2012年3月24日土曜日

文脈日記(IN MY LIFE)


還暦を迎えた。さてどうするか。
と考える前に戦友を失った。 
電通時代に数々の現場をともにしてきた吉田新さん。
2012年3月1日帰天。享年63歳。

今や伝説となった日本最古のソウルバー、Geoge’s
六本木防衛庁正門の隣にあった狭いバーのカウンターで朝まで酔いつぶれていた日々。
二日酔いのバーボンの匂いが蘇る。


彼のおかげで修羅場をなんとか切り抜けて僕は脱藩までこぎつけた。

脱藩記念に新さんが僕の卒業映像を制作してくれた。
そのタイトルが「IN MY LIFE」だった。
ジョン・レノンの名曲からタイトルを借りている。

Some are dead and some are living,
  In my life I’ve loved them all.

死んでいる人も生きている人も僕は僕の人生の中ですべての人を愛してきたのだ。
こんなことはジョンのボーカルを借りなければ、恥ずかしくてとても言えませんよね。

こんなふうに僕は卒業映像のエンディングを締めくくった。そして吉田新プロデューサのOKをもらった。

その後、僕は彼に言った。
この映像は僕の人生の仮編集やで。脱藩してから本編集を始めるから、もういっぺん改訂作業をしたいな。

しかし、新さんとの編集作業は二度とできない。

予感はあった。彼の死の一ヶ月前には会っている。
お互い心の中で別れを言った。見送ったタクシーの窓を下ろして手を振ってくれた姿が忘れられない。

その時、彼は僕のことをうらやましい、と言った。
確かに脱藩してから僕は好き勝手なことをやっている。
彼だってまだまだたくさんのやりたいことがあったはずだ。その無念を思うとやりきれない。

僕は彼の無念さを背負って生きていくしかないのだろう。
彼の死から2週間後に僕は還暦を迎えた。

彼だけではない。
イン・マイ・ライフで別れてきた人々の限りない無念の上で僕の還暦というものは成り立っているのだと思う。

ならば時を惜しんで無念を抱いて前に行くしかない。たとえ方向音痴でも。

I know I’ll often stop and think about them.

しばしば立ち止まって彼らのことを思い出しながら。


 あれから1年が経った。僕の誕生日の2日前が311だ。

その日、僕は岡山にいた。いち@311という志の高いイベントに参加して移動している途中に半農半X研究所の塩見直紀/インスパイア365からメッセージが届いた。

数日前、こんなことばが浮かんできました。
持っている弾(たま)をすべて使え。
やりたいと思っていることがあるなら
いつかやれたらと、あとに置いておかず、
いま行うこと、使ってしまうこと。
弾がなくなったときはきっと
新しい弾を神さまが用意してくださいます。 
ぼくもあとにとっておかず、
撃っていきますね。 
今日は「書く」という観点からのまちづくり講座です。
これもおこないたいと思っていたことを
思いきって今年始めました。
 これで1発、弾がなくなったのではなく
さらに弾が装填された感じです。
塩見直紀さんのメッセージにはいつもインスパイアされる。思えば、1年前のあの頃には「善いことを決意すること」という彼のくれた言葉で救われた。
そうなのだ。弾を温存してもしかたがない。
還暦という折り返しを迎えた今、僕の人生だって持ち時間がどれだけ残っているのかは分からない。

ならば見る前に跳ぶしかない。
ただし60年の経験値で培われたほんの少しの予測能力は使いながら。

まずは供養から始めよう。


僕は来週末、被災地の南相馬に行こうとしている。正直に言うと少し気が重い。
フクシマに関してはあまりにも膨大で未整理な情報が僕の衰えを隠しきれないCPUに詰まっている。情報大洪水の中で判断停止状態だ。

自分をインスパイアするために一冊の本を手に取った。



里山哲学者、内山節。ずっと気になっていた人の著書を初めて読んだ。

すとんと納得できる記述が多い。
もしかしたら吉本隆明亡き後、地に足がついた思想家は内山節しかいないのかもしれない。もうひとりの内、内田樹とともに僕はしばらく彼らに寄り添うことにしよう。

内山の死者を見つめるまなざしは確かだ。

突然、死にまき込まれた者たちは、自分が死んだことを理解できずに苦しむ可能性がある。なぜ自分がこうなっているのかがわからないのである。 
だから葬式における弔辞のように、あなたは死んだのだということをはっきりと告げる必要があった。だがそれで終わりではなかった。 
つづいて人々は、死者とともにこれからの社会をつくっていくことを約束した。それは死者たちにこれからの社会づくりを見守ってほしいということでもあるし、自分たちの活動を支え、守ってほしいということでもある。あるいは死者たちの思いを忘れることなく社会をつくることの約束でもあった。 
つまり自然とともに社会をつくり、死者とともに社会をつくるという意志を明確にすることによって、だからこそ成仏してほしいと祈ったのである。 
伝統社会における復旧、復興の出発点はここにあった。具体的な復旧、復興計画の前に、これからの魂の世界のあり方を確認した。供養はそのために重要な、欠かすことのできない手続きであった。

また「復興から見えるあなたの未来」討論会に参加したとき、僕が感じたもやもやしたものに対するひとつの回答も示してくれている。

大きな災禍から復旧、復興への歩みがはじまるとすれば、その出発点にあるのは、魂の諒解、魂の次元での折り合いなのではないだろうか。 
直接的な被災者でなかった人々も同じことだろう。魂の次元で被災者とともに生きようと諒解した人々は、自分のできることを探した。知性の次元で考えれば、被災者とともに生きるとはどうすることなのかはよくわからない。しかし、多くの人たちが今回の大震災では、魂の次元で被災者とともに生きようと考えた。 
出発点は魂の折り合いであり、諒解なのである。だから頭で考えただけの復興の計画を聞かされても、誰もが空々しく、あるいは虚しく感じる。そんな感じをいだいている人も多いだろう。それは魂の諒解を伴わない復興計画からしみ出てくる虚しさである。 
そして、だからこそ原発事故という文明の災禍は大変なのである。はたしてこの問題において、魂の次元での折り合いや諒解はありうるのだろうか。

引用を続けていると一冊丸ごと引用してしまいそうだ(笑w)。

内山節のキーワードに「復興は関係性の再創造」だというものがある。

僕の解釈ではここで言う復興とは被災地のことに限らない。
この愛おしい山河が連なる列島の復興、さまざまな事情と折り合いをつけながら生きようとしている人々ひとりひとりの復興、そしてなによりも自分自身の復興のことだ。

関係性を再創造するためには協創する必要がある。

これこそが還暦後の僕が目指すべきベクトルなのでしょうね。

脱藩後にコンテキスターと名乗ったのも、自らを取り巻く文脈の「関係性」を再構築したかったからかもしれない。

還暦に至るまで僕の人生というものは本能のままに走ってきたような気がする。

 そしていつのまにか今日まで来てしまった。
それは僕の関係性を支えてくれたたくさんの人たちのおかげだろう。
生きている人も死んでいる人も含めて。

前に行くためには還暦という一区切りで彼らに御礼を言う必要がある。
直接言える人ももう二度と言えない人もいる。
恥ずかしくて面と向かって言えない人もいる。

IN MY LIFE、それらすべての人にありがとう。









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