2011年10月6日木曜日

文脈日記(草莽の士、高橋公さん)


1970年4月、僕は早稲田大学に入学した。
そこに大先輩、ハムさんがいた。
早大全共闘、反戦連合のハムさんがいた。
現在はふるさと回帰支援センターの専務理事であり事務局長の高橋公さんだ。

高橋公さん、本名はひろしだ、ということをつい最近になって知った。
僕たちはみんな「公」の字からハムさんと呼んでいる。

ハムさんのことは忘れていた。
意識の奥深いところに押し込めていた、というのが正確な言い方だが。

ところが、昨年、電通を脱藩する直前に、「農村六起プロジェクト」の新聞広告で久しぶりにハムさんのお顔を見た。

農山漁村が抱える社会的課題を、1次、2次、3次産業を効果的に結合・融合した6次産業(1×2×3=6)によって解決していく。

菅原文太さんとの対談広告を見て、いつかハムさんと繋がるような気もしていた。


今年、綾部で田植えをしている頃、盟友、原田ボブに連れられて伊丹のフレンズという本屋さんに行った。
ここには「半農半X堂」という本屋の中の本屋がある。
半農半X研究所の塩見直紀さんの文脈に連なる本が並べられている棚のことだ。
その文脈棚を眺めて驚いた。
「高橋公」の「兵たちが夢の先」という本の背表紙が目に飛びこんできたのだ。


「おお、ハムさんの本や!」と僕は興奮して手に取った。
聞けば、塩見さんとハムさんは、一度、対談したことがあったらしく、塩見さん経由、ボブの推薦でこの本はここに存在したらしい。
脱藩してコンテキスターという勝手な職能を名乗り、さまざまな縁脈の渦に飛びこんでいるが、まさかこんなに早くハムさんにたどりつくとは思わなかった。

ハムさんは1947年生まれだ。まさに団塊の世代である。

僕とボブの重要なコンテキストにラスト・オキュパイド・チルドレンという世代論がある。
1952年4月28日、日本が占領国でなくなる直前に生まれた子供たち、という意味だ。LOCLast Occupied Children) は、団塊世代とは明らかに違っている。

ハムさんは僕にとって団塊世代の代表選手だ。
電通時代の36年間もさまざまな団塊に揉まれてきた。
が、ハムさんのような人は唯一無二だ。ハムさんはぶれない。

香川県立丸亀高校を卒業して、憧れの東京に出てきた18歳男子は早稲田のキャンパスにいる。正門の柱によじ登ってアジテーションをしている男が見える。それまで早稲田で出会った学生たちとは明らかに見た目がちがう。魚屋のお兄さんのようだ。

それがハムさんだった。
本の表紙、バルコニーの上で皮ジャンを着て微笑んでいる男だ。

アジ演の内容はまったく覚えていない。が、ハムさんが強烈なオーラを放っていたことだけは今でも鮮明に覚えている。

当時の早稲田大学には全共闘運動の最終ステージがかろうじてあった。70年安保闘争というものは、実質的には1969年に終わっていたのだ。
だが、ハムさんのファイティング・ポーズは田舎高校生が想像していた全共闘そのものだった。

丸亀高校の赤い応援団であった僕は、当然、デモに参加する。ただし、早稲田学内の諸事情など何も分からない。ただ、全共闘の残り香をかぐために「ノンセクト・ラジカル」の黒いヘルメットには憧れた。

ハムさんは当時の全共闘の必須アイテムであったヘルメットをあまり被らない人だった記憶がある。
70年の春、早稲田キャンパス内でヘルメットを被らずにデモしていた僕に、自分の黒ヘルをぽんとくれた人がいた。
僕の記憶の中では、それがハムさんであったような気がしてならない。以後、大学を卒業するまで、その黒ヘルは神田川近くの僕の下宿にあった。

大学を卒業してから、この時代のことは封印していた。
でも、一部の団塊世代とはちがって、LOCは燃え尽きていない。

「世の中のために働く」という夢想を持って動き出した時、全共闘のことはいつも頭の片隅にあった。オープンでフラットなタテ型ではない組織体とは全共闘の理想だったような気がする。

僕の「全共闘」は美化されすぎているのかもしれない。
1968年と1969年を実体験した人は、僕が「全共闘」を語るとこう言うだろう。

お前らみたいな「みそっかす」に全共闘の何が分かる、ゲバルトのひとつもしたことがないくせに。

そうなんです。ぼくたちラスト・オキュパイド・チルドレンにはあなたたちのやってきたことが分からない。だからこそ、皆さんに語ってほしいのです。

団塊にぶら下がっていた最後の世代は、ものごとの後始末をする義務がある、団塊文脈を整理整頓するミッションがある、と僕と原田ボブはよく話している。

もう脱藩して1年以上になったので、はっきり書くが、電通にも団塊=全共闘経験者はたくさんいたはずだ。企業戦士たちは黙して語らないが。

だが、ハムさんは語ってくれた。
「兵(つわもの)どもが夢の先」を読んで、僕は僕が入学する以前の早稲田で何が起こっていたのかをはじめて時系列で理解した。

こんなことがあった。
入学してすぐの頃、キャンパス内を歩いていた僕にすっと近づいてきた学生がいる。
彼は問う。
「君は反戦連合のシンパなのか?」
18歳の僕はとびきりの笑顔で答える。
「はい、そうです!」

その学生は憐れむような呆れたような表情で僕から去って行った。
もちろん彼は生え抜きの革マルだったのだろう。
あまりに無邪気なみそっかすはまったく相手にもされなかった。
もしも、当時の僕が早稲田大学内の政治状況をシビアーに理解していたら、こんな対応はできなかっただろう。

当時、僕は「早稲田大学出版事業研究会」というサークルに所属していた。
その出研の先輩たちから「兵(つわもの)たち」の話はよく聞いていた、と思う。

あの頃の僕は今より感受性が強かったはずだが、59歳になりハムさんの本に出会って、ようやくすべてが理解できた気がする。

ハムさんが僕の大先輩であることを塩見直紀さんにお話させていただいてから、不思議なことが起こった。

ハムさんから塩見さんに連絡があって、9月16日に大阪の「ふるさと回帰フェア」で塩見さんが基調講演をすることになったという。

もちろん、僕はハムさんに会いに行った。ハムさんの声を聞きに行った。


ハムさんと塩見さんはお二人とも、「妙に気が合う」と口にされている。
それもそのはずである。

お二人とも「草莽(そうもう)の士」なのだから。

草莽とは、「くさむら、田舎、民間、在野、世間」のこと、と大辞林にある。
草莽の志士とは幕末にあって、変革思想の先駆けとなりヨコのネットワークを構築して世の中を変えていった吉田松陰たちのことである。

塩見直紀さんと高橋公さん、くさむらの中から野火をあげた草莽の士たちの行動様式は311後の重要な指針になると思う。

ハムさんは反戦連合で政治運動をされていたわけではなかったのですね。
ハムさんは塩見さんが言うところのX探しをされていたわけですね。

多くの学生は、理論よりも時代の風潮や戦後社会の矛盾、管理社会の浸透やアメリカ一辺倒のやり方などに反発して全共闘に共鳴したのではないだろうか。言い方を変えれば、全共闘はイデオロギーではなく、行動様式こそが全共闘たるゆえんではないだろうか。  
「兵たちが夢の先」P67

現在、ハムさんは「認定NPO法人ふるさと回帰支援センター」でふるさと残しのための草莽ネットワークを模索されている。そして団塊世代へのアジテーションを続けている。

あれから四十年、時代が変わるかもしれないという予感を感じさせることが、この国には何回かあったように思う。しかし、我らが全共闘の諸君は黙して語らず。何か行動でも起こすのかと思ったが、結局何もなかった。ただ、各地で取り組まれている目新しい活動が起こると、そこにはかつての全共闘運動の経験者が活躍しているケースが多いことも確かだ。しかし、残念ながらそうした運動のネットワーク化はできていない。こうしたネットワークをつくるのが難しいのも事実だ。政治や政治党派によって一度は裏切られたり、だまされたりしている世代であるから、なかなか人を信用しない。まただまされるのではないか、と思ってしまうのだろう。だからといって沈黙を決め込むのは無責任だ。 
 「兵たちが夢の先」P210

今、僕がコンテキスターとして関わっている全国地域おこし協力隊連合=村楽LLP(有限責任事業組合)もまた、この国を変える草莽ネットワークのひとつになる可能性がある。

ふるさと回帰支援センター専務理事の高橋公さんと村楽LLP、微力ながらそのコンテキストを繋いでみよう。
ラスト・オキュパイド・チルドレンとして。

いまや日本という国が崩壊の瀬戸際に追い込まれているといっても過言ではない。二十一世紀に入った今こそ、これからの日本をどのような国として再生するのかを真剣に議論するときに来ていると考える。そのためにも歴史は語り継がれなければならないと思うのである。 
「兵たちが夢の先」P2

これは311後に書かれた文章ではない。2010年の盛夏に書かれたものだ。
ハムさんは、福島県相馬市の出身だ。
フクシマの山河が破れて以来、いまだにふるさとには帰っていないという。


ハムさんはこの本の序文でこう書いている。

あの四十年前の全共闘運動で亡くなられたり、あるいはその影響を受けることによって自らの命を絶った多くの仲間たちのご冥福をお祈りするとともに、この本が戦後の民主教育を受け、生き抜いてきた一人の団塊世代の記録として、国を憂い社会のために生きたいと思う、心ある草莽の士を自負される皆さんの明日に生きるなにがしかの糧になればと愚考する。 
 「兵たちが夢の先」P9

ハムさん、ありがとうございます。
ハムさんのメッセージは僕の明日への糧になりました。

僕自身はとても草莽の士とは言えないけれど、今、この列島には草莽から出て草莽の火付け人になっている志士たちが輩出しつつある。

その動きはもう止まらない。

2011年9月18日日曜日

後世への最大遺物


9月16日、一冊の本の初版が出た。
「後世への最大遺物・デンマルク国の話」内村鑑三。


岩波文庫の新装版だ。

半農半X研究所の塩見直紀さんのセミナーで必ず出てくる言葉がある。

我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か、事業か、思想か。

内村鑑三が33歳のときにした講演の言葉にインスパイアされて、塩見さんも33歳で会社を辞めて「半農半X」の伝道師になられた。

何度も塩見さんのセミナーを聞いて、この言葉は気になっていた。
が、内村鑑三の原典は読んだことがなかった。

たまたま今週、僕は札幌にいて北大=札幌農学校関連の観光もしていた。時計台、清華亭と回っていると、内村鑑三の表示をよく見た。彼は札幌農学校の第二期生だ。


そんなことがあって、昨日、ふるさと回帰フェア大阪で塩見さんのセミナーを聞いて、原典を読みたくなった。

そこで今日、紀伊國屋に行くとこの文庫が平積みされていた。
「新装版本日発売」というPOPとともに。

この種の情報縁脈炸裂時には即、アクションをするのが情報の善循環を呼び込むコツだと思う。

で、読みました。

明治という時代、坂の上の雲を目指した時代の人々の言葉は熱いですね。

前述の内村の言葉の後半をサマリーすれば、こうなる。

・・・何人にも遺し得る最大遺物・・・それは勇ましい高尚なる生涯である。

また、こんな美しい記述もある。

私に50年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。

もし内村が311後に、この国の原発村がやっていることを見たら、どのような言葉を発するだろうか。

北海道の行政の発祥は、開拓使である。
彼らのシンボルマークは北極星だ。若き行政マンたちは胸に星を抱いていた。


善くも悪くも、ひたすら星の指し示す方向に邁進できた明治初期と比べて、今、この国のカタチは木っ端微塵ではないだろうか。



内村の講演は以下の言葉で締められている。

われわれに後世に遺すべきものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞと覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを、後世の人に遺したいと思います。 (拍手喝采)

僕も僕の人生を終わる時、ほんの少しでいいから拍手がもらえたら本望だ。


2011年9月11日日曜日

ふたつの11を悼む

今日は911だ。あれから10年。そして311から半年だ。

2001年9月11日、僕は出張で東京のホテルにいた。2機目の飛行機がツインタワーに突っ込む映像を見た直後、当時、テキサス州フォートワースに留学していた息子に電話をした。
何が起こっているのか分からなかった。
とにかく連絡をくれ、とメッセージをしたものの連絡がとれたのは翌日だった。

幸い、南部の片田舎では何事もなかった。
その後、エアライン・フリークで空港に飛行機の写真をよく撮りにいっていた息子はFBIの訪問を受けたらしいが。

2011年3月11日の午後、僕はある人の原稿の校正をしていた。集中するために音楽を聞きながら。
知人からの電話で事態を知った直後、当時、東京にいた息子に電話した。

そしてテレビとツイッターに張りついた。息子の嫁は妊娠していた。
ツイッター上では312の時点で、フクシマ・メルトダウンの情報が流れていた。その情報はデマを流すな、とマスコミに叩かれていたが。
僕は息子の嫁に東京からの疎開を勧めた。そして孫は無事に大阪で生まれた。

このノートの主旨は新しい命の誕生ではない。
失われた命を悼む話だ。


小説のラストシーンを読んで泣いたのは久しぶりだった。
文庫版は2011年5月10日に発刊されている。

「その人は誰を愛しましたか、誰に愛されましたか、何をして人に感謝されましたか」

これは、死というもののひとつひとつをないがしろにせず、ただひたすらに悼む人、坂築静人の物語だ。

小説家は911の直後に、この物語の着想を得たらしい。
そして311に遭遇して、こんなコメントを述べている。

 「悼む人」という小説で、事件や事故で亡くなった人が誰を愛し、誰に愛されていたかを聞く旅を続ける静人という青年を描きました。 
彼がここにいたら、あまりに多くの死者にぼうぜんとしながらも、被災地へ行き一人ひとりに話を聞いて回ったと思います。 
 被災した方が健康な生活を送る環境を整えることはすぐにも必要です。ただつらい思いをした人を根底から支えるのは、大切な人が失われたことを私たちが忘れていないという姿勢であり、喪失をわかちあう静かな連帯感だと思います。 
被災していない私たちこそが変わっていく必要があるのです。つらい思いをしてきた人が隣にいるかも知れないと思って接するような社会。今とは異なる社会のあり方が浮かんでくるはずです。 
 静人の旅を考えたのは9・11テロと報復の連鎖の中でした。悼む人がいてくれれば怒りが増幅されることはなくなり、絆が生まれると信じます。私も目をそらさず、災害のつらい現実を見続けていこうと思います。 
2011/5/9 asahi.comからの転載)

311で失われた人は、死亡15781人、行方不明4086人。(9月10日現在)
ここには2万人の悼まれる人がいる。

この事実を2万人の死者が出たというとらえ方をせずに、ひとりの人が死ぬという事件が2万件起こったのだ、という見方をすれば本質が見えてくる。
そう言ったのは北野武監督だっただろうか。

911では2973人の「誰かを愛し誰かに愛され感謝された」命が失われた。
イラク戦争の民間人犠牲者は10万人以上という説もある。

そしてこの列島では、毎年、3万人の人が自死している。

今日は、この星のすべての人が悼む人になるべき日なのかもしれない。

合掌。

2011年9月9日金曜日

文脈日記(ガリをキル)

ジブリのアニメ映画「コクリコ坂から」を見た。

始まって間もない時に「ガリをキル」という台詞が出てきた。
不覚にもすぐに意味を理解できなかった。
僕の中に出てきたイメージは寿司屋のガリだった。なぜ、このシーンで
生姜を切らなければならないのかと、虚をつかれた。
そして次の瞬間、理解してあの懐かしいロウの匂いとガリの手応えが蘇ってきた。

それから先はもう駄目だった。
何でもないシーンで涙が流れてくる。


 ラスト・オキュパイド・チルドレンはこの種の映画に極端に弱いのだ。

僕は1952年の3月生まれだ。日本はこの年の4月28日までアメリカの占領国だった。
僕たちは最後の占領された子供たちなのだ。

盟友ボブがLOC(Last Occupied Children)、ロックとネーミングしてくれたこのテーマは田中文脈研究所の重要な研究課題だ。
僕たちは世代というコンテキストからは逃れられない。

この映画は1963年が舞台だ。LOC、団塊世代からさらに遡った敗戦直後に生まれた世代たちが主人公になっている。

「ガリをキル」話は、この映画においてはサブアイテムだ。
だが、コンテキスターとしてはガリ版印刷の文脈から、この映画を語ってみたい。
 ガリは僕たちの素敵なマイクロ・メディアだった。
団塊とLOCたちなら、必ず接触しているはずだ。

ガリ版印刷は1894年に堀井新次郎という人がエジソンの発明を換骨奪胎してつくりあげたらしい。近代日本の土くさい発明品のひとつだ。
このあたりのことは、津野梅太郎「小さなメディアの必要/ガリ版の話」からの受け売りだ。
この本は理想書店で電子書籍が無料で手に入る。




ガリをキル、とはロウの原紙を鉄板の上において、その上から鉄筆でがりがりと文字を刻んでいく作業だ。
できあがったガリはローラーで根気よく一枚ずつ印刷していく。コピーマシンというものが存在しない時代ではガリは唯一無二の印刷物メディアだった。

少女は少年のためにガリをキル。
少年は少女のためにガリをローラーでこする。
ガリ版刷りのビラは二人の思いをのせて空に舞う。

ちょっと相当、恥ずかしい描写をしてしまったが、この時代のコミュニケーション・デザインはシンプルだった。

さらに僕の涙腺を刺激したのは、このガリをキル現場だった。
「コクリコ坂」の町にある高校。その高校のカルチェ・ラタンと呼ばれる古い校舎。
文化部の男子学生たちの魔窟であり、取り壊しの危機が迫っている。
ガリ版という小さなメディアは、この建物の中で粛々と生産されていた。


僕の高校にもカルチェ・ラタンはあった。
香川県立丸亀高校記念館。1968年、ぎしぎしと鳴る廊下の上には混沌があった。

海と俊の高校と同じく、丸高の記念館にも文化部の部室がひしめいていた。
新聞部があり文芸部がありESSがあり、生徒会があった。
そして、僕らの「赤い応援団」があった。


この田中文脈研究所を主宰してから1年2ヶ月になるが、この間、いちばんアクセスが多いのが「丸亀高校」というエントリーだ。

映画「コクリコ坂から」は、7年の世代差を乗り越えて、もろに僕の丸高時代とシンクロしている。

「カルチェ・ラタン」という言葉も、その文脈を繋いでいる。
1968年、「神田カルチェ・ラタン闘争」の興奮を田舎の高校生である僕は、東京に行った先輩からの手紙で読んでいた。
また丸高記念館も1959年には取り壊しの話が出ていたらしいが、先輩諸氏の努力で部室として存続したとか。ここも映画と同じストーリーだ。

今年の正月に僕は丸亀で同窓会に出席した。卒業して41年間で2度目の同窓会出席だった。

現在の丸高の校長は僕たちの同窓生だったらしい。
彼の計らいで卒業以来、はじめて丸高の校内に入った。校舎は建て直すらしいが、丸亀高校記念館は健在だった。
ばかものたちの夢の跡は国の登録文化財になっており、当時よりもこぎれいになって僕たちを迎えてくれた。

さすがにガリ版印刷の機材は見当たらなかったが。


今、僕は小豆島フミメイ庵の再生を図っている。
取り残された大量の荷物の中に、僕の高校生時代の遺物もあった。

そこには、1968年の丸亀高校生徒会や文芸部のガリ版印刷物が現存しているのですね。
はてさて、これらをどうしたものか。文脈家の悩みはつきない。

来週は丸高同窓会番外編@札幌、そして早稲田大学の先輩にして団塊世代の代表、ふるさと回帰支援センターの専務理事、高橋公さんと会う。

そろそろ僕の関係と信頼を巡る冒険にラスト・オキュパイド・チルドレンの文脈研究をプラスしていく時期が来たようだ。

時は今だ。

2011年8月30日火曜日

文脈日記(地宝のお裾分け)

相変わらず走り回っている。
愛車、フミメイ号の走行距離は4年で6万4千キロ、この1年で3万キロ以上、走っている。さすがに傷だらけになってきた。
僕の身体も首肩腰が凝り固まっている。

どこへ走っているのか。山や川や森や田や海だ。つまり都会以外の方向性だ。
これらを総称してなんと呼べばいいのか、考えてしまう。

地方、地域、田舎、中山間地、村、様々な言葉があるが、どれも一面的な感じがする。
そういう意味では「村楽」というワーディングはよくできている。
行政区分としての村は市町村合併とやらで、方向音痴の僕には訳が分からなくなっているが、いわゆる村的地域に行けば、そこには楽しみがある。

何のために走っているのか、と聞かれたら「村的楽しみ」のお裾分けをいただきに参ります、としか答えようがない。

車と身体を痛めつけながら走っているのは、稼ぐためではない。
仕事か、と聞かれたら、「世の中のためにコンテキストを繋いでストーリーをつくる」仕事をしている、とちょっと照れながら答えることにしよう。
おかげさまで、コンテキスターという肩書きは僕周辺では浸透してきたようだ。

世の中の方が僕の動きをどう見ているのかを気にし始めると、思考が悪循環を始めて出口がなくなる。そこはペンディングにしておこう。別に見返りがほしいわけではないのだから。

還暦まであと半年になって、人混みの中に行くと人酔いしてしまう身になった僕は、しばらくこんな生活を続けていくのだろう。
なんといっても、「村的楽しみ」をお裾分けしてもらうのは楽しいことなのだから。

先日は岡山の西粟倉村にいた。ここは美作市との合併を拒否して純粋に村として存続している。
この村で、百年の森林事業の間伐に邁進するブルの背中には「森は地域の宝もの」というスローガンがあった。


地域の宝、地宝という言葉は田中優さんの本のタイトルでもある。
「村的楽しみ」は地域の知恵である地宝から生まれる。
村楽のお裾分けは地宝のお裾分けでもあるのだ。


西粟倉では川のお裾分けとして天然うなぎを食べさせてもらった。
また森のお裾分けとして百年の時の流れを感じながら吉野川源流まで散策させてもらった。
そして僕の個人的好みでいえば、この地方の地宝は素敵な水の流れる渓流だ。
渓流のお裾分けで天然アマゴを釣らせていただいた、というわけにはいかなかったが、久しぶりに泡の浮いていない川を見た。

惜しむらくは護岸工事だ。なぜ、ここまでコンクリートで川を固めなければいけないのか、それは公共工事のばらまきというやつだろう、と自問自答しながら眺める川に澄んだ水が粛々と流れていた。

地宝を見つけるためには、ないものねだりをやめる必要がある。あるもの探しから地宝は発掘されていくのだろう。
西粟倉では、森に豊富にあるミツマタから和紙アートをつくろうとしている若者と出会った。
森の産物を地域の中でブランド化して、消費者に直接送り届けようとしている「森の学校」も訪問した。

あるものを昇華させて、なかったものを創り出すのが地宝の善循環だ。
それは村楽的に言うならば、百商の生業(なりわい)づくりでもある。

この国の未来は都会にはない。
311で破れた山河を修復するためには、全国の村楽で生業を模索している人々の力がいる。

村楽LLPは、その力を結集するためにつくられた発力団体だ。

僕自身は、いまさらどこかの村楽に移住して地宝探しをするわけにもいかない。
現在、再生プロジェクト進行中の小豆島フミメイ庵が完成した暁には、海の地宝を楽しむため、釣り竿を持って長期滞在するかもしれないが。

それでも、自分自身の生業探しというものは一生、やり続ける必要がある。

村楽LLPメンバーとして地域おこし協力隊に協力するために、さまざまなコンテキストを書き連ねていくことは生業のレベルになるまでなんとか続けていきたい。
そうすることによって、孫たちの世代までなにかが残れば嬉しい。

ただ、人はPCの前だけでは生きていけない。やっぱり身体も動かす生業がなければ。
そういう意味では、夏場には鮎の一夜干しを生業にしたくてトライをしている。


ただし、この生業のためには、まずはおいしい鮎を釣らなくてはいけない。
そのためには、素敵な香りがする苔が生える川がなければいけない。
そんな川を持続可能にするためには、保水力がある森が必要だ。

やっぱり地宝を守る人々がいなくては、僕の目指すささやかな生業すら、成り立たない時代になっている。

すべては繋がっているのだ。


2011年7月31日日曜日

文脈日記(自分のための百姓学)

ようやく箕面のアブラゼミが全開になってきた。
「蝉たちの沈黙」は本当に気持ち悪かった。
僕は昆虫学にも植物学にも詳しいわけではない。それでも生きものが毎年、繰り返していくルーティンは気になる。

鮎師としてのルーティンなら29年経験している。
解禁があって皮の柔らかい若鮎を味わって土用隠れがあって垢腐れがあって台風の大雨があって川が磨かれて入れ掛かりがあってスイカの匂いに包まれて、次第に腹ボテの鮎になって、竿納めをする。

ただ、この鮎たちのルーティンも今年は狂っている。
地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの地震の洗礼と災厄の塊、フクシマを抱えこんだポスト311の世界で、ルーティンを語ること自体に意味がないのかもしれないが。

天地有情、自然と生きものが狂っている。くり返しの美学が滅びようとしている。
そんな情況へのささやかな抵抗として、僕は、今、ニワカ百姓を目指している。

最初にお断りしておきたいが、「百姓」という言葉は差別語ではない。
百姓というのは生業としての「匠」や「商」をたくさん持っている誇り高い人たちのことだ。
この言葉をマスコミから追放した人たちは自らの中に農業者に対する差別意識を持っていたのだろう。

このあたりのことは骨太の農学者、宇根豊さんの著書からの受け売りだ。


 ただ僕自身にも「百姓」という言葉に関するほろ苦い経験はある。
脱藩して小豆島のフミメイ庵再生を始めた時、近くのおばさんに「会社やめて百姓やるんな」と言われた時、自分の心の中に小さなざわめきがあった。
まだマスコミ関係者の残滓が残っていたのだろう。

その頃の僕は、「自産自消」をスローガンにするマイファームという会社の畑を契約したばかりだった。畑仕事はするけど、それって百姓?という感覚があった。

今なら胸を張って、いや、本物のお百姓さんには相当、遠慮をしつつ、「ニワカ百姓です」
と言うことができる。

ニワカ百姓を名乗ることは、共同体と地域と農に関する理論武装、すなわちコンテキスト(文脈)つくりをしていく、という決意表明でもある。

ただし理論は実践を伴わないと空虚だ。
ささやかでも百姓体験をしてからでないと、農のコンテキストは語る資格がない。
釣りの世界では「ボウズ」という言葉がある。釣行した時、1尾も釣れないことだ。ボウズと1尾は別世界だ。いくらニワカといえども、1尾くらいは結果を出してから農を語るべきだろう。

ニワカ百姓、その1。マイファームの畑体験。

全国の不耕作地を借り上げて、都市住民に畑として貸し出す会社から15平方メートルの畑を箕面で契約した。
このマイファームのおかげで、僕は生まれてはじめての農体験をした。昨年の10月のことだ。

マイファームには各農園に管理人がいる。箕面の管理人は寒吉さんという筋金入りの百姓だ。僕は寒吉さんの指導の下でさまざまな野菜を作り続けている。「野菜は甘やかしたらあかん」という寒吉理論にしたがって、あまり手をかけずに、一応は収穫ができている。
基本的に放置したままでも育ってきたものだけを収穫して、昇天された野菜たちのことはあまり気にしないことにしている。

あたりまえのことだが、すべてはお天道さまの下での作業である。ニワカ百姓の畑にも雪は降ったし嵐も来る。天地は平等だ。筋金入りとニワカ百姓を差別したりしない。
ヌカカやブトもターゲットを差別しない。そういう意味では僕のようなものでもお天道さまは百姓だと認めてくれている気がする。

この畑で百姓をしていると都市住民の農への関心が高いことがよく分かる。散歩の途中のおじさんやおばさんが寄ってくる。
僕はニワカ百姓のくせに、ベテランのようなしたり顔で「野菜つくりの面白さ」を述べたりする。

野菜つくりの楽しさは循環を愛でることです。双葉がでていつのまにか、その野菜らしいカタチになってきて花が咲いて実がなってやがて根こそぎしてまたつぎの種や苗を植えて・・・15平方メートルの持続可能性などと。


ニワカ百姓、その2。半農半X研究所/塩見直紀さんの1000本プロジェクト。

僕たちは1年間でおよそ1000食のご飯を食べている。そしてお茶碗1杯のごはんは稲1本だ。ということは1000本の稲を植えれば1年分のお米がとれる。
というコンセプトで塩見さんが始めた無農薬手作りお米プロジェクトに僕も参画している。
この道の先達、ボブ基風に連れられて京都の綾部まで行っているのだ。
.5M×20Mの田んぼは、お百姓さんにはとても狭いと思われるが田んぼでハイハイしながら草取りをするニワカにはけっこう広い。


田植え、草取り、もちろんこれも生まれて初めての体験だ。
今まで概念としてとらえていた「田を渡る風の涼しさ」を身体で感じることができている。
久しぶりにカエルやバッタやゲンゴロウを見つめるまなざしも回復してきつつある。

この田んぼを塩見さんは「哲学の田んぼ」と称している。それはまた「縁脈の田んぼ」でもあった。今まで4回、この田んぼに行ったが、そのたびにボブ基風の縁脈を繋いでもらっている。別に約束をしているわけではないのだが、素敵な人たちに出会う。ボブの綾部におけるキャリア形成は相当なものだ。脱帽。
そして塩見さんの田んぼにもマイファームメンバーがいる。百姓道はお天道さまの下で通底している。

僕は鮎釣りスタイルで、この田んぼに入る。鮎タビ、鮎タイツ、ベストは自分のアウトドアライフの基本アイテムだ。
ニワカ百姓ならではの田の神を恐れぬ行為だったら、すみません。でもこれが、けっこう快適なのだ。

田んぼの作業は基本的に中腰である。これはけっこう辛い。ところが鮎釣りスタイルだと田んぼの中に膝をつける。稲穂が伸びてきてからの草取りは穂先が目をついてくる。そんなとき、発想を変えて、稲穂の下に潜りこんだら問題は解決する。小型犬なら稲の間にポジションをとれる。稲に頬ずりして抱きかかえながら草取りしているとバッタと目があったりする。これがけっこう楽しい。
素足で感じる泥の心地よさはないが、その代わり、手で充分に泥の感覚を味わえる。
そう、最終的にはたんぼでハイハイしながら草取りをするのが一番楽だった。
それにしても、「稲の根の肩を揉むようにしてマツバイをとるべし」というボブのアドバイスは深い。匠の言葉にまたも脱帽。


ニワカ百姓、その3。上山棚田団のお手伝い。

「愛だ!上山棚田団~限界集落なんて言わせない」でおなじみの上山棚田でのニワカ百姓は、残念ながらまだ経験不足だ。
本の校正をお手伝いしたように、百姓手伝いもしたいのだが体力の限界を感じて、いつも中途半端になっている。上山の皆さん、すみません。

僕は川の土嚢積み、水路掃除とほんの少しの草刈りしかしていない。
それでも上山での草刈り体験は、小豆島フミメイ庵の草刈りに大いに役立っている。
「草刈りもアートなんよ」というまなざしは身についてきた。まなざしだけで技術はまだまだだが。

この季節は、いろいろなところで草刈りをしているシーンに出会う。刈り払い機のエンジン音には敏感になって、鮎釣りをしていても、ついつい草刈り人にも見入ってしまう。
そして、川の入漁道の草が一定の方向に倒れていて、綺麗な紋様を描いていたりすると、おおここには手練れがいるな、と思わずにやりとする自分がいる。



 とここまで、自分のささやかなニワカ百姓実践を言い訳したうえで、最近、上山棚田でささやかれている「農を超える農」というお題に対するコンテキストを考えてみる。

以下の文脈は宇根豊さんの著書と講演にインスパイアされたものだ。
もちろん、農の超え方には様々な方法があるはずだ。上山のかっちは理屈ぬきでそれらを実践している。その現場自己主導主義に敬意を払いつつ、ひとつの理論武装として展開しておきたい。


超えられるべき農は近代化された農業である。工業の真似をしている農業である。金に換えられる直接的農生産物だけを評価する農業である。

それに対して超えた農は「情念と共感の農」である。お金にならない田んぼ周辺環境を評価する利他的農である。
いつものようにカエルが鳴くために、いつものようにトンボが飛ぶために、くり返しの美学を意識して人々を癒やしてくれる農である。
そうすることにより、先人たちの情念を持続していく農だ。

視座を変えて言うなら、「米一粒周辺価値」を最大化した農である。

価値を一粒の内部に求めて、糖度がどうのこうの、というのではなく、お米一粒を起点にして、その周りにまなざしを拡げていく農だ。

上山棚田米の一粒を結晶させるためには田んぼの水が必要だ。その水はミジンコ、オタマジャクシ、ゲンゴロウ、ホタル、バッタ、トンボ、クモなどの有情を育てる大きな価値を含んでいる。

棚田の水をキープするためには畦が必要だ。その畦の草刈りが美しい畦の花々という価値を生む。

棚田にその水を確保するためには水路が必要だ。先人たちの知恵と情念が入り交じった水路は、歴史的文化的価値の塊だ。さらには洪水防止という土木的価値も持っている。
その水路を持続していくという行為の価値はお金に換算すれば途方もないものになるだろう。

そして水路を含んだ上山棚田の景観と空気感は多くの人々を惹きつける磁力を持っている。多士済々の人財が集まってくる価値はいかほどのものだろうか。

こういうまなざしを持っていれば、「農を超える農」の価値はどんどん拡大していく。

「米」を生産するとき、「米一粒周辺価値」にまなざしを向けて、その情念と共感を拡大再生産していく志を持ち続けたら、この列島の農は超農力を発揮していくのでしょうね。

百笑的に言うならば、上山棚田米は「森羅万象をメリーにする」米になりつつある。
子供や大人たちだけでなく、カエルもバッタもトンボもクモも、雲も風も笑顔にするのが、「メリーライス」というものなのだろう。

僕は引き続き、「農を超える農」と「メリーライス」のコンテキスト=ストーリーを求めていくお手伝いをしていきたい。

そうすれば、僕は孫たちのために天地有情のルーティンを残せる百姓爺さんになれるだろうか。


2011年6月30日木曜日

文脈日記(村楽パルチザン)

脱藩して今日で1年が過ぎた。
D社のクリエーティブ・ディレクターをしていた時代はつい昨日のような気もするし、遠い昔のような気もする。
つい昨日のように感じるわけは、36年間やってきたことと同じアクションを違う土俵でやっているからだ。
遠い昔のように感じるのは、そのクライアントがまったく違うからだ。

今の僕は自分がクライアントで自分がエージェンシーで自分がプロダクションだ。
「自分のために人に何かをしたい」という利他的欲求本能に基づいて走っているうちに、「世の中のために働く」ことができるようになってきた。

僕の信頼と関係性を巡る冒険はまだまだ続く予感がするが、そろそろ脱藩一周年のサマリーをしてみたい。

今、僕は「村楽LLP」にアンガージュマン(社会的自己投機)している。
そしてコンテキスター(文脈家)として「村楽」と Merry Projectを繋ぐストーリーをつくっている。

6月25日は「村楽LLPキックオフ」(美作市湯郷地域交流センター)、26日は「Merry Forest @美作上山」(上山和みの森)という大きなイベントに参加した。
美作市地域おこし協力隊と上山棚田団がホストで、全国から志を同じくする仲間たちが集まってきた。僕はプレゼンテーションと現場ディレクションというある意味、手慣れた作業を担務させていただいた。
今の僕は百姓をやるよりも、まだこの種の作業の方が得意だ。


では「村楽LLPとは?」から話していこう。

LLPとは、Limited(有限)Liability(責任)Partnership(組合)の略称で「有限責任事業組合」と訳される。
株式会社でもない、協同組合でもない新しい事業形態だ。異なる分野の専門家がパートナーを組んで、新しく事業を生み出していくとき、LLPという組織は大変有効的な制度である。

詳しくは「愛だ!上山棚田団~限界集落なんて言わせない」のP85を参照してほしい。
僕はこの本に校正家として文脈を整えるため関わった。そのおかげで内容は熟知している。

そして、「村楽」である。
村が楽しいというネーミングは美作市地域おこし協力隊と上山棚田団のムードメーカー、お気楽美々が考えた。
村落という言葉はなぜ村が落ちるのだろうか、落ちたらあかんやろ、という素朴な疑問への回答だ。

村楽LLPとは、全国地域おこし協力隊連合である。各地で活躍する地域おこし協力隊の経験値と知見、問題と解決を共有するネットワークだ。

3月7日に島根県飯南町で設立準備サミットをやった。そのときはここまでのフレームワークしかできていなかった。

そしてその4日後が311だった。大震災でこの国は大きく変わった。若者たちは大量生産、大量消費に急ブレーキを踏んで大きく旋回している。都会から地域へ。効率の経済から心地よさの経済へ。自然と信頼をベースにした新しい社会関係資本で、痛めつけられた山河の再生に取り組もうとしている。

そんな動きの中で「村楽」の目的も明確になってきた。
以下が村楽LLP代表のVENちゃんがまとめてくれた「村楽宣言」だ。

日本の村落を本当に豊かな「村楽」へ。
村楽LLPは地域おこし協力隊の全国ネットワークです。
私たちはそれぞれの地域での生業(なりわい)づくりを考えます。
百の商いができるから百商。
そして地域の技を引き継ぐから百匠。
いつでも笑顔で生きるから百笑。
「百商、百匠、百笑」が私たちのキーワードです。
村楽は田舎専門の働き方案内プラットフォームとして、
「地域のこし」に取り組み、持続可能な「懐かしい未来」を目指します。
私たちは、村楽のうねりを山から海へ、村から町へと善循環させます。


村楽LLPキックオフのコンテキスト・ブリーフを書いている時に、ふと「村楽パルチザン」という言葉が浮かんできた。
パルチザン【partisan】、フランス語で遊撃隊だ。

お仕着せとハコモノの地方行政、すなわち正規軍に対して、自己主導でしなやかに動いて信頼革命の狼煙を上げようとしている部隊がいる。この列島の山に海に空に村楽パルチザンの軍旗がなびいている。
マスコミの空爆に対して草の根のソーシャルネットワークで情報戦を仕掛ける部隊がいる。

そんなイメージを思い描くと村楽がますます楽しくなった。メリーになってきた。
村楽パルチザンの軍旗というと堅苦しいが、この遊撃隊の軍紀はただひとつ。
「楽しい事は正しい事」である。どこまでもメリーな集団だ。



「村楽」をMERRY VILLAGEと規定して、手書きのロゴをつくってくれたのはアートディレクターの水谷孝次さんだ。強い表現があるとコミュニケーションが早いのは広告もソーシャルデザインも同じだ。
2月7日に冬枯れの棚田に笑顔の花を咲かせたことがあるので、水谷さんと村楽メンバーはすっかり親しくなっている。(「愛だ!上山棚田団~限界集落なんて言わせない」P66参照)

今回の村楽LLPキックオフでは、村楽とMerry Projectが今後、どのようにコラボしていくかを再確認すべく、水谷さんと僕とでプレゼンをした。

村楽の生業(なりわい)である百商と百匠という目的を実現するのは簡単なことではない。しかめ面では辛いだけだ。そこには百笑というマナーがいる。メリーな表現が伴えば草だらけの道でもなんとかなりそうだ。パルチザンの士気も上がる。たとえ匍匐前進でも。

一方、Merry ProjectにはMerry ForestやMerry Farmingという流れがある。水谷さんが追い求めてきたメリーな森とメリーな田畑は、村楽パルチザンのテリトリーの中ではすでに存在している。

村楽とメリー、生業と表現が噛み合えばパルチザンは勝利する。

26日の「Merry Forest@美作上山」は雨の中だった。水谷さんは言う。

東北の被災地で撮影した子供たちの笑顔の傘を開く時は、いつも雨なんですよ。涙雨ですね。

それでも子供たちの笑顔はその開く場所をメリーにしてくれる。

和みの森、天空たんぼ、山水画のような棚田。

上山の人たち、大阪から来た上山棚田団、全国から参集した村楽パルチザン部隊が、水谷さんの「いち、に、さん、メリー」の掛け声でソーシャル・アートする。

思えばカタチになるのだ。
そうですよね、水谷さん。ありがとうございました。

僕の脱藩生活はこうして1年が経過した。
去年の今日、僕を見送ってくれた皆さん、僕は元気にやっています。


都人よ 来たってわれらに交じれ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

(宮澤賢治「農民芸術概論」より)