2014年9月30日火曜日

文脈日記(半農半X家・フミメイ)

僕は半農半X的生活を求めて、都会ではないどこかを彷徨っているものです。
こんなふうに自分を紹介することもある。

そして、僕の半農には3つあります、と続ける。

ひとつ、上山棚田団。



ふたつ、箕面マイファーム。

みっつ、綾部の半農半X田んぼ。


今年は綾部の1000本プロジェクト田んぼはお借りしていない。それでも、半農半X研究所主任研究員として、脱穀とコナギ取りの手伝いはした。


静かな里の秋空の下で、塩見直紀さんと農作業をするのは至福の時である。
久しぶりに「里山ねっと・あやべ」に泊まれば思索が深まっていく。


考えるということは、穂を垂れた稲の下に潜り込んで実りを刈っていく行為に似ている。
ひたすら鎌を進めていけば、いつかは視界が開けることもある。霧が光に溶けこんでいくように。

今、僕が考えているのは、田中文脈研究所をどのように定本化していくか、という課題である。
塩見さんが提言している「一人一研究所のススメ」にしたがって設立した当研究所。その研究レポートは膨大な量になっている。400字詰め原稿用紙に換算すれば790枚を超えつつある。

定本化作業は地道にやるしかない。WEB上のテキストを縦書きに移しかえて写真をレイアウトしていく。田んぼに残されたコナギの根を一本一本掘って土を綺麗にしていくように。
時間がかかる。だが、この原稿を読んでくれる人はもっと時間と労力がかかるはずだ。できるだけ丁寧にやるしかない。


電通を早期退職して4年になる。書き連ねてきたことをひと繋がりにしていくと、分かってきたことがある。

僕は、半農半Xというコンセプトに導かれて、その背後に広がるコンテキスト(文脈)を探求するために動いているのだ。

さらに今年の半農には「善通寺田んぼ」という丸亀高校文脈も加わった。
また、夏の里山を流れる川でしかできない鮎釣りだって「半農」の文脈に繋がっている。水脈かもしれないが。
里山の川は農に直結している。川のそばには田んぼがあり畑がある。
半農半Xの基本的心構えである「センス・オブ・ワンダー(自然の神秘さや不思議さに目を見張る感性)」は川でも磨かれる。


僕の半農については、他人に分かるように説明する自信はある。
では半Xはどうか?
僕は半農半コンテキスターです、と言い続けてきた。
コンテキスターとは何か?
文脈家です。文脈を繋いで物語をつくる者です。詳しくはグーグルで「コンテキスター」と検索してみてください。そこには僕しかいませんから。これも僕の自己紹介の一パターンだ。

それはそれで自分の中では納得感がある。だが、他人が分かってくれているのかどうかは自信がなかった。

そんな気持ちのまま、相変わらず自由を友として動き回っていた。
そして、文脈原稿を整理しているうちに、自分の半Xの新しい考え方が見えてくる。

僕の半Xとは何か?
XはあくまでもXなのだ。
それは未知でありクロスである。関係性であり交錯である。

僕は「半農半X家」。
半農半Xか? と疑問形に聞こえないように発音しないと。
半農、すなわち小さな農をベースにして自分の天職、すなわちXを探していくのが「半農半Xという生き方」である。
たとえば、「半農半歌手」「半農半NPO」「半農半医」「半農半祈り」……。
ならば、Xを天職とする生き方があってもいいはずだ。

関係性を探究して、その交錯を楽しむ生き方。それを型として工作していく生き型……。

フミメイと呼ばれはじめてから現在まで、様々なことを見て聞いて、書いたりしゃべったりしてきたのは「半農半X家」としてのミッションだったのかもしれない。

上山棚田団での関係性は、右も左も上も下も交錯して〝複雑形X〟の宝庫になっている。
そこでのフミメイは固有の「楽しいことは正しいこと」というプリンシプルにしたがって動いていくしかない。


マイファーム箕面のフミメイ農園は15平米の有機栽培を文系百姓として続けている。
そこで始まった野菜縁脈は、自然栽培も交錯して様々な関係性を耕作しつつある。京都の日吉、島根の松江や山王寺と〝草の根X〟のエリアは拡大している。


綾部のXは明解だ。そこには塩見直紀さんがいるから。
田んぼを渡る風は、一定の方向へ吹き抜けていく。それは未来圏から吹いてくる颯爽とした風である。
〝あとから来る者のためのX〟が綾部にはある。


「半農半X家」という妙な言葉を主任研究員が勝手につくっていいものかどうか、疑問は残る。
ただ、Xに何をあてはめるかは〝使命多様性〟に基づき、人それぞれである。
ならば、Xに〝クロスして交錯すること〟をあてはめる変わり者がいてもいいはずだ。

「半農半Xカー」であるフミメイ号は、この4年間で86000キロを走破している。地球を2周以上。
「半農半X家フミメイ」は動いた距離に裏付けられている。自分の足と手でXを掴み取るための研究はしてきたつもりである。

君は半農半Xか? はい、自分は半農半X家であります。
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう 
(『詩集 二度とない人生だから』坂村真民)


最近、当研究所のレポートはやたらと長いものになっていた。
ブログという情報発信方式では、どうしても自分の語りたいことを一方的に届けることになってしまう。それでは読む方も大変だ。
文脈研究所の設立当時は、適度な原稿量であったと思う。原点に戻ろう。

今月は、定本・田中文脈研究所の章立て案をレポートして脱稿なのだ。

第一章 脱藩カウントダウン
第二章 《自立》する日々
第三章 そして311、アンガージュマンする日々
第四章 交錯し考察する日々
第五章 転がり続けて物語る日々
第六章 踊り場の日々
(以下未定)

2014年8月31日日曜日

解説・上山集楽物語

これは2013年の5月に書いた文章です。
当時、執筆中だった『上山集楽物語』(英田上山棚田団・編/吉備人出版/2013年12月24日発行)の「あとがき」として書いたものです。
この草稿は諸般の事情で本に収めることはできませんでした。
その時点から1年とちょっと。今もなお、岡山県美作市上山では《出来事多様性》が継続しています。その動きを理解するための参考になれば、と考えて今月の文脈研究レポートとしてアップしておきます。
横書きにして読みやすくするために、段落設定を変えました。それから参考書籍と上山の写真をインサートしています。テキストは書いた時点から変更はしていません。



「永久の未完成これ完成である」と世界の動きを見切ったのは宮澤賢治である。1926年に『農民芸術概論』の結論で詩人は断定している。

上山集楽物語はネバー・エンディング・ストーリーだ。その終章は見えそうにない。2013年夏現在、この物語はソーシャル・メディアという印刷所で「永遠のβ版」としての版を重ねている。「ベータ版」は常に深化しつづけて完成することがないバージョンを意味するWEB用語である。

インターネットを体液として、そこに浮かぶ自立した細胞が有機的につながっているのが上山集楽だ。その物語が編み出すものはすべてが試作品であると同時にその時点での完成品なのだ。

「なう」が創りだす物語の解説を語り部の一人である僕が書くというのは、タツノオトシゴがいきなり龍に乗った少年になるようなものかもしれない。
だが、すべての物語は、そのような「重層的構造」を持つものらしい。

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実態であり、同時にあなたは影である。あなたは物語をつくる「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレイヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒やしているのである。
『アンダーグラウンド』村上春樹


だとすれば、混沌と流動を基本的なコンセプトとする上山集楽物語の中にあって、僕は登場人物であり語り部であり解説者になっても、それはそれで上山集楽らしい展開なのかもしれない。
それに物語の文脈では書き切れない解説が本書には必要な気がしてならない。

本というメディアの本質はパッケージすることにある。エンディングはなくても、ある時点で句読点をうって時代にアンカーを下ろしておかないと、本はソーシャル・メディアを前にして意味を失う。

なんと言っても、メディアの威信を最終的に担保するのは、それが発信する情報の「知的な価値」です。古めかしい言い方をあえて使わせてもらえば、「その情報にアクセスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」。それによってメディアの価値は最終的に決定される。僕はそう思っています。
  『街場のメディア論』内田樹 


この物語の場合は、「世界の成り立ちについて理解が深まる」というよりも世界の混沌について再認識をする、という方向かもしれないが、解説を試みることにより僕のあとがきとしてみよう。

ということで、まずは登場人物からだ。複雑怪奇なミステリーのように入り組んで見える彼らも所属グループで分類をしてみれば、シンプルな構造になる。

はじめに協創LLPがあった。2007年、大阪で発足した異業種の有限責任事業組合。そのプロジェクトとして英田上山棚田団がスタートした。当然のこととして上山地区住民も登場してくる。

総務省の「地域おこし協力隊」制度ができたのが2009年。
「美作市地域おこし協力隊」も編成されて行政サイドからの登場人物も出てくる。
2011年、NPO法人英田上山棚田団設立。時期を同じくして全国の地域おこし協力隊のネットワークである村楽LLPが誕生した。

それぞれの登場人物が自らの所属グループでの本分を守り整然と活動しているのが上山である、となれば読者にもフレンドリーなのだが残念ながらそうはいかない。
誰がどこに属しているのか、ということは読者にとっては興味深いことかもしれないが、登場人物たちにとってはあまり意味はない。
彼らは究極のところ、自分にしか所属していない。そして行動原理はただひとつ。

楽しいことは正しいこと。

ただし、行動原理はひとつでも彼らはふたつの顔を持っている。本名とニックネームとを。
たとえば僕であれば田中文夫という本名とは61年間つきあっている。フミメイというニックネームとは3年間のつきあいだ。
僕たちは本の中と外を自由に行き来すると同時に本名とニックネームの間も出入りしている。その往来の頻度と、どちらの領域にいる時間が長いかは、登場人物それぞれの判断に任されている。

上山集楽物語がユニークなのは、登場人物名がニックネームオンリーで書かれていることだ。読者は脚注により本名を知ることはできるが、それはあまり重要なことではない。ニックネームで語ることにより、物語はその純度を高めている。
もし本名が持っている背景まで書いていけば、それはあまりに複雑なストーリーになってしまう。また、本書に登場しなかった人物、舞台裏に回った人物も大勢いる。それぞれに重要な役回りを持っていたはずだが、物語の流れの中で書き切れていないことがあれば、ご容赦いただきたい。

登場人物たちが上山集楽に惹かれた理由は様々であろう。また読者がこの本を手にとった理由も様々であろう。

ただ、僕としてはその理由のひとつはかっちの言動であったと思っている。かっちと、その従兄弟であるグロロ、本名で書くならば、西口/石黒家系の求心力なしには、この物語は成立しない。

ブラックホールのように強い重力を持ってヒトとコトを吸い寄せて、夜空に舞い上がるスカイランタンのように情報を発散していくかっちとグロロ。その本質についての解説もまたこの本には必要な気もする。
「棚田の先覚者たち」である「凄玉言霊師かっち」と「泣きと笑いの言霊師グロロ」。彼らが語っていることは物語のバックグラウンドで流れている音楽のようなものだ。それは常識を破壊して再創造を促すリズムを刻んでいる。

かっち、2014年8月12日
グロロ、2014年8月12日

ただし、BGMだけでは世の中は変わっていかない。この物語は上山に集楽して毎日をカーニバルにする「変人」と「へそ曲がり」の集団劇なのだ。

彼らは楽しいことだけを求めて、世の中の通常文脈を無意味にする試みを続けている。
それをビジネス書的展開として解説できるのは、まだ先のことであろう。今はまだ混沌の中で「けもの道」を進んでいる彼らの祝祭空間のことをより多くの人々に知らせていく段階だ、と僕は思って物語を書いてきた。

解説者になった僕が密かにそして分不相応に願っていることは、ドイツの作家、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の現実化である。

物語を読んでいるうちに、そのストーリーに文字どおり引きこまれて、本の中に入ってしまう少年の『はてしない物語』。映画化されたときのタイトルは『ネバーエンディング・ストーリー』だった。

あまり楽しくない学校生活や父親との暮らしを送っていた少年が、迷いこんだ書店で見つけた本を、学校の屋根裏で読み進むうちに、その本のストーリーの中に入りこんで、ついには物語に登場してしまうというファンタジー……。

「上山集楽物語」も読者が登場人物になる瞬間が訪れることを願っているし、そのことがこの本を編んだ目的のひとつであることは間違いない。

ただし、今の世の中はファンタジーで成立しているわけではない。
石川啄木が明治43年(1910年)に憂慮した「時代閉塞の現状」は103年を経過して、まだ持続しているように僕は感じる。
「時代閉塞」はファンタジーでは解決できない。夢物語のみを膨張させることを拒否して、日々の実践の中から時代突破の原則を発見していくこと。その原則に共感する人々が集まる場をつくり、登場人物を呼びこむこと。もしも、このような善循環の構造がつくれるのであれば、閉塞は開放に向かっていくのかもしれない。

この構造をマーケティング用語で解説することもできる。
かっちとグロロはイノベーター(Innovators)である。先覚者だ。
それに続く「変人」たちは、アーリー・アダプター(Early Adopters)と言える。先覚者の行いに素早く共感してともに行動し善循環のネットワークを構築する初期採用者だ。

マーケティング理論ではイノベーターとアーリー・アダプターは市場全体の16%にすぎないとされている。(※1)
その後に続くはずのブリッジ・ピープルとの間にある深い溝をどう乗り越えていくのかは一般的なマーケティング課題である以上に、上山集楽の大きな挑戦でもある。(※2)


さらに、その構造の解説を試みるならば、トリック・スターとウィル・ピープルという見方もできるだろう。
トリック・スターとは、文化人類学者、山口昌男が有名にした概念である。舞台が大きく展開するときに現れる「道化師」たちのことだ。
トリック・スターとは、その自由奔放な行為ですべての価値観をひっくり返す神話的いたずら者、いわば文化ヒーローとしての道化である。
(中略)
創造者であると同時に破壊者、善であるとともに悪であるという両義性をそなえて、トリックスターはまさに未分化状態にある人間の意識を象徴する。そして、既成の世界観のなかで両端に引きさかれた価値の仲介者としての役割をになう。
   『トリックスター』解説文

かっちとグロロはトリック・スターである。彼らは棚田の先覚者であると同時に道化師だ。
その詩的言語で人々を上山集楽へと誘い、価値観の再創造を試みる。
かっちの声は、「時代閉塞」の突破を告げる。グロロは棚田で火を吹いて、祝祭の始まりを高らかに宣言する。
楽しいことは正しいこと、というプリンシプルはテキストと同時に彼らのサウンドとアクションで人々を引きつけるのである。

しかし、閉塞を突破せよ、とアジテートするトリック・スターたちだけでは時代は変革していかない。彼らに導かれて物語の中に入ったウィル・ピープルが主役になってこそ、物事は動いていくのである。
ウィルとは意志である。僕は本書の中で志を持って上山に集まった人々を「志人」としている。ウィル・ピープルも志人も僕の造語だがネバー・エンディング・ストーリーの登場人物にふさわしいネーミングだと思っている。

右も左も蹴っ飛ばして、ひたすら「けもの道」を進むトリック・スター、その後からウィル・ピープルが踏み分け道をつけていく。さらにその道に花を植えるアーティストも集まってくる。
今のところ、上山集楽の善循環構造はこのようなカタチを取って「毎日をカーニバル」にしているのだ。
決して楽ではない道のりも、道化師と志人と芸術家のコンビネーションで、ひたすら前に拓けていくものなのだろう。

トリック・スターであり道化師でありイノベーターであるかっちとグロロ。直後に続くアーリー・アダプターでありウィル・ピープルすなわち志人である人々。

それでは、この登場人物たちが目指している未来はどのような方向性を持っているのだろうか。

この問題の解説は容易ではない。先覚者も志人たちも広告会社の鬼十則(※3)のように細かい行動指針を共有しているわけではない。
シンプルに「楽しいことは正しいこと」を標榜するのみである。その「楽しいこと」の判断基準は各自に委ねられ、時に共有され、時に個別化される。その流動的な状況は、外部から見れば「混沌」としか見えない時もあるだろう。

ただし、上山集楽物語が多くの登場人物を集めつつあるのには明確な理由がひとつある。
それは、「地に足をつけて棚田で米を創りつづける」というもっともベーシックで普遍性を持った「楽しいこと」を共有していることだ。
農をベースにして行動するものが強いことは、塩見直紀が提唱した「半農半X」という言葉が今や一般名詞になりつつあることでも分かる。

棚田団は米を創る。粛々と米を創る。種籾を選別する。苗を慈しみ、田植えに備える。畦を塗り代掻きをする。
上山の田植えは6月上旬だ。田植えはまさにカーニバル。稲が育つと草も育つ。コナギやヒエを手で草取りする。田見舞いをして棚田を愛でる。秋色の祝祭空間で稲刈りをする。ハゼ干しの楽しさは人の集まりに正比例する。脱穀し籾すりをする。

上山棚田では、瑞穂(みずほ)の周りに集楽するライフサイクルが繰り返される。繰り返しの美学を守りつづけることが「楽しいこと」の原点だ。
登場人物たちの共通項はそう信じることにある。その信念が上山の村人たちに伝わったとき、棚田は彼らを心の底から受け入れる。

  厳めしき祖父の一言「家を継げよ」従ひたれども棚田は守れず
   (小林和子による石碑の文言)

上山集楽物語には終わりはなくとも、始まるための推進力はあった。棚田の一画に立っている石碑の無念が、それなのだ。

小林和子、2013年2月25日撮影

「棚田で米を創りつづける」という地に足をつけた「楽しくて正しいこと」があったから、村人たちは先覚者と志人たちを受け入れたのである。
そこまで気持ちを共有することができたら、次の章は自由自在だ。
棚田にレストラン、棚田にヘリポート、棚田でコーラス、棚田でタップ、登場人物がやりたいことはすべて認められていく。

上山集楽は「懐かしい未来」に向かって開かれた特異な共同体になりつつある。
自らも山村に居場所を持つ哲学者、内山節は、かつては否定の対象となっていた「自然と人間の共同体」にこそ、閉塞状況を開いていく鍵となるものが存在するとしている。
そして上山集楽のような小さな共同体が成立する条件を以下のように説いている。

私たちがつくれるものは小さな共同体である。その共同体のなかには強い結びつきをもっているものも、ゆるやかなものもあるだろう。明確な課題をもっているものも、結びつきを大事にしているだけのものもあっていい。その中身を問う必要はないし、生まれたり、壊れたりするものがあってもかまわない。ただしそれを共同体と呼ぶにはひとつの条件があることは確かである。それはそこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。だから単なる利害の結びつきは共同体にならない。群れてはいても、ともに生きようとは感じられない世界は共同体ではないだろう。
  『共同体の基礎理論』内山節

英田上山棚田団代表理事のいのっちは、「ともに生きる世界がある」と自身も感じているから、今日も上山に通い続けている。彼女は上山集楽の混沌の中に一筋の光が見えているのだろう。

ともに生きることの意味を問い続ける『上山集楽物語』の未来はどのような方向性を持っているのか?

この問いに対して、解説者としての僕は客観的で具体的な答えを出すことができない。その答えは登場人物たちが、それぞれ自分の居場所を探すときに発見していくことなのだから。
だが、ひとりの登場人物フミメイとしては事例を語ることができる。

志人たちが水平に並ぶところ、その概念を僕はWill Flat 、ウィル・フラットと名づけてみた。
僕はコンセプトを言葉にしてみただけだ。その言葉を実体化していくのは先覚者かっちだ。

いつのまにかWill Flatは棚田を見下ろす水平な床が連なったテラス・レストランの名前になっている。そこには必然の結果として志人たちが集まってくる。未来を語り合い、集楽からの贈り物を食べ、時には酒を酌み交わす場所になってきた。
この言葉はやがて、上山集楽の明日を担う人財育成施設であるフューチャー・センターにも繋がっていくのかもしれない。

僕はこのようにして上山集楽の方向性と関わってきた。妄想を語る文脈家として志人の列に連なってきたつもりだ。
そして、僕の今後の関わり方は、また自分の「楽しいことは正しいこと」から考えていくしかないだろう。

WillFlat、2014年8月12日

いのっち、やっしー、きっちい、アロマン、お喜楽美々、笑顔のまさやん、やまちゃん、聖子、そしてボブ、その後にも続々と登場してきている志人たち。

詩人は韻を踏み、志人は田を踏む。自然と協創する志人は、横に繋がる志人との関係性のなかで明日を見つけていくしかない。


(※1)イノベーター理論……1962年に米・スタンフォード大学の社会学者、エベレット・M・ロジャース教授が提唱。

(※2)キャズム理論……1991年、マーケティング・コンサルタントのジェフリー・A・ムーアが提唱。

(※3)電通鬼十則

上山棚田団の原点田んぼ2014年8月12日
天燈、星に願いを。上山夏祭り2014

2014年7月28日月曜日

文脈研究所、東京国際ブックフェアに行く。

あちこちに顔を出して彷徨していると、また自己紹介で悩む日々。
「英田上山棚田団信頼責任者」です。「協創LLP構成員」です。「半農半X研究所主任研究員」です。「マイファーム農園メンバー」です。
「ああそうですか、それはどうも。で、あなたの本業は何でしょうか?」
こういう反応が返ってくると、回答を探さなくてはならない。
「田中文脈研究所コンテキスター」です。
それは法人ですか? 具体的に何をしているのですか?
僕は困ってしまう。
「雑文書き」です。
最近は開き直った方がいいような気もしてきた。

「自己紹介は世界を救う」(by塩見直紀)という言葉にインスパイアされて、こんな雑文を書いたこともあった。
今でも、この状態は変わっていない。
で、住所不定無職のおっさんは、東京国際ブックフェア(TIBF2014)にも顔を出した。


このコンベンションは以下を来場対象としている。
書店・取次・出版業界関係者・学校/図書館・専門家/法人ユーザー・読者。

同時に開催されている第18回国際電子出版EXPOにも事前申込みをしていた。
7月4日、僕は出展社であるボイジャーの招待状を持って入場窓口に行く。IDをもらって首にかけた。

なぜか「書店」になっている。そこに田中文脈研究所の名刺が貼り付けてあった。
ま、いいか。本業は「本」業です、と名乗れたら素敵かもしれない。

書肆「田中文脈研究所」か。
専門は「半農半X」と「尊農護憲」関連書籍。
それから日本近現代史、特に「満州国」と高度成長関連。311関連の書籍ラインアップも充実している。おや電子書籍の文脈棚もあるぞ。あれ釣師の名言コーナーもある。
片隅には「村上春樹と中国現代小説、文脈整理なう」というPOP。
「読まずに死ねるか、私が愛した冒険小説」特集が平積みされてある。
一体、どんな本屋やねん!?


妄想書店のおやじは、まずボイジャーのブースに行った。
僕はボイジャーのファンであり、日本の電子書籍の曙を支えた萩野正昭さんを尊敬している。その萩野さんに初めて、リアルにお目にかかることができた。
ボイジャースタッフは全員、揃いのTシャツを着ている。
Text:THE NEXT FRONTIER 言葉こそが次世代の最前線である。

ボイジャーのスピーキング・セッションに顔を出して、萩野さんにご挨拶。テキストTシャツを僕も手に入れる。嬉しい。


書店IDをぶら下げて、電子出版EXPOと国際ブックフェア会場を散策する。

僕はこういう大きなコンベンションが好きだった。会社員の頃は、IT関連のイベントによく顔を出していた。今世紀の初め、全米放送協会主催のNABショー@ラスベガスに参加したことで、大きな学びをしたことがある。今に至る僕のネット発信の原点だ。

それはともかく。歩く。展示ブースに興味を示すとすぐに資料を渡される。たちまち紙の束が増えていく。本の割引販売コーナーもある。買わないカワナイ、とおまじないを唱えながら歩く。それでも買った本はこれ。


『もう10年もすれば…消えゆく戦争の記憶―漫画家たちの証言』

今人舎、イマジンを子供たちのために届ける出版社らしい。2014年6月30日第一刷発行。
この本は1995年に上梓された『ボクの満州』(亜紀書房)の復刻版だ。


もう10年すれば2024年。「今こそ中国を読もう」と帯にある。

アベシンゾーくん、読みたまえ。
「満蒙は日本の生命線」とお題目を唱えた結果がどうなったのか、「ホルムズ海峡は日本の生命線」と主張する君は認識しておるかね。

閑話休題。先を急ごう。聞いてみたいボイジャーのセッションが始まってしまう。時間がない。
数多くの出版社ブースの中で、異色のところがある。農文協(一般社団法人農山漁村文化協会)。

農文協のブースには「半農半X」を標榜する書肆としては取り揃えたい書籍が山ほどある。
一冊を厳選する。




『内山節のローカリズム言論』。大判の本を思いきって買ったのだが、会場のどこかに忘れてしまった。残念。農文協の人からは内山節著作集全15巻を予約しませんか、と誘われたのだが、うーんと考えてお断りをした。



ボイジャーのブースに戻る。スピーキング・セッションを傾聴した。
漫画家鈴木みその「KDPが私の道を拓いた!」
KDP=Kindle Direct Publishing、アマゾンのセルフ出版サービスのこと。

ボイジャー以外のTIBFの会場全体で、何となくアマゾンのアの字を出すのが憚られるという雰囲気を感じたのは僕だけだろうか。
そういえば、ジャパゾンはどうなったんだ?

『ナナのリテラシー1』(著者:鈴木みそ/発行:鈴木みそ)

続いてテクノロジーライター、大谷和利の「本とネットとRomancer」
ロマンサーとは、ボイジャーが開発したWEBベースのセルフ出版システムのことだ。

「本とは何か?」と問われたとき、「本とは物体のことではなく、持続して展開される論点やナラティブ(物語)」だと著名な編集者が答えている。
ロマンサーは紙を超え、個別の電子書籍アプリを超えて、人々が慣れ親しんでいるWEBブラウザをベースにした〝本の進化形である。
詳しくは、この無料セミナーをどうぞ。



苦節22年。1992年以来、電子書籍の獣道を歩んで失敗を続けてきたボイジャー。
失敗してきたと言うことはすごい知見が溜まったということだ。そして、そこに連帯が生まれる。



VOYAGER SPEAKING SESSIONS、最終航程。
「メディアと書き手の連帯が欠かせない時代」 萩野正昭(ボイジャープロジェクト室長)

声を荒げようとありったけに叫ぼうと、呼応する声など返ってこない。〝モノ〟をいうこの果てしない孤独感をみんな噛みしめている。それでも突き動かされるように人は人とのつながりを求める。この不思議さに心を動かす原風景の中に、私は出版という意味を示す鍵が隠されているとおもってきた。 
『本とあなたをデジタルでつなぐ』(第4章 私たちに身方するメディアなどない)

「無縁の中から立ちあがる伝播の悲哀」、「身方するメディアなどない」時代閉塞の現状。
そこに風穴を開けるための営為を鋭意実行した結果、ボイジャーは数々の連帯を獲得しつつある、と萩野さんは語った。

ドラえもんとの連帯。
電子出版権を自ら保持していた文学者(池澤夏樹)との連帯。
そして、失われてしまった盟友(富田倫生/濱野保樹)との連帯。

萩野さんの声を聞きながら、僕はこんな言葉を想い出していた。

    連帯を求めて孤立を恐れず。
    力及ばずして倒れることを辞さぬが、
    力尽くさずして退くことを拒否する。



あけて7月5日。〝本の学校出版産業シンポジウム2014in東京〟

NPO法人本の学校の出版産業シンポジウムは、2006年から東京国際ブックフェアの期間に合わせて開催されている。
1995年から5年間にわたって鳥取の大山で開かれた〝本の学校・大山緑陰シンポジウム〟の志を引き継いだものだ。

「田中文脈研究所」は、本の学校の正会員でもある。憧れの出版産業シンポジウムに初めて参加させていただいた。

まずは、特別講演。
「これからの書店ビジネスを展望する―リアル書店のネット時代への対応策」
基調講演は紀伊國屋書店の高井社長である。
巨大書店の社長は〝リアル書店という言い方には抵抗がある、と語った。
書店にリアルもバーチャルもない。そこには本を読者に届ける情熱があるだけだ、という思いなのかもしれない。

巨大書店も、はじまりは新宿の地域書店だったのかな、そうか、紀伊國屋徳島店には「地元同人誌コーナー」があるのか、今度、徳島に行ったら覗いてみよう。ドバイの「王族買い」か、憧れるな、などと妄想書店のおやじは納得していく。

「お江戸がなんぼのもんじゃい」という対抗意識を漲らせているように見えたのは京都のふたば書房の洞本社長。残念ながら、ふたば書房箕面店は閉店してしまったが。本屋のマーケティングは難しい。


午後からは分科会。第二分科会「本がつなぐまちづくり」に顔を出す。
今井書店グループの永井伸和会長にもご挨拶できた。

コーディネーターは森田秀之(株式会社マナビノタネ)、パネリストは磯井純充(まちライブラリー提唱者)、鎌倉幸子(シャンティ国際ボランティア会)。
この分科会では、興味深い言葉の連発だった。

かえぽん部、植本祭、大阪のおばちゃんの飴効果。
食べ物は食べたらなくなります。でも読んだ本の記憶は残ります。
立ち読みお茶のみおたのしみ。
本はやさしくつなぐ、人と人、人と情報、人と未来。

ところが、僕のお尻は落ち着かない。この会場の外では列ができていた。東京国際ブックフェア・読書推進セミナー〝「読書」の極意と掟/筒井康隆〟を聴講するために1時間前から並んでいる人々がいる。

本の学校会員のくせに大御所作家の話に浮気をしたかったのだ。
筒井康隆。小松左京、星新一と並ぶ日本SF界の巨匠。スラップスティックの帝王。


申込者は3500人。会場に入りきれない場合はビデオ中継の方に案内されるという。僕は、そっと分科会を抜け出して向かいの会場に向かった。

なるほど、ベストセラー作家のファンというものはこういう人たちなのか。
小説家が語る読書の極意はシンプルなものだった。
「手当たり次第に読みなさい」
御意。
この講演のタイトルは彼の〝作家としての遺言〟である『創作の極意と掟』の受け売りで、小説家としては不本意だったらしい。

圧巻は後半の自作朗読。最近作の『奔馬菌』。
このハチャメチャSF作家が、実は、311後の列島に深い憂慮の念を持っていることがよく分かった。
そして、自分のテキストを読むという行為は想像以上に力仕事らしい。朗読を終えたあとのため息が印象的であった。
ニワカ小説家としては、創作の極意と掟も熟読してみたい。



会場は本の学校の交流会に移る。
永井会長以外は誰も知らない会場。さすがにエセ書店のIDは、恥ずかしいのではずす。
FB友達すらいない純粋初対面の交流会はスリリングだ。緊張して?写真を撮るのを忘れている。本の学校FBからお借りしよう。



本の学校副理事長の前田昇さん、はじめまして。また米子に行ったときに農談議をさせてください。

今井書店の田江会長、はじめまして。いつも松江の野津旅館がお世話になっております。

会場で乾杯を待つために佇む微妙な時間帯。僕にビールを注いでくれたオジサンがいた。
名札は「VALUE BOOKS」、バリューブックス、どこかで聞いたことがある。

東京の出版社? 東京の本屋さん?
「実は、私どもは信州でして……」
そこで、ようやく文脈が繋がった。


東京に来る前に、僕は大量の蔵書を整理すべく段ボール箱に詰めていた。自分の本の断捨離というのはとても時間がかかるものだ。いまだ詰め切れていないが。

その段ボールの宛先がバリューブックスだったのだ。
そこは、アマゾンのアの字の関係者だった。

アマゾンから送られてきたチラシにあった送料無料集荷、買取金額10%アップのコピーに僕は惹かれた。はじめてバリューブックスを利用するつもりになっていた。

「弊社をお使いになろうとした一番の動機は何ですか?」バリューの廣瀬聡さんが訊ねてくる。
「実はうちはエレベーターのないマンションの4階でして……クロネコヤマトさんには悪いのですが、とても自分で段ボール5箱を下ろす気力がでなくて……」
僕のとぼけた回答に、またビールを注いでくれる。

廣瀬さんとはすっかり意気投合してしまった。世代が近い本好きにキャズムはない。


「本とは木の横にキズをつけてできている。だから木のためにも大切に扱いたいものです」という本の学校、植田新理事長の挨拶で酒宴は盛り上がっていく。

本とは言葉を耕して、そこに実ったものをひとまとめにしたものである。実りを入れる箱は何でもいい、と「田中文脈研究所」は考えている。
いい加減で耕すためには、自力と他力が混ざりあうことが必要であろう。

本の学校交流会のようなところは、本というものを媒介にして、混ざり合う力が高まる場所である。

森田秀之さん、はじめまして。分科会を途中で抜け出してすみません。今度、信州に行ったらマナビノタネの畑を見せて下さい。

星野渉さん、はじめまして。文化通信ネット会員になりました。



鎌倉幸子さん、はじめまして。中締めの挨拶、感動しました。僕もつい最近、復興の書店巡りをしたばかりです。


高須博久さん、はじめまして。『上山集楽物語』へのお声がけ、嬉しかったです。

そして、永井伸和さん、ありがとうございました。
本との出会いは本当の出会いにして、人との出会いの資本ですね。
おかげさまで、僕の本業が見えてきた気がします。

「田中文脈研究所コンテキスター」を本業にするために、何をなすべきか?
この研究所は静的なものではなかった。
自分がクライアントで自分がプロダクションの運動体であった。いまだ動いているのでパッケージにはなっていない。そろそろ段落をつけたいと思う。

「文脈研究所」は、ある一定の視座を持ってまとめていけば「本」業になれるような気がしてきた。雑文をひとまとめの本にしたい。

視座の確保がなるのかならぬのかは、やってみなければ分からない。
さて、本末転倒になりませんように。