2010年7月29日木曜日

文脈日記(棚卸読書)

脱藩してから一月が経過しようとしている。文脈の研究は遅れがちだ。僕にはなにごとも形から入る癖がある。会社の形から自立の形への変更手続きは煩雑だ。しかもデジタルとクラウドの世界では使ってみたい道具が無限にある。面白い。でも道具たちと遊ぶのはいい加減にして、中身を充実していこう。

ということで、新しい文脈をカテゴリーに加えていく。

「棚卸読書」というのは、ツイッターで本のことをつぶやくときに自分で勝手につくったタグだ。重度の「活字中毒者」である僕はツイッターを読書メモ代わりに使うことがある。
「活字中毒者」、この言葉と出会ったのは1981年だ。「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」椎名誠、本の雑誌社。

今、手元にその本を置いて、このエントリーを書いている。もちろんリアルな紙の本だ。少し黄ばんでいる。初版本である。初版に価値観を持つ人はすでに絶滅危惧種だが。

このエントリーは活字中毒者の端くれとして、自分が読んだ本のことを文脈化していく最初のエントリーにしたい。

コンテキスターは、さまざまなジャンルの本を読む必要がある。一冊の本に出会ってその面白さに没頭するのもいいが、違うジャンルの本を同じコンテキストの中で読んでいくのも興味深い試みだ。
そう意味で、2冊の本のコンテキストを紹介してみたい。

この2冊は同時に購入している。その日のつぶやきを引用しておく。

【棚入読書】「iPAD VS.キンドル日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏」「楽しみを釣る 小西和人自伝」どちらもエンターブレインの本。これだけジャンルの違う本を同時に出すのも変な出版社だが、同時に買う僕も変なのだろうか。
1:32 PM Mar 26th webから

「棚入読書」というタグは、文字どおり本棚に入れたという意味だ。棚卸をするまで時間がかかったが、どちらの本も面白いし役に立った。

エンターブレインという出版社の中で、この2冊がどういう位置づけになっているのかは分からない。が、僕は生活者、この場合は活字中毒者の視線からコンテキストを考えていこう。

「電子書籍」と「釣り」、一見すると何の関係もなさそうに思える。両方に同じレベルの興味を持っている僕のような者はそれほど多くないだろう。

この2冊は、ジャーナリズムというコンテキストで繋がっている。

『iPad vs. キンドル 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』の著者、西田宗千佳さんは気鋭のITジャーナリストだ。

『小西和人自伝 楽しみを釣る-釣り人のためのニッポン釣り史伝』の著者、小西和人さんは、日本ではじめて、釣りジャーナリズムというものを確立した人だ。

今はジャーナリズムというものの定義は難しい。
コンシューマーがコンテンツを自由自在に発信する時代にあって、それらの情報に一定の基準値を提供する仕組み、とでも言えばいいのだろうか。

ITジャーナリストは情報大洪水で溺れる生活者にとって頼れる存在になる可能性がある。ネットの大海にはどんな情報でもストックされている。でも自分で闇雲に探すよりも一定の方向性で情報を解説した本を読む方が効率がいい。

ITジャーナリストの西田さんは、eBookへの長い道を分かりやすく説いてくれた。それは僕のマックでの電子辞書体験と重なった。またすべての活字中毒者が抱いている「重い本を持ち歩くことなく、いつでもどこでも本を読める」という夢へのプロセスも語ってくれている。本を自炊する、すなわち、自分で本を裁断してドキュメントスキャナーでデジタル化する行為のことは、この本で初めて知った。

その後も電子書籍に関する情報はフォローしているが、西田さんの解説本が僕のスタートラインになっている。

一方、釣りジャーナリストというのは少ない。釣り名人の技術ノウハウ本は世の中にあふれている。でも釣りの社会的で時事的な側面を語ってくれる人はあまりいない。

小西和人さんは、関西の釣り好きの間では有名人だった。ただし海釣りがメインの方で、僕のテリトリーである渓流と鮎の釣りはあまりやられなかったようだが。

『楽しみを釣る』は日本の海釣りに関して、エポックメイキングな本になるだろう。基本的にエゴイストである釣師をまとめていくのは大変なことだったと思う。1977年に兵庫県高砂市で敢行されたという「世界初の釣竿デモ」の光景は目に浮かぶ。

実は渓流釣りの世界にもバイブルはある。山本素石さんの「西日本の山釣」だ。1973年に釣りの友社から刊行されている。この本は技術論であり文化論であり地勢論でもある。山本素石さんはジャーナリストというよりも文学者に近い存在だったようだ。

ジャーナリズムというコンテキストで本を眺めていると、いろいろな発見が今後もありそうだ。最近、出版界のトレンドはやたらにノウハウ本とマニュアル本に偏っているようにも見える。ジャーナリズムと単なる解説の違いは、縦書きと横書きの違いくらいはあるので、しっかりと見極めていきたいと思う。

それにしても、最近、読書量が目に見えて減ってきている。脱藩をして車での移動が多くなったこと。飛行機に乗らなくなったこと。そしてツイッターのせいだ。これではいかん。

活字中毒者は「本が切れる」恐怖感から棚入行為はやめられない。最近はeBookの棚入まで始めてしまった。これで「自炊」を始めたら、中毒を癒すために棚卸をする時間がますますなくなってくる。

すべてはバランスの問題なのですよ、と自分に言い聞かせる日々が続きそうだ。

2010年7月19日月曜日

文脈日記(家族史)

どうもまだ脱藩生活のリズムが掴めない。自分のすべてを自分で律すること、すなわち《自律の自立》には時間が必要だ。他律生活はそれなりに楽だったのだ。

と弱音を吐いても仕方がない。僕はこの道を選んだのだから。時間がない、忙しいと今までと同じ言い訳をするのはやめよう。時間はあるのだ。使い方が下手なだけだ。

このブログも早く更新せねば、と気持ちばかりが焦る。他人の情報を発信するお手伝いはいやというほどやってきたのだが、自分の情報発信は難しい。判断基準が自分しかないからだ。世の中と自分との間合いを図るのに、もう少し時間が掛かりそうだ。

なにしろ駆け出しブロガーですので、多少のもたつきはご容赦ください。

そんなわけで、文脈研究所、文研の更新はぼちぼちとやっていきます。自分の中では文脈があふれていても、それを世の中にそのまま出したのでは単なるオーバーフローだ。

こういうときは、また原田ボブ先達に頼るしかない。

自分の内なる声の指示に従えばよろしい。

そのとおりだと思う。自分の中でざらつきを感じること、違和感を感じることはしない、これが《自立》の判断基準、その1なのだろう。

そんなことを考えつつも、早く文研のカテゴリー・エントリーはしていきたい。一部の皆様にお配りした僕のミッションシートには、コンテキスターとしてのカテゴリーを並べてある。そのカテゴリーを織りなす作業を始めたい。

そのカテゴリーのひとつに「家族史」がある。自分史ではない。そして自分の家族の特別化でもない。複数の家族が織りなすコンテキストの中で見えてくるものを文脈化してみたい。

ミトコンドリア・イブやルーシーにまで遡るつもりはない。しかし我々は「遠くから来て遠くまで行く」のはまちがいない。

「遠くまで行くんだ」という言葉がずっと気になっていた。1970年頃、とある雑誌のタイトルで見た覚えがあり、ずっと心の片隅に残っていた。この言葉に関して調べてみたのは、長男の結婚式でのスピーチを考えていたときだ。いわゆる「両家を代表しての挨拶」というやつですね。

複数のブログを参考にさせていただいているうちに、「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」という台詞が白戸三平「忍者武芸帳」ラストシーンにあったことを思い出した。ブログなど影も形もなかった昔に読んだことがある。影丸のラストメッセージだったのだ。

この言葉のオリジナルはイタリア共産党の創始者、パルミロ・トリアッティだそうだ。きっとファシズムに対抗した人なのであろう。この人の言霊が僕の中で生き続けていたのだ。

「遠くまで行くんだ」という言葉が持つセンチメンタリズムに共感した僕は結婚式のラスト・スピーチをこの言葉をモチーフにして組み立てた。ただし、政治的な文脈でこの言葉を使うのは嫌だったので、ジョン・レノンの「ビューティフル・ボーイ」をBGMにしてしゃべってみた。

以下、そのサマリーです。

彼らが出会った瞬間から、二人は私たちのボーイとガールであることを卒業しました。正直、少し、というか、かなり淋しい気持ちがしますが、彼らの前には新しい道ができました。それは、単に私たちの息子と娘が出会ったということだけにはとどまりません。彼ら二人は遠くから来ました。両家の家族は遠くからの道を歩んできました。それから、生まれてから今日まで、たくさんの人に支えられながら歩いてきた道があります。彼らが出会ったとき、それら別々の道がクロスして、その瞬間、新しい道ができました。私たちの息子と娘は、遠くから来て遠くまで行きます。

おかげさまでスピーチはうまくいった。でも、一回限りのスピーチで家族史は語れない。あたりまえだが。

遠くまで行くのは、息子と娘たちの自己責任だ。ただし遠くから来たことを記録しておくのは、僕の役割だ。家族史は、田中家と妻の親戚関係から始めたい。それは満州へと繋がっていく。

2010年7月12日月曜日

文脈日記《自立》

《自立》の準備を進めている。僕のATOKは「じりつ」と入力すると《》がでてくる。この記号を僕は勝手に自立括弧と呼んでいる。1970年前後に吉本隆明さんが好んで使っていた記号だ。今でも自立括弧の中に自立という文字を入れると一本、筋がとおった感じがする。

《自立》のはなむけに、さとなおがメッセージをくれた。さなメモ「ある先輩の早期退職の日に」。このブログを公開するにあたって、ありがたくリンクさせていただく。ありがとう。本当にありがとう。

吉本隆明さんと1970年前後のコンテキストは別のエントリーで書いてみたい、とまたひとつ宿題を積みあげる。今は脱藩後の《自立生活》のことだった。自立するためには設備投資と環境設定がいる。今までD社から貸与されていたものをすべて自前で揃える必要がある。当たり前だが。

設備投資は繋がるための機材整備が主である。まずはレッツノートF9。このエントリーを書いているマシーンだ。ウインドウズ7/64bit、COREi5、メモリー4GB。今までD社で使っていたXPマシーンとは段違いに早い。このレッツノートはWIMAX内蔵だ。都会ではかなり早く繋がる。UQ Step、2段階定額プランで380円~4980円。

それからガラケー。ガラパゴス・ケイタイと揶揄されても、この列島では必要なシーンがまだある。D社で使っていた番号をそのまま使えることになった。ただし、あまりに古いので機種変更する。アウトドア志向が強いため、防水仕様にする。当然、パケホーダイダブルにして390円~4410円。

本命はiPhone4。プレゼントしていただいたものだ。こちらはパケットし放題フラット。4410円。

さらにドコモのモバイルWi-Fiルータだ。都会だけだと上記で充分なのだが、この先の僕は森や山や島にいることが多くなる。繋がるためにはドコモ3G回線が必要だ。定額データスタンダード割で1000円~4410円。

これだけの通信環境設定をすれば怖いものはない。どこでも繋がる。怖いのは通信料金だ。皮算用では、それぞれの回線をうまく使い分けて定額制の最低ラインでとどめる計算だ。でもそれぞれの最高料金までいってしまったとしたら……ぞっとする。ちなみに18210円です。

《自立》って経費が掛かるんです。もちろん自宅の無線LAN環境に居続けたらコストカットはできる。ただ、それでは《自立》とは言えぬ。妻がいやな顔をするのは目に見えている。

D社を退職して10日あまり、2日間の鮎釣り以外はほとんど自分の部屋にこもっている。リアルな環境設定のために必死で部屋のお片付けもしている。本や雑誌を「自炊」してスペースを確保するために大型カッターとドキュメントスキャナーも購入した。まだ梱包されたままだけど。

そろそろ環境設定にも飽きてきた。箱物企画は面白くないし不毛だ。立派な建造物があっても中身がないこの国の行政を見習うのはいやだ。コンテナにはコンテンツを詰めて文脈化せねば。

と言いつつもまだやり残していることがふたつある。

今朝からコグレマサトさんの「EVERNOTE」マニュアル本を読んでいる。この箱は相当使い勝手がよさそうだ。

それからiPadである。世界中の知恵と道具にアクセスするための入り口としては最強のような気がする。2010年のホール・アース・カタログなのかもしれない。妻へ僕からのプレゼントとして購入を検討しておる、と妻に言ってみたら「どうせあんたが使うんでしょ」と答えが返ってきた。

2010年6月30日水曜日

脱藩日

おはようございます。こちらは美しい朝です。会社人生最後の朝です。
と、今、Twitterでつぶやいた。

それからこのブログのエントリーを読み返す。田中文脈研究所のコンテキストがインターネットの大海に出て行くのだからお化粧を整えねば。7月のブログ公開までこの作業は続くだろう。と言ってももうほとんど時間はないが。

退職することに関してはまったく不安はない。あたりまえだ。このエントリーからブログを読み始めた皆さんはお手数ですが、5月14日まで遡ってください。そこから読んでいただいて、現時点で僕が「会社をやめるのが不安だ」などと言えるはずがない。言う気もない。

ただしブログを公開することに一抹の不安はある。自分のブログを生まれて初めて公開するのですよ。
今まで他人様のブログは山ほど見てきた。ネットの海で炎上する事例も知っている。消火作業の困難さも分かっている。

それがどうした、である。僕は会社を背負ってこのブログを公開するのではない。ひとりの社会人として自分の発言を公開できる場を持つのだ。

いまさらであるが、本当にD社にはお世話になった。おお、これからは「D社さん」と敬称をつけねば。
結婚できたのも、OKをいただいた仮編集ができたのもD社さんのおかげだ。

D社さんの悪口をあからさまに言うことは、今後も僕の無意識がブロックしていくことだろう。そんなことはありえない。

今まではD社人の規範に基づいて発言していた。そうすればD社人としてのバリアーの中で守られていた。これからはちがう。すべては自己責任だ。

天に向かって唾を吐けば自分に返ってくるのがネットの世界だ。
逆に言えば自己責任に基づき、自分に恥ずかしくない発言をすれば性善説は循環していくはずだ。

と僕は信じている。そう信じて、そろそろ会社に行く準備を始めよう。

(長い間)

会社の最終日はふわふわと浮いているような感覚だった。感傷に浸る間もなくあっという間に時間は過ぎていく。

先日の大送別会で目録をいただいたiPhone4の手続きも済ませた。久しぶりに手にしたアップルマークが嬉しい。予約に並んでくれた方に感謝します。

退職日には会社を一周して挨拶をするものらしい。では僕も、と思っていたのだが、結果的には中途半端なことになった。

会社メールを使って退職挨拶メールをBCCで送信するのに予想以上の時間を取られたからだ。
ありがたいことに一斉に返信をいただく。会社メールが使える時間は限られている。とにかくGmailに転送するしかない。

ようやくピンポイントで挨拶に行く。ふわふわした感覚が続いているので、階の認識を間違えて笑われる。元々、方向音痴なのですみません。

さらに曜日の認識もおかしくなる。明日は土曜日だろ、というおかしな発言をしてまた笑われる。自分的には明日は休日なのだが、世の中はちがう。あたりまえだ。

新しい健康保険証を受け取っていないと勘違いをして、大丈夫かいな、と笑われる。
大丈夫です。旅立ちの準備は万端です。そのはずです。

そして退社時間が近づいてくる。自分的にはクールに風のように去りたかった。だがしかし、やはり泣けてきた。

最後のフラッパーゲートを出る。そこに長い間いっしょに苦労してきたHさんが、たまたまいた。

「脱藩なう、脱藩なう」とうわごとのようにつぶやきながら、IDカードを返す。Hさんとハグする。泣けてくる。

僕の会社人生は終わった。

2010年6月29日火曜日

脱藩まで1日(縁脈)

ここのところ「縁脈」という言葉を多用している。文字どおり人と人との縁、繋がりという意味だ。類似辞典を引けば人脈という言葉がヒットするだろう。ただし「縁脈」は今のところ辞典には登録されていないようだ。

「縁脈」でググってみると「協創LLP」が、この言葉のオリジナルだと分かる。以下は協創サイトからの引用だ。

以前から『ご縁』だとか『人脈』だとか『人財』だとかいう言葉が世間でつかわれているとおもいます。これらの言葉を聴いていて思いました。だったら一緒にしてみたらどうだろうか、つまり『縁脈』なる発想。

縁脈というのはいい言葉だと思う。説明をしなくても直感的に意味を分かってもらえる。この言葉を生み出した「協創LLP」は面白い集団だ。僕は現時点で協創メンバーには会ったことがない。でも原田基風をつうじて、その存在を知った。そしてツイッターで縁脈が繋がっている。

LLPというのはLimited Liability Partnership の略だ。「有限責任事業組合」だ。法律的にすぐれた組織であると同時に、この国の閉塞状況を突破する可能性を秘めている新しい共同事業体だ。そして「協創」は同業種で形成されることの多いLLPの中にあって、異業種が有機的に繋がった集団である。弁護士や行政書士をはじめとする様々な職能が集まったソーシャル・キャピタルだ。

そして「協創LLP」はかなり過激なLLPだ。思い立ったことはすぐに実行に移す推進力を持っている。そのあたりのことはミクシィのコミュニティ・レポートを読むと激しく伝わってくる。身体を張っている。

協創LLPに対して僕がどう関わっていくのかはまだ未知数である。ただ縁脈という言葉を教えていただいた先達たちに何らかのお返しはしたいと考えている。できれば、協創メンバーの皆様と「知恵と知恵の物々交換」ができたら楽しいだろうな、と考えている。

楽しいことは正しいことなのだ。これも協創LLPからいただいた言葉だ。

僕は縁脈を求めて孤立を恐れない。

2010年6月28日月曜日

スコットランド、青い静寂

2003年の旅の記録。執筆は多分2003年10月頃。うーん、10年前の文章なのか。当時はブログも書いていなかったので読者は4人でした。新たに写真を入れてリニューアル。 そもそも田中文脈研究所のカバー写真はスコットランドのアイラ島で長男が撮影してくれたものです。 2013年10月3日追記。


そんな朝焼けは見たことがなかった。異様に透明度の高い空気が赤い光を透過している。鳥たちが飛び交う。今日もすばらしい天気のようだ。

2003年8月14日、ロンドン。午前5時。私は高層ホテルの窓辺に置いたバドワイザーごしに東の空を見ている。なぜかバドが冷蔵庫にあった。この部屋の前客はアメリカ人だったのかな、などと考えながら、少し酔っていた。

さきほど、息子はオランダに飛ぶためにルートン空港に向かった。私は少し身体と心の力が抜けた気分でぼんやりしている。この日の夕方には、私もヒースロー空港から飛び立つ。そして、2003年夏、8泊10日のスコットランドの旅は、終わりを告げる。

ロンドンという大都会は、つまらない街だ。というとロンドンに失礼かもしれない。なにしろ私にとってのロンドンは15年ほど前にヒースローでトランジットして以来、昨日と今日で24時間程度だ。昨日はスコットランドの北、インヴァネス空港からガトウィック空港に飛んできて、息子の洗濯につきあった。どこの観光地にも行っていない。時計塔ってどこにあるんだ。昨夜は何を食べたのだったか……。

旅の記憶は、ウィスキーの熟成に似ているのかもしれない。時間がたつにつれて、夾雑物が消えていき、本質だけが浮かびあがってくる。この旅のそれは、私の中でまだ充分、熟成されているとはいえない。だが何ヶ月かたった今、旅の遡行をこころみることは、私と息子にとって意味のあることだろう。


今回の旅は、突発的に始まった。初夏のある日、アメリカ留学から帰国していた息子とその両親は近くの和食屋で飲んでいた。

突然、息子が言う。長い夏休み、ヒマなのでヨーロッパにでも行って来るかな。すかさず、父親が反応する。おとうさんも連れて行け。半分、冗談のように始まったことが実現していくのが、うちの家族の特性である。足腰が軽いのだ。

昔は、家族でよく旅をした。父親の趣味で、大都会はほとんどパスしていく。オーストラリアに行ったときは、帰国便でどうしてもシドニーに寄らなければならなかった。家族全員、人と車の多さにくらくらした。

今回の旅も、息子の「ヨーロッパでも田舎の方がいい」というご託宣に父親としてネガティブはない。
ロードトリップとする。行き先は父親の好みで決める。レンタカーの運転は息子がする。英語も息子がしゃべる。費用は父親が負担する。えへん、エライだろう。(あたりまえだ)

こんなふうな取り決めでこの旅が動き始めた。どうしてスコットランドなのか、といわれたら、なりゆきで決めた、としか言いようがない。そこが田舎であることだけは確実だった。


昨夜は何を食べたのだったか……。旅の記憶は、また分かちがたく食い物と飲み物に結びつく。最後の夜は、しばらくジャパニーズが食えなくなる息子のためにロンドン市内の寿司屋を選んだ。

予想どおりの店。海外駐在の日本人ビジネスマンがたむろして、愚痴をこぼしている。世界の中の日本村の一典型だ。日本酒の種類はすばらしいが、こういう店はあまり好きではない。もちろん、団体客がコースメニューを食う店よりは百倍ましだが。そして、勘定は高い。これもこの種の店ではあたりまえのこと。

刺身をつまみながら、この旅のベスト・ディナーを思い出す。アイラ島、ボウモア村のシーサイド。The Harbour Inn のレストラン。ここの生牡蠣とムール貝は絶品ですぞ。生牡蠣はシングルモルトを垂らして味わってほしい。異常にジューシーな牡蠣エキスが浮き立ってくる。ムール貝はシンプルにスチームしたものがうまい。そうそう当店自慢のオリジナルブレッドもいけた。

8月9日の夜。この日は、珍しく雨模様で陰鬱な空だった。息子の体調が悪くあまりファインな日ではなかった。だが、このシーフード・ディナーはまちがいなく、このツアーの中でベストだった。

アイラ島の食い物はうまい。The Port Charlotte Hotel のブレックファーストは、Kippers、ニシンの薫製がいける。それから、スモークサーモンいりのスクランブルエッグ。サーモンの塩味が卵に絶妙にからむ。

The Machrie Hotel のラムステーキとハギス。羊は、そこら中を歩いているのでまずいはずがない。ハギスとはスコットランドの伝統料理で腸詰めソーセージの中身である。とても脂濃いバラバラのハンバーグといったら想像できるだろうか。

キーボードが動くままに文章をつづって行くとこのへんで当然、「イギリスの食い物まずい」談義になる。結論から言うと、世界中どこに行っても、まずいものはまずいのだ。そのへんで生きていそうなものを原住民ならぬ現住民が食べている食べ方で味わえば、まず問題はない。あの Fish&Chips だって近くの海で泳いでいる Haddock(鱈の一種らしい)で注文したら捨てたものではない。

とはいえ、予想できないことが起こるのも、旅のおもしろさだ。8月11日、スコットランド北部、アヴィモア村。The Boat Hotel のディナー。ここは、アイラ島を出て、フェリーで2時間、さらに3時間走ってたどり着いたところ。このホテルの名誉のために言っておくと、部屋の環境も従業員の態度もAAAにふさわしく快適なものであった。

しかし、である。前日までいたアイラ島のシーフードのうまさが忘れられず、私は当然のようにOyster を発注する。ところが、愛想のいいウェイトレスは、オイスターとはなんぞや?と答えてくる。怪訝な顔で、キッチンに問い合わせる。やがて、得意顔で帰ってくる。

OK、私どもはOyster の用意ができます。ほら、と出してきたお皿の上には、ムール貝。どうやら、キッチンの解釈では、Oyster とはシーフードの総称だったらしい。そのムール貝はアイラ島のものとは、似ても似つかぬぱさぱさの貝であった。

いろいろなところで Oyster を発注したが、このような対応をされたのは初めて。しかも、アイラ島の翌日だったので、よけいカルチャー・ショックを感じたものだ。食べ物の話は、これでおしまい。まずこれを書かないと落ちつかない。


さて、Islay Island アイラ島の話をしよう。今回の旅のメインテーマがアイラ島であったことはまちがいない。スコットランドの西岸沖の小さな小さな島、と言った方がロマンティックだが、本当は、淡路島くらい島だ。アイラ島のイメージは、アイレイ・ウィスキーとともにあった。シングル・モルト。しかもヨードチンキの味がする。磯臭い。でも癖になる。ボウモアとかラガブリンとかラフロイグとかのブランドは、ちょっと気取ったウィスキー飲みなら知っているはずだ。

アイラ島に行ってみたい。理由は、3つあった。

その1、田舎の中の田舎でありそうなこと。なにしろ、あの「地球の歩き方」にもアイラ島のガイドは載っていない。そもそも、この島の名前はアイレイではなく、アイラだそうな。

その2、ウィスキーとシーフードがうまそうで、フィッシングとゴルフが両方、楽しめそうだ。

その3、村上春樹がこの島のバイブルを書いている。「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」は、旅心を誘ってやまない。

私の場合、旅の目標が決まったら、徹底的に調べる癖がある。スコットランドのロードマップを買いあさる。デジタルおとんの本領発揮でネット検索をかける。カレドニアン・マクブレインというフェリー会社の時刻表を発見して、スケジュールが明確になる。アイラ島に渡るフェリーから逆算してすべての予定を組めばいいのだ。

実は、スケジュール設定で迷ったことがある。デジタルおとんはまた、ビートルズおとんでもあったのだ。私たちの世代は、ビートルズで英語を覚えた。今でも、アイ・ウォナ〜(I want to--)とかアイム・ゴンナ〜(I’m going to--)とかつい言ってしまいそうになる。そのビートルズの聖地といえば、リバプールである。イングランド北西部の港町。シングルモルトの聖地に行く前にこちらの聖地にも巡礼せねば。

こちらにもバイブルが存在する。郷土(ちなみにうどんの讃岐)の同輩、芦原すなおの「ビートルズ巡礼」である。本棚から探して再読する。実によく書けている本だ。よく書けすぎている。この本にしたがって、リバプールを訪れたとしても、これ以上の感動はしそうにない。すっかり追体験してしまった。行くのはやめよう。リバプール観光協会にとっては罪な本だ。そうなれば、ここは割り切ってスコットランドに徹しよう。イングランドとスコットランドは本来、別の国だし。

旅の全体像が見えてくる。おとんが決めたホテルに、息子がメールする。電話する。どんどん予約が取れていく。


アイラ島に行くには、2つの方法がある。スコットランド中南部の都市、グラスゴーからセスナで飛ぶか、西部のキンタイア半島からフェリーで渡るか。セスナはもちろん速いが、ロードトリップという趣旨に反する。それにしても、グラスゴーからキンタイア半島のケナクレイグまでは遠い。しかもそこから2時間フェリーに乗るのだ。ううむ、地図を眺めているうちに私はひらめいた。

島に行くには、島伝いに行けばいいのだ。キンタイア半島の東にアラン島という島がある。この島を経由していけば、近道だ。アラン島と言えば、ほとんどの人が「あのアラン・セーターで有名な」と問いかけてくる。ところが、セーターのアラン島はアイルランドの西岸にある島で、私たちが行ったアラン島とはまったく別だ。

ここは「地球の歩き方」に敬意を表して引用してみる。

アラン島は、スコットランドの縮図のような島だ。ハイランドとローランド、北と南が同居した風景は一見に値する。また、スコットランドでいちばん新しい蒸留所が存在する。

これは、面白そうだ。一泊してみよう。結果的には、アイラを見なければ、アランもすばらしい島だったと思う。グラスゴー市民の憩いの場というのもよく分かる。でも、アイラ島に比べたら、シングルモルトと日本産ウィスキーくらいのちがいがある。


では、アイラ島のすばらしさとは何か。いよいよ本題である。
息子によれば、「なんともいいあらわせない不思議な島」である。だが、なんともいいあらわせないことを表現するのが、モノ書きの仕事だ。私は別に専業モノ書きではないが、チャレンジしてみよう。

アイラ島には、ある種のエネルギーが存在する。それが旅人の気持ちに対してはたらきかけるのだ。そのエネルギーはプラスにははたらかない。マイナスにもはたらかない。ひたすら人々の気持ちをフラットにしていく。高揚でもなく下降でもなく、平衡感覚をとりもどす方向にはたらく。

別の言い方をしよう。アイラ島の空気に宿るスピリッチャルなものが、旅人に素直な心持ちとはなにかを思い出させてくれるのだ。スピリッチャルspiritualを日本語で表現したら霊的、とでもいうのだろうか。ただし、それは決して宗教的なものではない。

私たちはアイラ島に上陸してすぐに、ケルトクロスという遺跡を見に行った。遥かな昔、ケルト民族が残した石造りの巨大な十字架である。クリスチャンではない私たちでも、その場にたたずんだとたん、ドキッとするほどの静謐を感じた。

クロスが立っている。風が吹いている。周りを歩いてみる。小高い丘から海が見える。ただそれだけの風景が、ショッキングな平安とでもいうしかないものをもたらしている。


また、私たちはエレン港からボウモア村につながる15キロの直線道路を何度も走った。ここはイギリスでいちばん長い直線道路だそうだ。道の両側は何もない。見渡す限りの原野だ。車の背後には存在感のある静かさが広がる。

素直な心持ちとは、限りなく純化された日常に回帰すること、とも言える。

たとえば、こんな風景が展開する。島の西端、ナハバン村。海を見下ろす丘に白い家が映える美しい村だ。眼下の入り江で遊ぶ子供たちを見ながら、アイスクリームを食べる父と息子。その隣には、全盲で耳の聞こえない老犬がひなたぼっこをしている。空はどこまでも青い。

息子は、日本の母親に携帯電話している。DCカードの請求書がどうのこうのという話だ。目の前の風景に、そのあまりに日常的な会話がすんなりと溶けこんでいく。


ボウモア村のそばに眠たくなるほど美しい入り江がある。海岸にぽつんとベンチが置かれている。そこに半日、座って海を眺めていたら、大西洋の向こうにアメリカ大陸が見えるのかもしれない。


島にいくつもあるアイラ・モルトの蒸留所のうち、私がもっとも気に入ったのは、Ardbegアードベッグだ。アートディレクションを感じるモスグリーンの建物から、きわめてピートと磯の香りが強いシングル・モルト・ウィスキーが生まれている。

その蒸留所のアドバタイジングは、ジャック・ラッセル・テリヤ犬がキー・ヴィジュアルになっている。どうして犬なのかガイドに問いかけると、ある日蒸留所の入口に現れた犬が可愛かったからだ、と答える。海と風とその周辺にあるアイラ的日常を樽の中に蓄積して、ウィスキーが育っていく。


私たちがアイラ島に滞在したのは、8月8日から8月11日の3泊4日だ。予定では、2泊だったが、あんまり気持ちがよかったので1泊延長した。2泊は、スコットランドの典型的なゲストハウス、The PortCharlotte Hotelであった。予定外の1泊は、The Machrie Hotel、リンクスのクラブハウスだ。

リンクスというのは、海と陸がリンクする場所につくられたゴルフコースのこと。フラットで、あるがままに設計されている。アイラ島のリンクスは、ピートの原野である。このホテルの水はピートがとけこんでいて、茶褐色だ。

昼間は、フェアウェイにくっきりと自分の影を映して歩く。プレイではなく、歩く。リンクスに太刀打ちするには、まだ私の腕は甘すぎる。ボールの大量消費を招くだけだ。

日が暮れてからは、アードベッグ17年モルトを持って、1番ティーに上がる。澄み切った夜空の星と月に乾杯する。寝ていた息子も起こして乾杯する。無駄なモノをそぎ落としたアイラ的日常に乾杯する。


ここまで書いても、まだアイラ島の魅力をうまく伝えられた気がしない。しかたがない。先達の言葉をお借りしよう。

アイラは美しい島だ。家並みはこぎれいで、どの家の壁も見事に鮮やかな色に塗られている。きっと暇さえあればペンキを塗りなおしているのだろう。あてもなく通りを抜けて、ぶらぶらと散歩をしているだけで、こちらの心が少しずつ鎮まっていくのが感じられる。真っ白な鴎たちが、屋根の上や、煙突のてっぺんにとまって、じっと遠くをにらんでいる。省察と無意識のあいだに引かれた一線をにらんでいる。ときどき思い出したように飛び上がって、ひらりと強い風に乗る。

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』

かすかな風に音に聞きいるかのように、二人の間には沈黙の時間が流れていた。
「アイラ・アイテスという言葉を知っているか」
所長がそう訊いてきたのは、何杯目かのラフロイグを飲んでいるときであったか。
「アイテス……聞き慣れない言葉ですが」
私は思わず、そう訊き返していた。
「アイテスというのは病気のことだ。アイラ島に来た人間は皆この病気にかかり、立ち去りがたくなる。恋の病、アイラ熱とでも言ったらよいか。君もこの熱病に冒されつつある。(以下略)」

土屋守『スコットランド旅の物語』

またアイラ島に行ってみたい。息子もそう思っているはずだ。


アイラ島を出て、私たちはスコットランドを北上していく。2003年の夏、ヨーロッパは、というより地球は異常気象だった。猛暑がおそう。晴天が続く。私たちがアイラ島にいた8月10日にロンドンでは、観測史上最高の39℃を記録した。太陽が私たちの旅を歓迎してくれたことにしよう。

スコットランドといえば、夏でも肌寒くセーターを離せない国。陰鬱な雲が垂れ下がる国、というイメージがある。しかし、私たちのスコットランドはまったくちがった。毎日が晴天続き。青空の下にハイランドの絶景が描かれる。

車は、青いプジョー206。コンパクトカーだが、きびきびと走る。山々の連なりが風に流れる。眼下に複雑な輪郭をもつロッホ(Loch)、湖が広がる。ときどき古いキャッスルが見える。とある峠を登りきったパーキングに、目の前に迫る山々を眺める絶好のビュー・ポイントがあった。キャンピングチェアーがふたつ、仲良く並んでいる。老夫婦が座って読書をしている。読書するならインドアですればいいのに、と思う人は、日本的日常から抜けていない。

旅立ちの前に、知人からぜひ行ってみるようにと推薦された湖の周回道路を走ってみる。彼によると、何もなくてさみしさがたまらなく魅力的な場所だそうだ。だが、私たちが訪れたときはどこまでも空青く、水清く、ひたすらのどかで、感覚がちがう。少し異様なスコットランドを見たのだろうか。


ネス湖のほとり、インヴァネスに向かう途中で、私たちはアウトドア・アクティビティを楽しむ。乗馬トレッキング。しかも2時間、いちども馬から降りない。いささか退屈ではあったが。

クラガン・フィッシャリー&ゴルフコース。フライフィッシングとショートコース・ゴルフが一カ所でできる。日本では、反目状態にある川釣りとゴルフがスコットランドの日常では、あるがままにとけあっている。

そして、旅も終わりに近づく。ネス湖で何日ぶりかに日本語を聞いたところで、私たちのスコットランドは姿を消した。


旅の始まりは8月6日、ロンドン。午後5時。関西空港から飛んできた父親とダラスからシカゴ経由で飛んできた息子は、ヒースロー空港で待ち合わせた。

そのままロンドンからグラスゴーへ。1泊。グラスゴーでレンタカーを借りて、アラン島で1泊。キンタイア半島を経由して、アイラ島へ。3泊後、82号線を北上する。アヴィモア村に1泊。インヴァネスで1泊。最後は、ロンドンで1泊。

これが、スケジュールのすべてだ。たわいもない旅だ。それでも、旅の終わりはいつも憂鬱になる。

8月14日、ロンドン。午後3時30分。大英博物館で5時間、徘徊してヒースロー空港に向かう。ブラックキャブの運転手に、私はさっき息子と別れてきた、とつぶやく。

夜明け前からホテルの部屋で、旅の荷物軽量化作戦に取り組んだ息子は、父親といういちばん大きな荷物を下ろしてほっとしているかもしれない。

さあ、帰ろう。

参考文献

『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』村上春樹(平凡社)
『スコットランド旅の物語』土屋守(東京書籍)
『椎名誠シングルモルトウイスキーの旅』suntory.co.jp

脱藩まで2日(旅の準備)

いよいよ大詰めが近づいた。旅立ちの準備をしていこう。実務的にクールに卒業していくのが理想だ、と言いつつも感慨深いものはある。

概念としての旅の準備でもっとも大切なことは退職の事務処理と今後の生活設計だ。退職の事務処理に関しては懇切丁寧に説明していただき、迅速に済ませた。生活設計はしばらく無収入になるので支出を抑えていくしかない。ハローワークにも行かねば。

妻とはおかげさまで仲良くやっている、と勝手に思っている。
この1ヶ月は家にいる時間が長かった。左肩が動かないこともあるが、アウトドアよりもインドアライフの方が圧倒的に多かった。ほとんどPCの前に張り付いてデスクワークをしている。会社にいるときよりも長くデスクワークをしている気がする。家にいると当然、妻の友達が訪ねてくる。妻の方が友達が多いというのは冷厳な事実だ。
なので、なるべく邪魔をしないように部屋にこもるようにしている。コーヒーは自分で淹れられるようになったし。

家事手伝いはデスクワークが忙しくてさぼっている。今のところ妻も見て見ぬふりをしてくれているようだ。調理師学校に行くまでは見逃してくれるのか。そんな甘いことはないだろうな。

脱藩日に備えて会社からもらったチェック・シートを再点検する。どうやら忘れていることはないようだ。ただ、送別会は結局7月に回してもらったものが大阪で5回、東京で1回残っている。
7月になっても僕はどこにも行かない。精神的には相当変化すると思う。が、物理的にはしばらく箕面の家周辺から動かない。家周辺の中には坂出と小豆島も含まれるが。送別会が7月になっても問題はない。

退職記念に旅に出ます、放浪の旅に出ます。というのも魅力的なオプションだ。いつかはそういう旅にリアルに出てみたい。でも僕にはまだ早い気がする。

58年も生きてきたら、けっこう旅には行った。仕事とプライベートの両方で。CMの海外ロケも多かった。いずれも印象的で激しいロケだった。家族で海外にもよく行っていた時期がある。それらの旅を文脈化するのもコンテキスターのミッションなのだが、すこし時間が掛かるだろう。

まずは長男と二人でスコットランドに行ったときの記録を、この後にエントリーしておきます。まちがいなく自分史上、最高の旅だったので。

ちなみに田中文脈研究所のタイトル写真はスコットランドのアイラ島です。大西洋を見つめる僕を長男が切り取ってくれた。