1995年1月17日午前5時46分。僕は箕面のマンションにいた。揺れた。
それまでの人生で経験をしたことがない揺れだった。
揺れが治まったとき、僕は身動きが取れない自分に気がつく。
布団の上に本が積み重なって脱出できない。家族が僕を掘り出してくれた。
当時、僕が寝ていた部屋は壁一面が本棚だった。揺れは本棚を倒して本を僕の上にまき散らした。
本棚そのものが僕を直撃しなかったのは、枕元に置いてあった小型テレビとテレビ台のおかげだった。それがなければ、僕は箕面市で唯一の怪我人になったかもしれない。
そうなのだ。箕面市は揺れは激しかったが怪我人もいなかった。
箕面市も僕もとてもラッキーだった、と今でも思う。すぐ西の伊丹市では阪急の駅が落ちたのに。
その時、僕は43歳。典型的な会社人間だった。
本の山から出て、まず考えたことは、「今日の仕事をどうしようか」。
その日は三重県の名張市にロケハンに行く予定が入っていた。京都のクライアントとの打ち合わせもあったのかもしれない。電車は動いていない。当時、持ち始めていた携帯電話も固定電話も通じない。公衆電話を見つけた。午前8時にはこの電話は通じていた。
奈良に住む上司に電話して「やっぱり、今日は無理やろね」とのんびりとした会話をしたことを覚えている。
その頃、神戸は大変なことになっていた。箕面や京都や奈良とはまったく違う状況になっていた。特に長田地区の火災は写真を見るのがつらかった。
僕は、その後、ボランティアとして阪神間に行き……というふうにストーリーは展開しなかった。
相変わらず会社の仕事優先で動きながら、阪急電車が西宮北口まで運行再開したあとに三宮まで歩いただけだった。何かをやりたい、という思いはカタチにならなかった。
それから、20年目の1月17日、僕は神戸の長田にいた。
【MERRY IN KOBE 2015】
このイベントの詳細はメリープロジェクト公式サイトにアップされている。
ドキュメントはこちらを読んでください。
「20年目の神戸から未来に笑顔をつなげよう!」
「阪神・淡路大震災から20年、未来へ『生きる』」
僕は、現場で見て聞いて感じたことを記録に残しておこう。
メリープロジェクトは、2001年以来、神戸の笑顔とともにあった。水谷孝次さんのメリープロジェクトの原点は神戸にもある。
2001年5月、神戸の震災跡地であるポートアイランドのひまわり畑で、水谷さんは生後8カ月から97歳までの笑顔を撮りまくったそうだ。
そのうちのひとりが駒井みつきさんだった。当時、7歳だった自分の笑顔の傘を持って水谷さんと再開し、14年目の笑顔の同窓会が実現した。
僕は2011年以来、様々なメリープロジェクトに参加してきた。そこでいつも思うことは、それぞれの場所でそれぞれのメリーがある、ということだ。
メリープロジェクトが行くのは、負の財産を背負った子供たちがいるところである。その多くは地震や津波など、つらいできごとで傷つけられた場所だ。
水谷さんが〝MERRY〟を始めたきっかけは、アメリカ旅行中のバスで撮影した子供たちの写真である。1999年のこと。
何気なく撮影したスナップに子供たちの笑顔がはじけていた。そこには世紀末の暗さはなかった。以来、16年、メリーの躍動は世界のソーシャルデザイン史に刻まれている。
そして〝MERRY〟というデザインをクオリティの追求からコミュニケーションのカタチに進化させたのが阪神大震災であった、と水谷さんは言う。
2015年、水谷さんから長い年賀状が来る。そこにはミスターメリーの思いが「MERRY主義宣言」として綴られていた。
【MERRY IN KOBE 2015】のメッセージにはこんな言葉があった。
「あなたが笑う時、世界もいっしょに笑う」
はい、僕も神戸で、世界といっしょに笑顔になりたいです!
1月16日、前日からのスタンバイを手伝うために僕は大正橋筋商店街で水谷さん、柄本さん、河野さんを待っていた。
長田に向かう電車の中で、僕は『ラジオフォーラム』の「阪神淡路大震災復興の20年」という音声アーカイブを聞いた。
番組内で大正橋筋商店街理事の伊東正和さんは、こう語っていた。
『ラジオフォーラム』パーソナリティの石丸次郎さんは以下のように解説した。
水谷さんたちと合流した僕は、いっしょに商店街のキーマンへのご挨拶にいった。まずは伊東さん。
水谷さんの話では「とにかく商店街を笑顔、笑顔、笑顔でいっぱいにしてほしい、もう暗い話はいらない!」と伊東さんに頼まれたことから、今回のメリーイン神戸が始まったということだ。
大正橋商店街アーケードの入口を笑顔、笑顔、笑顔にするスタンバイを始める。
僕は現場に入れば、身体が自然に動いていく。広告代理店時代に様々な撮影現場で培った経験値で。焦りを感じれば感じるほど、全体像を見る訓練はできているつもりだ。
それでも60本の笑顔の傘で大正橋筋をメリーにするセッティングは厳しいものだった。
人手が足りない。こんなときは、とにかく手を動かし続けるしかない。ただし効率的に。
ネットに傘を取り付けていくとき、上から何マス目に刺していけばカタチが整うのか、そういう計算が僕はまったくできない。自慢じゃないけど、僕は文系コンテキスターなのだ。
そんなときに頼りになるのが協創LLPと上山棚田団の仲間たちだ。
仕事の合間に駆けつけて、傘レイアウト計算をしてくれたみやしゅー(宮北公英)、ありがとう!
ひたすら手を動かしてくれたいのっち(猪野全代)とやっしー(前多康代)、ありがとう!
2階からヒモを垂らしネットを引っ張り上げ続けたヤス(杉浦靖明)、ありがとう!
スーパープロデューサ、柄本綾子さんのレイアウトチェックが終了したのは大正橋商店街の灯りが落ちる直前であった。
一方、六間道4丁目商店街もメリーになっていく。
富士屋呉服店の増井宏行さんがアーケードの屋根からメリー傘をぶら下げた。
そして、「アースデイWITHマイケル」のためのステージもスタンバイされる。
増井さんは気遣いの人だ。「マイケルやも」(山際伸二郎)と会ったこともないのに、水谷さんの話を聞いて、フライヤーを制作しホテルや商店街で事前配布をしてくれていた。
この人たちは何時に家を出てきたのだろうか、と想像する。
そして祈りの時間。
この時間帯は被災した皆さんのためのものだ。
さあ、メリーイン神戸が始まる!
六間道5丁目商店街の寺子屋スペースに集まったボランティアに水谷さんが挨拶する。
「今日は参加者の皆さん同士、そして地元商店街の皆さんとの交流を楽しんでください」
この一言でボランティアの雰囲気が和んだ。
ここには「ふくしまっ子10万人笑顔プロジェクト」の笑皿が飾られて、メリーワークショップの準備が整っている。
鉄人広場で受付に行くスタッフ、商店街に笑顔の傘を並べるスタッフ、ノエビアスタジアム神戸でのステージに備えるマイケルチーム、それぞれのパートが気合い、ではなく笑顔を入れる。
こういう瞬間が僕は大好きだ。
メリープロジェクトはいつも最小限の人数で手作りイベントを成功させている。現場にハプニングはつきものだ。それでもみんな笑顔で動く。
たくさんのお客さんが訪れる1月17日、店の前でずっとマイケルのMERRY LIVEをサポートする増井さん。
飛びっきりの笑顔で。奥様とともに。
♪人は誰も
♪People all over the world
お好み焼き屋「やよい」のおばちゃんが、大正筋商店街入口の笑顔を誉めてくれた。
こういう瞬間があるから、メリーはやめられない。
【MERRY IN KOBE 2015】は無事終了した。
新長田駅前に灯された「ながた」の文字を見ながら、僕はフェイスブックにつぶやく。
そして、今、僕はメリーな文脈と善循環と持続可能性について考えている。
神戸の笑顔は東北の笑顔につながり、ニューヨークの笑顔は北京の笑顔につながる。
耕作放棄地の笑顔がシャッター商店街の笑顔につながり、ナイロビの笑顔がロンドンの笑顔につながる。
ヒロシマ・ナガサキの笑顔がフクシマの笑顔につながる。
そのメリーゴーラウンドの中心にあるのが水谷さんの笑顔である。筋金入りの〝MERRY〟だ。
そして、思ったことは必ずやる笑顔だ。
僕は水谷孝次さんをリスペクトしている。
アーティストとして。
ソーシャルデザイナーとして。
ひたむきに生きる人生の先輩として尊敬している。
2011年2月、311で世の中が変わる直前に「不屈の笑顔」に出会えたことを縁脈の神様に感謝したい。
「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」(『幸福論』アラン)
それまでの人生で経験をしたことがない揺れだった。
揺れが治まったとき、僕は身動きが取れない自分に気がつく。
布団の上に本が積み重なって脱出できない。家族が僕を掘り出してくれた。
当時、僕が寝ていた部屋は壁一面が本棚だった。揺れは本棚を倒して本を僕の上にまき散らした。
本棚そのものが僕を直撃しなかったのは、枕元に置いてあった小型テレビとテレビ台のおかげだった。それがなければ、僕は箕面市で唯一の怪我人になったかもしれない。
そうなのだ。箕面市は揺れは激しかったが怪我人もいなかった。
箕面市も僕もとてもラッキーだった、と今でも思う。すぐ西の伊丹市では阪急の駅が落ちたのに。
その時、僕は43歳。典型的な会社人間だった。
本の山から出て、まず考えたことは、「今日の仕事をどうしようか」。
その日は三重県の名張市にロケハンに行く予定が入っていた。京都のクライアントとの打ち合わせもあったのかもしれない。電車は動いていない。当時、持ち始めていた携帯電話も固定電話も通じない。公衆電話を見つけた。午前8時にはこの電話は通じていた。
奈良に住む上司に電話して「やっぱり、今日は無理やろね」とのんびりとした会話をしたことを覚えている。
その頃、神戸は大変なことになっていた。箕面や京都や奈良とはまったく違う状況になっていた。特に長田地区の火災は写真を見るのがつらかった。
僕は、その後、ボランティアとして阪神間に行き……というふうにストーリーは展開しなかった。
相変わらず会社の仕事優先で動きながら、阪急電車が西宮北口まで運行再開したあとに三宮まで歩いただけだった。何かをやりたい、という思いはカタチにならなかった。
それから、20年目の1月17日、僕は神戸の長田にいた。
【MERRY IN KOBE 2015】
このイベントの詳細はメリープロジェクト公式サイトにアップされている。
ドキュメントはこちらを読んでください。
「20年目の神戸から未来に笑顔をつなげよう!」
「阪神・淡路大震災から20年、未来へ『生きる』」
僕は、現場で見て聞いて感じたことを記録に残しておこう。
メリープロジェクトは、2001年以来、神戸の笑顔とともにあった。水谷孝次さんのメリープロジェクトの原点は神戸にもある。
2001年5月、神戸の震災跡地であるポートアイランドのひまわり畑で、水谷さんは生後8カ月から97歳までの笑顔を撮りまくったそうだ。
そのうちのひとりが駒井みつきさんだった。当時、7歳だった自分の笑顔の傘を持って水谷さんと再開し、14年目の笑顔の同窓会が実現した。
僕は2011年以来、様々なメリープロジェクトに参加してきた。そこでいつも思うことは、それぞれの場所でそれぞれのメリーがある、ということだ。
メリープロジェクトが行くのは、負の財産を背負った子供たちがいるところである。その多くは地震や津波など、つらいできごとで傷つけられた場所だ。
水谷さんが〝MERRY〟を始めたきっかけは、アメリカ旅行中のバスで撮影した子供たちの写真である。1999年のこと。
何気なく撮影したスナップに子供たちの笑顔がはじけていた。そこには世紀末の暗さはなかった。以来、16年、メリーの躍動は世界のソーシャルデザイン史に刻まれている。
そして〝MERRY〟というデザインをクオリティの追求からコミュニケーションのカタチに進化させたのが阪神大震災であった、と水谷さんは言う。
2015年、水谷さんから長い年賀状が来る。そこにはミスターメリーの思いが「MERRY主義宣言」として綴られていた。
「人間には、マイナスがあるからプラスがある。ほんとうに悲しい時こそ笑うんだ。だから笑顔が美しい」と気付いた。 それが人間の強さであり、美しさなのだと思います。国が違って言葉が通じなくても、笑顔と笑顔で心がつながる。地球上のあちこちで「MERRY」な交流が生まれ、笑顔が伝染していきます。 誰かの笑顔が地球をぐるりめぐって、あなたに笑顔を運んでくれる。 笑顔がつなぐ「MERRY」のリレーに、国籍も人種も宗教も関係ありません。
貧しい国では、安全な飲み水や教育が足りません。豊かな国では、愛と思いやりが足りません。
お金がすべてという価値観では、強欲で身勝手な資本主義に走りがちです。 そんな社会を見直して欲しい。幸せの意味を問い直して欲しい。 「MERRY」な笑顔を増やすことを一番に考える社会。みんなを笑顔にして、自分も幸せになる。まさにメリーゴーラウンド。 そんな生き方を私は「MERRY主義」と名付けました。地球が笑顔でいっぱいになることを、心から願って……。水谷さんの〝MERRY〟は絶対的笑顔主義なのだ。
【MERRY IN KOBE 2015】のメッセージにはこんな言葉があった。
「あなたが笑う時、世界もいっしょに笑う」
はい、僕も神戸で、世界といっしょに笑顔になりたいです!
1月16日、前日からのスタンバイを手伝うために僕は大正橋筋商店街で水谷さん、柄本さん、河野さんを待っていた。
長田に向かう電車の中で、僕は『ラジオフォーラム』の「阪神淡路大震災復興の20年」という音声アーカイブを聞いた。
番組内で大正橋筋商店街理事の伊東正和さんは、こう語っていた。
毛布1枚もらうにしても一日かかった大変な状況から、わずか2カ月という短い期間で再開発という決定をさせられた。それが問題。こんな素晴らしいかたちの街になるというメリットは聞いたけど、デメリットは聞いていなかった。建物はできたけど、経費が前の倍以上、掛かっている。それはすごい負担です。大正筋商店街は、あのとき、9割が焼け落ちた。それから、2711億円をかけた大規模再開発が始まったそうだ。完成したショッピングモールに入って生活再建をした住民たち。だが、そこには大きな課題があったらしい。
『ラジオフォーラム』パーソナリティの石丸次郎さんは以下のように解説した。
元々の大正橋筋商店街はお店と住居が一体となったアーケード式でしたが、復興計画で住所と店舗が別々の場所になった。一応アーケードはあるが、そこにはテナントが上の階に入っていった。ですから昔の商店街とは違う形態の商売をすることになった。その過程で多くの経費が増えていってしまった。商売がなかなか割りがあわなくなった。
水谷さんたちと合流した僕は、いっしょに商店街のキーマンへのご挨拶にいった。まずは伊東さん。
水谷さんの話では「とにかく商店街を笑顔、笑顔、笑顔でいっぱいにしてほしい、もう暗い話はいらない!」と伊東さんに頼まれたことから、今回のメリーイン神戸が始まったということだ。
大正橋商店街アーケードの入口を笑顔、笑顔、笑顔にするスタンバイを始める。
僕は現場に入れば、身体が自然に動いていく。広告代理店時代に様々な撮影現場で培った経験値で。焦りを感じれば感じるほど、全体像を見る訓練はできているつもりだ。
それでも60本の笑顔の傘で大正橋筋をメリーにするセッティングは厳しいものだった。
人手が足りない。こんなときは、とにかく手を動かし続けるしかない。ただし効率的に。
ネットに傘を取り付けていくとき、上から何マス目に刺していけばカタチが整うのか、そういう計算が僕はまったくできない。自慢じゃないけど、僕は文系コンテキスターなのだ。
そんなときに頼りになるのが協創LLPと上山棚田団の仲間たちだ。
仕事の合間に駆けつけて、傘レイアウト計算をしてくれたみやしゅー(宮北公英)、ありがとう!
ひたすら手を動かしてくれたいのっち(猪野全代)とやっしー(前多康代)、ありがとう!
2階からヒモを垂らしネットを引っ張り上げ続けたヤス(杉浦靖明)、ありがとう!
スーパープロデューサ、柄本綾子さんのレイアウトチェックが終了したのは大正橋商店街の灯りが落ちる直前であった。
一方、六間道4丁目商店街もメリーになっていく。
富士屋呉服店の増井宏行さんがアーケードの屋根からメリー傘をぶら下げた。
増井さんは気遣いの人だ。「マイケルやも」(山際伸二郎)と会ったこともないのに、水谷さんの話を聞いて、フライヤーを制作しホテルや商店街で事前配布をしてくれていた。
1月17日早朝。午前5時46分のセレモニーに参加するために、会場に向かう。
昨晩の強風のため、アーケード入口の傘が吹き飛ばされていた。近くのホテルに泊まった僕が到着したとき、すでに修復を始めているボランティアたち。この人たちは何時に家を出てきたのだろうか、と想像する。
そして祈りの時間。
この時間帯は被災した皆さんのためのものだ。
さあ、メリーイン神戸が始まる!
六間道5丁目商店街の寺子屋スペースに集まったボランティアに水谷さんが挨拶する。
「今日は参加者の皆さん同士、そして地元商店街の皆さんとの交流を楽しんでください」
この一言でボランティアの雰囲気が和んだ。
ここには「ふくしまっ子10万人笑顔プロジェクト」の笑皿が飾られて、メリーワークショップの準備が整っている。
鉄人広場で受付に行くスタッフ、商店街に笑顔の傘を並べるスタッフ、ノエビアスタジアム神戸でのステージに備えるマイケルチーム、それぞれのパートが気合い、ではなく笑顔を入れる。
こういう瞬間が僕は大好きだ。
メリープロジェクトはいつも最小限の人数で手作りイベントを成功させている。現場にハプニングはつきものだ。それでもみんな笑顔で動く。
たくさんのお客さんが訪れる1月17日、店の前でずっとマイケルのMERRY LIVEをサポートする増井さん。
飛びっきりの笑顔で。奥様とともに。
♪人は誰も
生まれた瞬間から
みんなで生きてる~
君が微笑めば 僕も微笑み愛になる
いつの日にか きっと世界中
笑顔だけになる・・・
笑顔の打ち上げ!
それも僕は大好きだ。神戸風そばめしもビールも大好きだ。
こういう瞬間があるから、メリーはやめられない。
【MERRY IN KOBE 2015】は無事終了した。
新長田駅前に灯された「ながた」の文字を見ながら、僕はフェイスブックにつぶやく。
長い鎮魂の一日が終わります。僕にとっては一日でも被災者の皆さんには明日からも永い時間が流れ続けます。20年前の1月17日に強制終了させられた6434篇の物語への想像力を持ち続けること。
そして、今、僕はメリーな文脈と善循環と持続可能性について考えている。
神戸の笑顔は東北の笑顔につながり、ニューヨークの笑顔は北京の笑顔につながる。
耕作放棄地の笑顔がシャッター商店街の笑顔につながり、ナイロビの笑顔がロンドンの笑顔につながる。
ヒロシマ・ナガサキの笑顔がフクシマの笑顔につながる。
そのメリーゴーラウンドの中心にあるのが水谷さんの笑顔である。筋金入りの〝MERRY〟だ。
そして、思ったことは必ずやる笑顔だ。
僕は思ったことは必ずやる。思ったら飛べ。川が狭いか広いかは別として、とにかく自分が先に渡ることで物事が進み始める。いろんなことを解決するためには、一歩でも先に進まないとダメだ。プロジェクトもそうだし、人生もそうだ。
『デザインが奇跡を起こす』(水谷孝次/PHP研究所/2010年刊)
僕は水谷孝次さんをリスペクトしている。
アーティストとして。
ソーシャルデザイナーとして。
ひたむきに生きる人生の先輩として尊敬している。
2011年2月、311で世の中が変わる直前に「不屈の笑顔」に出会えたことを縁脈の神様に感謝したい。
「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」(『幸福論』アラン)
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