2023年8月11日金曜日

四國光の「静かな怒り」

 四國光は自分の心にスイッチを入れた。九十分を語りきる。息も絶え絶えになりながら。比喩ではない。PCの右横には酸素缶がある。左のポケットにはニトロ錠剤が入っている。


2023年8月6日。あの日から78年が経過した。
「平和を願い続ける美術館」を標榜する島根県安来市加納美術館で四國光が渾身の講演をする。司会は千葉潮館長。彼女は四國五郎の言葉も展示した。


加納美術館の展示テーマの垂れ幕には五郎の詩が描かれた。画期的なことである。


「私としては、父の果たせなかった最後の仕事を、自らの非才を顧みず、何とか引き継ぎながら形として残したい。そして次の誰かに、父が伝えたいと願った反戦平和の思いを〈継承〉したい。その願いだけで本書を書き繋いでいる」
(『反戦平和の詩画人 四國五郎』373頁)

四六版440頁の大著『反戦平和の詩画人 四國五郎』の最終パートで光はこう書いている。


〈継承〉するためには〈感動〉が必要である。「感じて動くこと」。四國光の九十分は聞く者を確かに感動させた。
父の表現物が反戦平和を願う人々の背中を押したように、息子の言葉を持ち帰った人々には心の動きがあったはずだ。


何度も話を聞いている僕も感動した。だから、また文脈レポートを書いている。

さらに、僕は8月5日から10月15日まで開催中の四國五郎展【シベリア抑留から『おこりじぞう』へ】の勝手応援団に手を挙げていた。


宇沢弘文がいうところの「山の陰」で四國五郎展を開催し、四國光が初めて出雲に来るなら、出雲文脈研究家としては動かざるを得ない。
出雲市、松江市、境港市、米子市、倉吉市、鳥取市から安来市に来てほしい。
島根と鳥取の「知の地域づくりネットワーク」と加納美術館がつながってほしい。全国からも来てほしい。切にそう思う。

さらに、住民代理店フミメイという看板を上げた以上、何かを成し遂げようとする人のアテンドをするのは、あたりまえのことだ。しかも相手は広告代理店でともに仕事をしていた仲間なのだ。


心臓の大手術をして、体調が芳しくない状態を継続していても、四國光は立ち止まらない。本を上梓したら取材が入る。出版後の広報活動も著者には必要になってくる。展覧会と講演会の諸準備、猛暑のなかでの現地への移動……。息が上がらない方がおかしい。


四國光は話し続ける。すぐ横に座って様子を見ていた僕が最も気になるスライドが写し出された。「時を超えた兄弟の対話」の最終仕上げ作業。広島の録音スタジオ。『おこりじぞう』を100回朗読すると宣言していた木内みどり。


「この翌日、亡くなりました」
淡々と言葉を吐き出す。その裏で深く深く呼吸をしていたのかもしれない。


「時を超えた兄弟の対話」は加納美術館二階の和室で常時上映されている。観てください。感じて動いてくれれば制作者たちは喜びます。


講演内容については、最前列で話を傾聴されていた人のフェイスブック投稿を読んでもらいたい。
彼は展示されていた「相生橋」の額縁に刻まれた五郎の文字まで注目していた。


僕があらためて注目したのは「中村さんと須藤嬢」のスケッチである。
1947年にシベリアのナホトカにて描かれたもの。シベリアには日本人女性も抑留されていたという歴史的事実。


命がけでシベリアから持ち帰った画が加納美術館に飾られている。


五郎は晩年、アルツハイマー型認知症を発症した。歴史にもしもはないが、もしも発症しなければ、父は人生最後のライフワーク『シベリアの青春』という詩画集を著したであろう、と息子は自著に書いた。

もしも、父のライフワークが成就していれば、中村さんと須藤さんへの思い、もしかしたら恋情も語られたのかもしれない。
歴史を大きな言葉で語ってはならない。1947年10月11日に、確かにシベリアで青春を生きていた男女を主語にしたナラティブを読みたかった。

未完の『シベリアの青春』、それが見果てぬ夢となったことの無念を遺族と共有する。


四國光が山陰に来たことはほとんどない。ならば、観光をしてもらいたい。観光とは光を観ること。講演の前日、8月5日、オープニングセレモニーを終えた光を加納美術館から連れ出した。

加納美術館から30キロ北上すれば島根原発がある。国宝松江城からは8.5キロの距離。そこは闇であるが、闇を抜けなければ光は観えない。


途中で、四國光にパワーを入れたくなる。出雲はパワースポットに満ちている。でも一箇所でいい。神魂神社裏の磐座に行った。ここは空気感がちがう。涼しい。


「父がつくった大田洋子の句碑に似ている」
そう言うと思った。石の配置が確かに似ている。父がこの場所に来たはずはないのだが。


平和な田園地帯を抜けて、龍の形をした島根半島の首根っこに来た。
島根原発は闇のくせに、あくまでも風光明媚な場所に存在する。


四國光が「静かな怒り」の気配を漂わせた。1号機、2号機、3号機を見下ろす視線はあまり優しくはない。


僕は四國五郎と峠三吉の本を手渡す。二人にも原発を見下ろしていただきたい。1953年3月10日に逝去した峠は『原発詩集』を書くことはなかった。


「島根原発を見た怒りが後押ししてくれた」
講演を終えた光が言う。よかった、僕のアテンドは正しい方向だったようだ。


加納美術館の四國五郎展が順調にスタートした今、反戦平和の詩画人にまつわる別の話も書きたくなった。文脈の神様は時に不思議なことをするのだ。

僕は2016年以来、まこもの文脈研究をして二冊の本を書いた。それとは別の話として四國五郎文脈を追いかけてきたつもりだった。


ところが、である。意外なことに四國五郎はまこも文脈に接続していた。


広島市立中央図書館で、まこもと刻印された本を見たときの驚きは忘れられない。
『ひろしまの歩みとともに~まこも会創立四十周年記念誌』
編集は「広島市退職公務員連盟(まこも会)」発行は1992年10月1日。

同書の冒頭には会名の由来が書かれていた。
広島市役所に永年にわたって勤務した人々で、広島市退職公務員連盟が組織されており、この会を一名「まこも会」といいます。昭和三年以来広島市役所の所在する現在位置は、古くは国泰寺村字真菰と呼称されていた土地であり、その地名に因んで会名としたのです。
広島市役所の職員厚生課に勤務していた四國五郎は、現職時には「まこも会」の世話役をしていたようだ。退職後は当然、「まこも会」に所属した。


1952年10月、日本が占領国ではなくなった直後に発足した「まこも会」と広島まこもについては稿を改めた方がよさそうだ。

見返しには五郎が描いた「元安橋」。原爆投下前、元安川の河原にはまこもが生えていたように思えてならない。

「まこも会四十周年記念誌」には別冊がついていた。「21世紀の夢」というタイムカプセル企画である。そこに68歳の四國五郎も書いていた。


家族も知らなかった五郎の夢(1992年版)を引用しておく。
「ヒロシマの願いの顕現された世紀に」

過去を振り返って驚くのは、地球規模でのすさまじい変化である。特に科学技術面での驚異的な進歩と逆に国家間、民族間等の旧態依然たる関係である。この姿は加速されながら21世紀に持ち越されるだろう。
推測するに、このまま進めば地球資源の枯渇、生態系の破壊、戦争による殺人、生命と地球の破壊によって21世紀の半ばで終末を迎えることになるに違いない。ただし、若し我が国の努力により、平和憲法を持つ国がふえて、国家権力が戦争に訴える愚行をしなくなったならば、地球破壊は先送りされるだろう。そのような平和的共存と友好的国家関係のもとでは、過去の社会主義とは異なる形の、地球規模での計画的生産、計画的資源利用が可能であり、私達の子や孫たちは、真に萬物の霊長にふさわしい世紀を生きることができるだろう。
すでに21世紀に入って23年が経過した現在、人新生の終末時計は限界に近づいている。
我が国は反戦反核の努力をしていない。四國五郎が夢見た「コモンズ」は地球上のどこにも存在しない。地球は猛暑に包まれている。

そのような2023年、それでも彼の子は身体を張っている。
四國五郎という愚直なまでの反戦平和主義者が、かつて広島に生き、自分の戦争体験を通じて、絵と詩で、「絶対に戦争の道を再び歩んではならない。そのために記憶せよ、伝えよ」という極めて根源的でシンプルなメッセージを、ひたすら死ぬまで語り続けた、という事実を、ここに残したいと思います。この拙い記録の目的は、そのひとつのことに尽きます。
(『反戦平和の詩画人 四國五郎』400頁)


※敬称略。一部の写真をKota Hattoriさんからお借りしました。

※お知らせです。
9月24日(日)13:30~15:00に加納美術館では「平和を読む集い」が開催されます。
朗読はフリーアナウンサーの石原美和さん、アコーディオン伴奏はフリージャズピアニストの歌島昌智さん。お越しください。


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