも、そうなんです。
このエントリーで、僕がつたなくも試みていることがコンテキスターのことはじめなのだ。
たとえば、広告界と出版界を「コンテキスト」という文脈で接続してみること。
たとえば、リアルな世界で自分の親戚と仕事仲間を接続してみること。
たとえば、ツイッターで@と@をメンションしてRTして接続してみること。
これらの行為がコンテキスターのミッションなのだ。
よろず、ものごとを接続する者をコンテキスターと呼んだら、自分の中ではすごくすっきりする。
考えてみたら、文脈を接続する行為を表す言葉ってなかったのですね。
コネクターでは、あまりに物理的だ。
フィクサーでは、生臭い。
プロデューサでは、お金がからむ感じがする。
コンテキスターというのが、僕にとって適度な温度感を持った言葉だった。
さらに考えてみたら、坂本龍馬だってコンテキスターと言えるのではないか。
長州と薩摩と土佐の文脈を接続して、未来を指向した。
その未来が1945年8月15日に繋がったのは情けない話だが、これは別エントリーに棚入しておこう。
と書いているうちに、聞こえてきたメロディがある。
恥ずかしながら(笑)、D社の社歌だ。
♪おお、D社、◯◯と◯◯つなぐ~、というあれですね。
現役時代、あまり社歌に対するロイヤリティはなかった。でも、確かにこれはコンテキスター賛歌とも言える。繋いで、接続して、そして前に行くのだ。
D社のDNAのよいところは、ひたすら前向きなところだった、と僕は思っている。いかに問題が多くても、猪突猛進と言われようとひたすらポジティブなDNAだ。
そう、コンテキスターは接続して前に行かなければならない。
善循環説に立たないと、接続する行為は持続しない。
そういう意味では、D社を卒業した僕がコンテキスターという肩書きを目指しているのは正しい道のような気がする。
僕はまだ世の中に対しては、コンテキスターと名乗ったことはない。
ツイッターとこのブログの中でのみ、すなわち自分に対する道筋としてコンテキスターという言葉を使っている。
まずは身近なモノとコトから文脈を接続していき、それが世の中全体に何らかの善循環をもたらせば最高だ。
だが、今の僕には、そこまで高らかにコンテキスターのミッションを宣言する自信はない。
明確に言えるのは、僕は自分の文脈を正しく接続していきたい、ということだ。
1952年から今日まで生きてきた僕の中にはさまざまな文脈がからまっているはずだ。
その文脈をひとつの流れに接続していけば、必ず見えてくるものがあると思う。
過去の自分と今の自分と未来の自分を繋ぐ接続者でありたい。
これが、僕のコンテキスターとしてのスタートラインだ。
とりあえず、以前のエントリーをご紹介させていただいた。しかし、そろそろまたコンテキスターについて語らないと、この言葉にサステナビリティがなくなりそうだ。
CONTEXTER、コンテキスターというのは僕の造語だ。正しい英語かどうかは分からない。
脱藩後の自分の肩書きをを考えていたときに、ふと思いついた言葉だ。今年の2月のことだった。
元々、コンテキストという言葉に興味があった。
コンテキストとは背景、世界観、関係性、織り方、そして文脈。なかなか味わい深い。
この言葉は広告業界では、あまり頻繁に使われる言葉ではなかった。CMを中心とする広告はコンテンツという言葉でくくられることが多い。ところがメディアが変化するにつれて、単独のコンテンツでコミュニケーションを浸透させるのは困難な時代になってくる。
僕はD社にいた最後の10年間でネットの世界と深く関わった。しかもほとんど先人がいなかったインタラクティブ・クリエーティブのCDだった。iCRというチームでさまざまな経験をしてきた。
そこでは、しばしばコンテキストという言葉を使った方がものごとをうまく説明できたような気がする。
たとえば、「ワン・ソース、マルチ・ユース」という広告用語があった。ひとつのコンテンツをクロス・メディアして使用するという意味だ。4マスで広告コミュニケーションが成立していた時代にはそれでもよかったが、ネット環境では少しそぐわない感じがした。
インターネットが体液のようになった生活者に対しては、「ワン・コンテキスト、クロス・ソース」という表現の方が当たっている。そのブランドのベネフィットを一定の文脈で、たくさんの口がしゃべる方が強く伝わる。
というようなことを2009年秋にはしゃべっていた。
また、2002年には「ブランド戦略シナリオーコンテクスト・ブランディング」という本を棚入れしている。あまりマーケティング系の本を保存することはないのだが、「文脈競争優位」というキャッチフレーズに惹かれて、会社のデスクにいれておいたのであろう。
このエントリーは広告関係でまとめる気はない。ただ、コンテキストという言葉が広告業界でもキーになりつつあることを確認しておく必要はあると思う。
「使ってもらえる広告」の著者、須田和博さんも、生活者はコンテンツ消費からコンテクスト消費へとシフトしつつある、と説いている。
さらに、最近は出版界でもコンテキストはキーワードになっているらしい。
佐々木俊尚さんは「電子書籍の衝撃」を紙とeブックの両方で出版することにより、コンテキストの循環プロセスを実践したそうだ。
読者とコンテキストを共有した本は、時代の集合的無意識をすくいあげて、また新たなコンテキストを生み出していく、ということだ。
その佐々木さんを師匠と仰ぐ「リストラなう!」たぬきちさんの言葉を引用して、これからはコンテキストの時代である、ということを再認識しよう。
なぜその本が書かれたのか、この本を読む意味は、読んでどうトクするのか、今この本を読む必然性とは……そういったことがお客さんである読者に伝わるよう周辺を整理しなきゃならない。そして大勢の読者にその本について語り合ってもらえる場を用意すること、などなどなど。
つまり読者の人生にその本の居場所を作ってやる。それが「本をソーシャル化する」ことだと思う。
本をソーシャル化する、ということは本を生活者のコンテキストの中で価値あるモノにする、と言い替えてもいいですかね、たぬきちさん。
さてさて、コンテキスターの話をしなきゃ。
脱藩後、1クールを経過した現時点では、僕の考えるコンテキスターとは単純な話になりつつある。
コンテキスターとは、文脈の接続者である。
あまりに簡単な定義ですみません。でも、そうなんです。
このエントリーで、僕がつたなくも試みていることがコンテキスターのことはじめなのだ。
たとえば、広告界と出版界を「コンテキスト」という文脈で接続してみること。
たとえば、リアルな世界で自分の親戚と仕事仲間を接続してみること。
たとえば、ツイッターで@と@をメンションしてRTして接続してみること。
これらの行為がコンテキスターのミッションなのだ。
よろず、ものごとを接続する者をコンテキスターと呼んだら、自分の中ではすごくすっきりする。
考えてみたら、文脈を接続する行為を表す言葉ってなかったのですね。
コネクターでは、あまりに物理的だ。
フィクサーでは、生臭い。
プロデューサでは、お金がからむ感じがする。
コンテキスターというのが、僕にとって適度な温度感を持った言葉だった。
さらに考えてみたら、坂本龍馬だってコンテキスターと言えるのではないか。
長州と薩摩と土佐の文脈を接続して、未来を指向した。
その未来が1945年8月15日に繋がったのは情けない話だが、これは別エントリーに棚入しておこう。
と書いているうちに、聞こえてきたメロディがある。
恥ずかしながら(笑)、D社の社歌だ。
♪おお、D社、◯◯と◯◯つなぐ~、というあれですね。
現役時代、あまり社歌に対するロイヤリティはなかった。でも、確かにこれはコンテキスター賛歌とも言える。繋いで、接続して、そして前に行くのだ。
D社のDNAのよいところは、ひたすら前向きなところだった、と僕は思っている。いかに問題が多くても、猪突猛進と言われようとひたすらポジティブなDNAだ。
そう、コンテキスターは接続して前に行かなければならない。
善循環説に立たないと、接続する行為は持続しない。
そういう意味では、D社を卒業した僕がコンテキスターという肩書きを目指しているのは正しい道のような気がする。
僕はまだ世の中に対しては、コンテキスターと名乗ったことはない。
ツイッターとこのブログの中でのみ、すなわち自分に対する道筋としてコンテキスターという言葉を使っている。
まずは身近なモノとコトから文脈を接続していき、それが世の中全体に何らかの善循環をもたらせば最高だ。
だが、今の僕には、そこまで高らかにコンテキスターのミッションを宣言する自信はない。
明確に言えるのは、僕は自分の文脈を正しく接続していきたい、ということだ。
1952年から今日まで生きてきた僕の中にはさまざまな文脈がからまっているはずだ。
その文脈をひとつの流れに接続していけば、必ず見えてくるものがあると思う。
過去の自分と今の自分と未来の自分を繋ぐ接続者でありたい。
これが、僕のコンテキスターとしてのスタートラインだ。
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