2011年3月30日水曜日

文脈日記(善いことを決意すること)

アンガージュマンするのは今だ、と書いた一ヶ月前が遠い昔に思える。
3,11で世界は否応なしに変わってしまった。
まずは亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。そして被災された方にお見舞い申し上げます。
そのうえで、僕は自分への応援演説であるこのブログを書き続けなければならない。

アンガージュマンとエンゲージメントは同じ、ENGAGEMENTだ。
広告業界では「企業と生活者のエンゲージメントが新しい消費行動の鍵だ」というような文脈で語られている。
ところがアンガージュマンは少しちがう。
【アンガージュマン】フランス engagement
関与・拘束の意。フランス実存主義の用語。
状況に自らかかわることにより、歴史を意味づける自由な主体として生きること。サルトル・カミュなどでは、さらに政治的・社会的参加、態度決定の意味をもつ。(大辞林より)
1968年頃、この言葉は「自己投企」と訳されていたような記憶がある。
ごちゃごちゃと理屈をこねるのはやめて、言葉をもてあそぶのはやめて、まずは行動すること。
全共闘が華やかなりしときには、そのような文脈でアンガージュマンが語られていた。
アンガージュマンを大和言葉で表現するとどうなるのか、と質問をしてきた団塊世代がいた。僕の答えは「いてまえ!」だった。

2011.3.11後の世界にアンガージュマンするのは正直、しんどい。
自分を鼓舞するためにコンテキスターは、また文脈を接続していく必要がある。

今、僕の視座にはひとつの詩がある。
美しいものに驚くこと
ほんとうのものを守ること
気高いものを敬うこと
善いことを決意すること
半農半X研究所の塩見直紀さんから原田基風(ボブ)経由でいただいたルドルフ・シュタイナーの言葉が今の僕のよりどころになっている。


ポスト3.11でも一歩もぶれずに「半農半X」の伝道者でありつづける塩見さんのブログに癒やされなければやっていけない日々が続いている。
そもそも「田中文脈研究所」という屋号も「コンテキスター」という肩書きも塩見さんにインスパイアされて決めたものだ。
その塩見さんのブログに当研究所のことが紹介された。ありがとうございます。
善いことを決意すること
この状況にアンガージュマンするためにはそれなりの決意が必要だ。

3.11直後から僕はツイッターに貼りついた。
被災地や原発に関するコンテンツが錯綜するなかで、「自分に何ができるのか」を考えつつタイムラインに流れてくる情報の仕分けやRTを繰り返していく。

僕程度のフォロワー数の者が必死にツイートしても世の中全体に対しては影響力を持たない。
でも、少なくとも僕をフォローしてくれている人々には客観的(と僕が主観的に思う)情報を流したい。今の僕はテレビとネットに貼りつける環境にいるのだから。
そんな思いから、僕のしたことは主に福島原発に関して、NHKテレビで流れてくる情報とUSTで流れてくる情報をテキストにしてつぶやくことだった。
さらに、ぶれない発言をしている人を見極めて、その人の情報ソースを確認して自分が納得できればツイッターとフェイスブックに流していった。

家族からは「お父さんはなにかに取り憑かれたみたいだ」と言われた。
その状況は今も変わっていないが、このエントリーを書くことによって少し憑きものを落としたい。

何に取り憑かれたのか。文脈の接続に取り憑かれたのだ。
気がつけば、それが「キュレーション」ということだった。


「キュレーションの時代」という佐々木俊尚さんの本は購入していた。紙ではなくePUBとPDFで。iPadに格納して読めるようにしていた。このエントリーを書くにあたってようやく読了した。しかもiBooksで。実は3月の文脈研究は「電子読書の快楽」にしようと決めていた。
それはまた宿題にしておこう。
ポスト3.11では書籍のあり方も変わるような気がする。

話がそれた。

佐々木俊尚さんの著作には「文脈とコンテキスト」がよくでてくる。その論旨は明快でいつも参考にさせていただいている。

僕が今も継続しているコンテキスター業務は間違っていないと思う。
それはささやかながらもキュレーション業務でもあったのだ。
以下、「キュレーションの時代」から引用させていただく。
キュレーション【curation】
無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。 
(キュレーションにおける)視座とは、どのような位置と方角と価値観によってものごとを見るのかという、そのわくぐみのことです。 
言い換えれば、視座とはすなわち、コンテキストを付与する人々の行為にほかなりません。そして私たちはその〈視座=人〉にチェックインすることによって、その人のコンテキストという窓から世界を見る。 
この「視座」を提供する人は今、英語圏のウェブの世界では「キュレーター」と呼ばれるようになっています。
そしてキュレーターが行う「視座の提供」がキュレーション。
僕のキュレーションなんてたかが知れている。
でもキュレーションという行為はカリスマとかアルファーとか言われる人が独占的にやる行為ではない。

無数の名もなきキュレーターがポスト3.11の世界では必要になると思われる。
僕はそのひとりでありたい。
「情報と関係の善循環」を回し続けるためには彼らのタコツボ化していないネットワークが必要だ。

佐々木さんによれば「タコツボ化」の反対語は「セレンディピティ」というそうだ。
また引用させていただく。
セレンディピティというのは「偶然幸運とぶつかる力」という意味の英単語で、ネットの世界では「自分が探していたわけではないけれども凄く良い情報を偶然見つけてしまう」というようなニュアンスで使われています。
僕が以前のエントリーで書いた「情報循環説」というのはこういうことだと思う。
ただ、今の僕は「凄く良い情報を見つける」のは偶然ではないような気がしている。
すべては必然的な関係性の善循環によるものだ。
無名キュレーターたちがその循環のエンジンになっているのは間違いない。
ポスト3.11を支えるのは彼らだ。

ポスト3.11がどうなるのかは予断を許さない。
福島原発は永遠に現在進行形で過去完了になることはないだろう。

原発問題に関して、僕は原子力資料情報室、後藤政志さんの視座にチェックインしている。後藤さんがキュレーションしたこと、そして彼の表情が物語ることに寄り添っている。


ポスト3.11は「国破れて山河なし」だと原田基風(ボブ)は喝破した。
そこが1945年との大きな違いだ。

僕のポスト3.11へのアンガージュマンは膨大な情報と格闘することから始まった。
そして、今日、この時点でこのエントリーを書いたことが次のアンガージュマンだ。

2011年2月28日月曜日

文脈日記(世の中のために働く)

僕を巡るコンテキストが急展開している。
「コミュニケーション・デザインのボランティアやります」というミッション・ステートメントが実現できそうになってきた。

脱藩するときに「これからは世の中のために働く」と言ったことがある。
普通に考えたら、こいつアホや、と一笑に付されるだけだろう。
実際にそうだった。というか、自分自身の中でも、そんなことできるわけないわな、と自嘲気味に言っていた言葉だった。

ところが、D社のT専務(当時)は、それいいやん、やりいや、とニコニコしながら僕の背中を押してくれた。

脱藩8日前のT専務宛メールを公開する。
世の中のために働けばいいやん。
小さなコミュニケーションを繋いでいけばいいやん。
早期退職を決心した私にとって、これ以上の激励はありません。
どこまでやりきれるかは分かりません。
でも、志は高く腰は低く、世の中と歩調を合わせつつ進んで行きたいと思います。
ときにはプロとして、世の中の半歩先を進むことも必要でしょうが、長い間、D社にいるとどうしても「上から目線」になりがちです。
そこは少しずつリハビリをしながら、前に進んで行きます。
デジタルという道具を使えば耳元でささやくコミュニケーション、ヨコにつながるコミュニケーションは簡単です。
ただ、ささやく言葉そのものは、どこまで行ってもアナログです。
人を動かすコンテンツは0か1かではなく、割り切れないコンテキストから生まれてくるのでしょうね。
私はコンテキスターとして縁脈を繋ぎながら、世の中のために働きながら、自分の新しいコンテンツにトライしていきます。
まず言葉ありき、だった。
この頃は脱藩生活に不安を抱いていた。周りからも「辞めてどうするねん?」と質問攻めにあっていた。
今、このメールを読み返してみると気負いばかりが先行していて照れくさい。
言っている理念は正しいが、現実にどうすればいいのかはさっぱり分からなかった。

だが、この1ヶ月間で「コンテキスター業務」というものが現実味を帯びてきた。

それはMERRY PROJECTを展開しているアート・ディレクター水谷孝次さんとの出会いが大きい。そしてその出会いをもたらしてくれた尊い縁脈のおかげだ。

2月の始め、僕はMERRY PROJECTに参画した。その模様はMERRY PROJECT公式サイトのコラムを見ていただきたい。「坂出のコンテキスター、フミメイ」が実名(?)で登場している。「海彦山彦空彦」というコンセプト・シートを水谷さんが採用してくれた。ありがとうございます。

このブログではMERRY PROJECTの詳細は書かない。今後のメリーな展開はTwitterとFacebookでフォローしてください。

このブログはあくまでも僕と僕の周辺を巡る文脈研究発表の場だ。
文脈研究家としては、以下、2冊の本のコンテキストを繋いでみたい。

「デザインが奇跡を起こす」水谷孝次 PHP研究所



「思考するカンパニー」熊野英介 幻冬舎


1951年3月14日生まれの水谷さんは「子供たちの笑顔は未来への希望です」をコンセプトにソーシャル・デザインとしてのMERRY PROJECTを世界中に拡散されている。

1956年3月17日生まれの熊野さんは「持続可能社会の心産業」を目指してカンパニー・デザインをされている。

そして1952年3月13日生まれの僕は「コミュニケーション・デザイン」のボランティアを目指している。お二人とはまったくレベルが違うので、お恥ずかしいのですが・・・

ここで本論に入る前に「コミュニケーション・デザイン」の話をしておこう。
広告業界で「デザイン」という言葉は、新聞広告やポスターのデザインというように「グラフィック・デザイン」の領域で狭い意味で使われてきた。
ところがマス広告だけではモノが売れなくなり、新しいやり方が必要になってきたときに「コミュニケーション・デザイン」という言葉が生まれた。
「設計」という意味合いを広義の「デザイン」と表現することにより深みが加わった。

僕がD社時代にした「コミュニケーション・デザイン」の定義は以下です。

その広告コミュニケーションに対する生活者の気持ちと動線をデザインする。

このあたりはさとなおの「明日の広告」を読んでください。

そして今、僕がささやかながらも始めた「コミュニケーション・デザイン」のボランティアはこういうふうに定義できるだろう。

その社会的コミュニケーションに対する参画者の意思と世の中を繋ぐストーリーをデザインする。
世の中で情報発信をされようとしている皆さんのコンテキストを整理してストーリー化するお手伝いをする。

この「ストーリー」という言葉の使い方は熊野さんの受け売りだ。
受け売りから本論に入ろう。

水谷さんの本からはパトス(情熱)をもらった。熊野さんの本からはロゴス(論理)をもらった。

活字中毒者としてさまざまな本を読んできたが、この2冊は本当にすばらしい。
そして、この2冊はコンテキストが繋がっている。

水谷さんは言う。

「僕が大人になったら、世の中を変えてやる」僕は三歳にして、すでにそんなことを考える早熟な子どもだった。

熊野さんは言う。

欲望の大量生産から利他的モデルへと移行する私たちの試みは、社会を変えていくこと、さらに歴史を変えていくことにつながっている。

水谷さんと熊野さんは世界を変えようとしている。

2011年2月6日、僕は水谷さんと出会った。その日は連合赤軍の永田洋子死刑囚が亡くなった日でもあった。

世界を変えたい、というスタートラインは同じだったはずなのに、限りない負のスパイラルに落ちこんでいったグループの終着点と新しい善で全なる縁脈の出発点が同じ日だった。

寒風の中、身体ひとつで子供たちの笑顔の傘を拡散していく水谷さんのパトスに引きずられて僕は行動をともにした。
高松から上山、小豆島へと水谷さんの後ろを追いかけていくうちに、僕の中に少しばかりの知恵熱がでてきたようだ。

子供たちの笑顔は未来への希望です。
世界はひとつ、ひとつの願い、そしてそれは平和です。
デザインで人を幸せにする。地球を幸せにする。
人を楽しませることこそ究極のデザインだ。
ソーシャル・デザインで世界を変える。
自分たちができることから世界を変えていこう。

「デザインが奇跡を起こす」の中にある水谷語録を頭にたたきこんでいるうちに、僕の中でささやかなストーリーができてきた。そして、そのストーリーは今、縁脈の中で活かされつつある。

ただし、パトスで行動した後には反動がくる。僕は昔からそうだった。
なぜ僕は会社を辞めたのにじたばたしているのだろう。これでいいのだろうか。36年間も働いてきたのだから、もう少しのんびりしてもいいはずだ。
釣りして畑して読書して料理して、定年退職者的悠々自適をしてもいいのに。

そんなとき「思考するカンパニー」に出会った。
熊野さんご本人とはまだお目にかかったことはないが。

僕は自分がなぜじたばたしているのかが分かった。
熊野さんの言葉はコペルニクス的転回を僕にもたらした。

事業家の私は性善説、性悪説ではなく「性弱説」を取る。人間は弱いから嘘もつくし、見栄も張る。しかし一方では自己犠牲の精神や「他人のため」という利他的な欲求ももっている

「利他的欲求」がキーワードだった。
どうやら僕は自分の利他的欲求にしたがい、関係性を新たな視点でデザインするために動き出したようだ。

人は「関係性」の中でしか生きられない。それが信頼という価値観に支えられた善循環の関係であれば最高だ。
僕はいつのまにか関係と信頼を巡る冒険に一歩を踏み出したのだ。
それが勇み足でないことをひたすら願う。

はるか昔、人類が「思考力」をサバイバルの戦略として選んだとき、自己犠牲と利他の欲求も本能に組み込まれたのだ、という熊野さんの説は深い。

また「世の中のためにはたらく」と僕が妄想を言ったことの意味も、この本で明快になった。そのまま引用させていただこう。

そこには「精神的満足の利益」がある。「こんなことをしたら喜ばれるのではないか?」と参画欲求をもってかかわり、「素晴らしい」と肯定された瞬間に参画欲求が満足する。そこに最大の利益があるという感覚。自分がいる意味があったという、こうした仕組みを広げていきたいと思う。

さらに「世の中のために」と言った瞬間に発生する「あほか?」感についても
熊野さんは喝破されている。

利他的モデル構築を進めたい。そのうえで一番のジレンマは、利他的モデルという言葉がなかなか通じないことである。あなたは「人のためにいいことをして儲けよう」という人間の言葉を信じることができないだろう。たぶん、うさんくさく思うだろう。利他的モデルというのは、そこが難しい。
利己を追求したら、やはり「自分のために人に何かをしたい」という欲求に行き着く。
そこには、「孤独にはなりたくない」という利己的理由があり、結果としては利他の価値観を追求しなければならない。人間としてごく自然のことなのだが、「人のために生きる」と言った瞬間に、今の時代、非常に偽善的に聞こえてしまう。「自分のために人を助ける」と言った瞬間、なんだかいやな人間に見えてしまう。利益に対する間違った偏見と企業活動に対する偏見が、真実を曇らせている。

「デザインが奇跡を起こす」で行動を起こして「思考するカンパニー」で理論武装した僕はしばらくこのまま前に進もうと思う。

「世の中のために働く」にうさんくささはないのだ。
儚くて脆い利他的欲求を顕在化して価値観を共有するためにソーシャル・ネットワークが存在する。その使い方にもようやく慣れてきた。
東の方で、いみじくもつぶやかれたようにSNSを使えばコミュニケーション・コストはフリーなのだ。

僕は文脈を接続してストーリーをつくるコンテキスター業務を継続していこう。
ひたすら誠実な凡人として、志は高く腰は低く。

そして笑顔を忘れずに。

水谷さんと熊野さんの笑顔に対する考え方は通底していた。

「デザインが奇跡を起こす」P238

「水谷さんにとって、MERRYとは何ですか?」
ときどき、そう聞かれる。僕はこう答えている。
「和顔愛語」
仏陀が2500年前に言った言葉だ。何もあげる物がないなら、あなたが笑顔と優しい言葉をあげなさい。そうしたらあなたにも笑顔と優しい言葉が返ってきますよ、と。

「思考するカンパニー」P74

ちなみに人間だけが笑うといわれる。生まれたばかりの赤ん坊は最初に笑う。ひ弱に産まれ、人から愛してもらわなければ生き残れないのが人間だからだろう。ブッダは「人は、何ももたない赤ん坊でもほほ笑みを人に与える。これを願施という」といった。

やはり笑顔は究極のコミュニケーション・デザインだったのですね、水谷さん。
利他的モデルの組織体は同じ価値観で繋がっていますね、熊野さん。

2011年2月28日現在、世界は激動している。
世界は同時多発善で動いているような気がしてきた。
チュニジアでエジプトでリビアで起こったソーシャル革命は、この列島にも確実に広がりつつあるのかもしれない。

地球の東の果てにある離島では「新」から「心」への改革が必要とされているのだろう。

さてと、僕はぼちぼちと僕のできることからやっていこう。

ここまで書いたら、アンガージュマン(engagement)という1968年頃に流行っていた哲学=政治用語を思い出した。

LOC(Last Occupied Children) としてアンガージュマンするのは今だ。

2011年1月25日火曜日

文脈日記(フミメイと呼ばれること)

最近、フミメイと呼ばれることが多くなってきた。
fumimayというのはTwitterのアカウントネームだ。
2009年の8月21日にツイッターを始めるときふと頭に浮かんできた。

文夫と文明(ぶんめい)の組み合わせですわ、というと大きなネーミングのように聞こえる。
が、実はそれは後付けの話です。

メイというのはうちの犬の名前だ。

1996年6月10日生まれの14歳。おばあちゃんになっちまったパピヨンであります。
Mayは5月。6月生まれなのにメイとはこれいかに。

この話のわけは個人情報に関わるのでこれ以上は書かない(笑)・・・
ただ「となりのトトロ」へのオマージュでもあるとだけ言っておこう。

映画「インディ・ジョーンズ」のインディも実は犬の名前だったというエピソードもありましたね。
発音しにくいフミメイという名前で呼んでいただいている皆さん、すみません、こんな由来だったのです。

D社にいた頃は文夫さんと呼ばれることが多かった。
脱藩するときにさとなおが実名でメッセージをくれたときは少し恥ずかしかったが。

今、フミメイと呼ばれているのは協創LLP関係者からだ。
この組織はオープンでフラットであり、年の差は関係なく呼びすてが原則だ。
僕の先達、原田基風(ボブ)の後を追っていくうちにフミメイと呼ばれるようになってきた。

フミメイは先日、岡山県美作市上山に行ってきた。協創LLPのプロジェクトである上山棚田団と美作市地域おこし協力隊への表敬訪問だった。長男といっしょに非力ながらほんの少し草刈り協力をしてきた。

彼らの活動に関しての詳細は近々、紙の書籍が出版されるらしいのでそちらを参考にしてほしい。

上山棚田団のベースはさいぼう庵という。裁縫が得意だったおばあさんの古民家を借り受けて再生したそうだ。

さいぼう庵の前では2匹の犬が歓迎してくれる。そして玄関口にはたくさんの長靴が並んでいる。仲間たちが楽しそうに話し合っている。

この雰囲気はどこかで経験した覚えがある。コンテキスターの中で文脈が繋がった。

今世紀の初め、僕は中標津にいた。北海道の東にある小さな町だ。
そこにはムツゴロウ動物王国があった。畑正憲さんと愉快な仲間たちがいた。
純真な目をした犬たちと馬たちがいて、ムツ母屋の玄関には無数の長靴があった。

2001年、インターネット博覧会(インパク)内コンテンツとして僕はある通信会社のWEBサイト制作を企画した。そのサイトはムツさんの動物王国と1年間、生活をともにするコンテンツだった。

まだISDNの時代に、動物王国から24時間365日、ライブストリーミングをやりたいと提案したD社にクライアントは応えてくれた。
中標津の原野にまず電信柱を立てて、ISDNの専用回線を通してくれた。

ムツ牧場の母屋と浜中の王国に設置された定点カメラはいきいきと彼らの生活を映しだした。
犬や馬の出産、動物と人間の子供たちの成長と道北の空気感が映像として世界中に流れていた。ISDNの狭い帯域の中をドキュメンタリームービーがけなげに通過していく。

多少、コマ落ちしたその映像群は時を超えて生き残ってはいない。そのとき、その瞬間が切り取られた映像を記憶している人も限られているだろう。僕の中では永遠に生き続けているが。

このサイトには動物王国日記というコンテンツもあった。
まだブログという言葉が影も形もなかった時代にCMSを使って仲間たちが膨大な日記を書いてくれた。

実は、このサイトの跡地はまだネットの中に残っているのです。
ご興味のある方はアーカイブを見てください。ぼろぼろになったコンテンツですが雰囲気は分かります。こちらは古民家再生とはいかないが。

古民家を再生したさいぼう庵の犬と長靴が想起した思い出に浸っているばかりでは文脈が前に進まない。

かつての動物王国と同じようなすてきな仲間たちが今、棚田団に集結しようとしている。
棚田団と美作市地域おこし協力隊の縁脈力は絶大だ。

そして彼らは身体を張っている。
草なんか食べてしまったらええねん、と山羊を飼い、草なんか焼いてしまったらええねん、と野焼きを敢行した彼らの行動力は本当にすごい。

2001年に中標津に足繁く通ったように、これからの僕は上山に通うような予感がする。

ただし、違いはある。
動物王国とのつきあいはD社のクリエーティブディレクターとしてだった。
棚田団とのつきあいは脱藩者としてである。駆け出しコンテキスターとしてである。

D社時代との違いは大きい。僕も身体を張らないと、とは思うものの体力は衰えていく一方だ。
衰えたきた体力は知恵で補うしかない。プロジェクトを進めるための経験値は積んできている。

知恵と知恵の物々交換をさせてもらって棚田団とのコンテキストを繋いでいければ、と思いつつ職能訓練は少しずつ進んでいる。

上山神社から見下ろす棚田は物理的空間として無限の可能性を秘めているようだ。
すり鉢状の景観はコンサートに向いているとボブも言っている。

上山棚田

そして、この上山棚田が小豆島の棚田に繋がる可能性もあるだろう。
棚田に溶け込んだアートが上山でも展開できれば素敵だ。すでに上山棚田団の皆さんはここを視察している。

小豆島棚田とアート

さらには長男と行ったネパール、ポカラ郊外の棚田とも繋がれば最高だ。

ネパール棚田

ネパール棚田

ネパール棚田


D社時代によく言っていた言葉がある。

「アイデアは世界同時多発だ。今、この瞬間にも世界中で誰かが同じことを考えている」

これは厳しい競合にさらされていた広告業界で一秒でも早くアイデアを実現したものが勝ちだという競争原理の言葉だった。

同じ言葉は縁脈者の世界でも通用する。
ただし広告業界とは意味がまったく違う協創原理の言葉になる。

アイデアは世界同時多発だ。今、この瞬間にも善いことを考えている誰かがいるはずだ。

世界が手を繋げば善循環が高速回転していくだろう。


追伸:Facebookアカウント設定しました。
プロフィール画像はムツゴロウさんが僕の56歳の誕生日に描いてくれたものです。
ムツさん、ありがとうございました。

2010年12月30日木曜日

文脈日記(疾風怒濤)

疾風怒濤の一年間だった。
2010年は自分の人生の中で大きな区切りになるだろう。

疾風怒濤、ドイツ語では「シュトルウム・ウント・ドランク」だ。
この言葉を覚えたのは18歳の頃、北杜夫の「ドクトルまんぼう青春記」を読んだときだった。

若いときに覚えたことは忘れない。
その後、シュトルウム・ウント・ドランクを重ねるうちに忘却の彼方に行ったことは多い。

最近では「固有名詞忘却シンドローム」がひどくなって、人とモノの名前がでてこない。
たとえば、その有名タレントの属性は全て覚えているのに、どうしても固有名詞だけが思い出せない。イライラしますね。
この現象には、海馬がどうしたこうしたという明確な原因があったはずだが、それも忘れてしまった。

と、ここまで書いているとき、次のツイートを発見した。

 協創LLP情報Producer@西口和雄 

本日13時より大人の隠れ家@西成BAR無心庵にて餅つき大会を致します。総勢30名を超える大賑わいで今年のうっといもんを振り払います~~~来年の飛躍のためにも西成の聖地にもちくいにこいっ♪

これは行かねば、ということで急いで西成まで行った。
ツイッターで繋がっていた皆さんとリアルに会い、餅を食べ、酒を飲んできた。

ということで、長い間がありつつ、エントリーを再開するなうだ。

そうである。僕の2010年はツイッターとともにあった。
今まさに、1000人の皆様にフォローされたところだ。ありがとうございます。

疾風怒濤の日々を記憶するのは難しい。
でも、twilogというツイッター記録アプリをひもとけば、僕の1年間が見えてくる。

今年の元旦には讃岐の志度にいた。瀬戸内海を望むペンションから初日の出を見ていた。


完全無欠の初日の出なう。
posted at 07:20:37



それから1年間、僕は日々のよしなしごとをつぶやき続けてきた。

もちろん、2010年は6月30日以前と以後で別世界だ。
脱藩したら横に拡がると宣言して、そのことが曲がりなりにも実現の方向に向かっているのは、ツイッターに助けられたからだ。

最近は、久しぶりに会った人でも近況報告をする必要がない。その人が僕のつぶやきを見てくれているとコミュニケーションは簡単だ。

そして、何度も言うが、脱藩生活は忙しいのだ。
自由というのは果てしなく続くタスクの中から自分の選択肢を選んでいく毎日だ。

頭の中には様々な文脈が渦巻いている。
そのもやもやはとりあえずつぶやいてみる。そうすれば、頭の中がすっきりしてくる。

しかし、つぶやき続けていても、まだ頭の中は整理しきれないときがある。

そんなときはGTD(Getting Things Done)の出番だ。
大学時代の友人が教えてくれたすてきなライフハックだ。
デビッド・アレンの新刊をamazonに発注したが、品不足なのか、なかなか届かない。


今、amazonで確認したら、新刊本は入荷待ちで古本が新刊本よりも高くなっている。
情報大洪水に溺れる生活者たちがGTDのテクニックを求めているのだろう。

GTDの基本は頭の中にある「気になること」をすべて受信箱に収集することだ。受信箱の処理をしてネクストアクションを決める。
そのプロセスを週次レビューで繰り返して、もの忘れの恐怖から解放されたとき人間の精神は目の前のタスクに集中できる。

と、口で言うのは簡単だが、なかなか実践は難しい。
たとえば、このエントリーを書こうと思っても次から次に新しい「気になること」が発生してくる。
そんなときにはGTDでアクションの最適化を図る。

GTDを始めていなかったら、僕は今日の協創餅つき大会には行かなかったかもしれない。割と融通が利かないところがあるので、このエントリーを書き続けるというアクションを選択しただろう。

でも、2010年の12月29日の午前10時30分という時点で、僕の取るべきアクションは西成に行って新しい出会いをすることだった。

縁脈を深化させることだった。

おかげで来年に向けて、またひとつ展望が開けてきた。

疾風怒濤の日々の羅針盤はツイッターとGTDだ。この2つのツールを使い続けることによって来年も前に行くことができそうだ。
コンテキスターを目指す僕にとって文脈の錯綜はいつものことだ。その錯綜を解きほぐして編みこんでくれるツールがあるのは頼もしい。

ただし、ツールはあくまでも手段であって目的ではないのですね。

航海していく目的地は自分で設定するしかない。年の終わりでも年の初めでも、それは簡単なことではない。というか、脱藩生活の目的地はまだ見えない。

羅針盤の指示に身を任せつつ、まだ見ぬ新大陸を目指す日々が来年も続きそうだ。

最後に僕の2010年を象徴する写真をアップしよう。


瀬戸内国際芸術祭で見たスゥ・ドーホーの作品だ。人と人の繋がりが海に向かって揺れていた。

縁脈のネットワークがあれば、その彼方には無限の時空が拡がる。

2010年11月30日火曜日

文脈日記(職能訓練)

気がつけば11月の最終日だ。龍馬伝は終わってしまった。明日からは師走だ。
脱藩者にも年末年始がやってくる。
そんなわけで、大慌てでブログを更新しよう。一ヶ月以上、ブランクが空いてしまった。

この間、僕は何をやっていたのか。一言でいえば職能訓練をやっている。

脱藩をするとき、僕は以下のミッション・ステートメントをした。

コミュニケーション・デザインのボランティアをします。

釣りの合間に畑仕事やります。

調理師免許とります。

今は、この3つのミッションを実現するための職能訓練に時間をとられているのですね。

コミュニケーションの仕事は長い間、やってきた。でも仕事としてのそれと、世の中と繋がるためのコミュニケーションは少しちがう。

脱藩してタテのコミュニケーションからは完全に脱出できた。そしてヨコに繋がっていく縁脈は確実に拡大再生産している。
会社をやめると孤立する、という説は信じられない。

ツイッターで繋がった皆さんとリアルに会い始めた。初めて会った瞬間からその人のことを分かっているコミュニケーションは新鮮だ。初対面のような気がしない。

年の差は関係ない。名刺も関係ない。

会社員時代は初対面の相手との間合いを図るのに時間がかかった。クライアントを頂点とするタテ構造は複雑だから。
でもネットの性善説に基づく間合いの取り方はシンプルなようだ。

誠実であること。相手の言うことを傾聴すること。

これはツイッター・オフ・ミーティングに限らず、新しい出会いでの大原則になりそうだ。

僕は今、さまざまな新しい出会いをしながら、この職能訓練を積み重ねている。
まだまだやな、という妻の声が聞こえそうだが。

コミュニケーションのスキルを改革しつつ、新しい出会いの場を構築することも始めた。

僕は小豆島に誰も住んでいない家を持っている。

瀬戸内国際芸術祭では「小豆島の家」というタイトルのアートがあった。竹で建築された涼やかな家だった。

僕の「小豆島の家」は骨太ではあるが、まだ寝泊まりすらできない。まずは上下水道の整備からだ。ずっと使っていた井戸水は水質検査の結果、飲用不可だった。

ツイッターで繋がった小豆島在住の仲間たちの助けを借りながら、少しずつ基本インフラの整備をしていこうと思う。
それから、家のリフォームだ。こちらは協創LLPの縁脈が頼りになりそうだ。

まだまだ先行きは不透明だが、前には進んでいる、と思う。

実は、もうひとつ、坂出にも誰も住んでいない僕の実家がある。こちらは妻の奮闘努力で寝泊まりができるようになった。現住所の箕面は大好きなのだが、諸事情で坂出滞在も多くなりそうだ。

次は畑仕事の職能訓練だ。

小豆島の家の周りには、けっこう広い土地がある。ところが、ここはセイタカアワダチソウを大将とする草たちの縄張りになっていた。彼らの生命力には恐れ入る。

畑仕事の基礎は草刈りだ。小豆島の家で畑をするのは時期尚早だが草刈りの訓練には最適の場所だった。親戚のおじさんにご指導を乞いながら、生まれてはじめて草刈り機のエンジンを回した。

これは快感ですね。フルスロットルにして草どもをなぎ倒す。暴れるハンドルを必死で支える。青臭い草の匂いに包まれる。前へ前へと進んでいく。

生まれてはじめての経験は楽しい。楽ではないが楽しい。

この草刈り体験の前に、僕は箕面のマイファームも始めていた。マイファームというのは休耕地を利用して、野菜作りの畑を都会のそばで持続していくプロジェクトだ。「自産自消」社会の構築を目的としている。

自慢じゃないが、畑仕事も生まれてはじめてだ。D社時代に、エコとかサステナビリティとかに関わったが、自分で手を動かして作物を育てたことはなかった。

野菜の芽って可愛い。話には聞いていたが、そのとおりだった。

箕面マイファームでの職能訓練では管理人さんが頼りだ。畑仕事に関しても膨大な情報がネット上にあふれている。でも、この分野では謙虚に一から管理人さんの話を傾聴しようと思う。
畑情報の大洪水に溺れたくはないので。
畑仕事の職能訓練は時間の経過とともに、身についていくと思うのだが。

さて、問題は3つめのミッションだ。

調理師免許取ります。

すみません、この件に関しては大嘘をつきました。ほらふきと笑ってください。
僕の性格では、調理師学校に1年間、通学して学生をやるのは無理と妻に認定されました。

よって調理師への道は諦めた。
以上終わり、ではあまりに無責任だし、本当に料理には興味があるので違う道を歩み始めている。

送別会でいただいた包丁は決して無駄にはしません。

今は調理師学校ではなく月に3回、料理教室に通い始めている。この職能訓練も楽しい。
マイ計量カップも買った。まだ包丁で指は切っていない。

コミュニケーションのスキルを改善して、新しい生活拠点をつくり、自産自消した野菜と魚を料理できるようになること。

これで《自立》のためのコンテキストは一応、つながるはずだ。
小豆島や坂出で、妻なしでも暮らしていけるはずだ。

でもまだ問題はある。元々、曲がりなりにも持っていた釣りのスキルを磨く時間がまったくないのである。

釣りの合間に畑仕事やります、の釣りにまったく行くことができない。
もちろん鮎釣りはオフシーズンだ。しかし僕に鮎釣りを教えてくれた師匠は、今や海釣りでも漁師並みの腕前になったと聞いている。そちらの教えも請いたいのだが。
この職能訓練も楽しそうだ。

よみかきそろばんとITスキルだけでは、人は生きていけない。

頭の中だけでのサステナブル・ライフからいつ脱出できるのかは、まだ分からない。
一歩一歩、できることからやっていく日々が続く。

2010年10月22日金曜日

文脈日記(丸亀高校)

ようやく秋も深まってきた。僕の脱藩生活も深まってほしいものだ。
と、人ごとのように言っていると誰かに叱られそうだ。
僕は変わり続けているのだ、と信じたい。
ようやく畑仕事を始めたし、料理修行のスタンバイもした。
どこまでやりきれるかは保証の限りではないが、やったことがないことをやってみるのは変わり続けるための必要条件だ。

さとなおも「変わり続けること」というエントリーで決意表明を新たにしている。

いきなり決意表明などとアジエン(アジテーション演説のこと)のようになるのは、「街場のメディア論」(内田樹)の影響だ。以下、引用。

総数600万と呼ばれるブログには、これまで身辺雑記エッセイが多く含まれていました。ところが、ここにツイッターという新しいメディアが出てきました。これはいかにも日常の出来事を「随筆風」に点描するのにジャストフィットなツールですので、ブログの書き手たちの相当数はすでにツイッターに流れています。いずれ、ブログにはそういう「やわらかいネタ」を排除した残りの、政治経済社会文化のもろもろの事象についての「演説」に類するものが残されるのではないかと僕は予測しています。

このブログの更新頻度が少ないのは、演説するための心の準備に時間がかかるからです。
しかも、文脈研究所のエントリーは自分で自分に対して演説しているので、さらにハードルが高いのです。

と例によって言い訳をしておこう。

そして今回のエントリーは、僕の演説の原点を語りたいと思う。
僕は1970年に香川県の丸亀高校を卒業している。そして早稲田大学に行った。

正直に言って、早稲田大学への愛着はない。「都の西北」は歌ったことがない。その代わりに「ワルシャワ労働歌」や「友よ」を歌っていた。

だが、丸亀高校校歌への愛着はある。なぜなら、僕は丸亀高校応援団であったから。
15歳から18歳まで、丸亀高校(以下、丸高)で過ごした日々は面白かった。

ラスト・オキュパイド・チルドレンである僕は丸高時代にモノの考え方のプロトタイプを構築した。そして58歳の今に至っている。

丸高卒業後の40年間で同窓会には一度しか出席したことがない。
そこで僕は18歳からほとんど変わっていないと言われた。もちろん、見た目は充分に老けているが。

「死ぬまで18歳」と歌ったのはブライアン・アダムスだ。それはクールなことなのだろう。
だが、実際のところ、18歳のややこしい精神構造のまま生き続けるのなんて面倒くさいと思う。変わっていないと言われると複雑な気分だ。

18歳から変わっていないのではなく、あの頃に原点を持つ文脈にまだこだわりを持っている、と言う方が正解だと本人は思っている。

その文脈が形成されたのは1967年から1970年だ。丸高時代の3年間は全世界的に激動の時代だった。

パリでは想像力が権力を奪取しそうだった。サンフランシスコではフラワー・チルドレンたちがレイド・バックしていた。東京では神田にカルチェラタンができて大きな講堂が水浸しになっていた。

そして僕は片田舎の高校生だった。坂出から丸亀まで自転車を飛ばし、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み、ビートルズの赤盤を買いあさり、応援団の練習で声をからせていた。その状況は、まさに芦原すなおの「青春デンデケデケデケ」そのものだった。

純朴な丸高生だった僕に、東京に行った応援団の先輩から熱い手紙が届く。

俺は新宿で石、投げじょるんで。よいよ、おもっしょいけんな。お前もはよ来てつか。

讃岐弁で言えば、こういう主旨のことを書き連ねてくる。その手紙はテレビで見る全共闘の映像よりも激しく、僕のパトスをあおってくれた。

重ねて言うが、応援団である。普通は右翼集団である。
ところが、この先輩も含めて、当時の丸高応援団は妙に左翼のニオイがした。
東京に行ってはじめてデモに参加したとき、応援のリズムとデモのリズムって似ている、と僕は感じた。

丸高の真ん中には広場がある。
もしくは、あった。最近、行ったことがないのでよく分からないが。
その広場には赤いタイルが敷きつめてある。
僕たちの応援団は、その広場を「赤の広場」と呼んでいた。

その頃の高校生にとって左翼的なるものは、すべからくかっこよかったのですね。
モスクワであろうが、毛沢東であろうが、チェ・ゲバラであろうが、あまりコンセプトの違いは関係なかった。

かっこいいと自分勝手に思いこんでいた僕たちは派手好きだった。
文化祭には講堂で演舞をやった。けっこうな人気だったと思うのだけど。
芦原すなおの小説に出てくるようなロックバンドの代用品だったのかもしれない。

そして赤い応援団には妙な縁脈があった。大江健三郎をきどって難解な文体の詩を書いていたやつ、琴平の旅館の息子で僕にはじめてのビールをしこたま飲ませてくれたやつ、などなど。

もしかしたら、僕だけが勝手に赤い志向を持っていたのかもしれない。他のメンバーは普通の応援団だったのかもしれない。僕は丸高応援団は今でも大好きだが、丸高野球部のことはほとんど覚えていない。応援団なんだから、野球の応援はしていたはずだけどね。

ただ、はっきり言えるのは、僕は丸高生時代に「永遠の左翼青年」たる文脈を形成してしまった、ということだ。ここでいう左翼というのは、必ずしも思想信条的なものとは限らない。もっと単純に言えば、「へそ曲がり」「天の邪鬼」というほうが当たっているのかもしれない。

その気質で得をしたのか、損をしたのかは今でも分からない。ただ、D社の社風には合っていたようには思う。

考えてみれば、スティーブ・ジョブズだって、ビル・ゲイツだって「永遠の左翼青年」のようだ。
スティーブ・ジョブズは左翼急進主義で、ビル・ゲイツは議会制民主主義型左翼という違いはあるが。

赤い丸高応援団だった僕は、早大全共闘に馳せ参じて・・・となれば文脈は単純なんだが、ラスト・オキュパイド・チルドレンの人生は複雑ですね。これもまた宿題エントリーですね。

ではなぜ、そのような気質を持つに至ったのか。

まずは丸亀という土地が持つコンテキストが妙に明るかったことだ。
それは街の真ん中に素敵なお城を持っていることとも関係していたように思う。
丸亀城は丸高生の運動場であり遊び場であった。思い出は尽きない。

その「亀城のほとり、富士の下」にあった丸亀高校には自由な雰囲気が漂っていたように思える。
一応、香川県ではナンバー2の進学校だった。受験の重い現実は当時もいっしょである。
でも、自由気ままな赤い応援団である僕が、その受験にさえ「へそを曲げて」も受け入れてくれる寛容度は充分にあった。そのはずだ。

と書いているうちに、もしかしたら僕は真面目な受験生たちの邪魔をしていたのかもしれない。いや、そうに違いない、という気がしてきた。今さらながら、ごめんなさい。

当時の丸亀高校関係者がこのエントリーを読んだら、またあいつが勝手なことを、とお怒りになるかもしれない。
でも丸高に対する僕の愛着は本物です。

脱藩して、こういうブログを書き連ねるようになった原点は、丸高の3年間で培われた。
その文脈にのっとって、僕はこれからも変わり続けねばならない。

そのためには、ときどき、こうして自分で自分の応援演説をする必要がある。

フレー、フレー、自分。

2010年10月11日月曜日

文脈日記(コンテキスターふたたび)

最近、コンテキスターって何ですか、というメンションをツイッターでもらった。
とりあえず、以前のエントリーをご紹介させていただいた。しかし、そろそろまたコンテキスターについて語らないと、この言葉にサステナビリティがなくなりそうだ。
CONTEXTER、コンテキスターというのは僕の造語だ。正しい英語かどうかは分からない。
脱藩後の自分の肩書きをを考えていたときに、ふと思いついた言葉だ。今年の2月のことだった。

元々、コンテキストという言葉に興味があった。
コンテキストとは背景、世界観、関係性、織り方、そして文脈。なかなか味わい深い。

この言葉は広告業界では、あまり頻繁に使われる言葉ではなかった。CMを中心とする広告はコンテンツという言葉でくくられることが多い。ところがメディアが変化するにつれて、単独のコンテンツでコミュニケーションを浸透させるのは困難な時代になってくる。

僕はD社にいた最後の10年間でネットの世界と深く関わった。しかもほとんど先人がいなかったインタラクティブ・クリエーティブのCDだった。iCRというチームでさまざまな経験をしてきた。
そこでは、しばしばコンテキストという言葉を使った方がものごとをうまく説明できたような気がする。

たとえば、「ワン・ソース、マルチ・ユース」という広告用語があった。ひとつのコンテンツをクロス・メディアして使用するという意味だ。4マスで広告コミュニケーションが成立していた時代にはそれでもよかったが、ネット環境では少しそぐわない感じがした。

インターネットが体液のようになった生活者に対しては、「ワン・コンテキスト、クロス・ソース」という表現の方が当たっている。そのブランドのベネフィットを一定の文脈で、たくさんの口がしゃべる方が強く伝わる。
というようなことを2009年秋にはしゃべっていた。

また、2002年には「ブランド戦略シナリオーコンテクスト・ブランディング」という本を棚入れしている。あまりマーケティング系の本を保存することはないのだが、「文脈競争優位」というキャッチフレーズに惹かれて、会社のデスクにいれておいたのであろう。

このエントリーは広告関係でまとめる気はない。ただ、コンテキストという言葉が広告業界でもキーになりつつあることを確認しておく必要はあると思う。

「使ってもらえる広告」の著者、須田和博さんも、生活者はコンテンツ消費からコンテクスト消費へとシフトしつつある、と説いている。

さらに、最近は出版界でもコンテキストはキーワードになっているらしい。
佐々木俊尚さんは「電子書籍の衝撃」を紙とeブックの両方で出版することにより、コンテキストの循環プロセスを実践したそうだ。
読者とコンテキストを共有した本は、時代の集合的無意識をすくいあげて、また新たなコンテキストを生み出していく、ということだ。

その佐々木さんを師匠と仰ぐ「リストラなう!」たぬきちさんの言葉を引用して、これからはコンテキストの時代である、ということを再認識しよう。

なぜその本が書かれたのか、この本を読む意味は、読んでどうトクするのか、今この本を読む必然性とは……そういったことがお客さんである読者に伝わるよう周辺を整理しなきゃならない。そして大勢の読者にその本について語り合ってもらえる場を用意すること、などなどなど。
つまり読者の人生にその本の居場所を作ってやる。それが「本をソーシャル化する」ことだと思う。

本をソーシャル化する、ということは本を生活者のコンテキストの中で価値あるモノにする、と言い替えてもいいですかね、たぬきちさん。

さてさて、コンテキスターの話をしなきゃ。
脱藩後、1クールを経過した現時点では、僕の考えるコンテキスターとは単純な話になりつつある。

コンテキスターとは、文脈の接続者である。

あまりに簡単な定義ですみません。でも、そうなんです。
このエントリーで、僕がつたなくも試みていることがコンテキスターのことはじめなのだ。

たとえば、広告界と出版界を「コンテキスト」という文脈で接続してみること。
たとえば、リアルな世界で自分の親戚と仕事仲間を接続してみること。
たとえば、ツイッターで@と@をメンションしてRTして接続してみること。

これらの行為がコンテキスターのミッションなのだ。
よろず、ものごとを接続する者をコンテキスターと呼んだら、自分の中ではすごくすっきりする。

考えてみたら、文脈を接続する行為を表す言葉ってなかったのですね。
コネクターでは、あまりに物理的だ。
フィクサーでは、生臭い。
プロデューサでは、お金がからむ感じがする。
コンテキスターというのが、僕にとって適度な温度感を持った言葉だった。

さらに考えてみたら、坂本龍馬だってコンテキスターと言えるのではないか。
長州と薩摩と土佐の文脈を接続して、未来を指向した。
その未来が1945年8月15日に繋がったのは情けない話だが、これは別エントリーに棚入しておこう。

と書いているうちに、聞こえてきたメロディがある。
恥ずかしながら(笑)、D社の社歌だ。

♪おお、D社、◯◯と◯◯つなぐ~、というあれですね。

現役時代、あまり社歌に対するロイヤリティはなかった。でも、確かにこれはコンテキスター賛歌とも言える。繋いで、接続して、そして前に行くのだ。
D社のDNAのよいところは、ひたすら前向きなところだった、と僕は思っている。いかに問題が多くても、猪突猛進と言われようとひたすらポジティブなDNAだ。

そう、コンテキスターは接続して前に行かなければならない。
善循環説に立たないと、接続する行為は持続しない。
そういう意味では、D社を卒業した僕がコンテキスターという肩書きを目指しているのは正しい道のような気がする。

僕はまだ世の中に対しては、コンテキスターと名乗ったことはない。
ツイッターとこのブログの中でのみ、すなわち自分に対する道筋としてコンテキスターという言葉を使っている。

まずは身近なモノとコトから文脈を接続していき、それが世の中全体に何らかの善循環をもたらせば最高だ。

だが、今の僕には、そこまで高らかにコンテキスターのミッションを宣言する自信はない。
明確に言えるのは、僕は自分の文脈を正しく接続していきたい、ということだ。

1952年から今日まで生きてきた僕の中にはさまざまな文脈がからまっているはずだ。
その文脈をひとつの流れに接続していけば、必ず見えてくるものがあると思う。

過去の自分と今の自分と未来の自分を繋ぐ接続者でありたい。

これが、僕のコンテキスターとしてのスタートラインだ。