2015年1月29日木曜日

MERRY IN KOBE 2015~不屈の笑顔

1995年1月17日午前5時46分。僕は箕面のマンションにいた。揺れた。
それまでの人生で経験をしたことがない揺れだった。

揺れが治まったとき、僕は身動きが取れない自分に気がつく。
布団の上に本が積み重なって脱出できない。家族が僕を掘り出してくれた。
当時、僕が寝ていた部屋は壁一面が本棚だった。揺れは本棚を倒して本を僕の上にまき散らした。
本棚そのものが僕を直撃しなかったのは、枕元に置いてあった小型テレビとテレビ台のおかげだった。それがなければ、僕は箕面市で唯一の怪我人になったかもしれない。
そうなのだ。箕面市は揺れは激しかったが怪我人もいなかった。
箕面市も僕もとてもラッキーだった、と今でも思う。すぐ西の伊丹市では阪急の駅が落ちたのに。

その時、僕は43歳。典型的な会社人間だった。
本の山から出て、まず考えたことは、「今日の仕事をどうしようか」。
その日は三重県の名張市にロケハンに行く予定が入っていた。京都のクライアントとの打ち合わせもあったのかもしれない。電車は動いていない。当時、持ち始めていた携帯電話も固定電話も通じない。公衆電話を見つけた。午前8時にはこの電話は通じていた。
奈良に住む上司に電話して「やっぱり、今日は無理やろね」とのんびりとした会話をしたことを覚えている。

その頃、神戸は大変なことになっていた。箕面や京都や奈良とはまったく違う状況になっていた。特に長田地区の火災は写真を見るのがつらかった。

僕は、その後、ボランティアとして阪神間に行き……というふうにストーリーは展開しなかった。
相変わらず会社の仕事優先で動きながら、阪急電車が西宮北口まで運行再開したあとに三宮まで歩いただけだった。何かをやりたい、という思いはカタチにならなかった。

それから、20年目の1月17日、僕は神戸の長田にいた。
【MERRY IN KOBE 2015】



このイベントの詳細はメリープロジェクト公式サイトにアップされている。
ドキュメントはこちらを読んでください。

「20年目の神戸から未来に笑顔をつなげよう!」
「阪神・淡路大震災から20年、未来へ『生きる』」

僕は、現場で見て聞いて感じたことを記録に残しておこう。


メリープロジェクトは、2001年以来、神戸の笑顔とともにあった。水谷孝次さんのメリープロジェクトの原点は神戸にもある。


2001年5月、神戸の震災跡地であるポートアイランドのひまわり畑で、水谷さんは生後8カ月から97歳までの笑顔を撮りまくったそうだ。
そのうちのひとりが駒井みつきさんだった。当時、7歳だった自分の笑顔の傘を持って水谷さんと再開し、14年目の笑顔の同窓会が実現した。


僕は2011年以来、様々なメリープロジェクトに参加してきた。そこでいつも思うことは、それぞれの場所でそれぞれのメリーがある、ということだ。

メリープロジェクトが行くのは、負の財産を背負った子供たちがいるところである。その多くは地震や津波など、つらいできごとで傷つけられた場所だ。

水谷さんが〝MERRY〟を始めたきっかけは、アメリカ旅行中のバスで撮影した子供たちの写真である。1999年のこと。
何気なく撮影したスナップに子供たちの笑顔がはじけていた。そこには世紀末の暗さはなかった。以来、16年、メリーの躍動は世界のソーシャルデザイン史に刻まれている。


そして〝MERRY〟というデザインをクオリティの追求からコミュニケーションのカタチに進化させたのが阪神大震災であった、と水谷さんは言う。

2015年、水谷さんから長い年賀状が来る。そこにはミスターメリーの思いが「MERRY主義宣言」として綴られていた。
「人間には、マイナスがあるからプラスがある。ほんとうに悲しい時こそ笑うんだ。だから笑顔が美しい」と気付いた。 それが人間の強さであり、美しさなのだと思います。国が違って言葉が通じなくても、笑顔と笑顔で心がつながる。地球上のあちこちで「MERRY」な交流が生まれ、笑顔が伝染していきます。 誰かの笑顔が地球をぐるりめぐって、あなたに笑顔を運んでくれる。 笑顔がつなぐ「MERRY」のリレーに、国籍も人種も宗教も関係ありません。 
貧しい国では、安全な飲み水や教育が足りません。豊かな国では、愛と思いやりが足りません。 
お金がすべてという価値観では、強欲で身勝手な資本主義に走りがちです。 そんな社会を見直して欲しい。幸せの意味を問い直して欲しい。 「MERRY」な笑顔を増やすことを一番に考える社会。みんなを笑顔にして、自分も幸せになる。まさにメリーゴーラウンド。 そんな生き方を私は「MERRY主義」と名付けました。地球が笑顔でいっぱいになることを、心から願って……。
水谷さんの〝MERRY〟は絶対的笑顔主義なのだ。
【MERRY IN KOBE 2015】のメッセージにはこんな言葉があった。
「あなたが笑う時、世界もいっしょに笑う」

はい、僕も神戸で、世界といっしょに笑顔になりたいです!



1月16日、前日からのスタンバイを手伝うために僕は大正橋筋商店街で水谷さん、柄本さん、河野さんを待っていた。


長田に向かう電車の中で、僕は『ラジオフォーラム』の「阪神淡路大震災復興の20年」という音声アーカイブを聞いた。

番組内で大正橋筋商店街理事の伊東正和さんは、こう語っていた。
毛布1枚もらうにしても一日かかった大変な状況から、わずか2カ月という短い期間で再開発という決定をさせられた。それが問題。こんな素晴らしいかたちの街になるというメリットは聞いたけど、デメリットは聞いていなかった。建物はできたけど、経費が前の倍以上、掛かっている。それはすごい負担です。
大正筋商店街は、あのとき、9割が焼け落ちた。それから、2711億円をかけた大規模再開発が始まったそうだ。完成したショッピングモールに入って生活再建をした住民たち。だが、そこには大きな課題があったらしい。

『ラジオフォーラム』パーソナリティの石丸次郎さんは以下のように解説した。
元々の大正橋筋商店街はお店と住居が一体となったアーケード式でしたが、復興計画で住所と店舗が別々の場所になった。一応アーケードはあるが、そこにはテナントが上の階に入っていった。ですから昔の商店街とは違う形態の商売をすることになった。その過程で多くの経費が増えていってしまった。商売がなかなか割りがあわなくなった。

水谷さんたちと合流した僕は、いっしょに商店街のキーマンへのご挨拶にいった。まずは伊東さん。

水谷さんの話では「とにかく商店街を笑顔、笑顔、笑顔でいっぱいにしてほしい、もう暗い話はいらない!」と伊東さんに頼まれたことから、今回のメリーイン神戸が始まったということだ。


大正橋商店街アーケードの入口を笑顔、笑顔、笑顔にするスタンバイを始める。

僕は現場に入れば、身体が自然に動いていく。広告代理店時代に様々な撮影現場で培った経験値で。焦りを感じれば感じるほど、全体像を見る訓練はできているつもりだ。


それでも60本の笑顔の傘で大正橋筋をメリーにするセッティングは厳しいものだった。

人手が足りない。こんなときは、とにかく手を動かし続けるしかない。ただし効率的に。
ネットに傘を取り付けていくとき、上から何マス目に刺していけばカタチが整うのか、そういう計算が僕はまったくできない。自慢じゃないけど、僕は文系コンテキスターなのだ。

そんなときに頼りになるのが協創LLPと上山棚田団の仲間たちだ。
仕事の合間に駆けつけて、傘レイアウト計算をしてくれたみやしゅー(宮北公英)、ありがとう!
ひたすら手を動かしてくれたいのっち(猪野全代)とやっしー(前多康代)、ありがとう!
2階からヒモを垂らしネットを引っ張り上げ続けたヤス(杉浦靖明)、ありがとう!

スーパープロデューサ、柄本綾子さんのレイアウトチェックが終了したのは大正橋商店街の灯りが落ちる直前であった。


一方、六間道4丁目商店街もメリーになっていく。
富士屋呉服店の増井宏行さんがアーケードの屋根からメリー傘をぶら下げた。


そして、「アースデイWITHマイケル」のためのステージもスタンバイされる。

増井さんは気遣いの人だ。「マイケルやも」(山際伸二郎)と会ったこともないのに、水谷さんの話を聞いて、フライヤーを制作しホテルや商店街で事前配布をしてくれていた。


1月17日早朝。午前5時46分のセレモニーに参加するために、会場に向かう。
昨晩の強風のため、アーケード入口の傘が吹き飛ばされていた。近くのホテルに泊まった僕が到着したとき、すでに修復を始めているボランティアたち。
この人たちは何時に家を出てきたのだろうか、と想像する。


そして祈りの時間。
この時間帯は被災した皆さんのためのものだ。


さあ、メリーイン神戸が始まる!
六間道5丁目商店街の寺子屋スペースに集まったボランティアに水谷さんが挨拶する。


「今日は参加者の皆さん同士、そして地元商店街の皆さんとの交流を楽しんでください」

この一言でボランティアの雰囲気が和んだ。

ここには「ふくしまっ子10万人笑顔プロジェクト」の笑皿が飾られて、メリーワークショップの準備が整っている。
鉄人広場で受付に行くスタッフ、商店街に笑顔の傘を並べるスタッフ、ノエビアスタジアム神戸でのステージに備えるマイケルチーム、それぞれのパートが気合い、ではなく笑顔を入れる。


こういう瞬間が僕は大好きだ。
メリープロジェクトはいつも最小限の人数で手作りイベントを成功させている。現場にハプニングはつきものだ。それでもみんな笑顔で動く。


たくさんのお客さんが訪れる1月17日、店の前でずっとマイケルのMERRY LIVEをサポートする増井さん。
飛びっきりの笑顔で。奥様とともに。


♪人は誰も
 生まれた瞬間から
 みんなで生きてる~

♪People all over the world
 君が微笑めば 僕も微笑み愛になる
いつの日にか きっと世界中
 笑顔だけになる・・・


笑顔の打ち上げ!
それも僕は大好きだ。神戸風そばめしもビールも大好きだ。

お好み焼き屋「やよい」のおばちゃんが、大正筋商店街入口の笑顔を誉めてくれた。
こういう瞬間があるから、メリーはやめられない。


【MERRY IN KOBE 2015】は無事終了した。
新長田駅前に灯された「ながた」の文字を見ながら、僕はフェイスブックにつぶやく。
長い鎮魂の一日が終わります。僕にとっては一日でも被災者の皆さんには明日からも永い時間が流れ続けます。20年前の1月17日に強制終了させられた6434篇の物語への想像力を持ち続けること。


そして、今、僕はメリーな文脈と善循環と持続可能性について考えている。

神戸の笑顔は東北の笑顔につながり、ニューヨークの笑顔は北京の笑顔につながる。
耕作放棄地の笑顔がシャッター商店街の笑顔につながり、ナイロビの笑顔がロンドンの笑顔につながる。
ヒロシマ・ナガサキの笑顔がフクシマの笑顔につながる。

そのメリーゴーラウンドの中心にあるのが水谷さんの笑顔である。筋金入りの〝MERRY〟だ。


そして、思ったことは必ずやる笑顔だ。
僕は思ったことは必ずやる。思ったら飛べ。川が狭いか広いかは別として、とにかく自分が先に渡ることで物事が進み始める。いろんなことを解決するためには、一歩でも先に進まないとダメだ。プロジェクトもそうだし、人生もそうだ。 
『デザインが奇跡を起こす』(水谷孝次/PHP研究所/2010年刊)

僕は水谷孝次さんをリスペクトしている。
アーティストとして。
ソーシャルデザイナーとして。
ひたむきに生きる人生の先輩として尊敬している。

2011年2月、311で世の中が変わる直前に「不屈の笑顔」に出会えたことを縁脈の神様に感謝したい。



「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」(『幸福論』アラン)


2014年12月29日月曜日

消える時、『消えた街』

一年があっという間に消えた。いつのまにか年の瀬になっている。
年を重ねるごとに、時が消えるという感覚になってくる。

一日や一年を短く感じるのは、加齢により新陳代謝速度が遅くなってくるのが原因だそうだ。そうなれば体内時計も徐々にゆっくり回るようになる。
遅れた時計が一年を刻むのには時間がかかる。だが、現実世界は6歳の一年も62歳の一年も冷徹に同じスピードで時を刻み続ける。
実際の時間の経過に自分の体内時計=生命の回転速度がついていけないので、あっという間に時が過ぎていく感覚になる。
この説は分子生物学者、福岡伸一さんの受け売りである。

フミメイ流の言い方をすれば、経年劣化していく自分のCPUが情報大洪水の中で溺れてしまい、あわわとしているうちに一年が消えていく。
体力の方も同じく劣化していく。それでも意地を張って動き続けているうちに一週間が一月が一年がわっしょいわっしょいと消えていく。「半農半X家・フミメイ」の一年は素早く消えていく。

さらに輪をかけて、今年はアベシンゾーがあれこれしでかしてくれたので、そのカウンター情報を発信するのにも忙しかった。
アベシンゾーという用語は、第97代内閣総理大臣の安倍晋三を支える日本人の《集合的無意識》という意味で使うようにした。まだまだ良く分からない部分の方が多いが。
アベシンゾーの気持ちを慮るために、今年もたくさんの本を読んだ。そして多くの本を読み残した。
どう考えても今年中に読み切れないが、できるだけ早く読みたい一冊がある。
『忘却のしかた、記憶のしかた』(ジョン・W・ダワー/岩波書店)


「いまだ戦後ではない」と喝破した《東京の師匠》から薦められた本である。
アベシンゾーに対抗するためには、それなりの理論武装が必要だ。
劣化型の反知性主義者たちは歴史を修正したがる。自分たちに都合のいい理屈だけを一部の人々には心地良い情感に包んで訴える。反対意見には耳を貸さない。「見解の相違」と切って捨てる。
しかも、マスメディアはもう彼らの支配下にあるようだ。
急速に「自由と民主主義」(含む日本国憲法)が消えつつある時が今だ。

僕の一年が消え去ろうとどうってことはないが、1945年8月に、父や母や祖父や祖母が獲得したものを消してしまったら、彼らに顔向けできない。
敗戦時に消えたものの代償として獲得したものを失ってはならない。
消えた命、消えた家、消えた父母、消えた子供たち。
そして、そこには「消えた国」もあった。
中国東北部に大日本帝国が構築した傀儡国家である「満州国」。

「満州国」は1932年3月1日に出現して1945年8月15日に消えた。「建国」後、13年五ヶ月。元々、あるべきものではなかったのだから、消えるのは自明の理であったのだろう。
だが、「偽国家」は消えても、その瞬間、満州には生身の日本人が生きていた。多くの家族がいた。会社に勤め、農地を耕していた。たとえその会社が「国策」であり農地が略奪されたものであっても……。

その瞬間、安倍晋三の祖父、岸信介は「満州国」の高級官僚として財を成して内地にいた。
「満州国」をでっち上げた関東軍は自分たちの家族だけを連れて逃走していた。

取り残された家族の中に「白川妙子」がいる。僕の山の神の伯母さんだ。妙子の夫、「白川真之介」は満州映画協会(満映)に勤めていた。「真之介」は甘粕正彦のお気に入りだったという。
妙子さんは「消えた国の消えた街」、新京(現長春)から島根県松江市に引き揚げてくる。その記憶と記録を1990年に小冊子として出版した。


この歴史的事実を元にして、僕は小説を書いた。今年の始めのことである。
小説のタイトルは『消えた街』。

そして2月、平凡社の『こころ』という雑誌の〝第一回晩成文学賞〟に応募した。
長い間待って、今月、受賞作が発表されたvol.22号が届く。


落選だった。佳作にも入らなかった。



『消えた街』というタイトルの左側写真は白川妙子(登場人物名)、右側は野津修(登場人物名)だ。
これらの写真はもちろん応募原稿には入れなかったが。

野津修のモデルは、盟友、原田ボブの父である。
修さんは「建国大学」の学生として「新京」に1年半、住んでいたことがある。1943年建大入学、1944年学徒出陣。
僕が、この小説を書いた動機は妙子さんの冥土の土産にするためだった。明治45年(1912年)生まれの彼女は、来年3月で103歳になる。

盟友の父は2006年に逝去された。享年81歳。
『消えた街』での人物設定は僕の創作である。満州を巡る僕と原田ボブとの縁は、3年前の年末にも「協和から協創へ」という文脈レポートで書いたことがある。

ずっと書きたかった「満州国」のことを書き始める後押しをしてくれたのが〝第一回晩成文学賞〟だった。
「応募時に、満60歳以上の方に限ります」
「〝本〟〝未来〟〝まち〟のうち一つをモチーフにした小説を募集」
「400字×100枚以内」
「締切:2014年2月28日」
「選考委員:村田喜代子、半藤一利ほか」
「発表:2014年12月刊行『こころ』vol.22誌上」


僕は、この賞に飛びついた。「締切は執筆の父」なので。2カ月で書き上げて応募した。

その後、8月に最終候補作発表がある。
応募98篇、うち15作が一次選考を通過。7作が最終候補作となる。『消えた街』が入っていた。
正直に言うと、僕の中で助平心がむくむくと湧き上がった。が、その後は音沙汰なし。




そして受賞作は『浜辺の晩餐』(小森京子/65歳)。おめでとうございます!
佳作は三篇。
『風の賦人』(大山舞子/80歳)。『黒犬先生伝』(三島麻緒/65歳)。『あなたは何故、』(大森レイ/81歳)。おめでとうございます!



『消えた街』にも半藤一利さんが講評を書いてくれた。
「消えた町(ママ)」は構成に厚みがなく、やや〝あらすじ〟めいた作品になった。読後に感動が湧いてこないのはそのせいであろう。
辛口である。でも、そのとおりなのだろう。なぜなら執筆動機に「他人史」を書きたいという小説としては不純なものが含まれていたのだから。

《東京の師匠》からも『消えた街』とニワカ小説家への鋭いご指摘がきた。
小説家は「鳥瞰目線」を持たねばならない。登場人物に対して「酒に酔ったような同調」をしてはならない。生物学者が生態観察をするように登場人物を見つめ分析し、それを再構築して描かなければならない。
親戚や盟友の父への「ベタな愛情」は、小説表現には無用なものだった。『消えた街』の一般読者(今のところ10人程度)に「感動が湧かない」のはそのせいであろう。


ともあれ、昭和史の大家、半藤一利さんが『消えた街』を読み、講評してくれた。その事実はニワカ小説家にとって大きな励みとなる。「消える時」を内在させたニワカが、来年どのような小説を書くのか、あるいは書かないのかは誰にも分からない。何しろ本人に分かっていないのだから、他人に分かるわけがない。

しかしながら、書くことへの志は消えていない。僕にはまだ書きたいことがある。

『消えた街』は賞に落選したことによって、本来の目的を果たすことができるようになった。
『消えた街』は本になる。米子の今井出版でオンデマンド印刷をして本にする。
限定20部。お世話になった関係者への御礼本だ。

一世紀以上を生きた「白川妙子」さんにお迎えがきた日には、その棺に納めてあげよう。
盟友の父の墓前にも、きっと届けられることだろう。




書くということは孤独な行為だ。ドアを閉めて想像力の地下室に降りていくことだ。たとえ「あらすじ」であろうとも。僕は身の丈160センチまで地下室に降りた自信はある。
来年はもう少し深く降りて、また戻ってこよう。

僕の2014年は小説の執筆から始まった。その後も孤独な作業が多かった気がする。

夏の終わりには、文脈研究所のレポートを定本化した。アホみたいに長い800枚の原稿をまとめていく作業は自分のありかたを見つめ直す契機となった。そこで「鳥瞰目線」を少しでも獲得できていればいいのだが。

孤独に書いて、孤独に釣って、孤独に草を刈る。そんな一年……。
上山棚田団と協創LLPにも、多くの関わりは持たなかった。それでも心の底では彼らとの連帯を求めていた。それは確かなことだ。

消えゆく年を愛おしむだけでは何も始まらない。
「終わったのなら始めればいい」のである。
消えていくべきものには消えてもらい、ありつづけるべきものの後押しをすること。

来年は、きっと厳しい年になる。消えたはずのものが蘇ってくる。
肥料をやりすぎた野菜に虫たちがすり寄ってくるように不気味なものが蠢いている。
「戦争のできる銭ゲバ帝国」は消えたはずだったのに。

来年も僕は書き続けていこう。田んぼに這いつくばってコナギを取り続けるように。
言葉の力を信じて。「言霊の幸ふ国」に貢献できるように。
晩生(おくて)の書き手は「書くためのナイフ」を日毎夜毎に研いでいくしかない。

でもね、山の神には叱られるのですよ。
「書くのはいいけど、あんたは自分を追い詰めすぎて見てられない」と。
晩成文学賞の締切間近の僕を観察した結果の言葉なのだ。
はい、おっしゃるとおりです。ときどきはドアを開けて書くようにします。
そして来年の3月には、「白川妙子」さんの103歳の誕生日にご一緒させていただきます。


今月の文脈レポートもいつものようにドアを閉めて書いていたら、こんな笑顔が扉を開いてくれた。妙子さんから101年の時を隔てて生まれてきた笑顔だ。


僕と繋がっている皆さん!
今年も長い文脈レポートを読んでくれてありがとうございました。誰かがどこかで読んでくれているに違いない、という思いが僕の支えです。お世話になりました。良いお年を!

来年の大晦日こそは「そんな時代もあったねと」笑って話せる年になりますように。
昨年末にも同じメッセージを書いたのですが、来年こそは!

Never Never Never Give Up !

PS:小説『消えた街』に興味がある方は僕にフェイスブックメッセージをください。PDFファイルでお届けします。ご笑読ください。また『コンテキスターの日々』(定本・田中文脈研究所)もPDFでお届け可能です。ただし、こっちは長いですよ(笑w)。

2014年11月29日土曜日

村上春樹とコンテキスター

僕は村上春樹に会ったことがある。一度だけ業務上の都合で。
1990年頃だった。そのことについては書かない。まあたいした話でもないし。
そして、僕はピーターキャットのコースターを持っていた。ピーターキャットというのは、春樹が小説家になる前に千駄ヶ谷で営んでいたジャズバーの名前である。
それはある人にプレゼントしたので手元にはない。元々は村上夫妻と親しいCMプロデューサからもらったもので、僕自身がピーターキャットに行ったわけではない。


小説家と僕のリアルな関係は希薄なものである。
それでも夢想することがある。

村上春樹は1968年から1975年の間、早稲田大学第一文学部に在籍していた。
僕は1970年から1974年まで、その大学の違う学部にいた。
もしかしたら、キャンパスですれ違ったことがあったのかもしれない。

文学部は大隈重信の銅像がある本部とは少し離れた場所にある。
そのキャンパスにある長いスロープ。コンクリートの坂を昇らないと校舎にはたどりつけない。
坂の途中には無数のタテカンがある。タテカンは立て看板の略。当時の大切なコミュニケーションボードであった。大きくて太い肉感的な文字で「安保粉砕、斗争勝利」と書かれていたはずだ。赤文字からは血のような墨汁が垂れていることもあった。

タテカンに囲まれて僕はスロープを昇る。たまには文学部の学食で昼飯を食おうと思ったのかも知れない。
降りてきた学生がいた。ステンカラーのありきたりなコート。髪は短い。本とレコードを抱えている。
目が会った。18歳の僕は21歳の彼が持っている本とレコードを見る。
それは庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』ではなかった。それはビートルズの『ラバー・ソウル』ではなかった。それらは僕の知らないものだった。
僕と村上春樹の間にコミュニケーションはなかった……。

このようなことを想像したのは、春樹と僕の文脈を探っていたとき、新しい発見があったからだ。早稲田大学でも文脈は繋がっていた。

「問題はひとつ。コミュニケーションがないんだ!」
これは春樹が「ワセダ第9号」という学生誌に寄稿したエッセイのタイトルである。
早稲田大学出版事業研究会が1969年に発行したものだ。

出版事業研究会、出研(しゅっけん)!
大学生時代に授業にはほとんど出なかった僕にとって、早稲田大学とはすなわち「出研」であった。

1970年の4月に出研に入った僕は「ワセダ第9号」を見た記憶がない。今、僕の手元には「ワセダ第10号」があるだけだ。



考えてみれば、春樹が「ワセダ」に寄稿していても不思議はない。
当時の出研には春樹と同じ学生寮に住んでいた編集者がいたからだ。
この事実を僕に教えてくれた『村上春樹と小阪修平の1968年』(とよだもとゆき/新泉社/2009年)から引用してみる。
冒頭「何だか映画の評論を書けっていうもんで下宿に寝転がって煙草を三本吸う間考えをめぐらしてみたものの、バカバカしい程何も出て来ない」とあるから、編集部の知り合いからでも依頼されたのだろう。 「'68年の映画群から」とサブタイトルが付けられているとおり、映画について書かれたものだ。スチュアート・ローゼンバーグの『暴力脱獄』、高倉健の網走番外地シリーズもの、ウィリアム・ワイラーの『必死の逃亡者』、マイク・ニコルズの『卒業』、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』、キャロル・リードの『第三の男』、黒澤明の『野良犬』、ルイズ・ギルバートの『アルフィー』、今村昌平の『神々の深き欲望』など、その当時封切られたものや過去の映画を取り上げながら、現代のコミュニケーションの困難性について軽いタッチで書いている。(P54)

「コミュニケーションがないんだ!」というタイトルは1969年の村上春樹の根本命題を言い表しているのだろう。
あの時代については当研究所の「草莽の士、高橋公さん」も参照してほしい。ハムさんは映画『ノルウェイの森』の〝早稲田大学時代考証〟でクレジットされていた。

「コミュニケーションありやなしや」という文脈で春樹の今にワープする前に、もう少しコンテキスターとしてのパースペクティブで僕と彼の関係を見ていこう。

ハルキとサヌキ、という文脈がある。
『辺境・近境』という村上春樹の旅行記は、文脈家の僕にとって重要な文献だ。
発行は1998年。この頃、春樹はすでに世界のハルキになっていた。

その中に「讃岐・超ディープうどん紀行」という一章がある。
朝っぱらから石の上に腰掛けてうどんをずるずるとすすっていたりすると、だんだん「世の中なんかもうどうなってもかまうもんか」という気持ちになってくるから不思議である。僕は思うのだけど、うどんという食べ物の中には、何かしら人間の知的欲望を摩耗させる要素が含まれているに違いない。(P122)
へへへ、確かにうどんには、そういうところがあるかもしれない。お椀を伏せたような山がぽんぽんとあるだけの穏やかな狭っ苦しい平野で、うどんをすすっているときには、確かに、コミュニケーションがなんぼのもんじゃ!という気分になってくる。ちょっと哀しい話であるが。


めげずに知的欲望をこね回すために、僕はハルキが絶賛した「なかむら」に行ってみた。ネギは裏の畑から自分で取ってきたという伝説のうどん屋である。僕の坂出の家からは近い。

猫がいる。うどんをすすっているとみゃあーとすり寄ってくる。なるほど、猫好きのハルキなら、さらに知的欲望を鈍化させる風景になっている。


断っておくが、僕はマルキストではないのと同じくらいハルキストではない。そもそもなんちゃらイストであることを否定する傾向があるから、ハルキの書くものに共感できるような気がする。
これ以上、ハルキとサヌキの文脈に踏み込むのはよそう。


この紀行文が上梓された4年後、ハルキは『海辺のカフカ』という長編小説を書いた。
その舞台は香川県高松市。温暖な土地で不条理な物語が展開される。
ハルキはうどんで知性を(う)鈍化されるのに抗いながら、この小説の構想をこねていたのかもしれない。

ハルキストではないのだが……ひとつだけ。
文脈研究所でかつて書いたレポート「讃岐のカフカ」の後日談を。
『海辺のカフカ』の舞台である甲村図書館のモデルは、やっぱり坂出の「鎌田共済会郷土博物館」なのだろうな。最近、ここに初めて行ってみて確信した。


そして、『辺境・近境』の旅は、讃岐平野からモンゴルの草原に抜けていく。
白紙を1ページ挟むだけで「ノモンハンの鉄の墓場」へ。
白いうどんは白紙の壁を抜けたら白酒(パイチュウ)に変わった。


ノモンハン事変、というか戦争。1939年「満州国」とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、大日本帝国とソビエト連邦の間に起こった苛烈な殲滅戦。
1994年、ハルキが草原を訪れたとき、戦争の跡は乾いた風の中で風化されることもなく鉄片をばらまいていたそうだ。

ハルキは『ねじまき鳥クロニクル』という長編でノモンハン戦争を描いている。

「死んでこそ、浮かぶ瀬もあれ、ノモンハン」(作中人物、本田さんの言葉)


ここには、ハルキと中国という文脈がある。彼の父は中国に出征していた。
ハルキは、ほとんど個人的な周辺情報を語らない。
しかし、2009年9月25日のエルサレム賞受賞スピーチ、『壁と卵』では、父のことを語っていた。
私の父は昨年、90歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食の前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人のために祈っているのだと父は私に教えました。父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。父が仏壇に座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。父は死に、父は自分とともにその記憶を、私が決して知ることのできない記憶を持ち去りました。しかし、父のまわりにわだかまっていた死の存在は私の記憶にとどまっています。これは私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです。 
中国の戦場というのは満州だったのかもしれない。
『ねじまき鳥クロニクル』には、当時「満州国」の首都であった新京の動物園における中国人の虐殺が描かれている。

高校の古文の先生であった村上千秋さんが、どのような死に向き合ってきたのかは誰にも分からない。
ただ、中国という文脈がハルキの魂の襞にまとわりついているのは確かだ。手打ちうどんにはたっぷりの打ち粉が降りかかっているように。

中国=「満州国」という文脈を考えるときには、歴史を正しく認識する、という軸が必要である。僕はそう考えている。そうでなければ広大な大陸を覆う死の影たちに失礼だ。

ちなみに僕の父や母、親戚たちも深く「満州国」と関わっている。満州の文脈は研究ずみである。

「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」というセリフが最新長編の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に出てくる。

記憶を隠すことが巧みで歴史を変えることを望む内閣総理大臣が跋扈する昨今、ハルキはこんなことを言っている。
僕は日本の抱える問題に、共通して「自己責任の回避」があると感じます。45年の終戦に関しても2011年の福島第1原発事故に関しても、誰も本当には責任を取っていない。そういう気がするんです。例えば、終戦後は結局、誰も悪くないということになってしまった。悪かったのは軍閥で、天皇もいいように利用され、国民もみんなだまされて、ひどい目に遭ったと。犠牲者に、被害者になってしまっています。それでは中国の人も、韓国・朝鮮の人も怒りますよね。日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思います。原発の問題にしても、誰が加害者であるかということが真剣には追及されていない。もちろん加害者と被害者が入り乱れているということはあるんだけど、このままでいけば「地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった」みたいなことで収まってしまいかねない。戦争の時と同じように。それが一番心配なことです。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
歴史を正しく認識して自己責任を自覚するという地ならしをしたところにしか「魂の行き来する道筋」は開かれないのだろう。

2012年、尖閣諸島の国有化に際して中国の書店から日本の書籍が消えたことがある。その事態を憂えた小説家は朝日新聞に「魂の行き来する道筋」というエッセイを寄稿した。
文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。 
安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。 
「朝日新聞」(魂の行き来する道筋/2012年9月28日)
「安酒の酔い」とは、端的に言えばヒトラーが使った手口だ。
領土問題で国民感情を煽り頭に血を上らせて人々の粗暴な言動を誘うタイプの政治家には注意したい、とハルキは警告している。
このエッセイが書かれた時点では、野田首相だった。
2014年11月現在、安倍首相は酒も飲めないくせに、安酒を気前よく振る舞い、日本人の知正を麻痺させている、と僕は思う。


村上春樹の小説は中国、韓国、台湾で大学生を中心に幅広く読まれている。また東アジア文化圏内の若手作家に大きな影響を与えているそうだ。

実際、僕が会員になった「北浜現代中国文学読書会」では、「村上春樹メニュー」をつくる上海の美女が登場する短編小説を紹介していたりする。
そこには、美味なる中華料理が溢れる上海で、「キュウリとハムとチーズのサンドイッチ」をつくるアイロニカルなシーンが描かれている。(『白水青菜』藩向黎)

自分の作品のアジアにおける読まれ方について、ハルキはこう語っている。
これ(欧米)に対して、日本以外のアジアではストーリーの要素が大きい。ストーリーラインのダイナミズムに読者は自然な魅力を感じるのかもしれません。また、ある種の小説的ソフィスティケーション(洗練)、登場人物のライフスタイルやものの考え方に対する興味もあるみたいですね。「何とかイズム」みたいなことはあまり関係ない。例えば、僕の作品で主人公が井戸の底に座っていて石の壁を通り抜けてしまうといった場面を、欧米人は「ポストモダニズムだ、マジックリアリズムだ」みたいに解釈するけど、アジアの人は「そういうこともあるかもな」と自然に受け入れてしまう(笑い)。アジアでは荒っぽくいえば、何がリアルで何が非リアルかは表裏一体なんです、日本でもそうだけど。そういう物語の風土の違いは確かにあると思います。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
「東アジア(魂の)文化圏」は、村上春樹の文脈では深く静かに広まっている。
大陸の最高責任者にそっぽを向かれた、列島の首相の思惑とは関係なく……。

魂のバイブレーションは国境を越えて伝わる。
ハルキが小説を書く理由は「個が持つ魂の尊厳を表に引き上げ、そこに光を当てること」なのだ。「壁と卵」スピーチで、そう語っている。
小説における物語の目的は警鐘を鳴らすことにあります。糸が私たちの魂を絡めとり、おとしめることを防ぐために、“システム”に対しては常に光があたるようにしつづけなくてはならないのです。小説家の仕事は、物語を書くことによって、一人ひとりがそれぞれに持つ魂の特性を明らかにしようとすることに他ならないと、私は信じています。
魂の有り様を描くとき、小説家の魂は振動して読者の魂に伝わる。
特に東アジアにおいては、欧米的ではない自然体の魂というベースがあるので、伝導率が高いのかもしれない……。これは僕の仮説であるが。


1995年、阪神大震災と地下鉄サリン事件を契機として、村上春樹は「デタッチメント(かかわりのなさ)からコミットメント(かかわり)へ」と作風を変えていった。

デタッチメントは、1968年にコミュニケーションを巡る暑苦しい冒険をした村上春樹にとって自己防衛のための生活の知恵だったのだろう。
そこから再びコミットメントを始めるために、小説家は深い井戸を掘り、底に降りる必要があった。
コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。 
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫P84)
いっしょにスクラムを組んでデモしようぜ、それシュプレヒコールだ! などという脳天気なコミットメントではない。
村上春樹は、徹底的に想像力を鍛錬してから壁を抜けたのだった。

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」とコミットメントした村上春樹。
最近のインタビューでは、「孤絶」を極めないと壁は越えられない、と提言している。
いったんどこまでも一人にならないと、他人と心を通わせることが本当にはできないと思う。理想主義は人と人とをつなぐものですが、それに達するには、本当にぎりぎりのところまで一人にならないと難しい。 
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
「コミュニケーションがないんだ!」と20歳のときに嘆いた青年は、現在、65歳。
ハルキは深い井戸に降りていき、また昇ってくる体力を身につけて、「魂が行き来する道筋」に物語を送り続けている。

それでも彼にとって、ある種の壁はまだ抜けきれてはいないようだ。中国という壁。

村上春樹が父から伝達された中国=「満州国」文脈について、ハルキの長年の読者である内田樹は以下のように推論している。
村上春樹における「中国」とは、「飲み込むことができないもの」なんです。自分は「中国」を飲み込めない、咀嚼(そしゃく)できないと。どうしても「中国」を飲み込めないトラウマ的な核がある。トラウマというのは、それを記述する言葉がない「虚の経験」のことですから、「それについて」書くことができません。できるのは「それが書く」ことだけです。その「虚の経験」そのものが、村上春樹という書き手をおしのけて、自分が語り出すというかたちにする他に、この「飲み込めないもの」が何なのか、どのような機能を果たしているのかは、わからない。
この長く、個人的な苦闘が村上春樹の文学的営為のひとつの通奏的な主題をなしているように僕には思えます。 
『街場の文体論』(内田樹/ミシマ社/2012年)P291
村上春樹の小説群が、中国大陸で広く受け入れられているのは事実である。読書の側からの壁は抜けているのかもしれない。


早稲田大学、讃岐、満州、そして「非現実的な夢想家」、僕とハルキの文脈は繋がっているようだ。一方的に、こちらからそう思っているだけだが。

村上春樹と違って、僕にはまだ咀嚼できないものが多数ある。
あたりまえだ。僕には孤絶する訓練が足りない。
それでもハルキ先輩のあとに続いている、と確信できることがある。
何よりもまず「忘れないこと」。忘れないことは僕にも自信がある。
でも、僕にはうまく表現できないのだけど、どんなに遠くに行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうかと。でも少なくとも僕はそれらがそこにあり、あったことを決して忘れないだろう。忘れないこと、それ以外に僕にできることはおそらくなにもないのだから。
『辺境・近境』(ノモンハンの鉄の墓場/P230)
僕は僕の1968年を忘れないし、1932年から1945年まで中国東北部にあった「満州国」で何が起こったかを忘れない。父も母も忘れたことがない。自らのソウルフードであるイリコ出汁のうどんの味も忘れたことがない。村上春樹の新作小説を予約することも……。

忘れないこと。それが壁を抜けていくための出発点だと思う。

壁は2014年11月現在、厳然として世界中に存在している。
日本列島においては「無関心(デタッチメント)」という壁である、と僕は思う。
他者の痛みに対して想像力を持たない無関心。「愛の反対は無関心」。

自分勝手な理由で総理大臣が解散権を行使しても、多くの人々は選挙に無関心に見える今日この頃。僕はなんだかとても悲観的である。

ところが、村上春樹は出発点でうろうろしている僕とは関係なく、はるか先に行こうとしている。

ハルキは、彼らが1968年に持っていた理想主義を新しい形に変換して若い世代に引き渡すことを追求し始めたようである。
僕らの世代は60年代後半に、世界は良くなっていくはずだというある種の理想主義を持っていました。ところが、今の若い人は世界が良くなるなどとは思わない、むしろ悪くなるだろうと思っています。もちろん、それほど簡単には言い切れないだろうけど、僕自身はある程度、人は楽観的になろうという姿勢を持たなくてはいけないと思っています。
「毎日新聞」(孤絶超え、理想主義へ/2014年11月3日)
柔らかい魂を内包した卵が壁をしなやかに通り抜けることができたら、世の中はいい方に向かっていくはずだ。
それは、最後の一葉が落ちても(根っこがしっかりしていれば)新芽は必ず生えてくるのと同じくらい楽観的な事実である。

文脈家だって、忘れないことから出発して井戸を掘り続けたら、いつかは豊かな水脈にたどりつくことができるかもしれない。静かに楽観しながら、手を動かし続けていくしかないな。

タフでなければ生きていけない、楽観的でなければ生きている資格がない。