2年前の秋、僕は中国東北部の旅をした。
夫は当時の満州映画協会(満映)に勤務しつつ出征しており、敗戦時は行方知れずだった。幼い子供たちを連れた彼女は満映理事長、甘粕正彦が手配した列車で1945年8月13日に新京を脱出する。
満州という国が1932年3月1日から1945年の8月15日まで存在していた地域だ。
なぜ2年前のことを今頃、書いているのか。
それは2012年の展望を考えるためには満州国まで遡る必要がある、と個人的に感じているからだ。
それは2012年の展望を考えるためには満州国まで遡る必要がある、と個人的に感じているからだ。
満州には僕の妻もいっしょに行った。妻の家族のコンテキストも満州と深く繋がっていたからだ。満州は「消えた国」だ。そして妻の叔母は「消えた国から帰ってきた」人だ。
一方、僕の祖父、祖母、父、母たちも大連からの引き揚げ者だ。
大連そして長春(新京)、満州の歴史が色濃く残った2つの町を妻と友人の中国通夫妻とともに旅しながら、僕は家族の足跡を探していた。
大連港。うちの家族はすぐ近くに住んでいた。 |
かつて新京と呼ばれた長春 |
918を忘れるな、江澤民 |
偽満皇宮博物院 |
現在、中国では「偽満州国」と呼ばれている「国家」=共同体の文脈はこの列島の今に繋がっているはずだ。
満州に関する歴史書、評論、小説は無数にある。
満州の一大コンテキストの中では、さまざまな家族があの大地で暮らしを営んでいたはずだ。そして敗戦後の大波に翻弄されたことだろう。
甘粕正彦、石原完爾、李香蘭、岸信介など満州の著名人たちの周辺には無名の家族たちの歴史が埋もれている。
たとえば僕の家族、僕の妻の家族、そして盟友原田基風の家族。
満州をめぐる家族史の登場人物たちは天寿を迎えた方が多い。
満州をめぐる家族史の登場人物たちは天寿を迎えた方が多い。
彼らの歴史を深く掘り返すことはもう不可能だし、あえてやる必要もないと思う。
ただし、その極私的出来事の連なりは普遍性を持った文脈となる可能性がある。
その文脈を孫たちの世代に繋いでいくのは来年、還暦を迎えるラスト・オキュパイド・チルドレン(LOC)しかできない、と僕は原田基風から煽られている。
2011年、田中フミメイと原田ボブの個人的縁脈がいつのまにか半農半X研究所、村楽LLP、そして協創LLPの大縁脈に繋がった経験からすれば、極私から普遍への通路はそれほど狭いものではない。
かつての満州映画協会社屋 |
妻の叔母はまだご健在だ。彼女は明治45年生まれ、すなわち百歳になろうとしている。
彼女は1990年に「消えた国から帰ってきた」という小冊子を出版した。
敗戦時にソ連が侵攻してきた満州国の首都、新京(長春)から朝鮮半島を経て島根県の松江市まで引き揚げるまでの体験がみごとな筆致で綴られている。
甘粕正彦は満映社員にとってはやさしいボスだったらしい。
そして叔母の夫は甘粕のお気に入りだったようだ。彼女は新京脱出の直前に子供たちを連れて甘粕理事長と会見した。その模様を「消えた国から帰ってきた」で自筆のイラストにしている。
満映理事室で甘粕理事長に逢う |
無名の家族はひょっこりと歴史の中に顔を出す。
甘粕正彦が満映の理事をしていた頃の写真が「甘粕正彦 乱心の曠野」(佐野眞一著)という本の口絵に掲載されている。
主義者殺しとして恐れられていた甘粕が満映の運動会で葉巻を持って柔和な表情を見せている。その横で微笑んでいる男はどうやら彼女の夫らしい。残念ながらこの方は若くして亡くなったため本人に確認することはできないが。
無数の極私的エピソードから普遍を引き出す試みを続けよう。
彼女とその子供たちが引き揚げの途中、朝鮮半島で京城行きの汽車に乗る時にこんなエピソードがある。以下、「消えた国から帰ってきた」から引用してみよう。
【五等国】
やがて汽車に乗る為ホームに出た。ホームとは名ばかり高く長く盛り土された所だった。汽車の来るのを此処でしばらく待つ事になった。その内、○○(彼女の息子の名前、引用者注)が急にオシッコと云い出した。周囲にはトイレらしい所もなく居場所を離れ汽車が入ってきたら大変とだれも居ないホームの一番端に連れて行き用をたゝせた。コスモスが背高くピンク、白と咲き乱れていた。突然、大きな声が複数で聞こえた。花の向こうの木材の積み重ねた上で5、6人の朝鮮人が一斉にこちらを向いて野次っていた。「あんな所で立小便しやがって、日本国はやっぱり五等国だ。日本の五等国、五等国、五等国」と口々にはやしたてた。二流、三流を飛び越え五等国とは、いかに日本を憎んでいるかをまざまざと感じた。
そうなのだ。キーワードは「五等国」だ。
なぜ敗戦後の日本人は二等でも三等でもなく五等と罵られたのか。
その理由は「五族協和」というスローガンにある。「王道楽土」とともに満州国の建国理念だった。日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人の五族が民族自決の原則に基づき協同して世界平和を目指す、という理念である。
しかしながら、「協和」の現実は理念とはほど遠いものであった。五族には厳然たる差別があり日本人は自らのみを一等国として振るまっていた。その態度が敗戦後の反動となって、日本人は五族の最下層、すなわち「五等国」だ、という声になったのだと思う。
無名の引き揚げ家族に浴びせられた「五等国」という罵りは「五族協和」という理念がいかに虚しいものであったかという普遍を物語っている。
しかしながら、この理念を文字どおり受けとめた若者たちが満州国にいて、彼らの学舎があったことも歴史的事実だ。
その建国大学(建大)は満州国の思想的バックボーンだった石原完爾が新京に設立した「国立大学」だ。満映のすぐそばにあった。
創立当初の建大は、五族が全世界の思想を自由に学び夜を徹して「協和」の現実化を語り合う「王道楽土」だったらしい。
だが、やがて「五族協和」は宙に浮き、赤い夕日の彼方に遠ざかっていく。
理念と現実の落差を建大生たちはどんな気持ちで見ていたのだろうか。
その学生たちの一人が現在、「協創LLP」の代表を務める原田基風の父だったという。
僕たちの家族が「協和の時代」を生きたという歴史的縁脈は、今や「協創する時代」の文脈に繋がろうとしている。
というと、いきなり話がワープしてしまったように見えるだろうか。
しかし今年、2011年を思い起こしてほしい。
大量生産・大量生産の天津神に対して国津神が怒り狂ったような大震災。
そしてフクシマが暴露したこの国の政治社会システムの欺瞞性。
2011年は明治維新、敗戦に匹敵する歴史的な年として記憶され記録される。
昨日、金正日が死亡したことも象徴的なできごとである。彼の父、金日成は満州の地で抗日パルチザンとして戦っていた。満州に絡んだ歴史がもうひとつ大きな転換点を迎えたような気がする。
来年、2012年は満州建国から80周年という節目の年だ。
還暦を迎える僕たちはその80年のうち60年を生きてきた。
今、この時点で父たちが経験した「協和」の理念を「協創する時代」に繋ぐことは「世の中のために働く」という旗印をあげたコンテキスターのミッションだと考える。
311で山河が破れて以来、国家や会社に依存するだけの生き方は限界が来ているように思える。これからは仲間と《協》力しあって、新しい時代を《創》造することが求められているのだ。
競争から協創へ。時代は急旋回している。
1945年の敗戦という《狂》乱の時を経て、《驚》異の戦後復興、団塊世代は《競》争を繰り返し、バブルという《饗》宴を演出し、そして311という《凶》事を経験して迎えようとしている2012年。
来年を《協》創する時代のスタートラインにするために僕たちは微力を尽くさなければならない。そして微力を美力にするためには《協》という漢字が持っている本質に寄り添う必要がある。
すなわち、力をあわせてひとまとめにすれば夢はかなう、ということである。
夢をかなえるための方策は必ずあるはずだ。
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