2013年7月29日月曜日

文脈日記(高度成長を観察する)

暑中お見舞いの言葉は「おあつうございます」のはずだが、なんだかお寒い感が否めない毎日が続く。
それはまあ、僕の偏見と主観であり、日本列島の民意は安倍晋三政権を選んだのだから、選挙の結果は厳粛に受けとめるべきなのでしょうね。
などと柄にもなく素直なことが言えるのは、とある映画を見てすかっとしているからだ。
「すかっとさわやか、コカコーラ」
あれ、このコピーもすでに死語だったのかな。最近、物忘れが激しいのだが。

想田和弘監督の「選挙2」、観察映画の第5弾だそうだ。



この映画を見て、すかっとするという感想も持つのもいかがなものか、という批判はどうぞお好きなように。僕は笑ってほろっときたのだから、すかっとしたというのが一番適切な感想だ。

ドキュメンタリーを見てこういう感想を言うと、「選挙2」はマイケル・ムーアの「華氏911」みたいに時の権力者を徹底的に批判して風刺した映画なのか、と想像される方もいるかもしれない。

悪代官じいみんを正義の素浪人やまさんが撃つ、なんてね。
そんなつまらん映画だったら、すかっとするはずがない。

想田監督のやり口は、マイケル・ムーアとは真逆だ、とだけ言っておこう。
あとは、ご自分で映画を見て感じるところがあれば、また教えてください。

あらゆる映像の基本はホームビデオである、というのが僕が敬愛している映像作家のテーゼである。長い間、彼の映像論に影響を受けてきた僕は、想田監督の「観察映画」を見て、その主張は正しいことを確信した。

ドキュメンタリーの本質を「観察映画」と言うならば、文脈研究の本質も「観察文」にあるのかもしれない。そして、今月は「歴史観察」にフォーカスをしてみたい気分だ。

歴史と言っても「国津神」と「天津神」の対立まで遡る気はない。それはそれで、松江と出雲に縁脈が深い僕にとっては大切なテーマなのだが、まだ手にあまる。

しつこいようですが、僕は1952年、昭和27年生まれのラスト・オキュパイド・チルドレンです。昭和の自分史を観察すると、そこには大きなコンテキストがあることに気づく。

「高度成長」というものだ。
「高度成長」という言葉は聞き慣れているが、そういうものこそ詳細に観察していくと見えてくるものがあるはずだ。

「高度成長」観察の手引き書として、僕は保坂正康『高度成長-昭和が燃えたもう一つの戦争』を選んだ。

1960年(昭和35年)から1974年(昭和49年)までの14年間を「高度成長」と位置づけて保坂は詳細な分析をしている。
高度成長胎動期:1960年から東京オリンピック(1964年)まで。
高度成長躍動期:東京オリンピックから大阪万国博(1970年)まで。
高度成長終焉期:大阪万国博から石油危機の翌年まで(1974年)まで。

この14年間で僕は8歳から22歳になっている。
8歳の時、僕はとある出来事に遭遇して今なお影響を受けている。22歳といえば電通に入社した年だ。

自分の人生のエポックメーキングな期間が、みごとに「高度成長」と重なっているのを発見して愕然とする。そうだったのか、僕の人生の背景、文脈、すなわちコンテキストは「高度成長」そのものだったのだ。

であるなら、コンテキスターとしては自分がアンガージュマンしている情況を、「高度成長」文脈で観察していく必要があるだろう。また、自分史を「高度成長」を視座にして見直すこともやってみたい。

アンガージュマンとは「自己主導的社会参加」という意味で僕は使っている。
20歳の頃に聞いた言葉がずっと心の底に引っかかっていて、脱藩した頃のキーワードだった。
そして、311後は、ものすごく意識するようになった言葉である。


8歳の記憶。「あんぽはんたい」「しょとくばいぞう」「わたしはうそはもうしません」。
61歳の今に至るまで、僕は政治的な人間であったことはないが、この年は小学校3年生でも、こんな言葉をつぶやきながら遊んでいたのだ。

今の自分が8歳の頃の自分を観察してみる。
ビニールくさい月光仮面のお面をかぶって、白いシーツを背中にかけて訳も分からず「あんぽはんたい」と言っている。その手にはB29のプラモデルがある。
祖母がその銀色の飛行機を見て「うらみ、はてなし」と言う。少年はきょとんとしている。

こんなことを延々と書き連ねるのが、このエントリーの主旨ではなかった。
「高度成長」を観察するときに、ひとつの軸を入れてみて、今、自分が考えていることを文脈化していくこと。

その軸は「高度成長とアスベスト」だ。
僕は今、「尼崎アスベスト訴訟」を支援しようとしている。僕にできる支援のカタチはテキストを書き連ねて、その本質を明らかにすることだ。

change.orgで原告、山内康民さんが訴えていることの背景を「事実の積み重ね」として客観的に書きだしてみたら、見えてくるものがあるはずだ。
そして「事実」を編集して「観察文」にしてみたい。この場合の編集とは「事実」と「事実」を繋ぎあわせて、その文脈を顕在化させることだ。
原告、山内康民さんの父、山内孝二郎さんは1996年に中皮腫で死亡。
康民さんの妹、前多康代さんは僕と誕生日が1日ちがいであり、NPO英田上山棚田団の仲間だ。

原告、保井安雄さんの妻であり、保井祥子さんの母である保井綾子さんは2007年に中皮腫で死亡。

2005年クボタショック。
クボタの元従業員79人がアスベスト関連疾患で死亡と新聞報道。
その後、「道義的責任」による「救済金」支払い開始。クボタは「法的責任」は認めず。
また「救済金」を受け取れば裁判を起こすことはできない。

2007年、加害企業クボタと国の責任を問う尼崎アスベスト訴訟、神戸地裁に提訴。
原告は山内康民、保井安雄、保井祥子。

2012年8月7日、判決。勝訴。
山内さんのケースは全国ではじめてアスベスト公害の企業責任を認めた。
ただし問題点あり。
もうひとりの原告、保井さんの請求は居住地が1キロを超えていたとして認めず。
また、国の責任は「周辺住民の中皮腫リスクが高いという医学的知見」は確立していなかったとして認めず。

2012年8月20日、大阪高裁に控訴。
2013年末に判決の予定。

以上がこの訴訟のタイムラインだ。
続けて、クボタの事実と「高度成長」を繋いでみる。

1954年、尼崎市の旧神崎川工場で青石綿を使って石綿水道管の製造開始。
青石綿は中皮腫発生リスクが白石綿の500倍。
1960年、高度成長の始まりの年、日本のアスベスト消費量の約1割がクボタ旧神崎川工場で使われた。

1964年、東京オリンピックの年、アメリカへ石綿管を輸出。
1971年、大阪万国博の翌年、青石綿の使用量を減少させて白石綿を使った住宅用建材の製造開始。
この年、福島第一原発の1号機が運転開始。
1972年、高度成長が終わる2年前、石綿建材の生産を急増。
結果、クボタは1954年から1995年まで尼崎の町にアスベストをまき散らした。

アスベストの真実。
石綿は熱や火に強く、腐食しにくく、加工もしやすい。そして安価であった。
石綿は極めて微細な天然鉱物である。微細ゆえに風に乗って飛んでいき体内に取り込まれやすい。いったん取り込まれると劣化せず半永久的に体内にとどまる。
体内にとどまった石綿は、絶え間なく細胞を刺激し続け、やがて中皮腫、肺がん、石綿肺などの石綿疾患を発症させ、死に至らせる。
その潜伏期間は20年から50年。

尼崎アスベスト疾患の未来。
環境省が用いたアスベスト疾患の推計をあてはめると、2033年までに1400人の中皮腫患者と1400人の肺がん患者が発生する可能性がある。
そして、中皮腫患者は約1年という短期間で亡くなる可能性がある。

どうも「編集」するまでもなく、事実は単純明快なようだ。
さらに日本国の動きを観察してみると……。

1952年、簡易水道政策開始。簡易水道には石綿水道管を奨励。
1967年、公害対策基本法成立。
1968年9月、水俣病を「公害病」認定。
1970年、改正建築基準法で住宅の火気に関連するところにも不燃材料を用いるべし、と規定。建築基準法では当初から石綿スレートを「不燃材料」として認めていた。
1971年、富山のイタイイタイ病裁判、新潟水俣病裁判、四日市公害裁判で企業の責任を認める判決がでた。
1989年、石綿粉塵が規制対象になった。
※参考文献:尼崎アスベスト訴訟(環境型)原告側弁護団最終弁論他
「アスベストを世界の公害史に残したい、国とクボタは歴史の批判を受けてほしい」というのが原告、山内さんの願いのひとつである。
アスベストは取り残されている、という文脈が事実の観察から見えてこないだろうか。
しかも現在進行形であるにもかかわらず、である。

さらにアスベストは尼崎だけの問題ではない。
作家、藤本義一は2012年10月に中皮腫で亡くなった。阪神大震災後の復興支援活動が原因だと言われている。
2013年6月、イタリアではアスベスト被害で2千人の死亡が認定され、企業の経営者に禁錮18年、賠償金65億円のトリノ高等裁判所判決が出ている。



アスベストの文脈は空間軸と時間軸が交差しつつ、さまざまな問題をはらんでいるのは間違いない。

僕としては、そこに自分軸を重ね合わせると何が見えてくるのかを試行錯誤している。
観察の中でも「参与観察」というのは、そういうことなのだ。

「参与観察」という魅力的な言葉は、想田和弘さんの『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』からの受け売りだ。

したがって、観察映画の「観察」は、必ず「参与観察」という意味になる。参与観察とは、文化人類学や宗教学などで使われる用語で「観察者も参加している世界を、観察者の存在も含めて観察する」ということである。要するに観察映画では必ず、作り手である僕自身を含めた観察になるわけである。(P171) 

1964年、12歳の僕を観察してみる。
香川県坂出市の中学校。友達といっしょに机を跳馬のように並べかえてどたばたしている。床に音が響く。怖い先生に怒鳴り込まれる。おまえら、なにしょんな?!ウルトラCしよります、とぼくたち。小さな声でしょぼんとしながら。

そして、その瞬間にもクボタは尼崎で青石綿の粉塵をまきちらしていた。それはダイアモンドダストのようにキラキラしていた、と観察した人もいる。

東京オリンピックの開会式の2ヶ月前にはトンキン湾事件でベトナム戦争が開始していた。

そして、オリンピックが終わった直後に佐藤栄作政権が発足した。
今も活躍する俳優、佐藤B作がA作に対抗した芸名であることも歴史の闇に忘れられているだろう。まっ、忘れられても問題はないですがね。

「参与観察」は自分を見ること。自分を見て世の中との関係性を見直すこと。
と勝手に文脈を拡げておこう。

脱藩以来、「世の中のために働く」と妄想を宣言して前のめりに動いてきたが、なんだか一段落感が漂うのは先月のエントリーで書いた。
だが、すぅーと自分の存在を消してしまう観察者になれるのは、まだ先の話のようだ。

最近、綾部里山交流大学と京都カラスマ大学が共同主催した情報発信に関する研究会に参加した。
そこで講師の印象的な発言があった。

ソーシャルなことに関わるのは「おせっかい」な人です。

そのとおりだと思う。そして、その「おせっかい」度に基準値はない。ベンチマークは自分でつくり判断するしかない。自分が置かれた様々な情況要素を鑑みながら。

自分の「世の中のために働く2.0」を求めている僕の頭の中に、今、渦巻いている言葉がある。

Burst and Shrink. バースト・アンド・シュリンク。爆発と凝縮。拡大と縮小。成長と成熟。
これは塩見直紀的コンセプトスクールで発見した言葉である。


高度成長、アスベスト、おせっかい、参与観察、バースト・アンド・シュリンク。
今月は千々に乱れた文脈でした。読んでくれた人、ありがとうございます。

2013年6月28日金曜日

文脈日記(脱藩3周年・林住期)

6月末で電通を脱藩して3周年になる。ただ、今年は去年の高揚感とはほど遠い気分だ。

石川啄木が明治43年(1910年)に憂慮した「時代閉塞の現状」は103年を経過して、その「閉ざされた感覚」を深く濃くしている。
それは、もちろん現在の政治情況によるところが大きい。だが、僕自身の気分も転換点に来ているように思えてならない。
本音を言うと、ちょっぴり立ち止まりたい気持ちが強い。どうやら僕の文脈生活も停滞期に入ったらしい。

停滞期というとネガティブなので、ここは「林住期(りんじゅうき)」という大きな言葉の範疇に入ってみよう。

古代インドでは、生涯を四つの時期に分けて考えたという。「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、そして「林住期(りんじゅうき)」と「遊行期(ゆぎょうき)」。「林住期」とは、社会人としての務めを終えたあと、すべての人が迎える、もっとも輝かしい「第三の人生」のことである。 
『林住期』五木寛之/幻冬舎 前書き

人生のクライマックスは、後半の50歳から75歳にある。それまでの人生は「燃えながら枯れていく」林住期のための助走期間なのだ、と五木は言う。

61歳の僕は、その林住期の折り返し点にいるのでしょうね。58歳からの3年間を「極私彷徨」してきたから、折り返し点に近づくのも早いのかもしれない。

「死ぬまで18歳」と強がってはみても、老いは確実に来ているのだ。どこかの誰かさんが「老い」などというネガティブ・ワードは使うな、と言っても実際にそうなのだから。
アウトドアで身体を使った翌日は平気でも、2日後にどーんと身体が重くなる。やたらに眠い。もちろん「固有名詞忘却シンドローム」は深化する。いつも何か忘れ物を探している。

時には「老い」を自覚して、自分を客観視することも林住期を生き抜く知恵だと思う。でないと、そこに「鬱(うつ)」という怪物が忍びこむこともあるのだから。

「林住期」は人生におけるジャンプであり、離陸である、と私は思う。まったく新しくスタートするのではない。過去を切りすてて旅立つのでもない。それまでの暮らしを否定し、0からやり直すのでもない。これまでにたくわえた体力、気力、経験、キャリア、能力、センスなどの豊かな財産の、すべてを土台にしてジャンプするのである。その意志のあるなしこそ「林住期」の成功と失敗を左右する。
『林住期』五木寛之/幻冬舎 P35

はい、五木先生、そのとおりです。でも以下のような生活に憧れる気持ちも今の僕にはあるのですよ。

(林住期)はリタイヤの時期とみなされた。定年退職して、なにか趣味に生きる。妻にいやみを言われながら、ゴロゴロして暮らす。イヌの散歩につきあい、孫のお相手をする。(中略)そこでは「林住期」は、人生のオマケの季節のように扱われてきた。「濡れ落葉」とからかわれるゆえんである。
『林住期』五木寛之/幻冬舎 P62

「趣味に生きる」
いいですね。僕の場合は釣りという変人のための趣味がある。
「妻にいやみを言われる」
もう慣れっこなので平気です。あっ、言ってしまった。
「孫のお相手をする」
自分の子供の面倒は一切見なかったので、どうやって子守したらいいかも分からないでしょ、と山の神に指摘されながら、という注釈つきであればできます。
「ゴロゴロして暮らす」
寝っころがって、冒険小説やミステリーを読みながらであればウェルカムです。

「イヌの散歩につきあう」
残念ながら、これはもうできそうにない。自分のイヌという限定ですが。

うちの家族の犬はメイという。小型犬のパピヨンという犬種だ。
1996年6月10日生まれの満17歳。人間でいえば84歳の「遊行期」のおばあちゃんである。もう散歩はできない。そして、僕はもう自分で犬を飼うことはないだろう。
うちの犬はメイが唯一無二だ。

今月のエントリーは「時代閉塞を突破するために我々はいかに林住期を生き抜くべきか」などという勇ましいことを書く気にはなれない。もっとうじうじと昔を振り返ってみたい気分だ。

電通を脱藩して以来、自分の過去のコンテキストは封印してひたすら前を向いてきた。この1年間でもフミメイ号は2万4千キロ走っている。小休止しても問題はないはずだ。

36年間も電通のような変人だらけの会社勤めをしていれば、それなりに面白い話はたくさんある。もちろん、まだまだ書けないことのほうが多いが。僕はもうNDA(秘密保持契約)に縛られてはいないが、モラルとマナーとして。

そんなわけで過去を振り返るといっても限定的なものになるわけで、今回は犬の文脈にフォーカスして書いてみたい。

1996年8月中旬、僕が信州から帰ったら、そいつがちょこんと座っていた。
僕は44歳、「家住期」(朱夏)の頃。「家に住む」ことはあまりなく出張だらけの生活をしていた。
その日は玉村豊男さんのヴィラデストでCM撮影をして帰ってきたら、メイがうちに来ていた。

はじめて、メイを見た時、僕はあまりの可愛さにこう言ってしまった。

「よしよし、メイは何があってもお父さんが守ってあげるからね」
この発言は、家族から非難をあびた。なにしろ家をほったらかしで仕事と釣りしか見えてないお父さんがメイにだけは優しい言葉をかけたのだから。


メイという名前は決まっていた。
僕の山の神は五月生まれで「五月」という。メイは六月十日生まれなのに「メイ」だ。これには深いわけがある。

うちの家では山の神に逆らったら生きていけない。だからうちの犬も五月の子分になるべきだ。
五月の子分といえば「メイ」に決まっている。「となりのトトロ」を見てごらん。
たまたま誕生日が五月から十日遅れたけど、そこは誤差と考えなさい。

こんなふうに僕は六月生まれの子犬を説得して「メイ」と名づけたのだ。


犬の「学生期(がくしょうき)」すなわち青春はまことに短い。2年たつと人間の23歳になってしまうのだ。長いスカートを引きずっていた娘も大人になっていく。

「家住期」を迎えたメイは、僕の仕事のお手伝いもしてくれた。

2001年、メイは5歳(人間暦36歳の女盛り)、僕は48歳。
21世紀が始まったこの年、僕はインパク(インターネット博覧会)というネット上のお祭りのコンテンツを制作していた。
僕が担当していたサイトのひとつは動物と人間の共生をコンセプトにしたものだった。メイは当然のように、そのサイトのプロモーションに登場する。



動物といえば、動物王国のムツゴロウこと畑正憲さん。
このサイト制作のため僕は2001年には、何度も北海道は中標津と浜中の王国に足を運んだ。
そして僕は動物王国にいたたくさんの犬たちに触れている。家に帰るとメイは不審尋問をするように僕をくんくんしたものだった。



そして、王国には忘れられない犬がいた。
ボストンテリアのテリー、ムツさんが愛してやまない犬だった。



ムツさんがハーモニカを吹くとそれに合わせて唄う頭のいい犬がテリーだった。僕たちの仕事場であったムツ牧場の母屋でテリーはいつもそばにいた。


うちのメイとテリーは同い年だった。僕はこの頃、ムツさんに聞いたことがある。

ムツさん、もし愛犬が死んでしまった場合、どうやってショックを和らげたらいいのですか。

それはね、その犬の死期が近いと思ったらすぐにもう1匹、新しい犬を飼い始めるのさ、それしかないね。

このエントリーを書くためにあらためてテリーのことを調べていたら、彼は2009年7月に逝っていた。享年13歳。突然死だったらしい。

2年前にムツさんに会ったときに、僕はテリーのことを話した。
テリーが死んだと知らされて、僕はムツさんにどんな死に方をしたのですか、とたずねてしまった。
ムツさんは嫌な顔をして、そんなこと、僕に聞くなよ、と答える。
僕は無神経だった。ムツさんは本当にテリーのことが好きだったのだ。

うちのメイの方は17歳の誕生日を過ぎてもおかげさまで元気にやっている。

そして僕は、メイの美人日記を撮影し続けてきた。ソーシャルメディアがない時代で、僕はブログも書いていなかったので、初公開の写真ばかりだ。

2004年、ドコモがMOVAからFOMAに切り替わりつつあるとき、携帯で撮影したメイ。長い間、僕の携帯の待ち受け画面だった。メイ8歳(人間暦48歳)。


林住期(白秋)を迎えても、まだまだ美人だった。10歳(人間暦56歳)の頃はこんな感じ。


毅然として寒風に立ち向かうメイ、11歳(人間的には還暦)。


僕の方は今世紀の初めの10年間は激動だった。普通のCM制作からネットの世界の獣道に踏みこんで、誰もやったことがないことばかりにチャレンジして悪戦苦闘していた。

トラブルばかりが起こる。トラブル・バスターに徹する。血圧は上がる。

そして、当然のように家のことは山の神にまかせっぱなしだ。
メイの世話も熱心にやっていたとはいえない。散歩も毎日していたとはいえない。
それでもメイは僕が家に帰ると、一声、ワンと吠えて尻尾を振りながらお迎えしてくれた。ほとんど吠えない犬なのにお迎えの時だけは威勢よく吠えてくれていた。

そんなメイも遊行期(白秋)を迎えた。2011年6月10日、15歳(人間暦76歳)の誕生日。この頃までは、まだ元気に散歩をしていた。僕は311後の困惑に自分なりの対処をするのに夢中で、家ではさぞかし機嫌が悪かったことだろう。


2012年の誕生日には15歳年下の若い娘が強力なライバルになったが、ケーキのろうそくを吹き消そうとしている。




そして迎えた今年の誕生日、今から18日前のメイは奇跡的に可愛くなった、と親バカを言っておこう。
パピヨンは蝶々のような耳をしているのでパピヨン(フランス語で蝶)という。その耳も長い毛もカットしてメイは白いタヌキのようになった、いや、生まれたばかりの子犬のようになった。ちょっと言いすぎかな。



「死ぬまで18歳」とアホなことを言い張る林住期の父を横目で見ながら、メイは「18歳まで死なない」と健気な遊行期の歩みを始めている。うーん、すごい犬だ。


ドッグイヤーという言葉がある。犬の1年は人間の7年に相当するそうだ。その換算は大型犬の場合で、小型犬のドッグイヤーは幸いなことにもう少し緩やかな流れのようだ。

脱藩以来の3年間は、僕にとってはまさに小型犬のドッグイヤーだった。
今世紀の最初の年、ネットの世界にどっぷり漬かり始めてから、公私ともにドッグイヤーの経験値は積んできたつもりだ。
それでも、特にこの1年間の変化は激しすぎる。

こんなときは少し立ち止まること。過去を振り返ること。

で、メイが生まれた1996年のことを調べていると興味深い事実を見つけた。

バブルがはじけたのが1991年。そして阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が1995年。日本のインターネット元年と言われているのも1995年だ。

その翌年、1996年にはアトランタ・オリンピックがあって、メダルをとったマラソンランナーが「自分で自分をほめてあげたい」という名言を残して流行語大賞になっている。
僕もこの言葉が気に入って多用していた。特に管理職になって「人事評価」なるものをするときには部員たちに「まず自分で自分をほめなはれ」とよく言っていた覚えがある。

そんなことは電通時代の文脈からすぐに思い出せることなのだが、脱藩以来のドッグイヤーを過ごしていなければ、絶対に注目しなかった事実があった。

1996年は鳩山由紀夫が旧民主党を結成した年だったのだ。
「友愛」という言葉がもうひとつの流行語大賞になっていたのですね。

その旧民主党の基本理念を書いたのは、半農半ジャーナリストの高野孟さんだった。脱藩してからいろいろな論客に巡りあったが、その中でも特に尊敬している方のひとりが高野さんだ。

僕もメイにならって林住期の次の一歩を踏み出すために引用させていただこう。
私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという「個の自立」の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという「他との共生」の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない。
西欧キリスト教文明のなかで生まれてきた友愛の概念は、神を愛するがゆえに隣人を愛し、敵をも愛するという、神との関わりにおいて人間社会のあり方を指し示すもので、そこでは人間と自然の関係は考慮に入っていない。しかし東洋の知恵の教えるところでは、人間はもともと自然の一部であって、一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も、同じようにかけがえのない存在であり、そう感じることで自然と人間のあいだにも深い交流が成り立ちうる。そのように、自然への畏怖と命へのいつくしみとを土台にして、その自然の一部である人間同士の関係も律していこうとするところに、必ずしも西欧の借り物でない東洋的な友愛の精神がある。 
『高野孟の曼荼羅&あーかいぶ』より一部を転載

「一本の樹木も一匹の動物も一人の人間も同じようにかけがえのない存在である」
そのとおりですね、高野さん。

僕と家族にとって、メイはかけがえのない存在だ。そのメイが生まれてからの17年で世の中はずいぶん変わってしまった。
そこのところを書き始めると、僕は「気分閉塞」になってうつうつと書き綴りたくなってくるので、もうやめにしよう。

こんなときは原点に帰った方がいい。どの時点の原点に戻るかが問題だが。政治的文脈は1996年の旧民主党基本理念に戻ってくれることを切望するが、その戻り道は草ぼうぼうで先が見えない。

僕が今、戻るべき原点は脱藩時に盟友を追いかけたときの基本理念、やっぱり「半農半X」しかないのだろうな。

脱藩3周年、僕は半農半X研究所代表の塩見直紀さんにお願いして、こんな名刺を持たせていただくことにした。



33歳、家住期まっただなかの内村鑑三は「金、事業、思想」の三択を提示したが、林住期の住民は金や事業を選べるはずもない。

だとすれば残りは思想なのだが・・・そうは言われてもねえ、と主任研究員のくせに弱気になる自分を見つめる脱藩3周年。


2013年5月31日金曜日

文脈日記(書くためのナイフ)

この半年、ほぼ毎日、書き続けてきた。
半農半X研究所の塩見直紀さんから2012年のお正月にもらった言葉を支えにして。
何度もすみませんが、以下、再び引用です。

  才能というのは、
  研いでいないナイフのようなものだ。
  毎日、ただ毎日書き続ければ、
  そのナイフを研ぐことができる。
  人によってナイフの大きさは違う。
  しかし研いでみないことには、
  そのナイフがどんな形なのかわからない。
  小さくてよく切れる果物ナイフなのか。
  巨大な岩もまっぷたつに切り裂く大ぶりの刀なのか。
  才能のある・ないというのはこのナイフのサイズのことだ。
  大きな刀なら歴史的な大作が書けるだろう。
  でも小さなナイフでも、本を買ってくれる人を
  一晩夢中にさせる程度の作品を書くには充分だ。
  だからナイフのサイズが問題じゃない。
  それが本当にナイフか、
  つまり「研がれているか」どうかが問題なのだ。
  だから大事なことは、ナイフを研ぐこと。
  毎日書くことである。

         「才能」について/作家スティーブン・キング

この言葉を支えにして、2013年の正月から書き続けてきた。
まずは協創LLP=NPO法人英田上山棚田団の出版原稿。その経緯は当研究所の「本を出すということ」というエントリーを読んでほしい。そして当研究所の定例レポートも月に一度の更新を守っている。

「愛だ!上山棚田団~限界集落なんていわせない!」の続編のタイトルは「上山集楽物語~楽しいことは正しいこと」で、ほぼ決定している。この本における僕のパートは書き終えた。
現在、吉備人出版と共同執筆者とで原稿の調整作業に掛かっている。その内容については僕のブログで書くべきことではない。

今月のエントリーでは、僕の「書く」という行為について、あらためて文脈を整理しておきたい。

「大事なことはナイフを研ぐこと、毎日書くこと」というのは確かに名言である。
「継続は力なり」とはよく言ったもので、研ぎ続けることによってナイフは切れるようになってくる。僕のナイフも半年前に較べると切れ味がよくなってきているのは確かなことだ。しかし、問題は研いだあとにあったのだ。

どんなによく切れるナイフや包丁を持っていたところで、切る素材が良質のものでなければおいしい料理はできない。と、ニワカ料理人みたいなことを書き出すと、また山の神に笑われそうだが。
毎日、外回りのことばかりをしないで、そろそろ家で料理当番でもしたらいかが、と言われそうだが。

それはともかく。
切るべき素材は目の前に山ほどある。
しかもよく切れるナイフを持つということは、自在な切り方ができる、ということだ。理論的には。
野菜の繊維に沿って切るのか、繊維を断ちきって切るのか、ざく切りなのか、ミジン切りなのか、いちょう切りなのか、切り方によっても料理の味と見た目は変わってくるはずだ。

おかげさまで、現在、僕の目の前にはとても新鮮な素材が並んでいる。なぜか今の僕の周りには、いい意味での「変人」と「へそ曲がり」が多いので、切ってみたいものばかりになる。

素材というにはあまりに失礼な人材ぞろいなので相手にとって不足はない、などとニワカライターが偉そうに言える立場にはないのだが。

そうです。実は僕はいまだに本の一冊も書いたことも出したこともないニワカライターなのであります。

でありながら、「書く」ということについて書くという大胆不敵な行為におよぶのは、今、書いておかないと忘れそうだという思いがあるからだ。
このあたりの感覚は還暦を過ぎて早1年の身に覚えがあることなのだから。とにかく記憶力は衰える一方だ。もちろん「固有名詞忘却シンドローム」である。
ある人物なりタレントの顔、声、プロフィール、すべてディテールを思い出すのに「名前」だけが出てこない。いらいらする。でも出てこない。
「固有名詞忘却シンドローム」は僕の造語だが、この現象自体は脳科学の分野で解析できることらしい。「海馬があーだ、こーだ」と、糸井重里の本か何かで読んだ覚えがある。

僕のブログであれば、この現象については、この程度の書き方で次に進んでいけばいいのだが、商業出版となるとそうはいかない。
「神は細部に宿る」というよく言われる言葉もあり、本の面白さはどこまでディテールを書きこんでいるかにもよる。これは活字中毒者すなわち本をたくさん読んできた一読者である僕の実感だ。

「継続は力なり」「神は細部に宿る」、よく言われる言葉、とここまで書いて執筆者意識に戻ったら、これはもう大変だ。この言葉の出典を調べずにはいられなくなる。
僕が、今のところ、いちばんよく使っているiPadアプリは辞書関係かもしれない。
本当は類語辞典がもっとほしいのだが、辞書アプリは高いので……。



書くことは体力を使うことだ、と言えば、比喩の類だと思っている方がいるかもしれない。

ひと昔前なら、僕の右手中指にはペンだこがあった。が、今はない。昔は鉛筆やペンを握って手書きするのは握力が必要だった。今はキーボードをかちゃかちゃして、ときどき手休めにマウスを持てばいい、楽なものですわ。まあ、右手人差し指にタッチたこらしきものができつつはありますが。

このようにして、書くという行為の運動量は減少しているのかもしれない。
でも、書くことには体力がいる。それは昔も今も変わらない。おそらく未来永劫、変わらない。

書くための体力その1。

書くためには大量に読む必要がある。マラソンを走る前に大量のパスタで熱量補充が必要なように。
この半年、僕はけっこうたくさんの本を読んできた。そして書くために必要な本はできるだけ自炊してiPadに格納している。本を裁断するのも体力がいるのだ、というのは嘘で、慣れてきたら1発ですぱーっと切れる。

あれ、この言葉は、どの本で読んだのだったか? 誰かがどこかで書いていたことを僕が思いついたように書いてはいけない。

読みつつ調べつつ書くというのは体力がいる。調べる、ということに関してはインターネットのおかげで、随分楽になった。
ある程度までは高速道路に乗ったようにすいすいと調べることができる。だが、高速を下りて幹線道路もはずれて、そこから先の獣道をたどるというのが「調べて書く」という行為の本質なのだろう。
この「高速道路」と「けもの道」の比喩は梅田望夫の著書に基づいています。上記の文章は単純な引用ではありませんが。

などと、くどく書いているのは理由があるので、もう少しおつきあいください。

読んで、その本にインスパイアされて書くという行為も道具の発達でとても楽になってきた。iPadの本棚アプリには「しおりメモ」という機能がついている。Kindleアプリにはすぐれたハイライト機能がある。

インターネットで調べる。そこから一次情報をたどっていく。必要なら一次情報の本を購入する。毎日、Amazonから本が届く。一次情報の本は難解なものが多い、しかも高額だ……山の神には内緒だが。

元々、本を読むのは大好きなのだが、最近はよくできたミステリー小説や冒険小説を読む、という時間がなくなってしまった。冒頭に引用したスティーブン・キングのミステリーを一気読みする快楽の時間を持ちたいと切に願う今日この頃なのですよ。



書くための体力その2。

書くというのは怖ろしく孤独な作業なのだ。確かに「暗い地下室に降りていく」ような感覚がある。その深度が村上春樹の場合、100メートルだとしたら、僕は160センチなのだろうけど。

このエントリーだって、僕はたまたま今日書いているのではない。今日、今、ほんの少し、自分の地下室に降りて書いておかないと、僕の「書く」という行為が前に進めなくなるから書いているのだ。ほんのわずかな階段でも体力を使うことは事実である。

最近、僕の母方の遠い親戚と会合する機会があった。どうやらこちらの血脈には書くことが好きな人が多かったらしい。戦争中は「近代戦と国防」という評論を著し、昭和22年には進駐軍のジープを讃える絵本を書いた詩人がいた。この僕の遠い親戚はどのような地下室を上り下りしていたのだろうか。



書くための体力その3。

書くということは緻密さを要求される作業だ。
言葉の意味は時代によって変わっていくので、アップ・トゥー・デートな用語の選択。
内容の重複を避ける工夫、同じ言葉の重なりを避けるレトリック。
ステレオタイプな形容詞、熟語の回避。
主語と術語の整合性、表記の統一。
思いこみによる誤字の回避。ワープロ変換による誤字からの修正。

手書きからワープロソフトの普及によって、書くという物理的な作業は楽になっている。
僕自身も、もう手書きでは1行も書けやしない。漢字はほにゃらら、とごまかして書くしかない。
でもワープロソフトの罪が深いこともある。
動詞を重ねて表現する言葉をワープロは礼儀ただしく、両方とも漢字に変換してくれるのですね。
「思い込む」は、僕の場合は「思いこむ」と書きたい。手書きの時代には、こう表記していたはずなのだから。まあ、こんなことは年寄りの戯言なので、時代の変化で対応していけばいいのだけどね。

しかしながら、ニワカライターでも緻密さを意識してアウトプットしたほうが、読者にフレンドリーな文章ができあがるのは確実だと思う。

僕は文脈家としては、ざっくざっくと対象を大きく切っていくのが好きだが、文章家としてはレトリックをこねくり回すのが好きだ。
どっちにしても体力がいる。

また長いエントリーになりつつありますね。
読む方に体力を要求する文章は読まれないのでこのあたりにしておきましょう。
以下、最近、読んだ本、読みつつある本の中からいくつかを参考までに。



と言いつつも補足があります。
今後、僕が書きなぐっていくものが、どのようなジャンルの書き物になっていくのかはよく分からない。ただ、僕の意識の中でノンフィクションというジャンルが大きくあることは確かだ。
ノンフィクションと言えば、開高健の「釣りノンフィクション」、沢木耕太郎もの、開高健ノンフィクション賞受賞作などなど、僕の本棚には、このカテゴリーが山ほどある。

そして、佐野眞一も。

佐野眞一の満州関連著作を参考にして、僕の父方と母方、そして山の神方の私的満州史を書いてみたいというのが、僕の妄想のひとつである。彼の本には、妻の伯母さんの夫の写真が掲載されているので。



ところが、困った本に出会ってしまった。



「佐野眞一が殺したジャーナリズム~大手出版社が沈黙しつづける盗用・剽窃問題の真相」
ノンフィクション界の巨人は、手癖の悪い書き手だということを証明しようとする本だ。

悲しいことに、どうやらそれは本当らしい。
ニワカライターでさえも書くことについて体力を使っているのに、否、ニワカライターだからこそ体力がいるのかもしれないが、なんだか巨匠界の哀愁が漂う話だ。

この本に書かれているファクトをどう判断するかは、ニワカライターにとっても試金石になりそうだ。また引用と盗用の境目、書き手のモラルの問題を考える話が詰まっている。
引用と地の文の差異化は、くどいほど読んだほうがよさそうである。

紙の本、電子本、ブログ、あるいはソーシャルメディアで信頼を蓄積し共感を発信しようとしているすべての書き手に、ニワカライターからご一読をお薦めしておきたい。



2013年4月27日土曜日

文脈日記(ヨンニッパーとLOC)


明日は2013年4月28日だ。
1952年のこの日、サンフランシスコ講和条約が発効された。
そして僕は1952年3月13日に生まれている。
その約一ヶ月後、日本がアメリカの占領国ではなくなった。

僕は「最後の占領された子供たち」である。
ラスト・オキュパイド・チルドレン、Last Occupied Children、LOCという世代論は僕の脱藩後の生き型の基準になっている。

最後の人には後片づけをする義務がある。義務を果たしてこそ新しく発言する権利が生じる。で、何を後片付けするのか?と質問されたら、LOCよりも前の団塊世代がとっちらかしたこと、と言うしかない。

義務と権利、などという堅苦しい用語を使っているのは、世の中が憲法改正論議で、なんだか妙なことになっているからだ。

憲法の話の前に、ヨンニッパーだった。
2013年4月28日は「主権回復の日」になるらしい。言いたい放題の安倍晋三首相が衆院選での政策集を実行するということだ。

僕にとって4月28日はヨンニッパーとして記憶されている。
いや、僕にとってというよりもLOCの少し前に張り切っていた団塊世代にとっては、ヨンニッパーとして記憶されているはずだ、と僕は信じたい。
なぜ彼らはヨンニッパーについて発言しないのだろうか。

LOCは団塊世代とジェネレーション・ギャップがある。生まれたのはわずか3年の差であるが、考え方の違いがある。
彼らは「損か得かの競争原理」で動くことが多いから、今、安倍政権のやることにモノ申すと「損をする」とでも思っているのだろうか。

ヨンニッパーは「沖縄デー」。
1970年4月28日に僕は東京のどこかの公園ではじめてのデモに参加していたはずだ。香川県の丸亀という町の高校を卒業して早稲田大学に入ったばかりの僕は「ベ平連」の隊列に入っていたと思う。
「ベ平連」とは「ベトナムに平和を!市民連合」のことだ。この時代の社会運動のことを語るのは大変だ。なにしろ今となっては死語が多い。とにかくヨンニッパーというのは歴史的には沖縄と深く関わっている日だ。

1952年のヨンニッパーに日本国から切り離されて占領状態が続いていた沖縄は1972年の5月15日に返還された。つまり沖縄では「主権回復の日」から20年、主権は回復していなかったのだ。
70年前後のデモでは「安保粉砕、沖縄解放」というスローガンが発せられていた。もう忘れられたみたいだが。
ほんとにこの列島の大人たちは忘却術に長けている。謀略術よりはましなのだろうが。

安倍政権はヨンニッパーを「主権回復の日」にして沖縄の「屈辱の日」をチャラにしようとしている。それはないでしょう、とLOCは思う。
占領の後片付けをするときに一番、大切なことは何か、と問われたら僕は「歴史を正しく認識することだ」と答えよう。

ヨンニッパーに主権回復式典をして5月3日の憲法記念日には「憲法改正」を声高に話すというのが安倍政権の政治スケジュールなのだろうね。

という風に政治的文脈を書いていくことは僕にとって、とても抵抗がある。できればこんなことは書きたくない。10ヶ月前に僕はこんなブログ記事を書いている。
僕は政治的文脈で発言したくない。コンテキスターは文学的文化的文脈で列島の復興に向かって声を上げていきたい。そして、それは地に足をつけたものでありたい。天地有情に寄り添って口より土を大切にしていくこと。
脱原発のデモや集会に行くことも声の上げ方のひとつだと思う。ただし今現在の僕はデモに行く気はない。1970年のあの敗北感がトラウマになっているのかもしれない。
声の上げ方にはさまざまな方法論があるはずだ。列島民がそれぞれ抱えているそれぞれの事情の中で声を上げればいいと思う。
僕の場合は文学的文化的に語られる復興の思想を繋いでいく。それが田中文脈研究所という屋号を上げて、コンテキスターという肩書きをつくった者のミッションだと確認し確信した。 
『脱藩2周年・極私彷徨』2012.6.29
ところが、現状は怖ろしいことになってきている。
コンテキスターも政治を語らないと前に進めなくなってしまった。
まして、LOCという世代論を提唱した者にとっては黙っているわけにはいかない。僕が自分のブログで何を言っても世の中に影響があるとは思えないが、やはり思うところを吐き出さないと楽しく生きることはできない。

その原因はもちろん、安倍政権である。この政権は相当、たちが悪い。
なにしろ、歴史を変えてしまおうとしているのだから。過去に起こってしまったことは変えようがないので、歴史を隠す工作をしている、というのが正しい言い方なのかもしれないが。

村上春樹の新作小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」がベストセラーになって、様々な評論が世に出ている。
しかし僕にとって、この小説のキーワードはただひとつ。

「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」

2011年6月にスペインで「非現実的な夢想家」という反核スピーチをした春樹が、それ以後の日本的現実を見続けた結果がこのワーディングに結実したのだ、と僕は勝手に思っている。
これは小説なので、もちろん、春樹ファンひとりひとりが好きなように楽しく一気読みをすればいいのだが。

安倍首相は記憶を隠すことが巧みだ。
それにプロパガンダがとてもうまいので、とりあえず都合の悪いことには蓋をして巧みに隠すことができる。
フクシマは、ヒロシマ、ナガサキと同じく彼の記憶の石棺に押しこめられたらしい。
「過ちは繰り返しません」という言葉はどこに行ったのだろうか。

ヨンニッパーを忘れた人は日本国憲法も忘れていく。
「戦後レジュームからの脱却」というのは、すなわち「戦前ファシズムへの回帰」と同義語なのに、なんとなく新しい方向性を示しているように聞こえるから困ったものだ。

なぜ、安倍首相はこれほど改憲に執着するのか。趣味が右翼だから、という理由で改憲されるのなら、今度は左翼が趣味の人が政権を取ったらまた憲法が変わってしまう。これはおかしな話である。

しかも自分は第96代首相だから憲法96条を改正したい、などということまで言って、まずはゲームのルールから改憲派に都合のいいように変えようとしている。
権力者も人間、神様じゃない。堕落し、時のムードに乗っかって勝手なことをやり始める恐れは常にある。その歯止めになるのが憲法。つまり国民が権力者を縛るための道具なんだよ。それが立憲主義、近代国家の原則。だからこそモノの弾みのような多数決で変えられないよう、96条であえてがっちり固めているんだ。それなのに、縛られた当事者が『やりたいことができないから』と改正ルールの緩和を言い出すなんて本末転倒、憲法の本質を無視した暴挙だよ。近代国家の否定だ。9条でも何でも自民党が思い通りに改憲したいなら、国民が納得する改正案を示して選挙に勝ちゃいいんだ。それが正道というものでしょう。 
『小林節インタビュー/毎日新聞2013年4月9日』
改憲派の論客もこんなことを言っている。ルールを勝手に変えるのはいくらなんでもずるいと思うのはごく普通の感覚なのだ。

そもそもなぜ、日本国憲法を毛嫌いするのかが理解できない。
LOCとしては、この列島民が体験した悲惨な戦争の歴史的事実と引き替えに手に入れたものはなんとしても守ればいい、と素直な気持ちで思うのだが……。

このあたりのことに関しては太田光・中沢新一の「憲法九条を世界遺産に」という主張に僕は全面的に賛成だ。
改憲すべきだと言う人が、自分の国の憲法は自分の国で作るべきだと、よく言います。でも僕は、日本人だけで作ったものではないからこそ価値があると思う。あのときやってきたアメリカのGHQと、あのときの日本の合作だから価値があると。アメリカとしては、あの憲法を日本に与えて実験的な国をつくってみようという意図があったのかもしれない。だから、あそこまで無邪気な理想論が生まれたのでしょう。アメリカのああいう無邪気なセンス、僕は大好きなんです。 
(中略)価値があるのは、日本人が曲がりなりにも、いろんな拡大解釈をしながらも、この平和憲法を維持してきたことです。あの憲法を見ると、日本人もいいなと思えるし、アメリカ人もいいなと思える。すごくいいことじゃないですか。その奇蹟の憲法を、自分の国の憲法は自分で作りましょうという程度の理由で、変えたくない。少なくとも僕は、この憲法を変えてしまう時代の一員でありたくない。 
『憲法9条を世界遺産に』第二章 奇蹟の日本国憲法 太田発言

(前略)日本国憲法は、ことばでできた日本人のドリームタイムなんですね。このことばでできたドリームタイムによって、日本人は今まで精神の方向づけを行ってこられたんです。日本国憲法の文言をそのまま守っていると、現実の国際政治はとてもやっていけないよ、ということはほんとうです。北朝鮮が日本人を拉致した。こんな国家暴力にどう対処するんだと憲法の問いかけても、憲法は沈黙するばかりです。いつだって神々は沈黙するんですよ。イエス・キリストだって十字架の上で、このまま私を見殺しにするんですか、と神に向かって訴えたけど、神は沈黙したままでした。おそらく日本国憲法も、そういうものだろうと思うんですね。それはことばにされた理想なのですから、現実に対していつも有効に働けるとはかぎらない。働けないケースのほうがずっと多いでしょう。でも、たとえそれでも、そういうものを捨ててはいけないんです。そういうものを簡単に捨ててしまったりしたら、日本人は、大きな精神の拠り所を失うと思います。この憲法に代わるものを僕たちが新たに構築するのは、不可能です。
『憲法9条を世界遺産に』第二章 奇蹟の日本国憲法 中沢発言
無茶な憲法だといわれるけれど、無茶なところへ進んでいくほうが、面白いんです。そんな世界は成立しない、現実的じゃないといわれようと、あきらめずに無茶に挑戦していくほうが、生きてて面白いじゃんって思う。 
『憲法九条を世界遺産に』第二章 奇蹟の日本国憲法 太田発言
中沢によれば、日本国憲法にはアメリカ先住民、イロコイ族の「イロコイ連邦憲章」の永久平和維持の精神が息づいているという。
イロコイ族というのは、半農半X研究所、塩見直紀さんがよく言及する「七世代先の子孫」のことまで考えてものごとを決定したという民族だ。

一世代が50年として350年先までの想像力を持つのは難しいが、自分の孫が二〇歳になったときに国防軍に入って、集団的自衛権という権利を駆使してアメリカ軍といっしょに世界のどこかで戦争をしている姿を想像してみよう。

その姿を誇らしく思うのか、絶対にいやだ、と思うのか、その判断を僕たちは問われているのだ。
僕は絶対にいやだけどね。

だったら、安倍政権に反対の声を上げるしかない。
一般論ではなく、自分の歴史的文脈からも、今の自分の家族的文脈からも。
あんなに可愛い孫を戦争に行かせてたまるか。この先は女の子であろうと、軍隊は大歓迎してくれるらしいが。

人は誰もが歴史的社会的文脈から逃れることはできない。その文脈は当然のことながら、家族史からも大きな影響を受けている。

僕の父方の祖父も母方の祖父も中国大陸と深く関わっていた。
「満州国」があった頃の話だ。大連を中心にしてかなり自由人として生きていたらしい。そろそろ僕は、彼らの文脈研究をしてみたいのだが、それは宿題にしておこう。

僕の母方の祖父は「大連汽船」という会社のエライさんだったらしい。敗戦後の満州で引き揚げ前に死んでしまったので、僕はこのじいさんに会ったこともないし、詳細は分からないが。

一方、安部晋三の母方の祖父は岸信介という。
一国の総理と一介の「中等遊民」を同列に並べるのはいかがなものか、というご意見は無視する。
オープン&フラットというのはすべての文脈を横並びにして考えてみることでもあるので。

僕のじいさんと違って、岸信介の場合は歴史的事実が残っている。
岸は1936年に当時は満州国と呼ばれた地域の首都であった新京に官僚として赴任して、満州の産業開発に奔走した。
『満州裏史』(太田尚樹)によれば、1939年の帰国時には上司から「クリーンだったあの男が、あそこまで闇の世界に手を染めながら、満州国を動かした」と言われるまでになったという。

戦後はA級戦犯の容疑者になりながら、冷戦でアメリカが占領政策を逆行させたために釈放されて公職追放された。そして1952年のヨンニッパーに公職追放解除されている。
そういう意味では4月28日は岸信介の「主権回復の日」であることは間違いない。
さらにウィキペディアによれば、岸はその後、「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を目標にした保守政党をつくったとある。

結局、安倍首相は祖父の見果てぬ夢を自分が実現しようとしている「よくできた孫」なのかもしれない。

歴史を上から目線で、「儲かった人たち」サイドから見れば、戦争の歴史は違うように見えるのだろう。しかし、岸信介が去ったあとの満州で、1945年8月15日前後に何が起こったのかを「見捨てられた人たち」の目線で検証する作業も必要だ。

僕の父方の祖父や母たちは、いろいろあったが、なんとか無事に大連から引き揚げることができたから、今、僕はここにいる。そして温々と育って大学に入り会社に入った。

「高度成長」の恩恵を受けて「豊かな消費生活」の先頭に立っていたことは事実だ。
だからといって、今さら、そのことを「自己否定」も「自己批判」も「総括」もする気はない。
そこに罪の意識を感じて、妙な倫理主義に陥ると言いたいことが言えなくなる。

僕は今、自分の感じている「気持ちの悪さ」を放置するわけにはいかない。

ヨンニッパーも憲法も原発もTPPもリフレも全部が気持ち悪い。
つまり、安倍政権が目指していることが気になってしょうがない。

電通のおかげで飯を食ってきたお前にそんなことを言う資格があるのか、と言われても気色が悪いものは気色が悪いのだ。
今の僕はまったくのフリーランスなので誰に遠慮することもない。

ああ、きしょくわるい!

だが、駄々っ子みたいなことだけを言っていても事態は進展しないので、もう少し歴史の事例を見てみよう。

いくら趣味が右翼の安倍首相でもさすがにナチズムは礼賛していない。
ナチスが政権をとったのは、暴力革命ではなく、普通選挙権による代議制民主主義のなかででした。当時のドイツには、世界最大の労働政党であるドイツ社会民主党や、キリスト教保守政党があり、労働者と保守層を代表していました。しかし恐慌のなかで、どこの政党にも「われわれが代表されていない」という思いを抱く失業者たち、わけても第一次世界大戦の帰還兵で「社会の余計者」あつかいにされていた若者たちが、共産党とナチスを支持しました。 
『社会を変えるには』小熊英二 P326

「どういうことなのか。どうすればいいのか」という刺激的な帯がついたこの本は日本と世界の社会運動史に対する示唆に富んだ論考である。残念ながら僕の気持ち悪さを一気に払拭してくれるわけにはいかないが。

ナチスが政権を掌握した後の1933年の3月23日にはそれまでの憲法を否定する全権委任法が成立し、立法権を政府が掌握し独裁体制が確立した。その後にナチスがやったことは今さら説明の要はないだろう。


戦後のドイツは過去に自分たちがやってきたことを背負い「自分たちがやったことは何だったのか」と自らに問い続け、検証をし、今日まできている、と小出裕章先生は語っている。

終戦から四〇年後の1985年5月8日に当時のヴァイツゼッカー大統領は『荒れ野の40年』という演説をしていたことをこの本で教えられた。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。あとになって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります。
『新版荒れ野の40年』リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(岩波ブックレット)
歴史に目を閉ざしてはいけない。自分たちのやってきた歴史、過去をしっかり見つめていかないと現在をまた間違える。未来のこともまた間違える。 
『骨子要約/小出裕章』
安倍首相も戦後のドイツについて、その著書で言及している。
(ドイツは)主権回復と同時に国防軍を創設し、軍事同盟である北大西洋条約機構に加盟した。そればかりか、西ドイツは、東西統一までに36回も基本法(憲法)を改正し、そのなかで徴兵制の採用や非常事態に対処するための法整備をおこなっている。 
『新しい国へ(美しい国へ完全版)』安部晋三 
でも、そのドイツが2011年7月4日に徴兵制を事実上、廃止したというつい最近の歴史的事実については何も言わない。

そのドイツが311後に脱原発を加速して自然エネルギーへのシフトが急速に進んでいることにももちろん言及しない。

安全が確認されたら再稼働します。新しい技術で安全な原発をつくります。核融合はまだできないので、今は核分裂の原発に頼るしかない。原発を止めたら電力会社は倒産してしまうし。
これが「新しくて美しい国」の基本的なエネルギー政策なのだ。
日本という国は古来、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かちあいながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた、「瑞穂の国」であります。自立自助を基本とし、不幸にして誰かが病で倒れれば、村の人たちみんなでこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです。
『新しい国へ(美しい国へ完全版)』安部晋三 
はい、総理のおっしゃるとおりです。では質問です。
それではなぜ、「瑞穂の国」とは未来永劫相いれない放射能をまき散らすものを容認するのでしょうか。
強い農業と強い放射能はどちらが強いのでしょうか。

これからの「瑞穂の国」に必要な施策は以下ではないでしょうか。

不幸にしてどこかで原発が爆発したら、国の人たちみんなでこれを助ける。
日本人のDNAを傷つける被曝は低線量でも許さないと社会全体で保障する。

この首相の言うことが信用できないのは、僕だけなのだろうか。
満州や中国戦線、南方戦線の記憶に蓋をする前に、汚染水が漏れ続けるフクイチの石棺をつくることに全精力を上げたらどうか、と思うのは僕だけなのだろうか。

「騙されたあなたにも責任がある」
これは、小出先生の口癖である。確かにそうだ。特に鉄腕アトム世代でもあるLOCは騙され続けてきた。

でも、もういやだ。
この気色わるい情況からエクソダスして、楽しく孫と遊びたい。
そのために言いたいことを言いたい。

僕には小出先生や田中優さんのような潔い生き方はできないだろう。
言っているとことやってきたこと、やっていることが矛盾している、と言われてもしかたがない。
でも、言いたいことは言いたい。言えるうちに。

自民党の憲法改正草案の第21条。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という現行規定に「前項の規定にかかわらず、公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という条文を追加した。

みごとに戦後レジュームから脱却して戦前ファシズムへの回帰をしようとしている。
まさか、僕のブログが公益に反するとは言われないだろうが、小出先生や田中優さんや岩上安身さんを招いた講演会は安倍首相が「それは僕の考える美しい国の公益に反する」と判断したら、「弁士、中止!」になるわけだ。

残念ながら、今の政権を選んだのは僕たちなのだ。
文句は言えるが、しばらくは体制を変えることはできない。それが代議制民主主義というものなのだから。自民党の比例区得票率が3割だとしても。

「社会を変えるには」という大著を著した小熊英二は4月25日の朝日新聞の論壇時評でこう言っている。
7月の参院選で自民党の勝利が確実視されている。 今回は自民党が大敗した2007年参院選の改選である。自民党が現有議席より増えるのが「勝利」ならそれはほぼ確実だ。 また、自民党以外に「勝つ」政党がない。民主党が「勝つ」可能性は短期的には低い。地方に足場のない維新や「みんな」も同様だ。その他の政党はいうまでもない。

半農半ジャーナリストの高野孟さんの言を借りればまさに「荒涼たる日本政治の光景」がこの先しばらくは続くのだろう。
(たとえ自民党の比例区得票率が3割でも選挙をすれば)「昔のやり方を踏襲してほしい」という3割の票が確実に勝つ。その3割も、それでいいと信じているわけではなく、「自分が逃げ切るまでは昔のやり方で」「ほかに未来が見えないから」という人が多いだろう。いわば「懐メロを歌いながら沈んでいる」のが現状だ。今はアベノミクスの「小春日和」だが、長く続くと信じている人は多くあるまい。

と分析したあと、小熊は「選挙に頼れない今、対話を」と説くのだが、「懐メロで酔っ払って二日酔いからの回復が遅く、逃げ切り世代に属してしまった」ラスト・オキュパイド・チルドレンは、誰に向かってどんな対話をすればいいのだろうか。


その答えは「昔、革命的だったお父さんたち」に向かって、孫たちに何を残して死ぬか、という対話をすることだと思われる。

今月の文脈研究レポートを四苦八苦しながら書くために、かなりたくさんの本を読みこんだ。
締切が迫っている今、最後にたどり着いた本がこれだった。2005年に読んで本棚の目立つところにずっと置いていた本だ。

一気に再読した。これはラスト・オキュパイド・チルドレンのバイブルだ。

第一章 団塊世代、かく戦えり~戦後日本と新左翼運動
第二章 サブカルチャーにはじまり、終わった世代~団塊世代が切り開いた地平と挫折
第三章 亡国の世代 やり逃げの世代~そう呼ばれて、消えていくのか

特に第二章は、LOCの文化的背景と精神的文脈を語るうえでの貴重な論考になっている。
もちろん、この本のコンセプトは「団塊世代」だ。LOCという概念は入っていない。団塊とLOCの微妙な関係については、またいつか書こう。

昔、革命的だったお父さんの世代は、特定の支持政党を持たない無党派層の比率が高い。
かくいう僕も選挙には無関心な時代が長かったのであるが。
僕は「しらけ世代」でもあったのだ。

安倍政権が誕生した衆院選の投票率は59.32%。戦後最低だった。
「あしたのジョー」を夢見たお父さんたちは、この結果をどう思っているのか対話したくなってきた。

でもって、7月の参院選のことはどう思っているのだろう。
と他人のことをあれこれ言う前に、まず自分のことだった。政治的文脈で書き始めたことは政治的に終わる必要がある。

このレポートを書くために、田中文脈研究所の過去記事もかなり読み返してみた。

コンテキスターはいろいろな人に会って話を聞き、ものごとを考えてきている。
その中で、自分が信頼できると思う人の視座に寄り添って参院選への態度を決めるしかないな。
安倍自民党に投票することはありえないけど。

まずは塩見直紀さん。
つづいて田中優さん。
鴨川自然王国高野孟さん。
やっぱり小出裕章さん。
ちなみに小出先生は1949年生まれだ。最後の団塊世代でこれほど気骨があって、しかもやさしい人がいたのは奇跡的なことと思われる。

最後はこの人。1年前の子供の日には「緑の鯉のぼり」で「原発ゼロの日」を祝ったのに、この国はなんという逆行コースをたどっていることか。


最近、この人が「じじ、しっかりせえよ」というような目で僕を見ていると思うのは錯覚だろうか。

しっかり考えてみたら、颯爽たる未来圏から吹いてくる風はやっぱり緑なのだろうね。


今回も長いレポートにおつあいいただき、ありがとうございました。
最後におまけをひとつ。苦しい時の宮澤賢治頼みを。


「政治家」 

あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい吞みたいやつらばかりだ
羊歯の葉と雲
世界はそんなにつめたく暗い

けれどもまもなく
そういうやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される

あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであろう

『春と修羅第三集』宮澤賢治