2014年6月20日金曜日

文脈日記・復興の時間

そして、電通を脱藩してから4年が過ぎた。
2010年6月30日からの4年間というのは「もはや脱藩者ではない」と言い切るのに十分な時間だ。というか、次のステップに進まないと残された時間が少なくなってくる。
4年あれば、最高学府だって卒業できる。脱藩4周年は、どうやら卒業の季節らしい。

何からの卒業?
アンガージュマン(自己主導的社会参加)からの卒業? それはあり得ない。
社会情況は最悪になっている。そこへの発言をやーめた、卒業じゃ、と言ったらアベシンゾーとその一派の思うつぼだ。
可哀想なおじいちゃんはアメリカの船に乗せられて、アベシンゾーの軍隊に助けられるしかない。

田中文脈研究所の脱藩周年レポートを読み返してみる。
結局のところ、僕の書いていることは「半農半X」に収斂されていた。
住民代理店、MERRYプロジェクト、協創LLP、英田上山棚田団、マイファーム……。
様々な事象に頭と身体を突っ込んできたが、その「ねっこ」は、半農半Xである。
「ねっこ」があるから「たかく」跳ぶことができるのだ。



何からの卒業?
「半農半X」からの卒業?それはあり得ない。この4年間、何とかして礎を築いてきた生き型を変える必要はない。
「あれこれやりすぎている」という行為過多からの卒業、というか絞り込み。それならばあり得る。

曲がりなりにも半農半X研究所主任研究員という肩書きを塩見直紀代表からもらっているので、「半農半X」という生き型は骨がらみになってきた、と信じよう。

生き型は、The Prototype of LIfe。
生き方は、The Way of Life。
型(プロトタイプ)を持てれば、ぶれない(はずだ)。単なる方法論では迷いが多くなる。


極端な言い方をすれば、畑で野菜をつくらなくても、田んぼで米をつくらなくても「半農半X」という生き型はできるのかもしれない。
ぼくは半農とは、小さな農業のみを指す言葉ではないと想っている。別のことばでいえば、自然感受性なのだ。 
『半農半Xな人生の歩き方88』(塩見直紀)P77
半農半Xとは、人と人、人と自然、人と社会をX=クロスさせて関係性を回復させていくライフスタイルである。センス・オブ・ワンダー(自然の神秘さや不思議に目を見張る感性)で関係性を結び直す生き型である、とも言えそうだ。

であるならば、行為を絞って「半X」の視野を広げていくやり方もあるはずだ。



もちろん体力の問題もある。
卒業すべきところ、絞るべきところを明確にした方がプレ前期高齢者にはふさわしい。
今年は綾部の「1000本プロジェクト」は卒業した。塩見さんのご意見にしたがい、次の世代に区画を譲った。
朋友ボブ(原田明)といっしょに米をつくった3年間は僕にたくさんのXを蓄積してくれた。感謝しかない。


行為を絞りこんで余るはずの体力は、コンテキスターのミッションである「文脈の結び直し」につぎ込もう。
「半X」の強化は僕にとっては書くことである。
書くことによって自分を復興させていくこと。迷わず半農半コンテキスターの道を行くこと。


ということで、今月も書いていこう。春に行った福島と仙台について、まだ書き足りないことがある。
僕の見てきた〈復興の時間〉を文脈レポートしたい。

「忘却とは忘れ去ることなり」という言葉がある。
この列島の住民は本当に忘れっぽい。幸か不幸か、僕は忘れることが苦手だ。文脈生活においては、という意味だが。
日常生活では、しょっちゅうモノを忘れるし、おなじみの固有名詞忘却シンドロームも激しくなっている。
だが、文脈的に見たこと、聞いたことは覚えておく努力をしている。繋いでいく試みをしている。

「あら、洗濯物が家の中に干している」
快晴の南相馬に入ったとき、上山棚田団代表理事のいのっち(猪野全代)が言った。その一言が忘れられない。

2014年3月31日、福島県南相馬市。原町地区は普通の生活者がいる。
僕といのっちは町の中心にある「NPO法人みんな未来センター」(みみセン)を訪問した。


「みみセン」は南相馬のフューチャーセンターだ。未来の町を作る人を創造していく場所である。
人を創るためには場所がいる。ポジションが決まればミッションは動いていくのだ。

「みみセン」の代表理事にして広報隊長は、戸田“軍曹”光司。強面(こわもて)やけど、いい奴やねん、と東近江の縁脈女王、つっつん(有本忍)に聞いていた。


いのっちが棚田団のことを話す。軍曹は「みみセン」のことを話す。
僕は、自立した個の連合体、棚田団の多様性を強調する。それ故の難しさも。
『上山集楽物語』は、もちろん献本した。



「ちがう方向を向いてそうで、実は同じ方向を向いているんじゃないですか?」
軍曹は、さらりと本質を言ってのけた。さすがは最前線で動いている人だ。

彼は、僕たちが会ってまもなく、2度目の脳梗塞で入院した。幸い、症状は軽かったようで、現在は静養中。じっくりとみみセンの今後を考えているようだ。

軍曹の物語はstorysに書かれている。早く完全回復して続きが始まることを期待しよう。
アホ力とは、言うなれば…『感性を鋭敏に磨き上げて鈍感になる』事。この、物事を深く考えないアホであるが故の、『勘違い』と『思い込み』が、ここから先の私の行動を、要所要所で決定していく事になる。 
戸田光司「アホの力/序章」より
勘違いと思い込みなら、僕も負けてはいない。それらを持つ人は物語を語る資格を持つようになるらしい。
『上山集楽物語』を渡したとき、軍曹は「オレも本が書きてえ~!」と言った。その本はすでに書き始められている。

みみセンには「みんな共和国」の国王、ザックもやってくる。共和国の活動を紹介した映像の試写がいきなり始まったりする。
赤ちゃんがいる。高校生が来る。なるほど、フューチャーセンターとはこういう場所のことだったのだ。


南相馬の文脈には「除染」というものがある。国際放射線防護委員会(ICRP)が示す一般公衆の年間被曝線量は年間1ミリシーベルト以下。毎時0.23マイクロシーベルト以下で目標をクリアできる。

南相馬市高見公園には、軍曹たちが建設したじゃぶじゃぶ池がある。


高見公園の線量は、除染前の2011年8月7日は毎時1.11マイクロシーベルト、2014年5月27日は毎時0.10マイクロシーベルトである。(南相馬市HPより)

公園のすぐ横の道の駅では、地図の前で福島第一原発で40年働いていた、という人が話しかけてきた。「イチエフの配管工事は100点満点の9.5点」と彼は言う。

僕が垣間見た南相馬の現在は、こんな感じだった。


わずかな滞在時間で理解できることは少ない。それでも僕は自分の文脈で見たこと、聞いたことを伝えていくしかない。それが「愛おしい山河」を傷つけたものからの復興に繋がってほしい、と願いながら。

南相馬の高見公園には、かつて高さ200メートルの原町無線塔があった。白亜の巨塔は1923年、関東大震災の第一報をサンフランシスコに発信した。その情報は、日本を救いたい、という世界のこころを繋いだという。



僕の情報発信なんて無線塔に比べたらミミズの囁きのようなものだ。それでも、草の根を支えるミミズのように、土の声を傾聴する努力は続けたい。

僕たちは、今、制空権を失っている、と言った人がいる。空中から情報の大量散布をするマスコミだけを見ていては分からないことが多すぎるのだ。
それが安倍政権がノッペラボーに一元化しようとしている日本列島の現実である。

だから僕は現場に足を運びたい。短い時間でも「坊主と1尾は天地の差」(釣り人なら分かるはず)なのだ。


4月3日、〈福島Merry Land〉を後にした僕は、飯舘村経由で再び南相馬に向かう。目的は『復興の書店』の文脈をたどることだった。




『上山集楽物語』を書き始めた頃に、僕は『復興の書店』という本に出会った。いつか復興の書店に、上山集楽の本を置いてほしいと願っていた。その機会が訪れたのだ。

まずは、飯舘村の「ほんの森いいたて」に向かう。
福島から国道114号を南東へ。県道12号線に入る手前に「道の駅川俣」があった。
そこの農産物直売所に入ってみる。



「ここら」では放射能モニタリング検査が徹底されている。
僕はたらの芽の写真を撮ってもいいですか? と訊ねる。店員さんは、なぜですか? と問い返す。うんざりしたような表情で。
僕は答える。「すごくおいしいそうだけど、旅行中で持って帰れないからです」


川俣で買ったエダマメ「酒の友」は、今、箕面のフミメイ農園でX的成長をしている。実りの秋には東北のうまい酒を友にして食べたいものである。



川俣から飯舘村に入る。



居住制限区域にある役場は、毎時0.48マイクロシーベルト。



飯舘村内を走って見つけたモニタリングポストは、毎時1.228マイクロシーベルト。向かいは消防団の屯所。
酪農家の長谷川健一さんが言っている3月15日に100マイクロシーベルトまで測れる線量計が振り切れたというのはここだろうか、と想像してみる。(『ふるさとをあきらめない』和合亮一/新潮社)



塩見直紀さんが、こんな言葉をくれている。


飯舘村は311以前は「大地と人間が安定した関係」を結んでいた場所のはずだ。
その「天然の素中」(高村光太郎『智恵子抄』より)に放射性物質が入り込み、関係性が崩壊してしまった。
人と自然の安定した関係が崩れた。人と社会の関係性を繋いでいた本屋も失われてしまった。

「ほんの森いいたて」は、村役場の隣にある。素敵な三角屋根の建物は除染作業員の休憩所になっていた。事情を知らない人が見たら、ここが日本で唯一の村営書店であったとは分からないと思う。


初代の店長、横山秀人さんは東京の書店に研修に行ったとき、女性の書店員に言われた言葉が印象に残っている、と言う。
「彼女は棚や平台の本を整えながら、『本屋の棚というのは、こうやって耕すのですよ』と言ったんです。私も家が農家だったので、その言葉には膝をうちました。田んぼと同じで、棚は触れば触るほど生きてくる。それなら自分にもできるかもしれないって」 
『復興の書店』(稲泉連)P139

「ほんの森いいたて」は、村に新しい風を送り込んだ、と横山さん。
「本屋さんに足を運べば、本を買わなくても棚を見たりテーブルで本を読んだりできる。(中略)そこには編み物の本もあれば、料理の本もある。東京で売られているのと同じファッション誌、将棋や熱帯魚の本、パソコン雑誌、『るるぶ』などのトラベル誌もあった。農業関係の雑誌は特に充実させていて、農文協の『現代農業』などはよく売れていました。それらはこれまで村になかったものなんです。だから本に触れることは、僕らにとって次の行動に移るきっかけになったはずです。その人の胸の奥に眠っていた何かの気持ちが、本屋があることによって呼び起こされていったと思うんですよ」 
『復興の書店』(稲泉連)小学館P140

地域の書店というのは、そこに住む人々の関係性を繋ぐ拠点であったはずだ。
この本屋を心の底から愛していた副店長の高橋みほりさんはこう語っている。
「あの建物は大きな窓がたくさんあるから、光を入れると本当に明るいんです。それから分けておいた雑誌を午前中に役場に配達して、車で村内をぐるっと回る。ほんの森ってね、夕方になると学校帰りの中学生たちが『ただいま!』なんて言いながら入ってくるお店で、それを私たちが『おかえり』と言って迎えるんです。大きなテーブルと椅子で宿題をする子もいて、そんな子供たちと話すのも楽しみでした」 
『復興の書店』(稲泉連)P143

「ほんの森いいたて」は、2011年3月29日には、営業を再開していた。高橋さんは注文された本や定期購読の雑誌の配達を続けていた。
農業関係の雑誌については、何も言わずに届けることはできなかったそうだ。農業を続けられなくなる彼らがそれを見てしまえば、より悲しい気持ちになってしまうのではないか、と不安だったからだ、と言う。


原発事故は飯舘村のX=関係性を断ち切ってしまった。
美しい里山の美しい本屋は、2011年の6月15日に閉店されたままである。


次の復興の書店は南相馬のおおうち書店だ。
ここは311後に「ほんの森いいたて」を支援していた本屋でもある。



地域の書店は新学期の教科書配本で忙しい。小さな店舗に所狭しと本が並んでいる。

その隙間に『上山集楽物語』を置いていただく。大内眞子さんはお返しです、と言って、週刊ポストの2012年3月9日号をくれた。『復興の書店』のオリジナル記事が掲載されている貴重な資料だ。



「原発関係の本なら奥にありますよ」というお薦めにしたがって棚を眺めていく。
もちろん、『復興の書店』もある。『美味しんぼ110巻〈福島の真実1〉』もある。



店主の大内一俊さんは、突然現れたお邪魔虫である僕に優しい笑顔を見せてくれた。
彼は「何もかも全て忘れてしまって、何も起こっていないことにしたい」と『復興の書店』の中で語っている。


南相馬から6号線を北上して相馬市街に入る。この道を走るのは4回目だ。丁字屋書店は雨の中で蔵つくりの瓦屋根を濡らしていた。


ここも教科書関係で電話が鳴り続けている。
それでも店主の佐藤重義さんは、ストーブの横の椅子をすすめてくれた。311直後の写真を見せてくれる。
「商店街が閉まってたら塞ぎこんでしまう。灯りをつけよう」と彼が決意した頃の様子が分かった。
聞けば『復興の書店』を読んで店を訪れる人は僕の他にもいるらしい。少し安心した(笑w)。




棚を見せてもらって、早々に店を出る。
雨の中で店の外観撮影をしていると、重義さんとトキエさんご夫婦が、外に出てきてくれた。写真撮影を手伝ってくれると言う。
東北の眉毛が太い人たちは本当にやさしい野武士だ。
「連休が終わったら暇になるからまたおいで」という言葉をどこの馬の骨だか分からない僕にかけてくれた。


僕は「半農半X的生き型」とは、地に足をつけて知=Xを追求する行動様式だと勝手に思っている。

地域の本屋は、確かに町や村の知の拠点であるようだ。
おおうち書店には『日本甲冑大図鑑』も置いてあった。相馬武士へのオマージュだ。


ジュンク堂の工藤会長は、地域に本屋がある意味をこう言っている。
本屋というのは神社の大木みたいなものでね。伐られてしまって初めて、そこにどれだけ大事なものがあったかが分かる。いつも当たり前のようにあって、みんなが見ていて、遊んだ思い出がある場所。 
『復興の書店』(稲泉連)P127
翌日、4月4日にジュンク堂の仙台ロフト店にも寄った僕は、3つの復興の書店でたくさんの本に出会った。リアル書店に行くことが少なくなってしまった僕には貴重な体験だった。

できることなら、「ほんの森いいたて」でもいつの日か、新しい知に出会いたい……。


そして、僕は、もうひとつの〈復興の時間〉を体感するために旅を続けた。

宮城県名取市閖上(ゆりあげ)。
ここも丸2年ぶりに訪れた。ほとんど変わっていないように見える。日和山に閖上湊神社ができた以外は。
宅地あとの親子地蔵と取り残された禅寺の仏たちは、祈りの時間を続けていた。
ここにはまだボランティアが来て、遺品を探している。生後8カ月の赤ん坊もまだ見つかっていないそうだ。


閖上からさらに南下したら、亘理町に至る。
僕の半農半X的生活には「マイファーム」という文脈もある。ニワカ百姓の野菜つくりも4周年が近づく。

311直後に「菜の花プロジェクト」を立ち上げたマイファームの情熱社長、西辻一真の志が見たくて、僕は亘理町を2度、訪れていた。
今回、3度目の正直で、はじめて「亘理の菜の花」を見た。嬉しかった。綺麗だった。


仙台空港に降りる飛行機と同じルートで、あの日に押し寄せた海は、豊かな農地を根こそぎ押し流した。3年経った今では、「株式会社マイファーム宮城亘理農場」が活動をしている。

塩害に強いトマトを6次産業化しようとする試みは、今、真っ盛りのはずだ。



津波に流された「豊かな国土」は、亘理では着実に〈復興の時間〉を刻んでいるように見えた。
大地と人間のX的関係は取り戻されつつあるようだ。時間は着実に進んでいる。

時間の流れが流動的なのは、いちえふ(福島第一原子力発電所)の周辺事態だ。


「福島の現実」は否応なしに動いている。でも、「福島の真実」はまだ分からない、と僕は思っている。


さらに「いちえふ周辺事態」の3年間を確認するために、読んだものがある。
『原発幻魔大戦』(いましろたかし)


この長い(いつもすみません)文脈レポートを書くために、おおうち書店の棚写真を再確認していると、気になる言葉が見えた。
「幻魔大戦」。僕は平井和正の大ファンだ。ウルフガイシリーズも幻魔大戦もよく読んでいた。
寡聞にして、この漫画家は知らなかった。さっそくKindleにダウンロードしてみる。
こういう発見があるのが文脈生活の楽しいところである。


時の流れは、アベシンゾーと、それを操る幻魔のおかげで明らかに逆行している。
野田“どぜう”宰相が懐かしいくらいである。


福島と宮城南部の取材旅行から、2カ月半が過ぎた。
〈福島MerryLand〉はメリー文化遺産として、笑顔の継承作業を続けている。

ふくしまっ子 10万人の笑顔プロジェクト【笑顔の地上絵ver.

ふくしまっ子 10万人の笑顔プロジェクト【スマイルver.】

そして、僕はアベシンゾーの目指す「戦争のできる銭ゲバ帝国」に対して、「ミミズの歯ぎしり」をしている。
本を読み、自分が正しいと判断した「知正」をささやかに情報発信しているつもりだ。

制空権を失ったからといって、黙ってしまっては「いつか来た道」である。もはや戦後ではない、戦前なのだから。

2013年6月29日若狭ゆずり木平和祭

5月21日、この列島の幻魔たちに「頂門の一針」が刺さった。
福井地方裁判所民事部第2部裁判長・樋口英明が大飯原発の運転を差し止める判決を下したのだ。

「頂門の一針」とは、頭の上の急所に刺す針のこと。原告団代表の中嶌哲演(なかじまてつえん)さんの言葉だ。安倍政権に痛烈な戒めが刺さった。


明通寺、中嶌哲演さん

哲演和尚は、福井県小浜市の名刹、明通寺(みょうつうじ)の住職。原発銀座の若狭で長い間、反原発市民運動に関わり、小浜の原発建設を阻止してきた。

「生存を基礎とする人格権は憲法上の権利であり、法分野において最高の価値を持つ」
樋口裁判長の論旨は明解である。かねよりいのちだ。

司法は生きていた。制空権を失っても三権分立は失っていない(と信じたい)。

個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。 
(判決理由より抜粋)
そして国富について。
豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である。 
(判決理由より抜粋)
飯舘村役場には「心和ませ地蔵」がある。その頭をなでると村民歌「夢大らかに」が流れてくる。


山 美わしく 水 清らかな その名も飯舘 わがふるさとよ 
みどりの林に 小鳥は歌い うらら春陽に さわらび萌える 
ああわれら いまこそ手と手 固くつなぎて 
村を興さん 村を興さん 
土 よく肥えて 人 情けある その名も飯舘 わがふるさとよ 
実りの稲田に 陽は照りはえて 続く阿武隈  山幸歌う 
ああわれら 夢大らかに ともに励みて 
村を富まさん 村を富まさん

国富の重要な一部である村の富は失われてしまった。




半農半X的生き型というのは「欲しがりません勝つまでは」とは対極にあると思う。

豊かな国土に根を下ろした山彦と海彦が幸のお裾分けをくれる世界。
ないものねだりをせずに、あるもの探しで「健康的で文化的な生活」(日本国憲法第25条)をする人格権を享受できる世界。別に「最低限度」でなくてもいい、と僕は思う。


いつまでも美味しんぼたちが、美味いものを喰らい美味い酒を飲みながら、自分のXを探し、他人のXとクロスした関係性を持続できる世界。


「天然の素中」に混じりあったものを気にせずに生きていける世界。

仙台の居酒屋「一心」にて。みんなの放射線測定室「てとてと」パンフ。

大人たちは、少女Aや少年BのX=未来に責任があるはずだ。
それは、除草剤を使わない田んぼにコナギが生えるくらい確かなことである。




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