2012年1月25日水曜日

文脈日記(デジタル・コンミューンの時代)

スティーブ・ジョブズの公式伝記(ウァルター・アイザックソン著)をようやく読了した。
もちろんiPadで。ジョブズが望んだかたちで。

この電子読書は、僕にかなりの刺激を与えてくれた。
ジョブズについては世界中のアップル・ファンがありとあらゆることを語りつくしている。今さら僕などが新たに語ることはないだろう、と思っていたのだが、そうでもないらしい。

僕もジョブズについて語ることがある。
それは彼より3歳年上でアメリカ西海岸のカウンター・カルチャーを太平洋の彼方から垣間見ていた自分の文脈からだ。コンテキスターとしての務めを果たそう。




1970年に僕が早稲田大学に入った頃、全共闘という大きな流れがあった。LOC(ラスト・オキュパイド・チルドレン)として全共闘といかに関わったかは、このエントリーを読んでほしい。しかし、あの疾風怒濤の時代にあったのは全共闘だけではない。

既存のものにNO!と言ったのは政治の世界だけではなかったのだ。
反体制と言わなければ生きている資格がない、でも反体制で政治的アンガージュマンをするのは嫌だ、と考えていた若者たちが語ったキーワードがある。

ヒッピー・レボリューション、フラワーチルドレン、カウンターカルチャー、アンダーグラウンド、ホール・アース・カタログ、そしてコンミューン。

日本ではヒッピーのことをフーテンなどと言った。新宿の風月堂あたりはフーテンたちの溜まり場だったのですね。
早稲田の貧乏学生で何をするのも中途半端だった僕は全共闘にもフーテンにもなりきれずに合成酒という恐るべき日本酒でふらふらと酔っ払っていた覚えがある。



ジョブズが大好きだった「ホール・アース・カタログ」については、1971年頃に英語版の情報を見ていたような気もする。でもはっきりとこの本の存在を意識したのは宝島社の「全都市カタログ」を通じてだったと思う。このあたりは大学時代の友人でサブ・カルチャーの雄、S君にあらためて訊いてみたいところだ。



「ホール・アース・カタログ」のことを長い年月が経ってから思い出したのは2010年にD社を脱藩する直前、最後の仕事に関わったときだった。
関西の人たちにはおなじみのFM COCOLOの第二の開局キャンペーン。
あのステーションの「WHOLE EARTH STATION」というコンセプトは「WHOLE EARTH CATALOG」から来ている。
ステーションロゴで「Stay hungry, Stay foolish」と繰り返しているのも「ホール・アース・カタログ」へのオマージュである。
「貪欲であれ愚直であれ」というメッセージはジョブズの死とともに、また有名になったが、元々は「WHOLE EARTH EPILOG」、シリーズ最終版の裏表紙にあったのですね。

脱藩するとき、仲間たちからiPhoneをプレゼントされ、その直後、iPadも手に入れた時、僕はジョブズが遺した「めちゃくちゃすごい」製品たちは21世紀のホール・アース・カタログだということが直感的に分かった。

「ホール・アース・カタログ」のコンセプトは「access to tools」、道具への近道だ。
ジョブズの創ったデジタル・ハブは今やクラウドにあるすべての道具=情報にアクセスできるようになった。
アートとテクノロジーの交差点でついにデジタル技術は人間の心友になったのだ。



WHOLE EARTH EPILOG 」が発刊されたのは1974年。ジョブズはその頃、ポートランド郊外のオールワンファームというリンゴ農園でコンミューン生活をしていた。大好きなこの本はいつも持っていたという。

ホール・アース・カタログの発行者、スチュアート・ブランドは創刊号にこう書いている。
以下、スティーブ・ジョブズ公式伝記から引用をさせていただく。
「自分だけの個人的な力の世界が生まれようとしている…個人が自らを教育する力、自らのインスプレーションを発見する力、自らの環境を形成する力、そして、興味を示してくれる人、誰とでも自らの冒険的体験を共有する力の世界だ。このプロセスに資するツールを探し、世の中に普及させる…それがホールアースカタログである」
これは1968年に書かれた文章だ。
2012年、ポスト311の世界で「自立した個の群れ」が草の根で連帯する村楽LLPの同志たちのあり方に似ていることに驚く。

そして自立した個の群れが冒険的体験を共有する武器として彼らはiPhoneとiPadを駆使している。
ホールアースカタログが理念を語り、スティーブ・ジョブズが具現化した道具はこの列島の明日を変えるかもしれない。




もうひとつのキーワード、コンミューンについて語ろう。
辞典による定義は以下である。

《大辞林》
コミューン【(フランス)commune】[コンミューンとも。誓約団体の意]
・共同体。
・中世ヨーロッパで、領主・国王から住民による自治を許されたいた都市。
・フランス、イタリアなどで、市町村にあたる地方行政の最小区画。
・パリコミューンの略
《はてなキーワード電子辞典》
生活基盤を共有しつつ生活する複数の家族のありかたを言う。かつての「ヒッピー」(自称・部族)の人たちも実践していた。

体制から統治(ガバナンス)されるのではなく、メンバーが自らを統治する地域共同体がコンミューンである。

そうであるならば、今、地域おこしの現場でポリシーとしてささやかれている「協創ガバナンス」はコンミューンの大原則となるのだろう。

上からの統治を拒否して同志たちと協力して生活基盤を創りあげ自分で自分を統治することができれば、本当にメリーな暮らしができると思う。

考えてみれば、上山集楽もある種のコンミューンなのですかね。
ただ、コンミューンという言葉には様々な歴史的政治的コンテキストが付随することが多いので使用上の注意がある。

ジョブズがThink Differentな発想を生涯貫きとおす原体験となったリンゴ農園でのコンミューン生活は公式伝記には以下のように記されている。

この農園の名前はオールワンファームというネーミングだったこと。
悟りを求める人々が週末を過ごす場所としたこと。
母屋と大きな納屋のほか、庭には小屋があったこと。
ジョブズはグラベンスタインというリンゴの木を剪定する作業を担当して農園を復活したこと。

あまり詳しいとはいえないこれらの記述を読む限り、ここは農をベースにして東洋的な精神修養をする場所だったらしい。ただし創設者が事業色を強めすぎて問題が起こったようだ。

僕にとってもコンミューンはほろ苦い。
コミューンのことを僕はコンミューンと言う。それは自身のささやかな体験に基づいている。
ジョブズがオールワンファームにいた時代の少し前、1972年頃に僕も「備北コンミューン」というところに短期滞在したことがある。
たぶん岡山県津山市あたりの中山間地にあったのだろう。
D社に入る時に、そのときの記憶は封印してしまったので正確な場所は分からない。このコンミューンで何をやっていたのかも定かではない。なんだか夏休みの合宿だったような雰囲気だけは覚えているが。

たまたま今、隣の美作市に足繁く通っているのは不思議な偶然だ。

あの頃は政治的な動きからドロップアウトした学生がコンミューンで共同生活をする、というムーブメントが日本にもあった。
ちなみに村上春樹の「1Q84」に登場する農業コンミューンはその流れがモデルになっているようだ。小説の中ではカルト教団に方向転換してしまうが。

コンミューンというコンテキストにまつわる様々な事象について詳細に語るのは、ここでもニワカ体験しかしていない僕には荷が重い。

ただ言えることは、コンミューンという言葉はLOC世代の僕にとっては「理想郷」という意味合いを持っていることだ。
WHOLE EARTH CATALOG」 の項目にはcommunityがあり、そのトップコンテンツはThe Modern Utopianとある。




コミュニティの理想郷を夢見るという文脈は当時からあったのだろう。

まるで見果てぬ夢を見ているような話なのだが、スティーブ・ジョブズの道具たちとコンミューンとの関係性を繋ぐ努力はしてみたい。

いつのまにかiPhoneとiPadが体液を循環させるツールになってしまい、しかもかろうじてホールアースカタログ世代でもある還暦ドラゴンには、その義務があると思う。

今、この瞬間にも二つの道具を座右において、facebookとtwitterを横目でにらみながらこのエントリーを書いている僕の中で、ある妄想が頭をもたげてきた。

ソーシャル・メディアはデジタル・コンミューンだ。

そのデジタル・コンミューンに参加する近道がジョブズの愛したデバイスたちなのである。

スティーブ・ジョブズは「デジタルハブ」という構想を今世紀の初めに打ち出している。
その流れにしたがい自分の手の中にあるデバイスが電話、音楽、写真、動画などすべてのコンテンツのハブになるという理想郷を実現した。

そしてジョブズの道具の進化と同時進行してきたのがソーシャル・メディアだ。

今や世界は二種類の人間に分かれている。ソーシャル・メディアを友とする人と拒否する人。
ちなみにソーシャル・メディアを拒否する人はマスコミ関係者に多い。彼らは自らを情報強者だと思い込んでいるからだ。この点についてはまた宿題にしておこう。

iPhoneとiPadでソーシャルメディアするときの利便性は、それらのユーザーには自明のことである。アップルのデバイスはエンド・ツー・エンドで閉じられた世界だが、その先には無限の可能性を持ったオープンでフラットなクラウドが待っている。

現時点ではクラウドの中で最大のコミュニティを形成しているfacebookは、デジタル・コンミューンの塊だと言えるだろう。

コンミューンの本質は「協創ガバナンス」だ。
仲間と協力して新しい時代を創る、自分たちによる自分たちのための統治共同体である。
行政主導とは対極にある。

またそこでの情報の流れはマスメディアとも対極にある。上から下へ、ではなく、横から横へ。

そしてデジタル世界のコンミューンは地理的制約を超えて複層的に捉えることができる。
たとえば農をベースにしたコンミューンはこの列島の各地に燎原の火のように拡がっている。
ソーシャル・メディアの中ではそれらの動きが複雑に絡み合い、デジタル・コンミューンとして一定の方向性を持ち始めているような気がする。

もちろん311以降の閉塞情況を打破する方向だと信じたい。

コンミューンをコンテキストに持ち続け、ホール・アース・カタログをデジタルの世界で完成させた男、スティーブ・ジョブズ。

1984年にビッグブラザーにハンマーを投げつけ世界を変えた男の遺志は無限に拡がるデジタル・コンミューンの中で確実に引き継がれている。




2011年12月28日水曜日

上山集楽、山の上の雲人たち。


2011年も最終局面だ。
今年は1868年の明治維新、1945年の敗戦に匹敵する節目の年として歴史に残るだろう。年の終わりにコンテキスター、フミメイとして1年の文脈をサマリーしておく必要がある。

2011年、僕は上山集楽とともにあった。
集落、集まって落ちるところではなく、集楽、メリーが集まるところ。
岡山県美作市上山はまさにMerry Togetherな地域である。

山の上の雲人(くらうど)たちは上山のさいぼう庵といちょう庵をベースにして、風とゆききし雲からエネルギーをもらいつつ、情報発信と百商発力を続けている。
僕を含めてひ弱な都人(みやこびと)たちは上山に行くことにより地宝のお裾分けにあずかることができる。

上山に初めて行ったのは今年の1月だった。その頃、転職で悩んでいた長男といっしょだった。
その後の僕の上山を巡るささやかな冒険は文脈日記に綴ってきた。

年末なので、あらためて時系列的に整理してみよう。

2月7日、Merry Project@上山棚田。水谷孝次さんに出会い、いきなり撮影のディレクションをしてしまった。そんなつもりではなかったのだけど、現場に入ると身体が動く癖が抜けていなかったのですね。
その翌日、小豆島の中山棚田でもメリープロジェクトを実施したあと、塩見直紀さんの松江講演会に絡めて3月生まれのお誕生日会をやりましょ、とかっちにつぶやいてしまった。
その一言はあっという間に3月7日、島根県飯南での村楽LLPの設立準備サミットに繋がっていった。

村楽サミットの前日、妻の実家、松江の野津旅館での楽しい宴会は忘れられない。ボブによれば、後世に「野津屋会談」として語り継がれるそうだ。

そして、その4日後、311が起こった。

3月11日の15時半頃まで僕は原徹郎さんという映像作家の「動画つくりの新レシピ」という草稿の校正作業に集中していた。
妻の友人から電話がかかってくるまで、東北の異変に気がついていなかった。
慌ててテレビをつけると……、それから後はツイッターに張り付いた。

東京にいる長男夫婦のことが気になる。
フクシマがメルトダウンする、という情報は3月12日にはツイッター上に流れてきた。マスコミにはデマだと否定されたが。

3月15日、この時期、妊婦は東京にいるべきではない、という僕の説得に応じて嫁が箕面に疎開してきた。
東京に残された長男は毎週、箕面に帰って来つつ、上山にひとりで行くこともあった。

5月になると、綾部での米つくりが始まる。それでも上山のことは気にかかる。
ボブ編集長の本の最終校正作業もあり、綾部から上山に直行したこともあった。

そして6月25日と26日、村楽LLPキックオフとMerry Forest @美作上山が開催された。
上山発の流れがこの国をメリーランドに変えていきそうですね、と水谷孝次さんと話合いながら雨中で東北の子供たちの傘を開き、みんな笑顔で棚田を歩いて行った。

この日は、協創LLP出版プロジェクトの「愛だ!上山棚田団~限界集落なんていわせない」(吉備人出版)がついについにお目見えした記念すべき日でもある。

7月14日、初孫、杏奈が誕生する。
2011年生まれの子供たちのメリーな未来には村楽が深く関わるような予感がする。

上山での《出来事多様性》はまだまだ続く。
8月20日、上山の雲海上にメリー空彦気球が上がった。2月にメリー海彦山彦空彦というコンセプトとストーリーを妄想したものがまさか実現するとは思わなかった。

上山という集楽はメリーな人財を集める磁力をもっているようだ。
山の上の雲人たちは縁動脈の心臓になりつつある。

その雲人たちの中心にいるかっちと美々の棚田結婚式にからめて11月12日には村楽ガチ討論会に全国から同志が集結した。
さらに上山に住む地元の人たちを巻き込んでの棚田映画上映会。地元民たちからのかっちと美々への祝福メッセージ。感動的な一日だった。
この日には、これも2月以来の課題であったメリーライスがカタチになった。

僕と上山集楽との関わりは「知恵と知恵との物々交換」だと思っている。
僕は自分にできることを集楽に提供する。たとえばメリープロジェクトのイベントプロデュースであり、メリーライス制作ディレクションであり、コンテキスターとしての発言だ。そのかわり、それ以上のものを貰ってきたのが、この1年であった。

12月になってから、僕は電通関西支社の仲間たちと再会していった。
彼らは一様に「文夫さんは変わっていない。ますます元気になっている姿に感動して刺激をもらった、たぶん周囲の人に頼りにされているのでしょうね」などと言ってくれた。ちょっと照れくさかったが、本当に嬉しかった。

僕がこのように元気に脱藩生活を続けられるのも上山集楽の雲人たちとコンテキストが繋がっているからだろう。

本音をちょっと言うと、上山集楽はけっこう過激な集団なので、ときどきしんどいこともあるのですがね。

来年、上山集楽はますます過激度と多様性を深化させようとしている。
さあて、僕はどこまでついて行けるのか。




2011年12月20日火曜日

文脈日記(協和から協創へ)

2年前の秋、僕は中国東北部の旅をした。
満州という国が1932年3月1日から1945年の8月15日まで存在していた地域だ。
なぜ2年前のことを今頃、書いているのか。
それは2012年の展望を考えるためには満州国まで遡る必要がある、と個人的に感じているからだ。

満州には僕の妻もいっしょに行った。妻の家族のコンテキストも満州と深く繋がっていたからだ。満州は「消えた国」だ。そして妻の叔母は「消えた国から帰ってきた」人だ。
一方、僕の祖父、祖母、父、母たちも大連からの引き揚げ者だ。
大連そして長春(新京)、満州の歴史が色濃く残った2つの町を妻と友人の中国通夫妻とともに旅しながら、僕は家族の足跡を探していた。

大連港。うちの家族はすぐ近くに住んでいた。

かつて新京と呼ばれた長春

918を忘れるな、江澤民

偽満皇宮博物院

現在、中国では「偽満州国」と呼ばれている「国家」=共同体の文脈はこの列島の今に繋がっているはずだ。

満州に関する歴史書、評論、小説は無数にある。
満州の一大コンテキストの中では、さまざまな家族があの大地で暮らしを営んでいたはずだ。そして敗戦後の大波に翻弄されたことだろう。

甘粕正彦、石原完爾、李香蘭、岸信介など満州の著名人たちの周辺には無名の家族たちの歴史が埋もれている。
たとえば僕の家族、僕の妻の家族、そして盟友原田基風の家族。
満州をめぐる家族史の登場人物たちは天寿を迎えた方が多い。
彼らの歴史を深く掘り返すことはもう不可能だし、あえてやる必要もないと思う。

ただし、その極私的出来事の連なりは普遍性を持った文脈となる可能性がある。
その文脈を孫たちの世代に繋いでいくのは来年、還暦を迎えるラスト・オキュパイド・チルドレン(LOC)しかできない、と僕は原田基風から煽られている。

2011年、田中フミメイと原田ボブの個人的縁脈がいつのまにか半農半X研究所、村楽LLP、そして協創LLPの大縁脈に繋がった経験からすれば、極私から普遍への通路はそれほど狭いものではない。

かつての満州映画協会社屋

妻の叔母はまだご健在だ。彼女は明治45年生まれ、すなわち百歳になろうとしている。
彼女は1990年に「消えた国から帰ってきた」という小冊子を出版した。
敗戦時にソ連が侵攻してきた満州国の首都、新京(長春)から朝鮮半島を経て島根県の松江市まで引き揚げるまでの体験がみごとな筆致で綴られている。
 夫は当時の満州映画協会(満映)に勤務しつつ出征しており、敗戦時は行方知れずだった。幼い子供たちを連れた彼女は満映理事長、甘粕正彦が手配した列車で1945年8月13日に新京を脱出する。

甘粕正彦は満映社員にとってはやさしいボスだったらしい。
そして叔母の夫は甘粕のお気に入りだったようだ。彼女は新京脱出の直前に子供たちを連れて甘粕理事長と会見した。その模様を「消えた国から帰ってきた」で自筆のイラストにしている。

満映理事室で甘粕理事長に逢う

無名の家族はひょっこりと歴史の中に顔を出す。
甘粕正彦が満映の理事をしていた頃の写真が「甘粕正彦 乱心の曠野」(佐野眞一著)という本の口絵に掲載されている。
主義者殺しとして恐れられていた甘粕が満映の運動会で葉巻を持って柔和な表情を見せている。その横で微笑んでいる男はどうやら彼女の夫らしい。残念ながらこの方は若くして亡くなったため本人に確認することはできないが。



無数の極私的エピソードから普遍を引き出す試みを続けよう。
彼女とその子供たちが引き揚げの途中、朝鮮半島で京城行きの汽車に乗る時にこんなエピソードがある。以下、「消えた国から帰ってきた」から引用してみよう。
【五等国】 
やがて汽車に乗る為ホームに出た。ホームとは名ばかり高く長く盛り土された所だった。汽車の来るのを此処でしばらく待つ事になった。その内、○○(彼女の息子の名前、引用者注)が急にオシッコと云い出した。周囲にはトイレらしい所もなく居場所を離れ汽車が入ってきたら大変とだれも居ないホームの一番端に連れて行き用をたゝせた。コスモスが背高くピンク、白と咲き乱れていた。突然、大きな声が複数で聞こえた。花の向こうの木材の積み重ねた上で5、6人の朝鮮人が一斉にこちらを向いて野次っていた。「あんな所で立小便しやがって、日本国はやっぱり五等国だ。日本の五等国、五等国、五等国」と口々にはやしたてた。二流、三流を飛び越え五等国とは、いかに日本を憎んでいるかをまざまざと感じた。
そうなのだ。キーワードは「五等国」だ。
なぜ敗戦後の日本人は二等でも三等でもなく五等と罵られたのか。

その理由は「五族協和」というスローガンにある。「王道楽土」とともに満州国の建国理念だった。日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人の五族が民族自決の原則に基づき協同して世界平和を目指す、という理念である。

しかしながら、「協和」の現実は理念とはほど遠いものであった。五族には厳然たる差別があり日本人は自らのみを一等国として振るまっていた。その態度が敗戦後の反動となって、日本人は五族の最下層、すなわち「五等国」だ、という声になったのだと思う。

無名の引き揚げ家族に浴びせられた「五等国」という罵りは「五族協和」という理念がいかに虚しいものであったかという普遍を物語っている。
しかしながら、この理念を文字どおり受けとめた若者たちが満州国にいて、彼らの学舎があったことも歴史的事実だ。

その建国大学(建大)は満州国の思想的バックボーンだった石原完爾が新京に設立した「国立大学」だ。満映のすぐそばにあった。
創立当初の建大は、五族が全世界の思想を自由に学び夜を徹して「協和」の現実化を語り合う「王道楽土」だったらしい。

だが、やがて「五族協和」は宙に浮き、赤い夕日の彼方に遠ざかっていく。
理念と現実の落差を建大生たちはどんな気持ちで見ていたのだろうか。
その学生たちの一人が現在、「協創LLP」の代表を務める原田基風の父だったという。

僕たちの家族が「協和の時代」を生きたという歴史的縁脈は、今や「協創する時代」の文脈に繋がろうとしている。
というと、いきなり話がワープしてしまったように見えるだろうか。

しかし今年、2011年を思い起こしてほしい。
大量生産・大量生産の天津神に対して国津神が怒り狂ったような大震災。
そしてフクシマが暴露したこの国の政治社会システムの欺瞞性。
2011年は明治維新、敗戦に匹敵する歴史的な年として記憶され記録される。

昨日、金正日が死亡したことも象徴的なできごとである。彼の父、金日成は満州の地で抗日パルチザンとして戦っていた。満州に絡んだ歴史がもうひとつ大きな転換点を迎えたような気がする。

来年、2012年は満州建国から80周年という節目の年だ。
還暦を迎える僕たちはその80年のうち60年を生きてきた。

今、この時点で父たちが経験した「協和」の理念を「協創する時代」に繋ぐことは「世の中のために働く」という旗印をあげたコンテキスターのミッションだと考える。

311で山河が破れて以来、国家や会社に依存するだけの生き方は限界が来ているように思える。これからは仲間と《協》力しあって、新しい時代を《創》造することが求められているのだ。
競争から協創へ。時代は急旋回している。

1945年の敗戦という《狂》乱の時を経て、《驚》異の戦後復興、団塊世代は《競》争を繰り返し、バブルという《饗》宴を演出し、そして311という《凶》事を経験して迎えようとしている2012年。

来年を《協》創する時代のスタートラインにするために僕たちは微力を尽くさなければならない。そして微力を美力にするためには《協》という漢字が持っている本質に寄り添う必要がある。

すなわち、力をあわせてひとまとめにすれば夢はかなう、ということである。
夢をかなえるための方策は必ずあるはずだ。


2011年11月20日日曜日

文脈日記(村楽ブランドことはじめ)


そして1年が終わろうとしている。
来年は辰年だ。つまり僕たち、ラスト・オキュパイド・チルドレン(LOC)は還暦を迎える。

1952年(昭和27年)、日米講和条約が締結される直前に生まれた「最後の占領された子供たち」が5回目の年男になるわけだ。
それは辰の落とし子が龍になる最後のチャンスかもしれない。
今、来日している国民総幸福の国、ブータンのワンチュク国王はフクシマを訪れてこう言った。

人の中には龍がいる。その龍は自分の内なる人格だ。
龍は経験を食べて育っていく。年を経るごとに龍は大きくなる。
みんな、自分の龍をコントロールすることが大切だ。

占領下の落とし子たちは、来年、還暦LOCドラゴンを制御しつつ世の中のために働きつづけることができるだろうか。

What’s Going On?
辰年がどうなっていくのかは分からない。
でも僕は僕のコンテキストを粛々と繋いでいくしかないのだろう。
村楽LLP、協創LLP、NPO法人英田上山棚田団のコンテキスターとして僕の龍が食べてきた経験を提供していこう。

村楽LLPは新しい展開を始めている。
農を超える農を展開する百商として村楽プロダクトのブランド化を開始した。



MERRY RICE、メリーライス。
メリープロジェクトのご協力で英田上山棚田米のマスコットパックをブランド化して販売することができた。

同志たちが丹精こめて育てたお米の周辺には限りない付加価値がある。
そのストーリーをまとって、僕たちのお米はメリーライスとなる。
7月の文脈日記、「自分のための百姓学」の後半に書いた「農を超える農」のメリーライスが今、現実に目の前にあるのは感動的な光景だ。
コンテキスターの妄想が、ずっしりと存在感のあるミニ米袋になっている。


メリーライスの製造から販売までには多くの仲間たちの力が結集されている。
上山棚田で水路掃除から畦塗り、田植えから草取り、稲刈りからはぜ干し、と汗を流した英田上山棚田団のエッセンスが、このマスコットパックには詰まっている。
そしてメリープロジェクトを推進している水谷孝次さんとバランスのいい米袋のデザインに注力してくれた柄本綾子さんの愛が詰まっている。
電光石火の早業でネット販売サイトを制作してくれた協創LLPの山ちゃんにも感謝だ。

どうか、このメリーライスの周辺価値を認めていただきたい。
この列島の農が農を超えて「超農力」を発揮するために。
そして子供たちの笑顔が未来永劫続くために。




地域おこし協力隊全国連合である「村楽LLP」のプロダクトをブランド化する方法論は、11月12日に美作市で開催された「村楽ガチ討論会」でも検討されている。
「デザイン×農業ブランディング」の分科会に参加した美作市地域おこし協力隊のかっちは言う。

村楽は全国に同志がいる。ということは日本列島の「旬」をブランド化することが可能なはずだ。地域差を文化としてブランド化する道はないだろうか。

村楽は地宝の塊だ。地方には地域の宝が詰まっている。
地宝は山彦と海彦の産物であり、後継者を求めている匠たちの知恵だ。
食べもの、工芸品、アート、技、そして生きる方法論そのものが地宝なのだ。

北から南まで長い列島には「旬」がある。「なう」がある。「旬」が連なる文脈がある。
311でずたずたに切断された「旬」の文脈を村楽としてブランド化していくこと。

そうすれば「旬」は季節の産物という意味合いを超えて「今を生きる」という付加価値を持つことができるかもしれない。

具体的にどう展開していけばいいのかはまだ分からない。コンテキスターひとりの力では無理だ。

だが、急がなくてはならない。うたかたのように消えようとしている地宝も多いはずだ。
映画「森聞き」に登場したカルコ登りの名人、杉本充さんの「これで終わりやな」という淋しそうな表情が忘れられない。杉本さんは吉野川上流、川上村の鮎釣り終焉も経験されている。

杉本充さん


「旬」をブランド化していくこと。そしてそのブランド・コミュニケーションをデザインしていくこと。
そのための基本的な方法論なら、僕の経験値で提供できそうだ。

まずは村楽ブランドの確立だ。「旬」ブランドの傘となるものを構築していく必要がある。これは傘だけにメリープロジェクト、笑顔の傘の力をまたお借りするかもしれない。

「村楽という生き方」に「旬」=「今をメリーに生きる」という付加価値を加えてブランド・ストーリーを展開してみたい。

傘=親ブランドができたら各地域の「今そこにあること」=事実(ファクト)の確認だ。
全国で「旬」ブランドの種を探していく。

メリーライスの場合は「英田上山棚田」というファクトがそこにあった。ファクトはブランドの種だ。

北海道平取町のトマト、二風谷のアイヌ産物、阿智村の清内路かぼちゃ、雲南市のホンモロコ、西粟倉の和紙、日名倉の山女魚、上北山村の虫おくり、大町の地酒、馬路村のゆず、鹿児島硫黄島の海岸露天風呂、全国の鹿肉などなど、すべての天地有情が村楽の子ブランドになる可能性を持っている。

清内路かぼちゃ


とここまでクリエーティブ・ディレクターが企画意図を書いて、営業がクライアントを見つけてくれば、あとはプロダクションのスタッフがなんとかしてくれるのが大手広告代理店の世界だった。

ところがコンテキスターの世界はちがう。
還暦LOCドラゴンの妄想が現実化するためには、村楽LLPメンバーである《自立した個の群れ》たちが知恵の物々交換をして、自分たちの力でものごとを前に進めていく必要がある。

僕たちには金融資本はない。でも豊かな自然資本と信頼資本はある。
同志の知恵がある。連帯がある。
そして知恵と連帯を拡散するソーシャルメディアがある。

自分がやりたいことをまず自分で突き詰めて、それを持続する志を持てば、「オモロイ」は「カタチ」になっていく。

小さな住民代理店は足腰の弱った内なる龍を叱咤激励しながら、そのお手伝いをしていこう。

2011年11月3日木曜日

里山研究庵 Nomad

ここのところ、また縁脈が拡がりつつある。
時代が新しい流れを切に求めているから、その流れが大きな河になりつつあるのかもしれない。

その潮流の中で、現在、台湾ロングステイ中の半農半X研究所/塩見直紀さんから、素晴らしいDVDをお借りした。

「四季・遊牧~ツェルゲルの人々」
ダイジェスト版(前・後編 2枚組 各1時間40分)
監督・撮影:小貫雅男
編集:伊藤恵子
発売元:里山研究庵 Nomad


1992年の秋から1年間、草原と遊牧の国、モンゴルで「地域おこし」を模索するツェルゲル村に住み込んで撮影された貴重な映像だ。

1989年にはベルリンの壁が崩壊している。その3年後、この地域社会にも旧体制からの脱却を志す動きが加速していた。
国と地域、管理と自立、という対立構造はイデオロギーを問わずこの星の緊急課題になっているようだ。

社会主義集団経営「ネグデル」から遊牧民協同組合「ホルショー」へ。
草原で太陽のリズムと山羊の生理とともに生きているノマドたちのトライアルが、小貫監督と伊藤女史の素朴な語りで綴られていく。

映像は荒削りながら、充分にモンゴルの叙情をとらえている。
だが、この映像のすばらしさは、自立を目指すストーリーを描ききった叙事にある。

そして、その叙事を語る伊藤女史も最初はチェルゲル村民から「わかもの、ばかもの、よそもの」扱いを受けていたのかもしれない。
しかしながら、この映像スタッフたちは大地と生きる村民に行動と意識をチューニングすることにより、見事なエンド・ロールを生み出した。

それがどんな「国家」であろうとも
この「地域」の願いを
圧し潰すことはできない。 
歴史がどんなに人間の思考を
顛倒(てんとう)させようとも
人々の思いを
圧し潰すことはできない。 
人が大地に生きる限り。 
春の日差しが
人々の思いが
やがて根雪を溶かし
「地域」の一つ一つが花開き
この地球を覆い尽くすとき
世界はかわる。 
人が大地に生きる限り。

この叙事詩は、この列島の「村楽」にもそのまま当てはまりそうだ。

原作の映像は三部作全6巻で7時間40分あるという。
このダイジェスト版は3時間20分だが、時間を忘れて見てしまう吸引力を持っている。

さて近いうちに里山研究庵 Nomad を訪問せねば。


《以下は2011729日に、フェースブックに書いた同じスタッフの本に関するノートです。
こちらにも再掲載しておきます


「菜園家族・山の学校」小貫雅男・伊藤恵子



またひとつ、すごいコンテキストに出会った。
「菜園家族・山の学校」

主宰、小貫雅男さんと研究員、伊藤恵子さんの共著だ。
とても薄いブックレットだが、コンテンツは詰まっている。
半農半X研究所の主任研究員、ボブ基風からもらった。

ニワカ百姓の僕は、今、身体を動かしつつ、共同体と地域と農に関する理論武装をしている。
「農を越える農」とは何か。「村楽」と「町楽」はいかにして連帯するか。
コンテキスターの課題は多い。
すべての文脈は通底しているはずだ。

里山研究庵は滋賀県、琵琶湖東岸に注ぎこむ犬上川の上流にある。
犬上川は30歳のとき、僕が始めてアマゴを釣った川だ。この水系にはよく通った。

「菜園家族・山の学校」は廃校になった保育園をベースにしているという。
くわしい内容は、WEBサイトにアクセスしてほしい。
このブックレットも販売している。

僕がこのノートで言いたいのは、「理論」と「実践」だ。
マルクス=エンゲルスは「共産党宣言」という薄っぺらい本でマルキシズムの理論を構築した。それは素晴らしい脚本だった。しかしながらその脚本を正しく演じる舞台も役者も監督も、結局のところ、この星には現れなかった。

というようなことを、かつて東ヨーロッパ上空を飛行しているときに、ある映像監督から示唆されたことがある。

小貫さんも同趣旨のことを言っている。

19世紀「社会主義」理論は、生産手段を社会的な規模で共同所有することによって、資本主義の矛盾を克服しようとします。 
しかし、20世紀に入ると、その実践課程において、人々を解放するどころか、かえって「個」と自由は抑圧され、「共生」が強制され、独裁強権的な中央集権化の道を辿ることになりました。
人類の壮大な理想への実験は、結局、挫折に終わったのです。そして、いまだにその挫折の本当の原因を突き止めることができず、新たなる未来社会論を見出せないまま、人類は今、海図なき時代に生きているのです。

小貫さんが里山研究庵で構築しようとしているのは、大量生産・大量消費の時代に終止符を打つ理論らしい。
自然循環型共生社会を経て、人類究極の夢である高度自然社会へと至る道を模索している、という。

311以降、その舌鋒は鋭くなっているのがWEBサイト上で見てとれる。
その実践のカタチがどうなっているのかは、犬上川に行ってみるのが一番早いだろう。

理論=コンテキスト=ストーリーと実践=経験=現場の両輪が噛み合っていけば、この国は確実に変わっていく。

国破れて山河なし どっこい菜園家族は生きてゆく

2011年10月25日火曜日

村楽と町楽「口より土だ」


この列島の歴史的転換点となった2011年も一気に年末になだれ込もうとしている。
311の直前に設立サミットを開催した村楽LLPも、今年の総決算に向けて動いている。

村楽のコンテキスターとしては、この時期にあらためて、「村楽」と「町楽」の文脈を整理しておきたい。来年から「村楽」は一気にブレイクしていく予感もするので。

村楽LLPとは、全国地域おこし協力隊連合である。
各地で活躍する地域おこし協力隊の経験値と知見、問題と解決を共有するネットワークだ。
そのコンセプトは以下に集約される。

みんなでMERRYな村づくり!
全国の地域おこし協力隊を中心にした生業(百商&百匠)づくりで、
村から私たちの未来に繋がる「百笑」をつくりだそう!
村楽LLPは地宝の可能性と未来を信じて現場で活動する同志を、
志縁サポートする有限責任事業組合です。

この組織はまさにオープンでフラットだ。
一点に集中する場所を持たないインターネットの申し子ともいえる。
今のところ代表と有志による役割分担が決められているだけで、リアルな事務所などは存在しない。

それでも「村楽」は燎原の火のごとく、全国にネットワークを拡大している。
このうねりが生じたのは、この組織が徹底した現場至上主義だからである。

上から指令が出て、末端の組織構成員が駒として動く、というような組織とは対極にあるのが村楽LLPである。

都市から地域に住民票を移して活動する地域おこし協力隊は、それぞれの現場でそれぞれのスタンスで活動を続けている。
そして、それぞれの問題がある。その問題は各現場にしか解決方法はない。
ただし悩みごとを村楽LLPにぶつけることによって解決の糸口を見つけることはできる。
facebook上で情報と本音のやりとりを行い、リアルな場で顔を合わせて真摯に話合う。
リアルとバーチャルのスパイラルが善循環しているのが、「村楽」の現状だ。

次のステップはヨコに繋がった現場の声をタテ割の行政に届けていくことだろう。

圧力団体ではなく、現場力を最大化する「発力団体」として。

現場の繋がりの根底には各地の土がある。
地域おこしのやりかたは様々なようだが、百商の生業は土に近いところで成り立っているのは間違いない。口で能書きだけをたれても繋がりは深化しない。

村楽の情報ネットワークでは、稲刈りの季節には、各地で刈った稲を天日干しする様子が伝わってくる。それぞれの土と風の薫りが伝わってくる。風土というのは、こういうことだったのだ。





一方、「町楽」のコンセプトは以下である。

太陽の光は町にも村にも平等に降り注ぎます。
メリーな志があれば、ビルの屋上でも 町を楽しむメリーファーミングは可能です。
町という漢字の中には「田」というパーツがありました。
町楽は、都会にも「村的楽しみ」を 提供します。
村楽と連帯した 土と町人(まちびと)のメリーな志が集まった空間が「町楽」です。

「村楽」は地方と地方の繋がりをつくるLLPという組織だ。
「町楽」は都市と地方の繋がりの基盤となる空間だ。

村から町に人が集まり、大量生産、大量消費を礼賛した時代は 確実に終わった。
かつての人の流れは逆転した。今や町が村にラブコールを送り、町は地域おこしを志す若者の供給源になっている。

村人と町人の関係が逆転しようとしている時代に、都市で生業を続けるのは大変なことだ。
そこに「町楽」という志が集まる空間が増えて、「村楽」とのコラボレーションが強化されていけば、「日本メリーランド計画」は一歩ずつ前進していくはずだ。



そして「町楽」においても重要なポイントはまずは土に触れることである。
現在、「町楽」のベースは六本木のMERRY GARDEN 屋上農園だ。
先日、ここで「村楽&町楽」収穫祭を実施したときも、参加メンバーがまずは土に触れることで空間の雰囲気ががらりと変わった。
土を通じて志が手から手に伝わっていく感覚を持ったのは僕だけだろうか。

町では口先だけで生きていくことも場合によっては可能である。
だが、町楽でも、まずは土に触れてほしい。

混迷を深めるこの列島には論客が輩出している。
その中にあって、駆け出しコンテキスターの僕は、村楽と町楽の文脈を繋ぐ上で確信していることがある。

口より土だ。

2011年10月6日木曜日

文脈日記(草莽の士、高橋公さん)


1970年4月、僕は早稲田大学に入学した。
そこに大先輩、ハムさんがいた。
早大全共闘、反戦連合のハムさんがいた。
現在はふるさと回帰支援センターの専務理事であり事務局長の高橋公さんだ。

高橋公さん、本名はひろしだ、ということをつい最近になって知った。
僕たちはみんな「公」の字からハムさんと呼んでいる。

ハムさんのことは忘れていた。
意識の奥深いところに押し込めていた、というのが正確な言い方だが。

ところが、昨年、電通を脱藩する直前に、「農村六起プロジェクト」の新聞広告で久しぶりにハムさんのお顔を見た。

農山漁村が抱える社会的課題を、1次、2次、3次産業を効果的に結合・融合した6次産業(1×2×3=6)によって解決していく。

菅原文太さんとの対談広告を見て、いつかハムさんと繋がるような気もしていた。


今年、綾部で田植えをしている頃、盟友、原田ボブに連れられて伊丹のフレンズという本屋さんに行った。
ここには「半農半X堂」という本屋の中の本屋がある。
半農半X研究所の塩見直紀さんの文脈に連なる本が並べられている棚のことだ。
その文脈棚を眺めて驚いた。
「高橋公」の「兵たちが夢の先」という本の背表紙が目に飛びこんできたのだ。


「おお、ハムさんの本や!」と僕は興奮して手に取った。
聞けば、塩見さんとハムさんは、一度、対談したことがあったらしく、塩見さん経由、ボブの推薦でこの本はここに存在したらしい。
脱藩してコンテキスターという勝手な職能を名乗り、さまざまな縁脈の渦に飛びこんでいるが、まさかこんなに早くハムさんにたどりつくとは思わなかった。

ハムさんは1947年生まれだ。まさに団塊の世代である。

僕とボブの重要なコンテキストにラスト・オキュパイド・チルドレンという世代論がある。
1952年4月28日、日本が占領国でなくなる直前に生まれた子供たち、という意味だ。LOCLast Occupied Children) は、団塊世代とは明らかに違っている。

ハムさんは僕にとって団塊世代の代表選手だ。
電通時代の36年間もさまざまな団塊に揉まれてきた。
が、ハムさんのような人は唯一無二だ。ハムさんはぶれない。

香川県立丸亀高校を卒業して、憧れの東京に出てきた18歳男子は早稲田のキャンパスにいる。正門の柱によじ登ってアジテーションをしている男が見える。それまで早稲田で出会った学生たちとは明らかに見た目がちがう。魚屋のお兄さんのようだ。

それがハムさんだった。
本の表紙、バルコニーの上で皮ジャンを着て微笑んでいる男だ。

アジ演の内容はまったく覚えていない。が、ハムさんが強烈なオーラを放っていたことだけは今でも鮮明に覚えている。

当時の早稲田大学には全共闘運動の最終ステージがかろうじてあった。70年安保闘争というものは、実質的には1969年に終わっていたのだ。
だが、ハムさんのファイティング・ポーズは田舎高校生が想像していた全共闘そのものだった。

丸亀高校の赤い応援団であった僕は、当然、デモに参加する。ただし、早稲田学内の諸事情など何も分からない。ただ、全共闘の残り香をかぐために「ノンセクト・ラジカル」の黒いヘルメットには憧れた。

ハムさんは当時の全共闘の必須アイテムであったヘルメットをあまり被らない人だった記憶がある。
70年の春、早稲田キャンパス内でヘルメットを被らずにデモしていた僕に、自分の黒ヘルをぽんとくれた人がいた。
僕の記憶の中では、それがハムさんであったような気がしてならない。以後、大学を卒業するまで、その黒ヘルは神田川近くの僕の下宿にあった。

大学を卒業してから、この時代のことは封印していた。
でも、一部の団塊世代とはちがって、LOCは燃え尽きていない。

「世の中のために働く」という夢想を持って動き出した時、全共闘のことはいつも頭の片隅にあった。オープンでフラットなタテ型ではない組織体とは全共闘の理想だったような気がする。

僕の「全共闘」は美化されすぎているのかもしれない。
1968年と1969年を実体験した人は、僕が「全共闘」を語るとこう言うだろう。

お前らみたいな「みそっかす」に全共闘の何が分かる、ゲバルトのひとつもしたことがないくせに。

そうなんです。ぼくたちラスト・オキュパイド・チルドレンにはあなたたちのやってきたことが分からない。だからこそ、皆さんに語ってほしいのです。

団塊にぶら下がっていた最後の世代は、ものごとの後始末をする義務がある、団塊文脈を整理整頓するミッションがある、と僕と原田ボブはよく話している。

もう脱藩して1年以上になったので、はっきり書くが、電通にも団塊=全共闘経験者はたくさんいたはずだ。企業戦士たちは黙して語らないが。

だが、ハムさんは語ってくれた。
「兵(つわもの)どもが夢の先」を読んで、僕は僕が入学する以前の早稲田で何が起こっていたのかをはじめて時系列で理解した。

こんなことがあった。
入学してすぐの頃、キャンパス内を歩いていた僕にすっと近づいてきた学生がいる。
彼は問う。
「君は反戦連合のシンパなのか?」
18歳の僕はとびきりの笑顔で答える。
「はい、そうです!」

その学生は憐れむような呆れたような表情で僕から去って行った。
もちろん彼は生え抜きの革マルだったのだろう。
あまりに無邪気なみそっかすはまったく相手にもされなかった。
もしも、当時の僕が早稲田大学内の政治状況をシビアーに理解していたら、こんな対応はできなかっただろう。

当時、僕は「早稲田大学出版事業研究会」というサークルに所属していた。
その出研の先輩たちから「兵(つわもの)たち」の話はよく聞いていた、と思う。

あの頃の僕は今より感受性が強かったはずだが、59歳になりハムさんの本に出会って、ようやくすべてが理解できた気がする。

ハムさんが僕の大先輩であることを塩見直紀さんにお話させていただいてから、不思議なことが起こった。

ハムさんから塩見さんに連絡があって、9月16日に大阪の「ふるさと回帰フェア」で塩見さんが基調講演をすることになったという。

もちろん、僕はハムさんに会いに行った。ハムさんの声を聞きに行った。


ハムさんと塩見さんはお二人とも、「妙に気が合う」と口にされている。
それもそのはずである。

お二人とも「草莽(そうもう)の士」なのだから。

草莽とは、「くさむら、田舎、民間、在野、世間」のこと、と大辞林にある。
草莽の志士とは幕末にあって、変革思想の先駆けとなりヨコのネットワークを構築して世の中を変えていった吉田松陰たちのことである。

塩見直紀さんと高橋公さん、くさむらの中から野火をあげた草莽の士たちの行動様式は311後の重要な指針になると思う。

ハムさんは反戦連合で政治運動をされていたわけではなかったのですね。
ハムさんは塩見さんが言うところのX探しをされていたわけですね。

多くの学生は、理論よりも時代の風潮や戦後社会の矛盾、管理社会の浸透やアメリカ一辺倒のやり方などに反発して全共闘に共鳴したのではないだろうか。言い方を変えれば、全共闘はイデオロギーではなく、行動様式こそが全共闘たるゆえんではないだろうか。  
「兵たちが夢の先」P67

現在、ハムさんは「認定NPO法人ふるさと回帰支援センター」でふるさと残しのための草莽ネットワークを模索されている。そして団塊世代へのアジテーションを続けている。

あれから四十年、時代が変わるかもしれないという予感を感じさせることが、この国には何回かあったように思う。しかし、我らが全共闘の諸君は黙して語らず。何か行動でも起こすのかと思ったが、結局何もなかった。ただ、各地で取り組まれている目新しい活動が起こると、そこにはかつての全共闘運動の経験者が活躍しているケースが多いことも確かだ。しかし、残念ながらそうした運動のネットワーク化はできていない。こうしたネットワークをつくるのが難しいのも事実だ。政治や政治党派によって一度は裏切られたり、だまされたりしている世代であるから、なかなか人を信用しない。まただまされるのではないか、と思ってしまうのだろう。だからといって沈黙を決め込むのは無責任だ。 
 「兵たちが夢の先」P210

今、僕がコンテキスターとして関わっている全国地域おこし協力隊連合=村楽LLP(有限責任事業組合)もまた、この国を変える草莽ネットワークのひとつになる可能性がある。

ふるさと回帰支援センター専務理事の高橋公さんと村楽LLP、微力ながらそのコンテキストを繋いでみよう。
ラスト・オキュパイド・チルドレンとして。

いまや日本という国が崩壊の瀬戸際に追い込まれているといっても過言ではない。二十一世紀に入った今こそ、これからの日本をどのような国として再生するのかを真剣に議論するときに来ていると考える。そのためにも歴史は語り継がれなければならないと思うのである。 
「兵たちが夢の先」P2

これは311後に書かれた文章ではない。2010年の盛夏に書かれたものだ。
ハムさんは、福島県相馬市の出身だ。
フクシマの山河が破れて以来、いまだにふるさとには帰っていないという。


ハムさんはこの本の序文でこう書いている。

あの四十年前の全共闘運動で亡くなられたり、あるいはその影響を受けることによって自らの命を絶った多くの仲間たちのご冥福をお祈りするとともに、この本が戦後の民主教育を受け、生き抜いてきた一人の団塊世代の記録として、国を憂い社会のために生きたいと思う、心ある草莽の士を自負される皆さんの明日に生きるなにがしかの糧になればと愚考する。 
 「兵たちが夢の先」P9

ハムさん、ありがとうございます。
ハムさんのメッセージは僕の明日への糧になりました。

僕自身はとても草莽の士とは言えないけれど、今、この列島には草莽から出て草莽の火付け人になっている志士たちが輩出しつつある。

その動きはもう止まらない。