2013年3月1日金曜日

文脈日記(ウメリー!物語がアートする)

ウメリー@上山集楽が無事終了した。

無事という意味はみっつある。
まずひとりの怪我人も出さなかったこと。
ふたつめは参加者全員がメリーな笑顔をしていたこと。
みっつめは僕とウメちゃんとかっちがやりたかったことをすべてやり切れたこと。



ウメリーは物語が集楽したアートである。

ウメリーには、それぞれの参加者が物語を持ち寄った。
それぞれの楽しいことを集めて集楽するとキモチのアートになる。

これからのアートはカタチの完成度を求めても意味がない。
キモチを繋いで物語の集楽度を極限まで求めるのが新しいアートだ。

ウメリーはソーシャル・アートの中でストーリー・アートという新しいジャンルを確立した。

アートはカタチからキモチへ。

これが水谷孝次さんと僕がウメリーを協創体験して出した結論である。



ストーリー・アートの現場では参加者全員がそれぞれの物語を共有し大きな笑顔をかたちづくっていく。

僕はウメリーの総合プロデューサとしての役目を果たせたことを幸せに思う。
そして、僕は僕のウメリー物語を記録に残したい。

NPO法人英田上山棚田団のコンテキスターとして、ウメリーの企画書を書いたのは2012年9月9日だった。

すべての事始めはウメちゃんがさいぼう庵裏山の竹を伐ったことである。
上山名物、「下から火付けとことん野焼き」の炎を夏空にぶち上げて、そこにかっちが梅を植樹したいと言いはじめる。

僕としては久しぶりにMerry Projectを上山でやりたかったので、すべてのコンテキストを繋いで企画書を書き始めた。

ウメちゃんがウメを植えてメリーがやってくる。
ウメとメリーなら、ウメリー、Umerry ! しかないな、と言霊はすぐに思いついた。

そして、フェースブック上では、僕とかっちの「うめりいいい!」呪文が始まる。

こういうのをマーケティング用語ではティーザー広告と言います。
情報をチラ見せするだけで本番では何をやるかを隠して、期待感を高め興味を持続させること。

でも、僕としてはそんな高尚な戦術をとっている気分ではなかった。何しろ上山のイベントは本番で何をやるかは最後まで決まらないのが普通なのだから。あえて隠す必要もないのです。



ということで、最終の企画書ができた1月8日には「ウメリー」は平屋から三階建てになってしまっていた。

ウメちゃんのウメリーに、まず僕が二階をつける。

11月9日に気仙沼で揚げたメリー空彦凧を上山に持ってきてウメリーを祝いたい。

被災地と上山を空彦で繋ぎたいので、よろしく!

上山棚田団と関わる者のマナーは「言うたらやる、自分でやる」である。
これはかなり厳しい話だ。
でも、だからといって言うことをやめないのが棚田団の凄味なのですね。

僕は仙台凧の会、庄子先生との交渉を始める。問題はこのメリー凧は単品凧ではなく、40枚が繋がった連凧だということだ。

被災地の子供たちの笑顔が繋がった連凧。
笑顔の下に宮城県の先生たちがメッセージを書きこんだ世界中でただひとつしかない凧なのだ。

この連凧を借りる了解はすぐにいただいた。
ただ、この凧を揚げるためには技術がいる。僕も上山の誰も凧揚げ技術は持っていない。

悩んでいた僕はフェースブックを眺める。そして、そこに凧揚げに関する投稿を見つけた。
百菜畑のこっひーがなんと凧揚げを趣味にしていた。凧つくり教室まで開いている。

喜んだ僕はさっそくこっひーにウメリーの企画書を送る。

上山で凧を上げたいのだけど、手伝ってくれないかな?
こっひーが上山に来られるのはいつ?

かつて僕がtwitterでかっちにナンパされたように、僕はこっひーを凧揚げ師としてfacebookでナンパした。
僕とこっひーは塩見直紀さんの半農半Xワークショップで一度顔を合わせただけだ。それでも塩見さんのX力で結ばれた縁は深くなる。



突然の上山凧上げ師指名に快く応えてくれたこっひーは上山デビューをする。
自作の凧と仙台から来た笑顔の単品凧を上山集楽の空高く上げてくれた。



1月12日に上山集楽で上がった1枚の凧がウメリーで上がった80枚の連凧に繋がったのだ。

1枚の次は40枚の連凧上げのリハーサルをしよう、僕が仙台から連凧を借りるから、みんなを集めるから。
こっひー、今度はいつ上山に来れる?

僕の執拗なお誘いにこっひーはまた乗ってくれた。

1月27日、仙台から届いた連凧を積んだフミメイ号は上山に向かう。
天気予報は全国的に雪。でも僕は上山の底力を信じていた。

青空の中で子供たちの笑顔が繋がる。メリーな空彦が舞い上がる。
そして、その下では全力疾走をしているチームがいた。

僕は情況を仙台に伝えるべくムービーを回す。
英田上山棚田団、みまさか梅の会、美作市役所、山陽放送のチーム力が風を起こした。




僕はこの日にウメリーの成功を確信する。
リハーサルに参加してくれた人がこんなに楽しそうなのだから。



すがる思いで「上山までどなたかお一人来ていただけませんか」とお願いした仙台凧の会からは三人で行きます、とのありがたい答えが返ってきていた。
庄子先生と吉田さん、林崎さん。仙台から上山までは七時間コースである。しかも交通費までご負担してもらった。
やっぱり東北の眉毛が太い男たちは志が高いのだ。



僕と棚田団理事いのっちはカフェになったいちょう庵でウメリーの話を広める。

物語の舞台は上山なのだ。村人たちの共感なしでは成功するはずがない。そういう意味では、ウメリー物語の脚本はいちょう庵で練られていったのだ。

毎週のようにいちょう庵に来てくれる「みまさか梅の会」のくんちゃんと話をしたのもいちょう庵だった。

くんちゃんはウメリーに入れ込んでいた。なぜなら、ウメリー二日目の英田小学校卒業記念植樹にはくんちゃんの孫も来るから。
孫のためにプロの写真屋を雇いたい、というくんちゃんに僕は言う。

写真は僕たちが撮りますよ、ご心配なく。
水谷さんというアート・ディレクターが東京から来てくれて、笑顔の傘を開きます。
植樹だけだと地味かもしれませんが、笑顔の傘はとても素敵な思い出になるはずですから。

それなら、凧も子供たちに上げさせてくれんかな。凧上げたら、ますますいい卒業記念になるで。

はい、分かりました、と僕は答える。
実はこの時点では二日目にはもう帰っている仙台凧の会ぬきで、連凧を上げる自信はなかったが。

こうして物語は積み上がっていく。



物事のプロデュースをしていくとき、僕はまず足し算をする。
そのイベントの理想形を頭の中でイメージする。目標からバックキャストをして成功へのプロセスを考え続ける。

そして現場に入ったら必ず引き算をせざるを得ない情況が出てくる。
その時は潔く引き算をする。現場で足し算は絶対にしてはいけない。
これが、電通時代にCMロケ現場の修羅場で培った僕の経験値だ。



ウメリーの三階はかっちが建て増した。

それならヘリも飛ばしましょう。
前から準備していた棚田ヘリポートのお披露目もウメリーでやったらものすごいことになります。
上山のおじんおばんを冥土の土産でヘリに乗せちゃいましょう。
ヘリできれいになったふるさとを見せてあげましょう。

さすがに、この足し算は厳しいかも、とプロデューサは思った。

でも、ここにはかっちの物語がある。
この五年間、上山棚田団の切り込み隊長として村人との信頼関係を積み上げてきたかっちのキモチも空に舞い上げる必要がある。

そしてヘリコを飛ばすのはまさにプロフェッショナルたちだった。

NPO法人市民航空災害支援センターの竹ちゃんと山ちゃん。
311直後に東北にヘリを飛ばして支援をしたパイロットたちだ。彼らは僕の経験とは比べものにならない本物の修羅場をくぐり抜けている。



そしてウメリー基礎部分の最終工事も進んでいく。
竹を伐って野焼きをしても、たくさんの参加者のために植樹現場はできるだけ整備する必要がある。

ウメちゃんのチェーンソーが唸る。



そして棚田団もさらなる野焼きをする。支え人がいるからこそウメリーなのだ。



聖子は野焼きも好きだが、棚田団の美術担当でもある。
どこかの広告代理店がやるプロダクションまかせのイベントではなく、ウメリーはすべてが手作りのイベントだ。

僕は美術担当の聖子にカンパ箱制作を依頼する。細かいディレクションはしない。
すべては聖子にお任せした。

完全無欠なウメリーなカンパ箱。ここに聖子の物語ができた。



このカンパ箱でウメリー子供代表のはなみが着飾る。
子供たちは「ウメリー未来物語」の序章になっていく。



僕はfacebook上に「ウメリー実行委員会」を立ち上げる。
そして勝手に役割分担を決めていく。プロダクションはなくても僕には協創する仲間たちがいる。

同時に公開されたウメリーfacebookイベントページには続々と参加表明が続く。
その勢いは100名を越えようとしている。
民泊の手配、食事の総数把握、食事材料の手配、いのっち理事長の頭脳がフル回転を始めた。

ウメの植樹とメリープロジェクト、メリー連凧上げ、さらには棚田ヘリコ。

三階建ての豪華イベントはこうして現場に突入した。



2月22日、僕はいのっちとともに上山に入る。

上山棚田団はコトを起こすときはfacebookで綿密な打ち合わせをしている。
だがスタンバイはスタンバイ、現場は現場だ。

現場至上主義者の集楽体である上山棚田団は現場での打ち合わせで集中力を高めていく。

オールスタッフ打ち合わせをするなどという余裕はない。常に走りながら物事を成し遂げていくのが棚田団の流儀だ。
その日に初めて会ったメンバーにもプロデューサ特権で役割をふっていく。facebookで繋がっている者どうしに遠慮は無用だ。

そして、僕にとって心強かったのは「進行統括」いっしょーの登場だった。彼は福山雅治のコンサートツアーで厳しいイベント現場を踏んできている。業界用語も通じるし。



ウメリーのすごいところは各方面のプロフェッショナルがさりげなくそこにいることだ。

ウメリーの果実をブランド化するためには梅酒ソムリエるってぃがいる。るってぃは植樹する梅の品種選定からみんなで梅植樹をした後のチェックまでプロならではの動きを見せてくれた。



上山集楽の密着取材を続ける半農半ディレクターのRSKおかぴー。
彼はリハでは連凧のヒモを持って全力疾走し、本番ではヘリコで凧揚げを空撮しつつ、地元おじん代表、みっちゃんとまさるさんのメリーな表情を撮ってくれた。



そして半農半バーテンダーにして突如、連凧ヒモ引き技師に指名されたヒデヤ。



ニューヨークから上山に流れてきたタップダンサーのアサキ。



このストーリー・アートはどうやらネバーエンディングストーリーとなったようだ。

そして明日のアクター、アクトレスたち。




2月23日、ウメリーの最終香盤表を現場で書いていた僕に思いがけないプレゼントが届いた。
聖子が僕に渡してくれたのはウメリー刻印だった。

上山に来れないシドがウメリーの成功を祈ってキモチをこめて篆刻(てんこく)してくれたものだ。

僕はこの瞬間からウメリー終了までシドのキモチをお守りにした。

そしてウメリー終了後、和気駅で僕はシドに Special Thanks ! メッセージを送る。

動画撮影してくれた能と合気道の達人、銅水は言う。

上山では異様に高いエネルギーを感じる。
そのエネルギーが乗り移ったあの連凧は龍のように見えた。



ウメリーは現場にいない者の物語も包みこんでいよいよそのカラーページを開いた。

僕は和気駅で仙台凧の会と水谷孝次さん、りょうこを待つ。
なんだか空を見上げたくなるような時間が流れていく。



日本を代表するアートディレクターの水谷孝次さんが来た。ミスターメリー、三度目の上山入りだ。

仙台凧の会が来た。七時間以上かけて上山さいぼう庵に来た凧揚げ侍たちはお茶の一杯を飲む間も惜しんで連凧揚げのリハーサルを始めた。

まったくすごいプロフェッショナルたちだ。少年の心で風を見つめることができる男たちだ。



しかも凧は80枚の笑顔が繋がっていた。80枚の被災地からのメッセージが繋がっていた。

そして風を読み切った仙台凧の会が、その練達の技でついに上山の空からウメリーを天に届けた。

僕は何よりも、ウメリーの思いが風に乗った瞬間をいのっちに見せられたのが嬉しかった。

棚田団おかんはでかいイベントの時、いつも食事担当で裏方に回ってしまう。
この日も夜にいちょう庵でやる村人のための縁会の準備に追われていたはずだ。



ヘリ試乗会の詳細は前日でも決まらない。
いちょう庵縁会の片隅で僕とパイロットは打ち合わせを続けていた。



やがて村を回って様々な調整をしてきたかっちが遅れて登場する。
彼は縁脈が繋がった同志たちに挨拶をするとき、声を詰まらせる。

そんなかっちを見ていると僕まで泣けてきてしまった。
そして修羅場ヘリパイロットの竹ちゃんに笑われてしまう。

ようやくヘリ運行の目処をつけ、ずっとモヤモヤしていた天気予報を振り切って僕は宣言する。

明日は晴れます。
なぜなら僕たちには天神様と上山権現がついているから。
うめりいいいいい!


2月24日、大阪からモーリーが手配したマイクロバスが到着する。
参加者が棚田を横断して植樹現場に近づいてくる。
このマイクロバスのドライバーもプロフェッショナルだった。



僕と水谷さんは気合いを入れる、もとい、笑顔を入れる。



上山棚田に三度目の笑顔の傘が開いた。



仙台凧の会の皆さんも植樹をした。
彼らは現場の一番上の穴を選んだ。僕はその位置を忘れない。



さいぼう庵までメリーウオークをして昼飯後はいよいよメリー連凧上げ本番だ。



僕はヘリコが舞い上がるタイミングを待つ。

だが、凧上げは風が最優先だ。棚田にカイト・ディレクター、庄子先生の声が響く。

ヘリコの軽快な音の下、メリー傘が開き80枚の笑顔が棚田の風とみんなのキモチに乗って空に舞う。


「子供たちの笑顔は未来への希望です。天まで届け被災地の思い!」

「Umerrrrrry! うめりいいいいいい!」

僕は叫んでいたらしい。



地上では凧揚げ師こっひーが飛びっ切りの笑顔を振りまいてくれた。



僕は仙台から来た凧揚げ侍たちに感謝をこめて拍手を贈る。



そして現場は棚田ヘリポートに移った。

棚田ヘリ、ウメリー号の試乗会。
地元の70歳以上の優先搭乗が終わったらウメリー参加者の搭乗だ。



僕はウメちゃん、庄子先生と最終便に搭乗する。仲間たちが手を振ってくれる。



このようにしてストーリー・アート、ウメリーの第一章は終わった。

美々と上山ゴロ-&めりいの笑顔とともに。
はじけるいのっちとやっしーの笑顔とともに。



2月25日。僕は新しいウメリー物語を発見した。

上山笑顔の撮影会。上山のおじんとおばんの家を訪ねる訪問笑顔撮影隊が村を回る。
隊長はかっち、カメラマンは水谷さんと上山棚田の歴史を撮り続けている高田昭雄さんという豪華メンバーだ。

その途中でくんちゃんと出会った。くんちゃんは僕に言う。

よう凧を上げてくれたな。ありがとう。

差し出されたくんちゃんの手を握りながら僕はまた上を向きたくなった。どうもこの物語は涙腺を刺激することが多い。



僕たちは笑顔の撮影隊だ。上山の笑顔を集楽していくとまたどんどん物語が積み上がっていく。

だが、ウメリーにはもう紙面がない。次のストーリー展開の予感を孕みながらウメリーは最終章のページをめくる。

最後の登場人物、英田上山小学校の卒業生と先生たちがウメリーの舞台に上がる。



植樹リーダーはもちろんウメちゃんだ。
みんなウメちゃんのようにメリーな大人になるのだよ。



卒業記念写真のカメラマンはウメリー現場にいる全員だった。
小学生の未来を担保するためにシャッターが切り続けられる。



あとはくんちゃんが熱望していた小学生の連凧上げだ。
残念ながら風が吹かないままタイムアップする。



でも、それでいいのだ。

「永久の未完成これ完成である」と宮澤賢治も言っている。
カタチではなくキモチのストーリー・アートに終章はない。

コンテキスターである僕はただ句読点を打つだけだ。
日本の春がウメリーから来たことを信じて。


だけどね、小さな声でウメリー物語のエンディングをささやきたくなってきた。

かっちが泣いたら僕も泣ける。
グロロが泣いたら僕も泣きそうになる。
こんな泣き虫たちの集楽的物語がウメリーだったとさ。




2013年2月16日土曜日

文脈日記(棚田団、農的生活の老舗に行く)

南房総にある鴨川自然王国といえば、農的生活の老舗です。
32年前に藤本敏夫さんが始めた多目的農園は今も半農半Xの最先端として全国から人と志を集めています。
当時も今もスローガンは「楽しくなきゃ人生じゃない。楽しくなきゃ王国じゃない」
英田上山棚田団の「楽しいことは正しいこと」と共通点がありますね。
加藤登紀子さんはこのコミュニティのことをこう語っています。

 亡くなった藤本敏夫が築いた鴨川自然王国。
 ここには、大切な「時間と空間」があると彼は言っていました。
 天水の田んぼ、四季の野菜を育てる畑、美しい里山の風景。
 生き生きとした未来を見つけるために、ともに農作業に汗を流し、
 たき火や食卓を囲んで語り合える、それが鴨川自然王国です。

鴨川自然王国と深く関わっている半農半ジャーナリストの高野孟さんが311後に始めたのが大山村塾(おおやまそんじゅく)。
鴨川山中の小さな会場に民主党元総理や自民党総裁候補が来たりする破天荒な場として注目を集め、現代の松下村塾と言われているところです。

この塾に塩見直紀さんの縁脈で棚田団が招かれました。塩見さんは英田上山棚田団の会員でもあり、毎年開催される「土と平和の祭典」で鴨川とも深い関わりがあります。

2013年2月9日、大山村塾第六回講演会。
「限界集落?限界は突破するためにある!競争社会から協創社会へ」

メイン講師は棚田団の切り込み隊長かっち(西口和雄)。そして協創LLP代表のボブ(原田明)。棚田団の常としてサポーターたちも走って行きます。かっちのナビゲーターお喜楽美々(西口しのぶ)、MLATのウメちゃん(梅谷真慈)、そしてコンテキスターのフミメイ(田中文夫)。

会場には続々と聴衆が来てくれます。地元のお年寄りとIターンの若者たち。その熱気の中でかっちがしゃべり始めました。

あの歴史的な野焼きの映像を流しながら、かっちが突然、声を詰まらせます。上山の長老が野焼き後の石垣を見て「生きているうちにまた見られるとは思わなかった」と泣いてくれたこと。そのことを思い出すと自分はいつも泣けてくること。かっちのテンションが上がっていきます。
話は、やりたいことを「やりゃええが」と認める上山地区住民とのエピソードへと続き、棚田団と村人たちの信頼資本の蓄積が聴衆たちの心に浸透していくようでした。


講演後はもちろん懇親会です。こちらも大勢の人たちに集まっていただき縁脈は次々と深まります。さらには竹藪の中の不思議な焼肉屋さんで夜の更けるまでご縁会は続きました。

半農半陶芸家、杉山春信さんのご自宅に泊めていただいた翌日も快晴。
旅する地域おこし協力犬、上山ゴローとめりぃを連れて、まずは杉山さんのCafé SASAYAへ。


木漏れ日の中で戯れる犬たちを見ながら、笹谷窯で焼いたカップで珈琲をいただくと「ああ鴨川に来てよかったな」という気持ちが込みあげてきます。

やっぱり空間つくりというのは地域つくりの基本なのですね。


杉山さんにおもてなしの御礼を言ったあとは、いよいよ憧れの鴨川自然王国訪問です。
道中に広がる棚田はすべて天水だと聞いて上山メンバーは「大芦池の水を分けてあげたいね」などとしゃべっているうちに、王国の山賊小屋から棚田を見下ろすときがきました。

東の王国を支える高野さんと西の王国を目指すかっち、このツーショットはもしかしたら歴史的な縁脈になるのかもしれません。


そして気持ちのいい山道を降りていくと、そこにも明るいCafé Enがありました。鴨川自然王国の縁と緑を繋ぐ光のあふれるテラス、そして藤本敏夫記念館。


なるほどここで数々の伝説が生まれたのだな、と感慨にふけっていると、そこにふらっと現れたのはYaeさん。加藤登紀子さんの次女であり半農半歌手です。


そしてYaeさんのパートナーであり農事組合鴨川自然王国代表理事の藤本博正さんも。
かっちと藤本さんはたちまち次の農的ビジネスについて熱く語り始めます。その後ろで藤本敏夫さんが未来を見とおしているような目をしていたことがとても印象的でした。そのまなざしが写真の中だけなのが残念です。


藤本夫妻と次は上山でお会いしましょう、という約束をして向かったのは「大山千枚田」。休日とあって次々と人が集まってきているのが棚田倶楽部です。そこから見下ろす棚田は確かに丁寧に人の手が入っている感じがします。


しかし、まだまだ見えるところにブッシュが残っていたりするのが少し残念、とかっちは大山千枚田保存会事務局長の浅田さんと話しあいを続けます。

かっちは今、全国各地に出かけて講演をしています。その旅は一過性のものではなく持続的な未来型のネットワークを繋ぐためのもの。ですからその地を訪れた時には、かっちの気づいたこと、かっちが気づかされたことを「知恵と知恵の物々交換」します。

とはいえ、棚田団のやることですから、決して堅苦しい雰囲気にはなりません。この日も思いがけないことがありました。近くでブルーベリー園を運営している池田さんから美々へ花束のプレゼント。房総の春が美々の腕の中で輝いていました。


次の交流場は半農半地球芸術家、林良樹さんのフィールドです。
彼は86歳の長老、栢尾(かやお)さんに導かれて鴨川に根を下ろしたとのこと。
「もうこれから二度と他所者という言葉は使わないことにしよう」を合い言葉にして若者たちとバカ者たちを受け入れる下地が鴨川の長老たちにはあったようです。


林さんの家の周りはまるごと311後の新しい暮らしの展示場でした。
コンポスト・トイレ、チキントラクター、キッチンガーデン、スローサンドフィルター、ロケットストーブ、とても刺激的なお話をぜひ上山でもしてほしいとお願いしました。


さらに林さんの案内でawanova(アワノバ)へ。
安房(あわ)の市場は毎月1回新月の日にオープンするオーガニック・コミュニティ・マーケット&カフェ。
この日がたまたま新月だったところにも棚田団の縁脈力の強さを感じます。
そこには講演を聞いてくださった方たちもいて、お褒めの言葉をいただき恐縮しました。


鴨川訪問の最後は池田ブルーベリー園です。
今、棚田団は上山に果樹を植樹していく計画を進めています。ウメちゃんがブルーベリーをもらえる話があって、その育て方を悩んでいたところでした。
そんなときに効率を求めず独自のノウハウでおいしいブルーベリーを育てている池田さんと出会うとは、なんだか上山神社のご加護がついているみたいですね。


今回の大山村塾と鴨川自然王国訪問では数々の「ここちよいおもてなし」をしていただきました。
それは老舗の日本旅館のように行き届いたおもてなしであり、棚田団は「気持ちいい」を連発してしまいました。

お世話になった皆様に感謝です。

鴨川自然王国には長い時間が紡ぎ出した確かな芯のような空間がありました。
その大切な「時間と空間」を共有させていただいたことを棚田団の今後の励みにしていきます。


藤本敏夫さんが政治的文脈から訣別してこの王国を設立したのは1981年。
2002年8月に藤本さんの最後のメッセージ「農的幸福論」が掲載された同じ本で塩見さんが初めて「半農半X」を提唱されたという奇跡のようなできごと。

その半農半X的縁脈史に英田上山棚田団が連なることができたことを誇りしたいに思います。


「プラスはいつかマイナスに、マイナスはいつかプラスに転換する。もう少し、プラスが行くところまで行き、マイナスが成熟するのを待たなあかん」
(故藤本敏夫さんの口癖)

2013年1月31日木曜日

文脈日記(本を出すということ)

2013年がスタートして一ヶ月だ。
だが、僕には正月気分は皆無だった。仕事始めも何もなく、いきなり書きたい書かねばという気持ちの中に突入していった。
そして、書いて書いて書きまくっている、と言えればいいのだけど、残念ながら遅筆状態なのである。えへん、と胸を張って言うことではないが。

「愛だ!上山棚田団~限界集落なんて言わせない!」
編著:協創LLP出版プロジェクト/発行:吉備人出版

もう皆さん、よくごぞんじの棚田団本が新展開している。吉備人出版のご厚意で続編を出版できることになった。

書かねばならない、と言っているのはそういうわけだ。
書けば本が出る、というありがたい状況になったのだから。

かつて僕は文脈研究所でこんなことを書いている。
「文脈日記(協創する大縁脈/序章のはじめに)」2012年8月31日

さて、このあたりで、ひとつ明確にしておこう。
「本を書きたい」と「本を出したい」の間には一線があるのだ。 
僕は本を書こうとしている。でも本を出す当てはない。 
この国の出版社は当然、ビジネスとして本を出版する。売れる見込みのある本を優先して出版していくのが原則だ。しかも紙の新刊本は1日に200冊も出てくる。貴重な熱帯雨林の木を消費しながら。 
出版社があり取次があり書店があり読者がいる。出版社の編集者自身が歪な構造という業界の中で、いわゆる商業出版をするのは至難の業だと思う。

こんな思いを抱きつつ、実は「本を書く」という行為をさぼっていた。
そこに飛びこんできたのが吉備人さんからの嬉しいオファーだ。

棚田団本第二巻は僕だけで書けるはずはない。
第一巻の敏腕編集長、原田ボブと天下無敵のアンカーマン、武吉きっちいとの共同執筆になる。

吉備人出版との打ち合わせとライター3人の意識あわせのために、まず僕は本の設計図をつくってみた。ものごとを始めるときには最終的なアウトプットのカタチから逆算した方が早いこともある。これは長い間、広告クリエーティブをやった経験値からも言えることである。

棚田団第二巻のアウトプットのカタチは以下だ。

体裁は46版。230ページ前後。写真と図版あり。口絵4ページ。
すなわち、ごく普通の大きさの単行本だ。たとえば10万部売れている山崎亮の「コミュニティデザイン」や曽根原久司の「日本の田舎は宝の山~農村起業のすすめ」のような本である。


1ページの文字組を47字×16行としたら、752文字。
それを230ページで掛けると172960文字。
400字詰め原稿用紙に換算すると432枚だ。

432枚はけっこうな量だ。こんな計算ばかりしていないで1行でも書いていった方がいいくらいの量だ。
しかも締め切りがある。第一巻と違って賞応募でもないし「できるだけ早く」という締め切りでもいいはずなのだが……

しかし、締切を設定しないと書けるはずがない。この文脈日記だって、自分に課した月末締切という約束があるから、あと2時間以内に書き上げることができるのだ。

電通のスター・クリエーターがかつて名言を吐いたことがある。
「締切は広告の母」

広告表現というアイデア消費量が膨大になる修羅場で第一線を張り続けるのは並大抵のことではない。企画アイデアを絞り出す最大の力はクライアントによって設定された締切だ、と彼は言っていた。

昔も今も僕はスター・クリエーターなどとはほど遠いし、これからもそんな者になれるはずもない。
それでも「締切は執筆の母」であることは間違いない。
締切は一応、3月末としている。梅の後に桜が咲く頃だ。

書くという行為には体力がいる。これは想像以上に体力がいる。
しかも書いているうちに1行目からは想像もつかなかった方向に展開していくこともある。僕のようなふつつか者のライターでも言霊の流れに翻弄されることはあるのだ。そして未熟な言霊使いほど収拾がつかなくなる。

その流されていく身に錨を打てるのが締切のありがたさなのだろう。

さらに棚田団第二巻の主人公は、あの上山集楽の面々だ。
あそこは出来事多様性の宝庫であり自立した個が協創ガバメントをする混沌の聖地だ。

締切がなければ、どこかで期限を切ってまとめに入らなければ身がもたない。
しかもその締切は早めに設定しておかないと、本が上山の現実に置き去りにされていく。

本というメディアは印刷所入稿から初版発行まで三ヶ月を要する。
本はそれだけの時間と決して安くはない制作費をかけてできるパッケージメディアだ。

だからこそ、本というメディアはステータスであり値打ちがあるのだ。

上山集楽で起こっていることをリアルタイムに伝えるメディアはソーシャルメディアが最適だ。
フェースブック上のオモロイをかぎつけてマスメディアが食いついてくる。そのマスメディアの報道をまたソーシャルメディアが拡散していく。

上山集楽は今、情報と共感が善循環しながら大きな渦をつくっている。
そこに新規投入される本というメディアの役割は重要だ。
この本で「オモロイ」を一区切りして「カタチ」にパッケージする必要がある。
そして、その「カタチ」は「オモロイ」ものでなければならない。
つまり書き手の実力が問われるわけである。

ねっ、書いているうちに言葉はどんどんひとり歩きしていくでしょ。
書けば書くほど、自分にプレッシャーをかけることにしかならないのにとまらない(笑w)。

今、よく売れている本はビジネス本と生き方啓蒙書だという。棚田団第二巻は残念ながらそのどちらのジャンルにも入らないものになると思う。

僕は棚田団第二巻を「よくできたノンフィクション」にしたい、と設計図で提案した。今のところ、出版社とライターの中で合意はできている。

上山集楽で起こっていることをライブ感覚で書くこと。しかも「なう」から一歩引いた視線で上山の志が向いている方向を明確に示すこと。「なう」を描きつつ何年経っても古くならない普遍性を持つこと。

ああ、またハードルを上げてしまった。
そういう本になるかならないかは、書いてみないと分からないのに。

でも僕たち3人のライターにアドバンテージがあるとしたら、外から上山集楽をあらためて取材しながら書くのではなく、それぞれが上山の現場を踏んで中からの視線はすでに獲得していることである。
たとえ無名のノンフィクションライターであろうともリアリティでは外部ライターに負けるはずはない。

現場での実践を何よりも大切にする人たちのことを書くためには執筆も現場至上主義になる必要がある。

僕は吉備人出版にライター3名で打ち合わせに行った直後に、こんな投稿をフェースブックにアップした。

小豆島で寝る前に書いておきたいこと。
今朝、坂出の家でうなされながら目覚めた。
こんな夢を見ていた。
僕はどうやら東大受験をしているらしい。そんなもの、実際には僕はしたことがないが。問題は動物の世話と草刈りに関することで僕にはその正解が分かっている。
でも、解答用紙が見当たらない。そのへんにあったポストイットを利用して解答用紙にしようとしているのだが、うまくいかない。時間は過ぎていく。どうしても解答用紙は見つからない。
うわあ~と声を上げて目覚める。
冷静に考えたらこんな夢を見た理由はすぐに分かる。
坂出の家は僕が受験生時代に過ごしたところだ。それなりに受験のプレッシャーはあったし。しかも昨日は、岡山の出版社と本の執筆に関して打ち合わせをした直後だった。どんな本にするのか設計図を書いて皆さんのアプルーバルはもらった。解答は分かっているのだ。しかし、その解答をどんな用紙に書けばいいのかはまだ分からない。
とりあえず書いてみるしかないのだ。
その本の主人公は現場至上主義者たちだ。したがって原稿も書いてみないと分からない。書くという現場の中で解答用紙を見つけるしかない。
書くという行為は僕にとって楽しいことだ。楽しいことは正しいことだ。だが、それはまったくもって楽なことではない。
2012年12月21日


こんなことばかりを書いていると吉備人出版の皆さんが「こいつほんまに書けるんかいな」と心配されるかもしれないな。

ならば「よくできたノンフィクション」とはなにか、という指針だけは明解にしておこう。



2012年第十回開高健ノンフィクション賞受賞作「エンジェルフライト国際霊柩送還士」
(佐々涼子/集英社)

これは泣けるノンフィクションだ。国際霊柩送還というコンテンツも泣けるし文体も泣ける。

国際霊柩送還という一見グローバルな命題を書き記すつもりでいて、そこに見えてきてしまうのはごくパーソナルな悲しみだった。 
たとえ大きな事件、事故の犠牲者であっても、帰ってくる時は、たったひとりの息子だったり、娘だったりするものだ。
山科の教えてくれた言葉にこんな一節がある。 
親を失うと過去を失う。
配偶者を失うと現在を失う。
子を失うと未来を失う。 
(P141)

そしてすぐれたノンフィクションならば、現実がその本を追いかけることもある。
アルジェリアで犠牲になった皆さんもきっと、この本の主人公たちによって国際霊柩送還されたのだと思う。

彼らはこれまでもずっと遺体を搬送し続けていた。
報道されるような大きな事件、事故には必ず彼らの働きがある。
災害時にも、紛争時にも、彼らは海外で亡くなった邦人とその遺族を助けてきた。 
カメラの前を何度も通っているはずなのに、誰も彼らに気を留める者はいない。
なぜなら死を扱う仕事だからだ。 
社会を本当に支えているのは誰か教えよう。海外で家族を亡くして悲嘆に暮れている時に、誰が力になってくれるかを教えよう。それは彼らのような人々だ。
そっと人々に寄り添い、そっと人々の前から消えていく、いつも忘れ去られる人々だ。 
(P270)

アルジェリアからお帰りになったご遺体を羽田空港で迎える写真を撮った記者も、もしかしたら、国際霊柩送還士のことを読んでいたのかもしれない。この件では僕も深く哀悼の意を表したい。


本の主人公たちと現実との関わりを伝えて、少しでも世の中をいい方向へ動かしていくアシストをするのが「よくできたノンフィクション」だと思う。

もう一冊、時代の文脈から生まれた「よくできたノンフィクション」がある。

「復興の書店」(稲泉連/小学館)


すべての本を愛する人たちのために書かれたノンフィクションだ。
311直後に被災した本屋さんが何を感じどう行動したかの記録はずしんと腹の底に響いてくる。

仙台はもう被災地じゃない、とよく言われるけれど、一見きれいになったこの街にも傷跡はたくさん残っています。 
それに心の中ではまだまだ震災が続いている。 
本の力を借りて、言葉の力を借りて、 
そして私たち自身が元気でいれば、誰かの涙を乾かすことくらいならできるんじゃないかな、って。 
(P117)

時代の潮目には「よくできたノンフィクション」も求められているのだ、と思う。

そして、必ずしもよくできているとは限らないライターには、またプレッシャーがかかっている。
そんな時、やはり救いになるのは「半農半X研究所」塩見直紀さんからもらった言葉だ。
しかもこの言葉は1年前のお正月にいただいている。

才能というのは、
研いでいないナイフのようなものだ。 
毎日、ただ毎日書き続ければ、
そのナイフを研ぐことができる。 
人によってナイフの大きさは違う。
しかし研いでみないことには、
そのナイフがどんな形なのかわからない。 
小さくてよく切れる果物ナイフなのか。
巨大な岩もまっぷたつに切り裂く大ぶりの刀なのか。 
才能のある・ないというのは
このナイフのサイズのことだ。 
大きな刀なら歴史的な大作が書けるだろう。
でも小さなナイフでも、本を買ってくれる人を
一晩夢中にさせる程度の作品を書くには充分だ。 
だからナイフのサイズが問題じゃない。
それが本当にナイフか、
つまり「研がれているか」どうかが問題なのだ。 
だから大事なことは、ナイフを研ぐこと。
毎日書くことである。 
(「才能」について/作家スティーブン・キング)

この1年間、僕は曲がりなりにもナイフを研いできたような気はする。
たぶん、それは小さなナイフだろう。
「よくできたノンフィクション」の先達のような感動作が書けるはずもない。

書いてみなければ分からないのだが、とりあえずの目標は「本を買ってくれる人を一晩夢中にさせる程度の作品」だな。

それでも今の僕には充分に高い目標値ではある。

でも書くと言ってしまったら書くしかない。
それが上山棚田団と関わってしまったもののマナーだから。

ありがたいことに時には有能なアシスタントが来て、僕といっしょにかっちかっちとキーボードを叩いてくれるし。


棚田団本第二巻が出版される初秋には、「復興の書店」を巡って、僕たちの本を置いてください、と書店営業をしたいな。

そんな妄想を抱きつつ、どうやら今年最初の文脈研究レポートは締切に間に合ったようだ。


2013年1月17日木曜日

たまには昔の話を

たまには昔の話をしよう。
1月12日に上山さいぼう庵に着いた直後に携帯が鳴った。
発信者は昔の仕事仲間。嫌な予感がした。用件は予想どおり。
江馬民夫さんが亡くなった。

電通でCMをつくっていた時代にとてもお世話になった人だ。享年82歳。
骨太のドキュメンタリーカメラマンから敏腕プロデューサに変身した江馬さん。
戦後のCM界の生き字引だった江馬さん。
宝塚映画といっても、もう分かる人はいないだろうな。
エマ・クリエーティブ、エマクリの江馬さん。もちろんもうこの会社もない。

サンミュージックの江馬さんといえば、業界人には分かるはずだ。
今はなき赤坂ホテルニュージャパンのロビーでデビュー前の松田聖子に江馬さんといっしょに会ったことがある。
江馬さんはその後、聖子の後見人的立場を長い間、続けていた。
僕は江馬さんと組んで、何本か若き日の聖子のCMを制作した。

そんな思い出よりも、江馬さんと僕はとにかく気があった。
なぜだかはいまだによく分からないが。
僕が結婚したときはハワイまで来ておめでたムービーを撮影してくれた。

その仲のよさが極まったのがアフリカ・ケニアロケだった。
1981年。そのとき、僕は29歳、江馬さんは49歳。

とっくに自分でカメラを回すことを止めていた江馬さんが、このロケではカメラマンになった。2台の16ミリカメラを持って最小スタッフでケニア奥地のトルカナ湖まで入る。
16ミリカメラのうち、1台はアリフレックス。もう1台は写真家・西宮正明さんにお借りした手巻きのボレックスだった。もちろんビデオではない。銀塩フィルムの16ミリだ。
厳しいロケ環境でバッテリーが充電できないことも考えて手巻きのムービーカメラ、ボレックスも持って行くことにした。

トルカナ湖でのロケの朝。江馬さんは湖のほとりにある井戸で顔を洗い、その水を飲む。
江馬さん、その水はやばい、と僕は思う。それでもプロデューサからカメラマンの面構えになった江馬さんは気にしない。

トルカナ集落での食事シーン、彼らが巨大魚ナイルパーチを捕獲するシーンと撮影は続いていく。
僕はボレックスのネジをギリギリ巻いて江馬さんに手渡す。江馬さんはカメラを手持ちで回していく。
江馬さんの気合いが現場を圧倒していたロケだった。そのCMとプロモーションムービーは僕の宝物だ。

トルカナ湖からナイロビまで、行きはヘリで飛んだ行程を帰りはクッションの悪い4駆で道なき道を行く。
僕と江馬さんにはある思惑があった。
クライアントからリクエストされた映像だけでなくアフリカ難民のドキュメンタリーを撮影しよう。
飢えて石を握りしめる人々の動きを追えるだけ追っていこう。
これはかなり無謀な話だった。遭遇するアフリカ難民のきつい視線と対峙してカメラを回し続ける江馬さん。
その日はついに宿がみつからなかった。たまたまたどりついた赤十字の施設に潜りこむ。
食料もない。荷物の中に残っていた撮影商品を食べてしまう。このロケは凄かった。

その後、僕が49歳になって、その時、少ししょぼくれていた自分と江馬さんを比較してみる。
49歳にしてケニアの地でカメラを回した江馬さんを思い出し自分を叱咤激励した。

江馬さんとはその後も長いつきあいが続く。忙しいCM撮影の合間に江馬さんはよく僕に言っていた。
「田中ちゃん、アフリカの16ミリはそのままエマクリにおいてあるんや。いつか編集しよな」

それが、僕の方の環境の変化で江馬さんと仕事をすることは次第に少なくなっていった。
「田中ちゃん、エマクリもう閉めようと思って倉庫を整理したけど、アフリカの16ミリ、どっかにいったみたいや。ごめんな」

江馬さん、そんなことはどうでもいいのです。
仕事が遠のいてもあなたは時々、僕のデスクに電話をかけてきてくれた。
電話を取った僕の部下は「いつもの変なおっさん」という感じで受話器を渡す。
僕は長話をした。

電通を脱藩してからもあなたは時々、電話をくれた。
「江馬でえす。田中ちゃん、どうしてるの。たまには電話ちょうだいよ。東京には来ないんか?」
僕は広告業界とは別の世界に行ってしまい、江馬さんにこちらから電話することもほとんどなくなった。

江馬さん、電話しなくてごめんな。
あなたといっしょにたくさんの仲間を見送ってきたとき、僕はいつも言っていたはずですよ。
「最後に全員を見送るのが江馬さんの役目やな。江馬さんはそう簡単にはくたばるはずないから」

江馬さん、僕はあなたを見送りに1月20日、五反田に行きます。
何度も何度も、深夜いっしょに通ったイマジカのすぐそばで見送ります。
江馬さんにはイマジカではなくて東洋現像所と言った方がよく似合いますね。

さようなら。合掌。