2021年3月16日火曜日

IN MY LIFE Part2~中﨑義己さん

 3月13日で69歳になった。いわゆる「古希」まで後一年である。古来、希であった年齢も、今ではそれほどありがたみがなくなったようだ。

ならば「新希」。新しい希望が一年後に生まれる。

2016年9月、萩野正昭氏70歳パーティにて

豊かな土を育てるのは〈関係性〉だと思う。SARS-CoV-2が人と人の〈関係性〉を破壊する時代になっても、僕の人生はまだ豊かな〈X=関係性〉に支えられている。希望は自分で実らせる。結実のためには土壌がいる。

そのことに深く深く感謝したい。

還暦になったとき、「IN MY LIFE」という文脈レポートを書いた。

60歳になる直前に電通時代の戦友を失った。享年63歳だった。僕はその友より年上になって久しい。

IN MY LIFE」はジョン・レノンの名曲である。

 ♪~Some are dead and some are living,

  In my life Ive loved them all~♪

 死んでいる人も生きている人も僕は僕の人生の中ですべての人を愛してきたのだ。ちょっと恥ずかしい言葉も、ジョンのボーカルを借りれば語れる。

69歳になる直前に、年下の友を失う。216日に56歳で逝去した中﨑義己さん。

「僕もあと4年で還暦です。気をつけなきゃ」という言葉を遺し、川を渡って往った中﨑義己さんのことを書きたい。

最期に会ったのは2月13日、梅田のコワーキングスペースだった。いつもは現場で実践的な会話を交わすだけなのに、珍しく(おそらくは初めて)、これからのことを長い時間打ち合わせた。僕の「予兆なき人生初入院」の話をしたとき、返ってきたのが「あと4年」だった。

どうして、あの日、中﨑さんの写真を撮らなかったのだろうか。

「これからは、ここをベースにします。いつでも来てください、また話しましょう」と言われて、受付で別れを告げた。

中﨑さんの心肺が致命的に突然停止した216日の夕刻、僕は落語の「死神」を箕面メイプルホールで聞いていた。

自分の寿命の蝋燭を「ほっ」と吹き消して、バタンと息絶える。

中﨑さんの棺を180度回し、「アジャラカモクレンテケレッツのパッ」と呪文を唱えて柏手を2度打ったら、生きかえらないだろうか。

そんなことを思いながら、219日の通夜でお顔を拝見した。

まるで寝ているような安らかなお顔でした。そんなステレオタイプな言葉を使いたくなるくらい、悔しくて悲しくて。

僕は「往生」という言葉が好きだ。「往って生きる」。だから旅立つ人には、いってらっしゃい、と声をかける。

2020年4月29日、大円棚田
僕が知っているのは、希代の六次産業化プランナーのごく一部である。それほどの頻度で会っていたわけでもない。おそらくは誰も中﨑さんの全体像をホリスティックにとらえた人はいないように思われる。

僕に彼を紹介してくれたのは、なかがわ空庭みよこさん。関西の農的コネクションの元締めである。

最初に会ったのは『出雲國まこも風土記』を上梓した2016年の秋。僕と中﨑さんの縁脈はまこもさんがつないでくれた。彼は僕のまこも本二冊の伝道師でもあった。

2017429日には豊能町の大円(おおまる)棚田にはじめて行く。

2010年の同日、中﨑さんは綾部から72本のまこも株を棚田に移植した。以来、そこは北摂まこもの母田となった。

毎年、同じ日に株分けイベントをする。母なる田からまこもを持ち帰った人々は、それぞれのポジションでまこもさんを慈しむ。

2018年4月29日、大円棚田

今年も429日が巡ってくる。中﨑義己さんはいないのに。

遺志を継ぐこと。

2017年4月29日、大円棚田

2018年4月29日、大円棚田
中﨑さんの声は穏やかでまろやかだった。どちらかというと低い声。その声が棚田やマルシェに沁みとおる。

毎月の第二土曜日、難波神社で開かれる「ぐりぐりマルシェ」。主催する空庭みよこをサポートした中﨑さんのきめ細かさが十全に発揮されていた。

どんなイベントにだって裏方はいる。裏がなければ表はない。

2019年3月9日、ぐりぐりマルシェ

2021313日。空庭は「中﨑さん、ありがとうマルシェ」を開いた。

中﨑義己さんがいない「ぐりぐりマルシェ」にその志が飾られた。

空から雨が降りそうで降らない。降れば涙雨になりそうだから。

中﨑さんは難波神社の楠の枝に座っていた。たぶん。だめですよ、そこは国つ神の指定席なんだから。ははは、そのとおりですね、と声が聞こえた。

次から次へと中﨑縁脈がつながっていく。


ささやかな追悼文集が目の前にある。ささやかだけどつながっている。
前に行くための言葉がつらなっていた。

中﨑さんの笑顔は歯が可愛い。いつも楽しそうにプレゼンをしていた。

パナソニックに20年間勤めていたときは、最先端のIT系担当だったとのこと。ノートPCはもちろん「レッツノート」。発酵デザイナー、小倉ヒラクさんの講演をアシストしたときには「Mac、わかりませーん!」とぼやいていたのが懐かしい。

なんだか、彼の言葉の断片を想い出す。「松田聖子は蒲池法子です」。そんな酒呑み話をしたこともある。僕が電通で仕事をしたアイドルのことを話した数少ない仲閒でもある。

僕は文系コンテキスターだ。言葉の文脈を接続していくことしか能がない。

ところが、中﨑さんは「文理の統合(言葉と数学の融合)」を目指していた、という話を逝去後に聞いた。

「数学的思考による物事の洞察・理解」が行動規範だったという。

うーん、僕の知らない理系の顔をした中﨑さんがいる。さらには「カタカムナ」にも興味を示していたという。橋を渡って向こう岸に行く機会がきたら、ぜひ会って話を聞かせてください。

そういえば、八坂神社(大阪市大正区)の茅の輪をつくるために、毎年、大円棚田からまこも葉を運んでいた。夏越しの祓のときには、滔々と祝詞を唱えていた。

幸い、僕が預かっている彼のプレゼンパワポは文系でも理解できる。


中﨑さんは棚田を愛でていた。荒廃した棚田の復活の道を探っていた。

耕して天に至る棚田。田毎の月が映る。向こう岸でも見えてるかい?

大阪の南では千早赤坂村の早乙女たちが今年も田植え唄を口ずさみながら「植え筋とらえて手際よく」前に進んでいくことだろう。秋のハゼ干しも、もう何度もやっている。

大阪の北には能勢町天王の「空田」がある。こちらの棚田では、まこもがすっくと青空を目指す。「天空のまこも谷」というネーミングを採用していただき、ありがとうございます!

6枚の棚田をまこもが蘇らせるという夢のような景観を、中﨑さんとともに観たい。そう願っていた地元の人々は、あの山道を登りつづけることだろう。

2020年6月22日、天空のまこも谷

忘れない。往ってしまった人を悼むためには想い出すこと。その人が何を愛していたかを覚えておくこと。


風に吹かれたまこもさんがしゃらしゃらとおしゃべりするとき、そこには中﨑さんの声も混じることになる。きっとそうなる。


中﨑義己さんはまこもの香りに包まれて旅立った。

どうか、向こう岸のまこもさんにもよろしくお伝え下さい。

いってらっしゃい、またいつかどこかで会いましょう。

僕は、新希のためのリセットを始めます。




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