2012年2月29日水曜日

文脈日記(復興から見えるあなたの未来)

2月17日から20日、はじめて被災地に入った。
遅いと言われたら、そうですね、と応えるしかない。311以来、多くの震災情報に接して自分なりのキュレーションをしてきた。

なのに、なかなか被災地に行く踏ん切りがつかなかった。

怖かったのだ、と思う。
行くと引き返すことができない。物理的に帰ってこれない、という意味ではなく心が帰ってこれない、と思っていたのだ。
しかしながら、フミメイと呼ばれ始めて一年以上が経ち、自分なりのアンガージュマン(社会的自己投企)を続けてきた今となって怖がってもしかたがない。

そもそも心の帰る場所ってどこだ?

地球上のどこにあっても僕の心は「ぼんやりした不安」の中で浮遊し続けるしかない。

踏ん切りをつけるなら今だ。
そして被災地に行くなら、やはり水谷孝次さんとともに行きたい。

この現場に行って水谷さんのお手伝いをすることに決めた。

さらに踏ん切りに加速をつけてくれたことがある。
2月26日に「復興から見えるあなたの未来~愛の反対は無関心である」というイベントを協創LLPと信頼資本財団の共催で実施することが決定した。
そこでの現場報告をするためにも東北に行くべきだった。



まだまだ東北の被災地に行ったことがない人は多いだろう。
僕自身もこの時期になってから、わずか4日間の経験をしただけだ。
311から1年が経過した現時点では被災地に行くことが復興のすべてではないはずだ。
自分の現場で自分の未来を復興することが被災地の復興にもつながると思う。

この列島の復興現場では様々な出来事が渦巻いている。
人は「出来事多様性」の中で、それぞれの事情を抱えて生きている。
それぞれの日常性の中で想像力と創造力だけは失わずに「足が絡まっても踊り続ける」のが自分に何ができるかを復興する道のはずである。

これが「復興から見えるあなたの未来」全員参加討論会を経験した僕の実感だ。
参加者たちの未来を見るための意思を持続するために、今もfacebook上で討論は続いている。




そして僕は自分の志を持続させるためにも僕の被災地レポートを書きたいと思う。

そこに行く前にまず自分の立ち位置を明確にしようと決めた。
僕のそれはメリープロジェクトとマイファームだ。
まずは東松島の仮設住宅で笑顔の傘を開くお手伝いをすること。
それからマイファームの一員として西辻一真社長が志縁している「しあわせきいろプロジェクト」を見てくること。

2月17日、アプローチは仙台空港からだった。
レンタカーを借りて方向音痴の僕は右も東も分からないまま走り出す。

まずは閖上(ゆりあげ)に行きたかった。
昨年の3月13日にここで撮影されたガレキの前で膝を抱えて泣いている女性の写真が忘れられなかった。

仙台空港から海に向かって10分ほど走ると閖上港のそばには広大な更地が展開している。

ずっと映像や写真で被災地を見てきた。それはフレームで切り取られた世界だ。そのフレームを切った撮影者の意図の中で被災地を見てきたわけになる。
あるがままにフレームなしで目の前の光景を見る時、感じることは人それぞれだろう。

何もない。つまり片付いている。更地を見てそう感じる人もいていいはずだ。



何もない。つまり底なしの虚無がある。僕はそう感じた。


ただしこれは僕の視座だ。僕のフレームで切り取った光景だ。自分のまなざしを押し売りする気はまったくない。そもそもいちばん悲惨な光景を僕は見ていないのだから。





翌日は東京から来る水谷さんと東松島市野蒜(のびる)のかんぽの宿で待ち合わせをしていた。風光明媚のシンボルであったと思われる建物は青空と強風の中で喪失感を宿している。


東松島市は市街地の6割が浸水し、全壊4589棟。死者1042人、行方不明者112人。つまり1042話の物語が終了し、112話のストーリーが閉じようもなくなったということだ。

今回、水谷さんが東松島に来た目的のひとつは彼が笑顔を撮影した人々と再会することであった。一度だけの出会いではなく笑顔の持続性を求め続けること、それが水谷さんの凄味だ。


避難所であり遺体安置所でもあったという小野市民センターは時々雪が舞い、強風だった。
それでもミスターメリーがカメラを向けると少女たちははじけていく。


その後は根古地区の仮設住宅へ。自治会長の菅井さんご夫妻はたくさんの写真までも失いご自分の笑顔の写真が本当に嬉しそうだった。


2月19日、メリー東松島の本番。朝から続々と子供たちと被災した皆さんが集まってくる。笑顔の傘を持っていただき、水谷さんの「子供たちの笑顔は未来への希望です。みなさんの笑顔も未来への希望です」という呼びかけで、いっせいに笑顔の傘を開く。いつものメリーの始まりだ。


いつものメリーではなかった。僕は興奮していた。カメラを構えていても何を撮っているのか自分でよく分からなかった。

D社時代にもいろいろなロケを経験し、メリープロジェクトにも何度も参加している。
それでも今回のメリーは涙が出そうになった。

東松島が失ったものの大きさとそこに笑顔を届け続ける水谷さんのやさしさのせいだろう。


この写真の真ん中で手を振っている大友昭子さんは「根古仮設、サイコウ!笑顔、サイコウ!」と言っている。
仮設住宅にいる皆さんはご自分が見たものを語りたがっている。

大友さんは言う。

忘れられるのがいやだ。東松島にはメディアが来ない。私たちの話を聞いてほしい。鳥羽一郎も来てほしい。「津波なんか来たことねえだど」という耳の聞こえないじいさまを馬のように軽トラの荷台にほうりこんで逃げた。津波は黒い壁のようだった。浜市小学校の三階まで水が来た。小学校ででじいさまは腹へったあ、水のみてえ、おしっこだあ、戦争よりひでえ、と言った。戦争の時は家が残った。お金や薬を取りに帰った人は亡くなった。屋根に乗って流されている、てるおさんにおいでー、と言った。助けてけろーと答えたがそれきりだった。浜市小学校から鳴子温泉に行って20日ぶりにお風呂に入って涙がこぼれた。こんなに人にしてもらってよかった。自分は一度死んだ人間だから人生はこれからだ。


高橋和枝さんはメリーが終了しても笑顔の傘を渡してくれなかった。これは私が運ぶ、と言い張って重い傘を運んでくれた。

彼女の四畳半に上がり込んでチョコレートをもらいながら聞いたこと。

車のまま津波に呑み込まれた。重い大きな車なので底に沈んだ。上を見上げると船外機の船が通過していた。やがて車が浮上したが、渦に巻き込まれた。そのままプレハブに流れ着いた。どこかのおじさんが外から車の窓を丸太で割ってくれた。同乗していた90歳のじいさまと87歳のばあさまを先に押し出す時に手を深く切った。傷みはまったく感じなかった。プレハブにティッシュの箱があってティッシュで傷を押さえてサランラップで包んだ。そのプレハブには毛布や布団がたくさんあったので本当に助かった。



東松島は可憐なところなのですよ、と水谷さんは語り始めた。
確かに東の石巻、西の松島に挟まれて、あまり注目を浴びずにじっと我慢しているような雰囲気がある。
フミメイさんにはぜひ東松島をもっと見てほしい、というおすすめにしたがって二人で海の方に車を走らせる。

そこに浜市小学校があった。


まだガレキの匂いがする校舎の時計は14時50分で止まっていた。時を動かすのはこれからだ。時を動かすのは僕たちだ。僕たちが何をするかを小学校の熊と鹿が見ている。



浜市小学校の先には3000台の車が横たわる場所があった。



そこからさらに荒野を奥に入り、堤防を越えるとのどかな海がある。カレイを狙う釣り人が一人。

300におよぶご遺体が打ち寄せられたというこの浜で自然の時は確実に動いていた。


2月20日は仙台方面に戻って亘理(わたり)に入った。
ここも何もない。マイファーム西辻社長が菜の花の種80キロを蒔いた地点を探し続けるが分からない。ガレキの片付けに来ていた地元のおじさんに案内してもらっても分からない。

緑のかけらもない。ただトラクターの残骸があるだけだった。


元は豊かな農地であり、140軒の家が12メーターの津波で流された土地で何かを探して歩き続ける僕を地元のおじさんたちは「土地買い」と見ていたらしい。

僕にそんな甲斐性はないが、春になって黄色い花が一面に咲いたらマイファームの志を買いにまたここに来てみたい。
農をベースにした復興も未来を目に見えるカタチにしてくれるはずだ。

亘理町に心を残したままタイムアップで僕は仙台空港から大阪に帰ってきた。

その翌日、東松島根古仮設住宅の自治会長、菅井さんに紙焼き写真をお送りする。ご丁寧な御礼のお電話を頂戴した。

どうやら僕は東松島の根古に根っこをつくったようだ。



2012年1月25日水曜日

文脈日記(デジタル・コンミューンの時代)

スティーブ・ジョブズの公式伝記(ウァルター・アイザックソン著)をようやく読了した。
もちろんiPadで。ジョブズが望んだかたちで。

この電子読書は、僕にかなりの刺激を与えてくれた。
ジョブズについては世界中のアップル・ファンがありとあらゆることを語りつくしている。今さら僕などが新たに語ることはないだろう、と思っていたのだが、そうでもないらしい。

僕もジョブズについて語ることがある。
それは彼より3歳年上でアメリカ西海岸のカウンター・カルチャーを太平洋の彼方から垣間見ていた自分の文脈からだ。コンテキスターとしての務めを果たそう。




1970年に僕が早稲田大学に入った頃、全共闘という大きな流れがあった。LOC(ラスト・オキュパイド・チルドレン)として全共闘といかに関わったかは、このエントリーを読んでほしい。しかし、あの疾風怒濤の時代にあったのは全共闘だけではない。

既存のものにNO!と言ったのは政治の世界だけではなかったのだ。
反体制と言わなければ生きている資格がない、でも反体制で政治的アンガージュマンをするのは嫌だ、と考えていた若者たちが語ったキーワードがある。

ヒッピー・レボリューション、フラワーチルドレン、カウンターカルチャー、アンダーグラウンド、ホール・アース・カタログ、そしてコンミューン。

日本ではヒッピーのことをフーテンなどと言った。新宿の風月堂あたりはフーテンたちの溜まり場だったのですね。
早稲田の貧乏学生で何をするのも中途半端だった僕は全共闘にもフーテンにもなりきれずに合成酒という恐るべき日本酒でふらふらと酔っ払っていた覚えがある。



ジョブズが大好きだった「ホール・アース・カタログ」については、1971年頃に英語版の情報を見ていたような気もする。でもはっきりとこの本の存在を意識したのは宝島社の「全都市カタログ」を通じてだったと思う。このあたりは大学時代の友人でサブ・カルチャーの雄、S君にあらためて訊いてみたいところだ。



「ホール・アース・カタログ」のことを長い年月が経ってから思い出したのは2010年にD社を脱藩する直前、最後の仕事に関わったときだった。
関西の人たちにはおなじみのFM COCOLOの第二の開局キャンペーン。
あのステーションの「WHOLE EARTH STATION」というコンセプトは「WHOLE EARTH CATALOG」から来ている。
ステーションロゴで「Stay hungry, Stay foolish」と繰り返しているのも「ホール・アース・カタログ」へのオマージュである。
「貪欲であれ愚直であれ」というメッセージはジョブズの死とともに、また有名になったが、元々は「WHOLE EARTH EPILOG」、シリーズ最終版の裏表紙にあったのですね。

脱藩するとき、仲間たちからiPhoneをプレゼントされ、その直後、iPadも手に入れた時、僕はジョブズが遺した「めちゃくちゃすごい」製品たちは21世紀のホール・アース・カタログだということが直感的に分かった。

「ホール・アース・カタログ」のコンセプトは「access to tools」、道具への近道だ。
ジョブズの創ったデジタル・ハブは今やクラウドにあるすべての道具=情報にアクセスできるようになった。
アートとテクノロジーの交差点でついにデジタル技術は人間の心友になったのだ。



WHOLE EARTH EPILOG 」が発刊されたのは1974年。ジョブズはその頃、ポートランド郊外のオールワンファームというリンゴ農園でコンミューン生活をしていた。大好きなこの本はいつも持っていたという。

ホール・アース・カタログの発行者、スチュアート・ブランドは創刊号にこう書いている。
以下、スティーブ・ジョブズ公式伝記から引用をさせていただく。
「自分だけの個人的な力の世界が生まれようとしている…個人が自らを教育する力、自らのインスプレーションを発見する力、自らの環境を形成する力、そして、興味を示してくれる人、誰とでも自らの冒険的体験を共有する力の世界だ。このプロセスに資するツールを探し、世の中に普及させる…それがホールアースカタログである」
これは1968年に書かれた文章だ。
2012年、ポスト311の世界で「自立した個の群れ」が草の根で連帯する村楽LLPの同志たちのあり方に似ていることに驚く。

そして自立した個の群れが冒険的体験を共有する武器として彼らはiPhoneとiPadを駆使している。
ホールアースカタログが理念を語り、スティーブ・ジョブズが具現化した道具はこの列島の明日を変えるかもしれない。




もうひとつのキーワード、コンミューンについて語ろう。
辞典による定義は以下である。

《大辞林》
コミューン【(フランス)commune】[コンミューンとも。誓約団体の意]
・共同体。
・中世ヨーロッパで、領主・国王から住民による自治を許されたいた都市。
・フランス、イタリアなどで、市町村にあたる地方行政の最小区画。
・パリコミューンの略
《はてなキーワード電子辞典》
生活基盤を共有しつつ生活する複数の家族のありかたを言う。かつての「ヒッピー」(自称・部族)の人たちも実践していた。

体制から統治(ガバナンス)されるのではなく、メンバーが自らを統治する地域共同体がコンミューンである。

そうであるならば、今、地域おこしの現場でポリシーとしてささやかれている「協創ガバナンス」はコンミューンの大原則となるのだろう。

上からの統治を拒否して同志たちと協力して生活基盤を創りあげ自分で自分を統治することができれば、本当にメリーな暮らしができると思う。

考えてみれば、上山集楽もある種のコンミューンなのですかね。
ただ、コンミューンという言葉には様々な歴史的政治的コンテキストが付随することが多いので使用上の注意がある。

ジョブズがThink Differentな発想を生涯貫きとおす原体験となったリンゴ農園でのコンミューン生活は公式伝記には以下のように記されている。

この農園の名前はオールワンファームというネーミングだったこと。
悟りを求める人々が週末を過ごす場所としたこと。
母屋と大きな納屋のほか、庭には小屋があったこと。
ジョブズはグラベンスタインというリンゴの木を剪定する作業を担当して農園を復活したこと。

あまり詳しいとはいえないこれらの記述を読む限り、ここは農をベースにして東洋的な精神修養をする場所だったらしい。ただし創設者が事業色を強めすぎて問題が起こったようだ。

僕にとってもコンミューンはほろ苦い。
コミューンのことを僕はコンミューンと言う。それは自身のささやかな体験に基づいている。
ジョブズがオールワンファームにいた時代の少し前、1972年頃に僕も「備北コンミューン」というところに短期滞在したことがある。
たぶん岡山県津山市あたりの中山間地にあったのだろう。
D社に入る時に、そのときの記憶は封印してしまったので正確な場所は分からない。このコンミューンで何をやっていたのかも定かではない。なんだか夏休みの合宿だったような雰囲気だけは覚えているが。

たまたま今、隣の美作市に足繁く通っているのは不思議な偶然だ。

あの頃は政治的な動きからドロップアウトした学生がコンミューンで共同生活をする、というムーブメントが日本にもあった。
ちなみに村上春樹の「1Q84」に登場する農業コンミューンはその流れがモデルになっているようだ。小説の中ではカルト教団に方向転換してしまうが。

コンミューンというコンテキストにまつわる様々な事象について詳細に語るのは、ここでもニワカ体験しかしていない僕には荷が重い。

ただ言えることは、コンミューンという言葉はLOC世代の僕にとっては「理想郷」という意味合いを持っていることだ。
WHOLE EARTH CATALOG」 の項目にはcommunityがあり、そのトップコンテンツはThe Modern Utopianとある。




コミュニティの理想郷を夢見るという文脈は当時からあったのだろう。

まるで見果てぬ夢を見ているような話なのだが、スティーブ・ジョブズの道具たちとコンミューンとの関係性を繋ぐ努力はしてみたい。

いつのまにかiPhoneとiPadが体液を循環させるツールになってしまい、しかもかろうじてホールアースカタログ世代でもある還暦ドラゴンには、その義務があると思う。

今、この瞬間にも二つの道具を座右において、facebookとtwitterを横目でにらみながらこのエントリーを書いている僕の中で、ある妄想が頭をもたげてきた。

ソーシャル・メディアはデジタル・コンミューンだ。

そのデジタル・コンミューンに参加する近道がジョブズの愛したデバイスたちなのである。

スティーブ・ジョブズは「デジタルハブ」という構想を今世紀の初めに打ち出している。
その流れにしたがい自分の手の中にあるデバイスが電話、音楽、写真、動画などすべてのコンテンツのハブになるという理想郷を実現した。

そしてジョブズの道具の進化と同時進行してきたのがソーシャル・メディアだ。

今や世界は二種類の人間に分かれている。ソーシャル・メディアを友とする人と拒否する人。
ちなみにソーシャル・メディアを拒否する人はマスコミ関係者に多い。彼らは自らを情報強者だと思い込んでいるからだ。この点についてはまた宿題にしておこう。

iPhoneとiPadでソーシャルメディアするときの利便性は、それらのユーザーには自明のことである。アップルのデバイスはエンド・ツー・エンドで閉じられた世界だが、その先には無限の可能性を持ったオープンでフラットなクラウドが待っている。

現時点ではクラウドの中で最大のコミュニティを形成しているfacebookは、デジタル・コンミューンの塊だと言えるだろう。

コンミューンの本質は「協創ガバナンス」だ。
仲間と協力して新しい時代を創る、自分たちによる自分たちのための統治共同体である。
行政主導とは対極にある。

またそこでの情報の流れはマスメディアとも対極にある。上から下へ、ではなく、横から横へ。

そしてデジタル世界のコンミューンは地理的制約を超えて複層的に捉えることができる。
たとえば農をベースにしたコンミューンはこの列島の各地に燎原の火のように拡がっている。
ソーシャル・メディアの中ではそれらの動きが複雑に絡み合い、デジタル・コンミューンとして一定の方向性を持ち始めているような気がする。

もちろん311以降の閉塞情況を打破する方向だと信じたい。

コンミューンをコンテキストに持ち続け、ホール・アース・カタログをデジタルの世界で完成させた男、スティーブ・ジョブズ。

1984年にビッグブラザーにハンマーを投げつけ世界を変えた男の遺志は無限に拡がるデジタル・コンミューンの中で確実に引き継がれている。




2011年12月28日水曜日

上山集楽、山の上の雲人たち。


2011年も最終局面だ。
今年は1868年の明治維新、1945年の敗戦に匹敵する節目の年として歴史に残るだろう。年の終わりにコンテキスター、フミメイとして1年の文脈をサマリーしておく必要がある。

2011年、僕は上山集楽とともにあった。
集落、集まって落ちるところではなく、集楽、メリーが集まるところ。
岡山県美作市上山はまさにMerry Togetherな地域である。

山の上の雲人(くらうど)たちは上山のさいぼう庵といちょう庵をベースにして、風とゆききし雲からエネルギーをもらいつつ、情報発信と百商発力を続けている。
僕を含めてひ弱な都人(みやこびと)たちは上山に行くことにより地宝のお裾分けにあずかることができる。

上山に初めて行ったのは今年の1月だった。その頃、転職で悩んでいた長男といっしょだった。
その後の僕の上山を巡るささやかな冒険は文脈日記に綴ってきた。

年末なので、あらためて時系列的に整理してみよう。

2月7日、Merry Project@上山棚田。水谷孝次さんに出会い、いきなり撮影のディレクションをしてしまった。そんなつもりではなかったのだけど、現場に入ると身体が動く癖が抜けていなかったのですね。
その翌日、小豆島の中山棚田でもメリープロジェクトを実施したあと、塩見直紀さんの松江講演会に絡めて3月生まれのお誕生日会をやりましょ、とかっちにつぶやいてしまった。
その一言はあっという間に3月7日、島根県飯南での村楽LLPの設立準備サミットに繋がっていった。

村楽サミットの前日、妻の実家、松江の野津旅館での楽しい宴会は忘れられない。ボブによれば、後世に「野津屋会談」として語り継がれるそうだ。

そして、その4日後、311が起こった。

3月11日の15時半頃まで僕は原徹郎さんという映像作家の「動画つくりの新レシピ」という草稿の校正作業に集中していた。
妻の友人から電話がかかってくるまで、東北の異変に気がついていなかった。
慌ててテレビをつけると……、それから後はツイッターに張り付いた。

東京にいる長男夫婦のことが気になる。
フクシマがメルトダウンする、という情報は3月12日にはツイッター上に流れてきた。マスコミにはデマだと否定されたが。

3月15日、この時期、妊婦は東京にいるべきではない、という僕の説得に応じて嫁が箕面に疎開してきた。
東京に残された長男は毎週、箕面に帰って来つつ、上山にひとりで行くこともあった。

5月になると、綾部での米つくりが始まる。それでも上山のことは気にかかる。
ボブ編集長の本の最終校正作業もあり、綾部から上山に直行したこともあった。

そして6月25日と26日、村楽LLPキックオフとMerry Forest @美作上山が開催された。
上山発の流れがこの国をメリーランドに変えていきそうですね、と水谷孝次さんと話合いながら雨中で東北の子供たちの傘を開き、みんな笑顔で棚田を歩いて行った。

この日は、協創LLP出版プロジェクトの「愛だ!上山棚田団~限界集落なんていわせない」(吉備人出版)がついについにお目見えした記念すべき日でもある。

7月14日、初孫、杏奈が誕生する。
2011年生まれの子供たちのメリーな未来には村楽が深く関わるような予感がする。

上山での《出来事多様性》はまだまだ続く。
8月20日、上山の雲海上にメリー空彦気球が上がった。2月にメリー海彦山彦空彦というコンセプトとストーリーを妄想したものがまさか実現するとは思わなかった。

上山という集楽はメリーな人財を集める磁力をもっているようだ。
山の上の雲人たちは縁動脈の心臓になりつつある。

その雲人たちの中心にいるかっちと美々の棚田結婚式にからめて11月12日には村楽ガチ討論会に全国から同志が集結した。
さらに上山に住む地元の人たちを巻き込んでの棚田映画上映会。地元民たちからのかっちと美々への祝福メッセージ。感動的な一日だった。
この日には、これも2月以来の課題であったメリーライスがカタチになった。

僕と上山集楽との関わりは「知恵と知恵との物々交換」だと思っている。
僕は自分にできることを集楽に提供する。たとえばメリープロジェクトのイベントプロデュースであり、メリーライス制作ディレクションであり、コンテキスターとしての発言だ。そのかわり、それ以上のものを貰ってきたのが、この1年であった。

12月になってから、僕は電通関西支社の仲間たちと再会していった。
彼らは一様に「文夫さんは変わっていない。ますます元気になっている姿に感動して刺激をもらった、たぶん周囲の人に頼りにされているのでしょうね」などと言ってくれた。ちょっと照れくさかったが、本当に嬉しかった。

僕がこのように元気に脱藩生活を続けられるのも上山集楽の雲人たちとコンテキストが繋がっているからだろう。

本音をちょっと言うと、上山集楽はけっこう過激な集団なので、ときどきしんどいこともあるのですがね。

来年、上山集楽はますます過激度と多様性を深化させようとしている。
さあて、僕はどこまでついて行けるのか。




2011年12月20日火曜日

文脈日記(協和から協創へ)

2年前の秋、僕は中国東北部の旅をした。
満州という国が1932年3月1日から1945年の8月15日まで存在していた地域だ。
なぜ2年前のことを今頃、書いているのか。
それは2012年の展望を考えるためには満州国まで遡る必要がある、と個人的に感じているからだ。

満州には僕の妻もいっしょに行った。妻の家族のコンテキストも満州と深く繋がっていたからだ。満州は「消えた国」だ。そして妻の叔母は「消えた国から帰ってきた」人だ。
一方、僕の祖父、祖母、父、母たちも大連からの引き揚げ者だ。
大連そして長春(新京)、満州の歴史が色濃く残った2つの町を妻と友人の中国通夫妻とともに旅しながら、僕は家族の足跡を探していた。

大連港。うちの家族はすぐ近くに住んでいた。

かつて新京と呼ばれた長春

918を忘れるな、江澤民

偽満皇宮博物院

現在、中国では「偽満州国」と呼ばれている「国家」=共同体の文脈はこの列島の今に繋がっているはずだ。

満州に関する歴史書、評論、小説は無数にある。
満州の一大コンテキストの中では、さまざまな家族があの大地で暮らしを営んでいたはずだ。そして敗戦後の大波に翻弄されたことだろう。

甘粕正彦、石原完爾、李香蘭、岸信介など満州の著名人たちの周辺には無名の家族たちの歴史が埋もれている。
たとえば僕の家族、僕の妻の家族、そして盟友原田基風の家族。
満州をめぐる家族史の登場人物たちは天寿を迎えた方が多い。
彼らの歴史を深く掘り返すことはもう不可能だし、あえてやる必要もないと思う。

ただし、その極私的出来事の連なりは普遍性を持った文脈となる可能性がある。
その文脈を孫たちの世代に繋いでいくのは来年、還暦を迎えるラスト・オキュパイド・チルドレン(LOC)しかできない、と僕は原田基風から煽られている。

2011年、田中フミメイと原田ボブの個人的縁脈がいつのまにか半農半X研究所、村楽LLP、そして協創LLPの大縁脈に繋がった経験からすれば、極私から普遍への通路はそれほど狭いものではない。

かつての満州映画協会社屋

妻の叔母はまだご健在だ。彼女は明治45年生まれ、すなわち百歳になろうとしている。
彼女は1990年に「消えた国から帰ってきた」という小冊子を出版した。
敗戦時にソ連が侵攻してきた満州国の首都、新京(長春)から朝鮮半島を経て島根県の松江市まで引き揚げるまでの体験がみごとな筆致で綴られている。
 夫は当時の満州映画協会(満映)に勤務しつつ出征しており、敗戦時は行方知れずだった。幼い子供たちを連れた彼女は満映理事長、甘粕正彦が手配した列車で1945年8月13日に新京を脱出する。

甘粕正彦は満映社員にとってはやさしいボスだったらしい。
そして叔母の夫は甘粕のお気に入りだったようだ。彼女は新京脱出の直前に子供たちを連れて甘粕理事長と会見した。その模様を「消えた国から帰ってきた」で自筆のイラストにしている。

満映理事室で甘粕理事長に逢う

無名の家族はひょっこりと歴史の中に顔を出す。
甘粕正彦が満映の理事をしていた頃の写真が「甘粕正彦 乱心の曠野」(佐野眞一著)という本の口絵に掲載されている。
主義者殺しとして恐れられていた甘粕が満映の運動会で葉巻を持って柔和な表情を見せている。その横で微笑んでいる男はどうやら彼女の夫らしい。残念ながらこの方は若くして亡くなったため本人に確認することはできないが。



無数の極私的エピソードから普遍を引き出す試みを続けよう。
彼女とその子供たちが引き揚げの途中、朝鮮半島で京城行きの汽車に乗る時にこんなエピソードがある。以下、「消えた国から帰ってきた」から引用してみよう。
【五等国】 
やがて汽車に乗る為ホームに出た。ホームとは名ばかり高く長く盛り土された所だった。汽車の来るのを此処でしばらく待つ事になった。その内、○○(彼女の息子の名前、引用者注)が急にオシッコと云い出した。周囲にはトイレらしい所もなく居場所を離れ汽車が入ってきたら大変とだれも居ないホームの一番端に連れて行き用をたゝせた。コスモスが背高くピンク、白と咲き乱れていた。突然、大きな声が複数で聞こえた。花の向こうの木材の積み重ねた上で5、6人の朝鮮人が一斉にこちらを向いて野次っていた。「あんな所で立小便しやがって、日本国はやっぱり五等国だ。日本の五等国、五等国、五等国」と口々にはやしたてた。二流、三流を飛び越え五等国とは、いかに日本を憎んでいるかをまざまざと感じた。
そうなのだ。キーワードは「五等国」だ。
なぜ敗戦後の日本人は二等でも三等でもなく五等と罵られたのか。

その理由は「五族協和」というスローガンにある。「王道楽土」とともに満州国の建国理念だった。日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人の五族が民族自決の原則に基づき協同して世界平和を目指す、という理念である。

しかしながら、「協和」の現実は理念とはほど遠いものであった。五族には厳然たる差別があり日本人は自らのみを一等国として振るまっていた。その態度が敗戦後の反動となって、日本人は五族の最下層、すなわち「五等国」だ、という声になったのだと思う。

無名の引き揚げ家族に浴びせられた「五等国」という罵りは「五族協和」という理念がいかに虚しいものであったかという普遍を物語っている。
しかしながら、この理念を文字どおり受けとめた若者たちが満州国にいて、彼らの学舎があったことも歴史的事実だ。

その建国大学(建大)は満州国の思想的バックボーンだった石原完爾が新京に設立した「国立大学」だ。満映のすぐそばにあった。
創立当初の建大は、五族が全世界の思想を自由に学び夜を徹して「協和」の現実化を語り合う「王道楽土」だったらしい。

だが、やがて「五族協和」は宙に浮き、赤い夕日の彼方に遠ざかっていく。
理念と現実の落差を建大生たちはどんな気持ちで見ていたのだろうか。
その学生たちの一人が現在、「協創LLP」の代表を務める原田基風の父だったという。

僕たちの家族が「協和の時代」を生きたという歴史的縁脈は、今や「協創する時代」の文脈に繋がろうとしている。
というと、いきなり話がワープしてしまったように見えるだろうか。

しかし今年、2011年を思い起こしてほしい。
大量生産・大量生産の天津神に対して国津神が怒り狂ったような大震災。
そしてフクシマが暴露したこの国の政治社会システムの欺瞞性。
2011年は明治維新、敗戦に匹敵する歴史的な年として記憶され記録される。

昨日、金正日が死亡したことも象徴的なできごとである。彼の父、金日成は満州の地で抗日パルチザンとして戦っていた。満州に絡んだ歴史がもうひとつ大きな転換点を迎えたような気がする。

来年、2012年は満州建国から80周年という節目の年だ。
還暦を迎える僕たちはその80年のうち60年を生きてきた。

今、この時点で父たちが経験した「協和」の理念を「協創する時代」に繋ぐことは「世の中のために働く」という旗印をあげたコンテキスターのミッションだと考える。

311で山河が破れて以来、国家や会社に依存するだけの生き方は限界が来ているように思える。これからは仲間と《協》力しあって、新しい時代を《創》造することが求められているのだ。
競争から協創へ。時代は急旋回している。

1945年の敗戦という《狂》乱の時を経て、《驚》異の戦後復興、団塊世代は《競》争を繰り返し、バブルという《饗》宴を演出し、そして311という《凶》事を経験して迎えようとしている2012年。

来年を《協》創する時代のスタートラインにするために僕たちは微力を尽くさなければならない。そして微力を美力にするためには《協》という漢字が持っている本質に寄り添う必要がある。

すなわち、力をあわせてひとまとめにすれば夢はかなう、ということである。
夢をかなえるための方策は必ずあるはずだ。


2011年11月20日日曜日

文脈日記(村楽ブランドことはじめ)


そして1年が終わろうとしている。
来年は辰年だ。つまり僕たち、ラスト・オキュパイド・チルドレン(LOC)は還暦を迎える。

1952年(昭和27年)、日米講和条約が締結される直前に生まれた「最後の占領された子供たち」が5回目の年男になるわけだ。
それは辰の落とし子が龍になる最後のチャンスかもしれない。
今、来日している国民総幸福の国、ブータンのワンチュク国王はフクシマを訪れてこう言った。

人の中には龍がいる。その龍は自分の内なる人格だ。
龍は経験を食べて育っていく。年を経るごとに龍は大きくなる。
みんな、自分の龍をコントロールすることが大切だ。

占領下の落とし子たちは、来年、還暦LOCドラゴンを制御しつつ世の中のために働きつづけることができるだろうか。

What’s Going On?
辰年がどうなっていくのかは分からない。
でも僕は僕のコンテキストを粛々と繋いでいくしかないのだろう。
村楽LLP、協創LLP、NPO法人英田上山棚田団のコンテキスターとして僕の龍が食べてきた経験を提供していこう。

村楽LLPは新しい展開を始めている。
農を超える農を展開する百商として村楽プロダクトのブランド化を開始した。



MERRY RICE、メリーライス。
メリープロジェクトのご協力で英田上山棚田米のマスコットパックをブランド化して販売することができた。

同志たちが丹精こめて育てたお米の周辺には限りない付加価値がある。
そのストーリーをまとって、僕たちのお米はメリーライスとなる。
7月の文脈日記、「自分のための百姓学」の後半に書いた「農を超える農」のメリーライスが今、現実に目の前にあるのは感動的な光景だ。
コンテキスターの妄想が、ずっしりと存在感のあるミニ米袋になっている。


メリーライスの製造から販売までには多くの仲間たちの力が結集されている。
上山棚田で水路掃除から畦塗り、田植えから草取り、稲刈りからはぜ干し、と汗を流した英田上山棚田団のエッセンスが、このマスコットパックには詰まっている。
そしてメリープロジェクトを推進している水谷孝次さんとバランスのいい米袋のデザインに注力してくれた柄本綾子さんの愛が詰まっている。
電光石火の早業でネット販売サイトを制作してくれた協創LLPの山ちゃんにも感謝だ。

どうか、このメリーライスの周辺価値を認めていただきたい。
この列島の農が農を超えて「超農力」を発揮するために。
そして子供たちの笑顔が未来永劫続くために。




地域おこし協力隊全国連合である「村楽LLP」のプロダクトをブランド化する方法論は、11月12日に美作市で開催された「村楽ガチ討論会」でも検討されている。
「デザイン×農業ブランディング」の分科会に参加した美作市地域おこし協力隊のかっちは言う。

村楽は全国に同志がいる。ということは日本列島の「旬」をブランド化することが可能なはずだ。地域差を文化としてブランド化する道はないだろうか。

村楽は地宝の塊だ。地方には地域の宝が詰まっている。
地宝は山彦と海彦の産物であり、後継者を求めている匠たちの知恵だ。
食べもの、工芸品、アート、技、そして生きる方法論そのものが地宝なのだ。

北から南まで長い列島には「旬」がある。「なう」がある。「旬」が連なる文脈がある。
311でずたずたに切断された「旬」の文脈を村楽としてブランド化していくこと。

そうすれば「旬」は季節の産物という意味合いを超えて「今を生きる」という付加価値を持つことができるかもしれない。

具体的にどう展開していけばいいのかはまだ分からない。コンテキスターひとりの力では無理だ。

だが、急がなくてはならない。うたかたのように消えようとしている地宝も多いはずだ。
映画「森聞き」に登場したカルコ登りの名人、杉本充さんの「これで終わりやな」という淋しそうな表情が忘れられない。杉本さんは吉野川上流、川上村の鮎釣り終焉も経験されている。

杉本充さん


「旬」をブランド化していくこと。そしてそのブランド・コミュニケーションをデザインしていくこと。
そのための基本的な方法論なら、僕の経験値で提供できそうだ。

まずは村楽ブランドの確立だ。「旬」ブランドの傘となるものを構築していく必要がある。これは傘だけにメリープロジェクト、笑顔の傘の力をまたお借りするかもしれない。

「村楽という生き方」に「旬」=「今をメリーに生きる」という付加価値を加えてブランド・ストーリーを展開してみたい。

傘=親ブランドができたら各地域の「今そこにあること」=事実(ファクト)の確認だ。
全国で「旬」ブランドの種を探していく。

メリーライスの場合は「英田上山棚田」というファクトがそこにあった。ファクトはブランドの種だ。

北海道平取町のトマト、二風谷のアイヌ産物、阿智村の清内路かぼちゃ、雲南市のホンモロコ、西粟倉の和紙、日名倉の山女魚、上北山村の虫おくり、大町の地酒、馬路村のゆず、鹿児島硫黄島の海岸露天風呂、全国の鹿肉などなど、すべての天地有情が村楽の子ブランドになる可能性を持っている。

清内路かぼちゃ


とここまでクリエーティブ・ディレクターが企画意図を書いて、営業がクライアントを見つけてくれば、あとはプロダクションのスタッフがなんとかしてくれるのが大手広告代理店の世界だった。

ところがコンテキスターの世界はちがう。
還暦LOCドラゴンの妄想が現実化するためには、村楽LLPメンバーである《自立した個の群れ》たちが知恵の物々交換をして、自分たちの力でものごとを前に進めていく必要がある。

僕たちには金融資本はない。でも豊かな自然資本と信頼資本はある。
同志の知恵がある。連帯がある。
そして知恵と連帯を拡散するソーシャルメディアがある。

自分がやりたいことをまず自分で突き詰めて、それを持続する志を持てば、「オモロイ」は「カタチ」になっていく。

小さな住民代理店は足腰の弱った内なる龍を叱咤激励しながら、そのお手伝いをしていこう。