2017年11月14日火曜日

国つ神と半農半X・中締め篇

※やがて本編に接続する文体で書いているので敬称略の部分もあります。

もうすぐ脱稿する

『国つ神と半農半X』を書き続けている。書き続ける意志と書き上げる自信はある。どうやって出版するかは脱稿してからだ。書かぬ原稿の出版算用をしても仕方がない。

基本的にはタイムラインに沿って章立てをしてみた。始まりは2010年6月。僕が広告会社を脱藩したタイミングである。ではエンディングはいつにするのか?これが悩ましい。今は2017年11月である。

島根県内を東から西まで取材したのは基本的には2015年。でも諸行無常は世の常、取材した人も物事も動き続けている。そこのフォローを始めたら本書にはエンドマークが現れなくなるだろう。
「永久の未完成これ完成である」(宮澤賢治)といえども、本というパッケージにする以上、どこかでケリを付けなければ。
ブログは永久のβ版でいいのだけど、本には句点が必要である。

そもそも、僕の書いていることは本のジャンル分けからしたら何になるのだろうか。エッセイ?ルポルタージュ?評論?
正直なところよく分からない。当研究所の初期に書いていた「文脈日記」であればエッセイなのだろう。だが個人的日記を本にしても僕を知っている人にしか興味を持たれないと思う。

ジャンルよりも書いている情理が長い射程で読者に届くかどうかが問題である。
この7年間で極私的に見たり聞いたりしたことが、ある種の普遍に繋がるのかどうか。僕の文脈研究の根っこには、そういう思いがある。

今のところ、見出しは以下である。
〈始まりは綾部〉
〈塩見直紀と綾部の型〉
〈プレ半農半X時代〉
〈卵が割れた〉
〈締切のない夢は実現しない〉
〈本との出会いは本当の出会い〉
〈2011年、春が来た〉
〈「島根の半農半X」事始め〉
〈311がやってきた〉
〈ニワカ百姓修行〉
〈311って何だったのか?〉
〈「日本の文脈」は変わるのか?〉
〈「本を書く」というタイムライン〉
〈綾部全文脈研究〉
〈そして主任研究員になる〉
〈半農半Xと政治的文脈〉
〈半農半Xとは?主任研究員として〉
ここまではほぼ書き上げている。
以上のコンテンツに〈環境農業を巡る短いサマリー〉と〈極私的国つ神論〉を加えたら一気に〈国つ神と半農半X(ライブ篇)〉として取材部分に文脈が繋がるはずなのだが。
ただし、今、文脈レポートとしてアップされている取材は2015年の話である。
やっぱり「なう」がほしい。「なう」は死語だと言われても、今を書いておかないと……。
このような思いから僕は新しい取材を始めた。
なんとしても今年中に『国つ神と半農半X』を中締めするために。

2016年タイムライン

新取材の話をする前におさらいをしておきたい。
島根に半農半Xがやってきたのは2011年3月6日。
この日、塩見直紀が初めて松江で講演をした。その直後、島根県農林水産部次長(当時)だった松本公一は塩見にお願いをした。
「半農半X」という言葉を「農業プラスアルファ事業」の新しいネーミングとして使わせてください。
これが「島根の半農半X」ことはじめだった。


それから5年後、2016年2月6日に「半農半X5周年記念講演会&シンポジウム」が開催された。場所は島根県西部の浜田市。僕は松本公一とともに参加した。
基調講演はもちろん塩見直紀。そして浜田市と吉賀町(よしかちょう)から2人の半農半X(施策)実践者が生活レポートをした。


続くパネルディスカッションでは小田切徳美がコーディネータとして登場する。農山村を消滅させないための「田園回帰」を提唱している大学教授である。
ここでの話は全体的にはXを兼業として捉えた報告が多かった。あたりまえである。まずは「稼ぎ」をどうするかが移住者の優先課題なのだから。


塩見直紀は「稼ぎつつ家庭を築きつつ社会を変えつつ」と説く。志を貫くには生業(なりわい)の確保も大切なことだ。


だが、今の僕に「稼ぎ」について語る資格はない。風百姓として島根の半農半X者の取材を続ける僕が巡り合いたいのは、志としてのXを持っている人である。
結果的には、取材した半農半X者のなかで、施策としての〈半農半X〉を使っていたのは一人だけだった。

夜の懇親会は国つ神系縁会の常として楽しい酒が回ってくる。僕は「ふるさと島根定住財団」の藤原義光理事長(当時)の言葉をとらえた。「半農半Xはお金の話だけではなく志のことですよ」と藤原理事長は言う。それなら僕のテリトリーだ。さっそく理事長に自分のポジションとミッションを伝えた。


お金ではなく志の話をしたくなった僕は浜田駅前の「神楽」に行く。県庁に勤めていた頃に松本公一が馴染みにしていた居酒屋だ。島根県民の必読書『美味しんぼ・日本全県味巡り島根編』にも登場する名店である。ちなみに松本も同書の冒頭で紹介されている。


いつものように旨き酒と肴に酔った僕は「これも島根県民の必読書です」などと言いながら、「神楽」の大石恵子に『半農半Xという生き方【決定版】』をプレゼントしてしまった。

〈半農半X〉が「田園回帰」のうねりにのって広がっている情況をつかんだ僕は一気に本書の原稿を書き上げた……となれば綺麗に文脈が繋がるのだが、そうはいかなかった。
2016年は3月以降、『出雲國まこも風土記』(発行:里山笑学校/発売:今井出版)の執筆にとりかかることになる。
「まこも」は国つ神の草である。そのことに関しては同書を読んでほしい。
『国つ神と半農半X』のスピンオフストーリーの方が先に完成してしまったわけだ。


書くためには現場を踏まなくては、という難儀な癖のため、自分でマコモを栽培してマコモタケを収穫した。
そのことは半農半X者としてのキャリアにほんの少し厚みを加えた、と自負している。

島根の地域おこし協力隊

一方で地域おこし協力隊である。2009年度に総務省の支援により発足した同制度は現在も多くの「田園回帰」組に利用されている。島根県内でも地域おこし協力隊は半農半X施策実践者の五倍近くいるようだ。

必然的に、僕は「地域おこし協力隊なう」と出会うことになる。
それは2011年に「地域おこし協力隊の協力隊」と自称していたコンテキスターが引き寄せた、あるいは引き寄せられた現象だろう。

まして、僕は島根に半農半Xという言葉が導入された翌日にして東日本大震災の4日前、2011年3月7日に思い入れがある。
「村楽LLP設立準備サミット」が島根県飯南町で開催された日。小雪がちらつく中を、まるで青い春のような気持ちで車を走らせた日のことは忘れられない。

「村楽LLP」とは「全国地域おこし協力隊連合」構想であった。それは構想から有効な実践に移されたとは言いがたい結果に終わったが、文脈家の記憶を記録に遺す価値はあると思う。


そして、地域おこし協力隊の多くが半農半Xという言葉にも導かれて島根にやってきたはずだ。だって、そうだろう。
「日本で47番目に有名な島根県のど田舎で兼業農家やります」というよりは「ご縁の国出雲で半農半Xという生き方をします!」と宣言した方が本人のモチベーションは高まり、周りの共感も得られるはずである。

地域おこし協力隊と半農半Xは、月と兎のように仲がいいと思われる。
僕は2017年現在、島根の地域おこし協力隊として動いている3名に取材をお願いした。



隠岐の島町地域おこし協力隊・米倉ゆかり

ゆかりちゃんとは、まこもの縁脈力により繋がっていた。彼女は誰が言い出したか分からないが「まこも姫」と呼ばれている。『出雲國まこも風土記』を書き上げるうえで、ゆかりちゃんの話は重要な気づきを与えてくれた。

「八雲立つ出雲まこもの地下茎は島の根っことなって、縁脈を繋ぎ、関係性を浄化したがっているようです」
この結論部分が書けたのは、ゆかりちゃんのおかげである。


まこもに関する取材中に隠岐の島町で協力隊になることを知ったときは驚いた。
因果は巡る(いい意味で)のだ。

さらには隠岐である。島根全県取材、といいつつも実はうしろめたいところがあった。現在の島根県というのは出雲と石見と隠岐で成り立っている。
僕は意識的に隠岐を避けていた。隠岐は深すぎる。ここに突っ込んだら『国つ神と半農半X』は完成しない。そんな直感があったので、続編のために温存しようとしたのだ。

だが、今は確信を持って言える。本書の続編は無理だ。能力的にも体力的にも。
ならば、隠岐に関しても書けるだけは書いておこう。


何度も言及している松江の野津旅館は隠岐に根っこを持っている。山の神の父上は、僕が「隠岐の島」というと気分を害していた。
「隠岐の国と言ってごせ。国だがね」。確かに、あの島々は独自の国である。
根っこには墓がある。2017年8月、僕は山の神三姉妹のお供をして野津家の親戚巡りと墓参りをした。

隠岐の国は「島前(どうぜん)」と「島後(どうご)」という地域に別れている。今は隠岐の島町すなわち島後にフォーカスしよう。
島後は日本海に浮かぶ大きな島である。古来、海上交通の要であった。半島から人と文物が渡ってくるときの中継点となっていたのは間違いないだろう。


そして、島後は豊かな島だ。広い田んぼがある。そこにはハデ木が常駐している。田んぼのオフシーズンには海藻を干すそうだ。野の幸と海の幸が折り合っている。山は深い。猪と鹿はいない。山の幸もまた人のためにある。牛と馬がいる。
もちろん国つ神はおわします。それも基本的なカタチで。岩として樹として。


2017年8月24日。僕は島後の玄関口、西郷港で米倉ゆかりと会った。まずはまこもの話をする。前日、島を案内してくれたタクシードライバーは「島後にはマコモはない」と言っていた。
ところが、どっこい。えっ、こげなところに、と思うほど身近な場所に「隠岐國まこも」が風に吹かれていた。玉若酢命神社の神事にも役立っている真菰である。


その穂先には見慣れないものがある。細い軸から互い違いに実のようなものをつけている。「出穂だ!」僕が声を上げる。「わーすごいすごい!」まこも姫が続く。

マコモは稲科の作物である。だから米すなわちタネをつけるために穂を出すのはあたりまえだ。しかし、マコモには黒穂菌に感染してマコモタケという茸(きのこ)ができるものもある。僕が見てきたのは、すべてそうだった。
マコモタケができなければ出穂する。理論的には分かっていたが、見たのは初めてだ。「天は二物を与えない」現象を隠岐の国で確認したのだ。


まこも姫はまこもの話をするとき、オーラが出るように思える。その愛車のバックミラーから垂れ下がって揺れているのは麻の飾り物である。流れる音楽はボサノバ。


姫は自然を精製したものからできているのかもしれない。そんな仮説を持ちながら、ゆかりちゃんの車で島後を巡りつつ、協力隊の話も聞く。

地域おこし協力隊は行政の職員になるわけではない。仕事を「委嘱」されるだけだ。「委嘱」はときとして「萎縮」を生む。
彼女が委嘱されたのは、いわゆるお役所仕事だった。コンクリートの箱の中で慣れない行政文書をつくりながらも、ゆかりちゃんの心は野に放たれていた。
隠岐の海に、滝から流れる水に、水から立ち上るホタルの灯火に、稲にまこもに野の薬草に。

半農心? いや全農心がゆかりちゃんには宿っている。全農女子は隠岐の風と土で育った。生まれは松江市だが、母方の祖母が島後の西海岸、那久(なぐ)にいる。現在は90歳を超えているが、かつてはスーパー全農ばあちゃんだったらしい。そのまま飲める水源が近くにある田んぼと畑でつくる、つくる、つくる。米、大豆、小麦、菜種、蕎麦。したがって味噌も醤油もできた。牛も山羊もいた。

町育ちの少女は隠岐が大好きで、たびたび通っていたという。那久の村を流れる川の上流には「壇鏡(だんきょう)の滝」がある。ゆかりちゃんの中を流れる水の源なのだろう。


「自分らしくあるためには自然が身近になくっちゃ」。ゆかりちゃんは言う。
自然を身近にしたならば、「センス・オブ・ワンダー」が身につくのは、固定種のタネが翌年も発芽するのと同じくらいの確率だと思う。つまり、100%ではない、という意味なのだが……。

ちなみに「センス・オブ・ワンダー」とは「自然の不思議さや神秘さに目を見張る感性」のことである。歴史的啓蒙書『沈黙の春』の著者、レイチェル・カーソンが広めた言葉だ。
ゆかりちゃんのそれは、松江の田んぼで芽生えて隠岐の水で磨かれたようだ。
自然全般を語るときの彼女は本当に楽しそうだ。それは発芽率100%の真実である。


そして、さらに、本質的なことを語った。
「自然と環境が自分にあっているかどうかも大切だけど、誰と一緒にいるかもすごく大事なことだと思います」
これも「半農半X的生き方」の基本的マナーである。Xとは二本の線がクロスするカタチ、すなわち関係性のことでもある。

自然と人の関係、人と人の関係。それを深めていくためには、きっかけがいる。
たとえば、大豆は大豆としてあるときはバラバラの粒である。無関係だ。そこにある種のものが働けば、ネバネバの関係になる。それを納豆という。バラバラをネバネバに発酵させるのは納豆菌だ。バチルス・サブチルス・ナット―。

大豆がナット―になるプロセスはバラバラの個人がインターネットで結ばれてネットーピープルになるメタファーでもある、と誰かが言っていた。

閑話休題(それはともかく)。
なんと「まこも姫」は発酵の世界にも詳しい。関係性が浄化されるとき発酵というプロセスをともなえば、より緊密で腐らないものになるはずだ。

隠岐の風土の話から、いきなり「アスペルギルス・オリゼー」という単語が出てきた。日本麹菌のことである。日本の国菌といわれるこの子がどこから生まれるかによって、それが醸すものの風味が変わってくるそうだ。米麹は米の味、レモン麹はレモンの味、野草麹は野の味。
隠岐の土には独自の菌がいる。オキノウサギやオキサンショウウオや隠岐マコモがいるように。

ゆかりちゃんは隠岐の稲玉から麹のタネをとる。シャクナゲからも野草からも麹菌を取りたいという。
マコモを含めた隠岐の薬草と麹菌を同時進行で研究していきたい。ゆかりちゃんの展望が見えてきた。

今も昔もどこの地域でも「地域おこし協力隊」の課題は「三年後」である。
協力隊の任期は三年。その稼ぎがある間に卒業後の設計をしなければならない。
新規就農、勤め人、あるいは起業。様々な道はあるが平坦ではない。島後の港、西郷から聖なる山、大満寺山へ登っていくように。


「だけん、わたしがやりたいのは起業ではなく暮らしを楽しむことなんです」
隠岐の国で暮らしを楽しむ!
この豊かな島で。周りを明るく醸しながら。国つ神が好む律動に乗って踊りながら。
そして、暮らしを楽しむためには美味いものを食わなければならない。

ゆかりちゃんは「ヤナカケ」の魅力を語る。那久のおばあちゃんは醤油もつくった。その醤油を刺身にかける。刺身は海に泳いでいる。それをご飯の上に大胆に配置して湯をかける。刺身と醤油から海と大地の味が浸みだしてくる。おばあちゃんのご飯は大量消費されていく。
「ヤナカケ」は野津旅館のまかない料理でもあった。こちらも隠岐がルーツだったのだ。

暮らしを楽しんで食っていけたら最高だ。この場合の食っていくには現金収入も含まれる。大丈夫、ゆかりちゃんには「隠岐の善なるもの」がついている。それは「善き関係性」を繋いでいく力だと思う。

隠岐に残る古いものを醸して新しい道しるべとする。「懐かしい未来」を目指して。今、世の中には「田園回帰」を評価する文脈もある。そこに稼ぎの芽があるはずだ。

もうひとつ隠岐には受け継がれているものがある。「隠岐コンミューン」という歴史的事実をご存じだろうか。

「コンミューン」とは住民自治を目指す地域共同体のことである。支配者側からは「隠岐騒動」と呼ばれる蜂起は、明治維新・王政復古のカオスのなかで、自らの信念に基づき、上からの支配を拒否した革命運動である。
言いたいことを言い、やりたいことをやる、その貫く力は隠岐の人々に通底しているように思われる。

ときとして、それは「わしが、わしが」と自己主張の強いおっさんを生み出すが、ゆかりちゃんにだって、貫く力は備わっているはずだ。


米倉ゆかりは2008年、『半農半Xという生き方』の新書版が発行された頃から「半農半X」という言葉に親しんでいたという。僕はそれから2年後に「半農半X」と出会った。

先輩に敬意を表しつつ「では、ゆかりちゃんの究極のXは何?」と僕は定番質問をしてみる。
「わたしはまつりが好き。ハレとケならハレが好き。唄と踊りと美味しいものとお酒が好き」
「ならば、半農半まつり姫? 姫というとえらそうだから半農半まつり娘!」
と僕は例によって、適当なことを言う。

半農半まこも姫、というのが取材前のイメージだったが、この人はまこもだけにはとどまらない。「天晴れ!」と言いたくなる。
「半農半あっぱれ娘、発酵が好きな半農半しゅわさか姫!」さらに適当なことを重ねる。
まあ、このあたりは本人にとってはどうでもいいことで。取材した人の志を言語化したいコンテキスターの力量が問われるだけである。


隠岐の海と川と野とともにあり、国つ神がおわします神社のひとつひとつを愛おしむゆかりちゃん。出雲よりもさらに古層から信仰を育んできた隠岐の國の神々への造詣も深い。
朝鮮半島と出雲の間にあるがゆえの伝承と物語を発掘することも「暮らしを楽しむ」方法のひとつなのかもしれない。そんな彼女を訪ねて日本海を渡る友人も多いという。

ちなみに、ゆかりちゃんは綾部にも何度か行ったことがある。
「いいとこですね。でもやっぱり誰と一緒に行くか、そこで誰に会うか、仲間っていうのが大事だと思います」
この人は綾部でも豊かな縁脈を繋いでいた。マクロビオティックのカリスマ、若杉ばあちゃんルートだ。まこも縁脈ともいえる。大本ルートともいえる。



隠岐の土に根ざして、そこに息づいている善なるものを元に暮らしを醸していく。
米倉ゆかりは半農半発酵源である。



松江市地域おこし協力隊・豊田美智子

みっちゃんは僕と初めて出会ったときの印象をこう語る。
「いきなり現れて、畑の隅々まで写真を撮った変なおっさんがいた」
豊田美智子との変人比べはお互いさま。
何しろ、箕面の畑イベントで行灯にアインシュタインや吉本隆明やジョンレノンの言葉を書きこむ畑女子だったのだから。畑に文学をばらまく女子が変人でないはずはない。ここでも変人が変人を呼び、へそ曲がり連合をつくっていく。


畑の名は「マイファーム」。町のニワカ百姓に農業体験を提供する会社の15平米である。僕の半農半Xの小さな拠点だ。
みっちゃんはマイファームの「自産自消アドバイザー」だった。利用者とアドバイザーという関係を越えて、僕とみっちゃんはなんとなく気があったのかもしれない。

みっちゃんは畑にデザインをする。広告クリエーティブを生業にしていた僕は、みっちゃんのつくる野菜よりもそこに目がいっていた。
おもろい半農半デザイナーがいるな。味のある手描きイラストと文字の看板。近所の子供たちに受ける。お父様、お母様たちにも。たぶん。そして彼女がデザインした数々のフライヤーにも妙に気をひかれた。


2015年の話である。その頃、僕は「山の陰」に長期ロードに出ることが多かった。ロードから帰って箕面の畑で開催される素朴なイベントに参加するとほっとした。
ここが僕のホームなんだ、と。気楽に松江や島根の話をする。


「もし、そのあたりに興味があるのなら、ワタクシのブログを読むとよろしい」などと、たぶん上から目線で田中文脈研究所のことをしゃべっていたような気もする。

彼女がいきなり地域おこし協力隊になったのにも驚いた。しかも僕の大好きな町、松江だ。
2016年4月、松江市が初めて募集した協力隊の一期生、豊田美智子。
みっちゃんもロードに出た。いや、松江をホームにしてしまった。
これは取材しなければ。野津旅館のすぐそばだし。

隠岐の島町地域おこし協力隊を取材した翌日、僕は松江市役所玉湯支所に行く。
「まっちぇ」という看板にしたがって行くと、大きな部屋があった。そこは地域おこし協力隊事務室だった。いろんな協力隊と会ってきたが、10名の隊員が役所内でデスクを並べるスペースを持っているのは珍しいケースだろう。
ちなみに「まっちぇ」とは松江の出雲弁風味発音である。協力隊の愛称。ロゴのデザインはみっちゃんの仕業らしい。


デスクに人はいない。それはそうだ。地域おこし協力隊員がデスクにしがみついていては、何も起こせるはずがない。
みっちゃんは工作隊となっていた。松江のイベント「水燈路」のための行灯づくり。なんだか松江市役所になじんでいる。
半農半デザイナーだったのに、今は農的生活は自宅の庭に限られているそうだ。


島根の伝統産業を守り未来へ繋ぐ試み、それが現在の「みっちゃんミッション」だという。出雲民芸紙、手漉き和紙の新しい流れをつくること。アウトドアで使われている来待石にインテリアとしての価値を付加すること。島根の暮らしや信仰、ものづくりを体験するツアー開発。
おや、すっかりビジネスモードだ。


〈島根の半農半X施策〉ではなく、「松江の地域おこし協力隊」を選んだのは、フリーミッションだったからだという。そして、いきなり地域おこし協力隊になったわけでもなかった。

実は2014年には大分の地域おこし協力隊に合格していたのだ。ただ同時期に大阪の「森のようちえん」に出会って、マイファームと掛け持ちで働く。僕と畑であれやこれや話していたときにも彼女の心の中には常に協力隊があったようだ。


「地域おこし協力隊になりたかったんです!」と断言するみっちゃんは3・11で「変わった人」だった。東日本大震災と福島原発事故を見て、こう思ったという。

「やっぱり、あんなふうになったときに一番強いのは、自分で何かをつくって生きる糧にできる人たちじゃないですか。生き残るのは、そういうノウハウを持っているのは田舎だなって。都会じゃなく。根っこの部分で自分の頭を使う、そういう人たちががんばらないと、この国やばいよ!」
そうだ。やばいのだ。
3・11の影響で新天地に移住した人々とたくさん出会ってきた。3・11で日本は内面から変わったと言われるが、意外と変わらなかったというのが私の感想だ。
塩見直紀は『半農半Xという生き方【決定版】』の「出版10年を振り返って」で、こう述べている。
確かに「内面」はたいして変わっていない、と僕も思う。でも、塩見さん、内面も外面も変わった人もいます。その人たちは相変わらずマイナーで「変人」と呼ばれていますが。

塩見がこの文章を書いていた2014年、まさにみっちゃんは変わろうとしていた。

「頭おかしいやろ。20ミリシーベルトですよ。再稼働させるし。権力を持っている人たち、それでいいんだ、と思っている人たちを相手にするよりも、末端で自分の考えを持っている人とつながらな、あかんな」

みっちゃんは確信を持ってしゃべり続ける。その場所、松江市役所玉湯支所から宍道湖を挟んで北に12キロの距離には島根原発がある。ちなみに国宝松江城からは8.5キロである。


「3・11をキッカケに、なんかおかしいぞ、と気付いたんです。おかしなことは地域に行かないと解決しないぞ。地域おこし協力隊になったら日本を変えられる。田舎の片隅ですごく面白いことができそう。戦争とかも地域が頑張ればなくせるな。ファースト・ファッションみたいなグローバル化の波からも地域に行ったら逃げられる。地域から変えられる!」

みっちゃんは僕の『国つ神と半農半X』企画書を読んだかのように話す。
グローバル化とは世界をノッペラボーにすること。ローカルとはヒダヒダのある世界。山肌に刻まれた棚田のように。グローバルとは新自由主義、ローカルとは里山資本主義。グローバルな天つ神は上から民を平らげる。ローカルな国つ神は様々な民草とともにある。
国つ神は島根におわします。そして松江は小泉八雲に言わせれば「神々の国の首都」である。


「ほんと島根、すごい。こっちに来るまで、こんなすごいとこだとは思ってへんかった。歴史もすごいし人もやばくないですか? すごい人が多すぎてコンプレックスを感じるくらい」
松江市の地域おこし協力隊一期生にそう言われたら、宍道湖の夕陽もさぞお喜びだろう。

みっちゃんが人生を選ぶとき、当研究所の文脈レポートが少しでもお役に立ったのであれば、コンテキスター冥利につきる。

島根に来たということは半農半Xの本場に来たということだ。彼女は塩見直紀も綾部も知らなかったが、半農半Xという言葉は2013年頃に知った。それは3・11後にロンドンへ行きワーキング・ホリデーを体験後に帰国した頃だという。

ロンドンでは、ヨーロッパ初のオーガニック&ビーガン日本食レストランである「いただき膳」(ITADAKI ZEN)で働いていた。東アジアの農を支える哲学と命を支える食のことを学んだあとに、半農半Xと出会ったのは必然だと思われる。


「僕の知らないみっちゃん」が出てくる。マイファームの畑で気楽なことをしゃべっていたときとは比べものにならない深い会話をしている。
そうなれば、主任研究員も言いたいことがある。半農は土を愛する心。別に今、畑をしていなくてもいいよ。Xはクロス、関係性。島根用語で言えば「ご縁」。文脈用語で言えば「縁脈」。

豊田美智子は松江市地域おこし協力隊着任後、1年4カ月で島根内縁脈を急速に深化させている。そして「三年後」すなわち任期終了後も松江もしくは島根をホームにし続けると決めた。

どうやら「島根」のコミュニケーション・デザインをするつもりらしい。
コミュニケーション・デザインとは狭い意味のデザインを超えて、人と人をつなぐ設計をすることでもある。島根内縁脈を固めたみっちゃんは島根外縁脈をデザインしようとしている。おそらく起業を志しているのだろう。


僕が「あなたにとって究極のXは何ですか?」と問うたとき、みっちゃんは「うわあ~、一つの言葉では難しい」と答えた。
「とりあえず原発は止めたい」「松枯れを見るのが哀しい」「日本古来の風景を復活させたい」。と具体的に語った後に出てきたのが、「日本の根っこ」という言葉だった。

「島根の人たちが持っている日本人のルーツみたいなものを、ここ日本の根っこから全国にウィルス感染させていきたい!」

拍手するしかない。島根は「志間根」である。「志」はミッション。「間」は間柄、関係性、縁。「根」は根っこ。この美しい言葉使いは半農半X研代表が「島根の半農半X5周年記念講演会」の締めで語ったことの受け売りだ。


みっちゃんは「志間根」をデザインしようとしている。狭い意味でも広い意味でも。
僕の手元には「日本の根っこ」(The Roots of Japan)というイベントのフライヤーがある。地域おこしデザイナーの仕事だ。主催は出雲大社のすぐそばで「まないな」というベジカフェ兼出雲情報拠点を営む須田郡司と須田ひとみ。


基調講演「文化と魂が交差する聖地」(田口ランディ)、対談「出雲國の古層文化」(田口ランディ×須田郡司)、シンポジウム「古代出雲の風土から地域の未来を語る」〈歴史文化、定住、観光のプロたち)。

精緻なデザインの言葉を拾ってみる。
「磐座」(Iwakura)、「出雲國風土記」(Izuonokuni-Fudoki)、「踏鞴」(Tatara)、「真菰」(Makomo)「夕陽景観」(Sunset view)、「大山」(Daisen)、「三瓶山」(Sanbe-san)、「飯南」(IINAN)、「奥出雲」(OKU-IZUMO)、「安来」(YASUGI)、「松江」(MATSUE)、「宍道」(SHINJI)、「雲南」(UNNAN)、「出雲」(IZUNO)、「出雲大社」(Izumo-Taisha)、「来待石」(Kimachi Stone)、「玄米麺」(genmaimen)。

漢字で書いたら正確には読めないであろう言葉が手描きイラストとアルファベットで表現されていた。

いずれは、半農半デザイナーあらため半農半温故知新(learning a lesson from the past)の豊田美智子に「志間根」をデザインしてほしい。
素敵なイラストと英語での意味表記を添えて。
半農半X研究所主任研究員は伏して、そのようにお願いしたい。

みっちゃん、大丈夫だよ。
原子力発電所の大元になったのは一枚の写真。1895年にドイツの物理学者、W・C・レントゲン博士が女性の手を写したX線写真だった。この場合のXは疑問あるいは謎の対象を意味する記号としてのX。わずか122年前のことだ。そんな駆け出しの技術に「志間根の温故知新」が負けるわけはない。



飯南町地域おこし協力隊・霧生友孝

霧生友孝は半農半営業だと思った。
営業のことなら僕はよく知っている。広告会社時代にお世話になった。僕はわがままで気まぐれなクリエーティブ。僕が特にそうであったわけではなく、クリエーティブというのは一般的にそういう人種である。
クライアントとの間に立って制作物を納品まで持っていきお金の交渉をまとめるのが営業の仕事だった。

霧生さんの取材をしていると「バランス」という言葉がよく出てくる。山陰のグレーな空によく似合う言葉だと僕は感じる。さらにいうなら出雲弁はものごとを断定しない。
霧生さんの言葉はキレのいい江戸前である。そのあたりにも営業的地域おこし協力隊である彼の苦労がしのばれる。

飯南町の地域おこし協力隊に着任したのは2015年4月。
「三年後」が半年後に迫っている9月21日、僕は飯南町に向かった。


前述したように飯南町は村楽LLPの設立準備サミットが開催された場所である。
あの2011年3月7日以来、僕は飯南には来ていなかった。

村楽設立行事は、当時「島根の三バカトリオ」と自称していた人たちがプロデュースしていた。そのうちの二人が当時の飯南町の地域おこし協力隊。もう一人は雲南市の地域コーディネータ。彼は飯南と雲南の境にあるキャンプ場の管理人だった。

現在、それぞれが違う道を行っている。一人は実家の寺を継ぐため雲水修行中。一人は別の地域の協力隊を経て夢をかなえた。一人は消息不明。

僕は霧生さんと約束した場所に向かう。なんとなく見覚えがある道を走る。
ああ、ここはクラインガルテンのすぐそばなのか、と気がついた。クラインガルテンとは「小さな庭」という意味のドイツ語。滞在型市民農園のことである。町と村を結ぶ半農半Xの拠点ともいえる。

霧生さんは、そのクラインガルテンに住んでいるという。それなら話が早い。村楽LLP設立準備サミットが開催されたのは、そこのクラブハウスだったのだから。どうやら僕はセンチメンタル・ジャーニーに来たようだ。

取材場所の「うぐいす茶屋」に霧生さんが入ると、あちこちから声がかかる。その営業的気遣いが地域に浸透しているようだ。


まずはお互いのキャリアとスタンスを確認する。霧生さんは広告会社の営業だった。僕は取材する人の現在に興味があるので過去はあまり聞かない。ただし彼の場合はあらかじめ広告会社勤務を経て地域おこし協力隊になったのを知っていた。しかも現在、47歳。広告会社の「切った張った」経験を経て地域おこし協力隊に転身している。

はじめて霧生さんに会ったとき、その手は藁を編んだ。しかも左綯いで。注連飾り用の綯い方だった。その後、彼のキャリアを知ったとき僕はデザイナーなんだろう、と勝手に思った。そのたたずまいと繊細さが僕の知っている多くのデザイナーと共通している。

「デザインはどうやっても向かない。営業です。いろんなことをやります。制作が逃げたら営業がケツをふく。0から1を生み出すのはしんどい、むかない。ある一定の守るべきものがあってそのクオリティを上げていくのが好きですね」

霧生さんの言葉は明解だ。何度か逃げたこともある制作(僕のことです)は頭が下がった。「守るべきものを守る」というのが半農半営業の基本スタンスである。

地域おこし協力隊の中でも「大しめなわ創作館」での注連縄制作業務に特化しているのが霧生さんだ。棟梁から技を受け継ぎ、次世代への繫ぎ役になろうとしている。


出雲大社神楽殿。日本一の大注連縄。長さ13.5メートル、重さ4.5トンの注連縄が想像できるだろうか。大注連縄は飯南町の一町歩五反の田でつくる「赤穂モチ」という稲でできている。六、七年に一度、掛け替えられる神楽殿注連縄は2018年7月に新しくなる。飯南町注連縄企業組合はすでにその準備にかかっているそうだ。

霧生さんの協力隊任期終了は掛け替えの三ヶ月前だが、神楽殿大注連縄掛け替えには関わるという。というよりも、今回の掛け替えを現場で体験して、次の掛け替え(2025年頃?)を支えるメンバーになりたい……。「守るべきものを守る」道は遠い。


出雲大社の注連縄に関する文脈研究は完了している。玉垣内の本殿と摂社の注連縄は真菰。その他は稲。稲注連縄の中で最も巨大で有名なのが神楽殿のもの。
真菰注連縄は毎年、「出雲大社御本殿注連縄講社」により奉納される。神楽殿稲注連縄は、ここ飯南町の不断の努力によって支えられている。

『出雲國まこも風土記』の著者が縁脈の縒り合わせによって、霧生さんに出会ったことは必然の偶然なのだろう。あるいは偶然の必然。

元広告会社員同士で会話は深まっていく。霧生さんは長い間博覧会業務に携わっていた。たとえばテント立てのような現場仕事から自らの技を磨いてきた人だ。手仕事をしてきたのでなければ、藁を綯うあの手つきは身につかないと思う。

様々な現場の経験を持つ人は繊細な心持ちになる。
森林セラピストの資格を出雲に来てから取得した。ヘルスツーリズムの企画もしている。
都会で病んでいる人の心を田舎で癒す、などというステレオタイプの言葉では納まらない体験を霧生さんはしてきたのではないだろうか。僕はそんなふうに感じた。


もう東京を出ようと決心して移住地を探し始める。東京から出雲にIターンしたのは2014年。大社湾から見た三瓶山の風景が決め手になったそうだ。
三瓶山は『出雲國風土記』冒頭にある「國引き神話」の西の拠点である。出雲大社が築かれた「杵築の地」は三瓶山に綱をかけて「新羅の岬」から引き寄せられた。


注連縄が好きな人は神社も好きである。ここは断定してもいいだろう。霧生さんも僕と同じように「国つ神」に呼ばれる体質のように思われる。

「国つ神」とは親しい霧生さん。生き方用語であり島根の行政用語でもある「半農半X」と出会ったのは「ふるさと島根定住財団」の移住支援資料の中だったという。
「すげー言葉だな、と思いました」と語る彼は「稼ぎ」すなわち「ナリワイ」的な意味合いで「半農半X」と出会っている。

霧生さんは別に就農したいわけではない。なので稼ぎスタイルとしては「半農半X」とはいえない。だが、生き方としてのそれを彼は体得している。

半農は土に根っこを持つこと。Xは志。
東京にいるときから「クラインガルテン」に興味があり、自分で食べる物は自分でつくりたかったと言う。自然の成り立ちを見たかった、森に癒されたかった。

そんな霧生友孝に「究極のX」を訊いてみる。
長い間があった。何かのバランスを取っている。広告会社という「人の渦に翻弄される都市生活」から「自然を縒り合わせる村生活」へ。そこに営業的配慮をふりかける。自分の人生を翻訳している。その日の出雲の空は晴れていた。グレーではない。

「半農半……今を生きる……」
「手仕事と野菜仕事をしながら藁をかまうこと。全体として〈今を生きる〉こと。それくらいしか考えていない……」
それくらいって、霧生さん。「半農半今を生きる」って。まったく世に半農半Xのタネは尽きない。


稲科の藁を編む手仕事は縄文の昔からあったのだろう。今、飯南の森と畑と田で生きている伝承人は、その技術を1から1.1に、さらに1.2にして受け継いでいこうとしている。それは決して2.0にはならない、なってはいけないと僕は思う。

〈今を生きる〉というのは革新的なことをするわけではない。手と感性で古いものを受け継いで新しい世代にパスしていくことである。
そして〈古い〉と〈新しい〉の間には〈今〉が必要だ。
さらに〈今〉を支えるのは〈ここ〉だと思う。時間を支えるにはトポスが要る。

霧生友孝は今、ここ飯南で暮らしている。集落のことを見て町全体を見て県全体を見る。さらに日本全国から世界へと視野を広げる。

この人の過去は決して楽ではなかったのだろう。バランス営業をする生き方が楽なはずはない。
危ういバランスから安定したバランスへ。霧生さんは飯南に来て注連縄という天職と出会うことにより、時間軸と空間軸の基準点を確立したようだ。


地域おこし協力隊の「三年後」の期限は迫っている。出雲大社神楽殿大注連縄の掛け替えは任期終了後。伝承人はしっかりとそれを見届けようとしている。ポスト協力隊の生活設計を考えながら。
視線は全国を見通している、と言いたいところだが、できれば西日本がいいそうだ。

ならば、綾部で暮らすことも選択肢になるはずだ。僕は塩見直紀の本を紹介する。
『綾部発 半農半Xな人生の歩き方88~自分探しの時代を生きるためのメッセージ』。
僕が初めて塩見に会ったときにサインをもらった本だ。


「綾部のお土産本」として編まれた書物には綾部在住「ピースメーカー」が描かれている。その数は八十八人。米という字を分解すると八十八になり、その数だけの手間が米つくりにはかかると言われている。霧生さんのような手仕事人にはふさわしい本だと思う。
この本では綾部の88人を紹介しながら、人生で大事なことや新しいまちづくりにおける成功のコンセプトや法則を提示することをめざした。88人目は誰を紹介しようか。迷ったが、いつかこの本を手に綾部のまちを旅してくれる「あなた」のために空席にしておきたいと思う。
塩見直紀のエンディング・メッセージは霧生友孝に届くだろうか?  すべては国つ神の思し召しということで。



文脈家、原点へ

長い取材を終えて「うぐいす茶屋」を出る。霧生さんは僕の思い出探しに付き合ってくれた。すぐ近くのクラインガルテン。その中心にあるクラブハウス。


ここだ、ここだ。僕は村楽LLP設立準備サミットの集合写真を取り出す。会場に立つ。わずか七年前のこと。あの日あの時、ここにあったアスピレーションは草の根となって、まだ持続している、と信じたい。


もちろん、霧生さんはいなかった。村楽のこともほとんど知らない。だが、僕が拙文を書き連ねるようになった原点を再訪したとき、そばにいる人は僕と同じく広告会社というキャリアを持っている。二人の他には誰もいないクラブハウスで、文脈の交差点に想いを馳せる。


この後、僕は偶然、あの日そこにいた人を引き寄せた。地域おこし協力隊は行政マンとタッグを組むことが多い。霧生さんの相棒は「村楽LLP設立準備サミット」が開催されたとき、クラインガルテンにいた。
集合写真に写っている人物のことを説明してくれる。なぜか本人は写っていない。もしかしたらシャッターを押していたのか?


「県外から偉い人たちが集まっていたんですね」と言われて、世間一般でいう偉い人はいないけどドラマチックな集団の写真であることは確かだ、と僕は思う。

美作市地域おこし協力隊とその相棒行政マン。東京で連携していた「さとまるLLP」のメンバー。高知県本山町の協力隊。長野県阿智村の協力隊。地元島根の吉賀町、美郷町の協力隊。そして、本書を書くために最初に取材した「NPO法人日本エコビレッジ研究会」の多久和さんと召古さん。前日の「塩見直紀講演会」の主催者だった。

その他にも2011年春の「地域おこし」同志たち。4日後の3月11日を経て、今どこでどうしているのか、情報が僕には回ってこない人ももちろんいる。

わずか七年前のこと。飯南町のクラインガルテンの菜園はたたずまいを変えていない。でも、耕す人は変化しているだろう。

そして、コンテキスターである僕の情況も、もちろん変わっている。七年の歳月、走り続けた。地球3周分以上の走行距離を愛車は記録している。見たこと聞いたこと。書き続けたこと。もうできなくなったこと。持続できていること。

様々な文脈は流れ続けている。
そこに「棹させば」どうなっていくのか。まだまだ書きたいことがある。
原点に帰ったからといって、円はまだ閉じていない。やっぱりこれはネバーエンディングストーリーなんだな。


2016年12月28日水曜日

国つ神と半農半X・安来篇

〈眞知子の世界〉をのぞきにいく


年の初めに奥出雲のことを書いた。年の終わりには安来(やすぎ)のことを書こう。
島根県は東西に長い。東の端の安来と西の端の吉賀町とは直線距離で170キロある。
安来は奥出雲の北東35キロだ。

2016年、文脈家の行動範囲は狭かったのか?そんなことはないが、それはまた別の話だ。
西の方はとっくに調べがついている。あとは情報を再整理するだけだ。

遅れに遅れている『国つ神と半農半X』原稿を仕上げるために、僕は(ぼろぼろになった)島根県の地図を眺めていた。『出雲國まこも風土記』の初稿を上げたお盆の頃。
本として完成させるときには、場所で章立てをしようと思っているからだ。

どうも東の端に気になる地名がある。安来だった。米子道から山陰道に乗り継いで松江までという通い慣れたルートの途中にある。野津旅館に通うようになった初期は9号線で安来を通っていた。

安来の足立美術館は観光バスの定番コースだ。そして安来節。これはドジョウすくいの仕草であるが、砂鉄を拾い上げる動作を現したものだ、という説もある。奥出雲から連なるたたら製鉄の流れの最下流が安来である。
といっても、僕は半農半X研究所の主任研究員だ。たたらの話はサブストーリーである。

安来にも半農半X的生き型をしている人がいた。結局は人だ。
2016年8月26日、文脈家は西村眞知子さんに会いにいく。

眞知子さんが気になっていた。不思議な文体で綴られる「眞知子のブログ」。
その8月14日の投稿に映画『つ・む・ぐ~織人は風の道をゆく』のことが書いてある。

自らが主催した上映会終了後の挨拶で眞知子は泣いた。はじめて人前で。二十年前に亡くなった「お父ちゃん」のことを思いだして。扉が開いて奥の方にいたものが出てきた。

『つ・む・ぐ』なら僕も松江で見たことがある。
松江出身の吉岡敏朗監督が綾なす縁を織り上げた映画だ。そこには末期癌の終末医療をしている医師も登場する。
確かに素晴らしい映画である。でも「奥の方にいたもの」って何だろう?


「NPO法人眞知子農園」の設立趣旨書にはこうある。
年齢や性別、地域を越えて、同世代並びに世代を越えた人たちとのコミュニケーションの場並びに学習の場を提供するとともに、社会に出にくい子どもや大人に対し、農業を通じて自らが社会で生きる上で必要な力を備え、積極的に社会へ参加していけるための支援の場として活動する事に取り組みます。
このような活動を継続していくにあたっては、より多くの人に活動を理解頂くとともに、活動に参加して頂かなくてはなりません。そのためには、公正かつ透明性の高い運用を行い、社会的な信用を得て活動していく必要があり、法人化は急務であると考えます。
しかし、この会は事業目的も営利を目的とはしていないので会社法人の形式は似つかわしくありません。よって、特定非営利活動法人の設立が望ましいと考えています。皆様のご理解と、幅広いご参加、ご支援をお願い致します。
これだけを読めば、日本中にたくさんあるNPO法人のひとつにしか見えない。学習の場としての映画上映会では『地球交響曲』が奏でられている。

だが、「眞知子の世界」の奥は深かった。
その世界は生死の境も超えていたように思える。


その人は草を刈っていた。でーんと構えた身体に刈り払い機を持っている。
暑い日。真新しい看板には「なかうみ産海藻肥料使用農場」とある。

はじめまして、とお互いに挨拶する。でも実はすれ違っていた。
2016年6月1日の出雲大社。「まこも講演会&シンポジウム」の集合写真には眞知子さんも写っている。まこもの地下茎はここでも縁脈を繋いでいた。


七反七畝の農場では様々な人が働いていた。僕は写真を撮ったあと鎌を持つ。ほんの少し、草刈りのお手伝いをする。

ここでは身体を動かさずに昼飯を食べることはできない。話を聞くことができない。そのことは直感的に分かった。


風鈴の音とともに


眞知子さんは「NPO法人眞知子農園」の看板が上がったのを喜んでいた。
2015年10月13日、特定非営利活動法人設立。原邸という古民家をベースにしている。

まずは、首タオルをはずした眞知子さんを撮る。


ランチタイムになっても、眞知子さんの女友達、丸山さんは帰ってこない。鎌を持つと止まらない性格らしい。
でも慌てることはない。僕と眞知子さんと丸さんは、それから4時間話すことになるのだから。


今年の夏もゲリラ豪雨が激しかった。安来でも警報が鳴る。
天から激しいものが落ちてくるからこそ、眞知子さんは話しつづけたのかもしれない。

ときどき、風鈴がちりんちりんちりんと相づちをうつ。
聞こえてくるおんぼらとした出雲弁がここちよい。僕の耳は山の神三姉妹のそれに慣らされている。


山の神系のおばはんの話はワープ(跳躍)が多い。が、そんなことは気にならない。僕の仕事は文脈をつなぐことだ。

「なんであんたにそぎゃんことがわかるだあか?」
眞知子さんにそう言われるかもしれない。それでも僕は、この女性の「愛」「命」「縁」のダイアローグ(対話)を書きとめたい。

そうなのだ。おかあちゃんはいつも誰かと対話している感じがする。その相手はおとうちゃんとおとうちゃんに愛された自分が多いような気がしてきた。


話は中海(なかうみ)の環境問題から始まった。安来の国つ神は宍道湖ではなく中海に面している。

「一番、最初はゴミ拾い。捨てない大人をつくるには子供から育てないと。ゴミを捨てるような大人になってほしくない」
眞知子さんは〈ちゃーんとしたオトナ〉をいつも頭に描いている。

生活排水の流れこむ中海で「うまい赤貝が食いたい」という思いから動き始めた眞知子さんは「てんつくまん」と出会う。

2006年と翌年のモンゴル植林ツアー、そして2009年の南アフリカ共和国植林ツアー。
そこでは一緒に木を植えた子供たちに「だんだんねー」(thank you)という出雲弁を教えたという。そのやりとりが目に見えるような旅の話。

続けて、おとうちゃんと行ったアメリカの東西海岸とカナダの旅につながる。

眞知子さんの話は過去と現在と未来が混ざってひとつになり、おおらかにひろがっていく。それでも一周巡って、おとうちゃんに帰ってくる。

おとうちゃん、西村勝憲さんは1996年2月29日に帰天された。享年54歳。
四年に一度しかない命日。

2016年も閏年だ。20年目に僕は眞知子さんと勝憲さんの「夢と絆」をすっかり聞いてしまったわけだ。ご夫婦と寄りそっていた丸さんもはじめて耳にする話だったという。


眞知子さんの出雲弁は同じ言葉を繰り返していくことが多い。風でうたう鈴のようにリフレイン(反復)していく音感が心地良い。

そこに異質な単語が混じる。「結局、アスベストだった」。
アスベスト! それなら僕も詳しい。

アスベスト(石綿)は残酷な物質である。僕の友人の父上が同じく1996年に帰天された。
尼崎の街にクボタがまき散らしたアスベストが長い潜伏期間を経て中皮腫を発症させたからである。
僕は「尼崎クボタアスベスト」訴訟の応援団をやっていた。
以下、田中文脈研究所:「高度成長を観察する」より引用する。
アスベストの真実。
石綿は熱や火に強く、腐食しにくく、加工もしやすい。そして安価であった。
石綿は極めて微細な天然鉱物である。微細ゆえに風に乗って飛んでいき体内に取り込まれやすい。いったん取り込まれると劣化せず半永久的に体内にとどまる。
体内にとどまった石綿は、絶え間なく細胞を刺激し続け、やがて中皮腫、肺がん、石綿肺などの石綿疾患を発症させ、死に至らせる。
その潜伏期間は20年から50年。

眞知子と勝憲の30年


眞知子さんは1946年7月に安来の農家で生まれた。父上は百姓一本で家族を支えた。
娘は中学卒業後に和歌山の紡績工場に勤める。高度成長が始まった翌年、1961年には15歳にしてもう働いていた。

1965年、大阪で造船関係の仕事をしていた西村勝憲さんと出会い19歳で結婚。東京オリンピックの翌年である。
アスベストはこの頃から勝憲さんの肺に突き刺さっていたのかもしれない。
勝憲さんは1942年2月11日、山口県生まれ。

1966年、長男誕生。やがて次男誕生。
横浜に転勤。会社を辞めて「船の電気屋」として自営を始める。資金繰りに行き詰まり倒産。

1972年安来に帰る。30歳の勝憲さんが島根に行って一からやり直したい、と言い出す。島根なら俺がんばる、とのことだった。眞知子さんにとってはUターン。
勝憲さんは「陸の電気屋」となる。家の建築と内装に関わる。この頃の建築基準法では住宅の不燃材料としてアスベストが認定されていた。

1991年、癌が発見された。初孫ができた眞知子さんは保育園を辞める。その退職金を自由に使っていいよ、と勝憲さんに言われて行ったのがアメリカとカナダの旅だった。

「おとうちゃんはかっこよく生きてかっこよく死んだ」と眞知子さんは繰り返す。

野鳥とアマチュア無線とパチンコとバレーボールが大好きで、器用で陽気でなんでもできた勝憲さん。
ママさんバレーで付き合いのあった丸さんをはじめとして、他の女性にも優しかったらしい。
「にくめん人だった。可愛い人。眞知子さんとは早いこと別れることになっちょったけん、密度が濃かった」と丸さんはいう。他の奥さんの誕生日にも花を贈っていたそうだ。

「やさしいだわね、おんなには。ええかっこしいだし。ほんで、わたしにはマチコー、くそばばあ!って怒鳴っておいて」
勝憲さんを語るとき、女友達ふたりは腹の底から笑う。

僕は生きている勝憲さんに会いたくなった。今となってはどげしゃもならないが。

1995年11月1日、再度の入院。
その夜、夫は妻に言う。
「おかあちゃん、ありがとう。ありがとういわずに自分はいくのはできん。したいことはみんなした」
「したわよねー」と妻が笑う。
「最高の女房だったよ」

それから翌年2月29日までの4カ月にわたる闘病生活は壮絶なものだった。

アスベストによる死のつらさは、僕も友人から聞いている。
逝く人に対して「もういいから、がんばらなくていいから」としか言えなくなるそうだ。

眞知子さんは、僕と丸さんにすべてを語ってくれた。
死の18日前、2月11日。勝憲さんの54歳の誕生日。「骨と皮になった」おじいちゃんは三人の孫からお祝いをされた。
その後、勝憲さんは安楽死を望む。眞知子さんは医師に聞く。答えは「医師免許もっちょーだけん」。

旅立つ前の夜、眞知子さんは勝憲さんと添い寝した。
昔話をする。楽しかった話だけをする勝憲さん。
「あーだったね、こーだったね、相づちをうってるうちに、これ以上、がんばれ、とも言えん、とわたしが言ってしまったけん」
眞知子さんは策略に乗せられたと言う。

勝憲さんの「ほんなら行ってくる」が始まった。
「わたしはどーするの?」と妻が問う。「そしたら、どげいったと思う?」
「おかあちゃんはね、みーんながみてごしなあけん。おかあちゃんはみんながみてごしなあけん」。夫は最期の言葉を二回繰り返したそうだ。

54歳は早すぎる。現在70歳の眞知子さんは49歳で大きなものを失った。
強いこというけど、すごいさびしがりやの夫婦は、こうして別れた。

「なんとかする、なんとかするって。だいじょうぶ、なんとかするわー、ありがとーねって言いながら送ってしまったものだから、なんとかするしかない。わたし、するっていっちゃったもん。わたし、するっていったもんな」

「だけんね、なんか目に見えないものにずっとひっぱられちょう。流れるしかないです。流れちょうね、眞知子さん」
おかあちゃんは自分との対話をその後20年間続けているように思える。


てごされたら、てごする


てごする、という出雲弁がある。手伝うという意味だ。
てごしたらてごがかえってくるだあね。
「恩送り」、「ペイ・フォワード」、だんだんねーにだんだんを返すこと。

てごしたら、眞知子さんは家をもらった。現在、NPO法人のベースになっている古民家である。
原さんという老夫婦が住んでいた。眞知子さんの父上の友人だったという。


1996年3月2日は雪だった。勝憲さんの葬儀の日。
その人を慕う大勢の人がやってくる。葬儀場は十分な準備ができていなかった。

眞知子さんは緊張で能面のような顔をしていたそうだ。丸さんは言う。
「なに挨拶しちょうかきこえんだった。眞知子さんは開きなおっちょーと思った」
この二人は二十年前の葬儀を昨日のことのように話す。

近所の原さんは、早朝、耕耘機にハデ木を乗せてやってきた。新しいシートも乗っていた。葬儀場のふきっさらしの駐車場に受付を組み立ててくれた。雪がふっちょった、ちらちら。

「おじさん、おばさん、だんだんねー」
そのとき、眞知子さんはこの夫婦を最期まで面倒みよ、と胸の奥にはっきりと入れたそうだ。

その流れに乗って、原のおじさんが脳梗塞で亡くなったときにてごした。
2009年におばさんが心臓をわずらっているのにひとり暮らしをしていたときには、親戚でもないのに、勝手に救急車を呼んで入院させた。南アフリカ植林ツアーに行く直前のこと。

そぎゃんことは民生委員がすること、との声もあった。
「なんがー、わたしは世話になったけん、かえしちょうだけだわね。できーとこまではわたしがみーが」
ぽーんと眞知子さんが言うが、おばさんの最期にはてごできることもなくなった。

原邸は草ぼうぼうになった。


眞知子さんの人生になにかの転機が訪れたときには、おとうちゃんの声が聞こえるという。
勝憲さんの形は見えないけど、声は聞こえる。20年間、ずっとそうだという。

見えないものが見える人が眞知子さんのところに来たことがある。
「ここらへんにいつもいる。眞知子さんが動くたびに楽しそーによろこんじょーなーよ。いつもここにおらーがな」

「いまだー、いまだー、いまやれ、いけー、マチコ!」
お父ちゃんの声が降ってきたとき、マチコは決断する。


誰も住まなくなった原邸をもらってくれ、と言われた。
「わーっ、きたー!どーしよーどーしよーどーしよー?」ってすごく焦る。

それで、世話になっているお坊さんにも相談する。
「ご縁でしょうね、と一言いいなった」
もやもやがすとーんと胸のうちに入った眞知子さんは、2010年に家をもらった。

「ご縁の国」出雲。その東の端では縁で家が手に入る。
こう書いて、うらやましい、いいな、と思う人は少し甘い。
坂出と小豆島に空き家を2軒持っている僕には、家を引き継ぐ苦労がよく分かっている。


ちゃーんとしたオトナ


原邸をもらった眞知子さんは考える。
この家は子供たちを〈ちゃーんとしたオトナ〉にするために使おう。
相続の苦労をかけないよう、NPO法人をつくろう。

話は1996年までさかのぼる。
二十年前、勝憲さんの葬儀の一カ月後に当時5歳で、おじいちゃんが大好きだった孫と約束したことがある。

「おばあちゃんが死んだら、あんたが火葬のスイッチをおしなあよ。だけん、それまでにちゃーんとしたオトナになるだあね」

自分で言った〈ちゃーんとしたオトナ〉という言葉が自分の中にがーんと入ってきた眞知子さんは考え続ける。

眞知子さんは70歳にして、ちょんぼしオトナになった、と丸さんは言う。
お役所がうまく使えるようになったらしい。
そんな実用的なオトナになるより前に眞知子さんにはやることがあった。

さびしさを乗り越えること。
それもまた、オトナになるために必要な階段だったのだろう、と僕は思う。

勝憲さんは犬も大好きだったらしい。自分の死期を設定して、残される妻のためにブリーダーの施設を整えていた。ゴールデン・レトリバー、ラブラドール・レトリバー……。
ムツゴロウさんみたいに犬と暮らしたらさびしくないだろう、という気遣いだったらしい。

でも、犬小屋はわたしの「泣き場」だったと眞知子さんは言う。孫と犬、両方の世話に明け暮れる日々。

そんなとき、ラジオから〈五行歌〉が流れてきた。
今のなんだった? 山陰放送に電話する。
眞知子さんは歌と出会った。言葉の息づかいを大切にして五行で書く歌と。
新々・五行歌五則(平成20年9月制定) 
一、五行歌は、和歌と古代歌謡に基いて新たに創られた新形式の短詩である。
一、作品は五行からなる。例外として、四行、六行のものも稀に認める。
一、一行は一句を意味する。改行は言葉の区切り、または息の区切りで行う。
一、字数に制約は設けないが、作品に詩歌らしい感じをもたせること。
一、内容などには制約をもうけない。 
『すぐ書ける五行歌』(草壁焔太/市井社)
「気持ちのまま、いつも使っている言葉で」歌う自由な形式は眞知子さんのさびしさを開放していく。
仏壇に向かって五行歌を始めてつくった。
あなたの笑顔が
好きだから
あなたの笑顔が
見たいから
このままでいい
そして迎えた誕生日にも五行歌をうたう。
ピアスや花は
いらない
そっと抱いてくれる
あなたがほしい
わたしの誕生日
五行歌の縁で、彫刻家の佐藤信光さんと出会った。原邸の上がり口には木彫りの母子像がある。母の顔が眞知子さんに似ている、と思うのは僕だけであろうか。


時は流れて2003年、おとうちゃんの七回忌。
「それが過ぎたら、犬をもらってもらえると思った。もういいぞ、という感じ」
眞知子さんはブリーダーの施設と犬たちを譲る。

〈ちゃーんとしたオトナ〉作戦は新展開をした。

犬小屋から畑へ。そして眞知子さんは環境問題に取り組みはじめる。
ようやく、『国つ神と半農半X』の取材らしくなってきた。
話はじめて3時間以上たっていた。

〈ちゃーんとしたオトナ」はゴミを捨てない。川を汚さない。海を大切にする。
農薬、除草剤、化学肥料、そんな余計なものを土にいれない。微生物も人参も大根もすべての生命に感謝する。地球(ガイア)のことを想う。

2010年、新しい「遊び場」をもらった眞知子さんは、NPO法人眞知子農園に向かって走り始めた。

タマゴ大作戦


眞知子はダラだがあ、と両親に言われ続けてきたそうだ。娘は「このダラはあんたたちの子だよー」と言って父と母を指さす。

ダラとは出雲弁で馬鹿のこと。僕にとってはおなじみの「変人へそ曲がり」のニュアンスもあるように思える。

ダラは調子にのったら止まらない。
2015年、NPOが立ち上がったら「わたしだけのわたしではなくなっちゃった」。
やがて灰になる土になる
命のすべてが愛しいのです
人生にも
おまけがあることを知ったの
楽しまなくちゃ。
眞知子さんの現在は、「おまけ」というには、あまりに忙しい。
それでも、点滴を打ちながらでも「楽しまなくちゃ」と考えるのが、この人の本性である。

「今日も1日、楽しくあそびまーす!」とおとうちゃんに言って、眞知子さんは動き始める。
おっと、その前に〈六方拝〉もしなければ。
東西南北に天と地を加えて、ありがとうございます!


足元の
花の蕾にも
気づかず
わたしの心は
遠くの花畑

「遠くの花畑」とはカンボジアのことだった、と眞知子さんは言う。
地球を見渡して、外国の子供たちの支援をしてきたが、現在は「足元」を見る方向に転じた。

安来にも松江にも救いを求めている子供たちはたくさんいる。不登校児や知的障害がある子供たちと農作業をして収穫を持ち寄り、一緒に料理をして食べる。そのようにして、子供たちが自分の志を取り戻すこともある。

自分の孫に「ちゃーんとしたオトナになれ」と言った眞知子さんは、他人の孫にも同じ事を言い始めた。

他人の孫、タマゴである。タマゴ大作戦!
眞知子さんと丸さんのイメージはこうだ。

先頭は眞知子さん。麦わら帽子に首タオル、前掛けをして旗を持っている。旗には堂々、タマゴ大作戦のロゴマーク(まだできていないけど)。
その後にエゴエゴと続く自分の孫と他人の孫。眞知子さんのタマゴはアヒルのイメージらしい。
丸さんが「自分もいれてごせ」と行進に加わる。最後尾、落ちこぼれる子がいないように見張る役。エゴエゴガーガー、ジマゴとタマゴは鳴きたいように鳴き、歩きたいように歩く。
誰の子供も置いてきぼりにはしない!

「アジール」(Asyl)という言葉がある。避難所、聖域。
それはマイナスを背負った人がプラスに変わるための場所だと僕は思う。
眞知子さんに小難しい言葉は似合わない。しかし、現在を語りながら、どんどん綺麗な顔になっていくおかあちゃんを見ているうちに、「ここはアジールなんだ」という思いが文脈家の中で膨らんできた。

アヒルたちはアジールに逃げ込む。おかあちゃんアヒルがそこにいる。
育っていく。やがて羽ばたくこともある。アヒルにだって羽根はあるのだ。
いや、無理に飛ばなくてもいい。その足を地にしっかりとつけて前に進んでいけばいい。


島根県は「半農半X」と同じように「農福連携」施策も充実している。

農業と福祉の連携。
働く場としての農業と、働き手としての障がい者をつなぐこと。そこから多様性に富んだ地域コミュニティを生み出し、日本の食、経済、暮らしを元気にしていくこと。

眞知子農園で働く子供たちは「使命多様性」を持っているようだ。

ある男子は包丁で上手に野菜を切ることができた。
料理人の道もある、と眞知子さんが未来を語る。おかあちゃんの次男は松江で「そら」という中華料理店を開いている。
いくらでも紹介するけど、義務教育だけはちゃんとやりなーよ、と言うと学校に行きだしたそうだ。

別の男子は、畑で石灰とボカシを混ぜる。農作業に自信ができてきた。自分の畑を持ちたい、と言いだした。

女子もいる。普通の家庭の生活を眞知子さんに習う。自分にできるペースで。無理じいはしない。

みんな、眞知子さんの笑顔が大好き。眞知子さんが点滴を打つと心配する。
眞知子さんの言いつけにしたがって大きな声で挨拶ができるようになった。

子供を預けるなら親も先生も畑に来い、取材したかったら作業を手伝え!
眞知子さんは、理不尽なことをされると怒る。

ああ、よかった。鎌を持って草刈りを手伝って……。僕はほっとした。


眞知子の半農半X


眞知子さんの父親は農業だけだった。母親は40歳を過ぎてから運転免許をとって勤め人になったそうだ。それは専業農家なのか兼業農家なのか? どっちでもいい。

専業農家だって、世の中のために何かしたいという志、すなわちXをもっていたら「半農半Xという生き方」である。

半農半X研究所の主任研究員が偉そうなことを言うまでもなく、眞知子さんは、その本質を理解していた。

塩見直紀のことは知らないが、2003年に上梓された『半農半Xという生き方』とはどこかで接していたらしい。眞知子さんが環境問題に目覚めた頃である。

「わたし本読む人じゃないけど、農業だけじゃだめだ、というのがすごく頭に残って。農業だけでは人生おくれない」と語った眞知子さんはすぐに続けた。
「世のため人のためお役に立つ人間になります。お導きくださいますよう一心にお願い申し上げます」
そう唱えながら、四国巡礼に二回行ったこともあるそうだ。

世のため人のため役に立つ。これって究極にして普遍的なエックスですよね、塩見直紀さん。

一方、眞知子さんの半農生活はガイア(地球)を汚さないという大目標で動いている。そのために、EM菌(有用微生物群)を活用しているそうだ。

眞知子農園の有機肥料はすぐそばで生み出されたものを使った独自のものだ。
看板を上げたばかりの「なかうみ産海藻肥料」も入っている。はるか昔から、この地域で作物を育てるのに使われていたミネラル分が豊富な海藻が原料である。


米糠をベースにして、その海藻、EM活性液、油粕、鶏糞、籾殻、広島産牡蠣の有機石灰、安来市内の「砂流(すながれ)牧場」の牛糞、近所にある「ポニーの森」の堆肥などを混ぜ合わせる。
眞知子さんの経験値がオリジナルブレンド肥料をつくった。

僕が訪問した8月26日、眞知子農園は秋冬作の準備中。
堆肥の真ん中には籾殻が置かれて素敵な模様を描いていた。


あそこに播かれた野菜たちは、今頃、映画上映会やライブで農園に集まる客人たちの胃袋を満足させていることだろう。
眞知子自慢の「人参の味がする人参」を味わったら、他の人参が食べられなくなってしまうのでは? と余計な心配までしてしまいそうだ。

半農半天衣無縫


眞知子さんはどこか遠いところから湧き出てくる志を「縁(えにし)の場」で言葉にして伝える技を持っているようだ。

僕は何の技も持っていない。ただし、引き寄せる、あるいは引き寄せられる力はついてきた。
『国つ神と半農半X』の取材を続けるうちに。様々な田んぼと畑と自然の中で祀られたものを見続けるうちに。

この日、眞知子さんは僕に心を開いてくれたようだ。

長い話の最後に「で、田中さんは何を取材しに来たの?」と聞く。
「『つ・む・ぐ』を見て、眞知子さんがどうして泣いたのか知りたかった」と答えた。

僕の方からその質問をする前に、眞知子さんはおとうちゃんのことをしゃべってくれた。
聞きたかったのだが、聞きにくいと思っていたことを。

「おとうちゃん、しゃべっちゃった!」と眞知子さんは天を仰ぐ。


生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和

これは五行歌ではない。吉野弘の「生命は」という詩の一節である。
この詩を引用しながら、「半農半Xと別のことばでいえば関係性である」と塩見直紀は言った。

Xはクロスであり関係性である。半農半Xは自分と他者の関係性を回復していく生き方、自然(じねん)なものを関係づけていく生き方。

眞知子農園で僕は不思議なものを見た。水槽に浮かぶ生命が関係性を結んだ姿。
生命の背中に生命が乗っている。


あなたの背中
いっぱいいっぱい
見たの
わたしは
どんな背中を
眞知子さんの五行歌を聞く前に見た生命の姿を見ながら僕は思う。
おかあちゃんの背中は広すぎる……。

おかあちゃんはおとうちゃんに後ろからハグされている。強く永遠に。

西村眞知子は「半農半天衣無縫」である。
自然のままに美しく完成している。



2016年11月9日水曜日

宮古島で電通の夢を見た

まず夢である。
10月30日、宮古島5泊6日の旅から帰ってきた夜、すばやく寝た僕はまた夢を見る。
今回の旅も楽しかった。出会いがあり発見があった。でも見た夢は悪夢に近い。何度かフェイスブックにアップしている電通時代の「間に合わない」夢シリーズだった。

宮古島と電通系悪夢の文脈レポートを書いて、言葉を外にださないと、また悪夢を見そうだ。
書いて、頭に滞留しているものを腹におさめてしまおう。
人は言葉で語って初めて、体験を腹におさめます。書くことで自分と距離を取ってこそ、感情の激しい波の下に潜り込み、底に潜んでいる本質を見つめられます。
(『本の未来』富田倫生/青空文庫)
帰ってきた日に見たのは、こんな夢。

ある外資系クライアントのCM撮影をしている。なんだか難しそうな商品撮影だ。プロダクションではなく、優秀なCR(クリエーティブ)局員のSがあれこれとディレクションをしている。でもうまくいかない。すでに午前2時。この撮影がいつ終わるのかは分からない。立ち会っているクライアントは、こんな時間なのに他の代理店と電話をしている。どうやら別件のゲラチェックをしているらしい。(註:ゲラとはCMに入れるスーパーのレイアウトをした紙のこと。僕の夢は古い時代のCM制作が多い)。
そして大きな声で見積の話をしている。そしてなぜか僕にその見積の整合性をたずねた。「他の代理店の仕事なんて知らねえよ」(ここは東京弁が似合いそう)、と思いつつも僕は誠実そうに整合性があるようにお答えする。
そこに通りかかったのが、大先輩のOさんだ。なぜかそのまま撮影に立ち会ってしまう。クライアントがOさんにあれこれ声をかけたので、帰れなくなってしまったのだ。
早く帰ればいいのに、不器用な人だ、と僕は思う。
夜は更けていく。撮影はうまくいかない。クライアントたち(なぜか何人も立ち会っている)は中断して打ち合わせをしようと言う。どこかで珈琲でも飲みながら。でも、深夜3時の北新地(なぜか)で、そんな場所があるはずもない。でもクライアントはあてがあるという。ついた場所はカラオケボックス。でも満室である。クライアントは待つ。露骨に先客にプレッシャーをかけながら。やがて寝ぼけまなこの先客が出てくる。ようやくカラオケボックスに入れる。僕はトイレに行きたくてしかたがない。トイレ、トイレ、トイレ……。そこで目が覚める。

宮古島にいたときはこんな夢を見た。

あるCMのMAをしている。これも古い時代のCM制作の夢だ。MAとはMaster Audio のこと。さらに昔はダビングと言っていた。映像を編集したあと、音楽、ナレーション、SEなどを録音スタジオでミックスして音声を完成させること。CM制作の最終工程。
そのMAをするために、僕は年老いた男性ナレータの手を引いている。なぜか階段を降りながら。苦労しながらそのナレーターの声を録る。MA自体はうまくいったようなのだが、クライアント試写用のテープをつくるときに何らかのトラブルがあったようだ。
僕はVHSではなく、¾インチのテープに変えて試写したいと主張している。それでも何かトラブっている。起きてすぐに書きとめなかった夢なので、さすがにディテールは忘れた。
(註:VHSももう死語か。家庭用ビデオ再生機で使用された½インチ幅のカセットテープ。¾は当時の業務用テープ。大きな再生機が必要だった)

いずれも電通時代の、しかも初期の頃の夢である。
なぜ、宮古島まで行って、こんな夢を見るのか。どうやらこの頃、僕は電通に引き寄せられているらしい。


宮古島に行ったのは自分の意志ではない。
ここのところ、長男一家は宮古島にハマっています。もれなくあんちとりゅうちもついてくるわけで。そこに山の神が着いて行くと言い、宿六(役に立たない亭主のこと)もお供しました。そういうことで名残りの夏休みであります。
2016.10.26 田中文夫on facebook
宮古島行きが決まった頃に、そのことをフェイスブックに投稿したら、反応してくれた女性がいた。ずっと江馬民夫さんに寄りそっていたYさんである。秘書のような存在だった彼女は「エマじいは宮古島が大好きだった」と僕に教えてくれる。特に神事や祭祀に興味を持っていて『スケッチ・オブ・ミャーク』という映画を真っ先に見にいったという。

江馬民夫さん、2013年1月12日帰天。享年82歳。

電通時代の僕が一番お世話になったキャメラマンでありプロデューサだった。
だが、長い付き合いのなかで、江馬さんと宮古島の話をしたことはなかった。
それはそうだろう。僕自身は宮古島に興味がなかったのだから。

この島の文脈を調べたのは今回の旅の直前だった。息子まかせの旅をするとき、僕はあまりガイドブックを読まない。一夜漬けで情報をとったとき、「大神島」という言葉をキャッチする。ここだけは積極的に行きたい、と思う。
そして、Yさんが薦めてくれた那覇の出版社、ボーダーインクの『読めば宮古!』を手に入れた。


宮古島には関西電通CR局の後輩が会社を辞めて帰郷していることもフェイスブックで知っていた。
でも、これは息子の背中を追いかける旅だ。彼のプランにしたがい、姉と弟、ふたりの孫とできるだけ行動を共にすることに決める。後輩に連絡は取らなかった。

かくして僕はじじばか全開で島を旅する。
琉球泡盛の多良川酒蔵で弟が成人したときにいっしょに飲むための洞窟貯蔵酒までキープする。17年後に呑むための酒である。そのとき、僕は81歳。江馬さんが亡くなった歳に近づく。


旅の最終日、息子一家とは別行動で大神島に向かう。山の神もついてきた。

ずっと晴れていた空がこの日は風を吹かす。時折、雨も混じる。サトウキビ畑がざわわと揺れている。
それにしても宮古島の畑は一島総砂糖黍になっている。沖縄製糖がすぐに換金してくれるからだろう。ヨソモノが口出しすることではないが、半農半X研究所、主任研究員としては少々、物足りない風景である。

強風の中、島尻漁港に着く。フェリーを待つ。10月29日は、大神島の神事があるそうで、山の七合目までしか行けないと聞いていた。ところが、待合室にいた島人の話によれば、神事は明日で今日は「遠見台」まで登れるという。

海を渡る。風の割りには揺れない。波が立たない航路を知り尽くしているようだ。
大神島は「おおがみじま」。奈良の大神神社は「おおみわじんじゃ」。後者は山全体がご神体として知られる神社だ。であるなら大神島は島全体が御神体なのだろう。


島で唯一の食堂、おぷゆう食堂の下地さんにガイドをお願いする。なにしろ立ち入ってはいけない聖域があるのだから。
神事は明日、今日の夕方からは、おばあが山籠もりの準備をするので遠見台を登ることはできないが、午前中なら大丈夫とのこと。
神域といわれる場所に来ると僕は興奮する。どうやら山の神も同じ気持ちのようだ。


海抜74.5メートルの遠見台に登る。途中に神の岩と樹がある。


海を見下ろす。
間違いない、江馬さんはここに来た。僕には何の霊感もないが、それは分かった。


僕の「大神島に渡る」投稿を見たYさんがリアルタイムに写真を送ってくれた。
陰の中にエマじいの首から上が写っている。不思議な写真だ。
小さな船「シマヌかりゆし」で江馬さんも僕も島に渡った。
懐かしくて寂しい。江馬さんと大神島の話がしたくなった。


大神島の神は親神様と呼ばれている。火と水をはじめとする5体の神らしい。
それは高天原にいたとされる神々とは別系統だろう。
彼女と彼は自然神。この場合の「自然」は「じねん」と読みたい。おのずからそこにいる神々。山川草木、そして岩に宿る神。

そうであれば、大神島の神もまた国つ神なのであろう。
遠い昔、南の方から海伝いに日本列島に来た神々は、宮古島をステッピング・ストーンとしたと思われる。踏み石が気にいって留まった者がいても不思議ではない。

石灰岩と風化花崗岩の違いはあれ、宮古諸島と出雲には同じく巨石信仰がある。このあたりの文脈研究は宿題にしよう。

自然神を拝むための場所を「うたき」という。
その漢字は「ごこく」と書く、という下地さんの言葉を聞いて僕はますます興奮した。
「五穀」と書いて「うたき」と読む、と文脈家特有の早とちりをしたのだ。いくら宮古言葉が独特でも、これは牽強付会(けんきょうふかい)というやつだ。
自然神に五穀豊穣を願うための「うたき」を「五穀」と書くなら、できすぎた話。
もっとも現在の宮古には五穀はなく、砂糖黍しかない。


「うたき」は「御嶽」と書く。これを下地さんは「ごこく」と発音したわけだ。

大神島御嶽への入り口

かくも無知なまま、宮古島ツアーをしていた僕だが、江馬さんを通じて電通時代のことはしっかりと思い出していた。
そして大神島に渡った日の夕方には後輩と会う約束もできていた。僕のフェイスブックを見てコンタクトしてくれたのだった。

江馬さん、宮古に帰った後輩、それだけでも宮古島で電通の夢を見るには充分なのかもしれない。

いや、本当のことを言うと、電通時代のことを忘れるはずはない。なにしろ64年間の人生で36年間過ごした会社なのだから。

2010年6月30日に会社を辞めてからは、電通のことは封印してきた。電通系人脈とはほとんど付き合いはなかった。盟友原田明を除いては。
この6年間、いろいろなところで自己紹介をしてきた。そのときに自分から電通と言うことはあまりなかった。あっちの世界を引きずっていたら、こっちの世界とはなじめないからだ。

ただし、拙著『消えた街』と『出雲國まこも風土記』の著者プロフィールには電通関西支社と明記してある。そのせいもあって、最近は、自己紹介の場にいる誰かが「元電通」とフォローしてくれることもある。
隠しても仕方がないことであるが、盟友がアドバイスをくれた。僕が、この先、本を書く時、本文中では「広告会社」と書いた方がいい、と。


確かに「電通」には色が付きすぎている。いい意味でも悪い意味でも……と言いたいところだが、最近、電通は悪の巣窟になったようである。

10月8日、高橋まつりさんの過労死自殺のニュースを知った。ずっと気になっている。それが宮古島で電通の夢を見る遠因になっていることも間違いない。

高橋まつりさん。女性、新入社員、東大卒、美人などの余分な情報は要らない。24歳の個人が自分で自分を殺した。個が全体に圧迫されて死を選んだ。僕の目の前には、その冷厳な事実があるだけだ。
自殺を自死と言い換えようとする人びとがいる。でも自殺は自殺だ。

ネット上では、まつりさんに関して様々な情報が氾濫している。僕もほんの少し、書きたくなった。だが、その前に何よりも合掌しよう。ご冥福を祈ろう。

宮古島はスピリチュアルな島だと言われている。「スピリチュアル」とは、様々な文脈がつきまとう言葉である。
宮古島の旅から帰って、自分なりの「スピリチュアル」の定義ができてきた気がする。
僕にとっての「スピリチュアル」とは「メメント・モリ(memento mori)」、すなわち「死を想え」である。

宮古島で「死を想う」。この島は「メメント・モリ」を誘う島のようだ。宮古空港で見つけた『ぴるます話』には、その種の話が満載されている。


ごく親しかった江馬民夫さんの死を想う。見ず知らずの高橋まつりさんの死を想う。
僕の無意識に詰まっている様々な死を想う。

高橋まつりさんの自殺に関しては、前田将多さんのコラム「広告業界という無法地帯へ」(月刊ショータ/2016-10-20)という記事が本質をとらえていると思う。

前田さんは電通関西支社のCR局で15年働いた後に会社を辞めたという。90%共感する。

午後10時に消灯しても問題は解決しない。サービス残業が増えるだけだ。深夜、会社から強制退館させられた社員は、下請け会社に行く、または自宅に仕事を持ち帰る。なぜなら、期日までに片付けなければならない仕事が無制限に流入してくるからだ。入り口を制御しなければ、出口は氾濫し続ける。

以下は当コラムからの引用である。僕は2010年6月までの電通しか知らない。この6年間で電通は昔の企業風土を失ったようだ。詳しくは分からないが。
電通はグローバル化を推進していて、外国の大きな会社を買収し、取締役に外国人を招き、会計年度まで海外に合わせて三月から十二月に移した。外ヅラだけグローバル企業を取り繕い、内実は昔ながらのドメスティックなやり方で、現代ならではの非人間的な組織運営を進め、どうするつもりなのか。
欧米の広告会社がどうしているのかは知らないが、グローバル気取りするなら、仕事の前に契約書でも取り交わして、することとしないことと、できることできないこと、その料金表を提示して、それを遵守したらどうなのか。「働くな。しかし任務は死んでも完遂せよ」と、社内の締め付けを強化して何かが解決するのか。
 広告界にもルールはあるはずだ。協会とかあるなら、広告主へのベンチャラ団体、内輪の親睦団体にしておかず、ルールを明文化することに寄与でもしたらどうなのか。四代社長、吉田秀雄が作ったメディアビジネスの枠組みで大儲けしてきたのだから、次は業界で働く人が命を落とさないための基本的なルールを広告に関わる全ての企業に説いたらどうなのだ。
少し、僕の考えを補足しておきたい。1974年から2010年までの電通時代経験値の範囲で。

「吉田秀雄がつくったメディアビジネスの枠組み」とは端的にいえば「民放テレビの番組CMとスポットCMで儲ける仕組み」である。
僕が電通から脱藩した2010年当時、電通はマスメディアだけの広告ビジネスに限界を感じて、インターネット広告でもビジネスチャンスを拡げようとしていた。僕はそういう部署でのクリエーティブ・ディレクターをしたこともある。

でも、インターネット広告では儲からない。儲からない部署は人員を減らされる。高橋まつりさんがいた部もそういうことだったのだろう。

マス広告で大きな利益を上げてきた電通。だが、ネットの世界では利益を上げる方法を発見することがいまだにできていない。したがって効率というシステムの必然により人員削減となる。何しろ大企業の人件費はコストとして計上されるのだから。

さらに、ネット広告の実績報告分析作業というのは、時間がかかるが、本質的には単純労働ではないか、と誤解を恐れずに言ってしまおう。
前田将多さんのコラムはいわゆるクリエーター(僕はこの言葉があまり好きではないが)の視点で書かれている。彼らの仕事への矜持が伝わってくるし、そのとおりなのだと思う。

でも、高橋まつりさんが課せられていたことは仕事ではなく作業であり「やりがい」などというものとはほど遠いものではなかったのか、と愚考する。

僕は2010年6月30日に電通関西支社のフラッパーゲートを出た。社員証を返したとき、インターネット広告の世界で苦労を分かち合ったHさんと出会った。ハグした。泣いた。

Hさんも2015年に早期退職して綾部に移住した。今年の春、はじめて彼の半農半Xハウスを訪れて酒を飲んだとき、当然のように電通時代の話になった。
僕はしゃべりながら、気がつけば涙を流していた。6年前にハグしたとき、彼と話したかったことがあふれ出てきたのだろう。

記憶を封印するというのは、ネクストステップに行くときには必要なプロセスだ。
でもたまには封印を解かないと閉じこめられたものは、毒素をはらむこともある。Hさんと飲んでデトックスができたのはありがたかった。
Hさんなら、高橋まつりさんが置かれていた立場が僕よりも分かるのかもしれない。
彼女はデトックスできる相手もなく、自分を殺してしまった。ひたすら哀しい。

電通時代の晩年、僕は管理職というものだった。36協定に違反した部下の始末書を何枚書いたか分からない。始末書にはいつも「人員増を求む」と書いていた覚えがある。願い事は叶ったり叶わなかったりだった……。

もはや僕の知っている電通は「古き良き時代」となってしまったらしい。見知らぬ人の自殺について、現在の僕が何をどういっても意味がないことかもしれない。

ただし、しかしながら、僕たち電通で口に糊をしたことがある者は自らにこう問いかける必要があるのではないか。

「もし自分が彼女の上司だったら、あるいは同僚だったら、彼女の自殺を止めることはできたのだろうか?」


宮古島は「メメント・モリ」の島だというところから、随分、文脈が飛躍してしまった。
コンテキスターというのは難儀な商売だと思う。でも、その書いたものを読んでくれる人はもっと大変なので、このあたりで終わりにしたい。

とはいえ、こんな小難しいことをずっと考えながら島旅をしていたわけではない。
最終日以外は、シマー(泡盛)をロックでたしなみながら、心地良い眠りを楽しんでいた時間も長かったのだ。今ある生を言祝ぎながら。


旅の最終段階で、電通時代の後輩に会う。
元気そうで何より。
彼は広告会社というソフト産業から島のインフラを担うハード産業の経営者に転身した。生活は電通時代ほどタフではなさそうだ。それに宮古島の風土と彼の風貌はみごとにマッチしていた。



「タヤでなければ生きられない。しかしヤパーヤパでなければ、生きていく資格がない」
(『読めば宮古!』さいが族/ボーダーインク/2002年)

みんな、タフに優しく生きていこう。そして、お迎えが来るまでは死ぬなよ。