ほいさっさとヘチマのように書けたら、どんなに楽だろうか、と思う。
こんなことを言ったら、忙しい時間を割いて、つたない取材に応じてくれている出雲と石見(いわみ)と伯耆(ほうき)の皆さんに失礼ですね。すみません!
『国つ神と半農半X』は、今年の米作りとシンクロして書いていこうという皮算用をしている。脱稿目標は稲架(はざ)干しが終わる頃とした。
ところが、この世界はあまりに深くて広い。取材を重ねれば重ねるほど、さらに取材したい人が増えてきそうだ。終わりは見えていない。さらに西に行く必要がありそうだ。
「半農半X」という言葉にまつわる考察だけでも十分に深い。そこで(主に)島根県という範囲設定をした。限定をしたつもりだった。
ごぞんじのように島根県は東西に広い。出雲(雲州)と石見(石州)を同一視して語ることに抵抗がある島根県人もいるかもしれない。
雲と石では質量がちがうだがね、などと言い始めたら、古代史に加えて近世史の文脈まで入ってくる。そこまで踏み込むのは無謀だ。
僕の書きたいのは、あくまでも「半農半X」である。そこに「国つ神」という補助線を引くこと。
「国つ神」の息がかかった「半農半X」の事例を取材して文脈を結ぶ試みをすること。その文脈の結び目は綾部の塩見直紀さんである。
あまり地理的なトリビアに囚われるのはやめよう。コンテキスターは大胆に自分で範囲設定をして物語をつくればいいのだ。
ということで、まずは『国つ神と半農半X』の東の境界からだ。ここは迷いがない。
『出雲国風土記』の国引き神話で綱を繋ぎとめた杭とされる伯耆大山(ほうきだいせん)。
大山と美保関を結ぶ綱の真ん中あたりにある鳥取県西伯郡日吉津村(さいはくぐんひえづそん)を、この物語の東端としよう。
すでに日吉津村役場住民課課長でありNPO法人本の学校副理事長でもある前田昇さんの取材もしている。
今月の文脈レポートは、日吉津村から西へ40キロの松江市にある島根県庁から始まる。
島根県農林水産部農業経営課担い手育成第二グループリーダーの田中千之(ちゆき)さん。そして田中さんを紹介してくれた公益財団法人しまね農業振興公社専務理事の松本公一さんの話を聞いた。
県庁の北にある松江城の桜は満開だった。
島根県は全国で唯一、「半農半X」という言葉を使った移住支援制度を推進している。
「いわゆる兼業就農」したいUIターン者のために、就農前の研修と就農後のそれぞれ最長1年間、月額12万円が支給される制度である。
半農半IT、半農半蔵人、半農半猟師、半農半看護士、半農半保育士など、さまざまなXの可能性が試されている。
2015年4月現在、延べ34名の半農半X移住者がいるそうだ。その大多数は島根県の西部で活躍している。島根の半農半Xは雲州よりも石州を好むのか。
半農半Xは「稼ぎつつ家庭を築きつつ」社会を変えていくムーブメントとも言える。
生業(なりわい)をどう成立させるか、という観点も重要だ。
そういう意味では、行政の支援事業としての「半農半X」は心強いことだろう。
「以前は、農業プラスアルファ事業と言っていたのです。それがちょっと衣を変えて、2012年度から半農半X事業と言いだしました。そこで支援金が高くなったのです」
と田中グループリーダーは言う。
きっかけは2011年3月6日だった。東日本大震災の5日前。
塩見直紀さんが初めて島根県で講演をした日。
当時、県庁の農林水産部に勤務していた松本公一さんが動いた。
「農業プラスアルファ事業を拡大する計画を立てていて、どんなネーミングがいいだろうか、とずっと考えていました。塩見さんの講演を聞いて、そのものズバリ、半農半Xという言葉が使えないだろうか、と思ったのです」
以前から塩見さんの本を読んでいたという松本さんは、講演会のあと、塩見さんにお願いに行ったという。
塩見さんの答えは「どうぞどうぞ」だった。僕には、そのときの塩見さんの表情まで見える。半農半X研究所代表のXは「半農半X」という言葉の普及でもあるのだから、断るはずがない。「半農半X」は登録商標ではないのだ。
「ラッキー! よし、この言葉を使おう」
島根の半農半Xは、松本さんの決断で始まった。その後、松本さんは県庁を定年退職したが、後輩たちは着実に路線を引き継いでいる。
「今や、半農半Xは県内で普通に使われています。行政関係者も地元で相談を受ける人も使っています。行政が使えば新聞も使います。これも塩見さんが使っていいと言ってくれたおかげです」
田中グループリーダーが続ける。
「この施策が、たとえば『兼業農家推進事業』という名前だったら受けが悪かったと思います。半農半Xは、能動的に農業を楽しみながら農村に住み続ける誇りを持つ生き方なのでしょうね。島根県はますます半農半X支援を強化していきますよ」
後輩の話に松本さんはうなずく。
文脈家は島根県庁に「半農半X課」という、これもズバリの部署名称まで、できたらすごいことになりますね、と例によって妄想を語る。
松本さんは後輩を叱咤激励した。
名は体を現す。現場に出たら県庁のタテ割りは関係ない。でも、部を越えて動きをひとつにするには大きなパワーが必要だ。さらに大きく「半農半X」という言葉を使うことによって旗振り役の県が先頭を走ることができる。今なら「地方創生」の外圧を利用する手もあるし……。
県庁で取材を終えたあと、僕は須我神社の奥宮に登った。島根の半農半Xについて、その本質を語ってくれた松本さんの言葉を反芻しながら。
行政的固定観念の枠を取り払って、「半農半X」という言葉を導入した松本さんは2004年頃から、「いわゆる有機農業」を島根で推進してきた人でもある。
米作りで言えば、稲架(はざ)干しをする百姓たちに暖かいまなざしを向けてきたのだろう。なんといっても雲州は、奇稲田姫(クシナダヒメ)の時代から瑞穂の国の先駆けだったのだから。
「島根には豊かな自然が残っています。文化的伝統もあります。神話に裏打ちされたものがあります。海や山や川、多様な自然と神楽や田植え囃子などの多様な文化、人を含めて、それらの地域資源を残そうと思うと、言葉としてはやっぱり半農半Xになるのですね」
松本さんの語りは、僕が書こうとしている『国つ神と半農半X』のエッセンスをまとめてくれているように思える。
国つ神は古事記や出雲國風土記の時代から稲作の守り神であった。
そのことを現代の雲州人も意識しているようだ。くぐもった出雲弁では分かりにくいが、八雲山の文学碑には明瞭に綴られている。
句碑に囲まれた登山道を上りきったところに、元祖国つ神夫婦がいた。
須我神社奥宮の祭神は「夫婦岩(みょうといわ」だった。
スサノヲ(須佐之男命)とクシナダヒメ(奇稲田姫)は苔むす岩となって、相変わらず仲良くしている。
こういう場所では勝手にXフォトを撮りたくなる癖が主任研究員にはある。
松本公一さんの話はまだまだ書きたいことがある。
開高健の愛弟子、天野礼子さんと知り合って加藤登紀子さんと繋がったこと。オーガニックコンサートの実行委員会を立ち上げ、県知事を口説いておときさんを島根県の有機農業大使にしたこと……。
僕の縁脈と釣りとの関係性でも興味はつきない。だが、それは『国つ神と半農半X』本体を書くときのお楽しみにとっておこう。
2011年3月6日。塩見さんが松江に来て半農半Xのタネを島根県に蒔いた日。
翌日に「村楽LLP」設立準備サミットを控えて、塩見講演会の後に僕たちが野津旅館で歴史的宴会をした日。
この日、「国つ神の逆襲」が始まった、と勝手に興奮していた文脈家にも様々な出会いがあった。
現在、31歳の酒井聖文さん(まさどん)と初めて会ったとき、彼は雲南市の地域コーディネーターとしてキャンプ場の管理を任されていた。
1984年生まれ。僕の長男の二つ年下だ。刃物の町、岐阜県関市で生まれて横浜の大学卒業後、なんとなくCADメーカーに入った。
2008年のリーマンショックが転機となって、まさどんがたたら(製鉄)の町、雲南市にやってきたのは2010年。
まさどんは、どこかのタイミングで田舎に行きたいと思っていたという。
実は『半農半Xという生き方』を読んでいた。2008年に発刊された新書版だろう。
3月6日に、塩見さんと初めて会ったときの印象をまさどんはこう語る。
「塩見さんってテレビの中の人と同じように偉い先生だと思っていました。でも、いっしょに堀川巡りなんかをしたら、とても気さくな人で、自分のことを庶民代表だと言われてましたね」
まさどんは、塩見さんとはまた会うだろうな、という予感を持ち、その日、講演会場にいた人たちは同志だと思って居心地が良かったという。
横浜の会社で農的生活への憧れを語ったら、現実逃避をするな、目をさませ、と言われていたからだ。
塩見さんが2003年に出した本、『半農半Xという生き方』に導かれて、こっちの世界に来た人がここにもいた。
まさどんは、現在、雲南市の移住支援コーディネーターを卒業して、「おっちラボ」という持続可能な地域を創造するためのNPO法人を立ち上げた。
「学ぶ・創る・働く」を自給できると地域は自立できる、というコンセプトを基にして。
「おっち」とは出雲弁の「おっちら」。「ゆっくり落ち着いて」という意味だ。
まさどんの取材は「おっちラボ」事業の一環として、雲南市木次(きすき)の駅前商店街にできた「三日市ラボ」で行った。地元の人たちもこのコミュニティ・スペースが気になってしかたがないようである。
風の人と土の人を繋ぐこと。町と村を出雲の風土の中で融合させること。まさどんは、それを一生の仕事にしていきたい、と言う。
「横浜から雲南に移住したからこそ、全国の地域で同じ価値観で動いている仲間と繋がることができました。都会にいたときよりも、関係性が拡がっている。島根に来てからの方が東京、大阪の新しい友人が増えました。不思議な感覚です」
Xはクロスであり関係性である。島根のXが出雲大社の注連縄のように編みこまれていくのは自然の流れである。
さらにここ雲南はヤマタのオロチの故郷でスサノオが新婚家庭を持った場所なのだ。
僕は、国つ神のご利益を感じつつ酔いどれ文脈家と化していった。
「あなたにとって究極のXは何ですか?」
僕は取材をした人に、こう訊ねることにしている。
まさどんは考え込む。
半農半地域つくり? 半農半生業(なりわい)つくり?
口より土だ、という生き方をよく分かっているまさどんは、口もうまい。もちろんいい意味で。
この人は町では敏腕営業だったのだと思う。そして村では誠実営業となっている。
まさどんは根っからの営業なのだ、とコンテキスターは断定し、本人に告げる。
「まさどんは半農半接人なのだよ。接人31号……」
半農半接人31号は、毎年、パワーアップしていくことだろう。接人40号になる頃には、少しはましな世の中になっていてほしいものだ、と切に思う。
文脈家は接人31号に、島根取材コーディネーターをしてくれないか、と相談してみる。
島根の半農半Xについて書いてみたいのですけど……と話したとき、塩見さんはすぐに言った。それなら「耕すシェフ」ですね、と。
さすがは半農半X研究所代表である。ユニークな言葉はメモリーされている。
僕も「耕すシェフ」という言葉は気になっているので、まさどん、誰か耕すシェフの知り合いはいないかな? と聞いてみた。
あっ、それならうちの奥さんです。智子は「耕すシェフ」の一期生ですよ。いきなり答えが返ってきた。縁(えにし)をテーマにモノを書こうとしている文脈家はのけぞってしまった。
酒井(安達)智子さん、ともちゃん。邑南町(おおなんちょう)が「A級グルメ立町」という方針を立てたとき募集した「耕すシェフ」の一期生。
2011年7月に、こちらも横浜から邑南町に移住した。そして町営レストランで野菜をつくりつつイタリアンシェフとして修行してきた。
そして、僕は国つ神取材シリーズではじめて、出雲から西へ、石見(いわみ)に踏み込んだ。まだ話を聞いただけで、現地には行ってないが。
島根県邑智郡邑南町は島根県の中央、石州の東部に位置する。
豊かな自然と農の町。風土で味付けをしたFOOD(フード)をA級グルメに仕立てた町。
ともちゃんの言葉を借りれば、「エッジの効いた田舎」である。
元インターネット系広告代理店にいたともちゃんとの会話は僕にマーケティング用語を思いださせてくれた。
ともちゃんの「半農半X」の原点は、山梨県北杜市のリンゴ農家である祖父母の家にあるそうだ。縁側で足をぷらぷらさせながらみんなでお茶する生活が楽しかった。
〝縁側で足をぷらぷらさせる生活〟は彼女の楽園設計となる。
そのためには、まず成長産業である広告とIT技術を学ぼう!
その知見を衰退産業である農業に活かそう!
ともちゃんの戦略はクリアーだった。
そして、311を契機にして一気にライフスタイルを変える。
「耕すシェフ」ミッションを無事終了後、2014年10月に酒井聖文さんと結婚。石州邑南から雲州雲南にベースを移して、幸雲に溶けこもうとしている。
ともちゃんが「半農半X」という言葉に出会ったのは大学生のとき。パーマカルチャーの実践を目指していたときだった。
「日々の暮らしに農が根付いている……。いいな、わたしもこういうのがいいな」と思ったともちゃんは、数年後に自分が半農半X先進県に移住すると想像していただろうか。
ともちゃんは、今、半農半シェフから半農半情報調理人に昇華しようとしている。ダンナを接人と勝手に名付けた文脈家はそう思う。
「島根に来たら、土地が持っている力にびっくりした」と話す元シェフは、調理師免許ではなく旅行業資格取得を選んだ。
島根の空気、人の雰囲気、野菜、酒、水、米、豆、猪、すべてを味わってもらうために、人を呼び込むマーケティング・レシピを着々と下こしらえしているなう!
「島根の皆さんはことごとく歴史を語りますね。自分の土地に関する歴史や神様をよく知っているのにも驚きました。島根に来ることができるのは神様が来ていいよ、と許可してくれた人だけ、と言っている人もいます。ある種の結界を突破できないと、たとえわたしと友達でも島根に来られない、という体験もしましたし……。ここにはたくさんの神様がいるのですね。オオクニヌシがひとりでできる範囲を超えちゃってる」
ともちゃんもどうやら国つ神の申し子になってきたようである。
酒井聖文と安達智子、接人と調理人の夫婦。
二人と話した三日市ラボの奥の間から東へ14キロ行けば、須我神社の奥宮がある。
僕は新時代の国つ神夫婦にも、善きことをなすためのマーケティングを続けてほしいと願う。
雲であろうが石であろうが、山川草木、天地有情に小さな神々が宿るところが国つ神のテリトリーである。そして、その祠(ほこら)には半農半Xがよく似合う。
幸雲の願い橋にはXが連なっていたりする。
今月の文脈レポートは、こげなところでおしまいにするけん。
読んでくれて、だんだん!
だども、ほんとは、まだ言いたいことがあーがね。
今回、僕は須我神社奥宮、八雲山の頂上で大きな発見をしている。登り切ったらいきなり大本教の出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)の名前が飛びこんできたのだ。
「半農半X」という思想を綾部で生みだした塩見直紀さんは、同じく綾部で生まれた大本教にも造詣が深い。
こんなところで、綾部と出雲が密着するとは想像もしていなかった。
こんな出会いがあるから、現場取材はやめられない。
大本教と出雲との関わりは、またいつか文脈レポートをしたいと思います。
そのためには、松江の新しい友達、田中克典(カツー)の助けを借りる必要がありそうですね。
まったく世に文脈のタネは尽きないのであります。
※日吉津村の前田昇さんに関しても次のレポートとさせていただきます。あしからず。
こんなことを言ったら、忙しい時間を割いて、つたない取材に応じてくれている出雲と石見(いわみ)と伯耆(ほうき)の皆さんに失礼ですね。すみません!
『国つ神と半農半X』は、今年の米作りとシンクロして書いていこうという皮算用をしている。脱稿目標は稲架(はざ)干しが終わる頃とした。
ところが、この世界はあまりに深くて広い。取材を重ねれば重ねるほど、さらに取材したい人が増えてきそうだ。終わりは見えていない。さらに西に行く必要がありそうだ。
「半農半X」という言葉にまつわる考察だけでも十分に深い。そこで(主に)島根県という範囲設定をした。限定をしたつもりだった。
ごぞんじのように島根県は東西に広い。出雲(雲州)と石見(石州)を同一視して語ることに抵抗がある島根県人もいるかもしれない。
雲と石では質量がちがうだがね、などと言い始めたら、古代史に加えて近世史の文脈まで入ってくる。そこまで踏み込むのは無謀だ。
僕の書きたいのは、あくまでも「半農半X」である。そこに「国つ神」という補助線を引くこと。
「国つ神」の息がかかった「半農半X」の事例を取材して文脈を結ぶ試みをすること。その文脈の結び目は綾部の塩見直紀さんである。
あまり地理的なトリビアに囚われるのはやめよう。コンテキスターは大胆に自分で範囲設定をして物語をつくればいいのだ。
ということで、まずは『国つ神と半農半X』の東の境界からだ。ここは迷いがない。
『出雲国風土記』の国引き神話で綱を繋ぎとめた杭とされる伯耆大山(ほうきだいせん)。
大山と美保関を結ぶ綱の真ん中あたりにある鳥取県西伯郡日吉津村(さいはくぐんひえづそん)を、この物語の東端としよう。
すでに日吉津村役場住民課課長でありNPO法人本の学校副理事長でもある前田昇さんの取材もしている。
今月の文脈レポートは、日吉津村から西へ40キロの松江市にある島根県庁から始まる。
島根県農林水産部農業経営課担い手育成第二グループリーダーの田中千之(ちゆき)さん。そして田中さんを紹介してくれた公益財団法人しまね農業振興公社専務理事の松本公一さんの話を聞いた。
県庁の北にある松江城の桜は満開だった。
島根県は全国で唯一、「半農半X」という言葉を使った移住支援制度を推進している。
「いわゆる兼業就農」したいUIターン者のために、就農前の研修と就農後のそれぞれ最長1年間、月額12万円が支給される制度である。
半農半IT、半農半蔵人、半農半猟師、半農半看護士、半農半保育士など、さまざまなXの可能性が試されている。
2015年4月現在、延べ34名の半農半X移住者がいるそうだ。その大多数は島根県の西部で活躍している。島根の半農半Xは雲州よりも石州を好むのか。
半農半Xは「稼ぎつつ家庭を築きつつ」社会を変えていくムーブメントとも言える。
生業(なりわい)をどう成立させるか、という観点も重要だ。
そういう意味では、行政の支援事業としての「半農半X」は心強いことだろう。
「以前は、農業プラスアルファ事業と言っていたのです。それがちょっと衣を変えて、2012年度から半農半X事業と言いだしました。そこで支援金が高くなったのです」
と田中グループリーダーは言う。
きっかけは2011年3月6日だった。東日本大震災の5日前。
塩見直紀さんが初めて島根県で講演をした日。
当時、県庁の農林水産部に勤務していた松本公一さんが動いた。
「農業プラスアルファ事業を拡大する計画を立てていて、どんなネーミングがいいだろうか、とずっと考えていました。塩見さんの講演を聞いて、そのものズバリ、半農半Xという言葉が使えないだろうか、と思ったのです」
以前から塩見さんの本を読んでいたという松本さんは、講演会のあと、塩見さんにお願いに行ったという。
塩見さんの答えは「どうぞどうぞ」だった。僕には、そのときの塩見さんの表情まで見える。半農半X研究所代表のXは「半農半X」という言葉の普及でもあるのだから、断るはずがない。「半農半X」は登録商標ではないのだ。
「ラッキー! よし、この言葉を使おう」
島根の半農半Xは、松本さんの決断で始まった。その後、松本さんは県庁を定年退職したが、後輩たちは着実に路線を引き継いでいる。
「今や、半農半Xは県内で普通に使われています。行政関係者も地元で相談を受ける人も使っています。行政が使えば新聞も使います。これも塩見さんが使っていいと言ってくれたおかげです」
田中グループリーダーが続ける。
「この施策が、たとえば『兼業農家推進事業』という名前だったら受けが悪かったと思います。半農半Xは、能動的に農業を楽しみながら農村に住み続ける誇りを持つ生き方なのでしょうね。島根県はますます半農半X支援を強化していきますよ」
後輩の話に松本さんはうなずく。
文脈家は島根県庁に「半農半X課」という、これもズバリの部署名称まで、できたらすごいことになりますね、と例によって妄想を語る。
松本さんは後輩を叱咤激励した。
名は体を現す。現場に出たら県庁のタテ割りは関係ない。でも、部を越えて動きをひとつにするには大きなパワーが必要だ。さらに大きく「半農半X」という言葉を使うことによって旗振り役の県が先頭を走ることができる。今なら「地方創生」の外圧を利用する手もあるし……。
県庁で取材を終えたあと、僕は須我神社の奥宮に登った。島根の半農半Xについて、その本質を語ってくれた松本さんの言葉を反芻しながら。
行政的固定観念の枠を取り払って、「半農半X」という言葉を導入した松本さんは2004年頃から、「いわゆる有機農業」を島根で推進してきた人でもある。
米作りで言えば、稲架(はざ)干しをする百姓たちに暖かいまなざしを向けてきたのだろう。なんといっても雲州は、奇稲田姫(クシナダヒメ)の時代から瑞穂の国の先駆けだったのだから。
「島根には豊かな自然が残っています。文化的伝統もあります。神話に裏打ちされたものがあります。海や山や川、多様な自然と神楽や田植え囃子などの多様な文化、人を含めて、それらの地域資源を残そうと思うと、言葉としてはやっぱり半農半Xになるのですね」
松本さんの語りは、僕が書こうとしている『国つ神と半農半X』のエッセンスをまとめてくれているように思える。
国つ神は古事記や出雲國風土記の時代から稲作の守り神であった。
そのことを現代の雲州人も意識しているようだ。くぐもった出雲弁では分かりにくいが、八雲山の文学碑には明瞭に綴られている。
をちこちの稲架に谺し祭笛
里神楽神舞ふ稲穂鬢に挿しそして国つ神もいた。この句には葦原中つ国の百姓の喜びが満ちている。
稲刈って夜は神楽の国津神
句碑に囲まれた登山道を上りきったところに、元祖国つ神夫婦がいた。
須我神社奥宮の祭神は「夫婦岩(みょうといわ」だった。
スサノヲ(須佐之男命)とクシナダヒメ(奇稲田姫)は苔むす岩となって、相変わらず仲良くしている。
こういう場所では勝手にXフォトを撮りたくなる癖が主任研究員にはある。
松本公一さんの話はまだまだ書きたいことがある。
開高健の愛弟子、天野礼子さんと知り合って加藤登紀子さんと繋がったこと。オーガニックコンサートの実行委員会を立ち上げ、県知事を口説いておときさんを島根県の有機農業大使にしたこと……。
僕の縁脈と釣りとの関係性でも興味はつきない。だが、それは『国つ神と半農半X』本体を書くときのお楽しみにとっておこう。
2011年3月6日。塩見さんが松江に来て半農半Xのタネを島根県に蒔いた日。
翌日に「村楽LLP」設立準備サミットを控えて、塩見講演会の後に僕たちが野津旅館で歴史的宴会をした日。
この日、「国つ神の逆襲」が始まった、と勝手に興奮していた文脈家にも様々な出会いがあった。
現在、31歳の酒井聖文さん(まさどん)と初めて会ったとき、彼は雲南市の地域コーディネーターとしてキャンプ場の管理を任されていた。
1984年生まれ。僕の長男の二つ年下だ。刃物の町、岐阜県関市で生まれて横浜の大学卒業後、なんとなくCADメーカーに入った。
2008年のリーマンショックが転機となって、まさどんがたたら(製鉄)の町、雲南市にやってきたのは2010年。
まさどんは、どこかのタイミングで田舎に行きたいと思っていたという。
実は『半農半Xという生き方』を読んでいた。2008年に発刊された新書版だろう。
3月6日に、塩見さんと初めて会ったときの印象をまさどんはこう語る。
「塩見さんってテレビの中の人と同じように偉い先生だと思っていました。でも、いっしょに堀川巡りなんかをしたら、とても気さくな人で、自分のことを庶民代表だと言われてましたね」
まさどんは、塩見さんとはまた会うだろうな、という予感を持ち、その日、講演会場にいた人たちは同志だと思って居心地が良かったという。
横浜の会社で農的生活への憧れを語ったら、現実逃避をするな、目をさませ、と言われていたからだ。
塩見さんが2003年に出した本、『半農半Xという生き方』に導かれて、こっちの世界に来た人がここにもいた。
まさどんは、現在、雲南市の移住支援コーディネーターを卒業して、「おっちラボ」という持続可能な地域を創造するためのNPO法人を立ち上げた。
「学ぶ・創る・働く」を自給できると地域は自立できる、というコンセプトを基にして。
「おっち」とは出雲弁の「おっちら」。「ゆっくり落ち着いて」という意味だ。
まさどんの取材は「おっちラボ」事業の一環として、雲南市木次(きすき)の駅前商店街にできた「三日市ラボ」で行った。地元の人たちもこのコミュニティ・スペースが気になってしかたがないようである。
風の人と土の人を繋ぐこと。町と村を出雲の風土の中で融合させること。まさどんは、それを一生の仕事にしていきたい、と言う。
「横浜から雲南に移住したからこそ、全国の地域で同じ価値観で動いている仲間と繋がることができました。都会にいたときよりも、関係性が拡がっている。島根に来てからの方が東京、大阪の新しい友人が増えました。不思議な感覚です」
Xはクロスであり関係性である。島根のXが出雲大社の注連縄のように編みこまれていくのは自然の流れである。
さらにここ雲南はヤマタのオロチの故郷でスサノオが新婚家庭を持った場所なのだ。
僕は、国つ神のご利益を感じつつ酔いどれ文脈家と化していった。
「あなたにとって究極のXは何ですか?」
僕は取材をした人に、こう訊ねることにしている。
まさどんは考え込む。
半農半地域つくり? 半農半生業(なりわい)つくり?
口より土だ、という生き方をよく分かっているまさどんは、口もうまい。もちろんいい意味で。
この人は町では敏腕営業だったのだと思う。そして村では誠実営業となっている。
まさどんは根っからの営業なのだ、とコンテキスターは断定し、本人に告げる。
「まさどんは半農半接人なのだよ。接人31号……」
半農半接人31号は、毎年、パワーアップしていくことだろう。接人40号になる頃には、少しはましな世の中になっていてほしいものだ、と切に思う。
文脈家は接人31号に、島根取材コーディネーターをしてくれないか、と相談してみる。
島根の半農半Xについて書いてみたいのですけど……と話したとき、塩見さんはすぐに言った。それなら「耕すシェフ」ですね、と。
さすがは半農半X研究所代表である。ユニークな言葉はメモリーされている。
僕も「耕すシェフ」という言葉は気になっているので、まさどん、誰か耕すシェフの知り合いはいないかな? と聞いてみた。
あっ、それならうちの奥さんです。智子は「耕すシェフ」の一期生ですよ。いきなり答えが返ってきた。縁(えにし)をテーマにモノを書こうとしている文脈家はのけぞってしまった。
酒井(安達)智子さん、ともちゃん。邑南町(おおなんちょう)が「A級グルメ立町」という方針を立てたとき募集した「耕すシェフ」の一期生。
2011年7月に、こちらも横浜から邑南町に移住した。そして町営レストランで野菜をつくりつつイタリアンシェフとして修行してきた。
そして、僕は国つ神取材シリーズではじめて、出雲から西へ、石見(いわみ)に踏み込んだ。まだ話を聞いただけで、現地には行ってないが。
島根県邑智郡邑南町は島根県の中央、石州の東部に位置する。
豊かな自然と農の町。風土で味付けをしたFOOD(フード)をA級グルメに仕立てた町。
ともちゃんの言葉を借りれば、「エッジの効いた田舎」である。
元インターネット系広告代理店にいたともちゃんとの会話は僕にマーケティング用語を思いださせてくれた。
ともちゃんの「半農半X」の原点は、山梨県北杜市のリンゴ農家である祖父母の家にあるそうだ。縁側で足をぷらぷらさせながらみんなでお茶する生活が楽しかった。
〝縁側で足をぷらぷらさせる生活〟は彼女の楽園設計となる。
そのためには、まず成長産業である広告とIT技術を学ぼう!
その知見を衰退産業である農業に活かそう!
ともちゃんの戦略はクリアーだった。
そして、311を契機にして一気にライフスタイルを変える。
「耕すシェフ」ミッションを無事終了後、2014年10月に酒井聖文さんと結婚。石州邑南から雲州雲南にベースを移して、幸雲に溶けこもうとしている。
ともちゃんが「半農半X」という言葉に出会ったのは大学生のとき。パーマカルチャーの実践を目指していたときだった。
「日々の暮らしに農が根付いている……。いいな、わたしもこういうのがいいな」と思ったともちゃんは、数年後に自分が半農半X先進県に移住すると想像していただろうか。
ともちゃんは、今、半農半シェフから半農半情報調理人に昇華しようとしている。ダンナを接人と勝手に名付けた文脈家はそう思う。
「島根に来たら、土地が持っている力にびっくりした」と話す元シェフは、調理師免許ではなく旅行業資格取得を選んだ。
島根の空気、人の雰囲気、野菜、酒、水、米、豆、猪、すべてを味わってもらうために、人を呼び込むマーケティング・レシピを着々と下こしらえしているなう!
「島根の皆さんはことごとく歴史を語りますね。自分の土地に関する歴史や神様をよく知っているのにも驚きました。島根に来ることができるのは神様が来ていいよ、と許可してくれた人だけ、と言っている人もいます。ある種の結界を突破できないと、たとえわたしと友達でも島根に来られない、という体験もしましたし……。ここにはたくさんの神様がいるのですね。オオクニヌシがひとりでできる範囲を超えちゃってる」
ともちゃんもどうやら国つ神の申し子になってきたようである。
酒井聖文と安達智子、接人と調理人の夫婦。
二人と話した三日市ラボの奥の間から東へ14キロ行けば、須我神社の奥宮がある。
僕は新時代の国つ神夫婦にも、善きことをなすためのマーケティングを続けてほしいと願う。
雲であろうが石であろうが、山川草木、天地有情に小さな神々が宿るところが国つ神のテリトリーである。そして、その祠(ほこら)には半農半Xがよく似合う。
幸雲の願い橋にはXが連なっていたりする。
今月の文脈レポートは、こげなところでおしまいにするけん。
読んでくれて、だんだん!
だども、ほんとは、まだ言いたいことがあーがね。
今回、僕は須我神社奥宮、八雲山の頂上で大きな発見をしている。登り切ったらいきなり大本教の出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)の名前が飛びこんできたのだ。
「半農半X」という思想を綾部で生みだした塩見直紀さんは、同じく綾部で生まれた大本教にも造詣が深い。
こんなところで、綾部と出雲が密着するとは想像もしていなかった。
こんな出会いがあるから、現場取材はやめられない。
大本教と出雲との関わりは、またいつか文脈レポートをしたいと思います。
そのためには、松江の新しい友達、田中克典(カツー)の助けを借りる必要がありそうですね。
まったく世に文脈のタネは尽きないのであります。
※日吉津村の前田昇さんに関しても次のレポートとさせていただきます。あしからず。
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