2012年4月30日月曜日

文脈日記(南相馬エクソダスなう)


福島県南相馬市、万葉ふれあいセンター。2012年3月31日。
「みんな共和国」が開催されている会場の受付では、レゲエミュージックが流れ続けていた。
どうやら子供たちの世話役の中にボブ・マーリーのファンがいるらしい。

EXODUS
Exodus, all right! Oo-oo-ooh! Oo-ooh!
Movement of Jah people! Oh, yeah!
 Exodus, エクソダス、脱出するねん!わしら動くねん!」

ボブ・マーリーは唄い続ける。レゲエのリズムに乗って会場には子供たちが増えてくる。
そこに協創LLPのメンバーもいた。深夜バスで大阪からたこ焼き道具を担いできた「笑顔のまさやん」、東近江の縁脈女王「つっつん」、そして我らが協創LLP代表、「ボブ基風」。

ボブ・マーリーが満ちている空間でボブが同志たちのニックネームを登録する。


 EXSODUS
So we gonna walk - all right! - through de roads of creation:
 「わしら、歩き始めな、そやねん、創造力でいてこましたるねん」

ちなみに「いてこます」とは大阪弁で「完遂する」という意味です、いい意味で。

南相馬のクソッタレな状況からエクソダス!脱出するために、最前線の皆さんは何を考えてどう行動しているのだろうか。
それを勉強するために僕は、また仙台空港に飛んだ。

きっかけは南相馬志縁の鬼、「東北コミュニティの未来・志縁プロジェクト」の中山ヒロちゃんだった。
春休みの南相馬で開催される「みんな共和国」に大阪からも参加しませんか、という招待が届いた。

 226に大阪で開催した「復興から見えるあなたの未来~愛の反対は無関心である」イベントに長駆、参加してくれたヒロちゃんに応えるべく、まず飛び出したのは「笑顔のまさやん」だった。

タコヤキストは行きまっせ、たこ焼き、南相馬の子供たちのために焼きまっせ、と言われたらコンテキスターとしては後に続かざるを得ない。

東松島は見てきたが、南相馬には「フクシマ」という異なる文脈がある。
「百の論よりひとつの現場」主義の僕としては行かないと発言ができない。しかも僕は311以来、フクシマ情報をキュレーションしてきている。

では行きます、とカミングアウトしたらヒロちゃんが追い打ちをかけてきた(笑w)。
それでは、「みんな共和国おとな大学」で大阪チームもプレゼンをして対話集会をしませんか、と。

最前線との対話? とんでもなく役不足な気もしたが僕は僕の現場をしゃべるしかない。

その対話集会の内容は「東北コミュニテイの未来・志縁プロジェクト」の活動レポート【047】を参考にしていただきたい。
僕のプレゼンパワポもリンクがあります。さらにはプレゼン映像のYOUTUBEまで・・・。

正直な話、僕の話がどこまで最前線の人たちに届いたのかは自信がない。
カシコのふりをしていても僕はアホなので、一方的に理念をしゃべり、最前線とはレイヤーが違った気が今でもしている。むしろアホのふりをしたカシコ、まさやんのリアリティある話の方がインパクトはあったのだろう。

アホとカシコ、この2軸対立を止揚するのは難しい、などとカシコ用語をまた使ってみる。
だが、まずアホが飛び出してくれないとカシコは動かない。これは歴然とした事実だ。


226イベントでの宿題になっていた「協創ガバナンス」とは? に対する回答もカシコ的理念的に言うならば以下のようになる。


これを理念ではなく現場的に言うならば「今、僕が、ここ南相馬にいること」が協創ガバナンスの成果だと思う、と僕は自分のプレゼンを締めくくった。

ヒロちゃんのご招待に、まずトップランナーのタコヤキスト笑顔のまさやんが飛び出した。まさやんが行くなら、と信頼資本財団の英ちゃんが時間をやりくりして南相馬でプレゼンしてくれる。

そしてタコヤキストとコンテキスターが行くなら住民代理店も行かねば、と盟友ボブが手を上げてくれたときは本当に心強かった。
さらに東近江から岐阜まで行ったら福島駅までの夜行バスに空きがあってしもた、と残念そうに(笑w)言いながら現れたプリンセス、つっつんの顔を見たときも癒やされた。

協創ガバナンスの神髄はサティシュ・クマールの「君あり、故に我あり」なのだ、と言ったら、すかさず「君たちがいて僕がいるう~」とよしもとのチャーリー浜で切り返してくるアホカシコ仲間がいると楽しいですね。
楽しいことは正しいことなのだ。楽なことではないけれど。

協創ガバナンスを表現しているつもりのパフォーマンスがどこまで南相馬の眉毛が太くて骨太の男達に受け入れられたのかは分からない、と自信をもって言おう。

だがLLP=「るるぷう」サインを指導するボブ代表に笑顔を見せてくれたことは苦笑いでも嬉しい。本当に東北の人たちってやさしいのです。


さて、そろそろ自分視線の話からまなざしを変えて、今回の東北行きを時系列で書きとめておきたい。まなざしの基準は日常性だ。311から一年以上経過して南相馬でも亘理でも東松島でも石巻でも日常性が維持されているのは間違いない。それぞれの文脈は違うが。

被災地の日常性を非被災地にいる僕たちが日々の生活の中で自分ゴトとして想像し続けることがなによりも大切なのである。

想像力が復興をリードするのだ。

このへんでお断りをしておきたいのだが、今回のエントリーは長文になります。
書く方も大変だが、読む方も大変だ。ゴールデン・ウィーク中の時間があるときにどうぞよろしくお願いします。一休みしつつ。


3月30日、仙台空港でボブと合流した僕はまず亘理(わたり)に向かう。
先月、マイファームのしあわせ黄色プロジェクトを探してさまよった浜吉田に再び菜の花を探しに行った。
残念ながらやはり今も緑はかけらもない、塩害にさらされた土地が延々と拡がるだけだ。ここが菜種を蒔いた場所だと思われるのだが。


しかし今回は「亘理いちごっこ」と縁脈を繋いでいた。代表の馬場照子さんと話しこんでいるうちに亘理の農に詳しいやっちゃんが現れた。彼女のご好意に甘えて僕たちは荒浜のガレキや農地の現状を案内してもらう。


やっちゃんの言葉がずしんと響いてくる。ふつうのおばはんやおっさんが被災地での重たい経験を経て、どんどん思考を深めているのが分かってくる。そういう意味では被災地と非被災地の格差はどんどん開いているのだ。

行政は浜からの距離で勝手に居住禁止区域を線引きしようとしている。私の家はその区域内だ。一直線に線引きされたほんの少し中だ。線引きの理由を尋ねると行政はシミュレーションとしか言わない。やっと高速道路の高架に避難するための階段をつけてくれたのだが、それは海側ではなく山側だった。また津波が来たときに避難する者の立場を考えたらあの階段はありえない。彼らには想像力がない。私は今、仮設に住んでいるが、昨日ボランティアさんにお風呂を貸してあげた。でも考えてみると狭い仮設に住んでいる私たちがお風呂を貸すよりも被災しなかった家に住んでいる人たちがお風呂に入れてあげるほうが快適なはずなのに。そのあたりの意識の差ができてますね。うちは農業関係者なので、塩害についてはいろいろ調べている。サツマイモのいろいろな品種を植えて除塩効果を調べている。やっぱりまだ塩辛い。ひとつ持って帰ってください。メガソーラーの話もあるけど、うちは農家だから。菜種を11月に蒔いたプロジェクトのことは知っている。確かに芽は出たみたい。でも全部、山からの風で吹き飛ばされたみたい。この辺で農業をするなら強風対策をしないと無理。確かにあの菜種の話は話題になりました。失敗したとは言いたくない。失敗したというと人が来なくなるから。とにかくここに人が来てほしい。耕作放棄地にしてなるものか、という人もいるけど、用水路も未整備で田んぼの水の流れも確保できない現状を見ていると私はときどき、自分に耕作放棄したらダメですか、と言ってみる。がんばりたくはないけど、負けたくもないという気持ちでやっているんだけど。あと気になるのは放射能。気になるけど測れない。もし測って放射能があったらみんなに迷惑をかけるから。

これが、福島第一原発から70キロの距離にある亘理町の文脈だ。
僕はやっちゃんの自宅にある畑で待望の菜の花を見た。今頃はあそこの畑で黄色い花が満開だろう。


70キロから30キロまで距離を詰めていく。
南相馬市鹿島区万葉ふれあいセンター。「みんな共和国」会場到着。
まずは南相馬の語り部、高村美春さんに会う。中山ヒロちゃんは昨年の3月、避難所で彼女に会ったことが東北志縁のきっかけになったと言う。

フクシマのカタリベはチェルノブイリに行った。
「おとな大学 市民が見たチェルノブイリ」、その報告会に30日夜は参加する。


カタリベは自分の25年後を見にいくためにチェルノブイリに行った。
そしてチェルノブイリで差別なく子供たちを育てたおばはんたちに抱きしめられて、大丈夫よ大丈夫よ、と言われて何度も涙を流したそうだ。
ちゃんと検査をして食べ物と水に気をつけること、ストレスの悪循環を絶つこと。

カタリベ、高村美春の名刺にはロシア語で名前が表記してある。
チェルノブイリ博物館にはもうフクシマのモニュメントができているそうだ。ヒロシマと並んで。

世界はフクシマを慈しんでいる。この列島の住民もフクシマへの想像力を失ってはならない。

そしてカタリベとチェルノブイリに同行した佐藤健太さん。「負けねど飯館!!」常任理事。
彼は飯館村の自宅の線量測定結果をチェルノブイリの科学者に提示して見解を聞いた。結果は残念であった。そしてベラルーシの古老と自らの身内を重ねる。


カタリベもケンタくんも明るい。その明るさがどこから来るのか、それを語るには僕はまだ役不足だ。

「市民が見たチェルノブイリ」のレポートは「人間はなんて愚かなんだろう」という言葉で終わった。

ロシアはベラルーシに新たな原発をつくろうとしている。


その夜は原ノ町駅に近いダイニングバー「だいこんや」のカウンターに行く。
ここは「みんな共和国」の企画者、つながろう南相馬!代表、プロのバーテンダーにして不屈のルアー釣師、須藤栄治さんの店だ。

店のメニューには肉料理も並んでいる。でも現在、肉食材は提供されていない。バーテンダーのこだわりがあるのだろう。

南相馬のプリンスはカウンターにこんなメッセージを置いていた。


被災地に限らず皆、日々の生活を必死に送っています。

このフレーズには救われる思いがする、というのは非被災地代表でもあるボブの発言だ。僕もまったく同感だ。
このバーテンダーは天性のプレゼンターでもあるようだ。
彼の主張もまたヒロちゃんレポート【047】対話2にくわしい。

カタリベ、ケンタ、プリンスはもの静かに語る。

JAPAN VOICES福島の声」を見てほしい。


331日朝、中山ヒロちゃんの車でまさやんとつっつんが来た。
まずは南相馬の馬追祭場へ行く。るるぷうポーズで気合いを入れる。


だが、その足下の枯葉に線量計を置くと、ぴぴぴと鳴って1マイクロシーベルトを超えていく。僕ははじめて線量計を見た。日常性の中にベクレルとシーベルトと線量計があるのが南相馬の文脈だ。


そして国道6号の封鎖線に行く。ここから南に20キロ行ったところに福島第一原発がある。僕はそこにあるものを想像しながら膨大な情報を読んできた。

「福島原発人災記」川村湊 現代書館
「世界一わかりやすい放射能の本当の話」別冊宝島編集部
「原発のウソ」小出裕明 扶桑社新書
「原発社会からの離脱」宮台真司×飯田哲也 講談社現代新書
「原発に頼らない社会へ」田中優 ランダムハウスジャパン
「福島の原発事故をめぐって」山本義隆 みすず書房
「津波と原発」佐野眞一 講談社
「『フクシマ』論 原子力ムラはなぜ生まれたのか」開沼博 青土社
「プロメテウスの罠」朝日新聞特別報道部 学研パブリッシング
「内部被曝の真実」児玉龍彦 幻冬舎新書

最後の本は南相馬市立図書館の貸し出しランキング2位だ。


これらの情報を頭に詰め込んで20キロの現場に行った。
やっぱりここが気になるので南相馬を出る日の朝もまた封鎖線に行ってしまった。
現在、20キロの警戒区域は解除になっているので、この風景はない。


まず検問バリケードがある。そこからカメラを90度振るとのどかな田園風景が拡がる。国道に直角に交わる川沿いを犬が散歩している。封鎖線に繋がる歩道にはカタリベの「花と希望を育てる会」が植えた花が咲いている。原発から20キロの日常がそこにある。



ということでようやくメインイベントの「たこ焼き」風景までたどりついた。(笑w)

「みんな共和国」は子供たちのためのイベントだ。子供たちは遊び、笑い、食べる。
大阪が誇るタコヤキストまさやんの真骨頂が発揮されるのだ。



タコヤキのコンテキストはコミュニケーションツールとしてある。しゃべりながら笑いながら焼きながらコミュニケーションしていくまさやんの周りに子供たちが集まってくる。


笑顔は世界共通のコミュニケーションだ。
タコヤキは世界屈指のマキコミュニケーションだ。
ヤキこむことで周りをマキこんでいく。ヤキコミュニケーションとも言える。


ヤキコミュニケーションの実現のために中山ヒロちゃんには絶妙な配慮をしていただいた。タコを会場近くの食料品店で仕入れるとき、タコはすでにたこ焼きサイズに切られていたのですね。その他にもきめ細かいお心遣い、本当にありがとうございました。


そしてヒロちゃんの縁脈炸裂はまだまだ続きがある。
この日の朝、深夜バスで大阪から福島に到着して、タコヤキコミュニケーションとプレゼンをこなしたまさやんはそのまま福島からの深夜バスで大阪に帰るべく旅立った。

彼を見送ってから、僕たちは南相馬除染研究所に向かった。

ヒロちゃんの手配でその例会の出席者名簿には僕とボブの名前が掲載されていた。この二人の場違い感は否めなかったが。
ここにも代表理事の高橋享平先生をはじめとするサムライたちがいた。

サムライたちの中でもひときわ眉毛が濃いのは専務局理事の箱崎亮三さん、ハコさんだ。箱崎林業の常務取締役にしてNPO法人実践まちづくりの理事長でもある。
彼のおとな大学でのプレゼンも現場の重みがあった。


ハコさんは「南相馬再生の考え方」として以下のように主張する。
我々は前例のない事態に取り組んでいる。南相馬には全世界が注目している。最先端の除染モデルは、今後、南相馬から世界に向けて発信されるのだ。311前にあたりまえであった世界に戻ることはもうできない。我々は311を超える「新しいあたりまえ」をつくっていかねばならない。そのためには、このひょっこりひょうたん島=日本列島がオール・ジャパンで取り組むべきだ。

新しいあたりまえ。ポスト311の日常性を語るとき、この言葉を想い浮かべるようにしよう。

非被災地にいる僕たちも「新しいあたりまえ」を想像しながら日常をおくりたい。
自分の現場で草刈りをしているとき、犬の散歩をしているとき、川に竿を出すとき、そこに目には見えないが生命とは相容れないものがあったとしたら、それをどう克服して「新しいあたりまえ」を創造するのか考え続けたい。


そして南相馬の長い一日は終わった。
41日、僕はボブと別れて東松島の根古仮設住宅に向かう。

先日のメリープロジェクトでお世話になった皆さんに、写真の紙焼きと311特別番組のDVDを届けるためだ。
もちろん郵便でもかまわなかったのだろう。でも僕は自治会長さんに「また来ます」と言ってしまった。それがどうした、と言われたらそれまでだが。

南相馬から6号線を北上してきた僕は東松島に着いたら、なんだかほっとしてしまった。
仮設住宅の談話室のテレビで楽天イーグルスを応援している皆さんとお茶菓子をいただきながら2時間以上、居座ってしまった。

東北新社「ニッポンの笑顔」特番をいっしょに見ているうちに話はやっぱり311体験になる。客人の僕を意識されたのかもしれない。

海から川を津波に乗って逆流して橋桁につかまったが、腕力が続かず手を離した。流れに下手に抵抗して体力を消耗したら死ぬと思った。1年近くたっても思いがけないところで遺体が見つかる。骨だけになっているが。南相馬馬追の馬を育てていた。馬術の先生をしていたので。津波で田んぼも牧場もなにもかもすべて流されてしまった。この前、日本農業新聞が来てインタビューされたが、写真を何枚も撮られて時間がかかって寒すぎた。

この日、僕は東松島では写真を1枚も撮っていない。身内の家に行ったような気分だったのだろう。

この日の東松島はまだ寒かった。ときどき吹雪いていた。
それでも僕はわざわざお見送りにきてくれた自治会長の奥さんに「春は来ますよ、春はもうすぐそこまで来ていますよ」と言って別れた。仙台の珈琲までお土産にいただいて。

さらに北上して、その日の泊まりは石巻にした。ここはまた東松島とは文脈がちがう。
なんだかビジネスマンが多い気がする。居酒屋でも「環境省が」的会話が聞こえてくる。

4月2日の朝、石巻市内を歩く。
石巻に来た目的のひとつはZENKON湯を見つけることだった。
香川県の有志たちが311直後に建築した善根の風呂。泥に埋まって風呂がなかった石巻に丸亀市から木の香りがするオリジナル・ユニット風呂を運んだ。延々とトラックの運転をして志を運んだ。


そこに1台のカメラがあった。泥まみれのペンタックス。
先日、このZENKON湯を建設した小豆島の井上タダヒロに聞いたところ、このカメラは、建設地点そばの溝から発見されてその時からここにあるそうだ。
311からの1年間を泥だらけの目で見続けてきたのだろう。竿にさりげなく掛けられつづけているカメラが善根の志をつないでいるのかもしれない。



さてどうしようか。僕は考えていた。この日の仙台空港発伊丹行き最終便に乗らなければいけない。決めた。とにかく行けるところまでさらに北上してみよう。

まずは大川小学校を目指す。津波直後の混沌が話題になったところだ。新北上大橋のたもとにその小学校はある。風景は荒涼としている。祭壇は花で埋まっている。


どうやらここは観光地になっているようだ。陸前高田市長、戸羽太氏が言うように観光でもいいから被災地を見るべきだ、という意見に僕も賛成だ。今日も大川小学校にはたくさんの人が訪れていることだろう。

ただ観光にも想像力を持ってほしい。今、自分が立っているこの土の下にたくさんの命が埋まっていたのかもしれない、ということを想いながら見てほしい。


大川小学校の崩れた壁には宮澤賢治がいた。

「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」
東北の小学生たちが想像した世界全体幸福を創造できる日はいつになるのだろうか。


大川小学校から南三陸に向けてさらに海岸線を北上する。
廃車の山、廃墟、それが日常の風景になってくる。

もうすこし走ればZENKON湯が最初に行った歌津だということは分かっていたが、その手前の志津川で力尽きた。

もう帰ろう。気仙沼と陸前高田には心を残しておこう。


「みんな共和国」は、ゴールデン・ウィークにも南相馬で建国中だ。


今、この瞬間にもまたボブ・マーリーは流れているだろうか。



ONE  LOVE
One Love! One Heart!
Let's get together and feel all right.

「愛はひとつ、ひとつの想いやねん。協創すればええねん」


想像力を創造力に転化するターニングポイント、今が時だ。


2012年3月24日土曜日

文脈日記(IN MY LIFE)


還暦を迎えた。さてどうするか。
と考える前に戦友を失った。 
電通時代に数々の現場をともにしてきた吉田新さん。
2012年3月1日帰天。享年63歳。

今や伝説となった日本最古のソウルバー、Geoge’s
六本木防衛庁正門の隣にあった狭いバーのカウンターで朝まで酔いつぶれていた日々。
二日酔いのバーボンの匂いが蘇る。


彼のおかげで修羅場をなんとか切り抜けて僕は脱藩までこぎつけた。

脱藩記念に新さんが僕の卒業映像を制作してくれた。
そのタイトルが「IN MY LIFE」だった。
ジョン・レノンの名曲からタイトルを借りている。

Some are dead and some are living,
  In my life I’ve loved them all.

死んでいる人も生きている人も僕は僕の人生の中ですべての人を愛してきたのだ。
こんなことはジョンのボーカルを借りなければ、恥ずかしくてとても言えませんよね。

こんなふうに僕は卒業映像のエンディングを締めくくった。そして吉田新プロデューサのOKをもらった。

その後、僕は彼に言った。
この映像は僕の人生の仮編集やで。脱藩してから本編集を始めるから、もういっぺん改訂作業をしたいな。

しかし、新さんとの編集作業は二度とできない。

予感はあった。彼の死の一ヶ月前には会っている。
お互い心の中で別れを言った。見送ったタクシーの窓を下ろして手を振ってくれた姿が忘れられない。

その時、彼は僕のことをうらやましい、と言った。
確かに脱藩してから僕は好き勝手なことをやっている。
彼だってまだまだたくさんのやりたいことがあったはずだ。その無念を思うとやりきれない。

僕は彼の無念さを背負って生きていくしかないのだろう。
彼の死から2週間後に僕は還暦を迎えた。

彼だけではない。
イン・マイ・ライフで別れてきた人々の限りない無念の上で僕の還暦というものは成り立っているのだと思う。

ならば時を惜しんで無念を抱いて前に行くしかない。たとえ方向音痴でも。

I know I’ll often stop and think about them.

しばしば立ち止まって彼らのことを思い出しながら。


 あれから1年が経った。僕の誕生日の2日前が311だ。

その日、僕は岡山にいた。いち@311という志の高いイベントに参加して移動している途中に半農半X研究所の塩見直紀/インスパイア365からメッセージが届いた。

数日前、こんなことばが浮かんできました。
持っている弾(たま)をすべて使え。
やりたいと思っていることがあるなら
いつかやれたらと、あとに置いておかず、
いま行うこと、使ってしまうこと。
弾がなくなったときはきっと
新しい弾を神さまが用意してくださいます。 
ぼくもあとにとっておかず、
撃っていきますね。 
今日は「書く」という観点からのまちづくり講座です。
これもおこないたいと思っていたことを
思いきって今年始めました。
 これで1発、弾がなくなったのではなく
さらに弾が装填された感じです。
塩見直紀さんのメッセージにはいつもインスパイアされる。思えば、1年前のあの頃には「善いことを決意すること」という彼のくれた言葉で救われた。
そうなのだ。弾を温存してもしかたがない。
還暦という折り返しを迎えた今、僕の人生だって持ち時間がどれだけ残っているのかは分からない。

ならば見る前に跳ぶしかない。
ただし60年の経験値で培われたほんの少しの予測能力は使いながら。

まずは供養から始めよう。


僕は来週末、被災地の南相馬に行こうとしている。正直に言うと少し気が重い。
フクシマに関してはあまりにも膨大で未整理な情報が僕の衰えを隠しきれないCPUに詰まっている。情報大洪水の中で判断停止状態だ。

自分をインスパイアするために一冊の本を手に取った。



里山哲学者、内山節。ずっと気になっていた人の著書を初めて読んだ。

すとんと納得できる記述が多い。
もしかしたら吉本隆明亡き後、地に足がついた思想家は内山節しかいないのかもしれない。もうひとりの内、内田樹とともに僕はしばらく彼らに寄り添うことにしよう。

内山の死者を見つめるまなざしは確かだ。

突然、死にまき込まれた者たちは、自分が死んだことを理解できずに苦しむ可能性がある。なぜ自分がこうなっているのかがわからないのである。 
だから葬式における弔辞のように、あなたは死んだのだということをはっきりと告げる必要があった。だがそれで終わりではなかった。 
つづいて人々は、死者とともにこれからの社会をつくっていくことを約束した。それは死者たちにこれからの社会づくりを見守ってほしいということでもあるし、自分たちの活動を支え、守ってほしいということでもある。あるいは死者たちの思いを忘れることなく社会をつくることの約束でもあった。 
つまり自然とともに社会をつくり、死者とともに社会をつくるという意志を明確にすることによって、だからこそ成仏してほしいと祈ったのである。 
伝統社会における復旧、復興の出発点はここにあった。具体的な復旧、復興計画の前に、これからの魂の世界のあり方を確認した。供養はそのために重要な、欠かすことのできない手続きであった。

また「復興から見えるあなたの未来」討論会に参加したとき、僕が感じたもやもやしたものに対するひとつの回答も示してくれている。

大きな災禍から復旧、復興への歩みがはじまるとすれば、その出発点にあるのは、魂の諒解、魂の次元での折り合いなのではないだろうか。 
直接的な被災者でなかった人々も同じことだろう。魂の次元で被災者とともに生きようと諒解した人々は、自分のできることを探した。知性の次元で考えれば、被災者とともに生きるとはどうすることなのかはよくわからない。しかし、多くの人たちが今回の大震災では、魂の次元で被災者とともに生きようと考えた。 
出発点は魂の折り合いであり、諒解なのである。だから頭で考えただけの復興の計画を聞かされても、誰もが空々しく、あるいは虚しく感じる。そんな感じをいだいている人も多いだろう。それは魂の諒解を伴わない復興計画からしみ出てくる虚しさである。 
そして、だからこそ原発事故という文明の災禍は大変なのである。はたしてこの問題において、魂の次元での折り合いや諒解はありうるのだろうか。

引用を続けていると一冊丸ごと引用してしまいそうだ(笑w)。

内山節のキーワードに「復興は関係性の再創造」だというものがある。

僕の解釈ではここで言う復興とは被災地のことに限らない。
この愛おしい山河が連なる列島の復興、さまざまな事情と折り合いをつけながら生きようとしている人々ひとりひとりの復興、そしてなによりも自分自身の復興のことだ。

関係性を再創造するためには協創する必要がある。

これこそが還暦後の僕が目指すべきベクトルなのでしょうね。

脱藩後にコンテキスターと名乗ったのも、自らを取り巻く文脈の「関係性」を再構築したかったからかもしれない。

還暦に至るまで僕の人生というものは本能のままに走ってきたような気がする。

 そしていつのまにか今日まで来てしまった。
それは僕の関係性を支えてくれたたくさんの人たちのおかげだろう。
生きている人も死んでいる人も含めて。

前に行くためには還暦という一区切りで彼らに御礼を言う必要がある。
直接言える人ももう二度と言えない人もいる。
恥ずかしくて面と向かって言えない人もいる。

IN MY LIFE、それらすべての人にありがとう。









2012年2月29日水曜日

文脈日記(復興から見えるあなたの未来)

2月17日から20日、はじめて被災地に入った。
遅いと言われたら、そうですね、と応えるしかない。311以来、多くの震災情報に接して自分なりのキュレーションをしてきた。

なのに、なかなか被災地に行く踏ん切りがつかなかった。

怖かったのだ、と思う。
行くと引き返すことができない。物理的に帰ってこれない、という意味ではなく心が帰ってこれない、と思っていたのだ。
しかしながら、フミメイと呼ばれ始めて一年以上が経ち、自分なりのアンガージュマン(社会的自己投企)を続けてきた今となって怖がってもしかたがない。

そもそも心の帰る場所ってどこだ?

地球上のどこにあっても僕の心は「ぼんやりした不安」の中で浮遊し続けるしかない。

踏ん切りをつけるなら今だ。
そして被災地に行くなら、やはり水谷孝次さんとともに行きたい。

この現場に行って水谷さんのお手伝いをすることに決めた。

さらに踏ん切りに加速をつけてくれたことがある。
2月26日に「復興から見えるあなたの未来~愛の反対は無関心である」というイベントを協創LLPと信頼資本財団の共催で実施することが決定した。
そこでの現場報告をするためにも東北に行くべきだった。



まだまだ東北の被災地に行ったことがない人は多いだろう。
僕自身もこの時期になってから、わずか4日間の経験をしただけだ。
311から1年が経過した現時点では被災地に行くことが復興のすべてではないはずだ。
自分の現場で自分の未来を復興することが被災地の復興にもつながると思う。

この列島の復興現場では様々な出来事が渦巻いている。
人は「出来事多様性」の中で、それぞれの事情を抱えて生きている。
それぞれの日常性の中で想像力と創造力だけは失わずに「足が絡まっても踊り続ける」のが自分に何ができるかを復興する道のはずである。

これが「復興から見えるあなたの未来」全員参加討論会を経験した僕の実感だ。
参加者たちの未来を見るための意思を持続するために、今もfacebook上で討論は続いている。




そして僕は自分の志を持続させるためにも僕の被災地レポートを書きたいと思う。

そこに行く前にまず自分の立ち位置を明確にしようと決めた。
僕のそれはメリープロジェクトとマイファームだ。
まずは東松島の仮設住宅で笑顔の傘を開くお手伝いをすること。
それからマイファームの一員として西辻一真社長が志縁している「しあわせきいろプロジェクト」を見てくること。

2月17日、アプローチは仙台空港からだった。
レンタカーを借りて方向音痴の僕は右も東も分からないまま走り出す。

まずは閖上(ゆりあげ)に行きたかった。
昨年の3月13日にここで撮影されたガレキの前で膝を抱えて泣いている女性の写真が忘れられなかった。

仙台空港から海に向かって10分ほど走ると閖上港のそばには広大な更地が展開している。

ずっと映像や写真で被災地を見てきた。それはフレームで切り取られた世界だ。そのフレームを切った撮影者の意図の中で被災地を見てきたわけになる。
あるがままにフレームなしで目の前の光景を見る時、感じることは人それぞれだろう。

何もない。つまり片付いている。更地を見てそう感じる人もいていいはずだ。



何もない。つまり底なしの虚無がある。僕はそう感じた。


ただしこれは僕の視座だ。僕のフレームで切り取った光景だ。自分のまなざしを押し売りする気はまったくない。そもそもいちばん悲惨な光景を僕は見ていないのだから。





翌日は東京から来る水谷さんと東松島市野蒜(のびる)のかんぽの宿で待ち合わせをしていた。風光明媚のシンボルであったと思われる建物は青空と強風の中で喪失感を宿している。


東松島市は市街地の6割が浸水し、全壊4589棟。死者1042人、行方不明者112人。つまり1042話の物語が終了し、112話のストーリーが閉じようもなくなったということだ。

今回、水谷さんが東松島に来た目的のひとつは彼が笑顔を撮影した人々と再会することであった。一度だけの出会いではなく笑顔の持続性を求め続けること、それが水谷さんの凄味だ。


避難所であり遺体安置所でもあったという小野市民センターは時々雪が舞い、強風だった。
それでもミスターメリーがカメラを向けると少女たちははじけていく。


その後は根古地区の仮設住宅へ。自治会長の菅井さんご夫妻はたくさんの写真までも失いご自分の笑顔の写真が本当に嬉しそうだった。


2月19日、メリー東松島の本番。朝から続々と子供たちと被災した皆さんが集まってくる。笑顔の傘を持っていただき、水谷さんの「子供たちの笑顔は未来への希望です。みなさんの笑顔も未来への希望です」という呼びかけで、いっせいに笑顔の傘を開く。いつものメリーの始まりだ。


いつものメリーではなかった。僕は興奮していた。カメラを構えていても何を撮っているのか自分でよく分からなかった。

D社時代にもいろいろなロケを経験し、メリープロジェクトにも何度も参加している。
それでも今回のメリーは涙が出そうになった。

東松島が失ったものの大きさとそこに笑顔を届け続ける水谷さんのやさしさのせいだろう。


この写真の真ん中で手を振っている大友昭子さんは「根古仮設、サイコウ!笑顔、サイコウ!」と言っている。
仮設住宅にいる皆さんはご自分が見たものを語りたがっている。

大友さんは言う。

忘れられるのがいやだ。東松島にはメディアが来ない。私たちの話を聞いてほしい。鳥羽一郎も来てほしい。「津波なんか来たことねえだど」という耳の聞こえないじいさまを馬のように軽トラの荷台にほうりこんで逃げた。津波は黒い壁のようだった。浜市小学校の三階まで水が来た。小学校ででじいさまは腹へったあ、水のみてえ、おしっこだあ、戦争よりひでえ、と言った。戦争の時は家が残った。お金や薬を取りに帰った人は亡くなった。屋根に乗って流されている、てるおさんにおいでー、と言った。助けてけろーと答えたがそれきりだった。浜市小学校から鳴子温泉に行って20日ぶりにお風呂に入って涙がこぼれた。こんなに人にしてもらってよかった。自分は一度死んだ人間だから人生はこれからだ。


高橋和枝さんはメリーが終了しても笑顔の傘を渡してくれなかった。これは私が運ぶ、と言い張って重い傘を運んでくれた。

彼女の四畳半に上がり込んでチョコレートをもらいながら聞いたこと。

車のまま津波に呑み込まれた。重い大きな車なので底に沈んだ。上を見上げると船外機の船が通過していた。やがて車が浮上したが、渦に巻き込まれた。そのままプレハブに流れ着いた。どこかのおじさんが外から車の窓を丸太で割ってくれた。同乗していた90歳のじいさまと87歳のばあさまを先に押し出す時に手を深く切った。傷みはまったく感じなかった。プレハブにティッシュの箱があってティッシュで傷を押さえてサランラップで包んだ。そのプレハブには毛布や布団がたくさんあったので本当に助かった。



東松島は可憐なところなのですよ、と水谷さんは語り始めた。
確かに東の石巻、西の松島に挟まれて、あまり注目を浴びずにじっと我慢しているような雰囲気がある。
フミメイさんにはぜひ東松島をもっと見てほしい、というおすすめにしたがって二人で海の方に車を走らせる。

そこに浜市小学校があった。


まだガレキの匂いがする校舎の時計は14時50分で止まっていた。時を動かすのはこれからだ。時を動かすのは僕たちだ。僕たちが何をするかを小学校の熊と鹿が見ている。



浜市小学校の先には3000台の車が横たわる場所があった。



そこからさらに荒野を奥に入り、堤防を越えるとのどかな海がある。カレイを狙う釣り人が一人。

300におよぶご遺体が打ち寄せられたというこの浜で自然の時は確実に動いていた。


2月20日は仙台方面に戻って亘理(わたり)に入った。
ここも何もない。マイファーム西辻社長が菜の花の種80キロを蒔いた地点を探し続けるが分からない。ガレキの片付けに来ていた地元のおじさんに案内してもらっても分からない。

緑のかけらもない。ただトラクターの残骸があるだけだった。


元は豊かな農地であり、140軒の家が12メーターの津波で流された土地で何かを探して歩き続ける僕を地元のおじさんたちは「土地買い」と見ていたらしい。

僕にそんな甲斐性はないが、春になって黄色い花が一面に咲いたらマイファームの志を買いにまたここに来てみたい。
農をベースにした復興も未来を目に見えるカタチにしてくれるはずだ。

亘理町に心を残したままタイムアップで僕は仙台空港から大阪に帰ってきた。

その翌日、東松島根古仮設住宅の自治会長、菅井さんに紙焼き写真をお送りする。ご丁寧な御礼のお電話を頂戴した。

どうやら僕は東松島の根古に根っこをつくったようだ。



2012年1月25日水曜日

文脈日記(デジタル・コンミューンの時代)

スティーブ・ジョブズの公式伝記(ウァルター・アイザックソン著)をようやく読了した。
もちろんiPadで。ジョブズが望んだかたちで。

この電子読書は、僕にかなりの刺激を与えてくれた。
ジョブズについては世界中のアップル・ファンがありとあらゆることを語りつくしている。今さら僕などが新たに語ることはないだろう、と思っていたのだが、そうでもないらしい。

僕もジョブズについて語ることがある。
それは彼より3歳年上でアメリカ西海岸のカウンター・カルチャーを太平洋の彼方から垣間見ていた自分の文脈からだ。コンテキスターとしての務めを果たそう。




1970年に僕が早稲田大学に入った頃、全共闘という大きな流れがあった。LOC(ラスト・オキュパイド・チルドレン)として全共闘といかに関わったかは、このエントリーを読んでほしい。しかし、あの疾風怒濤の時代にあったのは全共闘だけではない。

既存のものにNO!と言ったのは政治の世界だけではなかったのだ。
反体制と言わなければ生きている資格がない、でも反体制で政治的アンガージュマンをするのは嫌だ、と考えていた若者たちが語ったキーワードがある。

ヒッピー・レボリューション、フラワーチルドレン、カウンターカルチャー、アンダーグラウンド、ホール・アース・カタログ、そしてコンミューン。

日本ではヒッピーのことをフーテンなどと言った。新宿の風月堂あたりはフーテンたちの溜まり場だったのですね。
早稲田の貧乏学生で何をするのも中途半端だった僕は全共闘にもフーテンにもなりきれずに合成酒という恐るべき日本酒でふらふらと酔っ払っていた覚えがある。



ジョブズが大好きだった「ホール・アース・カタログ」については、1971年頃に英語版の情報を見ていたような気もする。でもはっきりとこの本の存在を意識したのは宝島社の「全都市カタログ」を通じてだったと思う。このあたりは大学時代の友人でサブ・カルチャーの雄、S君にあらためて訊いてみたいところだ。



「ホール・アース・カタログ」のことを長い年月が経ってから思い出したのは2010年にD社を脱藩する直前、最後の仕事に関わったときだった。
関西の人たちにはおなじみのFM COCOLOの第二の開局キャンペーン。
あのステーションの「WHOLE EARTH STATION」というコンセプトは「WHOLE EARTH CATALOG」から来ている。
ステーションロゴで「Stay hungry, Stay foolish」と繰り返しているのも「ホール・アース・カタログ」へのオマージュである。
「貪欲であれ愚直であれ」というメッセージはジョブズの死とともに、また有名になったが、元々は「WHOLE EARTH EPILOG」、シリーズ最終版の裏表紙にあったのですね。

脱藩するとき、仲間たちからiPhoneをプレゼントされ、その直後、iPadも手に入れた時、僕はジョブズが遺した「めちゃくちゃすごい」製品たちは21世紀のホール・アース・カタログだということが直感的に分かった。

「ホール・アース・カタログ」のコンセプトは「access to tools」、道具への近道だ。
ジョブズの創ったデジタル・ハブは今やクラウドにあるすべての道具=情報にアクセスできるようになった。
アートとテクノロジーの交差点でついにデジタル技術は人間の心友になったのだ。



WHOLE EARTH EPILOG 」が発刊されたのは1974年。ジョブズはその頃、ポートランド郊外のオールワンファームというリンゴ農園でコンミューン生活をしていた。大好きなこの本はいつも持っていたという。

ホール・アース・カタログの発行者、スチュアート・ブランドは創刊号にこう書いている。
以下、スティーブ・ジョブズ公式伝記から引用をさせていただく。
「自分だけの個人的な力の世界が生まれようとしている…個人が自らを教育する力、自らのインスプレーションを発見する力、自らの環境を形成する力、そして、興味を示してくれる人、誰とでも自らの冒険的体験を共有する力の世界だ。このプロセスに資するツールを探し、世の中に普及させる…それがホールアースカタログである」
これは1968年に書かれた文章だ。
2012年、ポスト311の世界で「自立した個の群れ」が草の根で連帯する村楽LLPの同志たちのあり方に似ていることに驚く。

そして自立した個の群れが冒険的体験を共有する武器として彼らはiPhoneとiPadを駆使している。
ホールアースカタログが理念を語り、スティーブ・ジョブズが具現化した道具はこの列島の明日を変えるかもしれない。




もうひとつのキーワード、コンミューンについて語ろう。
辞典による定義は以下である。

《大辞林》
コミューン【(フランス)commune】[コンミューンとも。誓約団体の意]
・共同体。
・中世ヨーロッパで、領主・国王から住民による自治を許されたいた都市。
・フランス、イタリアなどで、市町村にあたる地方行政の最小区画。
・パリコミューンの略
《はてなキーワード電子辞典》
生活基盤を共有しつつ生活する複数の家族のありかたを言う。かつての「ヒッピー」(自称・部族)の人たちも実践していた。

体制から統治(ガバナンス)されるのではなく、メンバーが自らを統治する地域共同体がコンミューンである。

そうであるならば、今、地域おこしの現場でポリシーとしてささやかれている「協創ガバナンス」はコンミューンの大原則となるのだろう。

上からの統治を拒否して同志たちと協力して生活基盤を創りあげ自分で自分を統治することができれば、本当にメリーな暮らしができると思う。

考えてみれば、上山集楽もある種のコンミューンなのですかね。
ただ、コンミューンという言葉には様々な歴史的政治的コンテキストが付随することが多いので使用上の注意がある。

ジョブズがThink Differentな発想を生涯貫きとおす原体験となったリンゴ農園でのコンミューン生活は公式伝記には以下のように記されている。

この農園の名前はオールワンファームというネーミングだったこと。
悟りを求める人々が週末を過ごす場所としたこと。
母屋と大きな納屋のほか、庭には小屋があったこと。
ジョブズはグラベンスタインというリンゴの木を剪定する作業を担当して農園を復活したこと。

あまり詳しいとはいえないこれらの記述を読む限り、ここは農をベースにして東洋的な精神修養をする場所だったらしい。ただし創設者が事業色を強めすぎて問題が起こったようだ。

僕にとってもコンミューンはほろ苦い。
コミューンのことを僕はコンミューンと言う。それは自身のささやかな体験に基づいている。
ジョブズがオールワンファームにいた時代の少し前、1972年頃に僕も「備北コンミューン」というところに短期滞在したことがある。
たぶん岡山県津山市あたりの中山間地にあったのだろう。
D社に入る時に、そのときの記憶は封印してしまったので正確な場所は分からない。このコンミューンで何をやっていたのかも定かではない。なんだか夏休みの合宿だったような雰囲気だけは覚えているが。

たまたま今、隣の美作市に足繁く通っているのは不思議な偶然だ。

あの頃は政治的な動きからドロップアウトした学生がコンミューンで共同生活をする、というムーブメントが日本にもあった。
ちなみに村上春樹の「1Q84」に登場する農業コンミューンはその流れがモデルになっているようだ。小説の中ではカルト教団に方向転換してしまうが。

コンミューンというコンテキストにまつわる様々な事象について詳細に語るのは、ここでもニワカ体験しかしていない僕には荷が重い。

ただ言えることは、コンミューンという言葉はLOC世代の僕にとっては「理想郷」という意味合いを持っていることだ。
WHOLE EARTH CATALOG」 の項目にはcommunityがあり、そのトップコンテンツはThe Modern Utopianとある。




コミュニティの理想郷を夢見るという文脈は当時からあったのだろう。

まるで見果てぬ夢を見ているような話なのだが、スティーブ・ジョブズの道具たちとコンミューンとの関係性を繋ぐ努力はしてみたい。

いつのまにかiPhoneとiPadが体液を循環させるツールになってしまい、しかもかろうじてホールアースカタログ世代でもある還暦ドラゴンには、その義務があると思う。

今、この瞬間にも二つの道具を座右において、facebookとtwitterを横目でにらみながらこのエントリーを書いている僕の中で、ある妄想が頭をもたげてきた。

ソーシャル・メディアはデジタル・コンミューンだ。

そのデジタル・コンミューンに参加する近道がジョブズの愛したデバイスたちなのである。

スティーブ・ジョブズは「デジタルハブ」という構想を今世紀の初めに打ち出している。
その流れにしたがい自分の手の中にあるデバイスが電話、音楽、写真、動画などすべてのコンテンツのハブになるという理想郷を実現した。

そしてジョブズの道具の進化と同時進行してきたのがソーシャル・メディアだ。

今や世界は二種類の人間に分かれている。ソーシャル・メディアを友とする人と拒否する人。
ちなみにソーシャル・メディアを拒否する人はマスコミ関係者に多い。彼らは自らを情報強者だと思い込んでいるからだ。この点についてはまた宿題にしておこう。

iPhoneとiPadでソーシャルメディアするときの利便性は、それらのユーザーには自明のことである。アップルのデバイスはエンド・ツー・エンドで閉じられた世界だが、その先には無限の可能性を持ったオープンでフラットなクラウドが待っている。

現時点ではクラウドの中で最大のコミュニティを形成しているfacebookは、デジタル・コンミューンの塊だと言えるだろう。

コンミューンの本質は「協創ガバナンス」だ。
仲間と協力して新しい時代を創る、自分たちによる自分たちのための統治共同体である。
行政主導とは対極にある。

またそこでの情報の流れはマスメディアとも対極にある。上から下へ、ではなく、横から横へ。

そしてデジタル世界のコンミューンは地理的制約を超えて複層的に捉えることができる。
たとえば農をベースにしたコンミューンはこの列島の各地に燎原の火のように拡がっている。
ソーシャル・メディアの中ではそれらの動きが複雑に絡み合い、デジタル・コンミューンとして一定の方向性を持ち始めているような気がする。

もちろん311以降の閉塞情況を打破する方向だと信じたい。

コンミューンをコンテキストに持ち続け、ホール・アース・カタログをデジタルの世界で完成させた男、スティーブ・ジョブズ。

1984年にビッグブラザーにハンマーを投げつけ世界を変えた男の遺志は無限に拡がるデジタル・コンミューンの中で確実に引き継がれている。