吉賀と書いて「よしか」と読む。〝良い鹿〟が住む町らしい。
島根県鹿足郡吉賀町(かのあしぐんよしかちょう)。島根県西南部の端っこ、出雲から遠く離れて山口県と向き合う分水嶺の町である。2005年10月1日に柿木村と六日市町が合併して誕生した。
そんな、お上の都合とは関係なく、この地は平安の昔から「よしか」と呼ばれていた。
『吉賀記』と『古事記』は漢字の見た目がよく似ている。さらにそこには似たような伝説が語られていた。八岐大蛇(やまたのおろち)と八畔鹿(やくろじか)。
八畔鹿とは、足が八本、角は「八畔」、つまり八本に枝分かれいる巨大な悪鹿。体を覆い尽くす毛は赤毛で、その毛の長さは一尺あまりだったそうな。
そう言われたら、八岐大蛇を連想しない方がおかしい。
民草を苦しめる怪物を退治するのは都から来た武士。道案内するのは国つ神の猿田彦だ。
やがて、八畔鹿は討ち取られ、良き鹿となりてこの地に祭られたという。
八岐大蛇が出雲の斐伊川のメタファーだとしたら、八畔鹿は日本一の清流・高津川を汚すなにかの化身だったのかもしれない。
吉賀町は高津川とともにある。柿木村はまだ中流部だ。さらに上へ詰めると六日市地区。そこに「山百姓」を名乗るあつくん、山口敦央(あつてる)さんのベースキャンプがあった。
ほとんど山口県になります、と言われていた山口家を訪ねたのは7月12日。その日は雨だった。アウトドアの取材はできそうにない。僕はじっくりと「山百姓」の話を聞くことにした。
雨の日の話は長くなる。部屋で種取りを待っている大根たちに悪いくらいに。
あつくんと初めて会ったのも2011年3月7日。「村楽LLP=有限責任事業組合」の設立準備サミットを飯南町で開催したときだった。
村楽LLPとは、地域おこし協力隊の全国ネットワークの名称である。
話はそこから始まる。僕はてっきりあつくんも地域おこし協力隊だと思っていた。実は当時は吉賀町企画課の「よしか暮らし相談員」として移住のコーディネーターをしていたそうだ。
協力隊は協力隊でも青年海外協力隊。2010年までウガンダにいた。アフリカ大陸はケニアの西。しかもそこで有機農業の普及をしていたという。これは筋金入りの半農半Xと巡りあったのかもしれない。
あつくんは7月7日に34歳になったばかりだった。誕生日の抱負は「笑顔を絶やさない!」。なるほど。
でもね、笑顔を抱負にするあつくんって、ほんとは根暗なのかもしれない、とは僕の第一印象だった。取材を続けると、その印象は変わってくるのだが。
本人もこう言っている。
「村楽LLPの設立準備サミットって、めちゃ派手だったから、僕、めんくらっちゃって。で、なんか関わるのをやめました。鼻息の荒い人といるのは苦手だし」
「僕はまだ自分に自信がない。けっこうしんどい、ぶっちゃけ。いつも悩んで眉間にシワが寄っているって言われることも多いんです」
悩めるあつくん!
それは君のXが並外れているからじゃないかな、と文脈家は思う。
〝内観する農家〟を自分のXにしたら、考え込まない方がおかしい。
「農家というエクストリームスポーツに取り組んでしまった結果、険しい顔になる事がままあるけど、笑顔だとやっぱうまくいきます」と誕生日に言ったあつくん。
村楽LLPの設立時のスローガンは「百匠たち百商して百笑する」だった。
内観しながら、極限の農家を目指すなら、これはもう笑顔でいかないと、しんどいだろう。
7月12日は雨で田んぼにも畑に行けなかったので、僕は梅雨明けの7月28日に再度、山百姓を訪ねた。このレポートに掲載しているアウトドアの写真は、その時点で撮ったものだ。
内観ばかりしていては、夏場の農作業は進まない。手を動かしているうちに、あつくんはとびきりの笑顔を見せる。根が暗かろうと明るかろうと、それは大きな問題ではない。問題は、根っこのうえにどんな笑顔を咲かせるかである。
それにしても、「山百姓」に「農家というエクストリームスポーツ」なのだ。
僕が取材を申し込む人は言葉に対する感受性が鋭い人が多い。
「山百姓」という言葉に彼は様々な意味合いを含めている。
山口姓の山、山岳部の山、里山の山、山仕事の山、山口県境の山、自分の山を内観しながら生きてきたあつくん。今、山口敦央は誇りを持って自己を「山百姓」と呼ぶ。
ならば、あつくんは「半農半山百姓」。今回の取材は以上、おわり。
そういうわけにはいかないのだ。あつくんの話は獣道をたどりながら奥へと進む。
そもそも、「半農」のあとに「半(山)百姓」と続くのはおかしい、と思う人もいるだろう。半分が農(業)で半分が百姓なら専業農家だ。
あれれ、半農半Xって、兼業農家のことでしょ、と思った人は、半農半Xの「稼ぎ」の部分を見過ぎている。
専業農家、兼業農家は、行政が農家を区分するために作った用語で、そこには「志」を測る基準はない。
あつくんもまた「半農半X」ワールドの大先輩だった。
彼は大学生のとき、2001年に「半農半X」という言葉と出会っている。
塩見直紀さんが「半農半X研究所」を設立したのが2000年。バイブル『半農半Xという生き方』を上梓したのが2003年。今世紀の初めから、塩見さんの言霊は心ある若者たちにじわじわと浸透していたのだ。
あつくんは学生時代に環境問題に関わる活動をしている。そして、その問題の解は農にあるという結論に達していたそうだ。
あつくんに遅れること9年、2010年に半農半Xに出会った晩生(おくて)の文脈家は、先輩との対話を続ける。
「新規就農者として半農半X的生活設計をするとき、半農から入るのではなく、半Xから設計すべきですね。どんなXをやりたいのかをまず考える。それから、それを支える農を設計していく。あるいは、すでに十分なXを持っている人であれば、そのXの根っこを強化するために農的営みを考えればいいんじゃないですか。
半農から入ると、どうしても農業収入計画にとらわれて、いっぱいいっぱいになってしまいますね」
なるほど、まず半Xありきか。僕はあつくんの話を聞きながら、半農のおさらいをする。
Xを支える半農は、稼ぎがなくてもいい。田んぼや畑がなくてもいい。そこに一輪の花があればいい。花や草や木や虫や魚、山川草木を見つめる眼があればいい。
自分のX、すなわち天職をまっとうするために、土に根ざした考え方と生き型を模索するのが半農ということだ、と僕は思う。
半農は「ねっこ」で、半Xは「たかくのびる」なのである。
山百姓として半農半Xの本質を見つめているあつくんの日々は、「農家として生きる!」に集約されている。
自分が納得できる農法で消費者と繋がること。地域に根ざした農家として「コトおこし」をしていくこと。農家として、ある程度の現金収入を得ること。
内観する農家の農法は、様々なトライをしている。有機栽培、自然栽培、自然農、炭素循環農法……。派閥をつくりがちな各農法にとらわれるともったいないので、自分の農法は「里山農法」となづけたそうだ。
「お前もそうやって勝手に名前をつけるから、また派閥ができてしまうんだ、と言われましたけど」
あつくんは苦笑する。
「里山農法は昔ながらの農法を参考にしていけば成り立つと思っています。里山の生き方、生活の工夫、そういうものの中に知恵がありますね」
僕はあつくんの田んぼと畑を見る。
トマトはソバージュ(野生)栽培。
茄子、かぼちゃ、胡瓜、ズッキーニ、玉蜀黍、モロヘイヤ、いずれも固定種/在来種である。
草と共生しているあつくんの畑を見せてもらっているとき、彼はつぶやいた。
「野菜を野草にすればいいんですよ」
「うーむ、深い」と感心した文脈家に、「福岡正信の言葉ですけどね」と山百姓はさらりと答えた。
様々な農法を操るあつくんに、野菜の味についても訊ねてみた。
「自分がつくった野菜は絶対においしいですよ。それは自分自身が育てたものを自分で食べるのだから絶対おいしいと思います」
あつくんの見解は、野菜や米を自分でつくった経験のある人なら、すぐに納得ができるだろう。
「内観する山百姓」は、さらに自分の野菜が目指す味を方向づける。
「食べた後に変な味が残らない野菜が理想です。不自然な後味が残らない野菜……。僕はそんな野菜をつくり続けていきたいです」
この見解にはニワカ百姓の僕も同感である。在来種のトマトや固定種の胡瓜や茄子は「さわやか」な味がする。旨味のあとにいやなものが残らない。
「立つ鳥あとを濁さない野菜!」
山百姓はまたすごい言霊を発した。この人は地味さの層が積み重なって光る言葉を実らせる。
僕は「道の駅かきのきむら」であつくんの自家採種、自然農の〝相模半白胡瓜〟を買い求めた。箕面に持って帰って食ってみる。
うまい!さわやか!後味すっきり!
僕が自分でつくった胡瓜の次にうまい……。と立場上、言っておく。
あつくんは、薄い緑の半白胡瓜を以下のようにレコメンドしている。
ちなみに僕はイクラを乗せて食ってみた。いと旨し。
次はあつくんがつくった米をぜひ食ってみたい、と熱望する稲刈りの季節がすでに来ている。
「山口の人生は半分探し物でできています」と笑うあつくんとの話は尽きない。僕だって探し物は多いのだから。
だけど、そろそろ種取りの時間が来た。次に繋ぐ時は今だ。
分水嶺に住んで、山と里の接点に生き型を求めている「ど田舎確信犯」のあつくん。
彼はこれから島根在来種のワサビ栽培に挑戦するという。
早春、研ぎ澄まされた渓流に咲く白い花を想像しながら、僕は山を下りて柿木村に向かった。
《Intermission~休憩》 いつも長くてすみません!
柿木村は、その筋では有名な村である。ふたつの筋がある。
ひとつは有機農業の先進地。
35年前、1980年には「柿木村有機農業研究会」が発足している。農薬と化学肥料を使わない有機農業は、その里を流れる川の微生物を殺さない。
高津川の水質が素晴らしいのは、流程81キロのうち、15キロある柿木村の流域環境が保たれているからだ、と天野礼子さんは書いている。(『日本一の清流で見つけた未来の種』)
もうひとつの筋は鮎釣りである。
僕のような関西の鮎師には、柿木村流域の高津川は憧れだ。7月に行った2度の取材に、僕は鮎釣り道具一式を持っていった。
結果は7月11日に2尾。7月29日は坊主(釣り用語で0尾のこと)。
釣果はともかく、確かに川の透明度は高い。良質の鮎がつきそうな石もびっしり入っている。ただし、未知なるエックスの川での釣りは難しい。
おっと、鮎釣りのエックスではなく「国つ神と半農半X」の取材だった。
柿木村を含む吉賀町は、島根を目指すIターン者にとっても憧れの地である。
島根県の「半農半X施策」で移住した人は、2010年からの5年間でのべ34名。彼らは出雲よりも石見を選ぶ傾向にある。松江から西へ、西へ。
吉賀町には9名の「半農半X施策」利用者がいる。
正直なところ、移住してみたものの、何らかの理由で去っていった人も多い。僕の知っている初期の島根県地域おこし協力隊のうちにも……。
様々な事情のあるなかで、吉賀町の移住者の定着率は8割に近いそうだ。
そして、2013年8月15日に吉賀町柿木村木部谷(きべだに)に移住してきたのが佐野高太郎さんである。僕がはじめて巡り合った「半農半X施策」利用者だ。
高太郎さんは、まず「ふるさと島根定住財団」の産業体験助成を夫婦で受けた。その1年後に「半農半X施策」の定住定着助成を受けているところだった。こちらは高太郎さんだけ。
その助成も2015年8月31日で終了する。
7月28日、僕が「山百姓」を再取材したあと、「撮る百姓」高太郎さんの話を聞いたのはそんなタイミングだった。
高太郎さんはネクスト・ステップを考えている。
「元々、産業体験をしているときは、プロの農業構想を狙っていたのですが、自分たちが食べたい野菜を突き詰めていくうちに、自然農に近づいていったのですね」
有機農業の先進地、柿木村で高太郎さんはもう少し先に行こうとしている。
「自然農の勉強をしながら夫婦で話し合っていくと、結局のところ、それは農業というよりも生き方の問題なんだよね、ということになってきた」
高太郎さんも半農ではなく半Xの方から入って、人生の選択をする人だった。彼の選択基準は「すべては家族のために」である。
この取材の定番質問、「あなたにとって究極のXとは?」に対して回答をくれるまでは長い間があった。
「家族の笑顔があることですね」
なるほど、なるほど。と、この言葉にうなづくためには、高太郎さんの4年間を振り返る必要がある。
佐野高太郎、44歳。動物写真家。英BBCのワイルドライフ写真賞を二度受賞。
半農半写真家、自然界のフレームを切り撮る天職を持って農的生活を営む人。
僕が取材した人たちのなかで、高太郎さんほど明確にXを定義できる人は少ない。彼の究極のXには「写真」がくると予測するのが普通だろう。
だが、「写真」よりも「家族」だった。
今、彼は柿木村で自分を「撮る百姓」と呼んでいる。そこに至るまで彼は移住を繰り返した。
「遠回りしたけど、必要な遠回りだったんだと思います」と高太郎さんは言う。
遠回りの始まりは311であった。福島第一原発は佐野一家の人生設計を決定的に変えたのだ。
2011年3月11日、佐野一家は東京小金井に住んでいた。フクシマの爆発情報からメルトダウンを確信して、3月15日に神戸に避難する。当時、2歳と0歳だった子供たちの安全と安心を最優先させるために。
そこで紹介してもらったのが祝島(いわいしま)だった。
山口県上関町祝島。上関原発の建設予定地から4キロの瀬戸内海に浮かぶ島である。
フクシマの放射性物質から逃れるために、まず移住した先は反原発の最前線。そして四国の伊方原発から北へ40キロの距離である。さえぎるもののない海を隔てて。
「移住先を探していくと日本のことが見えてくる。魅力的なところを探すと、必ず原発が近くにある。日本ってひどい国だな、と思いましたけどね」
文脈家も思う。
島根県に移住してくる人たちが西を目指すのも、島根原発があるからかな、と。
何しろ、国宝松江城から島根原発までは8.5キロの距離なんだから。
祝島で高太郎さんは百姓の手習いを始める。このときに「半農半X」という言葉と出会ったという。確かにインパクトのある言葉だと思ったそうだ。
家族が理想とする半農半X生活を模索するために、一家はさらに移動する。
2012年11月には北広島町の芸北へ。さらに9カ月後には吉賀町柿木村へ。
そして、佐野夫婦はここで根っこを下ろすことにした。定住財団と「半農半X施策」助成もあったことだし。
高太郎さんが住む柿木村木部谷には「奇鹿(くしか)神社」の分社がある。
時の政権に追い立てられた八畔鹿が良い鹿となって祭られているところだ。
カタチを変えた国つ神が守る土地に、佐野さんの畑と田んぼがあった。目指すは野生の自然農。
半農半Xという生き型の基本マナーは「センス・オブ・ワンダー」である。
高太郎さんのそれは野生のものだ。なにしろアフリカ大陸の「チーターがいる砂漠」で磨かれたものなのだから。
野生動物の世界は弱肉強食である。しかし、それは悲惨な世界ではない。食うものも食われるものも目をきらきらさせる世界。生命力が跳躍する世界だ、と語る高太郎さんの目もきらきらしてくる。
その目で未来を見るとき、理想の野菜と米とは、そこにある水で育った野生の生命力を持つもの。愛とお日様がたっぷりと注がれた作物を自分の子供に食べさせたい。子供たちは正常な生きものの味を覚えて育ってほしい!
高太郎さんは、さらに半農半Xという生き方の理想も語る。
「半農半Xは、百姓という言葉に通じていますね。百姓は農業だけではなく、百の生業(なりわい)をもつから百姓です。農をベースにして、何でも自分でできる生活力を持っていくことも半農半Xの大事なポイントだと思います」
家族愛という土壌に理想という作物を高く高く伸ばしていく……。
高太郎さんは、これから、冬水田んぼ、冬期湛水(たんすい)の米つくりにチャレンジしていくという。
「撮る百姓」は柿木村をベースにして、徐々に写真家としての生業も回復しつつあるという。これはご同慶の至りだ。僕は高太郎さんが撮った野生の野菜や花や動物やカエルや鮎たちが見たい。
アフリカの砂漠や北海道の大自然を観察してきた写真家は、今も「身近」に目を向けている。
そうだ、間違いない、と文脈家は納得してしまった。
取材の旅には出会いがある。まして、これは国つ神、すなわち緑と縁の神様に見守られている(と勝手に思っている)旅なのだ。
「のんびり鮎を釣りにふらっと来た人かと思った」と僕を泊めてくれたのは、はらだ屋旅館の齋藤奈美さん。
柿木村の真ん中で100年近い歴史を持つ宿である。目の前は高津川。しかも絶好の鮎釣りポイントだ。
あつくんと高太郎さんの取材を終えた翌日、高津川で竿を出して、のんびり酒を飲もうと思ったのだが、こういう旅館に泊まると、また取材モードに入ってしまう。
はらだ屋の女将、なみちゃんはあつくんのことも高太郎さんのこともよく知っていた。
この旅館は、筋金いりの鮎師が集まると同時に、移住者の情報交換センターであり、志が高い野菜が持ちこまれるところでもある。
自身も15年前に大阪からUターンしてきたというなみちゃん。彼女は吉賀町の歴史と神社について話してくれた。
そもそも、この文脈レポートのイントロで紹介した八畔鹿の伝説も、はらだ屋にあった本で知った。昔話と神社は、その地域を理解するための重要なファクターである。
怠惰な文脈家は、十分な事前調査をせずに旅に出る。
そして、出会う。綾なす糸で繋がったかけがえのない文脈と。
島根県鹿足郡吉賀町(かのあしぐんよしかちょう)。島根県西南部の端っこ、出雲から遠く離れて山口県と向き合う分水嶺の町である。2005年10月1日に柿木村と六日市町が合併して誕生した。
そんな、お上の都合とは関係なく、この地は平安の昔から「よしか」と呼ばれていた。
『吉賀記』と『古事記』は漢字の見た目がよく似ている。さらにそこには似たような伝説が語られていた。八岐大蛇(やまたのおろち)と八畔鹿(やくろじか)。
八畔鹿とは、足が八本、角は「八畔」、つまり八本に枝分かれいる巨大な悪鹿。体を覆い尽くす毛は赤毛で、その毛の長さは一尺あまりだったそうな。
そう言われたら、八岐大蛇を連想しない方がおかしい。
民草を苦しめる怪物を退治するのは都から来た武士。道案内するのは国つ神の猿田彦だ。
やがて、八畔鹿は討ち取られ、良き鹿となりてこの地に祭られたという。
八岐大蛇が出雲の斐伊川のメタファーだとしたら、八畔鹿は日本一の清流・高津川を汚すなにかの化身だったのかもしれない。
吉賀町は高津川とともにある。柿木村はまだ中流部だ。さらに上へ詰めると六日市地区。そこに「山百姓」を名乗るあつくん、山口敦央(あつてる)さんのベースキャンプがあった。
ほとんど山口県になります、と言われていた山口家を訪ねたのは7月12日。その日は雨だった。アウトドアの取材はできそうにない。僕はじっくりと「山百姓」の話を聞くことにした。
雨の日の話は長くなる。部屋で種取りを待っている大根たちに悪いくらいに。
あつくんと初めて会ったのも2011年3月7日。「村楽LLP=有限責任事業組合」の設立準備サミットを飯南町で開催したときだった。
村楽LLPとは、地域おこし協力隊の全国ネットワークの名称である。
話はそこから始まる。僕はてっきりあつくんも地域おこし協力隊だと思っていた。実は当時は吉賀町企画課の「よしか暮らし相談員」として移住のコーディネーターをしていたそうだ。
協力隊は協力隊でも青年海外協力隊。2010年までウガンダにいた。アフリカ大陸はケニアの西。しかもそこで有機農業の普及をしていたという。これは筋金入りの半農半Xと巡りあったのかもしれない。
あつくんは7月7日に34歳になったばかりだった。誕生日の抱負は「笑顔を絶やさない!」。なるほど。
でもね、笑顔を抱負にするあつくんって、ほんとは根暗なのかもしれない、とは僕の第一印象だった。取材を続けると、その印象は変わってくるのだが。
本人もこう言っている。
「村楽LLPの設立準備サミットって、めちゃ派手だったから、僕、めんくらっちゃって。で、なんか関わるのをやめました。鼻息の荒い人といるのは苦手だし」
「僕はまだ自分に自信がない。けっこうしんどい、ぶっちゃけ。いつも悩んで眉間にシワが寄っているって言われることも多いんです」
悩めるあつくん!
それは君のXが並外れているからじゃないかな、と文脈家は思う。
〝内観する農家〟を自分のXにしたら、考え込まない方がおかしい。
「農家というエクストリームスポーツに取り組んでしまった結果、険しい顔になる事がままあるけど、笑顔だとやっぱうまくいきます」と誕生日に言ったあつくん。
村楽LLPの設立時のスローガンは「百匠たち百商して百笑する」だった。
内観しながら、極限の農家を目指すなら、これはもう笑顔でいかないと、しんどいだろう。
7月12日は雨で田んぼにも畑に行けなかったので、僕は梅雨明けの7月28日に再度、山百姓を訪ねた。このレポートに掲載しているアウトドアの写真は、その時点で撮ったものだ。
内観ばかりしていては、夏場の農作業は進まない。手を動かしているうちに、あつくんはとびきりの笑顔を見せる。根が暗かろうと明るかろうと、それは大きな問題ではない。問題は、根っこのうえにどんな笑顔を咲かせるかである。
それにしても、「山百姓」に「農家というエクストリームスポーツ」なのだ。
僕が取材を申し込む人は言葉に対する感受性が鋭い人が多い。
「山百姓」という言葉に彼は様々な意味合いを含めている。
山口姓の山、山岳部の山、里山の山、山仕事の山、山口県境の山、自分の山を内観しながら生きてきたあつくん。今、山口敦央は誇りを持って自己を「山百姓」と呼ぶ。
ならば、あつくんは「半農半山百姓」。今回の取材は以上、おわり。
そういうわけにはいかないのだ。あつくんの話は獣道をたどりながら奥へと進む。
そもそも、「半農」のあとに「半(山)百姓」と続くのはおかしい、と思う人もいるだろう。半分が農(業)で半分が百姓なら専業農家だ。
あれれ、半農半Xって、兼業農家のことでしょ、と思った人は、半農半Xの「稼ぎ」の部分を見過ぎている。
専業農家、兼業農家は、行政が農家を区分するために作った用語で、そこには「志」を測る基準はない。
あつくんもまた「半農半X」ワールドの大先輩だった。
彼は大学生のとき、2001年に「半農半X」という言葉と出会っている。
塩見直紀さんが「半農半X研究所」を設立したのが2000年。バイブル『半農半Xという生き方』を上梓したのが2003年。今世紀の初めから、塩見さんの言霊は心ある若者たちにじわじわと浸透していたのだ。
あつくんは学生時代に環境問題に関わる活動をしている。そして、その問題の解は農にあるという結論に達していたそうだ。
あつくんに遅れること9年、2010年に半農半Xに出会った晩生(おくて)の文脈家は、先輩との対話を続ける。
「新規就農者として半農半X的生活設計をするとき、半農から入るのではなく、半Xから設計すべきですね。どんなXをやりたいのかをまず考える。それから、それを支える農を設計していく。あるいは、すでに十分なXを持っている人であれば、そのXの根っこを強化するために農的営みを考えればいいんじゃないですか。
半農から入ると、どうしても農業収入計画にとらわれて、いっぱいいっぱいになってしまいますね」
なるほど、まず半Xありきか。僕はあつくんの話を聞きながら、半農のおさらいをする。
Xを支える半農は、稼ぎがなくてもいい。田んぼや畑がなくてもいい。そこに一輪の花があればいい。花や草や木や虫や魚、山川草木を見つめる眼があればいい。
自分のX、すなわち天職をまっとうするために、土に根ざした考え方と生き型を模索するのが半農ということだ、と僕は思う。
半農は「ねっこ」で、半Xは「たかくのびる」なのである。
山百姓として半農半Xの本質を見つめているあつくんの日々は、「農家として生きる!」に集約されている。
自分が納得できる農法で消費者と繋がること。地域に根ざした農家として「コトおこし」をしていくこと。農家として、ある程度の現金収入を得ること。
内観する農家の農法は、様々なトライをしている。有機栽培、自然栽培、自然農、炭素循環農法……。派閥をつくりがちな各農法にとらわれるともったいないので、自分の農法は「里山農法」となづけたそうだ。
「お前もそうやって勝手に名前をつけるから、また派閥ができてしまうんだ、と言われましたけど」
あつくんは苦笑する。
「里山農法は昔ながらの農法を参考にしていけば成り立つと思っています。里山の生き方、生活の工夫、そういうものの中に知恵がありますね」
僕はあつくんの田んぼと畑を見る。
トマトはソバージュ(野生)栽培。
茄子、かぼちゃ、胡瓜、ズッキーニ、玉蜀黍、モロヘイヤ、いずれも固定種/在来種である。
草と共生しているあつくんの畑を見せてもらっているとき、彼はつぶやいた。
「野菜を野草にすればいいんですよ」
「うーむ、深い」と感心した文脈家に、「福岡正信の言葉ですけどね」と山百姓はさらりと答えた。
様々な農法を操るあつくんに、野菜の味についても訊ねてみた。
「自分がつくった野菜は絶対においしいですよ。それは自分自身が育てたものを自分で食べるのだから絶対おいしいと思います」
あつくんの見解は、野菜や米を自分でつくった経験のある人なら、すぐに納得ができるだろう。
「内観する山百姓」は、さらに自分の野菜が目指す味を方向づける。
「食べた後に変な味が残らない野菜が理想です。不自然な後味が残らない野菜……。僕はそんな野菜をつくり続けていきたいです」
この見解にはニワカ百姓の僕も同感である。在来種のトマトや固定種の胡瓜や茄子は「さわやか」な味がする。旨味のあとにいやなものが残らない。
「立つ鳥あとを濁さない野菜!」
山百姓はまたすごい言霊を発した。この人は地味さの層が積み重なって光る言葉を実らせる。
僕は「道の駅かきのきむら」であつくんの自家採種、自然農の〝相模半白胡瓜〟を買い求めた。箕面に持って帰って食ってみる。
うまい!さわやか!後味すっきり!
僕が自分でつくった胡瓜の次にうまい……。と立場上、言っておく。
あつくんは、薄い緑の半白胡瓜を以下のようにレコメンドしている。
おすすめは相模半白きゅうり!見た目のごつさに似合わず、歯応え良く、味も濃くて、ちょっと大きめにゴロゴロ切って塩やドレッシングで美味しくいただけます。
【里山農園やまぐちon facebook 2015.8.7】
ちなみに僕はイクラを乗せて食ってみた。いと旨し。
次はあつくんがつくった米をぜひ食ってみたい、と熱望する稲刈りの季節がすでに来ている。
「山口の人生は半分探し物でできています」と笑うあつくんとの話は尽きない。僕だって探し物は多いのだから。
だけど、そろそろ種取りの時間が来た。次に繋ぐ時は今だ。
分水嶺に住んで、山と里の接点に生き型を求めている「ど田舎確信犯」のあつくん。
彼はこれから島根在来種のワサビ栽培に挑戦するという。
早春、研ぎ澄まされた渓流に咲く白い花を想像しながら、僕は山を下りて柿木村に向かった。
《Intermission~休憩》 いつも長くてすみません!
柿木村・大井谷棚田のエックス |
柿木村は、その筋では有名な村である。ふたつの筋がある。
ひとつは有機農業の先進地。
35年前、1980年には「柿木村有機農業研究会」が発足している。農薬と化学肥料を使わない有機農業は、その里を流れる川の微生物を殺さない。
高津川の水質が素晴らしいのは、流程81キロのうち、15キロある柿木村の流域環境が保たれているからだ、と天野礼子さんは書いている。(『日本一の清流で見つけた未来の種』)
もうひとつの筋は鮎釣りである。
僕のような関西の鮎師には、柿木村流域の高津川は憧れだ。7月に行った2度の取材に、僕は鮎釣り道具一式を持っていった。
結果は7月11日に2尾。7月29日は坊主(釣り用語で0尾のこと)。
釣果はともかく、確かに川の透明度は高い。良質の鮎がつきそうな石もびっしり入っている。ただし、未知なるエックスの川での釣りは難しい。
おっと、鮎釣りのエックスではなく「国つ神と半農半X」の取材だった。
柿木村を含む吉賀町は、島根を目指すIターン者にとっても憧れの地である。
島根県の「半農半X施策」で移住した人は、2010年からの5年間でのべ34名。彼らは出雲よりも石見を選ぶ傾向にある。松江から西へ、西へ。
吉賀町には9名の「半農半X施策」利用者がいる。
正直なところ、移住してみたものの、何らかの理由で去っていった人も多い。僕の知っている初期の島根県地域おこし協力隊のうちにも……。
様々な事情のあるなかで、吉賀町の移住者の定着率は8割に近いそうだ。
そして、2013年8月15日に吉賀町柿木村木部谷(きべだに)に移住してきたのが佐野高太郎さんである。僕がはじめて巡り合った「半農半X施策」利用者だ。
高太郎さんは、まず「ふるさと島根定住財団」の産業体験助成を夫婦で受けた。その1年後に「半農半X施策」の定住定着助成を受けているところだった。こちらは高太郎さんだけ。
その助成も2015年8月31日で終了する。
7月28日、僕が「山百姓」を再取材したあと、「撮る百姓」高太郎さんの話を聞いたのはそんなタイミングだった。
高太郎さんはネクスト・ステップを考えている。
「元々、産業体験をしているときは、プロの農業構想を狙っていたのですが、自分たちが食べたい野菜を突き詰めていくうちに、自然農に近づいていったのですね」
有機農業の先進地、柿木村で高太郎さんはもう少し先に行こうとしている。
「自然農の勉強をしながら夫婦で話し合っていくと、結局のところ、それは農業というよりも生き方の問題なんだよね、ということになってきた」
高太郎さんも半農ではなく半Xの方から入って、人生の選択をする人だった。彼の選択基準は「すべては家族のために」である。
この取材の定番質問、「あなたにとって究極のXとは?」に対して回答をくれるまでは長い間があった。
「家族の笑顔があることですね」
なるほど、なるほど。と、この言葉にうなづくためには、高太郎さんの4年間を振り返る必要がある。
佐野高太郎、44歳。動物写真家。英BBCのワイルドライフ写真賞を二度受賞。
半農半写真家、自然界のフレームを切り撮る天職を持って農的生活を営む人。
僕が取材した人たちのなかで、高太郎さんほど明確にXを定義できる人は少ない。彼の究極のXには「写真」がくると予測するのが普通だろう。
だが、「写真」よりも「家族」だった。
今、彼は柿木村で自分を「撮る百姓」と呼んでいる。そこに至るまで彼は移住を繰り返した。
「遠回りしたけど、必要な遠回りだったんだと思います」と高太郎さんは言う。
遠回りの始まりは311であった。福島第一原発は佐野一家の人生設計を決定的に変えたのだ。
2011年3月11日、佐野一家は東京小金井に住んでいた。フクシマの爆発情報からメルトダウンを確信して、3月15日に神戸に避難する。当時、2歳と0歳だった子供たちの安全と安心を最優先させるために。
そこで紹介してもらったのが祝島(いわいしま)だった。
山口県上関町祝島。上関原発の建設予定地から4キロの瀬戸内海に浮かぶ島である。
フクシマの放射性物質から逃れるために、まず移住した先は反原発の最前線。そして四国の伊方原発から北へ40キロの距離である。さえぎるもののない海を隔てて。
「移住先を探していくと日本のことが見えてくる。魅力的なところを探すと、必ず原発が近くにある。日本ってひどい国だな、と思いましたけどね」
文脈家も思う。
島根県に移住してくる人たちが西を目指すのも、島根原発があるからかな、と。
何しろ、国宝松江城から島根原発までは8.5キロの距離なんだから。
祝島で高太郎さんは百姓の手習いを始める。このときに「半農半X」という言葉と出会ったという。確かにインパクトのある言葉だと思ったそうだ。
家族が理想とする半農半X生活を模索するために、一家はさらに移動する。
2012年11月には北広島町の芸北へ。さらに9カ月後には吉賀町柿木村へ。
そして、佐野夫婦はここで根っこを下ろすことにした。定住財団と「半農半X施策」助成もあったことだし。
高太郎さんが住む柿木村木部谷には「奇鹿(くしか)神社」の分社がある。
時の政権に追い立てられた八畔鹿が良い鹿となって祭られているところだ。
カタチを変えた国つ神が守る土地に、佐野さんの畑と田んぼがあった。目指すは野生の自然農。
半農半Xという生き型の基本マナーは「センス・オブ・ワンダー」である。
高太郎さんのそれは野生のものだ。なにしろアフリカ大陸の「チーターがいる砂漠」で磨かれたものなのだから。
野生動物の世界は弱肉強食である。しかし、それは悲惨な世界ではない。食うものも食われるものも目をきらきらさせる世界。生命力が跳躍する世界だ、と語る高太郎さんの目もきらきらしてくる。
その目で未来を見るとき、理想の野菜と米とは、そこにある水で育った野生の生命力を持つもの。愛とお日様がたっぷりと注がれた作物を自分の子供に食べさせたい。子供たちは正常な生きものの味を覚えて育ってほしい!
高太郎さんは、さらに半農半Xという生き方の理想も語る。
「半農半Xは、百姓という言葉に通じていますね。百姓は農業だけではなく、百の生業(なりわい)をもつから百姓です。農をベースにして、何でも自分でできる生活力を持っていくことも半農半Xの大事なポイントだと思います」
家族愛という土壌に理想という作物を高く高く伸ばしていく……。
高太郎さんは、これから、冬水田んぼ、冬期湛水(たんすい)の米つくりにチャレンジしていくという。
「撮る百姓」は柿木村をベースにして、徐々に写真家としての生業も回復しつつあるという。これはご同慶の至りだ。僕は高太郎さんが撮った野生の野菜や花や動物やカエルや鮎たちが見たい。
アフリカの砂漠や北海道の大自然を観察してきた写真家は、今も「身近」に目を向けている。
大自然に目を向けるにも、世界中の自然に目を向けるにも、まずは足元の自然を感じる感性がないと楽しめないような気がしている。(中略)身近な自然の美しいもの、というのは自分の永遠のテーマな気がする。そして「身近」というのも、様々な身近がある。場所としての身近。自分の生活のなかでの身近。自分の人間関係での身近。いろんな観点から、いろんな身近を探して切りとってみるのもいいのかもしれない。
【佐野高太郎on facebook 2015.9.4】考えてみれば、半農半X的生活というのは、それぞれのXは多様にしても、自分の「身の丈」にあった「身近」な生き型である。
そうだ、間違いない、と文脈家は納得してしまった。
取材の旅には出会いがある。まして、これは国つ神、すなわち緑と縁の神様に見守られている(と勝手に思っている)旅なのだ。
「のんびり鮎を釣りにふらっと来た人かと思った」と僕を泊めてくれたのは、はらだ屋旅館の齋藤奈美さん。
柿木村の真ん中で100年近い歴史を持つ宿である。目の前は高津川。しかも絶好の鮎釣りポイントだ。
あつくんと高太郎さんの取材を終えた翌日、高津川で竿を出して、のんびり酒を飲もうと思ったのだが、こういう旅館に泊まると、また取材モードに入ってしまう。
はらだ屋の女将、なみちゃんはあつくんのことも高太郎さんのこともよく知っていた。
この旅館は、筋金いりの鮎師が集まると同時に、移住者の情報交換センターであり、志が高い野菜が持ちこまれるところでもある。
自身も15年前に大阪からUターンしてきたというなみちゃん。彼女は吉賀町の歴史と神社について話してくれた。
そもそも、この文脈レポートのイントロで紹介した八畔鹿の伝説も、はらだ屋にあった本で知った。昔話と神社は、その地域を理解するための重要なファクターである。
怠惰な文脈家は、十分な事前調査をせずに旅に出る。
そして、出会う。綾なす糸で繋がったかけがえのない文脈と。
今回も長い文脈レポートを読んでいただき、ありがとうございました。
すっかり夏も終わり、稲刈りとハゼ干しの季節になっています。
ああ、今年も、あと少し。「よいお年を!」という前に、取材シリーズを完了したいのですが、どうなりますことやら。
次のレポートは松江の三島治さんと奥出雲の白山洋光さんです。
名前を聞いただけで、すごい!と思われたあなたはもう国つ神縁脈の中の人ですね……。
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