2015年11月29日日曜日

『国つ神と半農半X・松江篇』

さて、松江である。小泉八雲が「神々の国の首都」と呼んだ町である。
ヘルンさんことラフカディオ・ハーンが松江で過ごしたのは明治23年(1890年)8月から翌年の11月までだった。

思えば、ヘルンさんは松江への移住者第一号だったのかもしれない。
現在、多くのIターン者を受け入れる島根県の県庁所在地、松江は文明開化の頃から志のある人々を受け入れる下地があったのだろうか?
ギリシアで生まれ、アイルランドで少年時代を送ったヘルンさんはフランス、イギリス、アメリカ合衆国とわたり歩いた末に日本に来た。

日本の中でも特に松江はお気に入りだった。1896年(明治29年)に帰化したときに小泉八雲と名乗ったのは、松江へのオマージュだろう。
「八雲立つ」出雲の城下町をヘルンさんは、風の人の情感を持って描写する。
『神々の国の首都』で描かれた松江はひたすらに美しい。


「こんにちさま。日の神様、今日も御機嫌麗しくあられませ。世の中を美しくなさいますお光り千万(せんまん)有難う存じまする」たとえ口には出さずとも数えきれない人々の心がそんな祈りの言葉をささげているのを私は疑わない。或る人たちは太陽に向かってだけ柏手(かしわで)を打っているが、ずいぶん多くの人たちは次に西に向かって聖なる杵築(きづき)の大社(おおやしろ)を拝む。又、少なくない人々は引き続き顔をあらゆる方角に向けて数知れぬ神々の御名を唱える。 
(『神々の国の首都』講談社学術文庫/P105)
またヘルンさんは松江大橋をめぐる描写もしている。
大橋を渡る下駄の響きほど忘れ難いものはない。足速(あしばや)で、楽しくて、音楽的で、大舞踏会の音響にも似ている。そう言えば、それは実際に舞踏そのものだ。人々は皆がみな爪先(つまさき)で歩いている。朝の日差しを受けた橋の上を無数の足がちらちら動くさまは驚くべき眺めである。それらの足はすべて小さくて均斉がとれていて、ギリシアの瓶に描かれた人物の足のように軽やかである。(P107)

ヘルンさんが松江大橋を渡ってから10年後、明治33年(1900年)、大橋の南詰めの八軒屋町に野津旅館が創業した。今も残る源助桜のすぐ東側である。


野津旅館は僕の取材のベースだ。現在は、新大橋の南詰めにある。初めて訪れたときは、いかにもヘルンさんが好みそうな木造の宿だった。


僕が初めて野津旅館に行ったのは1980年頃の冬の季節だったように思う。
このへんの記憶が曖昧なので、僕はいつも山の神に叱られるのだが。
そう、松江の野津旅館は山の神の実家である。

昔も今も変わらず、松江の人は酒吞みが多い。妻となる人の父上にはじめて会いに行ったとき、僕はみごとに酔っ払ったらしい。
「酒吞みに悪いやつはおらんがね」
僕が二日酔いの喉の渇きに耐えているとき、父上の言葉が聞こえてきた。
このご託宣によって、僕は松江の山の神と結婚できて、今に至る。かれこれ35年間、松江周辺をうろうろしている。

その徘徊がこうじて、『国つ神と半農半X』という途方もないコンセプトに迷い込んでしまった。
ぼやいてもしかたがない。自分で言ってしまったことなのだから。

「ゆうたらやる」が、電通を脱藩して以来、僕の行動指針になっている。この指針は協創LLPと上山棚田団という超現場至上主義集団と交わることによって培われたものだ。
現在、僕は彼らの現場とは距離を置いているが、学んだことは実践している。

言葉は言霊である。口に出したことは現実を動かす力を持っている。
そして、言葉には情と理がある。パトスとロゴス。右脳と左脳。
広告代理店にいた36年間、僕の言葉は首から上のものだった。ロゴス中心だった。
それが、半農半Xというコンセプトに出会って以来、地に足をつけたものになっているはずだ。そう信じないことには、もう僕は一行も書けやしない。「ゆうたらやれる」はずなのだ、たぶん。


本題に入ろう。今回の文脈レポートは、松江で、知と地を耕している人の話である。
その人は「神々の国の首都」で島根県議会議員をしていた。
三島治さん、65歳。この人がいなかったら、島根県に半農半Xという言葉が広まることもなかったかもしれない。事始めは松江の西津田で土知(とち)を持っている三島治さんだったのだ。


三島議員が半農半Xと塩見直紀さんに出会ったタイムラインを整理しておこう。

塩見直紀さんのことを知ったのは2008年。同級生の息子が綾部に住んでいたのがきっかけだった。塩見さんのことを聞いて里山ねっと・あやべまで会いにいったのだが、不在。そのときに『半農半Xという生き方』を購入した。


それから2年後、三島さんは再び綾部を訪れて、塩見直紀さんに会う。
「半農半X」コンセプトに共鳴した彼は、ぜひ松江で講演会を!と塩見直紀さんを誘った。

そして2011年3月6日。東日本大震災の5日前に塩見直紀さんの島根講演が実現した。会場の島根県議会議事堂別館には、全国から参加者が集まる。



この日、僕の仲間たちは野津旅館に宿泊した。3月7日に地域おこし協力隊の全国ネットワークである「村楽LLP」の設立準備サミットを飯南町で開催するためである。その夜の縁会は忘れられないものになった。それはまた別の物語だが。



この講演会の主催は「NPO法人日本エコビレッジ研究会」であるが、言い出しっぺは共催とされた「県議会議員・三島治」さんのようだ。
塩見さんの話を聴いて、当時、県庁の職員だった松本公一さんが「半農半X」という言葉を県の施策で使い始める……。


僕がはじめて三島治さんに会ったのは2014年2月1日。日本エコビレッジ研究会主催のオフ会だった。その夜は2次会、3次会まで飲み続けたような気がする。

『国つ神と半農半X』取材を始めるときには、原点である三島さんの話をまず聴くべきだったのかもしれない。
それが、様々な巡り合わせで9月13日まで取材ができなかった。
この間、彼は大きくライフスタイルを変える。
2015年4月末で28年間の議員生活にピリオドを打ち、本格的に半農半X生活に突入したのだ。

そして三島さんは新しいブログを始める。
【見習い百姓のつぶやき】宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。  
このブログの更新頻度がすごい。遅筆の僕には真似ができない。まるで「時間どろぼう」から人生に残された時間を死守しようとするように、言葉を耕しつづけていらっしゃる。

「見習い百姓」の膨大な投稿をナナメ読みしてから、僕は松江市西津田のご自宅を訪ねた。
玄関から左の扉を入ると、壁一面の本棚。背表紙を眺めていくだけで、活字中毒者の僕は興奮する。

今回の文脈レポートが遅れたのにはわけがある。まず第一には僕の怠惰であるが、三島さんとの会話に出てきた本や資料を読んでからでないと、書けなかったのだ。

土知を耕す人の知の話から始めてみよう。

知の元は本である。
自然栽培であろうが有機栽培であろうが、最初の土づくりは欠かせない。知の世界も同じである。実りを手にするためには、まずは知の土壌を発酵させる必要がある。そのために本を読み、本を語る。本の言葉を自分の言葉にして耕し続けること。
時間がかかるが近道はない、と僕は思う。

そもそも、三島治さんが塩見直紀さんの本を「里山ねっと・あやべ」で手に入れなかったら、2011年3月6日は実現しなかったのだ。

三島さんは言う。
「今の若い人の中には創造力が衰えてきている人もいますね。今ほど、創造力が必要な時代はないのに。だから指示待ち人間が増えているのですよ。創造力を培う元になるのは本の世界。読書量。いろんな情報を自分にインプットして、それを自分の中で処理してアウトプットしていく。絞って広げて、広げて絞って思索しながら。ネットの世界は虚実が取り混ざっているけれど、本の世界はそれが少ない。でも、すごく広い。本の世界で、どれが正しいかと判断するのは、自分の感覚の世界。そのためにもたくさんの本を読まないと、ひとつの問題を考えて、ひとつの道をつくっていくことはできないのでしょうね」

「僕が自分で何かのテーマをやろうと思ったときは、本を読むことから始める。10冊とか20冊とか30冊とか……」

うーむ、この人の読書量には一生追いつけないだろうな、と文脈家は思う。自らの「積ん読本棚」を眺めながら。

三島さんとの「知を耕すこと」を巡る会話では、梅田望夫(もちお)という名前が出てきた。
彼の『ウェブ時代をゆく』なら、僕も読んでいる。本の中で提示された「けものみち」という言葉は愛用している。
インターネットという「知の高速道路」で僕たちは、自分の目標の近くまでは素早く行ける。問題は高速道路を降りて、「けものみち」をたどれるかどうかである。

一言で言えば「けものみち」とは、高速道路を疾走するのに比べると、まあ何でもありの世界である。好きなこと、やりたいこと、やりたくなくてもできることを組み合わせ、ときに組織に属するもよし、属さぬもよし、人とのさまざまな出会いを大切にしながら「個としてのストーリー」を組み立て、何とかゴチャゴチャと生きていく世界だ。(『ウェブ時代をゆく』P102)
三島さんの「けものみち」は楽しいのだろう。議員という大きな道から降りてからは特に。
半農半Xを本格化させるために議員をやめてからは表情が変わったそうだ。
それはそうだろう。知と地に足をつけた生活なのだから。

「僕は明らかに違ってきた。今、いやな人には出会わない。まったくといっていいほど出会わなくなりましたね。ほんと不思議だね。いい人にしか出会わない。こっちの思いがそうなっているからかな。半農半Xというのは、そういうことで繋がっていく世界なんだろうね」
と語る三島さんは楽しそうだ。

「Xはクロスですからね。今まで平行線だったものをクロスさせていくのも半農半Xの力です」
主任研究員が半農、じゃなかった、反応をする。


一方、三島さんが土を耕す話である。県会議員をしつつ、野菜つくりを始めたのは2011年6月。それなら僕とそれほど変わらない。この取材シリーズでは、若くても百姓に関しては大先輩に出会うことが多い僕は、ちょっと安心した。

家のそばで二箇所の畑。それから、現在は、弟の三島耕二さんの畑も引き受けているそうだ。耕二さんは「いまみや工房」を営む半農半陶芸家である。

「農に関することは、大体、百冊の本を読むと分かるんだって」と三島さん。
あれれ、本を百冊も読んでいると百姓する時間がなくなるのでは?と密かに思う主任研究員。

自然農の先駆け、福岡正信さん、田んぼの哲学者、川口由一さん、有機農法の伝道師、西村和雄さん、骨太の農学者、宇根豊さん……。三島さんの本棚にはたくさんの農にまつわる本も並んでいる。

百人いれば、百の流派があるはずの百姓の世界。様々な圃場や農業者をたずね歩いた三島さんは、今、「立てて育てる」自然栽培を実践しているという。
提唱しているのは、広島の道法正徳さん。5月に広島で話を聴いて、これだ!と直感したら、9月には松江で道法さんの「環境保全型農業の推進」という講演会を開いてしまう。
彼のX力には時間どろぼうがつけいる隙がないようにみえる。


さつま芋も立てて育てています、トマトも5本立てにして束ねます。ブロッコリーの葉っぱも縛ってみようと思います。三島さんが案内してくれた畑は支柱でいっぱいだった。


「植物も人間もいっしょなんですよ。体幹体軸を整えたらストレスがなくなる。台風で倒れても野菜はしばらくしたら立ちあがるでしょ。立てた方が自然なのでしょうね。植物を育てるのは肥料ではなくて、植物ホルモンなんですよ。その流れをよくするために、地軸にそって立てる。そしてエネルギーというか気の流れをよくしてあげるのです」
それから、三島さんの話は予期しないところにクロスしていった。

「白雪姫プロジェクトのかっこちゃんのみやぷーへの対応もそうでしょ。まず身体を立てる」
えっ、野菜の話が植物状態になった人間の回復方法の話に繋がった!

かっこちゃんこと山元加津子さんの講演なら僕も聞いたことがある。脳幹出血で倒れたみやぷーこと宮田俊也さんとのコミュニケーションを回復していく方法の話である。


半農半Xの取材をした人の農的方法論を聴いていくと、自ずから、その人のXの方向性が見えてくる。
三島治さんの場合は、自分の農のみならず、日本の農業の未来まで射程にいれているのだろう。

自然栽培でも慣行農法に負けない収量を実現できるやり方を模索すること。そうすれば農家の稼ぎが適性なものになって、自給農をする人たちとともに日本の自給率を上げる流れになっていく。三島さんは、そういう農的文脈を探しては広めていく動きを続けている、と僕は思う。


農的文脈に、気の流れなど人間の潜在意識と大宇宙の話が繋がっていく。治さんの話を聴いていると気持ちがよくなってくる。

僕の口も軽くなっていく。思ったことを言ってみた。
「三島さんは、もちろん土も言葉も耕しているけど、その結果、問題も耕しているのじゃないかな?というふうに僕には見えるんですけど……」

出ました。文脈家得意の勝手判断。三島治は半農半問題耕作人である。
耕作人は爆笑してくれた。そして、冷静に自己分析をする。

「問題を耕すというより、自分の中を耕したんだね。そしたら問題にいきあたる。その問題を発掘していく。いや発掘させられている?自分が見つけ出したんじゃなくて、向こうから寄ってきたんだよなあ。たまたま、それに自分の意識が反応したということ。なにかひとつをやっていくと、必ず通底しているので、新たな問題に出会う。先達が取りくんでいることを僕も発掘させていただき、それで楽しませてもらっている。ありがたいことです」

問題と問題の間を笑顔で渡り歩きながら、三島治さんは地と知に根ざした「ひとづくり」に励んでいる。生きててよかったなあ、と心の底から思える社会を支える価値観を共有できる「ひと」のタネを継いでいくために。
彼の究極のXは「人が喜ぶことをする」だという。これはまた素敵な天職である。


無肥料無農薬で、まっすぐ上に向かっていく野菜づくりをしている三島さんは、自分の蔵書がある部屋をマイクロライブラリーにして人づくりに役立てようとしている。


マイクロライブラリーとは、個人の蔵書を貸出可能にして、その空間で本を通じた読書会などを開催するオープン・スペースのことである。

治さんのFB投稿では、「本とバルの日・つながるつだバル」開催というのを見かけることがある。場所は「マイクロライブラリー・西津田扉文庫」。


松江市西津田の三島さん宅の玄関を左に入ったところに扉があって、中には本がいっぱい!
なんと、「本とバルの日」の開催場所はここだったのか。取材の途中でようやく気がついた僕に彼がオファーする。

「せっかく半農半Xの話をしたのだから、次回は田中さんがゲストでテーマは《天職》にしよう。《天職》に関わる本と吞みたい酒を持って来てください。来てくれますよね!」
文脈家に断る理由はない。聞けば、本とバルではバル、すなわち飲み会の方の比重が高いそうだし。


そして、10月5日、僕は焼酎と『後世への最大遺物』(内村鑑三/岩波文庫)を持って、三島さんのお宅を再訪する。西津田扉文庫へ行く。


「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か、事業か、思想か」
内村鑑三が33歳のときに天職について語った言葉は、塩見直紀さんの人生を変えました。
天職について考えていた28歳の塩見直紀さんは、この言葉にインスパイアされて、自身も33歳で会社を辞めました。天職を全うするためには、人生の締切日が必要なのでしょう。その後、35歳で塩見さんは「半農半X研究所」を設立されて……。

というように、主任研究員は本を紹介してバルタイムに突入していった。

一方、三島治さんが天職をテーマに選んだ本は『モモ』(ミヒャエル・エンデ/岩波書店)だった。


ほんとは、『エンデの遺言』を紹介したかったのだが、この本は貸出中。そこで同じテーマの『モモ』を選んだそうだ。
三島さんが天職について考えるスタートラインは「根源からお金を問うこと」らしい。


働いても働いても、なぜ豊かにならないのか。物質的な豊かさとは裏腹に、ますます心のなかに広がる空虚感……。エンデの『モモ』は時間のほんとうの意味、ゆとりの大切さを強く訴え、世界中の多くの読者を魅了しました。『エンデの遺言~根源からお金を問うこと』(河邑厚徳+グループ現代/NHK出版)

この会の詳しいレポートは、「見習い百姓」さんにおまかせしよう。

そういえば、本とバルの会の前日、10月4日には「宇沢弘文記念フォーラム」が米子で開催されていた。奇しくも三島治さんと僕は同じ会場にいて、「経済学の原点は人間。人間でいちばん大事なのは、実は心なんだね」と主張した経済学者に関する講演を聞いていた。
エンデと宇沢弘文も通底している、と文脈家は教えられた。


ヘルンさんが愛した松江には、もうひとつ素敵なマイクロ・ライブラリーがある。
「曽田文庫ギャラリー」。市内の閑静な住宅街で扉を開いている。


実は、三島治さんは「曽田文庫応援団」の設立メンバーでもある。
本をめぐる文脈に出会うと、この人は「なんとかせないけん」と問題を耕してしまう癖があるのだ。


曽田文庫の中は松江の本好きがゆっくりと過ごせる空気感で満ちている。ここでも文脈家は小泉八雲関係の本を探してしまう。きっと国つ神関係の貴重な文献もあるのにちがいないのだ。


僕はさりげなく、野津旅館の関係者をモデルにした小説『消えた街』を小さな図書館に置いてきた……。


松江は美しい町である。切なくなるくらい美しい。夕陽が出雲大社の方に沈んだら、朝日は霊峰大山(だいせん)の方から昇ってくる。ヘルンさんが見た時と同じように日は昇り日は沈み続けている。

スサノオがクシナダ姫に恋をした時代には、光と闇のコントラストはもっと鮮烈だったのだろう。空を映す宍道湖は国つ神たちに何を語ったのだろうか。国つ神の言霊は今でも出雲から日本列島に浸透し続けているのだろうか。



思えば、塩見直紀さんも言葉を耕す人である。様々な本を読み、その土壌に丹念に鍬を入れて半農半Xの道しるべとなる言葉を実らせていく。そして、言葉のタネを降ろしてくれる。
たとえば、こんな感じである。11月29日に塩見さんのフェイスブックに投稿されたもの。




「自己究明」は自分を耕すこと。
「他者救済」は人の喜ぶことをすること。
そう読み替えれば、まさに三島治さんのXを表現している言葉のようにも見える。

『半農半Xという生き方』という一冊の本が、言葉に対する感度が極めて高い塩見直紀さんと三島治さんを繋いだ。



これも綾部と出雲を通底している国つ神の思し召しだろうか、と文脈家はまた勝手に夢想するのだった。




2015年10月2日金曜日

『国つ神と半農半X・吉賀町篇』

吉賀と書いて「よしか」と読む。〝良い鹿〟が住む町らしい。
島根県鹿足郡吉賀町(かのあしぐんよしかちょう)。島根県西南部の端っこ、出雲から遠く離れて山口県と向き合う分水嶺の町である。2005年10月1日に柿木村と六日市町が合併して誕生した。

そんな、お上の都合とは関係なく、この地は平安の昔から「よしか」と呼ばれていた。
『吉賀記』と『古事記』は漢字の見た目がよく似ている。さらにそこには似たような伝説が語られていた。八岐大蛇(やまたのおろち)と八畔鹿(やくろじか)。

八畔鹿とは、足が八本、角は「八畔」、つまり八本に枝分かれいる巨大な悪鹿。体を覆い尽くす毛は赤毛で、その毛の長さは一尺あまりだったそうな。
そう言われたら、八岐大蛇を連想しない方がおかしい。

民草を苦しめる怪物を退治するのは都から来た武士。道案内するのは国つ神の猿田彦だ。
やがて、八畔鹿は討ち取られ、良き鹿となりてこの地に祭られたという。
八岐大蛇が出雲の斐伊川のメタファーだとしたら、八畔鹿は日本一の清流・高津川を汚すなにかの化身だったのかもしれない。


吉賀町は高津川とともにある。柿木村はまだ中流部だ。さらに上へ詰めると六日市地区。そこに「山百姓」を名乗るあつくん、山口敦央(あつてる)さんのベースキャンプがあった。


ほとんど山口県になります、と言われていた山口家を訪ねたのは7月12日。その日は雨だった。アウトドアの取材はできそうにない。僕はじっくりと「山百姓」の話を聞くことにした。
雨の日の話は長くなる。部屋で種取りを待っている大根たちに悪いくらいに。



あつくんと初めて会ったのも2011年3月7日。「村楽LLP=有限責任事業組合」の設立準備サミットを飯南町で開催したときだった。
村楽LLPとは、地域おこし協力隊の全国ネットワークの名称である。


話はそこから始まる。僕はてっきりあつくんも地域おこし協力隊だと思っていた。実は当時は吉賀町企画課の「よしか暮らし相談員」として移住のコーディネーターをしていたそうだ。

協力隊は協力隊でも青年海外協力隊。2010年までウガンダにいた。アフリカ大陸はケニアの西。しかもそこで有機農業の普及をしていたという。これは筋金入りの半農半Xと巡りあったのかもしれない。

あつくんは7月7日に34歳になったばかりだった。誕生日の抱負は「笑顔を絶やさない!」。なるほど。

でもね、笑顔を抱負にするあつくんって、ほんとは根暗なのかもしれない、とは僕の第一印象だった。取材を続けると、その印象は変わってくるのだが。

本人もこう言っている。
「村楽LLPの設立準備サミットって、めちゃ派手だったから、僕、めんくらっちゃって。で、なんか関わるのをやめました。鼻息の荒い人といるのは苦手だし」
「僕はまだ自分に自信がない。けっこうしんどい、ぶっちゃけ。いつも悩んで眉間にシワが寄っているって言われることも多いんです」

悩めるあつくん!
それは君のXが並外れているからじゃないかな、と文脈家は思う。
〝内観する農家〟を自分のXにしたら、考え込まない方がおかしい。


「農家というエクストリームスポーツに取り組んでしまった結果、険しい顔になる事がままあるけど、笑顔だとやっぱうまくいきます」と誕生日に言ったあつくん。

村楽LLPの設立時のスローガンは「百匠たち百商して百笑する」だった。


内観しながら、極限の農家を目指すなら、これはもう笑顔でいかないと、しんどいだろう。

7月12日は雨で田んぼにも畑に行けなかったので、僕は梅雨明けの7月28日に再度、山百姓を訪ねた。このレポートに掲載しているアウトドアの写真は、その時点で撮ったものだ。

内観ばかりしていては、夏場の農作業は進まない。手を動かしているうちに、あつくんはとびきりの笑顔を見せる。根が暗かろうと明るかろうと、それは大きな問題ではない。問題は、根っこのうえにどんな笑顔を咲かせるかである。


それにしても、「山百姓」に「農家というエクストリームスポーツ」なのだ。
僕が取材を申し込む人は言葉に対する感受性が鋭い人が多い。

「山百姓」という言葉に彼は様々な意味合いを含めている。

山口姓の山、山岳部の山、里山の山、山仕事の山、山口県境の山、自分の山を内観しながら生きてきたあつくん。今、山口敦央は誇りを持って自己を「山百姓」と呼ぶ。



ならば、あつくんは「半農半山百姓」。今回の取材は以上、おわり。
そういうわけにはいかないのだ。あつくんの話は獣道をたどりながら奥へと進む。

そもそも、「半農」のあとに「半(山)百姓」と続くのはおかしい、と思う人もいるだろう。半分が農(業)で半分が百姓なら専業農家だ。
あれれ、半農半Xって、兼業農家のことでしょ、と思った人は、半農半Xの「稼ぎ」の部分を見過ぎている。
専業農家、兼業農家は、行政が農家を区分するために作った用語で、そこには「志」を測る基準はない。


あつくんもまた「半農半X」ワールドの大先輩だった。
彼は大学生のとき、2001年に「半農半X」という言葉と出会っている。
塩見直紀さんが「半農半X研究所」を設立したのが2000年。バイブル『半農半Xという生き方』を上梓したのが2003年。今世紀の初めから、塩見さんの言霊は心ある若者たちにじわじわと浸透していたのだ。
あつくんは学生時代に環境問題に関わる活動をしている。そして、その問題の解は農にあるという結論に達していたそうだ。

あつくんに遅れること9年、2010年に半農半Xに出会った晩生(おくて)の文脈家は、先輩との対話を続ける。

「新規就農者として半農半X的生活設計をするとき、半農から入るのではなく、半Xから設計すべきですね。どんなXをやりたいのかをまず考える。それから、それを支える農を設計していく。あるいは、すでに十分なXを持っている人であれば、そのXの根っこを強化するために農的営みを考えればいいんじゃないですか。
半農から入ると、どうしても農業収入計画にとらわれて、いっぱいいっぱいになってしまいますね」

なるほど、まず半Xありきか。僕はあつくんの話を聞きながら、半農のおさらいをする。

Xを支える半農は、稼ぎがなくてもいい。田んぼや畑がなくてもいい。そこに一輪の花があればいい。花や草や木や虫や魚、山川草木を見つめる眼があればいい。
自分のX、すなわち天職をまっとうするために、土に根ざした考え方と生き型を模索するのが半農ということだ、と僕は思う。

半農は「ねっこ」で、半Xは「たかくのびる」なのである。


山百姓として半農半Xの本質を見つめているあつくんの日々は、「農家として生きる!」に集約されている。

自分が納得できる農法で消費者と繋がること。地域に根ざした農家として「コトおこし」をしていくこと。農家として、ある程度の現金収入を得ること。

内観する農家の農法は、様々なトライをしている。有機栽培、自然栽培、自然農、炭素循環農法……。派閥をつくりがちな各農法にとらわれるともったいないので、自分の農法は「里山農法」となづけたそうだ。

「お前もそうやって勝手に名前をつけるから、また派閥ができてしまうんだ、と言われましたけど」
あつくんは苦笑する。
「里山農法は昔ながらの農法を参考にしていけば成り立つと思っています。里山の生き方、生活の工夫、そういうものの中に知恵がありますね」

僕はあつくんの田んぼと畑を見る。

トマトはソバージュ(野生)栽培。
茄子、かぼちゃ、胡瓜、ズッキーニ、玉蜀黍、モロヘイヤ、いずれも固定種/在来種である。


草と共生しているあつくんの畑を見せてもらっているとき、彼はつぶやいた。
「野菜を野草にすればいいんですよ」
「うーむ、深い」と感心した文脈家に、「福岡正信の言葉ですけどね」と山百姓はさらりと答えた。


様々な農法を操るあつくんに、野菜の味についても訊ねてみた。

「自分がつくった野菜は絶対においしいですよ。それは自分自身が育てたものを自分で食べるのだから絶対おいしいと思います」

あつくんの見解は、野菜や米を自分でつくった経験のある人なら、すぐに納得ができるだろう。
「内観する山百姓」は、さらに自分の野菜が目指す味を方向づける。

「食べた後に変な味が残らない野菜が理想です。不自然な後味が残らない野菜……。僕はそんな野菜をつくり続けていきたいです」

この見解にはニワカ百姓の僕も同感である。在来種のトマトや固定種の胡瓜や茄子は「さわやか」な味がする。旨味のあとにいやなものが残らない。

「立つ鳥あとを濁さない野菜!」
山百姓はまたすごい言霊を発した。この人は地味さの層が積み重なって光る言葉を実らせる。


僕は「道の駅かきのきむら」であつくんの自家採種、自然農の〝相模半白胡瓜〟を買い求めた。箕面に持って帰って食ってみる。


うまい!さわやか!後味すっきり!
僕が自分でつくった胡瓜の次にうまい……。と立場上、言っておく。
あつくんは、薄い緑の半白胡瓜を以下のようにレコメンドしている。
おすすめは相模半白きゅうり!見た目のごつさに似合わず、歯応え良く、味も濃くて、ちょっと大きめにゴロゴロ切って塩やドレッシングで美味しくいただけます。 
【里山農園やまぐちon facebook 2015.8.7】

ちなみに僕はイクラを乗せて食ってみた。いと旨し。


次はあつくんがつくった米をぜひ食ってみたい、と熱望する稲刈りの季節がすでに来ている。


「山口の人生は半分探し物でできています」と笑うあつくんとの話は尽きない。僕だって探し物は多いのだから。
だけど、そろそろ種取りの時間が来た。次に繋ぐ時は今だ。


分水嶺に住んで、山と里の接点に生き型を求めている「ど田舎確信犯」のあつくん。
彼はこれから島根在来種のワサビ栽培に挑戦するという。

早春、研ぎ澄まされた渓流に咲く白い花を想像しながら、僕は山を下りて柿木村に向かった。



《Intermission~休憩  いつも長くてすみません!


柿木村・大井谷棚田のエックス


柿木村は、その筋では有名な村である。ふたつの筋がある。

ひとつは有機農業の先進地。
35年前、1980年には「柿木村有機農業研究会」が発足している。農薬と化学肥料を使わない有機農業は、その里を流れる川の微生物を殺さない。
高津川の水質が素晴らしいのは、流程81キロのうち、15キロある柿木村の流域環境が保たれているからだ、と天野礼子さんは書いている。(『日本一の清流で見つけた未来の種』)

もうひとつの筋は鮎釣りである。
僕のような関西の鮎師には、柿木村流域の高津川は憧れだ。7月に行った2度の取材に、僕は鮎釣り道具一式を持っていった。

結果は7月11日に2尾。7月29日は坊主(釣り用語で0尾のこと)。
釣果はともかく、確かに川の透明度は高い。良質の鮎がつきそうな石もびっしり入っている。ただし、未知なるエックスの川での釣りは難しい。


おっと、鮎釣りのエックスではなく「国つ神と半農半X」の取材だった。
柿木村を含む吉賀町は、島根を目指すIターン者にとっても憧れの地である。


島根県の「半農半X施策」で移住した人は、2010年からの5年間でのべ34名。彼らは出雲よりも石見を選ぶ傾向にある。松江から西へ、西へ。

吉賀町には9名の「半農半X施策」利用者がいる。
正直なところ、移住してみたものの、何らかの理由で去っていった人も多い。僕の知っている初期の島根県地域おこし協力隊のうちにも……。
様々な事情のあるなかで、吉賀町の移住者の定着率は8割に近いそうだ。

そして、2013年8月15日に吉賀町柿木村木部谷(きべだに)に移住してきたのが佐野高太郎さんである。僕がはじめて巡り合った「半農半X施策」利用者だ。


高太郎さんは、まず「ふるさと島根定住財団」の産業体験助成を夫婦で受けた。その1年後に「半農半X施策」の定住定着助成を受けているところだった。こちらは高太郎さんだけ。
その助成も2015年8月31日で終了する。

7月28日、僕が「山百姓」を再取材したあと、「撮る百姓」高太郎さんの話を聞いたのはそんなタイミングだった。

高太郎さんはネクスト・ステップを考えている。
「元々、産業体験をしているときは、プロの農業構想を狙っていたのですが、自分たちが食べたい野菜を突き詰めていくうちに、自然農に近づいていったのですね」

有機農業の先進地、柿木村で高太郎さんはもう少し先に行こうとしている。
「自然農の勉強をしながら夫婦で話し合っていくと、結局のところ、それは農業というよりも生き方の問題なんだよね、ということになってきた」

高太郎さんも半農ではなく半Xの方から入って、人生の選択をする人だった。彼の選択基準は「すべては家族のために」である。
この取材の定番質問、「あなたにとって究極のXとは?」に対して回答をくれるまでは長い間があった。

「家族の笑顔があることですね」

なるほど、なるほど。と、この言葉にうなづくためには、高太郎さんの4年間を振り返る必要がある。

佐野高太郎、44歳。動物写真家。英BBCのワイルドライフ写真賞を二度受賞。


半農半写真家、自然界のフレームを切り撮る天職を持って農的生活を営む人。
僕が取材した人たちのなかで、高太郎さんほど明確にXを定義できる人は少ない。彼の究極のXには「写真」がくると予測するのが普通だろう。
だが、「写真」よりも「家族」だった。

今、彼は柿木村で自分を「撮る百姓」と呼んでいる。そこに至るまで彼は移住を繰り返した。
「遠回りしたけど、必要な遠回りだったんだと思います」と高太郎さんは言う。

遠回りの始まりは311であった。福島第一原発は佐野一家の人生設計を決定的に変えたのだ。

2011年3月11日、佐野一家は東京小金井に住んでいた。フクシマの爆発情報からメルトダウンを確信して、3月15日に神戸に避難する。当時、2歳と0歳だった子供たちの安全と安心を最優先させるために。
そこで紹介してもらったのが祝島(いわいしま)だった。
山口県上関町祝島。上関原発の建設予定地から4キロの瀬戸内海に浮かぶ島である。

フクシマの放射性物質から逃れるために、まず移住した先は反原発の最前線。そして四国の伊方原発から北へ40キロの距離である。さえぎるもののない海を隔てて。

「移住先を探していくと日本のことが見えてくる。魅力的なところを探すと、必ず原発が近くにある。日本ってひどい国だな、と思いましたけどね」

文脈家も思う。
島根県に移住してくる人たちが西を目指すのも、島根原発があるからかな、と。
何しろ、国宝松江城から島根原発までは8.5キロの距離なんだから。


祝島で高太郎さんは百姓の手習いを始める。このときに「半農半X」という言葉と出会ったという。確かにインパクトのある言葉だと思ったそうだ。

家族が理想とする半農半X生活を模索するために、一家はさらに移動する。
2012年11月には北広島町の芸北へ。さらに9カ月後には吉賀町柿木村へ。
そして、佐野夫婦はここで根っこを下ろすことにした。定住財団と「半農半X施策」助成もあったことだし。

高太郎さんが住む柿木村木部谷には「奇鹿(くしか)神社」の分社がある。
時の政権に追い立てられた八畔鹿が良い鹿となって祭られているところだ。
カタチを変えた国つ神が守る土地に、佐野さんの畑と田んぼがあった。目指すは野生の自然農。


半農半Xという生き型の基本マナーは「センス・オブ・ワンダー」である。
高太郎さんのそれは野生のものだ。なにしろアフリカ大陸の「チーターがいる砂漠」で磨かれたものなのだから。

野生動物の世界は弱肉強食である。しかし、それは悲惨な世界ではない。食うものも食われるものも目をきらきらさせる世界。生命力が跳躍する世界だ、と語る高太郎さんの目もきらきらしてくる。


その目で未来を見るとき、理想の野菜と米とは、そこにある水で育った野生の生命力を持つもの。愛とお日様がたっぷりと注がれた作物を自分の子供に食べさせたい。子供たちは正常な生きものの味を覚えて育ってほしい!



高太郎さんは、さらに半農半Xという生き方の理想も語る。
「半農半Xは、百姓という言葉に通じていますね。百姓は農業だけではなく、百の生業(なりわい)をもつから百姓です。農をベースにして、何でも自分でできる生活力を持っていくことも半農半Xの大事なポイントだと思います」

家族愛という土壌に理想という作物を高く高く伸ばしていく……。
高太郎さんは、これから、冬水田んぼ、冬期湛水(たんすい)の米つくりにチャレンジしていくという。



「撮る百姓」は柿木村をベースにして、徐々に写真家としての生業も回復しつつあるという。これはご同慶の至りだ。僕は高太郎さんが撮った野生の野菜や花や動物やカエルや鮎たちが見たい。

アフリカの砂漠や北海道の大自然を観察してきた写真家は、今も「身近」に目を向けている。
大自然に目を向けるにも、世界中の自然に目を向けるにも、まずは足元の自然を感じる感性がないと楽しめないような気がしている。(中略)身近な自然の美しいもの、というのは自分の永遠のテーマな気がする。そして「身近」というのも、様々な身近がある。場所としての身近。自分の生活のなかでの身近。自分の人間関係での身近。いろんな観点から、いろんな身近を探して切りとってみるのもいいのかもしれない。 
【佐野高太郎on facebook 2015.9.4】
考えてみれば、半農半X的生活というのは、それぞれのXは多様にしても、自分の「身の丈」にあった「身近」な生き型である。
そうだ、間違いない、と文脈家は納得してしまった。



取材の旅には出会いがある。まして、これは国つ神、すなわち緑と縁の神様に見守られている(と勝手に思っている)旅なのだ。

「のんびり鮎を釣りにふらっと来た人かと思った」と僕を泊めてくれたのは、はらだ屋旅館の齋藤奈美さん。
柿木村の真ん中で100年近い歴史を持つ宿である。目の前は高津川。しかも絶好の鮎釣りポイントだ。
あつくんと高太郎さんの取材を終えた翌日、高津川で竿を出して、のんびり酒を飲もうと思ったのだが、こういう旅館に泊まると、また取材モードに入ってしまう。


はらだ屋の女将、なみちゃんはあつくんのことも高太郎さんのこともよく知っていた。
この旅館は、筋金いりの鮎師が集まると同時に、移住者の情報交換センターであり、志が高い野菜が持ちこまれるところでもある。

自身も15年前に大阪からUターンしてきたというなみちゃん。彼女は吉賀町の歴史と神社について話してくれた。

そもそも、この文脈レポートのイントロで紹介した八畔鹿の伝説も、はらだ屋にあった本で知った。昔話と神社は、その地域を理解するための重要なファクターである。

怠惰な文脈家は、十分な事前調査をせずに旅に出る。
そして、出会う。綾なす糸で繋がったかけがえのない文脈と。


今回も長い文脈レポートを読んでいただき、ありがとうございました。
すっかり夏も終わり、稲刈りとハゼ干しの季節になっています。
ああ、今年も、あと少し。「よいお年を!」という前に、取材シリーズを完了したいのですが、どうなりますことやら。
次のレポートは松江の三島治さんと奥出雲の白山洋光さんです。
名前を聞いただけで、すごい!と思われたあなたはもう国つ神縁脈の中の人ですね……。