『反戦平和の詩画人 四國五郎』を読了した。著者は四國光。あの藤原書店が2023年5月30日に発行した。凄い本である。読んだら書きたくなった。
四國五郎と光、父と息子のコンテキストの大枠はつかんでいた。だって、こんな文脈レポートを書いたのだもの。
「四國光、四國五郎を語りつくす」
「神は細部に宿りたまう」という言葉を体現した本だと思う。ポストイットが林立した。ラーゲリーに掲げられた民主の旗のように。大枠ではなく、ほとんど全頁のディテールが愛おしい。
たとえば〈ようかん〉。
1945年8月9日。ソ連軍が満洲國に侵攻した。下級兵士、四國五郎は国境に近い琿春(こんしゅん)で肉弾攻撃隊となる。詳細な戦闘記録が残っている。
八月十四日 負傷兵多く死体はすでに野ざらしなり。川崎(己斐出身同年兵)一大隊へ帰る。ヨウカン一本もらう。
(51頁)
広島出身の兵士、川崎は未完の『戦争詩ノート』に書かれていた「(死に向かう)戦友」ではなかろうか。
「遂にゆくか」生きろとも死ねともえ言わず「手榴弾は あるか?」物入れ垂れるほどあるをニヤリと示し「もはや われに必要なし」とて大いなる羊かん一本を われにくれる
(58頁)
たとえば〈民主運動=反軍闘争〉。
シベリア抑留史は解明されていないことが多い。劇映画『ラーゲリより愛を込めて』に描かれたことだけが真実ではない。
父たちにとって「民主運動」とは、戦争が終了したにもかかわらず収容所内に残った軍隊の縦組織、およびその規律による下級兵士への暴力的制裁を止めさせ、収容所をより民主的に運営するための「反軍闘争」として始まった。収容所の中の民主闘争であり啓蒙運動であり、何よりもまず収容所の中で下級兵士が「生き延びる」ための生存闘争であった。父も含め多くの抑留者が戦後語っているように、もし「民主運動」がなければ、「もっと多くの日本人下級兵士が死に追いやられていただろう」
(76頁)
長い引用をお許しいただきたい。光のテキストは綿密で詳細なので切るに忍びない。
「暁に祈る」本文82頁参照 |
たとえば〈ぐずぐず〉。
たとえば〈継承〉。
私が子供の頃、子供がよくやるように「ぐずぐず」言った時は、ほぼ必ず、こう言われたものだ。「ぐずぐず言いなさんな。ぐずぐず言うたらものごとがいい方向に変わるんなら、どんどんぐずぐず言いなさい。だけどぐずぐず言うて、何もものごとが改善されんのなら、ぐずぐず言うのはやめなさい。ちゃんと言葉で人がわかるように説明しなさい。じゃないと人には伝わらん。そうでしょうが」このセリフは何度言われたかわからない。
(344頁)
本文177頁 |
とにかく、大切なことは戦争という誤った歴史を繰り返さぬために、世代を超えて戦争の記憶を「継承」し続けることだ。「継承」し続けることで、記憶が新たな言葉を獲得し、次の世代に向けて更新されていく。そして新たな行動を生んでいく。「継承」とは、それぞれが出来ることをし続ける、その土壌を作りだすこと。一般的な体験、などない。体験とは、常に個別的で絶対的なもの。唯一無二のものとしてその人個人に内在化され、他人が「継承」などできるものではない。肉親である父の体験ですら、息子である私が「継承」などできはしない。しかし、体験は記憶として蓄積され、その都度新たな意味を与えられ、そして、それが「表現」されるとことで初めて他者と共有化される。未来に生き続ける。それが「継承」の役割だと思う。(378頁)
「はだしのゲン」継承イベント。20234月1日 |
「これは四國五郎の〈評伝〉ではなく、最も近くで多くの時間を過ごしてきた人間による、父の〈観察録〉のようなものだと思っていただきたい」と著者は言っている。
父譲りの観察眼が一人の人間のすべてを書き切った。父であり反戦平和の詩画人である四國五郎。父と息子の関係性は複雑である、と思うのは僕だけであろうか。
父を引き寄せたり、突き放したり、微妙な間を取りつつ書き切った筆力に拍手したい。すごい。
四國光は「自分の中にそれまでに蓄積された父の〈記憶〉を、すべて吐き出して、父に対して自分なりの思いをまとめたい、と思ったのではないか」
「おこりじぞうを巡る物語」の一節を読んだ僕の感想である。
(父は)母や峠三吉から聞いた被爆の惨状、十八歳で死んだ最愛の弟直登の苦悩、そして被爆者が描いた二千枚を超える被爆の実相――自分の中にそれまでに蓄積された他者の被爆の「記憶」を、全て吐き出して、被爆に対して自分なりの思いをまとめたい、と思ったのではないか。
(281頁)
『おこりじぞう』は被曝実相の「ユニバーサルデザイン」だと光はいう。気鋭の歴史学者、藤原辰史は「僕の原点は『おこりじぞう』です」と言った。彼もまた四國光の著書を読み込むことだろう。歴史は大きな物語のみで語ってはならない。
「物語には物語で対抗せよ、というのではいつまでたっても史実を自分の都合の良いストーリーに改変する歴史修正主義の罠から抜け出せない。そうではなく、現実に進行した史実のはざまにあった、当時の大きな物語に接続しえなかった断片を拾い集める必要がある。そのような無数の断片を手にして、ようやく歴史叙述の担い手は安全な位置から歴史を眺める超越的な身ぶりを捨て去ることができるのではないか」
(『歴史の屑拾い』藤原辰史)
2023年2月4日、隆祥館書店にて |
無数の断片を綾なして、神を細部に宿しながら、四國光は本を編んだ。反戦平和の詩画人が家族によって本となった。
四國五郎はより普遍性を得た。息子が出したスルーパスを受けて恒久平和のゴールネットを揺らすのは誰だ。私たち、ひとりひとりの読者ではないだろうか。
これは四國光の「鶴の恩返し」である。
自らの心身を削りながら、言葉をつむぎ美しい本を後世に遺した。文字どおり削った。心臓の大手術に耐え、日々劣化逆行していく政治家たちの蒙昧への憤怒に身を焦がしながら書いた。そのはずである。
誰の何への恩返し?
父と父を支えた広島の市民力への。父と父を育んだ家族への。父が築いた家庭への。そして父の本気の種を継いだ木内みどりへの。
それらすべての文脈への恩返しなのだろう。
2019年6月22日 豊中市にて |
※本書発行後、初めての四國五郎展のお知らせです。
「四國五郎展~シベリア抑留から『おこりじぞう』へ」
会場:安来市加納美術館 島根県安来市広瀬町布部345-27 0854-36-0880
会期:2023年8月5日(土)~10月15日(日)
開館時間:9時~16時30分
休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)
8月6日(日)13時半~15時半、四國光さん講演(布部交流センター)
9月24日(日)13時半~15時、布部交流センターでフリーアナウンサー、石原美和さんによる四國五郎の詩と『おこりじぞう』朗読。伴奏はフリージャズピアニストの歌島昌智さん。
※本文敬称略。本文中の図版は『わが青春の記録』(四國五郎/三人社/2017年12月)より。
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