2016年9月21日水曜日

キンカントマト物語(フミメイ版)

フミメイ農園ことはじめ


キンカンと僕の付き合いは4年になる。
キンカンとは北摂(大阪北部)の在来種、キンカントマトのこと。僕とは「半農半X的生き型」を模索するコンテキスター・フミメイのこと。
始まりはマイファームだった。株式会社マイファームの体験農園を箕面で借りたのは2010年10月。それまで畑や田んぼとは縁のない生き方をしていた。紀伊半島を中心に渓流釣りと鮎釣りにはのめり込んでいたが……。

2010年11月7日

「十五平米」の善循環が始まった。
そのとき会ったのが、のちの「寒吉つぁん」。いや、そのときから、芦田喜之(あしだよしゆき)さんは自分のことを「寒吉」と名乗っていた。
初めての「農園管理人」のちの「自産自消アドバイザー」が寒吉つぁんだった。京都は日吉胡麻の専業農家。僕とはほぼ同世代。これはラッキーだと今でも思う。

寒吉つぁんには、それ以来、ずっとお世話になっている。
フミメイの半農半Xのベースをつくってくれた。本当にありがとうございます!


2012年12月29日

僕は、現在、デジタル「じじ」である。そうなったのは2011年7月14日。最初の孫が生まれてから。
ただし、今世紀初めから僕はデジタルの世界には慣れ親しんでいた。
で、畑や田んぼの情報はネットの世界でオーバーフローしている。

マイファームの畑を始めたとき、僕は(なんとなく)決めた。ネットで農の情報は取らない。寒吉(先生)の言うことだけを聞こう。
これは今でも正解だったと思っている。何しろ百姓は百人百派なのだから。迷い始めたらきりがない。

以下は2011年10月24日のFB投稿である。
マイファームで農園を借りて、ニワカ百姓を始めてから1年になる。「野菜は甘やかしたらあかん」という芦田喜之、寒吉さんのご指導により、水も肥料も最小限にして覆いモノはほとんどせず、いろいろな野菜を育ててみた。他のことはネットで詳細に調べたりするのだが、農園に関してはプロの百姓、寒吉さんのお言葉のみにしたがった。おかげさまで、わずか15平米の天地だが有情はそれなりに楽しめた。まず土に触って土から恵みをいただく経験は貴重だった。半農半コンテキスターとほんの少し胸を張って言えるようになった。口であれこれ言う前にまずは土なのですよ。口より土だ、ということでマイファームの理念をシェアーしておきます。「自産自消」の先に見える「何か」って何だろう。またコンテキスターの宿題が増えたなあ。

畑にはビギナーズラックがあるらしい。まず色っぽい大根ができた。

2011年2月12日

そして、2011年5月にはじめて収穫して寒吉つあんに縛ってもらったタマネギ。これはフミメイ農園史上、最大のタマネギだった。

2011年5月7日

寒吉つぁんは昔も今も農園デザイナーである。独自のデザイン感覚で変なことばかりしていた。

2011年12月4日

変なことが大好きで、すぐ影響を受ける僕も「稲藁大魔神」などと。

2011年10月12日

2012年春にはスナップエンドウを畑で取って、そのまま食う快感を覚えた。
「自分でつくった野菜はなぜ甘いのでしょうか?」と様々な人に訊ねるキッカケとなった体験である。
にしても、この頃のフミメイ農園は今と比べたらシンプルだな、と他人ごとのように思う。

2012年4月23日
2012年4月23日

畑を始めたときの目標は「自分でつくった白菜でてっちりを食う」だった。
これは2010年の年末にはもう実現できていた。

2013年2月には「野武士白菜」とネーミングされるものができた。以後、野武士と呼べるような白菜をつくったことはないが。

2013年2月8日

というようなことで一気にフミメイ農園のタイムラインを遡ってみた。

だが、世の中は動きはそれほど単純ではない。
2011年3月11日がある。世界は変わった。

2011年3月12日箕面川
2011年3月20日フミメイ農園

311の一カ月前に、僕はMERRY PROJECTの水谷孝次さんと出会った。文脈が大きく旋回した。詳しくはこちらのレポートを読んでほしい。

メリープロジェクトにはMerry Farming というコンセプトがあった。My FarmとMerry Farming、ふたつのMFは以後、僕の「半農半X的生き型」を支えるようになる。看板を掲げた。

2011年5月4日

キンカントマトがやってきた


さて、キンカントマトの話である。2013年の春にはマイファーム・キンカントマトプロジェクトが始まった。以下はキンカン・フライヤーからの引用。
日本のトマトにも野生の時期があったといいます。その野生トマトの血を引き継いでいるのがキンカントマトです。今時、稀有な存在です。大阪北部の山中でも、かつては野生のトマトがありました。その実は金柑(きんかん)に色と形、大きさが似ていたので、村人は「キンカン」と呼んでいたそうです。当時は野辺で金色に輝いていたのでしょう。やがて、村のおばあちゃんたちはキンカントマトを畑に持ち帰り、「うちの子」として慈しみ大事に種を繋いできました。暑い夏、野良仕事をひと休みするとき、谷水で冷やしたキンカンを口にする。汗がひく。キンカンの甘さで身体が蘇る。現在、大阪では野生のトマトを確認することはできません。おばあちゃんたちも年をとってしまいました。「このままでは種が途絶えてしまう」おばあちゃんの志を引き継ぐ人々が立ち上がります。貴重な在来種、キンカントマトの種を繋いでいく物語が始まったのです……。キンカントマトは在来種です。交配種(F1)ではありません。つくる人、土、場所によって味と形がちがってきます。基本は中玉トマトです。産毛が際立ち、六枚のガクがダンスをしているようにピンと立ちます。

マイファーム管理人のひとりが北摂の高山からキンカントマトを譲り受け、タネを取る。その最初の400粒から物語が始まった。
高山はキリシタン大名、高山右近の生誕地として知られている。そこでは今でもキンカンを「うちの子」と呼ぶおばあちゃんがいる。



春には定植、夏には実る。僕はキンカントマトに魅せられた。

2013年5月18日

ところが、このあたりが変人ファーマーの僕らしいのだが、「キンカンと名乗るからにはキンカン色でも食えるはずだ」というドグマに陥る。食ってみる。舌がしびれた。

2013年6月25日

以後、緑キンカンは口にしていないが、襟元にキンカン色をまとった赤いやつは無数に食っている。2013年8月6日には第1回キンカントマト食べ比べ会が開催された。


あけて2014年。キンカントマト物語は加速していく。ドライブをかけるのはもちろんこの人。

2014年3月8日


そして第2回の食べ比べ会は8月8日。フミメイのキンカントマトはなぜか一等賞になってしまった。


この頃から、寒吉つぁんは「キンカントマトをアンデス山脈に返す運動体」を勝手にこしらえて、そのリーダーとなる。


「キンカンよ、東北東を目指せ!」と唱えて定植し誘引するのだが、文系百姓の僕にはいまだになぜ、南米のアンデス山脈が日本列島の東北東になるのか理解できない。
まあ京都大学農交ネットの理系学生さんが、そう言い張るのだから間違いないのだろう。

僕は孫がキンカンを喜んで食ってくれたら、それで満足なわけで……。


そしてフミメイも「タネとりじいさん」となった。


タネに目覚める


ああ、ようやく2015年までたどり着いた。ペースを上げないと稲刈りの季節になってしまう。
うんとこどっこいしょ! と先を急ごう。

2015年2月7日。箕面桜島大根

2015年春、僕は突然、タネに目覚めてしまった。

先達がいた。笑顔満開で僕をこっちの世界に引きずりこんだやつだ。

こっひーこと小東和裕(こひがしかずひろ)さん。
彼とは大きなイベントをともにしたことがあった。こちらも「自産自消」をコンセプトにして「百菜畑」を営む強者(つわもの)である。

また水谷孝次さんとも繋がっている。


とったら配る。これが「タネとりじいさん」の本能らしい。
こっひーは僕に絶好の機会を提供してくれた。2015年4月5日、「たねの森」系「たねの交換会」


僕はキンカントマトの話をしてタネを配った。このあたりがニワカ百姓の強みと無鉄砲さである。そうそうたるタネとりメンバーが並ぶなかで、堂々とはじめての自家採種タネを売り込んでしまう。


ちなみに、このときもらったベネズエラあらためペルー紫玉蜀黍は、3メートル近く育って、フミメイ農園の旗竿のようなものになった。ただそれだけだった。いったいどんな玉蜀黍なんだろうか?

2015年9月ペルー紫玉蜀黍の根

2015年春はもうひとつキンカン史上、忘れてはならないできごとがあった。
なんと、あの木村秋則さんにキンカントマト、しかも越冬したそれを食わせた男がいる。
4月26日、マイファームの「アグリイノベーション大学校」。

もちろん、それは我らが寒吉つぁんである。そして、さすがは変人代表、木村秋則さん。
「インカの世界だね」と「バカになるのってむずかしいよお」という回答をくれた。
これは、ぜひ映像でシュールな会話をするふたりを見てほしい。


自然栽培の木村秋則さんが有機栽培のマイファームで講義する。こう書いただけで、なぜだ?! と目くじらを立てる人がいるかもしれない。
それは「有機」という言葉の意味を深堀りしていないからでしょう、と愚考するのだが、それはまた別の話。


木村さんはトマトの「ななめうえ」を教えてくれた。ななめうえを見ながら天に豊作を願うのではない。
苗の芯を残して、軸の葉はできるだけ切断する。根も切る。土に斜めに横たえる。芯が天を向くように枕を差しあげる。


ポットの中にあった根は役割を終えて、斜め軸から生まれる新根がしっかりと土を掴む。
すべての根源は根である。


そして、トマトの根の隣には根粒菌を!
大豆の根粒菌が窒素固定をして肥料の代わりをしてくれる。ただし、「黒豆はだめです。黒豆はけちで窒素をくれないんです」と奇跡のリンゴをつくった人は言った。
ニワカ百姓はいまだになぜかは分からない。でも、それでいいのだ。信じる人にはしたがうのみ。緑豆か白豆をコンパニオンしよう。

2016年5月16日、カミャータ農園

こっひーの「タネの交換会」、木村秋則講習会での「キンカントマトプレゼン」を経て、僕は野口種苗から固定種タネを取り寄せた。それが苦労の始まりだった。

断っておくが、僕はF1を否定しない。F1苗を使えば野菜は(比較的)簡単にできる。まずは収穫し自産自消しなければ、百姓入門の門は高すぎる。

F1から固定種に行った僕は、道楽に突入したともいえる。
固定種は楽しい。旨い。でも遅い、小さい、苗をつくる手間がかかる。
そして「どうしてもっと普通の野菜がつくれないの?」と山の神に問われるようになる。


道楽を極める手伝いをしてくれたのは、またしても寒吉つぁんである。

マイファームは毎月、ニュースレターという冊子を送ってくる。付録には少量の固定種タネがついてくる。
その「菜の花の種」20粒を僕が適当に播いた。2014年9月30日のことだった。
2015年の春、菜の花はほったらかし農法で立派に育ってくれた。

育ちすぎて抜くに抜けず困っている僕に寒吉つあんが提案する。「タネとりをしましょう。まかせてください」。
で、知らない間に「20万9千粒」のタネが出現した。「一粒万倍」が実証されたのだ。
しかも、そのタネが「田中さんの菜の花の種」として再び付録になる、という循環の世界。

マイファーム・ニュースレター2015年10月号

さらには菜種から菜種油を絞り、それを農園の行灯用のエネルギーにしてしまうのが寒吉つぁんの底力だ。
まいりました。降参です。

2015年10月10日

これは「キンカントマト物語」なので「菜花種取物語」もまた別の話。
興味のある方は以下の写真をクリックしてください。プレゼン資料が読めます。


このようにして固定種(在来種)道楽は明るい迷宮に入っていく。
真夏の祭典「キンカントマト食べ比べ会」は続く。

2015年8月8日


キンカン2016全面展開


そして2016年8月6日。第4回食べ比べ会。
出品数は33点。しかも各地から。集合写真は同じように見えても、内容は大きく深化している。


食べ比べ会に先立つこと5か月、「キンカントマト1000本プロジェクト」が(なんとなく)始まっていた。

2015年秋、僕は各地にキンカンタネを配っていた。そうなると立場上、発芽するかどうか心配になる。
発芽実験をする。発芽率98%。安心するが、この苗たち、どげするだ(どうしましょうか)?


結局、フミメイだけで169本のキンカン苗をつくってしまった。


種1000粒、苗1000本、そして食べ比べ会に集まってきた実が500個!
多少、「主催者発表」の匂いはするが、キンカンシーズン2016は北摂の在来種が各地の在来種となるべく全面展開したのは事実である。

フミメイ号はキンカン苗を乗せて、各地に走る。


そして、こっひーがまた僕の背中を押した。
2016年5月1日。大阪は枚方の星ヶ丘洋裁学校にキンカントマト苗を持ってきてちょうだい!
――はい、分かりました。


星ヶ丘洋裁学校は結界だった。
僕はそこで『いのちの種を抱きしめて』という映画を初めて見た。多様性、ダイバーシティ、diversity という言葉が多用されている。

クリックしたらリンクあり

映画を見たあと、こっひーのネタ、じゃなかったタネ話を聞いた参加者たちは“Share Seeds(シェアシード)の趣旨に共鳴する。キンカン苗はすぐになくなった。


その3日後、キンカンは出雲に行った。
寒吉号が日吉胡麻から雲南の山王寺棚田まで往復700キロを走破した。

山王寺棚田2016年8月24日

山王寺棚田は、もはや僕のホームグラウンドといっても差し支えないだろう。
まさか寒吉つぁんが日帰り訪問をするとは思わなかった。
目的はマコモの株分けだったが、それはキンカン苗と物々交換される。キンカントマトとマコモの縁で日吉胡麻と出雲が直結した。

2016年5月4日、寒吉つぁんと野津健司さん

僕は1年以上前から『国つ神と半農半X』というコンテキストを追いかけて出雲に通い続けている。執筆は停滞し、「書く書く詐欺」に近いものとなっていて申し訳ない。

それでも、この文脈のスピンオフ・ストーリーは完成した。
『出雲國まこも風土記』(田中文夫/発行:里山笑楽校/発売:今井出版)というブックレットとなって、もうすぐ発刊される。まこもの話はこちらを読んでいただきたい。


まこものことを書くためにはマコモを観察せねばならない。
マコモを求めて半農半Xの聖地、綾部を取材するとき、キンカントマトの物語と苗も広めていく。

2016年春、『キンカントマト物語』と『出雲國まこも風土記』は同時進行していたのだ。

綾部、出雲、石見、隠岐、安曇野、兵庫、奈良……物語は繋がり、『キンカントマト物語』のフェースブックグループは、現在、参加者130名。

各地から様々なキンカン模様が伝えられている。なかにはキンカンの故郷、北摂高山に近いところにいながら、箕面→日吉胡麻→綾部経由で苗を手に入れたファーマーもいる。

2016年8月6日

8月6日、キンカントマト食べ比べ会ではカタチも大きさも味も様々なものが集まって来た。ほぼ同じタネ、同じ苗から育っているのに。

たとえば、奥出雲に行ったフミメイ苗は八川農園、橋本さんのハウス栽培で、大きく甘く育っていた。フミメイキンカンと比較してみたら大きさは3倍で、酸味が強いフミメイものより数倍、甘かった。


人、土、場所によって多様な顔を見せるキンカントマト。

その聖地(といってもいいだろう)、マイファーム箕面1号農園のキンカン畝では2016年、不可思議な栽培をしていた。
自動発芽の試みである。お察しのとおり、寒吉つぁんの発案だ。

正月にはキンカン初詣をして2月16日は昨年の仕舞いをした。当然のことながらたくさんの実が落ちている。

2016年1月3日
2016年2月16日


仕舞いしたあと、完熟堆肥をかぶせる。あとは何も引かない、何も足さない。
で、芽がでてくるのだ。理論的にはあたりまえのことだが感動する。

2016年4月26日

適度な大きさに育ったら鉢上げする。今年、各地に配ったキンカン苗のうちの多くは自動発芽したものだった。

ここのキンカンはまだまだ円熟した味を実らせてくれるだろう。


2016年8月6日

一方、日吉胡麻の出荷農家としての芦田家でもキンカントマトは育ち続けている。
「ビジネス農」をしているときの寒吉つぁんは表情が違う。専業農家歴30年の風格がある。

2016年8月17日 日吉胡麻キンカン畑

いつもは僕の戯れ言を聞いてくれるのだが、こんなとき、ニワカ百姓は余計なことを言わない方がいい。

カルチャーとしての在来種と固定種


キンカントマトは野生であり在来種である。固定種ともいえる、などと曖昧な言い方をしていると文脈の神様に叱られる。

超文系百姓フミメイは畑の設計とか年間計画とかペーハーとか理系の要素はすぐ忘れる。
しかし、有機農法、自然栽培、自然農、菌ちゃん野菜、モヒカン栽培、自給農……などの言葉を聞くとミーハーな反応をしてしまう。
興味のある言葉を提唱した人物に会いたくなってくるのだ。できれば著書にサインをしてもらいたくなる。
西村和雄氏、木村秋則氏、川口由一氏、吉田俊道氏、道法正徳氏……。

いずれも慣行農法ではない世界において一家言をお持ちの人である。彼らの文脈を繋ぐのもまた別の話にしておかないと。たぶんニワカ百姓の手には余る課題だけど。

西村和雄氏 2010年11月28日
川口由一氏 2016年8月21日

在来種って何? 固定種って何?
気になり出すと調べてみないと気がすまない。
キンカン食べ比べ会の前日、僕はこんなFB投稿をした。
キンカントマトという北摂の在来種をつなぐお手伝いをしている。今年は春先からたくさんのタネと苗を各地に配った。その実りが、明日8月6日の「キンカントマト食べ比べ会」に集まりつつある。なぜ、在来種のタネを繋ぐことに物語を感じるのか?それは在来種が文化そのものであるから。 
中尾佐助は『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書/1966年)で、こう述べている。「『文化』というと、すぐ芸術、美術、文学や、学術といったものをアタマに思いうかべる人が多い。農作物や農業などは〝文化圏〟の外の存在として認識される。しかし文化という外国語のもとは、英語で『カルチャー』ドイツ語に『クルツール』の訳語である。この語のもとの意味は、いうまでもなく『耕す』ことである。地を耕して作物を育てること、これが文化の原義である」 
また青葉高は『日本の野菜文化史事典』(八坂書房)で文化財としての野菜に言及した。「各地に残されている在来品種は、それがその地に伝わり、一つの品種として成立した歴史を秘めている生き証人であることに気付いた。この意味で在来品種は生きた文化財として価値の高いものであると思う」「野菜は現在一代雑種万能の時代で、在来品種は見すてられていることが多い。それでも味の勝れている点などで注目されていることもある。在来品種はそれぞれが独特の特性をもっていて、もしその品種が失われれば、その品種特有の遺伝子は地球上から失われ、それを再現することは非常にむずかしい」上記は1983年に書かれたものである。今はさらに遺伝子組み換え作物という怪物も出現している。キンカントマト物語に関与することは文化財を守ることでもある。だから、この物語はメリーなのだろう。 
2016年8月5日 田中文夫on facebook①


文系百姓が耕す文化財としての在来種に惹かれるのは当然なのだ。
以下は同投稿で書いた在来種と固定種の定義についてである。
ただし「農水省品種登録」 などという「ビジネス農」の世界がからんでくると話はもっと複雑になる。僕の話はどこまでいっても「ホビー農」なので、あしからず。

この機会にずっと疑問を持っていた在来種と固定種の文脈を整理しておこう。こちらは静岡県浜松の浜名農園の「種と苗と土のカタログ」が分かりやすい。以下、引用。
「在来種・固定種」(伝統野菜)も人間に必要な作物として育種して産まれました。食味が良かったり収穫量が多いなど目的にあった野菜を選び何年もかけて種採り選抜を繰り返していくと、目的にあった同じ性質のものになっていくものです。交配種が全盛になる以前の野菜はすべて在来種・固定種でした。在来種も固定種も同じ意味でとらえていますが、選抜していく中で性質がほぼ同じになってくると「だいぶ固定したね」と表現するように固定種は学問的な呼び方で在来種は文化的な呼び方かも知れません。伝統野菜の年代的な定義はなく私達はその地域で採れた野菜がその地域で食べられていた頃の野菜と考えています。長所は食味が良いこと(個人差はあります)生育のスピードにバラツキがあるので大きいものから収穫する家庭菜園には向いている、誰もが種採りができ種の多様性(遺伝資源)を守ることができることです。短所は形や色や生育のスピードが揃わないため現状の市場では販売しにくいことです。
コンテキスターの私見では「在来種」の方が「固定種」よりも広義だという気がする。 
そういう意味ではキンカントマトは「在来種」という方がふさわしい。だって、「固定」していないのだから。 どれだけ固定していないのかは、明日の食べ比べ会のお楽しみ!
イラストは『成形図説』(1804年刊)より。『日本の野菜文化史事典』の裏表紙である。江戸時代後期にはこのような絵が描かれていたのも、在来種が文化であることの証なのだ。 
2016年8月5日 田中文夫on facebook②


メリーとキンカン


「食べ比べ会2016」には六本木のビルの屋上に行ったキンカントマトも帰ってきた。

MFからMFへ。My FarmのキンカントマトはMerry Farmingの根拠地、「六本木メリー屋上農園」にも行っていたのだ。
2016年5月10日 六本木にて

あの六本木ヒルズを見上げるビルにMerry Projectはある。見下ろせなくて残念ではあるが。

屋上農園というのは魅力的だが持続するのが大変な試みだ。六本木以外の屋上農園の話もいくつか聞いたが、撤退したものもある。

MERRY PROJECTは持続する運動体である。
そのコンセプトのひとつ、Merry Farmingには「知る」「育てる」「つながる」「食べる」をコンセプトに「農」を通じて人を幸せにしたい、というミスターメリー、水谷孝次さんの願いが込められている。

「六本木メリー屋上農園」は2008年6月から8シーズン、命を繋いでいる。
子供たちの笑顔が集まる場所に花が咲き野菜が実り稲穂が揺れる。その善循環を愚直に繰り返している。


僕が初めて、その農園に行ったのは2011年10月だった。311を経て「口より土だ」との思いを強くしていた頃。


この日、六本木で僕は初めて「茹で落花生」を食べた。以後、落花生はフミメイ農園の定番作物になる。

2011年10月7日

水谷さんは『デザインが奇跡を起こす』(PHP研究所/2010年)の中でこう言っている。
咲くことはもちろんMERRYだけれど、次の世代のためにエネルギーを蓄えて命をつなげていく、その姿もMERRYだ。
ならば、野生の在来種、キンカントマトのタネも繋いでほしい。いや、そんなことよりも六本木で日夜、世界中に笑顔のコミュニケーションを巡らすため奮闘しているメリースタッフにキンカントマトを食べてもらいたい。旨いのだから。

ふたつのMFの文脈をキンカントマトが接続するのは自然なことだ、と考えたコンテキスターは10本のキンカン苗を六本木に送った。

2016年8月5日

実りは帰って来た。“daijobu”のメッセージとともに。

僕は野生の力を信じている。コンクリートの上に構築された土でもキンカンは実ってくれるはずだ。
それでも……一抹の不安はあった。「だいじょうぶ?」
六本木のキンカンは「だいじょうぶ!」と応えてくれた。

人や作物に向かって「ガンバレ!」というのは、もうやめにしよう、と水谷孝次さんは言う。
MERRY PROJECTは「笑顔は世界共通のコミュニケーション」をコンセプトにして展開するソーシャルデザインである。
そこに、まず笑顔がある。笑顔が“daijobu?”“daijobu!”の応答をする。
大丈夫であれば、そこにメリーなアートが生まれることもある。


2016年、各地で実ったキンカンは多様な顔を見せてくれているはずだ。
そのなかでも、六本木キンカンは気になる存在だった。

六本木で撮影されたキンカンアートに寒吉つぁんが素早く反応する。
食べ比べ会では写真を屏風アートにして展開してくれた。



もしかしたら、この会に参加した人たちは、あの写真の意味をあまり分かっていなかったかもしれない。
別にそれでもいいのだけど、コンテキスターとしてはふたつのMFが繋がり、水谷孝次と芦田寒吉の志がX(クロス)したのが嬉しい。
自分の半農半X生活が様々な文脈を繋いで、ひとつのカタチになった気がした。



キンカントマトと多様性(diversity)


最近、よく、なぜそんなにキンカントマトに入れ込んでいるのか? と質問される。

答えのひとつは、文化(カルチャー)としての農(アグリカルチャー)、その象徴としてキンカントマトが好きになったから、と言おう。

もうひとつは、世界の平和を語るのも在来種のタネを繋ぐのも同じことだから、と大きく構えたい。

世界は窮屈になってきている。特に日本列島は。
大陸と半島からたくさんの野菜を受け継いできた列島は、その大元と反撥している。

狭い島国には同調圧力が強まり、太平洋の向こうから均質化と効率性を求める声がする。
個人、家族、共同体、そして食物の多様なあり方をノッペラボーにしたがる動きが強まってきた。

前述の映画『いのちのタネをだきしめて』でヴァンダナ・シヴァは言った。
「大量生産は均質性を要求する。でも私たちにとって大切なのは多様性と地域性」

この星の上で無数に存在する襞(ひだ)を互いに大切にすることから、ヴァンダナの言う地球民主主義(アース・デモクラシー)は始まるのだろう。


クリックすると予告篇

作物における多様性をGMO(遺伝子組み換え食品)は否定する。
共同体の地域性をTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は否定する。

それがキンカントマトのタネを繋ぐこととどういう関係があるのか、と問われたら多いにあります、と応えるしかない。

各地に散らばったキンカントマトは多様性の塊になるだろう。
北摂の山で培った地域性を基にして、キンカントマトは新しい地域になじんでいけばいいと思う。

世界の平和は生命の多様性を包みこんで認めあうことから始まる。
在来種のタネを繋ぐのは小さな試みだけど、その第一歩かもしれない。

そんな小さなことで大丈夫なのか?
“daijobu !”という水谷孝次さんの声が聞こえてくる。


ようやく『キンカントマト物語』(フミメイ版)が書けました。

2016年、キンカントマトの縁脈に繋がった人たちが、それぞれの志、すなわちエックスを持って、それぞれの『キンカントマト物語』(X版)を書いてくれたらいいな……。と切に願います。
読んでくれてありがとうございました。






2016年4月11日月曜日

SEALDs for Contexter

政治学科


早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業している。でも大学で政治学を学んだ覚えはない。
単位はいい加減なレポートを提出したらもらえた。成績不良でゼミには入れてくれなかった。したがって卒業論文も書いていない。

僕が田舎の高校から早大に入ったのは1970年4月だった。政治の季節の燃えかすがくすぶっていた時代。
キャンパスはまだ騒然として授業は少なかった。では「都の西北」にいた4年間、何をしていたのか?
早稲田大学出版事業研究会(以下、出研)というサークルにいたのは間違いない。そこで出会った「草莽の士・高橋ハムさん」のことはすでに書いている。


1970年11月20日発行の「学生誌ワセダ」の別冊「70年6月東京安保」という雑誌にはこんな記事がある。
明確な政治的展望をもたないベ平連運動が今後、どのような展開を見せるかは予測し難い。圧倒的なデモ人数によって、七〇年代は「市民運動」の時代だとマスコミは、もてはやす。しかし、そのマスコミにのって、ベ平連が一つの流行となり、デモに参加さえすれば、安易な連帯感(=情報化社会における安心感)や、廉価な免罪符を得たような気になる危険な風潮がないであろうか。このような陥穽をのりこえつつ、ベ平連運動の質が、今後ますます拡散しつつも、深き統一を目指して、七〇年代日本の社会状況に一大流動化をもたらすことを期待したいものである。
これは「ベ平連の六月闘争」というルポルタージュの結語である。こういう文章を書く人を左翼というのだろう。それにしても大上段に構えた臭い記事だ。

このルポを書いたのは18歳の僕である。恥ずかしい。でも学生ってそんなものでしょ、と開き直ることができた。2015年、SEALDsが登場するまでは。


三無主義しらけ世代


タイムラインは一気に40年を走り抜ける。
1974年、僕は広告会社に就職し、36年後の2010年に早期退職をした。
クリエーティブ・ディレクターを卒業したらコンテキスター(文脈家)になると宣言して、よしなしごとを書き連ねているのが、皆さんの時間を拝借している拙ブログである。
2011年3月11日から1年経った頃、僕はこんなことを書いている。
僕は政治的文脈で発言したくない。
コンテキスターは文学的文化的文脈で列島の復興に向かって声を上げていきたい。
そして、それは地に足をつけたものでありたい。
天地有情に寄り添って口より土を大切にしていくこと。
脱原発のデモや集会に行くことも声の上げ方のひとつだと思う。ただし今現在の僕はデモに行く気はない。
1970年のあの敗北感がトラウマになっているのかもしれない。
声の上げ方にはさまざまな方法論があるはずだ。列島民がそれぞれ抱えているそれぞれの事情の中で声を上げればいいと思う。
僕の場合は文学的文化的に語られる復興の思想を繋いでいく。
それが田中文脈研究所という屋号を上げて、コンテキスターという肩書きをつくった者のミッションだと確認し確信した。 
田中文脈研究所『脱藩2周年・極私彷徨』2012年6月9日
まったく潔くない。なぜ政治を避けたのか。
その理由は自分の世代論とも関わってくる。1952年生まれの僕はよく団塊世代と一緒にされた。それは納得できない。戦後7年までの世代は二、三年の差が大きなものになる。
団塊世代は、その一部が全共闘世代とも呼ばれるようになった。
僕は全共闘ではないのだが、先輩たちの敗北感に影響を受けた。

もう少し、僕の世代論におつきあい願いたい。
1950年代前半に生まれた者は「しらけ世代」と言われることもある。
その主張(?)は「三無主義」。
無気力・無関心・無責任で、すぐに「しらけた」と言っていた世代のエートス(習俗)を指した言葉である。

ちょっと気に食わないことがあると「しらけた」を連発して、後はしらん、という態度を取っていた覚えが確かにある。

ウィキペディアによれば、1954年生まれの安倍晋三も「しらけ世代」に属するとある。
なるほど。立憲主義を学ぶ気力もなく、憲法改正以外には関心がなく、主権在民に対する責任感もないはずだ。

他人の話よりも自分のことだった。
三無主義を抱きしめて広告会社に入った僕は、会社の仕事と釣りだけに集中した。
恥ずかしながら選挙にも行かなかった。政治的には無関心を貫いていた。

そして3.11でショックを受けてからは「半農半Xという生き型」を自らの倫理と規範にすべく動いてきた。
それでも政治的文脈には関わりたくなかった。一度だけ盟友と関電前集会に行ったことはあったが、路上には出ていない。2015年にSEALDsが登場するまでは。


SEALDsとコンテキスター


僕は今、政治とSEALDsを自分の文脈で書いてみたい。
SEALDsが結成されたのは2015年の憲法記念日。まだ1年も経っていないわけだ。これってすごい。

僕はSEALDsに背中を押されて45年ぶりに政治集会に参加した。
7月18日、大阪の扇公園。


デモはデモなんで、パレードなんてネズミがボスのレジャーパークのような言葉は使ってほしくない、と思いながら、仲間と歩いた。


昔懐かしいメーデーの定番ソング「がんばろう!」も好きじゃない。ボブ・マーリーを聞きながら歩きたい。僕はこれまでもこれからも「動員」という言葉とは無縁なのだ。


そして、本命SEALDsの街宣に初めて参加したのは8月14日。京都駅前街宣。
「しらけ世代」は感動した。はじめてSEALDsメンバーのスピーチをライブで聴いて。僕のSEALDs体験の原点である。

その日、安倍晋三は主語のない空虚な戦後70年談話を垂れ流していた。その同じ時間帯に聞いたSEALDs Kansaiの塩田潤さんのスピーチは以下のように締めくくられた。

「僕らひとりひとりの中にある言葉を紡ぐことが、この狂気ともいえる政治に対する強力な手段となります。僕は戦争に反対です。僕は立憲主義、民主主義に基づく政治を求めます。あなたの言葉を発信してください。あなたの言葉で発信してください」

SEALDsは言葉で安倍晋三に挑んでいた。しかもひとりひとり、自分の言葉で。
私たちは、尊い命を軽んじる態度を、歴史から学ぼうとしない不誠実な姿勢を、目先の利益に捉われる偏狭な考えを、立憲主義や民主主義の軽視を、権力による情報統制を、「積極的平和主義」という偽りの平和を、決して認めません。私たちは、二度と同じ過ちを繰り返さないために、自由と民主主義を守っていきます。
(中略)
私たちは、自分の頭で思考し、判断し、行動していきます。それを不断に続けて行きます。 
『戦後70年宣言文』(自由と民主主義のための学生緊急行動)

「アジ演説」という名のスピーチが1970年にはまだ残っていた。全共闘の残り香を嗅いだ僕はそのトーンを覚えている。
「われわれはあ~ふんさいするぞ~たたかうぞ~」
主語は我々であった。

SEALDsは「私は」という文脈で話す。そして最後に自分のサインをする。
この法案が通って死ぬのは民主主義ではなく、現政権とその独裁政治です。
民主主義は止まらないんです。次の選挙で彼らを必ず引きずり下ろしましょう。それが出来るのは、出来るのも、しなきゃいけないのも、政治家ではない私たちです。やれることは、全部やる。私は絶対に諦めません。
2015年9月19日、大澤茉実、私は強行採決に反対し、安倍政権の退陣を求めます。(引用者註:安保法制強行採決日の未明、国会前スピーチ) 
https://youtu.be/gcpzj7FWHg0
大澤さんは「私は、命をかけて言葉を選んで喋ったり書いたりしている」と言った。
そのように書いた論考がある。
私は、SEALDsで活動をはじめてから、多くの学生が「わたし」を主語に話すスピーチに何度も心を動かされた。それは、ジェンダー、国籍、階層、文化的背景などのさまざまなアイデンティティの束であるそれぞれの個人と私とのあいだに確かに通じ合うものを感じたからである。 
『SEALDsの周辺から―保守性のなかの革新性』(大澤茉実/現代思想2015年10月臨時増刊号)

僕も文化的背景(コンテキスト)を持っている。世代としてのアイデンティティの束も持っている。ならば、SEALDsの個人たちと通じ合うためには自分のサインをしたスピーチを(心の中で)する必要があるだろう。
わたしは1952年、サンフランシスコ講和条約が発効する直前に生まれた者です。
その後の高度成長とともに育ちました。
わたしは「戦争を知らない子供たち」と唄われた世代のひとりです。今、わたしは日本国憲法に守られて育ったありがたみを噛みしめています。父や母や祖父母があの戦争で流した血と引き替えに獲得したものを70年で失うわけにはいきません。
このまま、安倍政権の暴走を許せば、自分の孫たちの世代を「戦争しか知らない子供たち」にするかもしれません。
そんな大袈裟な、と言われそうですが、現実にアメリカは第二次世界大戦後も「戦争をし続けている国」なのです。そのアメリカと一緒になって、地球の裏側まで自衛隊が行くことになれば、「戦争しか知らない子供たち」が生まれる可能性は大きくなります。
安倍晋三は歴史を正しく学ぶ意欲も能力もなく、ただ自分の祖父、岸信介を超えたいという自分勝手な妄想に取り憑かれて、日本国憲法に対するクーデターをしでかしました。
そんな自称、最高責任者に孫たちの美しい未来を託すわけにはいきません。
我が子を戦争に行かせたい母はいない。父もいない。そして孫を戦争に行かせたい祖父母もいない。子や孫を殺されたくない。そして他国の子供を殺させたくない。「だれの子どももころさせない」。
2016年4月11日 田中文夫。わたしは安保法制の廃案を求めます。そのために精一杯の声でコールしたいと思います。アッベはやめろ!
うーん、心の中でスピーチしても、ちょっと堅いかな。左翼用語が出てこないのはよかったが……。まあ今日はこのくらいでカンベンしたろか。



SEALDsと島根


僕と彼らのスピーチの射程距離の違いは、切実感によるのかもしれない。
射程距離などという戦争用語を使うのはやめよう。発せられる言葉の到達深度。涙腺刺激度。そういう度合いでいえば、寺田ともかさんのスピーチ!

2015年、SEALDsの母となり、カキオコメディアの創始者となった小原美由紀さんの言葉を借りれば、ともかさんは「スピーチの女王」である。
清楚な風貌と関西弁、やわらかく、そして核心をぎゅっとつかんで私たちの言葉にならない思いを言語化してくれる。
ともかさんのスピーチには、全国に多くのファンがいます。
いつも、すうっとやさしく胸に吸い込まれつつ 思わず「そうだ!」と大声で叫びたくなってしまうほどの共感を引き出す魅力を持っています。 
(小原美由紀「日本科学者会議」FBイベントページより)
そうだ!僕もともかさんのファンだ。
大阪のおばちゃんがSEALDs Kansaiのコールリーダー、野間陸さんの声が途切れたとき、「代われるものなら代わってあげたい」というように。
大阪のおばちゃんが、生でUCD牛田くんを見た時、「うれしわあ。こないだアキくんも見たねんよ」というように。
そうなのだ!僕はともかさんのファンである。


SEALDsの数多い名スピーカーたちのなかで、ともかさんをマイ・フェイバリットにしたのは訳がある。
それは、寺田ともかさんが「島根は第二の故郷です」と言っていることと彼女のスピーチに包含されているシニア世代へのリスペクトだ。

まずは島根の話である。僕のコンテキスト内で大きなポジションをしめる地域だ。
2015年12月13日、寺田ともかさんは松江で講演した。僕は参加していないが、松江のFB友達がそのスピーチを絶賛した。音声データを聞いてみる。彼女は写真を見せながら講演したようだ。


「高校の三年間をこの島根県で過ごしたので、勝手に第二のふるさとだと思っています」と彼女がしゃべったとき、オーディエンスから拍手が起こる。

「私は松江は都会だな、と思ってびっくりしたのですが、江津(ごうつ)市の浅利町という山の上にある、こんな感じで山を登っていくとあるキリスト教愛真高校という小さな全寮制の高校で三年間学んでいました。山の上にあって海が見えるすごく綺麗なところにありました。島根らしく瓦屋根の学校です。とても自由な高校でのびのびと育ててもらった記憶があります」

僕は驚いた。
ということは、ともかさんは、奥田愛基さんと同じ高校の卒業生なのか。それで松江に呼ばれたのか。彼女は自身の高校時代の農作業写真を見せながら、こう続けたらしい。

「畑仕事とかも学校の中で、普通科なんだけどしていたので、私は島根でお米をつくっていました。高校時代の写真で、今日、こっちに写っている恩師の先生も会場に来られているのですが、えっと、赤いパーカーを着ているのが私です。
下の段の真ん中でツナギを着ているのが、こないだ国会で公述人として呼ばれた奥田愛基くんです」

ずっと『国つ神と半農半X』を追いかけている僕は、「周回遅れのトップランナー」島根の(農的)先進性を理解できる。

彼女のスピーチに親和性があるのは、地に足をつけたものだからかもしれない。かけがえのないいのちへの不断の想像力を持つからなのかもしれない。

「自民党の改憲草案を読みました。あの草案の根底にはすべての命には絶対的な価値があるという事実を否定し、彼らの目指す間違った国家のあり方に貢献できる生産性のある人間にしか人としての権利を認めないような虚しい価値観があると思えてなりません。私は今回の選挙は命の尊厳をかけた闘いだと思います。私はすべての命には絶対的な価値があると信じます」

僕が松江の会場にいたら、拍手とともに眼から落ちるものがあっただろう。

またともかさんは、あの国会前12万人デモ(2015年8月30日)でも、このようなスピーチをしている。
すべての命には絶対的な価値があり、私はそれを奪う権利も奪うことを許す権限も持っていません。なぜならいくら科学技術が進歩しても、私たちは死んだ人を生き返らせることはできないし、奪った命を元に戻すことはできないからです。今、この法案を許すことは私にとって自分が責任の取れないことを許すということです。それだけは絶対にできません。 
寺田ともか「2015年8月30日国会前スピーチ」 
https://youtu.be/Z7seKSiiiXY 
そして、いのちへの想像力は、彼らより長く生きてきた世代へのリスペクトに繋がる。
しかも、その表現はすうっと、ずしんとシニア世代に届いていく。

「SEALDsのデモや街宣の活動はメディアに大きく取り上げられたし、若者たちが立ち上がったと注目をされました。でも路上ではずっとこれまで闘ってきたであろう、お爺さんやお婆さん、私たちの世代に平和な世の中を残したいと杖をつきながら、凛と立つ人生の先輩方がいました。そういうオトナの方々は平和とは何もしなくても、そこにあるものだと思っていた私に、それを壊そうとする者との闘いの中で守り、作り上げるものなのだということを教えてくれました。だから、私たちがこの夏、突き動かされるように行動せざるを得なくなったのは、つらい戦争体験を魂をこめて、何度も語り継いできてくださった方々や、これまでずっと闘ってこられた方がいたからだと思っています」

そうだ!涙そうそう。

『国つ神と半農半X』の取材の道中で、江津を通ることがあった。寺田ともかさんと奥田愛基さんが見ていた風景はこんな感じだろう。



SEALDs世代とシニア世代


SEALDsメンバーが持っている切実感は、「ジャスト311世代」とでも言うべき時代の節目から生まれているのかもしれない。

2011年3月11日、奥田愛基さんはキリスト教愛真高校の卒業式を翌日に控えていた。寺田ともかさんは高校2年生だった。大澤茉実さんも高校生。野間陸さんは高校に入る直前だった。

311からの5年間は、自分たちの未来は決して明るくはない、と教えてくれたようだ。切実に現実的に。当たり前のようにあった日常が突然、失われること。大気に不安定なものが混じって取り除くすべがないこと。

そのようにして、山河破れた国には、右肩上がり幻想をふりまき、戦争したがる総理、安倍晋三が君臨する。

「政治に無関心」とか「草食系」とか「ゆるい」とか言われた若者たちは、自分たちの生活実感の中で「裸の王様」の嘘に気がついたのだろう。大澤茉実さんは自分のアルバイト仲間から学んだ。
離婚で心を病んだ母親が失踪した女の子は、アルバイトの求職を願い出た。それ以後、僕力をふるう兄と二人きりになった彼女とは音信不通になった。またある女の子は、奨学金の返済に追われ、おなかの子どもを堕ろした。シングルマザーでは今の世の中をとても生きていけないと、一緒に制度を調べ、パソコンの画面の前で泣いた。家に帰っても食事が出ないため、お菓子ばかり食べている子もいる。調理器具も食材もない台所。帰らない母、会話のない父。 
『SEALDsの周辺から―保守性のなかの革新性』(大澤茉実/現代思想2015年10月臨時増刊号)
シニア世代の中には、すぐに安倍晋三の危うさに気がついた者もいる。その危機感は経験値に裏付けされていた。僕もその一人だった。
アベシンゾーはヤバイ(悪い意味で)!  「満州国」と岸信介に関する文脈をおさらいしたらすぐに分かる。


さりげなくシニア世代という言葉を使っているが、その幅はあまりに広く人口は多い。
町でも村でも、最近はやたらにおじんおばんが目につく。それはSEALDsの街宣やデモでも同じことなのだ。
SEALDsのおかげで、路上でも全世代共闘ができつつあるが、その中でも、いわゆる「シニア」が目立つ気がする。これは自分と同じ年代層を探す同士的本能(?)なのかもしれないが。
単純に人口比の問題もあると思うんですよ。60年や70年に比べると圧倒的に逆三角形の人口ピラミッドだから。50代~70代くらいの人たちって、僕らの3倍以上いるわけですよね。 
『民主主義ってこれだ!』(SEALDs/大月書店)P135 奥田愛基
何度もデモや街宣に行っていると仲間もできてくる。当然、シニアである。
1941年生まれの春樹さん。元東大全共闘の山本義隆さんと同い年である。
そして彼の父上は1943年にニューギニアで戦死しているそうだ。


「戦争法案」が「安保法制」として強行採決され施行日が近づいてくると、また声を上げる人が増えてきた。

2016年3月6日。大阪うつぼ公園。SEALDs Kansai、SADL、T-ns SOWL主催の「安保法制廃止を求める大阪デモ」。

この日、僕は思いがけない人と再会した。
広告会社にいたときの先輩Mさんである。先輩が僕を見つけてくれた。声をかけられた僕はぽかんとしていたかも。まさか、デモ会場で!?Mさんと。
「俺は60年安保世代や。昔の仲間といっしょに、ずっとSEALDsの呼びかけに応じてきた」と言う彼は、僕にとっては体育会系の先輩だった。

「三無主義しらけ世代」の僕が会社にいる間は、政治に無関心だったように、大学で新聞サークルにいたMさんも会社では政治的発言を控えていたように思う。

嬉しかった。路上に出てよかった。政治的文脈研究生活も悪くない。
デモの隊列は違ったが、御堂筋で僕と同じように「This is what democracy looks like!」というコールにロレツを必死で回しているMさんを想像すると今でも楽しくなってくる。


2015年の夏は山の陰に通いつづけながら、京都でも松江でも高松でもデモに行った。やっぱりシニアが目立つ。「私は70年安保です」という人ももちろんいた。
SEALDsは若者の社会運動だけど、それを支持している人々には決して若いとは言えない人も多い。
私は毎週国会前に立ち、この安保法制に対して抗議活動を行ってきました。そして、たくさんの人々に出会ってきました。
その中には、自分のおじいちゃんやおばあちゃん世代の人や親世代の人、そして最近では、自分の妹や弟のような人たちもいます。
確かに、若者は政治的に無関心だといわれています。しかしながら、現在の政治状況に対して、どうやって彼らが希望を持つことができるというのでしょうか。関心が持てるというのでしょうか。私や彼らがこれから生きていく世界は、相対的貧困が5人に1人と言われる超格差社会です。親の世代のような経済成長もこれからは期待できないでしょう。いまこそ政治の力が必要なのです。 
『参議院特別委員会公聴会意見陳述全文』奥田愛基

いまこそシニアの力も必要なのかもしれないと思った者は路上に出た。手に持つプラカはしわくちゃになってきた。


『シニア左翼とは何か』をめぐって


そろそろ「シニア」という言葉が気持ち悪くなってきた。僕が「死ぬまで18歳」と言い張っているからだけではない。「シニア」という言葉はどうも得体がしれないのだ。

同じように得体がしれない言葉に「左翼」がある。もちろん、僕は右から見たら左なんだけどね。

うつぼ公園でMさんと出会ってから、僕は気になっていた本を買った。
『反安保法制・反原発運動で出現―シニア左翼とは何か』(小林哲夫/朝日新書)


「孫を戦争に行かせたくない!」と帯にある。分かりやすい本だ。ときどき僕が書いたのかと錯覚するような部分もある。早大の先輩、高橋ハムさんも登場する。


この本によれば、「シニア左翼」の定義は以下である。
シニア左翼とは、60歳以上で反体制運動に関わっている人たちである。高齢者左翼、シルバー左翼といってもいい。肩書きは会社員、公務員、自由業、無職などさまざまだ。(P28)
さらに、「左翼」の定義についても独自のものを設けた。
現政権を厳しく批判してトップの交代を求める反体制勢力である。このなかには、資本主義体制の堅持を主張する人や、社会主義体制への移行を訴える人など、さまざまな考え方を持つ人たちがいるので、根源的な思想やめざす体制までは踏み込めない。あくまで、「反政権」「反政策」という一点で広義な意味あいを持たせて、左翼と位置づけたい。(P26)
うーん、この定義で「左翼」と表記するのはちょっと抵抗がある。
1961年生まれの小説家、島田雅彦が「サヨク」とカタカナで書いたのは、この違和感だったのか。


「左翼」はマルクスレーニン主義者、共産主義者。党派を好む。
「サヨク」は、同調圧力には負けずに、おかしいことには「おかしいだろ、これ」と声を上げる者。基本的には個人主義者。

僕は『シニア左翼とは何か』という新書と「左翼」への違和感を抱えて、SEALDsの街宣に行く。

3月29日。大阪梅田ヨドバシカメラ前。
たくさんの「60歳以上に見える安倍晋三にやめてもらいたい男女」の間で本を取り出してみる。


僕の横にはいつものように春樹さんがいてくれた。この夜、彼は僕がフェイズブックにアップしたともかさんのスピーチを見て、梅田にやってきたという。残念ながら、彼女のスピーチはなかったけど。


街宣のあと、ビールを飲みながら僕は春樹さんに『シニア左翼とは何か』の話をする。本を渡して、撮影させてもらう。若干の違和感を感じながら。もちろん自分も撮影してもらう。


やっぱりどう考えても春樹さんは左翼ではない。僕も左翼ではない。
本人も言われるように「中道」なのかもしれない。安倍政権が右に寄りすぎているのだ。極右なのだ。

だが、「中道」みたいなぬるま湯ワードも気に入らない。僕や春樹さんが抱きしめている感情は「どっちもどっち」的な言葉では納まらない。そもそも右と左のバランスが取れていてこその「真ん中」なのだ。
春樹さんもファンになった寺田ともかさんの言葉を聞いてみよう。
自分なりに答えを出して、自分がどこに立つのかを明確にしなければ、そして自分の信念に基づいて行動しなければ、ただ考えるだけでは意味がない。ほんとは存在しない中立というぬるま湯につかって考えた気になってはいけない、ということです。 
(2015年12月13日松江での講演より)
ここはやっぱり「リベラル」、「シニアリベラル」かな?

シニアリベラルとは「空気を読んでいては空気は変わらないと気づいた若者の力を借りて、おかしなことにはおかしいと言える自由を保守したい60歳以上の男女」。
どんどん定義が長くなるので、このあたりでやめておこう。

SEALDsは「左翼」か? そうではなさそうだ。いのちをかけて言葉を選ぶ大澤茉実さんの「保守と革新」論考を再び見てみよう。
いま、運動に参加する若者が共有する内的衝動に、原発事故による価値観の転換(略)に加え、 今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。私は、その表面的な部分に抵抗感を持っていたわけだが、運動に飛び込んで、その保守性のなかには、同時に私たちの世代が持つ革新性が編み込まれていると感じるようになった。 
『SEALDsの周辺から~保守性のなかの革新性』(大澤茉実)

あるいは、春樹さんと一緒に御堂筋をデモしながら聞いたともかさんのスピーチに耳を傾けよう。
「これまで、適当にどこかに投票していれば、なんとなく社会は回ると思っていた選挙は、今、わたしにとって、私たちのいのちの尊厳に対する、根本的な価値観を問う選択となりました。個人を尊重しない政党に、これ以上この国のことを決めて欲しくはないんです。
いのちの価値を理解できない虚しい価値観の人々に、これから生まれくるこどもたちの、大切ないのちや未来を、預けるわけにはいきません。すぐに現状が良くなるわけではないし、次の選挙で何か革命的なことが起こるわけではないでしょう。しかし、観客席にいたわたしが、今こうやってデモの先頭に立っているように、社会は、少しずつ、しかし着実に変わってきています。それは、自分の与えられた現場に立ち、声を上げることをやめない、あなたがいたからです。この、地道な努力を、続けていきましょう」 
(2016年3月6日 安保法制の廃止を求める大阪デモ)
彼らは守ろうとしているのだ。明らかに。
「憲法まもれ!」「子供をまもれ!」「大人がまもれ!」


孤独に思考してみる


「自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し、判断し、行動してください」
という奥田愛基さんのメッセージは、世代を超えた。

戦後派も60年安保世代も元全共闘も元ノンポリ学生も学者も政治家も社長もサラリーマンも小説家もミュージッシャンも百姓も、できることをできる場所でやっていくしかない。

そして、僕はどこまで行っても自分の文脈に基づいて思考し判断し行動するしかない。

極私文脈がどこまで普遍性を持つのかを試すために、この6年間、田中文脈研究所を主宰し、コンテキスター・フミメイとして活動してきたのかもしれない。

元三無主義しらけ世代の「あるもの探し」はまだ続いていくだろう。
だが、戦後100年まで動き続けることはできないだろう。たぶん。
続けることをあきらめてはいけない。終わったなら始めればいい。簡単なことだ。
何度でも言いつづけよう。「よし、もう一度!」と。
そして30年後、日本は100年間戦争をしなかった国になるだろう。
理想をかかげよう、未来のために。理想は現実になる。
俺たちはいつでも過去の理想のなかに生きている。
過去の人には生きられなかった生の継続を生きている。
そして僕らの生もまた未来の人に引き継がれるだろう。
1000年後も心配ない、
たぶんまた誰かが始めるから。 
SEALDs『民主主義ってこれだ!』(大月書店)最終メッセージ
SEALDsは過去の人には生きられなかった生の継続を生きている。
たとえば、特攻隊員たちの生を生きている。特攻機の「突入信号音」を傍受していた元予科練の加藤敦美さんの生を生きている。


SEALDsの生は確実に未来の人に受け継がれるだろう。

だが、リベラル長老組・フミメイの生は、それほど遠くまでは行けないかもしれない。
ならば、せめて、現時点でのステートメントを残しておこう。
私は半農半X研究所の主任研究員です。
半農半Xと相容れないものがみっつあります。
ひとつ、戦争。ふたつ、原発、みっつ、全体主義です。
戦争について。
昭和の十五年戦争では若者たちが召集され、国家によって命を奪われました。
「この鉄砲が牛蒡(ゴボウ)であったらナー」と故郷の妻子に手紙を送って中国大陸で戦死した21歳の父もいました。
戦争は半農半Xがよって立つ自然を破壊し、山川草木とともにある命の尊厳を犯すものです。ゆえに私は恒久の平和を念願します。
原発について。
「大地と人間が安定した関係を結んでいるところを里というのです」という言葉があります。美しかった村は放射性物質でその関係を壊されてしまいました。理不尽な仕打ちの後始末は誰にもできません。子供たちの未来に「核発電所」は不要です。
全体主義について。
Xは自分に与えられた社会的使命です。生物と同じく使命も多様です。ひとりひとりが個人としての尊厳を持ってXを追求していくものです。自分のXについて「一人一研究所」を立ち上げていくこと。それは「一億総」という全体主義的スローガンとは対極にある生き方です。
私は、半農半Xとは相容れないものを押しつけようとする勢力に対抗するため、声を上げ続けます。
2016年4月11日。田中文脈研究所コンテキスター・フミメイ。

 

ちょっとエモってみる


この文脈レポートを書くために、SEALDsの代表的スピーチを何度も見て聞いて読んだ。
(2016年3月28日 寺田ともか)
https://youtu.be/NLAePrFghhA
その人は、『社会は終わってる』と言った。
だけど、若い私は、私たちは、その終わってる社会でこれからも生きていかないといけないんです。このまま明日、戦争法が施行されようと、私たちはこの国でこの先何十年と生きていかないといけないんです。非正規で働きながら、奨学金を返しながら、子供を育てながら、親の介護をしながら、貰えるか分からない年金を払いながら、いつ起きるか分からない地震と原発事故の不安を抱えながら、私たちはこの国で生活をしていかなければならない。
絶望するには、まだ先が長すぎるから、もうちょっとマシな社会を作る為に、今日出来る事をしなきゃと思って、ここに来ました。無理だ、変わらない、終わってる、歴史は繰り返す、社会とはそういうものだ、そういう屍みたいな言葉たちの上を歩いて、私たちは新しい社会をしぶとく生きていきます。

(2015年10月25日 大澤茉実)
https://youtu.be/54CRQllcQEg 
だから、私はもう、絶望という当たり前に慣れてしまうことをやめました。(中略)
私は手触りと沈黙を大切にし、私の言葉で私を語り続けます。
それが、私にとって唯一のアイデンティティであり、私にとっての自由であり、私の反戦の誓いであり、ファシズムとすべての差別に対する私にできる最大の抵抗だからです。
そして、だれにもそれを打ち砕くことはできない。なぜなら、私の想像力も、私の言葉一つ一つの背景にある笑いや涙の経験も、だれにも侵すことはできないからです。私は、ほんの数年前まで、新聞の中だけにあった沖縄を、東北を、こんなにも近くに感じたことはなかった。
彼らの息遣いが、怒りの声が、今の私には聞こえます。そして、原爆ドームの前に立ち尽くすあの人を、杖を突いて国会前に足を運び続けるあの人を、弱音を吐けないまま死んでしまった大好きなあの子を、こんなにも近くに感じた夏はなかった。
こんなにも人のぬくもりを感じた夏はなかった。こんなにも自分が生きていることをかみしめた夏はなかった。私は、戦後70年を迎えるこの国に、世界中で銃声におびえる子供たちに明るい未来を見せる努力を求めます。
貧困大国であると同時に、自殺大国でもあるこの国に、安心して命を育める環境を求めます。政治家一人ひとりに、この国とこの世界に生きる人々の暮らしや夢や命に対する想像力を求めます。
私の言葉を理想論だとか、綺麗ごとやと笑う人がいるかもしれません。でも、希望も語れなくなったら、本当の終わりです。だから、私は明日からも路上に立ちながら、おおいに理想を語ります。夢を語ります。

読めば読むほど、僕はエモーショナルに偏っていく。
それもいいだろう。
シニアにはすり減ったエモーションを過敏にしていく義務がある。
老化した涙腺を鼓舞しつづける権利がある。
われわれはあ~!
あっ、左翼みたいになりそうだから、このあたりで。

それにしても、こいつらいい顔してるよな。


そして、僕より40年あとに生まれた先輩、奥田愛基さん、ありがとう!




(あとがき)
長い間、当研究所の文脈レポートを読んでいただき、ありがとうございます。
本稿をもって、しばらく更新を休みます。
『国つ神と半農半X』本編の執筆に集中するためです。
日々の思いはフェイスブックで発信を続けますので、よろしくお願いします。