これは2013年の5月に書いた文章です。
当時、執筆中だった『上山集楽物語』(英田上山棚田団・編/吉備人出版/2013年12月24日発行)の「あとがき」として書いたものです。
この草稿は諸般の事情で本に収めることはできませんでした。
その時点から1年とちょっと。今もなお、岡山県美作市上山では《出来事多様性》が継続しています。その動きを理解するための参考になれば、と考えて今月の文脈研究レポートとしてアップしておきます。
横書きにして読みやすくするために、段落設定を変えました。それから参考書籍と上山の写真をインサートしています。テキストは書いた時点から変更はしていません。
「永久の未完成これ完成である」と世界の動きを見切ったのは宮澤賢治である。1926年に『農民芸術概論』の結論で詩人は断定している。
上山集楽物語はネバー・エンディング・ストーリーだ。その終章は見えそうにない。2013年夏現在、この物語はソーシャル・メディアという印刷所で「永遠のβ版」としての版を重ねている。「ベータ版」は常に深化しつづけて完成することがないバージョンを意味するWEB用語である。
インターネットを体液として、そこに浮かぶ自立した細胞が有機的につながっているのが上山集楽だ。その物語が編み出すものはすべてが試作品であると同時にその時点での完成品なのだ。
「なう」が創りだす物語の解説を語り部の一人である僕が書くというのは、タツノオトシゴがいきなり龍に乗った少年になるようなものかもしれない。
だが、すべての物語は、そのような「重層的構造」を持つものらしい。
だとすれば、混沌と流動を基本的なコンセプトとする上山集楽物語の中にあって、僕は登場人物であり語り部であり解説者になっても、それはそれで上山集楽らしい展開なのかもしれない。
それに物語の文脈では書き切れない解説が本書には必要な気がしてならない。
本というメディアの本質はパッケージすることにある。エンディングはなくても、ある時点で句読点をうって時代にアンカーを下ろしておかないと、本はソーシャル・メディアを前にして意味を失う。
この物語の場合は、「世界の成り立ちについて理解が深まる」というよりも世界の混沌について再認識をする、という方向かもしれないが、解説を試みることにより僕のあとがきとしてみよう。
ということで、まずは登場人物からだ。複雑怪奇なミステリーのように入り組んで見える彼らも所属グループで分類をしてみれば、シンプルな構造になる。
はじめに協創LLPがあった。2007年、大阪で発足した異業種の有限責任事業組合。そのプロジェクトとして英田上山棚田団がスタートした。当然のこととして上山地区住民も登場してくる。
総務省の「地域おこし協力隊」制度ができたのが2009年。
「美作市地域おこし協力隊」も編成されて行政サイドからの登場人物も出てくる。
2011年、NPO法人英田上山棚田団設立。時期を同じくして全国の地域おこし協力隊のネットワークである村楽LLPが誕生した。
それぞれの登場人物が自らの所属グループでの本分を守り整然と活動しているのが上山である、となれば読者にもフレンドリーなのだが残念ながらそうはいかない。
誰がどこに属しているのか、ということは読者にとっては興味深いことかもしれないが、登場人物たちにとってはあまり意味はない。
彼らは究極のところ、自分にしか所属していない。そして行動原理はただひとつ。
楽しいことは正しいこと。
ただし、行動原理はひとつでも彼らはふたつの顔を持っている。本名とニックネームとを。
たとえば僕であれば田中文夫という本名とは61年間つきあっている。フミメイというニックネームとは3年間のつきあいだ。
僕たちは本の中と外を自由に行き来すると同時に本名とニックネームの間も出入りしている。その往来の頻度と、どちらの領域にいる時間が長いかは、登場人物それぞれの判断に任されている。
上山集楽物語がユニークなのは、登場人物名がニックネームオンリーで書かれていることだ。読者は脚注により本名を知ることはできるが、それはあまり重要なことではない。ニックネームで語ることにより、物語はその純度を高めている。
もし本名が持っている背景まで書いていけば、それはあまりに複雑なストーリーになってしまう。また、本書に登場しなかった人物、舞台裏に回った人物も大勢いる。それぞれに重要な役回りを持っていたはずだが、物語の流れの中で書き切れていないことがあれば、ご容赦いただきたい。
登場人物たちが上山集楽に惹かれた理由は様々であろう。また読者がこの本を手にとった理由も様々であろう。
ただ、僕としてはその理由のひとつはかっちの言動であったと思っている。かっちと、その従兄弟であるグロロ、本名で書くならば、西口/石黒家系の求心力なしには、この物語は成立しない。
ブラックホールのように強い重力を持ってヒトとコトを吸い寄せて、夜空に舞い上がるスカイランタンのように情報を発散していくかっちとグロロ。その本質についての解説もまたこの本には必要な気もする。
「棚田の先覚者たち」である「凄玉言霊師かっち」と「泣きと笑いの言霊師グロロ」。彼らが語っていることは物語のバックグラウンドで流れている音楽のようなものだ。それは常識を破壊して再創造を促すリズムを刻んでいる。
ただし、BGMだけでは世の中は変わっていかない。この物語は上山に集楽して毎日をカーニバルにする「変人」と「へそ曲がり」の集団劇なのだ。
彼らは楽しいことだけを求めて、世の中の通常文脈を無意味にする試みを続けている。
それをビジネス書的展開として解説できるのは、まだ先のことであろう。今はまだ混沌の中で「けもの道」を進んでいる彼らの祝祭空間のことをより多くの人々に知らせていく段階だ、と僕は思って物語を書いてきた。
解説者になった僕が密かにそして分不相応に願っていることは、ドイツの作家、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の現実化である。
物語を読んでいるうちに、そのストーリーに文字どおり引きこまれて、本の中に入ってしまう少年の『はてしない物語』。映画化されたときのタイトルは『ネバーエンディング・ストーリー』だった。
あまり楽しくない学校生活や父親との暮らしを送っていた少年が、迷いこんだ書店で見つけた本を、学校の屋根裏で読み進むうちに、その本のストーリーの中に入りこんで、ついには物語に登場してしまうというファンタジー……。
「上山集楽物語」も読者が登場人物になる瞬間が訪れることを願っているし、そのことがこの本を編んだ目的のひとつであることは間違いない。
ただし、今の世の中はファンタジーで成立しているわけではない。
石川啄木が明治43年(1910年)に憂慮した「時代閉塞の現状」は103年を経過して、まだ持続しているように僕は感じる。
「時代閉塞」はファンタジーでは解決できない。夢物語のみを膨張させることを拒否して、日々の実践の中から時代突破の原則を発見していくこと。その原則に共感する人々が集まる場をつくり、登場人物を呼びこむこと。もしも、このような善循環の構造がつくれるのであれば、閉塞は開放に向かっていくのかもしれない。
この構造をマーケティング用語で解説することもできる。
かっちとグロロはイノベーター(Innovators)である。先覚者だ。
それに続く「変人」たちは、アーリー・アダプター(Early Adopters)と言える。先覚者の行いに素早く共感してともに行動し善循環のネットワークを構築する初期採用者だ。
マーケティング理論ではイノベーターとアーリー・アダプターは市場全体の16%にすぎないとされている。(※1)
その後に続くはずのブリッジ・ピープルとの間にある深い溝をどう乗り越えていくのかは一般的なマーケティング課題である以上に、上山集楽の大きな挑戦でもある。(※2)
さらに、その構造の解説を試みるならば、トリック・スターとウィル・ピープルという見方もできるだろう。
トリック・スターとは、文化人類学者、山口昌男が有名にした概念である。舞台が大きく展開するときに現れる「道化師」たちのことだ。
かっちとグロロはトリック・スターである。彼らは棚田の先覚者であると同時に道化師だ。
その詩的言語で人々を上山集楽へと誘い、価値観の再創造を試みる。
かっちの声は、「時代閉塞」の突破を告げる。グロロは棚田で火を吹いて、祝祭の始まりを高らかに宣言する。
楽しいことは正しいこと、というプリンシプルはテキストと同時に彼らのサウンドとアクションで人々を引きつけるのである。
しかし、閉塞を突破せよ、とアジテートするトリック・スターたちだけでは時代は変革していかない。彼らに導かれて物語の中に入ったウィル・ピープルが主役になってこそ、物事は動いていくのである。
ウィルとは意志である。僕は本書の中で志を持って上山に集まった人々を「志人」としている。ウィル・ピープルも志人も僕の造語だがネバー・エンディング・ストーリーの登場人物にふさわしいネーミングだと思っている。
右も左も蹴っ飛ばして、ひたすら「けもの道」を進むトリック・スター、その後からウィル・ピープルが踏み分け道をつけていく。さらにその道に花を植えるアーティストも集まってくる。
今のところ、上山集楽の善循環構造はこのようなカタチを取って「毎日をカーニバル」にしているのだ。
決して楽ではない道のりも、道化師と志人と芸術家のコンビネーションで、ひたすら前に拓けていくものなのだろう。
トリック・スターであり道化師でありイノベーターであるかっちとグロロ。直後に続くアーリー・アダプターでありウィル・ピープルすなわち志人である人々。
それでは、この登場人物たちが目指している未来はどのような方向性を持っているのだろうか。
この問題の解説は容易ではない。先覚者も志人たちも広告会社の鬼十則(※3)のように細かい行動指針を共有しているわけではない。
シンプルに「楽しいことは正しいこと」を標榜するのみである。その「楽しいこと」の判断基準は各自に委ねられ、時に共有され、時に個別化される。その流動的な状況は、外部から見れば「混沌」としか見えない時もあるだろう。
ただし、上山集楽物語が多くの登場人物を集めつつあるのには明確な理由がひとつある。
それは、「地に足をつけて棚田で米を創りつづける」というもっともベーシックで普遍性を持った「楽しいこと」を共有していることだ。
農をベースにして行動するものが強いことは、塩見直紀が提唱した「半農半X」という言葉が今や一般名詞になりつつあることでも分かる。
棚田団は米を創る。粛々と米を創る。種籾を選別する。苗を慈しみ、田植えに備える。畦を塗り代掻きをする。
上山の田植えは6月上旬だ。田植えはまさにカーニバル。稲が育つと草も育つ。コナギやヒエを手で草取りする。田見舞いをして棚田を愛でる。秋色の祝祭空間で稲刈りをする。ハゼ干しの楽しさは人の集まりに正比例する。脱穀し籾すりをする。
上山棚田では、瑞穂(みずほ)の周りに集楽するライフサイクルが繰り返される。繰り返しの美学を守りつづけることが「楽しいこと」の原点だ。
登場人物たちの共通項はそう信じることにある。その信念が上山の村人たちに伝わったとき、棚田は彼らを心の底から受け入れる。
厳めしき祖父の一言「家を継げよ」従ひたれども棚田は守れず
(小林和子による石碑の文言)
上山集楽物語には終わりはなくとも、始まるための推進力はあった。棚田の一画に立っている石碑の無念が、それなのだ。
「棚田で米を創りつづける」という地に足をつけた「楽しくて正しいこと」があったから、村人たちは先覚者と志人たちを受け入れたのである。
そこまで気持ちを共有することができたら、次の章は自由自在だ。
棚田にレストラン、棚田にヘリポート、棚田でコーラス、棚田でタップ、登場人物がやりたいことはすべて認められていく。
上山集楽は「懐かしい未来」に向かって開かれた特異な共同体になりつつある。
自らも山村に居場所を持つ哲学者、内山節は、かつては否定の対象となっていた「自然と人間の共同体」にこそ、閉塞状況を開いていく鍵となるものが存在するとしている。
そして上山集楽のような小さな共同体が成立する条件を以下のように説いている。
英田上山棚田団代表理事のいのっちは、「ともに生きる世界がある」と自身も感じているから、今日も上山に通い続けている。彼女は上山集楽の混沌の中に一筋の光が見えているのだろう。
ともに生きることの意味を問い続ける『上山集楽物語』の未来はどのような方向性を持っているのか?
この問いに対して、解説者としての僕は客観的で具体的な答えを出すことができない。その答えは登場人物たちが、それぞれ自分の居場所を探すときに発見していくことなのだから。
だが、ひとりの登場人物フミメイとしては事例を語ることができる。
志人たちが水平に並ぶところ、その概念を僕はWill Flat 、ウィル・フラットと名づけてみた。
僕はコンセプトを言葉にしてみただけだ。その言葉を実体化していくのは先覚者かっちだ。
いつのまにかWill Flatは棚田を見下ろす水平な床が連なったテラス・レストランの名前になっている。そこには必然の結果として志人たちが集まってくる。未来を語り合い、集楽からの贈り物を食べ、時には酒を酌み交わす場所になってきた。
この言葉はやがて、上山集楽の明日を担う人財育成施設であるフューチャー・センターにも繋がっていくのかもしれない。
僕はこのようにして上山集楽の方向性と関わってきた。妄想を語る文脈家として志人の列に連なってきたつもりだ。
そして、僕の今後の関わり方は、また自分の「楽しいことは正しいこと」から考えていくしかないだろう。
いのっち、やっしー、きっちい、アロマン、お喜楽美々、笑顔のまさやん、やまちゃん、聖子、そしてボブ、その後にも続々と登場してきている志人たち。
詩人は韻を踏み、志人は田を踏む。自然と協創する志人は、横に繋がる志人との関係性のなかで明日を見つけていくしかない。
(※1)イノベーター理論……1962年に米・スタンフォード大学の社会学者、エベレット・M・ロジャース教授が提唱。
(※2)キャズム理論……1991年、マーケティング・コンサルタントのジェフリー・A・ムーアが提唱。
(※3)電通鬼十則
当時、執筆中だった『上山集楽物語』(英田上山棚田団・編/吉備人出版/2013年12月24日発行)の「あとがき」として書いたものです。
この草稿は諸般の事情で本に収めることはできませんでした。
その時点から1年とちょっと。今もなお、岡山県美作市上山では《出来事多様性》が継続しています。その動きを理解するための参考になれば、と考えて今月の文脈研究レポートとしてアップしておきます。
横書きにして読みやすくするために、段落設定を変えました。それから参考書籍と上山の写真をインサートしています。テキストは書いた時点から変更はしていません。
「永久の未完成これ完成である」と世界の動きを見切ったのは宮澤賢治である。1926年に『農民芸術概論』の結論で詩人は断定している。
上山集楽物語はネバー・エンディング・ストーリーだ。その終章は見えそうにない。2013年夏現在、この物語はソーシャル・メディアという印刷所で「永遠のβ版」としての版を重ねている。「ベータ版」は常に深化しつづけて完成することがないバージョンを意味するWEB用語である。
インターネットを体液として、そこに浮かぶ自立した細胞が有機的につながっているのが上山集楽だ。その物語が編み出すものはすべてが試作品であると同時にその時点での完成品なのだ。
「なう」が創りだす物語の解説を語り部の一人である僕が書くというのは、タツノオトシゴがいきなり龍に乗った少年になるようなものかもしれない。
だが、すべての物語は、そのような「重層的構造」を持つものらしい。
物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実態であり、同時にあなたは影である。あなたは物語をつくる「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレイヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒やしているのである。『アンダーグラウンド』村上春樹
だとすれば、混沌と流動を基本的なコンセプトとする上山集楽物語の中にあって、僕は登場人物であり語り部であり解説者になっても、それはそれで上山集楽らしい展開なのかもしれない。
それに物語の文脈では書き切れない解説が本書には必要な気がしてならない。
本というメディアの本質はパッケージすることにある。エンディングはなくても、ある時点で句読点をうって時代にアンカーを下ろしておかないと、本はソーシャル・メディアを前にして意味を失う。
なんと言っても、メディアの威信を最終的に担保するのは、それが発信する情報の「知的な価値」です。古めかしい言い方をあえて使わせてもらえば、「その情報にアクセスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」。それによってメディアの価値は最終的に決定される。僕はそう思っています。
『街場のメディア論』内田樹
この物語の場合は、「世界の成り立ちについて理解が深まる」というよりも世界の混沌について再認識をする、という方向かもしれないが、解説を試みることにより僕のあとがきとしてみよう。
ということで、まずは登場人物からだ。複雑怪奇なミステリーのように入り組んで見える彼らも所属グループで分類をしてみれば、シンプルな構造になる。
はじめに協創LLPがあった。2007年、大阪で発足した異業種の有限責任事業組合。そのプロジェクトとして英田上山棚田団がスタートした。当然のこととして上山地区住民も登場してくる。
総務省の「地域おこし協力隊」制度ができたのが2009年。
「美作市地域おこし協力隊」も編成されて行政サイドからの登場人物も出てくる。
2011年、NPO法人英田上山棚田団設立。時期を同じくして全国の地域おこし協力隊のネットワークである村楽LLPが誕生した。
それぞれの登場人物が自らの所属グループでの本分を守り整然と活動しているのが上山である、となれば読者にもフレンドリーなのだが残念ながらそうはいかない。
誰がどこに属しているのか、ということは読者にとっては興味深いことかもしれないが、登場人物たちにとってはあまり意味はない。
彼らは究極のところ、自分にしか所属していない。そして行動原理はただひとつ。
楽しいことは正しいこと。
ただし、行動原理はひとつでも彼らはふたつの顔を持っている。本名とニックネームとを。
たとえば僕であれば田中文夫という本名とは61年間つきあっている。フミメイというニックネームとは3年間のつきあいだ。
僕たちは本の中と外を自由に行き来すると同時に本名とニックネームの間も出入りしている。その往来の頻度と、どちらの領域にいる時間が長いかは、登場人物それぞれの判断に任されている。
上山集楽物語がユニークなのは、登場人物名がニックネームオンリーで書かれていることだ。読者は脚注により本名を知ることはできるが、それはあまり重要なことではない。ニックネームで語ることにより、物語はその純度を高めている。
もし本名が持っている背景まで書いていけば、それはあまりに複雑なストーリーになってしまう。また、本書に登場しなかった人物、舞台裏に回った人物も大勢いる。それぞれに重要な役回りを持っていたはずだが、物語の流れの中で書き切れていないことがあれば、ご容赦いただきたい。
登場人物たちが上山集楽に惹かれた理由は様々であろう。また読者がこの本を手にとった理由も様々であろう。
ただ、僕としてはその理由のひとつはかっちの言動であったと思っている。かっちと、その従兄弟であるグロロ、本名で書くならば、西口/石黒家系の求心力なしには、この物語は成立しない。
ブラックホールのように強い重力を持ってヒトとコトを吸い寄せて、夜空に舞い上がるスカイランタンのように情報を発散していくかっちとグロロ。その本質についての解説もまたこの本には必要な気もする。
「棚田の先覚者たち」である「凄玉言霊師かっち」と「泣きと笑いの言霊師グロロ」。彼らが語っていることは物語のバックグラウンドで流れている音楽のようなものだ。それは常識を破壊して再創造を促すリズムを刻んでいる。
かっち、2014年8月12日 |
グロロ、2014年8月12日 |
ただし、BGMだけでは世の中は変わっていかない。この物語は上山に集楽して毎日をカーニバルにする「変人」と「へそ曲がり」の集団劇なのだ。
彼らは楽しいことだけを求めて、世の中の通常文脈を無意味にする試みを続けている。
それをビジネス書的展開として解説できるのは、まだ先のことであろう。今はまだ混沌の中で「けもの道」を進んでいる彼らの祝祭空間のことをより多くの人々に知らせていく段階だ、と僕は思って物語を書いてきた。
解説者になった僕が密かにそして分不相応に願っていることは、ドイツの作家、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の現実化である。
物語を読んでいるうちに、そのストーリーに文字どおり引きこまれて、本の中に入ってしまう少年の『はてしない物語』。映画化されたときのタイトルは『ネバーエンディング・ストーリー』だった。
あまり楽しくない学校生活や父親との暮らしを送っていた少年が、迷いこんだ書店で見つけた本を、学校の屋根裏で読み進むうちに、その本のストーリーの中に入りこんで、ついには物語に登場してしまうというファンタジー……。
「上山集楽物語」も読者が登場人物になる瞬間が訪れることを願っているし、そのことがこの本を編んだ目的のひとつであることは間違いない。
ただし、今の世の中はファンタジーで成立しているわけではない。
石川啄木が明治43年(1910年)に憂慮した「時代閉塞の現状」は103年を経過して、まだ持続しているように僕は感じる。
「時代閉塞」はファンタジーでは解決できない。夢物語のみを膨張させることを拒否して、日々の実践の中から時代突破の原則を発見していくこと。その原則に共感する人々が集まる場をつくり、登場人物を呼びこむこと。もしも、このような善循環の構造がつくれるのであれば、閉塞は開放に向かっていくのかもしれない。
この構造をマーケティング用語で解説することもできる。
かっちとグロロはイノベーター(Innovators)である。先覚者だ。
それに続く「変人」たちは、アーリー・アダプター(Early Adopters)と言える。先覚者の行いに素早く共感してともに行動し善循環のネットワークを構築する初期採用者だ。
マーケティング理論ではイノベーターとアーリー・アダプターは市場全体の16%にすぎないとされている。(※1)
その後に続くはずのブリッジ・ピープルとの間にある深い溝をどう乗り越えていくのかは一般的なマーケティング課題である以上に、上山集楽の大きな挑戦でもある。(※2)
さらに、その構造の解説を試みるならば、トリック・スターとウィル・ピープルという見方もできるだろう。
トリック・スターとは、文化人類学者、山口昌男が有名にした概念である。舞台が大きく展開するときに現れる「道化師」たちのことだ。
トリック・スターとは、その自由奔放な行為ですべての価値観をひっくり返す神話的いたずら者、いわば文化ヒーローとしての道化である。
(中略)
創造者であると同時に破壊者、善であるとともに悪であるという両義性をそなえて、トリックスターはまさに未分化状態にある人間の意識を象徴する。そして、既成の世界観のなかで両端に引きさかれた価値の仲介者としての役割をになう。
『トリックスター』解説文
かっちとグロロはトリック・スターである。彼らは棚田の先覚者であると同時に道化師だ。
その詩的言語で人々を上山集楽へと誘い、価値観の再創造を試みる。
かっちの声は、「時代閉塞」の突破を告げる。グロロは棚田で火を吹いて、祝祭の始まりを高らかに宣言する。
楽しいことは正しいこと、というプリンシプルはテキストと同時に彼らのサウンドとアクションで人々を引きつけるのである。
しかし、閉塞を突破せよ、とアジテートするトリック・スターたちだけでは時代は変革していかない。彼らに導かれて物語の中に入ったウィル・ピープルが主役になってこそ、物事は動いていくのである。
ウィルとは意志である。僕は本書の中で志を持って上山に集まった人々を「志人」としている。ウィル・ピープルも志人も僕の造語だがネバー・エンディング・ストーリーの登場人物にふさわしいネーミングだと思っている。
右も左も蹴っ飛ばして、ひたすら「けもの道」を進むトリック・スター、その後からウィル・ピープルが踏み分け道をつけていく。さらにその道に花を植えるアーティストも集まってくる。
今のところ、上山集楽の善循環構造はこのようなカタチを取って「毎日をカーニバル」にしているのだ。
決して楽ではない道のりも、道化師と志人と芸術家のコンビネーションで、ひたすら前に拓けていくものなのだろう。
トリック・スターであり道化師でありイノベーターであるかっちとグロロ。直後に続くアーリー・アダプターでありウィル・ピープルすなわち志人である人々。
それでは、この登場人物たちが目指している未来はどのような方向性を持っているのだろうか。
この問題の解説は容易ではない。先覚者も志人たちも広告会社の鬼十則(※3)のように細かい行動指針を共有しているわけではない。
シンプルに「楽しいことは正しいこと」を標榜するのみである。その「楽しいこと」の判断基準は各自に委ねられ、時に共有され、時に個別化される。その流動的な状況は、外部から見れば「混沌」としか見えない時もあるだろう。
ただし、上山集楽物語が多くの登場人物を集めつつあるのには明確な理由がひとつある。
それは、「地に足をつけて棚田で米を創りつづける」というもっともベーシックで普遍性を持った「楽しいこと」を共有していることだ。
農をベースにして行動するものが強いことは、塩見直紀が提唱した「半農半X」という言葉が今や一般名詞になりつつあることでも分かる。
棚田団は米を創る。粛々と米を創る。種籾を選別する。苗を慈しみ、田植えに備える。畦を塗り代掻きをする。
上山の田植えは6月上旬だ。田植えはまさにカーニバル。稲が育つと草も育つ。コナギやヒエを手で草取りする。田見舞いをして棚田を愛でる。秋色の祝祭空間で稲刈りをする。ハゼ干しの楽しさは人の集まりに正比例する。脱穀し籾すりをする。
上山棚田では、瑞穂(みずほ)の周りに集楽するライフサイクルが繰り返される。繰り返しの美学を守りつづけることが「楽しいこと」の原点だ。
登場人物たちの共通項はそう信じることにある。その信念が上山の村人たちに伝わったとき、棚田は彼らを心の底から受け入れる。
厳めしき祖父の一言「家を継げよ」従ひたれども棚田は守れず
(小林和子による石碑の文言)
上山集楽物語には終わりはなくとも、始まるための推進力はあった。棚田の一画に立っている石碑の無念が、それなのだ。
小林和子、2013年2月25日撮影 |
「棚田で米を創りつづける」という地に足をつけた「楽しくて正しいこと」があったから、村人たちは先覚者と志人たちを受け入れたのである。
そこまで気持ちを共有することができたら、次の章は自由自在だ。
棚田にレストラン、棚田にヘリポート、棚田でコーラス、棚田でタップ、登場人物がやりたいことはすべて認められていく。
上山集楽は「懐かしい未来」に向かって開かれた特異な共同体になりつつある。
自らも山村に居場所を持つ哲学者、内山節は、かつては否定の対象となっていた「自然と人間の共同体」にこそ、閉塞状況を開いていく鍵となるものが存在するとしている。
そして上山集楽のような小さな共同体が成立する条件を以下のように説いている。
私たちがつくれるものは小さな共同体である。その共同体のなかには強い結びつきをもっているものも、ゆるやかなものもあるだろう。明確な課題をもっているものも、結びつきを大事にしているだけのものもあっていい。その中身を問う必要はないし、生まれたり、壊れたりするものがあってもかまわない。ただしそれを共同体と呼ぶにはひとつの条件があることは確かである。それはそこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。だから単なる利害の結びつきは共同体にならない。群れてはいても、ともに生きようとは感じられない世界は共同体ではないだろう。
『共同体の基礎理論』内山節
英田上山棚田団代表理事のいのっちは、「ともに生きる世界がある」と自身も感じているから、今日も上山に通い続けている。彼女は上山集楽の混沌の中に一筋の光が見えているのだろう。
ともに生きることの意味を問い続ける『上山集楽物語』の未来はどのような方向性を持っているのか?
この問いに対して、解説者としての僕は客観的で具体的な答えを出すことができない。その答えは登場人物たちが、それぞれ自分の居場所を探すときに発見していくことなのだから。
だが、ひとりの登場人物フミメイとしては事例を語ることができる。
志人たちが水平に並ぶところ、その概念を僕はWill Flat 、ウィル・フラットと名づけてみた。
僕はコンセプトを言葉にしてみただけだ。その言葉を実体化していくのは先覚者かっちだ。
いつのまにかWill Flatは棚田を見下ろす水平な床が連なったテラス・レストランの名前になっている。そこには必然の結果として志人たちが集まってくる。未来を語り合い、集楽からの贈り物を食べ、時には酒を酌み交わす場所になってきた。
この言葉はやがて、上山集楽の明日を担う人財育成施設であるフューチャー・センターにも繋がっていくのかもしれない。
僕はこのようにして上山集楽の方向性と関わってきた。妄想を語る文脈家として志人の列に連なってきたつもりだ。
そして、僕の今後の関わり方は、また自分の「楽しいことは正しいこと」から考えていくしかないだろう。
WillFlat、2014年8月12日 |
いのっち、やっしー、きっちい、アロマン、お喜楽美々、笑顔のまさやん、やまちゃん、聖子、そしてボブ、その後にも続々と登場してきている志人たち。
詩人は韻を踏み、志人は田を踏む。自然と協創する志人は、横に繋がる志人との関係性のなかで明日を見つけていくしかない。
(※1)イノベーター理論……1962年に米・スタンフォード大学の社会学者、エベレット・M・ロジャース教授が提唱。
(※2)キャズム理論……1991年、マーケティング・コンサルタントのジェフリー・A・ムーアが提唱。
(※3)電通鬼十則
上山棚田団の原点田んぼ2014年8月12日 |
天燈、星に願いを。上山夏祭り2014 |
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