2010年12月30日木曜日

文脈日記(疾風怒濤)

疾風怒濤の一年間だった。
2010年は自分の人生の中で大きな区切りになるだろう。

疾風怒濤、ドイツ語では「シュトルウム・ウント・ドランク」だ。
この言葉を覚えたのは18歳の頃、北杜夫の「ドクトルまんぼう青春記」を読んだときだった。

若いときに覚えたことは忘れない。
その後、シュトルウム・ウント・ドランクを重ねるうちに忘却の彼方に行ったことは多い。

最近では「固有名詞忘却シンドローム」がひどくなって、人とモノの名前がでてこない。
たとえば、その有名タレントの属性は全て覚えているのに、どうしても固有名詞だけが思い出せない。イライラしますね。
この現象には、海馬がどうしたこうしたという明確な原因があったはずだが、それも忘れてしまった。

と、ここまで書いているとき、次のツイートを発見した。

 協創LLP情報Producer@西口和雄 

本日13時より大人の隠れ家@西成BAR無心庵にて餅つき大会を致します。総勢30名を超える大賑わいで今年のうっといもんを振り払います~~~来年の飛躍のためにも西成の聖地にもちくいにこいっ♪

これは行かねば、ということで急いで西成まで行った。
ツイッターで繋がっていた皆さんとリアルに会い、餅を食べ、酒を飲んできた。

ということで、長い間がありつつ、エントリーを再開するなうだ。

そうである。僕の2010年はツイッターとともにあった。
今まさに、1000人の皆様にフォローされたところだ。ありがとうございます。

疾風怒濤の日々を記憶するのは難しい。
でも、twilogというツイッター記録アプリをひもとけば、僕の1年間が見えてくる。

今年の元旦には讃岐の志度にいた。瀬戸内海を望むペンションから初日の出を見ていた。


完全無欠の初日の出なう。
posted at 07:20:37



それから1年間、僕は日々のよしなしごとをつぶやき続けてきた。

もちろん、2010年は6月30日以前と以後で別世界だ。
脱藩したら横に拡がると宣言して、そのことが曲がりなりにも実現の方向に向かっているのは、ツイッターに助けられたからだ。

最近は、久しぶりに会った人でも近況報告をする必要がない。その人が僕のつぶやきを見てくれているとコミュニケーションは簡単だ。

そして、何度も言うが、脱藩生活は忙しいのだ。
自由というのは果てしなく続くタスクの中から自分の選択肢を選んでいく毎日だ。

頭の中には様々な文脈が渦巻いている。
そのもやもやはとりあえずつぶやいてみる。そうすれば、頭の中がすっきりしてくる。

しかし、つぶやき続けていても、まだ頭の中は整理しきれないときがある。

そんなときはGTD(Getting Things Done)の出番だ。
大学時代の友人が教えてくれたすてきなライフハックだ。
デビッド・アレンの新刊をamazonに発注したが、品不足なのか、なかなか届かない。


今、amazonで確認したら、新刊本は入荷待ちで古本が新刊本よりも高くなっている。
情報大洪水に溺れる生活者たちがGTDのテクニックを求めているのだろう。

GTDの基本は頭の中にある「気になること」をすべて受信箱に収集することだ。受信箱の処理をしてネクストアクションを決める。
そのプロセスを週次レビューで繰り返して、もの忘れの恐怖から解放されたとき人間の精神は目の前のタスクに集中できる。

と、口で言うのは簡単だが、なかなか実践は難しい。
たとえば、このエントリーを書こうと思っても次から次に新しい「気になること」が発生してくる。
そんなときにはGTDでアクションの最適化を図る。

GTDを始めていなかったら、僕は今日の協創餅つき大会には行かなかったかもしれない。割と融通が利かないところがあるので、このエントリーを書き続けるというアクションを選択しただろう。

でも、2010年の12月29日の午前10時30分という時点で、僕の取るべきアクションは西成に行って新しい出会いをすることだった。

縁脈を深化させることだった。

おかげで来年に向けて、またひとつ展望が開けてきた。

疾風怒濤の日々の羅針盤はツイッターとGTDだ。この2つのツールを使い続けることによって来年も前に行くことができそうだ。
コンテキスターを目指す僕にとって文脈の錯綜はいつものことだ。その錯綜を解きほぐして編みこんでくれるツールがあるのは頼もしい。

ただし、ツールはあくまでも手段であって目的ではないのですね。

航海していく目的地は自分で設定するしかない。年の終わりでも年の初めでも、それは簡単なことではない。というか、脱藩生活の目的地はまだ見えない。

羅針盤の指示に身を任せつつ、まだ見ぬ新大陸を目指す日々が来年も続きそうだ。

最後に僕の2010年を象徴する写真をアップしよう。


瀬戸内国際芸術祭で見たスゥ・ドーホーの作品だ。人と人の繋がりが海に向かって揺れていた。

縁脈のネットワークがあれば、その彼方には無限の時空が拡がる。

2010年11月30日火曜日

文脈日記(職能訓練)

気がつけば11月の最終日だ。龍馬伝は終わってしまった。明日からは師走だ。
脱藩者にも年末年始がやってくる。
そんなわけで、大慌てでブログを更新しよう。一ヶ月以上、ブランクが空いてしまった。

この間、僕は何をやっていたのか。一言でいえば職能訓練をやっている。

脱藩をするとき、僕は以下のミッション・ステートメントをした。

コミュニケーション・デザインのボランティアをします。

釣りの合間に畑仕事やります。

調理師免許とります。

今は、この3つのミッションを実現するための職能訓練に時間をとられているのですね。

コミュニケーションの仕事は長い間、やってきた。でも仕事としてのそれと、世の中と繋がるためのコミュニケーションは少しちがう。

脱藩してタテのコミュニケーションからは完全に脱出できた。そしてヨコに繋がっていく縁脈は確実に拡大再生産している。
会社をやめると孤立する、という説は信じられない。

ツイッターで繋がった皆さんとリアルに会い始めた。初めて会った瞬間からその人のことを分かっているコミュニケーションは新鮮だ。初対面のような気がしない。

年の差は関係ない。名刺も関係ない。

会社員時代は初対面の相手との間合いを図るのに時間がかかった。クライアントを頂点とするタテ構造は複雑だから。
でもネットの性善説に基づく間合いの取り方はシンプルなようだ。

誠実であること。相手の言うことを傾聴すること。

これはツイッター・オフ・ミーティングに限らず、新しい出会いでの大原則になりそうだ。

僕は今、さまざまな新しい出会いをしながら、この職能訓練を積み重ねている。
まだまだやな、という妻の声が聞こえそうだが。

コミュニケーションのスキルを改革しつつ、新しい出会いの場を構築することも始めた。

僕は小豆島に誰も住んでいない家を持っている。

瀬戸内国際芸術祭では「小豆島の家」というタイトルのアートがあった。竹で建築された涼やかな家だった。

僕の「小豆島の家」は骨太ではあるが、まだ寝泊まりすらできない。まずは上下水道の整備からだ。ずっと使っていた井戸水は水質検査の結果、飲用不可だった。

ツイッターで繋がった小豆島在住の仲間たちの助けを借りながら、少しずつ基本インフラの整備をしていこうと思う。
それから、家のリフォームだ。こちらは協創LLPの縁脈が頼りになりそうだ。

まだまだ先行きは不透明だが、前には進んでいる、と思う。

実は、もうひとつ、坂出にも誰も住んでいない僕の実家がある。こちらは妻の奮闘努力で寝泊まりができるようになった。現住所の箕面は大好きなのだが、諸事情で坂出滞在も多くなりそうだ。

次は畑仕事の職能訓練だ。

小豆島の家の周りには、けっこう広い土地がある。ところが、ここはセイタカアワダチソウを大将とする草たちの縄張りになっていた。彼らの生命力には恐れ入る。

畑仕事の基礎は草刈りだ。小豆島の家で畑をするのは時期尚早だが草刈りの訓練には最適の場所だった。親戚のおじさんにご指導を乞いながら、生まれてはじめて草刈り機のエンジンを回した。

これは快感ですね。フルスロットルにして草どもをなぎ倒す。暴れるハンドルを必死で支える。青臭い草の匂いに包まれる。前へ前へと進んでいく。

生まれてはじめての経験は楽しい。楽ではないが楽しい。

この草刈り体験の前に、僕は箕面のマイファームも始めていた。マイファームというのは休耕地を利用して、野菜作りの畑を都会のそばで持続していくプロジェクトだ。「自産自消」社会の構築を目的としている。

自慢じゃないが、畑仕事も生まれてはじめてだ。D社時代に、エコとかサステナビリティとかに関わったが、自分で手を動かして作物を育てたことはなかった。

野菜の芽って可愛い。話には聞いていたが、そのとおりだった。

箕面マイファームでの職能訓練では管理人さんが頼りだ。畑仕事に関しても膨大な情報がネット上にあふれている。でも、この分野では謙虚に一から管理人さんの話を傾聴しようと思う。
畑情報の大洪水に溺れたくはないので。
畑仕事の職能訓練は時間の経過とともに、身についていくと思うのだが。

さて、問題は3つめのミッションだ。

調理師免許取ります。

すみません、この件に関しては大嘘をつきました。ほらふきと笑ってください。
僕の性格では、調理師学校に1年間、通学して学生をやるのは無理と妻に認定されました。

よって調理師への道は諦めた。
以上終わり、ではあまりに無責任だし、本当に料理には興味があるので違う道を歩み始めている。

送別会でいただいた包丁は決して無駄にはしません。

今は調理師学校ではなく月に3回、料理教室に通い始めている。この職能訓練も楽しい。
マイ計量カップも買った。まだ包丁で指は切っていない。

コミュニケーションのスキルを改善して、新しい生活拠点をつくり、自産自消した野菜と魚を料理できるようになること。

これで《自立》のためのコンテキストは一応、つながるはずだ。
小豆島や坂出で、妻なしでも暮らしていけるはずだ。

でもまだ問題はある。元々、曲がりなりにも持っていた釣りのスキルを磨く時間がまったくないのである。

釣りの合間に畑仕事やります、の釣りにまったく行くことができない。
もちろん鮎釣りはオフシーズンだ。しかし僕に鮎釣りを教えてくれた師匠は、今や海釣りでも漁師並みの腕前になったと聞いている。そちらの教えも請いたいのだが。
この職能訓練も楽しそうだ。

よみかきそろばんとITスキルだけでは、人は生きていけない。

頭の中だけでのサステナブル・ライフからいつ脱出できるのかは、まだ分からない。
一歩一歩、できることからやっていく日々が続く。

2010年10月22日金曜日

文脈日記(丸亀高校)

ようやく秋も深まってきた。僕の脱藩生活も深まってほしいものだ。
と、人ごとのように言っていると誰かに叱られそうだ。
僕は変わり続けているのだ、と信じたい。
ようやく畑仕事を始めたし、料理修行のスタンバイもした。
どこまでやりきれるかは保証の限りではないが、やったことがないことをやってみるのは変わり続けるための必要条件だ。

さとなおも「変わり続けること」というエントリーで決意表明を新たにしている。

いきなり決意表明などとアジエン(アジテーション演説のこと)のようになるのは、「街場のメディア論」(内田樹)の影響だ。以下、引用。

総数600万と呼ばれるブログには、これまで身辺雑記エッセイが多く含まれていました。ところが、ここにツイッターという新しいメディアが出てきました。これはいかにも日常の出来事を「随筆風」に点描するのにジャストフィットなツールですので、ブログの書き手たちの相当数はすでにツイッターに流れています。いずれ、ブログにはそういう「やわらかいネタ」を排除した残りの、政治経済社会文化のもろもろの事象についての「演説」に類するものが残されるのではないかと僕は予測しています。

このブログの更新頻度が少ないのは、演説するための心の準備に時間がかかるからです。
しかも、文脈研究所のエントリーは自分で自分に対して演説しているので、さらにハードルが高いのです。

と例によって言い訳をしておこう。

そして今回のエントリーは、僕の演説の原点を語りたいと思う。
僕は1970年に香川県の丸亀高校を卒業している。そして早稲田大学に行った。

正直に言って、早稲田大学への愛着はない。「都の西北」は歌ったことがない。その代わりに「ワルシャワ労働歌」や「友よ」を歌っていた。

だが、丸亀高校校歌への愛着はある。なぜなら、僕は丸亀高校応援団であったから。
15歳から18歳まで、丸亀高校(以下、丸高)で過ごした日々は面白かった。

ラスト・オキュパイド・チルドレンである僕は丸高時代にモノの考え方のプロトタイプを構築した。そして58歳の今に至っている。

丸高卒業後の40年間で同窓会には一度しか出席したことがない。
そこで僕は18歳からほとんど変わっていないと言われた。もちろん、見た目は充分に老けているが。

「死ぬまで18歳」と歌ったのはブライアン・アダムスだ。それはクールなことなのだろう。
だが、実際のところ、18歳のややこしい精神構造のまま生き続けるのなんて面倒くさいと思う。変わっていないと言われると複雑な気分だ。

18歳から変わっていないのではなく、あの頃に原点を持つ文脈にまだこだわりを持っている、と言う方が正解だと本人は思っている。

その文脈が形成されたのは1967年から1970年だ。丸高時代の3年間は全世界的に激動の時代だった。

パリでは想像力が権力を奪取しそうだった。サンフランシスコではフラワー・チルドレンたちがレイド・バックしていた。東京では神田にカルチェラタンができて大きな講堂が水浸しになっていた。

そして僕は片田舎の高校生だった。坂出から丸亀まで自転車を飛ばし、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み、ビートルズの赤盤を買いあさり、応援団の練習で声をからせていた。その状況は、まさに芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」そのものだった。

純朴な丸高生だった僕に、東京に行った応援団の先輩から熱い手紙が届く。

俺は新宿で石、投げじょるんで。よいよ、おもっしょいけんな。お前もはよ来てつか。

讃岐弁で言えば、こういう主旨のことを書き連ねてくる。その手紙はテレビで見る全共闘の映像よりも激しく、僕のパトスをあおってくれた。

重ねて言うが、応援団である。普通は右翼集団である。
ところが、この先輩も含めて、当時の丸高応援団は妙に左翼のニオイがした。
東京に行ってはじめてデモに参加したとき、応援のリズムとデモのリズムって似ている、と僕は感じた。

丸高の真ん中には広場がある。
もしくは、あった。最近、行ったことがないのでよく分からないが。
その広場には赤いタイルが敷きつめてある。
僕たちの応援団は、その広場を「赤の広場」と呼んでいた。

その頃の高校生にとって左翼的なるものは、すべからくかっこよかったのですね。
モスクワであろうが、毛沢東であろうが、チェ・ゲバラであろうが、あまりコンセプトの違いは関係なかった。

かっこいいと自分勝手に思いこんでいた僕たちは派手好きだった。
文化祭には講堂で演舞をやった。けっこうな人気だったと思うのだけど。
芦原すなおの小説に出てくるようなロックバンドの代用品だったのかもしれない。

そして赤い応援団には妙な縁脈があった。大江健三郎をきどって難解な文体の詩を書いていたやつ、琴平の旅館の息子で僕にはじめてのビールをしこたま飲ませてくれたやつ、などなど。

もしかしたら、僕だけが勝手に赤い志向を持っていたのかもしれない。他のメンバーは普通の応援団だったのかもしれない。僕は丸高応援団は今でも大好きだが、丸高野球部のことはほとんど覚えていない。応援団なんだから、野球の応援はしていたはずだけどね。

ただ、はっきり言えるのは、僕は丸高生時代に「永遠の左翼青年」たる文脈を形成してしまった、ということだ。ここでいう左翼というのは、必ずしも思想信条的なものとは限らない。もっと単純に言えば、「へそ曲がり」「天の邪鬼」というほうが当たっているのかもしれない。

その気質で得をしたのか、損をしたのかは今でも分からない。ただ、D社の社風には合っていたようには思う。

考えてみれば、スティーブ・ジョブズだって、ビル・ゲイツだって「永遠の左翼青年」のようだ。
スティーブ・ジョブズは左翼急進主義で、ビル・ゲイツは議会制民主主義型左翼という違いはあるが。

赤い丸高応援団だった僕は、早大全共闘に馳せ参じて・・・となれば文脈は単純なんだが、ラスト・オキュパイド・チルドレンの人生は複雑ですね。これもまた宿題エントリーですね。

ではなぜ、そのような気質を持つに至ったのか。

まずは丸亀という土地が持つコンテキストが妙に明るかったことだ。
それは街の真ん中に素敵なお城を持っていることとも関係していたように思う。
丸亀城は丸高生の運動場であり遊び場であった。思い出は尽きない。

その「亀城のほとり、富士の下」にあった丸亀高校には自由な雰囲気が漂っていたように思える。
一応、香川県ではナンバー2の進学校だった。受験の重い現実は当時もいっしょである。
でも、自由気ままな赤い応援団である僕が、その受験にさえ「へそを曲げて」も受け入れてくれる寛容度は充分にあった。そのはずだ。

と書いているうちに、もしかしたら僕は真面目な受験生たちの邪魔をしていたのかもしれない。いや、そうに違いない、という気がしてきた。今さらながら、ごめんなさい。

当時の丸亀高校関係者がこのエントリーを読んだら、またあいつが勝手なことを、とお怒りになるかもしれない。
でも丸高に対する僕の愛着は本物です。

脱藩して、こういうブログを書き連ねるようになった原点は、丸高の3年間で培われた。
その文脈にのっとって、僕はこれからも変わり続けねばならない。

そのためには、ときどき、こうして自分で自分の応援演説をする必要がある。

フレー、フレー、自分。

2010年10月11日月曜日

文脈日記(コンテキスターふたたび)

最近、コンテキスターって何ですか、というメンションをツイッターでもらった。
とりあえず、以前のエントリーをご紹介させていただいた。しかし、そろそろまたコンテキスターについて語らないと、この言葉にサステナビリティがなくなりそうだ。
CONTEXTER、コンテキスターというのは僕の造語だ。正しい英語かどうかは分からない。
脱藩後の自分の肩書きをを考えていたときに、ふと思いついた言葉だ。今年の2月のことだった。

元々、コンテキストという言葉に興味があった。
コンテキストとは背景、世界観、関係性、織り方、そして文脈。なかなか味わい深い。

この言葉は広告業界では、あまり頻繁に使われる言葉ではなかった。CMを中心とする広告はコンテンツという言葉でくくられることが多い。ところがメディアが変化するにつれて、単独のコンテンツでコミュニケーションを浸透させるのは困難な時代になってくる。

僕はD社にいた最後の10年間でネットの世界と深く関わった。しかもほとんど先人がいなかったインタラクティブ・クリエーティブのCDだった。iCRというチームでさまざまな経験をしてきた。
そこでは、しばしばコンテキストという言葉を使った方がものごとをうまく説明できたような気がする。

たとえば、「ワン・ソース、マルチ・ユース」という広告用語があった。ひとつのコンテンツをクロス・メディアして使用するという意味だ。4マスで広告コミュニケーションが成立していた時代にはそれでもよかったが、ネット環境では少しそぐわない感じがした。

インターネットが体液のようになった生活者に対しては、「ワン・コンテキスト、クロス・ソース」という表現の方が当たっている。そのブランドのベネフィットを一定の文脈で、たくさんの口がしゃべる方が強く伝わる。
というようなことを2009年秋にはしゃべっていた。

また、2002年には「ブランド戦略シナリオーコンテクスト・ブランディング」という本を棚入れしている。あまりマーケティング系の本を保存することはないのだが、「文脈競争優位」というキャッチフレーズに惹かれて、会社のデスクにいれておいたのであろう。

このエントリーは広告関係でまとめる気はない。ただ、コンテキストという言葉が広告業界でもキーになりつつあることを確認しておく必要はあると思う。

「使ってもらえる広告」の著者、須田和博さんも、生活者はコンテンツ消費からコンテクスト消費へとシフトしつつある、と説いている。

さらに、最近は出版界でもコンテキストはキーワードになっているらしい。
佐々木俊尚さんは「電子書籍の衝撃」を紙とeブックの両方で出版することにより、コンテキストの循環プロセスを実践したそうだ。
読者とコンテキストを共有した本は、時代の集合的無意識をすくいあげて、また新たなコンテキストを生み出していく、ということだ。

その佐々木さんを師匠と仰ぐ「リストラなう!」たぬきちさんの言葉を引用して、これからはコンテキストの時代である、ということを再認識しよう。

なぜその本が書かれたのか、この本を読む意味は、読んでどうトクするのか、今この本を読む必然性とは……そういったことがお客さんである読者に伝わるよう周辺を整理しなきゃならない。そして大勢の読者にその本について語り合ってもらえる場を用意すること、などなどなど。
つまり読者の人生にその本の居場所を作ってやる。それが「本をソーシャル化する」ことだと思う。

本をソーシャル化する、ということは本を生活者のコンテキストの中で価値あるモノにする、と言い替えてもいいですかね、たぬきちさん。

さてさて、コンテキスターの話をしなきゃ。
脱藩後、1クールを経過した現時点では、僕の考えるコンテキスターとは単純な話になりつつある。

コンテキスターとは、文脈の接続者である。

あまりに簡単な定義ですみません。でも、そうなんです。
このエントリーで、僕がつたなくも試みていることがコンテキスターのことはじめなのだ。

たとえば、広告界と出版界を「コンテキスト」という文脈で接続してみること。
たとえば、リアルな世界で自分の親戚と仕事仲間を接続してみること。
たとえば、ツイッターで@と@をメンションしてRTして接続してみること。

これらの行為がコンテキスターのミッションなのだ。
よろず、ものごとを接続する者をコンテキスターと呼んだら、自分の中ではすごくすっきりする。

考えてみたら、文脈を接続する行為を表す言葉ってなかったのですね。
コネクターでは、あまりに物理的だ。
フィクサーでは、生臭い。
プロデューサでは、お金がからむ感じがする。
コンテキスターというのが、僕にとって適度な温度感を持った言葉だった。

さらに考えてみたら、坂本龍馬だってコンテキスターと言えるのではないか。
長州と薩摩と土佐の文脈を接続して、未来を指向した。
その未来が1945年8月15日に繋がったのは情けない話だが、これは別エントリーに棚入しておこう。

と書いているうちに、聞こえてきたメロディがある。
恥ずかしながら(笑)、D社の社歌だ。

♪おお、D社、◯◯と◯◯つなぐ~、というあれですね。

現役時代、あまり社歌に対するロイヤリティはなかった。でも、確かにこれはコンテキスター賛歌とも言える。繋いで、接続して、そして前に行くのだ。
D社のDNAのよいところは、ひたすら前向きなところだった、と僕は思っている。いかに問題が多くても、猪突猛進と言われようとひたすらポジティブなDNAだ。

そう、コンテキスターは接続して前に行かなければならない。
善循環説に立たないと、接続する行為は持続しない。
そういう意味では、D社を卒業した僕がコンテキスターという肩書きを目指しているのは正しい道のような気がする。

僕はまだ世の中に対しては、コンテキスターと名乗ったことはない。
ツイッターとこのブログの中でのみ、すなわち自分に対する道筋としてコンテキスターという言葉を使っている。

まずは身近なモノとコトから文脈を接続していき、それが世の中全体に何らかの善循環をもたらせば最高だ。

だが、今の僕には、そこまで高らかにコンテキスターのミッションを宣言する自信はない。
明確に言えるのは、僕は自分の文脈を正しく接続していきたい、ということだ。

1952年から今日まで生きてきた僕の中にはさまざまな文脈がからまっているはずだ。
その文脈をひとつの流れに接続していけば、必ず見えてくるものがあると思う。

過去の自分と今の自分と未来の自分を繋ぐ接続者でありたい。

これが、僕のコンテキスターとしてのスタートラインだ。

2010年9月27日月曜日

文脈日記(「リストラなう!」を自炊なう)

いつのまにか脱藩から3ヶ月が過ぎようとしている。
会社員にとっては1クールというやつだ。1クールくらいでは会社はそう簡単には変わらない。特に大きな会社は。

ところが、脱藩者にとっての1クールは急激な変化がある。
特に僕の場合はミッション・シートで自分を縛ってから脱藩したものだから、変化せねばならぬ、という妙なプレッシャーがある。その自分勝手なプレッシャーの中であがいているうちに手をつけるのが、すっかり遅くなったことがある。

それが本の「自炊」だ。iPadやiPhone、キンドル(僕はまだ持っていないが)などの端末に自分の本を自分でPDFにして収納することを「自炊」という。

僕がはじめて「自炊」という言葉に出会ったのは、西田宗千佳さんの「iPad VS.キンドル」という本だった。この本に関しては以前にも書いている。

そして、こんなつぶやきをしていた。 

「本を自炊する」という言葉は面白いなあ。自分で本を裁断してスキャンしてデジタル化してeBOOKリー ダーに搭載すること。初めて聞いた。「iPAD vs.キンドル」第3章より。僕も自炊したい。 

僕は脱藩する前から電子書籍には強い関心を持っていた。それは活字中毒者としては当然のことだ。
この本を購入した時点では、僕はiPhoneも持っていなかった。だが電子書籍の端末は欲しくてたまらなかった。「自炊」に強く憧れたのは、いつかそれらの端末を買うであろう自分がどうやってコンテンツを充実していくのか、そのイメージができたからだ。

脱藩カウントダウンをしている間も「自炊」のことは気になっていた。
そうこうしているうちに6月頭には早稲田大学時代の友人から、「自炊はじめたよ!」というメールまで来た。

「自炊」という行為は、自分のToDoリストにずっと存在していたのだ。
その証拠に7月3日には、もうドキュメント・スキャナーを購入していた。今や「自炊」標準スキャナーになったScanSnapだ。
その後、アマゾンで大型裁断機も買った。これは家族のひんしゅくも買った。やたらに重くて閉口した。

そして昨日にいたるまで、ドキュメント・スキャナーも大型裁断機も放置されたままだった。
ようやくスキャナーの梱包が解かれたのは、三つのコンテキスト(背後関係)が重なったからだ。

まずiPadを買ったこと。これは妻のものです、とつぶやいたものだから、友人に僕がiPadを見せるたびにこう言われる。「奥さんのiPadを持ち出していいのか…」
へい、そのとおりなのですが、僕の営業ツールにも兼用してます、と応えるしかない。

iPadはすばらしいツールだ。特に電子書籍端末としては感動的だ。
iPadに自炊本を収納したい、と切実に思い始めた。自炊本を読みたいのではない、収納したいのだ。このあたりのニュアンスは後で説明しよう。

次にiPhoneでも、電子読書体験をしたこと。近頃は電子書籍を「電書」と呼ぼう、というムーブメントもあるらしいが、ユーザ視線でいえば「電読」といいたい。ネパールにいる間は、待ち時間が長かったので電読にトライした。

僕のはじめての電読は、「お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!肺がんで死にかけている団塊元全共闘頑固親父を団塊ジュニア・ハゲタカファンド勤務の息子がとことん聞き倒す!」という長いタイトルの本だ。
この本のコンテンツに関しては語らない。それは「ラスト・オキュパイド・チルドレン」としてのエントリーで、あらためて書くことにしよう。

初電読体験としては、「意外に快適」というのが正直な感想だった。カトマンズ郊外のホテルで読了したときは少し涙目になった。液晶画面で目が疲れたわけではなく。つまり紙の読書と同じくらい感情移入できたのだ。

それから、「リストラなう!」の単行本を読んで、心が動いたことだ。

「リストラなう!」は、K文社での早期退職優遇制度に応募したたぬきちさんのブログを新潮社が書籍化したものだ。
たぬきちさんは5月31日に45歳で脱藩した。
僕はこのブログは割と早い段階で読んでいる。佐々木俊尚さんのツイートで発見したのだ。
自分も脱藩問題で悩んでいたので他人ごとではなかった。僕が「脱藩カウントダウン」というブログを書き始めたのは「リストラなう!」の影響が大きい。

たぬきちさんの文脈はコンテキスターとしての僕に響いた。そのことは次のエントリーにしよう。
ここでは「自炊」話だ。
たぬきちさんはブログの最初から最後まで出版業界の未来を語り、電子書籍に強い関心を寄せていた。そのたぬきちさんの本が出て、読了した後、僕がぶあつい紙の本を自炊したい、という衝動に駆られたのは必然の流れだったと思う。

iPadの購入、iPhoneでの電読、そして「リストラなう!」の単行本。 このコンテキストでついに山は動いた。
不精者が重たい大型裁断機をセッティングして、ドキュメント・スキャナーの梱包を解いたという意味なんですけど。

そして自炊をしてみた感想は、僕にもできるゾ!である。

大型裁断機の切れ味は抜群だ。
ちなみに先に自炊老人となった友人が教えてくれた「自炊マニュアルサイト」でも紹介されているプラス製のものよりもさらに大型で重い裁断機を僕は購入していたようだ。
心地よく重いハンドルさばきだ。

ScanSnapはさすがにベストセラーだけあって、使い勝手はいい。
自炊の前の手慣らしとして大量に貯まった紙の書類をスキャンしてみる。さくさくとPDFになっていく。決して気が長くない僕が待ち時間を気にしなくていいレベルだ。新聞全ページをスキャンするテクニックも分かった。

次にオードブルとして、これも大量に貯まっている雑誌を裁断してスキャンしてみる。
この調理は雑誌のページをセレクトせずに、全部まるごとスキャンしてしまうのがコツらしい。少々ページが乱れても気にしない。どうせもう読まないんだから。

あれれ、だったらブックオフに持って行けばいいのに。
このへんが自炊の微妙なところなんです。いつかくる事態のために、食料を備蓄する心配性のお父さんのような感覚。
でもデジタルデータは腐ることはないのだ。雑誌という食材は迷わず自炊するべきだ。

次はセカンド・ディッシュとして新書。
なぜか本棚に2冊あった「しのびよるネオ階級社会」平凡社新書だ。新書というのは、実に自炊しやすい食材だ。スパッと切ってスルスルとスキャンして皿に盛る。じゃなかったiPadに収納する。

いよいよメインディッシュの単行本だ。
ここで駆け出し自炊師は考えた。本命の「リストラなう!」の前に、やっぱり1冊練習をしないとね、それもハードカバーの単行本で。
選ばれたのが「ハッピー・リタイアメント」幻冬舎。浅田次郎さんの本だ。単行本の場合は裁断機にかける前に下ごしらえがいる。

まず本を腹開きにして出刃包丁、じゃなかったカッターナイフを持って、ハードカバーを切り離す。カッターナイフが骨、じゃなかった本の堅い部分に当たっても躊躇せずに切り込む。
しかし、本にカッターを入れるときのグキッという感覚は切ないものがありますなあ。

そして、魚でいえば骨の周りの血合いにあたる部分をキレイにして裁断機で一刀両断、のはずだった。
だが結果は本が断末魔の一暴れをして、無残にも本文部分が斜めに切れてしまった。要するに裁断機の締め付けが甘くて、刃が入った勢いでずれてしまったのだ。
これは見るに堪えない。魚をおろすのに失敗して刺身がとれなくても、煮付けにすればよい。
でも本は無残だ。スキャンはできない。紙としても読めない。汚れたものは見たくないのでゴミ箱に直行だ。

ごめんなさい、本の神様。僕のハッピー・リタイアメントに呪いをかけないでくださいね。もう二度と単行本の自炊はしませんから。
と言いたかったが、「リストラなう!」を自炊したい、という欲望は抑えることができない。

慎重に、きわめて慎重にぶあつい383ページにカッターを入れる。裁断の失敗は致命的だとラーニングしたので、小分けにして裁断していく。
ページ分けした部分の継続スキャン設定は簡単だ。 それから表1と表4もスキャンする。魚のアラにあたる(?)カバーの折り返し、背表紙、帯も残らずスキャンする。
ばらばらにPDFにしたものをアドビ・アクロバットで結合したら、おいしい「リストラなう!」の自炊皿の完成だ。

たぬきちさん、書籍版「リストラなう!」に捨てる部分はありません。
全部まるごと自炊させていただきました。末永く保存食にいたします。

ということで、ここにまたひとり自炊老人が誕生した。
ただし自炊の技を身につけても、何を自炊するかという問題は残っている。

あたりまえの話だが、自炊するのは自分の本しかできない。
目の前に紙の本があるとする。その紙を読まずにいきなり自炊する度胸は、まだ僕にはない。まず紙の本を読みたい。もし、その本が面白くなければ話は簡単だ。ブックオフに直行するだけだ。
面白い場合は悩むだろうなあ。すでに収納能力の限界が来ているリアル本棚なのか、それともiPadの本棚に収納するのか。

「リストラなう!」の場合は迷わず自炊した。
この本の場合はiPadの本棚に収まるのが正しい姿だ。
でも僕のリアル本棚のかなりの部分を占拠している村上春樹の本はまだ自炊できないだろうな、というのが僕の本音だ。

さらに、自炊した後の調理素材をどうするのか、という問題もある。 魚をおろした後は捨てるしかない部分もある。でも解体されても本はまだ活字が生きている。

ちなみに、「リストラなう!」の調理素材は捨てられない。単行本として存在していたときよりも、もっとボリューム感が増して、まだ僕の本棚に鎮座している。

うーん、活字中毒者で、かつ自炊老人となった僕の悩みはつきない。

2010年9月15日水曜日

文脈日記(微笑みのネパール)

Directly to airport ?
と、カンチャがタクシーの中で聞いてきた。
Yes! と父と息子が声をそろえた。

ネパール・ロードの最終日のこと。正直、もう帰りたくなっていた。ネパールのローカルツアーは面白い。が、疲れる。そろそろ限界になっていた。これ以上、僕たちはどこにも行きたくない、早く空港へ行こうよ、カンチャ。
そしてカトマンドゥ空港に着く。セキュリティの問題でカンチャは出発エリアに入れない。まだバンコク行きのフライトまで時間はあるが、ここでお別れだ。

突然、カンチャが泣き出した。息子にハグして離れない。いつまでも泣いている。息子は28歳、カンチャとはほぼ同い年だ。ふたりであらためて連絡先を交換している。
そうだよ、君たち、Don't trust over thirty.
30歳以上なんて信用するな、君たちが世界を変えていくのだよ。
父の眼鏡の中にも少し水分が貯まった。カンチャはもっと僕たちと旅を続けたかったのだ。

カンチャというのはネパール語で末っ子の意味だ。今回、父と息子のネパール・ロードのガイドをお願いした彼のことを、僕たちはそう呼んでいた。カンチャの涙で、ネパール・ロードは終わった。

この旅も例によって、突然、決定した。夏休みにどこか行きたい、と言っていた息子が「ネパールどうかな」と提案してきた。アウトドア志向が強い父に異存はない。息子と二人旅をするのはスコットランド以来だ。

ただし、無職の父はどうでもいいが、息子の休みの都合で出発まで20日を切っている。これはさすがに焦った。いよいよパックツアーか、と覚悟した。これまでいろいろなところに旅をしてきたが、お仕着せの旅はしたことがないのだが。

そこで思い出したのがD社の先輩のことだ。先輩の娘さんはネパール人であるTさんと結婚している。Tさんは大阪にいる。

さっそくTさんに会いに行くと縁脈が繋がった。彼の弟がすべてガイドをしてくれるという。弟は末っ子なのでカンチャと呼ばれているらしい。カンチャがカトマンドゥまで迎えに来て僕たちの面倒を見てくれるそうだ。

これはありがたい。いつものことながら気ままな旅をしたい親子なので、自由度の高いプランは大歓迎だ。都会であるカトマンドゥでの滞在は最小限にして、カンチャが住んでいるポカラをベースにトレッキングを含んだ旅程をつくる。

そうなのだ。この旅のメインイベントはトレッキングだった。Tさん夫婦が中心になってポカラ郊外の村につくった診療所と、そこからさらに上ったところにある村の家を訪ねるトレッキング・プランを立てていた。

結論から言うと、トレッキングの目標だったところには2カ所とも到達できた。でも当初の予定であった診療所と村での宿泊はパスになった。
実際に診療所と村を訪ねてみると、僕たちのような軟弱な日本人には、日帰りでちょうどよかったような気もする。それでもこれは貴重な体験であった。出発前にTさん夫婦から諸事情は聞いていたが、行ってみなきゃ分からない。

58歳になるまでD社のクリエーティブをやっていたおかげで、いろいろな経験値は積んできたつもりだ。それでもまだまだ体験しないと分からないことがある。コンテキスターとして世の中の文脈を紡いで行くために身体が動くうちに行けるところに行っておくべきだ、と旅から帰ってつくづく思っている。

ネパール・ロードの時系列にそった記録は、僕のロード・ツイートを遡ってください。iPhoneでWi-Fiに入れるタイミングが限られていたので、実は時系列が混乱しているのだが、そこはアジア的寛容心でご容赦願いたい。

ここでは、キーワードにそって旅のサマリーをしておこう。

まずはラニーニョ。スペイン語で女の子の意味だ。でもそんな可愛い話ではない。この夏、全地球的に異常気象をもたらしているのはこいつのせいらしい。東太平洋の赤道付近で海水の温度が低下する現象だ。

ネパールにいた10日間のうち9日は雨が降った。世界はほとんど厚い雲に覆われていた。旅の雨は気が滅入る。どうしても出せないラブレターを持ち続けているように。ネパールはまだ雨季だということは分かっていた。でもここまで意地悪しなくてもいいでしょ、ラニーニョちゃん。

ずっとこんな空が続いた。サランコットからポカラを見下ろす。
それでも、ラニーニョのご機嫌伺いをしながら、かろうじて晴れた風景にも出会えた。ポカラのフェワ湖のベストショット。
青い空のある写真は貴重だ。サランコットから。
トレッキングで出会ったレディと青い空。


次のキーワードはマチャプチャレだ。ネパール、ポカラのガイドブックを見てほしい。ポカラの象徴はマチャプチャレだ、と書いてある。

マチャプチャレとは「魚の尾」という意味らしい。アンナプルナ連峰のなかでひときわ目立つその偉容は一目見たら忘れられないらしい。と、人ごとのように言うのは、ついに僕たちはマチャプチャレを見ることができなかったからだ。フェア湖畔でも、トレッキング中でも僕たちはずっとマチャプチャレを求めていたのに。

息子が望遠でとらえてくれたマチャプチャレの先っぽ。顔を出していたのは1分くらいか。
この雲の向こうに三角の魚の尾を想像してください。


そして、この旅にはメディカルという重要なキーワードがある。ポカラからアンナプルナに向かうルートの入り口、ヤンジャコット村にある診療所のことだ。
標高1700メートルの村にTさん夫妻が中心になって診療所をつくった。
このメディカルは、他にはまったく医療施設のないエリアで村人たちの診察をしている。山の中にこういう建築物をつくる、ということの意味は、自分の足で行ってみないと分からない。Tさん夫妻の努力に敬意を払おう。村の診療所を支援して、自立を促進するための会は現在も活動中らしい。

僕はiPhoneで、ここで働く医師のインタビュー動画を撮影した。その動画をどう活用すればいいのか、今のところ分からない。ただ世の中のために働く住民代理店を目指す者としては必要な行為であったと思う。

余談だが、この旅では本当にiPhoneのお世話になった。僕にPhone4を与えてくれた皆様にあらためて感謝します。暗い夜道を歩くときは懐中電灯になるし。こいつは本当に「Access to tools」だ。2010年の「WHOLE EARTH CATALOG」だ。

ずいぶん長いエントリーになりそうだ。ここらで一休みしよう。そこで次のキーワードはチョウタラ。ネパールを旅するときに必ずお世話になるものだ。菩提樹が植えられた石積みの休憩所のこと。
トレッキングの途中で、僕は何度も「カンチャ、テイク・ア・レスト!」と叫ぶ。でもカンチャは次のチョウタラまで止まってくれない。

さて、一休みしたら本題に入ろう。ここからがネパールの文脈研究なのだ。冒頭のカンチャの涙に繋がるはずだ。

ネパールという国のコンテキストは、その微笑みにある。彼らはとてもまったりとした微笑みの持ち主だ。それは顔の骨格と皮膚の間に張りついたような、とても自然なネイティブ・スマイルばかりだった。この微笑みを背景にネパールを歩けば、見えてくるものがある。

僕は、そのネイティブ・スマイルが生まれる瞬間に出会った。
生後8日目のカンチャの次男だ。このシャッターチャンスの直前、確かに彼の微笑みを見たような気がする。ほんの少しその残り香がある写真だ。

カンチャは僕にこの子の名前をつけてくれと頼んできた。ネパールでは誕生日から9日目で盛大なお祝いをして子供に名前をつけるという。そう言われたときに僕の頭の中にはEMIという名前が浮かんだ。

EMI for smile.
エミというのは、微笑みのエミだよ、と僕は解説を加える。ちなみにカンチャの長男はYUKI、ユキと言う。兄と弟の名前のバランスもいいのではないかな。

YUKI and EMI. YUKI and EMI. とカンチャは何度も口の中で転がした。彼はEMIというネーミングを選んだ。

YUKIもまた素敵な微笑みの持ち主だ。
こんな表情に出会ったら旅の疲れも吹き飛ぶ。そして僕は、この微笑みの由来をカトマンドゥ郊外、パタン博物館で見ることになる。
仏教にもヒンドゥー教にも疎いのでこの像の解説はできない。だがこのネイティブ・スマイルには心が動いた。
この微笑みは村のオジサンに引き継がれている。
 おばさんと愛犬も微笑む。
そのプロタイプはここにある。
ヤギさんも微笑む。
 きりがないので、このへんで写真はやめておこう。

僕たちはこの国を旅している間、まったりとした笑顔にいたるところで遭遇した。軟弱な日本人はトレッキングで歩くべき道をジープで疾走した。当然、歩いている人々には迷惑な行為だ。でも彼らは追い抜いていくジープを笑顔で見つめてくれていた、と思ったのは僕の錯覚だろうか。

あの微笑みを何に例えればいいのだろうか。

波紋かもしれない。水底から水面に浮かんできた何かが創りたもうた波紋かもしれない。静かな水面にそれが広がったあとの余韻が漂う。

光栄にもカンチャのベビーにEMIという名前をつけさせていただいたあと、僕たちはポカラをベースにして村を歩いた。そしてカトマンドゥに移動して、パタンやボガナートを訪れた。

村でも街でもネイティブ・スマイルは普遍的存在だ。それはこの国に富の偏在があるのと同じくらい明白な事実だ。
微笑みの普遍と富の偏在、その狭間で底抜けに明るく僕に心情を語ってくれた人物がいた。

ルワング村の17歳男子。カンチャの甥っ子だ。
 
彼は語る。

僕には父もいない。母もいない。僕は勉強をしたい。でもお金がない。僕には牛がいる。山羊がいる。猫がいる。犬がいる。ここが僕たちのお茶畑だ。すばらしい景色だろ。鳥の姿が見えたかい。ここが僕の世界のすべてだ。僕は勉強をしたい、お金はない。

僕は彼の微笑みトークに日本的曖昧笑いで応えるしかない。僕は彼の問いかけに応えられない。そして僕は、この村で写した写真を彼に届ける手段を持たない。

彼は今も微笑んでいるだろう。微笑みの持つ普遍の力がネパールの国境を越えていく日もあるだろう。そう願いたい。

カンチャの涙は微笑みの塊が一瞬、はじけとんだせいかもしれない。その涙はEMIの微笑みに繋がっているにちがいない。そして、僕と僕の息子の内側の深いところにも。

ナマステ、カンチャ。ありがとう。

2010年8月24日火曜日

文脈日記(ロード・ツイッター)

脱藩して50日が経過した。相変わらず毎日が急激に過ぎていく。そう言うと、会社に行く必要がないのだから時間はありあまっているはずだ、という反論が返ってくる。

ところが、脱藩者の実態はちがう。会社というものに制約されない分、あれもやりたい、これもやりたい、という思いが錯綜する。文脈が整理整頓できず、意欲が空回りしていくうちに時間は経過していく。今までは会社を言い訳にして、どうせできないのだから、とさぼっていた事柄が「さっさとやれよ」と迫ってくる。早期退職したという義務感(?)もあるし。

年をとると物理的にも時間経過が早くなってきた、と感じる。18歳の時間と58歳の時間は、64Kのダイヤルアップと光ファイバーの差くらいにスピード感が違う。日々は飛んでいく。

これは一般的には、年寄りの方が体内時計が早く回るからだ、と考えられていた。ところが事実は、体内の新陳代謝速度が老化現象でゆっくりになるにつれて、自分の処理能力が世の中の動きについていけないのが原因らしい。これは福岡伸一さんの「動的平衡」からの受け売りですがね。

そうなのだ。問題は世の中の動きと自分の処理能力なのだ。いつまでも若いつもりでいても、僕の古びたCPUは情報大洪水に溺れそうなのだ。本来のタスクを達成するまえに、レンダリングで1日が終わってしまうのだ。

情報のタイムラインは容赦なく流れていく。そこに棹を差しても無駄だ。最近の僕は「情報循環説」を唱えている。タイムラインに逆らわず、自分のペースで情報処理をしていけば、自分にとって必要なことはきっと必ず届いてくる。ネットの大原則、性善説に基づく楽観論だ。それでいいのだ。

ツイッターのタイムラインも「情報循環説」を信じてからは気楽になった。TVのスイッチをONにするのとツイッターのタイムラインを見るのは同じアクションだ。その時点で流れてくる情報をなんとなくキャッチして、時間がなくなればOFFにすればよい。それでも広告代理店時代の癖として、一度見たCMは忘れない。同じようにタイムラインを流れる面白そうなつぶやきは一瞬でキャッチできている、そのはずだ。キャッチできなくても、そのうちまた循環するだろう。

デジタル・シニアのみそっかすとして、僕はツイッターのヘビーユーザになっている。デジタル・ネイティブに対抗する気はないので、マイペースで情報の循環を信じて、日々つぶやいている。しかもロードで。

この50日の僕は、けっこう旅に出ていることが多い。僕の愛車は脱藩以来、3500キロ以上の走行距離を記録している。坂出、松江、小豆島、龍神温泉、各地のロードで僕はつぶやき続けている。自称、ロード・ツイッターだ。

坂出は僕の生まれたところ。坂出の西にある丸亀高校はラスト・オキュパイド・チルドレンとしての僕が青春を置き忘れたところだ。松江には妻の実家がある。野津旅館という露天風呂があって料理のうまい宿だ。小豆島には誰も住んでいない家と土地がある。龍神温泉は鮎釣りのホームリバーだ。

ツイッターの本質はホームではなく、アウエイすなわちロードにある。移動しつつつぶやくのは古びたCPUにとっては少々荷が重いが、つぶやかないと「どうしてつぶやかないの」と気にかけてくれる人もいるので、中古の指を酷使してつぶやいている。しかも写真つきでつぶやくように努力している。iPhone4は強い味方になった。当然、個人情報は流したくないので風景写真が多くなる。最近は#myskyへの投稿を意識的にしている。空の上の住人である@myskyさんたちがリプライしてくれるのが楽しい。

ロード・ツイッターは、加速度的な時間の流れにおびえつつも空と雲を眺める癖がついてきた。先週の小豆島では、不思議で神秘的なサンセットに遭遇することができた。これも空を見上げる楽しさを教えてくれた@myskyさんのおかげだ。ありがとうございます。

小豆島、海に落ちる夕日と不思議なかたちの雲。

クラウド・ドラゴンと名づけたい。

夕日が海に光の道をつくる。

このクラウド・ドラゴンは撮影していて敬虔な気持ちになった。クラウドの可能性を信じつつ、ロード・ツイッターを続ける僕へのご褒美だったのだろうか。

そして、ロード・ツイッターは今晩からネパールへのロードに出る。リアルタイムのツイートは難しいかもしれないが、なんとかつぶやく努力はしましょう。