2015年3月31日火曜日

『国つ神と半農半X・ことはじめ』

ずいぶん長い間、文脈レポートを更新していなかった。
2月と3月はコンテキスターにとって毎年、嵐の季節なのだ。

といっても、今年の2月は大きなイベントをプロデュースしたわけでもなく、まとまった文章を書いていたわけでもない。やたらに動き回ってインプット過剰になり、アウトプットがおろそかになっていただけだ。
1月末から今まで、和気に1回。松江に2回、小豆島に1回。坂出に3回、佐賀に1回、京北に1回。三木に1回。 それから小説『消えた街』のオンデマンド出版のための校正、デザイン作業。その他、もろもろの調整ごとなどなど……。

この間にまた新しい出会いがあった。
吉田俊道さんの「菌ちゃん野菜」。


飯田茂実さんの「みくさのみたから」 。


はじめての手前味噌つくり。はじめてのヌカ床つくり。はじめてのキンカントマト発芽こころみ。
さらには、『消えた街』登場人物の「白川妙子」、103歳のメリー・バースデー・ムービー制作素材撮影中。

いずれにしても、自分がクライアントで自分がプロダクションの話なのだ。エージェンシーはいない。できる範囲で自問自答しながらこなしていくしかない。

そうこう言っているうちに、3月13日で63歳になった。
僕の人生カレンダーでは、65歳になったら一度、立ち止まることになっている。
あと2年は、この調子で走るしかないのだ。とほほ……。
などと嘆いていてもしかたがない。
「あんたは時間の使い方が下手だ」といつも山の神に言われている僕にとって、いちばん大切な時間は文脈レポートを書くときなのかもしれない。
ここが僕のベースキャンプであり前進基地なのだから。

さて集中しよう。
今年の初めから、書くぞ!と宣言している『国つ神と半農半X』について整理整頓をして、最初の一行が降りてくるのを待たないと間に合わない。締切は晩秋、はぜ干しが終わる頃としているのだから。

「半農半X」に関しては当研究所で何度も書いてきたので繰り返さない。
だが、「国つ神(くにつかみ)」という言葉については説明が必要なようだ。なにしろ時には「なべつかみ」と混同されるのだから。

「鍋つかみ」とよく似た(?)「国つ神」はつかみそこねると火傷するくらい熱い。国つ神鍋にはカオスが煮詰まっているのだから。

神話的カオス、古代史的カオス、文明史的カオス、文学的カオス。そして統治システムと絡まった政治的カオスがぐつぐつしているのが国津神鍋だ。
まずは一般的定義を押さえよう。「国つ神」は「天つ神(あまつかみ)」の対立用語である。

大辞林によれば、国つ神の定義は以下である。
天つ神に対して、日本の国土に土着する紙。地神。地祇(ちぎ)。
対する天つ神といえば、次のようになっている。
天上界にいる神。また、天から下った神。天神(てんじん)。
そして「天神地祇」と合わせた場合の解説もある。
天の神と地の神。天つ神と国つ神。あらゆる神々。日本では、高天原(たかまのはら)に生成また誕生した神々を天神、初めから葦原中国(あしはらなかつくに)に誕生した神を地祇とする。
国つ神の解説は、この程度にしておこう。いきなり神話的迷宮に入ったら後が続かない。



僕は昔から「国つ神」という言葉が気になっていた。あるいは気にいっていた。
その理由は、単純に言えば「国つ神」の方が「天つ神」よりも左翼の匂いがするからだろう。決してマルクス主義の匂いではないが。

過激派ではなく過敏派の僕としては、天つ神が有毒ガスを発生させようとしたときには、炭鉱のカナリアのように素早く感知して、国つ神たちに警告を発したい。
などと、いつまでたっても青汁のように青臭いことをまずは言ってみる。

僕が国つ神好みになったもうひとつの理由は、山の神(妻のこと)が松江の生まれであるということだ。
国つ神の本場、島根県松江市にはお世話になった。
ふたりの息子は松江生まれだし、美味いものと美味い酒をさんざん楽しませてもらっている。松江は日毎夜毎に酒好きの神々の宴が続く街だ。
僕は、新車を買ったら必ず八重垣神社でお祓いをしてもらってきた。
山の神の父上が健在な頃には、元日は夜明け前から松江市内の寺社仏閣を歩いて初詣するのが習わしだった。

そして僕は山の神には一生、頭が上がらない。たぶん。


国つ神たちの愛憎物語は、日本最古の文学作品『古事記』に生々しく描かれている。
そこで注目したいのは、古事記の神話でもっとも大きな分量を占めているのが、天皇家につながる天つ神の事績ではなく、かれらに滅ぼされた出雲の神々だという点である。はじめて地上の主となったのは、現在、出雲大社(島根県出雲市)に祀られるオホクニヌシ(大国主神)であった。オホクニヌシは、少年の時にはオホナムヂ(大穴牟遅神)と呼ばれており、いくつもの試練を乗り越えて地上にりっぱな国を作り、その主として君臨する。ところがそこに、高天の原のアマテラス(天照大御神)が目をつけ、まことに唐突に、地上はわが子孫が治めるべきところであると宣言するのである。そして、何度かの遠征がなされた果てに地上を手に入れる。 
『古事記・池澤夏樹訳』解題・三浦佑之

天つ神が武力を持って征服に来たとき、国つ神代表であるオホクニヌシは家族会議の結果、戦わずして豊かな国土を譲り渡した。土に着く神はまことに気前がいい。底抜けの平和主義者として描かれている。

だが、オホクニヌシは瑞穂の国のど真ん中、出雲大社に居座って、天つ神が勝手なことをしないように、睨みを効かせていたのだ。死者の国がある西の方を向いて――。

このあたりからはコンテキスターの妄想も入ってくる。
僕は学術論文を書く気はないし、その能力もない。想像力でコンテンツを結びあわせていくのが文脈家の役割だと思っている。
残念ながら古事記というコンテンツは国家権力に悪用されたことがある。昭和の侵略戦争を支える皇国史観の拠り所として。
たとえば「撃ちてし止まん」という「鬼畜米英」との全滅戦を強いるためのフレーズがある。これは古事記中巻の神武東征で記されている言葉である。

閑話休題。僕は古事記の文脈レポートを書いているのではなかった。



『国つ神と半農半X』で僕が書きたいのは、基本的には出雲地方と伯耆地方の半農半X事例である。

島根県は、半農半Xが一般用語であり行政用語となっている先進県だ。そのきっかけは塩見直紀さんが2011年3月6日に松江で講演をしたことだ。
その仕掛け人は島根県議会議員の三島治さんとNPO法人エコビレッジ研究会だった。
その5日後に東日本大震災と福島第一原発事故が起こって、葦原の中つ国は大きく傾いていく――。

こんな感じで『国つ神と半農半X』は書きだしていかれると思う。
と、他人ごとみたいに言っているが、こればかりは書いてみないと分からない。
なにしろ、まだ一行も書いていないのだから、えへん。

怠惰を自慢している場合ではないので、先を急ごう。今月の文脈レポートには自分が書きたいことの大枠を組み立てて、これから取材をさせていただく方に提示する役割もある。


半農半Xを塩見さんが提唱されてから20年になる。バイブル『半農半Xという生き方』の単行本がソニーマガジンから出版されたのが2003年。同社から新書版が出たのが2008年。
決定版がちくま文庫になったのは2014年10月10日。この本は今でも、新しい海に乗り出していく人々の筏になっている。

僕自身も、この筏に乗って広告会社を脱藩した。塩見さんが届けてくれる言葉にどれだけインスパイアされてきたことか。
その御礼の意味もこめて、僕は塩見直紀さん自身についても書いてみたいと思っている。
その「年季の入った腰の低さ」はどのようにして練られてきたのか。あくなきXを求める「センス・オブ・ワンダー」の源は何なのか。
聖地、綾部に行って塩見さんの取材をする必要もある。


半農半Xという言葉とコンセプトは、日本列島にポスト311の新しい倫理や規範として根付いている。さらに東アジアまで影響力を浸透させつつある。
そのすべての事例を僕だけで書いていくことはできない。

僕は、縁(えにし)の糸で綾なされた出雲の半農半Xにフォーカスしていこう。塩見さんが出雲に播いた半農半Xの種は、根っこを広げて高く育っている。
僕はその文脈を結び合わせてみたい。

そして、事例を紹介するときに「国つ神と天つ神」という補助線を引こうと思う。まずは対立項として。

国つ神は東洋的自然(じねん)主義であり、天つ神は西洋的合理主義である。
国つ神が「君あり、故に我あり」と言えば、天つ神は「我思う、故に我あり」と言う。

国つ神は里山資本主義であり、天つ神はグローバル資本主義である。地域のヒダヒダを残そうとする者たちとすべてをノッペラボーにしたい者たち。

信頼資本と金融資本の対立。自然エネルギーと原発の対立。自産自消と大量生産・大量消費。

農的生活でいうなら、国つ神は自然栽培・有機栽培であり、天つ神は慣行農法である。

政治的文脈でいうなら、国つ神代表は細川護煕であり天つ神代表は安倍晋三である。
これは例によって文脈家の独断であるが。

協創と競争。成熟と成長。エトセトラ。

補助線は平行線である。今のところは。だが、Xはクロスである。どこかに平行線が交わる地点があるのだろうか。分からない。国つ神と天つ神を繋ぐ光の梯子はあるのだろうか。


ともあれ事例を書くためには取材が欠かせない。いつ書けるか分からない、という無茶な前提で取材に応じてくれた皆さんに感謝しつつ、これまでの取材をサマリーしてみよう。

まずはNPO法人日本エコビレッジ研究会(JEF)の3人衆。
JEFは2010年9月に松江で設立された持続可能な安心社会を追究する研究会である。
到達すべき山頂は「ひとつの地球で足る暮らし方」だ。


その山に登るためには3本のルートがある。
召古裕士(めしこ・やすし)さん、多久和厚(たくわ・あつし)さん、野津健司(のつ・たけし)さん。三者三様の登り方である。

召古さんはロゴス(論理)の人だ。
長年培ってきた環境コンサルタントとしての実績をベースにして、理路整然と「小さな循環、域内循環」を語る。
現在、全世界のエコロジカル・フットプリントは地球1.5個を越えている。この指標は、地球の資源やエネルギーの消費量を地球の個数で表したものだ。地球はすでに環境容量をオーバーしてしまった。日本は年間に地球2.47個を消費して生活している。このまま地下資源や化石エネルギーに依存していれば、間違いなく破綻する……。
この危機感から召古さんはFEC2を地域で自給する方策を模索している。
FEC2とは、フード・エネルギー・ケア・コミュニティ(food,energy,care,community)のこと。
生きるための総合資産である。

召古さんは、常にパトス(感情)だけで動いている僕とは対極に位置しているようだ。
僕はその語りに圧倒された。そして、島根半島最北端、多古鼻は沖泊の景観にも。

崖っぷちで両手を広げる召古さんと対峙して僕はすっかり腰が引けてしまった。実は高い所は苦手なのだ。



召古さんは、最近、「海彦」になるため日本海の波と同期できる集落に移住した。
里山ならぬ里海で、村人と語りあいながら、地域を全体最適化できる方法を模索しているそうだ。



天つ神は富める者をますます富めるようにして格差を広げる部分最適をする。
国つ神は地域を全体最適するために行動を起こす。
木を見つつ森も見る。貝を見つつ潮流も見る。

召古さんは《半農半最適家といえるかもしれない。

文脈家的妄想で分析するならば、召古さんはオモヒカネの神(思金神)に似ている。
天つ神の知恵袋にして、アマテラスを天の岩戸から引きずりだすアイデアを提供した神。
後にホノニニギ(番能邇邇芸)とともに葦原の中つ国に降りてきた。

その後、天つ神のことを知り尽くしたオモヒカネはその知見を生かして国つ神のより善き暮らし方について熟考を重ねていったとさ……。このあたりは僕の創作ですが。


「海彦」召古さんのパートナーは「山彦」多久和さんである。

多久和さんは、現在、雲南市の山王寺棚田で太陽と風をエネルギーにして暮らしている。里山暮らし研究所は「ひとつの地球で足る生き方」のモデルハウスだ。
里山ハウスは太陽光発電と風力発電でオフグリッドした。
眼下の棚田と畑の恵みで環境に負荷をかけない生き方で「あるもの探し」を楽しむ。
薪ストーブの燃料は周りの山にある。竹を伐りだして竹炭をつくる。

自分を《半農半村人》だ、という多久和さんは地域に溶け込んで、朝日とともに起きる毎日を送っている。

召古さんと同じく、長い間、会社経営に携わってきただけあって、里山ハウスの方針は明快だ。
コットンを育てて、若い女性の心をつかむ。大豆の味噌をつくりに主婦を誘う。
蕎麦好きのオジサンたちにも来てもらおう。

山彦は今、町の老若男女を里山に呼び込もうとしている。


小さな循環で大きな未来をつくるために、多久和さんは「里山笑学校」プロジェクトを立ち上げた。里山体験を通じて町と村を結びあい、消費者と生産者を一体化させるための試みだ。

僕は、その笑学校の校歌をつくりたくなってきた。
たとえば、こんな感じ。

【里山笑学校校歌】

八雲立つ出雲の里に笑いあり
のぼる朝日に光あり
青き棚田に水みちて
実りの秋(とき)を願うなり
おお我ら里山 里山笑学校
ああ我ら里山 里山笑学校

八雲立つ出雲の里に光あれ
花咲く里に笑いあり
垂れる稲穂に笑いあい
風吹く里に草なびく
おお我ら里山 里山笑学校
ああ我ら里山 里山笑学校


また、コンテキスターの妄想が入ってしまった。



多久和さんが住む山王寺棚田の入口には須我神社がある。
ここは国つ神夫婦の源、スサノヲ(須佐之男命)とクシナダヒメ(奇稲田姫)の愛の巣だった。日本最古の愛の歌が詠まれた場所だとも言われている。
善き前例を倣ったかのように、里山ハウスの多久和さん夫妻は仲がいい。僕が訪ねたときに降っていた雪を溶かすほどに。


召古さん、多久和さんと三角関係を構築しているのが野津健司さんである。

日本エコビレッジ研究会の農的営みと試みの種蒔く人。「山王寺環境農業実験圃場」の場長だ。



野津さんは土着した生きものを活かして草とともに野菜を育てている。
「国つ神式」農法は草と戦わない。微生物も友達にする。農薬や化学肥料に頼る「天つ神式」とは志が違う。したがって味が違う。
野津さんの大豆(フクユタカ)は豆腐になっても志を貫く。感動的に美味いのだ。


ずっと教職に就き、養護学校の先生をしたこともある野津さんにとっては、農福連携作業はお手のものだ。若者たちがつくった野菜を松江市民と直結して販売するシステムも構築されている。


そして、野津さんはイセヒカリを山王寺棚田で持続的に栽培できるようにしている。

イセヒカリは国つ神と天つ神を結びあう米なのかもしれない。伊勢神宮で発見されて出雲大社に奉納される米となっているのだ。

イセヒカリは1989年(平成元年)に伊勢神宮の神田で発見された。台風に襲われて倒伏したコシヒカリのなかに直立した稲が2株あったそうだ。この突然変異種は伊勢で試験栽培された。

やがてイセヒカリと名付けられた種籾は、山口イセヒカリ会に託される。さらには出雲イセヒカリ会が発足し、国つ神の田んぼでも天つ神の田んぼで生まれた強くて美味い米が毎年、実るようになってきた。



イセヒカリの特長は六つある、と野津さんはいう。
風水害に強い。収量が多い。食味がいい。酒米になる。病害虫に強い。陸稲として栽培できる。

つまり、除草剤も農薬も使わない自然栽培に最適化された米ということである。


野津さんのXは、人やモノや情報を繋ぐことにある。
「すべては必然であり意味がある」と宣言して、日本列島の善きこと、自分が楽しいと思ったことを縁(えにし)の注連縄にして編んでいく。
《半農半縁脈家》、といえるかもしれない。

僕が『国つ神と半農半X』を書きたい、と思ったのも縁脈家との出会いがあったからだ。
そのおかげで、イセヒカリで醸した極上の酒も吞ませていただける。


野津さんは、天つ神の父(ニニギ)と国つ神の母(コノハナサクヤ)から生まれたホデリとホヲリ、すなわち海彦と山彦を繋ぐ国つ神なのかもしれない。

そんな国つ神は現存しないが、文脈家は創造する。捏造かもしれないが。

日本列島の海彦と山彦を繋ぐのは「空駈ける稲田彦(イナタヒコ)」。すなわち「空彦」である。そう言いたくなるほど、野津さんは様々なレイヤーで情報を善循環させているように見える。


召古さん、多久和さん、野津さん、日本エコビレッジ研究会の3人衆は「ひとつの地球で足る暮らし方」という山頂を目指して鋭意登山中である。それぞれの方法論で足場を確保しながら。

その途上で、彼らは頻繁に意見交換をしているようだ。

どげしちょるかね? あげだがね、そげだがね!
と話し合う還暦を過ぎた3人の姿には、国つ神も微笑みかけることだろう。


JEFのイベントに何度か参加しているうちに取材したい人はどんどん増えてくる。
僕は次に出雲の《半農半陶芸家を訪ねた。

三島耕二さん。「いまみや工房」というアートな空間で土とともに生きている。
そこは古代出雲の意宇の郡(おうのこおり)。国引き神話で、ミッション完了後、国つ神が「意恵(おうえ)!」と叫んだとされている土地である。


耕二さんは塩見さんが松江に来るきっかけをつくった県会議員、三島治さんの弟だ。三島兄弟はともに「西村和雄式ぐうたら農法」で百姓をしつつ、自らのXを極めようとしている。

耕二さんは言う。「したいことがいっぱいありすぎです。でも寝るのも好きなので、なかなかできません」。僕も睡眠時間は長いので、とても共感する。

数ある耕二さんのXのうち、現時点での理想型Xはやっぱり焼き物だ。
いまみや工房は陶芸教室を備えたカフェだ。座敷には素敵な色と肌合いを持った焼き物が飾られている。


そんな空間の隅っこに、自分の畑で採れた豆たちが乾されていた。アーティストがレイアウトすると、豆もちょっと違う感じがする、と言う僕に、「いや、あれはヨメさんがやったんですけど」という答えが返ってきた。


文脈家はアーティストではないが、常にセンス・オブ・ワンダーを磨き続けたいと思っている。
センス・オブ・ワンダーとは「自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性」のことだ。
半農半X的生き型の基本的感性である。

耕二さんが創作活動をするときの「心持ち」はセンス・オブ・ワンダーに満ちているようだ。


いまみや工房のエントランスには陶器の破片が敷き詰められている。シャーベット状になったその美を讃える陶芸家の感性に惹かれて、僕は取材にやってきた。


美しいものというのは自然が介在したもの。  
自然との交感作用が起きたとき、美しいものが発生する。 
美しいものというのは、そこにあるものを大事にするということ。 
自然といっしょになってつくると美しくなってくる。 
芸術という名前をつけちゃうと意外にたいしたことはない。
三島耕二さんが語る美学は、とても心地よかった。
《半農半陶芸家は、生きていることにぴたーっと密着した器をつくり、同じ土からできたものを包み込む。風土を食って飲む。

天つ神は頭上にいる。国つ神は土着する。
天つ神は権威を好み、国つ神はそこにあるものを可愛がる。
そこにあるもののネットワークは、心地よい。

耕二さんの話を聞いたら、文脈家はすっかり「心地よい心持ち」になったきた。こういう瞬間があるから国つ神ネットワークの取材は楽しいのだ。

野津さん、多久和さん、召古さん、三島耕二さんと同じく、僕も楽しいことしかやりたくない。
楽しいことは正しいことなのだから。


また長いレポートですみません。読んでくれてありがとうございます。
おかげさまで、『国つ神と半農半X』、書き始めることができそうです。

なお、もう1件、雲南市の《半農半コーディネーター、酒井聖文(まさどん)にも取材しているのですが、次の機会にサマリーしたいと思います。あしからず。


※本文の神々の名称は『古事記』(日本文学全集・河出書房新社/池澤夏樹訳)に準じています。

2015年1月29日木曜日

MERRY IN KOBE 2015~不屈の笑顔

1995年1月17日午前5時46分。僕は箕面のマンションにいた。揺れた。
それまでの人生で経験をしたことがない揺れだった。

揺れが治まったとき、僕は身動きが取れない自分に気がつく。
布団の上に本が積み重なって脱出できない。家族が僕を掘り出してくれた。
当時、僕が寝ていた部屋は壁一面が本棚だった。揺れは本棚を倒して本を僕の上にまき散らした。
本棚そのものが僕を直撃しなかったのは、枕元に置いてあった小型テレビとテレビ台のおかげだった。それがなければ、僕は箕面市で唯一の怪我人になったかもしれない。
そうなのだ。箕面市は揺れは激しかったが怪我人もいなかった。
箕面市も僕もとてもラッキーだった、と今でも思う。すぐ西の伊丹市では阪急の駅が落ちたのに。

その時、僕は43歳。典型的な会社人間だった。
本の山から出て、まず考えたことは、「今日の仕事をどうしようか」。
その日は三重県の名張市にロケハンに行く予定が入っていた。京都のクライアントとの打ち合わせもあったのかもしれない。電車は動いていない。当時、持ち始めていた携帯電話も固定電話も通じない。公衆電話を見つけた。午前8時にはこの電話は通じていた。
奈良に住む上司に電話して「やっぱり、今日は無理やろね」とのんびりとした会話をしたことを覚えている。

その頃、神戸は大変なことになっていた。箕面や京都や奈良とはまったく違う状況になっていた。特に長田地区の火災は写真を見るのがつらかった。

僕は、その後、ボランティアとして阪神間に行き……というふうにストーリーは展開しなかった。
相変わらず会社の仕事優先で動きながら、阪急電車が西宮北口まで運行再開したあとに三宮まで歩いただけだった。何かをやりたい、という思いはカタチにならなかった。

それから、20年目の1月17日、僕は神戸の長田にいた。
【MERRY IN KOBE 2015】



このイベントの詳細はメリープロジェクト公式サイトにアップされている。
ドキュメントはこちらを読んでください。

「20年目の神戸から未来に笑顔をつなげよう!」
「阪神・淡路大震災から20年、未来へ『生きる』」

僕は、現場で見て聞いて感じたことを記録に残しておこう。


メリープロジェクトは、2001年以来、神戸の笑顔とともにあった。水谷孝次さんのメリープロジェクトの原点は神戸にもある。


2001年5月、神戸の震災跡地であるポートアイランドのひまわり畑で、水谷さんは生後8カ月から97歳までの笑顔を撮りまくったそうだ。
そのうちのひとりが駒井みつきさんだった。当時、7歳だった自分の笑顔の傘を持って水谷さんと再開し、14年目の笑顔の同窓会が実現した。


僕は2011年以来、様々なメリープロジェクトに参加してきた。そこでいつも思うことは、それぞれの場所でそれぞれのメリーがある、ということだ。

メリープロジェクトが行くのは、負の財産を背負った子供たちがいるところである。その多くは地震や津波など、つらいできごとで傷つけられた場所だ。

水谷さんが〝MERRY〟を始めたきっかけは、アメリカ旅行中のバスで撮影した子供たちの写真である。1999年のこと。
何気なく撮影したスナップに子供たちの笑顔がはじけていた。そこには世紀末の暗さはなかった。以来、16年、メリーの躍動は世界のソーシャルデザイン史に刻まれている。


そして〝MERRY〟というデザインをクオリティの追求からコミュニケーションのカタチに進化させたのが阪神大震災であった、と水谷さんは言う。

2015年、水谷さんから長い年賀状が来る。そこにはミスターメリーの思いが「MERRY主義宣言」として綴られていた。
「人間には、マイナスがあるからプラスがある。ほんとうに悲しい時こそ笑うんだ。だから笑顔が美しい」と気付いた。 それが人間の強さであり、美しさなのだと思います。国が違って言葉が通じなくても、笑顔と笑顔で心がつながる。地球上のあちこちで「MERRY」な交流が生まれ、笑顔が伝染していきます。 誰かの笑顔が地球をぐるりめぐって、あなたに笑顔を運んでくれる。 笑顔がつなぐ「MERRY」のリレーに、国籍も人種も宗教も関係ありません。 
貧しい国では、安全な飲み水や教育が足りません。豊かな国では、愛と思いやりが足りません。 
お金がすべてという価値観では、強欲で身勝手な資本主義に走りがちです。 そんな社会を見直して欲しい。幸せの意味を問い直して欲しい。 「MERRY」な笑顔を増やすことを一番に考える社会。みんなを笑顔にして、自分も幸せになる。まさにメリーゴーラウンド。 そんな生き方を私は「MERRY主義」と名付けました。地球が笑顔でいっぱいになることを、心から願って……。
水谷さんの〝MERRY〟は絶対的笑顔主義なのだ。
【MERRY IN KOBE 2015】のメッセージにはこんな言葉があった。
「あなたが笑う時、世界もいっしょに笑う」

はい、僕も神戸で、世界といっしょに笑顔になりたいです!



1月16日、前日からのスタンバイを手伝うために僕は大正橋筋商店街で水谷さん、柄本さん、河野さんを待っていた。


長田に向かう電車の中で、僕は『ラジオフォーラム』の「阪神淡路大震災復興の20年」という音声アーカイブを聞いた。

番組内で大正橋筋商店街理事の伊東正和さんは、こう語っていた。
毛布1枚もらうにしても一日かかった大変な状況から、わずか2カ月という短い期間で再開発という決定をさせられた。それが問題。こんな素晴らしいかたちの街になるというメリットは聞いたけど、デメリットは聞いていなかった。建物はできたけど、経費が前の倍以上、掛かっている。それはすごい負担です。
大正筋商店街は、あのとき、9割が焼け落ちた。それから、2711億円をかけた大規模再開発が始まったそうだ。完成したショッピングモールに入って生活再建をした住民たち。だが、そこには大きな課題があったらしい。

『ラジオフォーラム』パーソナリティの石丸次郎さんは以下のように解説した。
元々の大正橋筋商店街はお店と住居が一体となったアーケード式でしたが、復興計画で住所と店舗が別々の場所になった。一応アーケードはあるが、そこにはテナントが上の階に入っていった。ですから昔の商店街とは違う形態の商売をすることになった。その過程で多くの経費が増えていってしまった。商売がなかなか割りがあわなくなった。

水谷さんたちと合流した僕は、いっしょに商店街のキーマンへのご挨拶にいった。まずは伊東さん。

水谷さんの話では「とにかく商店街を笑顔、笑顔、笑顔でいっぱいにしてほしい、もう暗い話はいらない!」と伊東さんに頼まれたことから、今回のメリーイン神戸が始まったということだ。


大正橋商店街アーケードの入口を笑顔、笑顔、笑顔にするスタンバイを始める。

僕は現場に入れば、身体が自然に動いていく。広告代理店時代に様々な撮影現場で培った経験値で。焦りを感じれば感じるほど、全体像を見る訓練はできているつもりだ。


それでも60本の笑顔の傘で大正橋筋をメリーにするセッティングは厳しいものだった。

人手が足りない。こんなときは、とにかく手を動かし続けるしかない。ただし効率的に。
ネットに傘を取り付けていくとき、上から何マス目に刺していけばカタチが整うのか、そういう計算が僕はまったくできない。自慢じゃないけど、僕は文系コンテキスターなのだ。

そんなときに頼りになるのが協創LLPと上山棚田団の仲間たちだ。
仕事の合間に駆けつけて、傘レイアウト計算をしてくれたみやしゅー(宮北公英)、ありがとう!
ひたすら手を動かしてくれたいのっち(猪野全代)とやっしー(前多康代)、ありがとう!
2階からヒモを垂らしネットを引っ張り上げ続けたヤス(杉浦靖明)、ありがとう!

スーパープロデューサ、柄本綾子さんのレイアウトチェックが終了したのは大正橋商店街の灯りが落ちる直前であった。


一方、六間道4丁目商店街もメリーになっていく。
富士屋呉服店の増井宏行さんがアーケードの屋根からメリー傘をぶら下げた。


そして、「アースデイWITHマイケル」のためのステージもスタンバイされる。

増井さんは気遣いの人だ。「マイケルやも」(山際伸二郎)と会ったこともないのに、水谷さんの話を聞いて、フライヤーを制作しホテルや商店街で事前配布をしてくれていた。


1月17日早朝。午前5時46分のセレモニーに参加するために、会場に向かう。
昨晩の強風のため、アーケード入口の傘が吹き飛ばされていた。近くのホテルに泊まった僕が到着したとき、すでに修復を始めているボランティアたち。
この人たちは何時に家を出てきたのだろうか、と想像する。


そして祈りの時間。
この時間帯は被災した皆さんのためのものだ。


さあ、メリーイン神戸が始まる!
六間道5丁目商店街の寺子屋スペースに集まったボランティアに水谷さんが挨拶する。


「今日は参加者の皆さん同士、そして地元商店街の皆さんとの交流を楽しんでください」

この一言でボランティアの雰囲気が和んだ。

ここには「ふくしまっ子10万人笑顔プロジェクト」の笑皿が飾られて、メリーワークショップの準備が整っている。
鉄人広場で受付に行くスタッフ、商店街に笑顔の傘を並べるスタッフ、ノエビアスタジアム神戸でのステージに備えるマイケルチーム、それぞれのパートが気合い、ではなく笑顔を入れる。


こういう瞬間が僕は大好きだ。
メリープロジェクトはいつも最小限の人数で手作りイベントを成功させている。現場にハプニングはつきものだ。それでもみんな笑顔で動く。


たくさんのお客さんが訪れる1月17日、店の前でずっとマイケルのMERRY LIVEをサポートする増井さん。
飛びっきりの笑顔で。奥様とともに。


♪人は誰も
 生まれた瞬間から
 みんなで生きてる~

♪People all over the world
 君が微笑めば 僕も微笑み愛になる
いつの日にか きっと世界中
 笑顔だけになる・・・


笑顔の打ち上げ!
それも僕は大好きだ。神戸風そばめしもビールも大好きだ。

お好み焼き屋「やよい」のおばちゃんが、大正筋商店街入口の笑顔を誉めてくれた。
こういう瞬間があるから、メリーはやめられない。


【MERRY IN KOBE 2015】は無事終了した。
新長田駅前に灯された「ながた」の文字を見ながら、僕はフェイスブックにつぶやく。
長い鎮魂の一日が終わります。僕にとっては一日でも被災者の皆さんには明日からも永い時間が流れ続けます。20年前の1月17日に強制終了させられた6434篇の物語への想像力を持ち続けること。


そして、今、僕はメリーな文脈と善循環と持続可能性について考えている。

神戸の笑顔は東北の笑顔につながり、ニューヨークの笑顔は北京の笑顔につながる。
耕作放棄地の笑顔がシャッター商店街の笑顔につながり、ナイロビの笑顔がロンドンの笑顔につながる。
ヒロシマ・ナガサキの笑顔がフクシマの笑顔につながる。

そのメリーゴーラウンドの中心にあるのが水谷さんの笑顔である。筋金入りの〝MERRY〟だ。


そして、思ったことは必ずやる笑顔だ。
僕は思ったことは必ずやる。思ったら飛べ。川が狭いか広いかは別として、とにかく自分が先に渡ることで物事が進み始める。いろんなことを解決するためには、一歩でも先に進まないとダメだ。プロジェクトもそうだし、人生もそうだ。 
『デザインが奇跡を起こす』(水谷孝次/PHP研究所/2010年刊)

僕は水谷孝次さんをリスペクトしている。
アーティストとして。
ソーシャルデザイナーとして。
ひたむきに生きる人生の先輩として尊敬している。

2011年2月、311で世の中が変わる直前に「不屈の笑顔」に出会えたことを縁脈の神様に感謝したい。



「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」(『幸福論』アラン)


2014年12月29日月曜日

消える時、『消えた街』

一年があっという間に消えた。いつのまにか年の瀬になっている。
年を重ねるごとに、時が消えるという感覚になってくる。

一日や一年を短く感じるのは、加齢により新陳代謝速度が遅くなってくるのが原因だそうだ。そうなれば体内時計も徐々にゆっくり回るようになる。
遅れた時計が一年を刻むのには時間がかかる。だが、現実世界は6歳の一年も62歳の一年も冷徹に同じスピードで時を刻み続ける。
実際の時間の経過に自分の体内時計=生命の回転速度がついていけないので、あっという間に時が過ぎていく感覚になる。
この説は分子生物学者、福岡伸一さんの受け売りである。

フミメイ流の言い方をすれば、経年劣化していく自分のCPUが情報大洪水の中で溺れてしまい、あわわとしているうちに一年が消えていく。
体力の方も同じく劣化していく。それでも意地を張って動き続けているうちに一週間が一月が一年がわっしょいわっしょいと消えていく。「半農半X家・フミメイ」の一年は素早く消えていく。

さらに輪をかけて、今年はアベシンゾーがあれこれしでかしてくれたので、そのカウンター情報を発信するのにも忙しかった。
アベシンゾーという用語は、第97代内閣総理大臣の安倍晋三を支える日本人の《集合的無意識》という意味で使うようにした。まだまだ良く分からない部分の方が多いが。
アベシンゾーの気持ちを慮るために、今年もたくさんの本を読んだ。そして多くの本を読み残した。
どう考えても今年中に読み切れないが、できるだけ早く読みたい一冊がある。
『忘却のしかた、記憶のしかた』(ジョン・W・ダワー/岩波書店)


「いまだ戦後ではない」と喝破した《東京の師匠》から薦められた本である。
アベシンゾーに対抗するためには、それなりの理論武装が必要だ。
劣化型の反知性主義者たちは歴史を修正したがる。自分たちに都合のいい理屈だけを一部の人々には心地良い情感に包んで訴える。反対意見には耳を貸さない。「見解の相違」と切って捨てる。
しかも、マスメディアはもう彼らの支配下にあるようだ。
急速に「自由と民主主義」(含む日本国憲法)が消えつつある時が今だ。

僕の一年が消え去ろうとどうってことはないが、1945年8月に、父や母や祖父や祖母が獲得したものを消してしまったら、彼らに顔向けできない。
敗戦時に消えたものの代償として獲得したものを失ってはならない。
消えた命、消えた家、消えた父母、消えた子供たち。
そして、そこには「消えた国」もあった。
中国東北部に大日本帝国が構築した傀儡国家である「満州国」。

「満州国」は1932年3月1日に出現して1945年8月15日に消えた。「建国」後、13年五ヶ月。元々、あるべきものではなかったのだから、消えるのは自明の理であったのだろう。
だが、「偽国家」は消えても、その瞬間、満州には生身の日本人が生きていた。多くの家族がいた。会社に勤め、農地を耕していた。たとえその会社が「国策」であり農地が略奪されたものであっても……。

その瞬間、安倍晋三の祖父、岸信介は「満州国」の高級官僚として財を成して内地にいた。
「満州国」をでっち上げた関東軍は自分たちの家族だけを連れて逃走していた。

取り残された家族の中に「白川妙子」がいる。僕の山の神の伯母さんだ。妙子の夫、「白川真之介」は満州映画協会(満映)に勤めていた。「真之介」は甘粕正彦のお気に入りだったという。
妙子さんは「消えた国の消えた街」、新京(現長春)から島根県松江市に引き揚げてくる。その記憶と記録を1990年に小冊子として出版した。


この歴史的事実を元にして、僕は小説を書いた。今年の始めのことである。
小説のタイトルは『消えた街』。

そして2月、平凡社の『こころ』という雑誌の〝第一回晩成文学賞〟に応募した。
長い間待って、今月、受賞作が発表されたvol.22号が届く。


落選だった。佳作にも入らなかった。



『消えた街』というタイトルの左側写真は白川妙子(登場人物名)、右側は野津修(登場人物名)だ。
これらの写真はもちろん応募原稿には入れなかったが。

野津修のモデルは、盟友、原田ボブの父である。
修さんは「建国大学」の学生として「新京」に1年半、住んでいたことがある。1943年建大入学、1944年学徒出陣。
僕が、この小説を書いた動機は妙子さんの冥土の土産にするためだった。明治45年(1912年)生まれの彼女は、来年3月で103歳になる。

盟友の父は2006年に逝去された。享年81歳。
『消えた街』での人物設定は僕の創作である。満州を巡る僕と原田ボブとの縁は、3年前の年末にも「協和から協創へ」という文脈レポートで書いたことがある。

ずっと書きたかった「満州国」のことを書き始める後押しをしてくれたのが〝第一回晩成文学賞〟だった。
「応募時に、満60歳以上の方に限ります」
「〝本〟〝未来〟〝まち〟のうち一つをモチーフにした小説を募集」
「400字×100枚以内」
「締切:2014年2月28日」
「選考委員:村田喜代子、半藤一利ほか」
「発表:2014年12月刊行『こころ』vol.22誌上」


僕は、この賞に飛びついた。「締切は執筆の父」なので。2カ月で書き上げて応募した。

その後、8月に最終候補作発表がある。
応募98篇、うち15作が一次選考を通過。7作が最終候補作となる。『消えた街』が入っていた。
正直に言うと、僕の中で助平心がむくむくと湧き上がった。が、その後は音沙汰なし。




そして受賞作は『浜辺の晩餐』(小森京子/65歳)。おめでとうございます!
佳作は三篇。
『風の賦人』(大山舞子/80歳)。『黒犬先生伝』(三島麻緒/65歳)。『あなたは何故、』(大森レイ/81歳)。おめでとうございます!



『消えた街』にも半藤一利さんが講評を書いてくれた。
「消えた町(ママ)」は構成に厚みがなく、やや〝あらすじ〟めいた作品になった。読後に感動が湧いてこないのはそのせいであろう。
辛口である。でも、そのとおりなのだろう。なぜなら執筆動機に「他人史」を書きたいという小説としては不純なものが含まれていたのだから。

《東京の師匠》からも『消えた街』とニワカ小説家への鋭いご指摘がきた。
小説家は「鳥瞰目線」を持たねばならない。登場人物に対して「酒に酔ったような同調」をしてはならない。生物学者が生態観察をするように登場人物を見つめ分析し、それを再構築して描かなければならない。
親戚や盟友の父への「ベタな愛情」は、小説表現には無用なものだった。『消えた街』の一般読者(今のところ10人程度)に「感動が湧かない」のはそのせいであろう。


ともあれ、昭和史の大家、半藤一利さんが『消えた街』を読み、講評してくれた。その事実はニワカ小説家にとって大きな励みとなる。「消える時」を内在させたニワカが、来年どのような小説を書くのか、あるいは書かないのかは誰にも分からない。何しろ本人に分かっていないのだから、他人に分かるわけがない。

しかしながら、書くことへの志は消えていない。僕にはまだ書きたいことがある。

『消えた街』は賞に落選したことによって、本来の目的を果たすことができるようになった。
『消えた街』は本になる。米子の今井出版でオンデマンド印刷をして本にする。
限定20部。お世話になった関係者への御礼本だ。

一世紀以上を生きた「白川妙子」さんにお迎えがきた日には、その棺に納めてあげよう。
盟友の父の墓前にも、きっと届けられることだろう。




書くということは孤独な行為だ。ドアを閉めて想像力の地下室に降りていくことだ。たとえ「あらすじ」であろうとも。僕は身の丈160センチまで地下室に降りた自信はある。
来年はもう少し深く降りて、また戻ってこよう。

僕の2014年は小説の執筆から始まった。その後も孤独な作業が多かった気がする。

夏の終わりには、文脈研究所のレポートを定本化した。アホみたいに長い800枚の原稿をまとめていく作業は自分のありかたを見つめ直す契機となった。そこで「鳥瞰目線」を少しでも獲得できていればいいのだが。

孤独に書いて、孤独に釣って、孤独に草を刈る。そんな一年……。
上山棚田団と協創LLPにも、多くの関わりは持たなかった。それでも心の底では彼らとの連帯を求めていた。それは確かなことだ。

消えゆく年を愛おしむだけでは何も始まらない。
「終わったのなら始めればいい」のである。
消えていくべきものには消えてもらい、ありつづけるべきものの後押しをすること。

来年は、きっと厳しい年になる。消えたはずのものが蘇ってくる。
肥料をやりすぎた野菜に虫たちがすり寄ってくるように不気味なものが蠢いている。
「戦争のできる銭ゲバ帝国」は消えたはずだったのに。

来年も僕は書き続けていこう。田んぼに這いつくばってコナギを取り続けるように。
言葉の力を信じて。「言霊の幸ふ国」に貢献できるように。
晩生(おくて)の書き手は「書くためのナイフ」を日毎夜毎に研いでいくしかない。

でもね、山の神には叱られるのですよ。
「書くのはいいけど、あんたは自分を追い詰めすぎて見てられない」と。
晩成文学賞の締切間近の僕を観察した結果の言葉なのだ。
はい、おっしゃるとおりです。ときどきはドアを開けて書くようにします。
そして来年の3月には、「白川妙子」さんの103歳の誕生日にご一緒させていただきます。


今月の文脈レポートもいつものようにドアを閉めて書いていたら、こんな笑顔が扉を開いてくれた。妙子さんから101年の時を隔てて生まれてきた笑顔だ。


僕と繋がっている皆さん!
今年も長い文脈レポートを読んでくれてありがとうございました。誰かがどこかで読んでくれているに違いない、という思いが僕の支えです。お世話になりました。良いお年を!

来年の大晦日こそは「そんな時代もあったねと」笑って話せる年になりますように。
昨年末にも同じメッセージを書いたのですが、来年こそは!

Never Never Never Give Up !

PS:小説『消えた街』に興味がある方は僕にフェイスブックメッセージをください。PDFファイルでお届けします。ご笑読ください。また『コンテキスターの日々』(定本・田中文脈研究所)もPDFでお届け可能です。ただし、こっちは長いですよ(笑w)。