梅雨は明けた。戦後70年間で一番熱い夏が来た。
時代の分水嶺が見えてきている。あっちに流れるのか、それともこっちに引き戻すのか。
僕は1952年生まれの「戦争を知らない子供たち」だ。高度成長の恩恵を目いっぱい受けて育ってきた。その子供や孫たちを「戦争しか知らない子供たち」にするわけにはいかない。
僕は戦争法案に反対する。
反対の意思表示はさまざまな方法と形態があるだろう。
コンテキスターは政治運動のみならず、「生き型」運動としても戦争に反対したいと思う。
半農半Xは農業の指南書ではない。兼業農家の経営指標でもない。それは「生き型」なのだ。分水嶺で明るい方に水が流れ出すための思想であり言葉であり、新しい倫理と規範なのだ。
あらためて、「半農半Xという生き型」の定義を書いておこう。
さて、国つ神に導かれて新しい生き型をしている人たちの文脈研究を続けよう。
タイムラインは5月31日まで遡る。
「葦原(あしはら)の中つ国」では田植えが始まった。
5月31日。出雲イセヒカリ会と「ゆめの国こども園」の合同田植え。出雲市荒茅町。
まずは御田植祭。田んぼの横に祭壇が組まれて、長浜神社の宮司が祝詞を唱える。
あつかましくも僕まで玉串奉納をさせていただいた。ありがとうございます。
水があまり深くない自然栽培の田んぼには、土に直接、筋が引かれている。この筋引きはどのくらいの時間をかけてやったのだろうか。
イベントとしての田植えは楽しいが、その実現には地道なスタンバイが必要なのだ。
イセヒカリの葉は自然な緑色をしている。そして根は長い。
走り回る子供たちを横目で見ながら、手練れの大人たちは植え続ける。手植えは人数がいれば楽しい。決して楽なことではないが。
僕は田植えの途中で失礼をする。松江に戻って映画『つ・む・ぐ~織人は風の道をゆく』の上映会に参加するためだった。
『つ・む・ぐ』は骨太のドキュメンタリー映画だ。
♪愛をより 想いをつむぎ 子々孫々に 命の絆つなげよう~
監督の吉岡敏朗さんは松江の出身だ。この上映会は監督の兄上を始め関係者が手作りでつくりあげたものだった。
映画上映後、いのちの縁(えにし)が綾なしている会場で吉岡監督と半農半歌手Yaeさんの対談が始まる。
Yaeさんの父上は農的幸福論の老舗「鴨川自然王国」の創設者である藤本敏夫さん。
母上は、満州の風をその唄声に乗せている永遠の反戦歌手、加藤登紀子さんだ。
Yaeさんは千葉房総半島での暮らしをこう語る。
父は遺言を残しませんでした。でも、その父が死にゆく姿を見ていたら〝生きることは食べること〟だというのが伝わってきたのです。そして〝生きることは楽しいこと〟です。〝楽しいことは正しいこと〟です。だから私は鴨川で食べることを守りながら唄を歌うことにしたのです。決してスローライフじゃないですよ。半農半主婦はとっても忙しいのです、農と子育て。鴨川は天水田んぼなので、雨が降らないと大変です。私は唄を歌うので雨乞いしたりして。唄ってそういうふうにして農村から始まったのじゃないでしょうか……。
Yaeさんが暮らす鴨川自然王国のカフェEnの本棚にも『半農半Xという生き方』があった。
上映会と対談の後はYaeさんのコンサートだった。アンコールは『朧月夜』。こんな素敵な唄だったんだ。
あすの織人はあなたかもしれない……。
悦びの縁が次の時代を綾なしていく……。
コンサートの最後、Yaeさんに花束を渡した女性がいた。
三原綾子さん、あやちゃんだった。
僕があやちゃんに初めて会ったのは2014年7月12日。雲南の山王寺棚田だった。
あやちゃんは、この写真を撮ったあと、すぐに寝っ転がってしまう。
「あー、気持ちいい」と言った。
不思議なオーラを持った子だな、と文脈家はインプットしていた。
あやちゃんは、現在、雲南市の「佐世だんだん工房」を支えるスタッフのひとりだ。
『つ・む・ぐ』松江上映会の翌日、僕はこの小さなゲストハウスに行った。
吉岡監督とYaeさんの関係者一行が、ここでランチ交流会を開く、と野津健司さんにお聞きしたからだ。
佐世だんだん工房は小さなコンミューンだな、と僕は思う。
どんな共同体を創ろうとしているのかは置いてある本を見れば分かる。久しぶりに『ホール・アース・カタログ』の表紙を見た。
そこに何らかの志がある共同体のことを1970年の頃にはコンミューンと呼んでいた。
飯はかまどで炊く。笹巻きはおばちゃんたちが巻く。
そして玄米麺はあやちゃんが創った。
地元のおばちゃんたち、東アジアを含めた旅人たち、UIターン者たち、僕のような風来坊……。
この場の磁力は、陰暦10月、八百万の神が出雲に集まってくる「神有月」に最大化されるという。
素敵なご縁会のあと、あやちゃんはおばちゃんに抱きつく。
この豊かな感情表現は、どこからわき出てくるのだろうか?
翌日、僕は佐世だんだん工房を再訪して、あやちゃんを取材した。
まずは、あやちゃんの感情を支える言葉について。
しまねに帰って
1年と3か月
まだまだ
ほんの少しだけれど
自然と共に生きていると
まったく身体も自然の一部だと
実感しています
細胞がもぞもぞ動きはじめて目覚めてきて
いろいろなことが透明になってきました
その一つには
感情が表にでやすくなってきた気がします
我慢したり無理をしたりすることがなくなったかなあ
炎症と排泄と弛緩のめぐりもよくなってきていて
あ〜今は炎症期間だなあと自分のことを少し客観的に眺めてみるようになって
だから炎症をとめなくちゃーではなくて
泣いたり野草で排泄促したりして
そして緩んで
あ〜天晴れ
と思っていたらまたまたまた炎症を起こす
めぐりがとてもよくなってきた
それってまわりからはとても情緒不安定にみえるかもしれないけど
めぐりめぐる世界に
解放されてとても幸せで身体はすこぶるよくって
浄化がすすんでいて
細胞たちが
さーて目覚めるかぁーってな声もちらほら
天晴れな状態です
私の身体を愉しんでいます
2015年4月5日 三原綾子on Facebook
こういう天晴れな言葉は、どこから生まれてくるの? と訊ねる文脈家に「やまとことば」の使い手は答える。
「パートナーにいつも美しい日本語を使いなさい、と言われるのですが、まだまだですね。でも、やまとことばを使い始めてから自分にやさしくなれてきました」
「やまとことばを使いはじめたのは〝みくさのみたから〟の伝道師、飯田茂美さんの影響が大きいですね」
「やまとことばは自分自身の感情に近い言葉。自分に自信がなくなったとき、やまとことばで自分を解放できると思ってます」
確かにあやちゃんは自分を解放しつつあるようだ。近所の「オバチャンズ」を巻き込みながら。元々、喜怒哀楽が激しいという出雲属女性種のネットワークが、この場にできつつある。
「このゲストハウスに来る人たちはとても愛があるんです。シンプルに自分の欲を手放している人が集まって来ます。同じ感覚の人が自然に集まります」
とあやちゃんは言う。
文脈家は思う。シンプルに欲を手放すのは国つ神の伝統かな?なにしろ天つ神にすんなりと「国譲り」をしたオオクニヌシノミコトを祭る神社がそばにあるのだから。自然に集まるのは縁の神の仕業だな。
さて、これは半農半Xの取材だった。
半農半Xは、その言葉自体が伝播力を持っている。今や、列島を越えて東アジアにも拡がりつつある。そういえば、古来、出雲は朝鮮半島とのコンタクトポイントであった。
あやちゃんは2006年、21歳のときに半農半Xという言葉を知ったという。僕は2010年、58歳のとき。この取材を続けていると、先輩に出会うことが多い。
半農半Xが自分の望む生き方に近いと感じた彼女は、地に足をつけた思考と志向で自らの歩みを続ける。シンガポール留学、NPOの立ち上げ、半農半旅館女将の修行などなど。
なにしろ筋金入りの半農育ちだ。あやちゃんの育った家は佐世だんだん工房のすぐ近くの三原酪農。
ちっちゃな頃から手に牛のうんちがついているのは当たり前だったという。稲藁の暖かさの中でかくれんぼをしながら育ったのだ。家の周りにはじいちゃんがやっていた田んぼと畑がある。
半農半X的生き型のマナーは「センス・オブ・ワンダー」を磨くことでもある。
センス・オブ・ワンダーとは「自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性」のことだ。
その点でもあやちゃんは選ばれた人だったらしい。
「小学校の自由研究で、いらなくなったカレンダーの裏に、ヒメジオンなんかの和名とか効能をひとつずつ書きこんだりしていました。今、(レイチェル・カーソンの)『センス・オブ・ワンダー』を読んだら思い出すことが多かったですね。親は忙しすぎて遊んでくれなかったので、牛と遊ぶかひとりで遊ぶか自然で遊ぶか、だったので」
おお、大先輩のあやねえさん! 僕なんか30歳で川釣りを始めてから自然で遊ぶ楽しみを見つけたのに。
さらに、このねえさんは不思議なことを言う。ちっちゃな頃には、裏山で湖を見ていたそうだ。山に入って迷子になって湖を見た、お母さん、あったよね、湖、とつい最近話したら、そんなものあるはずないと言われた。
あやちゃんのセンス・オブ・ワンダーは、クシナダヒメのそれを受け継いでいるのかもしれない。
この姫君は国つ神夫婦、アシナヅチとテナヅチの八番目の娘にして、スサノオの山の神である。
八重垣神社の奥の森にある鏡の池で自らの内面を映した美しき姫。森の自然との一体感を楽しんだ姫。
クシナダヒメの聖地、八重垣神社は三原家から北東に11キロほどの距離である。
半農半玄米麺。これが、今のあやちゃんの半農半Xのカタチである。
麺という漢字は麦で成り立っている。しかし玄米麺には小麦のかけらも入っていない。無農薬の玄米を練って馬鈴薯でんぷんと蒟蒻芋でんぷんをつなぎに使う。
自身も小麦アレルギーだったことがあるあやちゃんにとって、玄米麺は「安心安全な食べ物で次世代にいのちを繋ぐ」志を練り込んだものであると同時に、生業(なりわい)計画の切り札なのだ。
島根県の施策としての「半農半X」助成を受けるためには、営農計画と農業以外の現金所得計画を提出する必要がある。
たとえば、年間に農業で100万円稼ぎ、兼業で100万稼ぐというようなものである。その計画が承認されたら、就農前研修経費助成として12万、定住定着経費助成として12万が2年間支給される。
つまり、県の「半農半X」は島根県にUIターンした場合、どう稼ぐかの生活モデルを審査されることが条件になっているのだ。生業計画ありき、である。
ところが、本来の半農半XのXは天職であり志である。Xが生業となるかどうかは別の問題なのだ。
もちろん、Xが志であり生業となればベストマッチングなんだろうけど。おっと、やまとことばを使おう。よりよき合わせ業(わざ)なのだろう。
あやちゃんは玄米麺にこめた志を、そのまま生業に直結させたい。それにはわけがある。
祖父が始めた酪農業を継いで40年になる父の姿を見てきたからだ。世の中をよくしたいという志は必ずしも世間に認められないし、収入増に繋がるわけではない。
「父は365日働きづめです。朝早くから夜遅くまで食事を取る時間を惜しんで働いています。自然の循環のなかで牛飼いをしようと思ったら、他人の何十倍も手間がかかるのです。人間と牛の食べるものが競合しないように、ビール粕や大豆粕を独自に取り寄せていたりもします。籾殻や木くずを大量に運んでつくった牛糞堆肥は、堆肥センターに持っていかずに地域の方に分けています」
父の背中は自然環境のため、地域循環のために働くことの意義と厳しさを伝えてきたようだ。
働けど働けど……三原酪農の経営者は、じっと何を見てきたのだろうか?
「生業として父のやっているような酪農を継いでいくとしたら、割りに合わないことが多いです。日本では、自然と地域のためにいいことをしても、特別に評価もされませんし、稼ぎも増えません」
あやちゃんは悩んだ。ときには怒りも感じながら。
「三原酪農の創業者は祖父でした。おじいちゃんは満州の軍隊で食料班みたいなことやっていたと聞いています。そのとき、牛乳の素晴らしさに気づいて、戦後、日本に帰ってきてからは脚気や栄養失調の人を救うため、いのちを繋ぐためのツールとして酪農を始めたそうです」
祖父の代まで遡って、あやちゃんは考え続ける。
いのちを繋ぐ、地域のために未来のために……。
自分なりに、今いる場所で、志と生業の両立させるためには、何をどうすればいいのか……。
彼女は玄米麺にたどり着いた。
あやちゃんは「玄米麺宣言」をした。
玄米麺の志を稼ぎとともに広めるために、あやちゃんは戦略をたてる。
売り上げの3割が個人、7割が飲食店への卸で年間100万目標!
この玄米麺は美味い。「人類は麺類」の土地柄で讃岐うどんをソールフードとして育った僕が言うのだから間違いない。
その美味さに、「いのちを繋ぐ」という志が練り込まれている。志は志を呼ぶ。
あやちゃんは、東京のラーメン店、「ソラノイロ」に「はじめまして」とコンタクトする。
縁は繋がり、東京ラーメンストリートにできた「ソラノイロ・NIPPON」のベジソバには玄米麺が採用された。
ソラノイロ店主、宮崎千尋さんも縁に惹かれて佐世だんだん工房を訪れることになった。
僕もこの「玄米麺ベジソバ」を食べに行った。野菜の甘みが丁寧に染み出ている優しいラーメンである。
あやちゃんの田んぼも田植えの直前だった。おなじみのイセヒカリに加えてハッピーヒルという品種が植えられるのを待っていた。ハッピーは「福」、ヒルは「岡」。自然農法の先駆け、福岡正信さんが固定した品種だ。
ハッピーヒルの前には、一本筋の通った生きものがいる。Xが映し出された世界に筋を通している。
「半農半Xという生き型」のプロトタイプをまたひとつ、雲南で見つけた。
三原綾子さんを取材した翌日、僕はさらにイセヒカリ田植えの助っ人に行った。出雲市野尻町。ここでも御田植祭から始まった。大歳神社。五穀豊穣を願う国つ神である大歳神を祭る。
丁寧な神事のあとはおなじみの手植えだ。参加した人たちのそれぞれの個性で田んぼに稲が放たれる。
そして、善男善女が植えた稲を見守り、実りを見届けるのは、もちろん国つ神である。イセヒカリの田んぼには笑顔と御札がよく似合う。
このようにして、国つ神の一大イベント、田植えの季節は終わっていった。
僕はこの日、国つ神の使い(?)田んぼのヒルを足につけたまま、出雲を去った。
田んぼの次の文脈は草取りと稲刈りへと移ろっていく。
熱い夏はまだまだ続く。
時代の分水嶺が見えてきている。あっちに流れるのか、それともこっちに引き戻すのか。
僕は1952年生まれの「戦争を知らない子供たち」だ。高度成長の恩恵を目いっぱい受けて育ってきた。その子供や孫たちを「戦争しか知らない子供たち」にするわけにはいかない。
僕は戦争法案に反対する。
反対の意思表示はさまざまな方法と形態があるだろう。
コンテキスターは政治運動のみならず、「生き型」運動としても戦争に反対したいと思う。
半農半Xは農業の指南書ではない。兼業農家の経営指標でもない。それは「生き型」なのだ。分水嶺で明るい方に水が流れ出すための思想であり言葉であり、新しい倫理と規範なのだ。
あらためて、「半農半Xという生き型」の定義を書いておこう。
持続可能な農的生活をしながら、わたしとあなたの使命多様性を認めて、X=天職を探していくこと。
地に足をつけて、X=関係性を回復していくこと。 自分と社会、自分と自然、自分と他者の関係性。
地に足がついた思索と言葉で、世の中をいい方向にインスパイアしていくこと。農的幸福と戦争は相反する。僕は島根県雲南市で、こんな石碑を見た。
この鉄砲が牛蒡(ごぼう)であったらナー。とにかく兵隊よりも野菜作りの方がよいヨ 。
戦地よりの手紙 景山龍一1938年5月2日 中国山東省にて戦死 21歳。
さて、国つ神に導かれて新しい生き型をしている人たちの文脈研究を続けよう。
タイムラインは5月31日まで遡る。
「葦原(あしはら)の中つ国」では田植えが始まった。
5月31日。出雲イセヒカリ会と「ゆめの国こども園」の合同田植え。出雲市荒茅町。
まずは御田植祭。田んぼの横に祭壇が組まれて、長浜神社の宮司が祝詞を唱える。
あつかましくも僕まで玉串奉納をさせていただいた。ありがとうございます。
イベントとしての田植えは楽しいが、その実現には地道なスタンバイが必要なのだ。
イセヒカリの葉は自然な緑色をしている。そして根は長い。
走り回る子供たちを横目で見ながら、手練れの大人たちは植え続ける。手植えは人数がいれば楽しい。決して楽なことではないが。
僕は田植えの途中で失礼をする。松江に戻って映画『つ・む・ぐ~織人は風の道をゆく』の上映会に参加するためだった。
『つ・む・ぐ』は骨太のドキュメンタリー映画だ。
たての糸―それは、タイ東北部の村で織られる布。
よこの糸―それは、歩き出すことを決めた人たち。
いのちの輝きを織り上げる物語が今はじまる。出演者はファッションデザイナーのさとううさぶろう。医師の船戸崇史。そして歌手のYae。
♪愛をより 想いをつむぎ 子々孫々に 命の絆つなげよう~
監督の吉岡敏朗さんは松江の出身だ。この上映会は監督の兄上を始め関係者が手作りでつくりあげたものだった。
映画上映後、いのちの縁(えにし)が綾なしている会場で吉岡監督と半農半歌手Yaeさんの対談が始まる。
Yaeさんの父上は農的幸福論の老舗「鴨川自然王国」の創設者である藤本敏夫さん。
母上は、満州の風をその唄声に乗せている永遠の反戦歌手、加藤登紀子さんだ。
Yaeさんは千葉房総半島での暮らしをこう語る。
父は遺言を残しませんでした。でも、その父が死にゆく姿を見ていたら〝生きることは食べること〟だというのが伝わってきたのです。そして〝生きることは楽しいこと〟です。〝楽しいことは正しいこと〟です。だから私は鴨川で食べることを守りながら唄を歌うことにしたのです。決してスローライフじゃないですよ。半農半主婦はとっても忙しいのです、農と子育て。鴨川は天水田んぼなので、雨が降らないと大変です。私は唄を歌うので雨乞いしたりして。唄ってそういうふうにして農村から始まったのじゃないでしょうか……。
Yaeさん・鴨川自然王国にて |
藤本敏夫さん |
Yaeさんが暮らす鴨川自然王国のカフェEnの本棚にも『半農半Xという生き方』があった。
上映会と対談の後はYaeさんのコンサートだった。アンコールは『朧月夜』。こんな素敵な唄だったんだ。
あすの織人はあなたかもしれない……。
悦びの縁が次の時代を綾なしていく……。
三原綾子さん、あやちゃんだった。
僕があやちゃんに初めて会ったのは2014年7月12日。雲南の山王寺棚田だった。
あやちゃんは、この写真を撮ったあと、すぐに寝っ転がってしまう。
「あー、気持ちいい」と言った。
不思議なオーラを持った子だな、と文脈家はインプットしていた。
あやちゃんは、現在、雲南市の「佐世だんだん工房」を支えるスタッフのひとりだ。
『つ・む・ぐ』松江上映会の翌日、僕はこの小さなゲストハウスに行った。
吉岡監督とYaeさんの関係者一行が、ここでランチ交流会を開く、と野津健司さんにお聞きしたからだ。
佐世だんだん工房は小さなコンミューンだな、と僕は思う。
どんな共同体を創ろうとしているのかは置いてある本を見れば分かる。久しぶりに『ホール・アース・カタログ』の表紙を見た。
そこに何らかの志がある共同体のことを1970年の頃にはコンミューンと呼んでいた。
飯はかまどで炊く。笹巻きはおばちゃんたちが巻く。
そして玄米麺はあやちゃんが創った。
地元のおばちゃんたち、東アジアを含めた旅人たち、UIターン者たち、僕のような風来坊……。
この場の磁力は、陰暦10月、八百万の神が出雲に集まってくる「神有月」に最大化されるという。
素敵なご縁会のあと、あやちゃんはおばちゃんに抱きつく。
この豊かな感情表現は、どこからわき出てくるのだろうか?
翌日、僕は佐世だんだん工房を再訪して、あやちゃんを取材した。
まずは、あやちゃんの感情を支える言葉について。
しまねに帰って
1年と3か月
まだまだ
ほんの少しだけれど
自然と共に生きていると
まったく身体も自然の一部だと
実感しています
細胞がもぞもぞ動きはじめて目覚めてきて
いろいろなことが透明になってきました
その一つには
感情が表にでやすくなってきた気がします
我慢したり無理をしたりすることがなくなったかなあ
炎症と排泄と弛緩のめぐりもよくなってきていて
あ〜今は炎症期間だなあと自分のことを少し客観的に眺めてみるようになって
だから炎症をとめなくちゃーではなくて
泣いたり野草で排泄促したりして
そして緩んで
あ〜天晴れ
と思っていたらまたまたまた炎症を起こす
めぐりがとてもよくなってきた
それってまわりからはとても情緒不安定にみえるかもしれないけど
めぐりめぐる世界に
解放されてとても幸せで身体はすこぶるよくって
浄化がすすんでいて
細胞たちが
さーて目覚めるかぁーってな声もちらほら
天晴れな状態です
私の身体を愉しんでいます
2015年4月5日 三原綾子on Facebook
「パートナーにいつも美しい日本語を使いなさい、と言われるのですが、まだまだですね。でも、やまとことばを使い始めてから自分にやさしくなれてきました」
「やまとことばを使いはじめたのは〝みくさのみたから〟の伝道師、飯田茂美さんの影響が大きいですね」
「やまとことばは自分自身の感情に近い言葉。自分に自信がなくなったとき、やまとことばで自分を解放できると思ってます」
確かにあやちゃんは自分を解放しつつあるようだ。近所の「オバチャンズ」を巻き込みながら。元々、喜怒哀楽が激しいという出雲属女性種のネットワークが、この場にできつつある。
「このゲストハウスに来る人たちはとても愛があるんです。シンプルに自分の欲を手放している人が集まって来ます。同じ感覚の人が自然に集まります」
とあやちゃんは言う。
文脈家は思う。シンプルに欲を手放すのは国つ神の伝統かな?なにしろ天つ神にすんなりと「国譲り」をしたオオクニヌシノミコトを祭る神社がそばにあるのだから。自然に集まるのは縁の神の仕業だな。
さて、これは半農半Xの取材だった。
半農半Xは、その言葉自体が伝播力を持っている。今や、列島を越えて東アジアにも拡がりつつある。そういえば、古来、出雲は朝鮮半島とのコンタクトポイントであった。
あやちゃんは2006年、21歳のときに半農半Xという言葉を知ったという。僕は2010年、58歳のとき。この取材を続けていると、先輩に出会うことが多い。
半農半Xが自分の望む生き方に近いと感じた彼女は、地に足をつけた思考と志向で自らの歩みを続ける。シンガポール留学、NPOの立ち上げ、半農半旅館女将の修行などなど。
なにしろ筋金入りの半農育ちだ。あやちゃんの育った家は佐世だんだん工房のすぐ近くの三原酪農。
ちっちゃな頃から手に牛のうんちがついているのは当たり前だったという。稲藁の暖かさの中でかくれんぼをしながら育ったのだ。家の周りにはじいちゃんがやっていた田んぼと畑がある。
半農半X的生き型のマナーは「センス・オブ・ワンダー」を磨くことでもある。
センス・オブ・ワンダーとは「自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性」のことだ。
その点でもあやちゃんは選ばれた人だったらしい。
「小学校の自由研究で、いらなくなったカレンダーの裏に、ヒメジオンなんかの和名とか効能をひとつずつ書きこんだりしていました。今、(レイチェル・カーソンの)『センス・オブ・ワンダー』を読んだら思い出すことが多かったですね。親は忙しすぎて遊んでくれなかったので、牛と遊ぶかひとりで遊ぶか自然で遊ぶか、だったので」
おお、大先輩のあやねえさん! 僕なんか30歳で川釣りを始めてから自然で遊ぶ楽しみを見つけたのに。
さらに、このねえさんは不思議なことを言う。ちっちゃな頃には、裏山で湖を見ていたそうだ。山に入って迷子になって湖を見た、お母さん、あったよね、湖、とつい最近話したら、そんなものあるはずないと言われた。
あやちゃんのセンス・オブ・ワンダーは、クシナダヒメのそれを受け継いでいるのかもしれない。
この姫君は国つ神夫婦、アシナヅチとテナヅチの八番目の娘にして、スサノオの山の神である。
八重垣神社の奥の森にある鏡の池で自らの内面を映した美しき姫。森の自然との一体感を楽しんだ姫。
クシナダヒメの聖地、八重垣神社は三原家から北東に11キロほどの距離である。
八重垣神社・鏡の池/トリップアドバイザー |
半農半玄米麺。これが、今のあやちゃんの半農半Xのカタチである。
麺という漢字は麦で成り立っている。しかし玄米麺には小麦のかけらも入っていない。無農薬の玄米を練って馬鈴薯でんぷんと蒟蒻芋でんぷんをつなぎに使う。
自身も小麦アレルギーだったことがあるあやちゃんにとって、玄米麺は「安心安全な食べ物で次世代にいのちを繋ぐ」志を練り込んだものであると同時に、生業(なりわい)計画の切り札なのだ。
島根県の施策としての「半農半X」助成を受けるためには、営農計画と農業以外の現金所得計画を提出する必要がある。
たとえば、年間に農業で100万円稼ぎ、兼業で100万稼ぐというようなものである。その計画が承認されたら、就農前研修経費助成として12万、定住定着経費助成として12万が2年間支給される。
つまり、県の「半農半X」は島根県にUIターンした場合、どう稼ぐかの生活モデルを審査されることが条件になっているのだ。生業計画ありき、である。
ところが、本来の半農半XのXは天職であり志である。Xが生業となるかどうかは別の問題なのだ。
もちろん、Xが志であり生業となればベストマッチングなんだろうけど。おっと、やまとことばを使おう。よりよき合わせ業(わざ)なのだろう。
あやちゃんは玄米麺にこめた志を、そのまま生業に直結させたい。それにはわけがある。
祖父が始めた酪農業を継いで40年になる父の姿を見てきたからだ。世の中をよくしたいという志は必ずしも世間に認められないし、収入増に繋がるわけではない。
「父は365日働きづめです。朝早くから夜遅くまで食事を取る時間を惜しんで働いています。自然の循環のなかで牛飼いをしようと思ったら、他人の何十倍も手間がかかるのです。人間と牛の食べるものが競合しないように、ビール粕や大豆粕を独自に取り寄せていたりもします。籾殻や木くずを大量に運んでつくった牛糞堆肥は、堆肥センターに持っていかずに地域の方に分けています」
父の背中は自然環境のため、地域循環のために働くことの意義と厳しさを伝えてきたようだ。
働けど働けど……三原酪農の経営者は、じっと何を見てきたのだろうか?
「生業として父のやっているような酪農を継いでいくとしたら、割りに合わないことが多いです。日本では、自然と地域のためにいいことをしても、特別に評価もされませんし、稼ぎも増えません」
あやちゃんは悩んだ。ときには怒りも感じながら。
「三原酪農の創業者は祖父でした。おじいちゃんは満州の軍隊で食料班みたいなことやっていたと聞いています。そのとき、牛乳の素晴らしさに気づいて、戦後、日本に帰ってきてからは脚気や栄養失調の人を救うため、いのちを繋ぐためのツールとして酪農を始めたそうです」
祖父の代まで遡って、あやちゃんは考え続ける。
いのちを繋ぐ、地域のために未来のために……。
自分なりに、今いる場所で、志と生業の両立させるためには、何をどうすればいいのか……。
彼女は玄米麺にたどり着いた。
「米価が安くて若い人が田んぼをしなくなった。田・畑・山がどんどん荒れていく」
という地域の方の声。
「小麦アレルギーだけど一度でいいからラーメンを食べてみたい」
という子供の声。
ちいさな集落の商品開発は、このような声を拾うことから始まりました。
安全・安心な地域のお米に付加価値をつけて必要な方にお渡ししたい。
小さく不器用ではありますが、正直につくっています。
あやちゃんは「玄米麺宣言」をした。
玄米麺の志を稼ぎとともに広めるために、あやちゃんは戦略をたてる。
売り上げの3割が個人、7割が飲食店への卸で年間100万目標!
この玄米麺は美味い。「人類は麺類」の土地柄で讃岐うどんをソールフードとして育った僕が言うのだから間違いない。
その美味さに、「いのちを繋ぐ」という志が練り込まれている。志は志を呼ぶ。
あやちゃんは、東京のラーメン店、「ソラノイロ」に「はじめまして」とコンタクトする。
縁は繋がり、東京ラーメンストリートにできた「ソラノイロ・NIPPON」のベジソバには玄米麺が採用された。
ソラノイロ店主、宮崎千尋さんも縁に惹かれて佐世だんだん工房を訪れることになった。
僕もこの「玄米麺ベジソバ」を食べに行った。野菜の甘みが丁寧に染み出ている優しいラーメンである。
あやちゃんの田んぼも田植えの直前だった。おなじみのイセヒカリに加えてハッピーヒルという品種が植えられるのを待っていた。ハッピーは「福」、ヒルは「岡」。自然農法の先駆け、福岡正信さんが固定した品種だ。
ハッピーヒルの前には、一本筋の通った生きものがいる。Xが映し出された世界に筋を通している。
「半農半Xという生き型」のプロトタイプをまたひとつ、雲南で見つけた。
三原綾子さんを取材した翌日、僕はさらにイセヒカリ田植えの助っ人に行った。出雲市野尻町。ここでも御田植祭から始まった。大歳神社。五穀豊穣を願う国つ神である大歳神を祭る。
丁寧な神事のあとはおなじみの手植えだ。参加した人たちのそれぞれの個性で田んぼに稲が放たれる。
そして、善男善女が植えた稲を見守り、実りを見届けるのは、もちろん国つ神である。イセヒカリの田んぼには笑顔と御札がよく似合う。
このようにして、国つ神の一大イベント、田植えの季節は終わっていった。
僕はこの日、国つ神の使い(?)田んぼのヒルを足につけたまま、出雲を去った。
田んぼの次の文脈は草取りと稲刈りへと移ろっていく。
熱い夏はまだまだ続く。
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