2024年11月6日水曜日

本の学校の現在地

 〈NPO法人本の学校〉は2012年に設立された。遡れば前史がある。1995年1月17日、まさに阪神大震災が起こった朝、鳥取県米子市に「本の学校」という名の書店がオープンした。その実店舗をベースにして、まずは私塾として開校したのが「本の学校」であった。

その三原色は以下。

「生涯にわたる読書の推進」

「出版界や図書館界のあるべき姿を問うシンポジウム」

「業界書店人の研修講座」

初代理事長は永井伸和さん。今井書店グループの経営に長くたずさわり、現在は「知の地域づくり研究室」を主宰している。

そして、1995年から1999年、20世紀末の5年間に開催されたのが「大山緑陰シンポジウム」だった。出版業界の「ウッドストック」と言った人もいる。すなわち伝説である。大山という霊峰、緑陰という心地よさ。2泊3日、5回のシンポジウムには延べ約2000名が参加した。分厚い五冊の全記録集は、現在、僕の手元にお借りしている。

出版シンポジウムは東京に舞台を移す。東京国際ブックフェアの動き、コロナ禍などの紆余曲折を経て、神保町で今年も開催された。

【本の学校出版シンポジウム2024 in 東京】

2024年10月27日、会場は専修大学神田キャンパス。

リアルに参加しないとシンポジウムの気配を感じることはできない。話す人、聴く人の息づかいが会場の空気を形成していく。僕は2012年以来、NPO法人の正会員を継続している。したがって総会にも出席しているので理事のみなさんとも顔見知りになっていた。正会員としてのポジションは「読者」。筋金入りの活字中毒者として。電子本においても「活字」というのか、という問題は横におく。そしてニワカ作家。自費出版で紙本と電子版を出しているモノ書きとして。

今年の大テーマは〈本と地域をめぐる「あの話」〉。

地域おこしと連帯した書店、本来の役割をまっとうしようとしている図書館、出版の新しいカタチを探る作家。そして、2028年に街から書店が消えると予言したコンサルタント。確かにみなさん、本音でしゃべっていた。

「あの話」の根底には出版業界の構造的な問題がある。衆院選では「失われた30年」というキーワードがあった。1995年、阪神大震災と地下鉄サリン事件があった年から、この国の経済は停滞し、社会状況は劣化している。

出版業界の流通問題といわゆる「活字離れ」問題も大山緑陰シンポが開催された30年前から問題は共有されていたのに解決を先延ばしにしてきたから、こんなことになったのだ。出版業界に利害関係のない僕はそう思う。

シンポジウムを傾聴しながら、「読者は困ってないでしょう」という言葉を反芻していた。2023年5月に丸善ジュンク堂の福嶋聡さんが朝日新聞紙上で言ったこと。

「だって、Amazonがあるんだもん。本屋がなくなっても困らない」と感じている読者は出版業界の「あの話」には興味がないだろう。

幸か不幸か、僕は本も好きだが本屋も好きで図書館のヘビーユーザでもある。「あの話」の文脈研究を続けている。本屋や図書館にいると気分が落ちつく。求める本を手に入れる手段には困ってないが、本屋が消えると寂しい。極端に寂しい。

第1分科会は「書店と図書館にできること―地域を耕す、読者が生まれる」。パネリストは名古屋の図書館長、盛岡の書店員、東京の書店経営者。

さわや書店の栗澤順一さんは見た目は繊細だけど、様々な地域おこしイベントをひとりでやりきる忍耐力を持っているようだ。それが、どれほど大変なことであるかは、電通で36年間働いていた僕にはよく分かる。


『本屋、地元に生きる』という本に書かれていることを写真で見せてくれる。実感が増す。「全国で初めて書店で販売される醤油」!? いいじゃないか。「本+書店(員)」は「まちの接着剤であり潤滑油」なんだから。酒のまち、じゃなかった、本のまち、盛岡に行って旨口の純米酒を呑みたくなってきた。

家族経営のチェーン店、久美堂の井上健浩さん。釣りとキャンプが好きな三代目は「継げ」と言われたことはなかったという。しかし、結局は「ありがとうと感謝される仕事」としての書店に就職した。

久美堂は町田市の図書館の指定管理者になっている。さらに図書館の予約本の受け取りと返本を書店のカウンターで可能にしている。図書館と書店がコラボできたら「本のタッチポイント」は確実に増えるから。「ペイ・フォワードブック」は全国の本屋に広がるといいね!

名古屋市守山図書館と志段味図書館の館長、藤坂康司さんは〈図書館と書店にできること〉の多様性を追求している。

「図書館は地域の課題を解決するために、なんでもできるなと思った」。まずは児童サービス。お話会。医療、健康、ビジネス……。図書館利用者と仲良くなれば、イベントの多様性は確保できる。なんと、「としょキャン」まで。地元のボーイスカウトが図書館に泊まりたいと言った。夜の図書館で子供たちはひたすら本を読む。

本の学校理事の植村八潮さんが質問する。「経産省の書店振興プロジェクトでは図書館に関しては複本問題しか話さない。つまり、図書館が書店の売上に悪影響を与えると。がっかりした。もっと書店と図書館の本当のコラボを考えていった方がいいのではないか?」

「買う人も借りる人も読者!」と藤坂康司さんは喝破した。そのとおりだと思う。読者が増えれば本の需要が世の中に増える。借りて読んだ本をやっぱり手元に置きたくなって買ってしまう読者だっている。はい、僕です。このシンポの参考書籍は箕面市立図書館で読了していたのだけど、買って東京に持ってきた。

本に関するイベントは本とともに聴くのだ。

第2分科会が始まる。「著者・出版・書店の垣根を越えて―〈軽出版〉その可能性の中心」。ニワカ作家としては、最も聴きたかったのが「軽出版」。仲俣暁生さんとは以前、電子出版の先駆け、ボイジャーのイベントで話したことがあった。彼はNPO法人本の学校の呼びかけ人であり、大山緑陰シンポにも参加したことがあるという。

おや、司会は「本棚演算株式会社」の今井太郎さんだ。今井書店とは無関係だが、本の学校文脈に連なる人である。

「軽出版」という言葉に惹かれる。紙の本を出すためには昔も今も「大きな出版のシステムをガラガラ回す」必要がある。ニワカ作家にとっては荷は重い。重出版に対峙するところの軽出版。「ケは軽出版のケ」だったのか。『ウは宇宙のウ』はレイ・ブラッドリーのSF。読んだ覚えはある。

100部から1000部が軽出版。軽いことを戦略的に使っていくこと。まずは書くべし。Wordであれ一太郎であれ。そして版下つくり。ああ、憧れのInDesign。僕は2010年頃のAdobeを持っていたことはある。でもついに使いこなすことはできなかった。仲俣さんは軽やかに本の原液たるPDFまで完成させてしまう。印刷は「同人誌向けネット印刷」。すべてがネットで完結して美しい本の出来上がり!

さて、どう販売するのか。紙の本である。人と人が触れ合って手渡しで売るのが基本。文学フリマと独立系書店。あるいはシェア型書店。オンライン販売でも「アマゾンを迂回する」のが軽出版。「オタク文化のプラットフォームを使う。市民的プラットフォームのブリコラージュなんです」と仲俣さんは素敵な言葉を発した。BOOTHというオタクグッズ販売サイトは知らなかった。すみません、なにしろ僕は村上龍と同い年で村上春樹より三つ年下なものでオタク文化には縁遠い。

アマゾンには依存したくない、これは思想の問題でもある。拍手!(心の中で)

でもね、この国は敗戦以来、日米地位協定によりアメリカの属国であり続けている。そして今はGAFA依存症が進行している。はい、僕もそうです。

しかしながら、軽出版の世界では脱アマゾンが実現できている。喜ばしい。僕の認識では仲俣さんは電子出版の人だった。しかし、「電子は楽しくない」と今は言っている。どうやら彼は紙に回帰したようだ。

独立書店も軽出版の流通を支える。「双子のライオン堂」の竹田信弥さん。けったいな名前の本屋は100年続くのが目標であるという。棚には100年残したい本を選書しているそうだ。おや、ライオン堂のモットーは「ほんとの出合い」。これはまっとうだ。永井伸和さんの持ち言葉「本との出合いは本当の出合い」とマッチしている。

竹田さんは本屋であり出版人である。『しししし』という文芸誌。まだ出合ったことはないが、手にしたら、きっと「うっしっし」と言ってしまいそうな気もしてきた。

仲俣さんは竹田さんのことを「師匠」と言っていた。ハテナマークつきの重出版をしていたライオン堂は、現在、仲俣さんと連帯したような軽出版を志している。

「出版は運動性を内包している。カフェや雑貨は粗利率の改善にはなるが運動性はない」と獅子座の店主は語った。「双子のライオン堂」という運動体は、選書と軽出版という持続する両輪を備えた。さらに、分散読書をベースにした読書会など様々な取り組みをしている。

竹田さんは1986年生まれ。うちの次男の一つ下だ。この国の出版界は捨てたものではない。出版業界というよりも出版界隈という言い方の方がなじむ出版界のことである。業界は30年来、停滞しているが、界隈では運動体が生まれている。そのベクトルを見ていきたい。

さて、問題の第三分科会。「街に書店があり続けるためには~未来への提言」である。提言というか予言をしたのが小島俊一さん。

『2028年街から書店が消える日』を精読してみた。消滅を2028年としたのは教科書がデジタル化する年だからという。町の本屋は教科書販売もするという収益構造も持っているから大きな分岐点になることは間違いない。

同書で素直に納得できるのは、冒頭のアインシュタインの言葉と巻末の映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の名言である。

「愚かさとは同じことを繰り返しながら違う結果を求めることである」(アルバート・アインシュタイン)

「If you build it,he will come・それをつくれば彼はやってくる」(フィールド・オブ・ドリームズ)

両者は同じことの裏表を表現した言葉なのだが。

納得できなかったのは「ビジネスとしての本屋に関心があるものの、独立系書店には興味を持てない私」(191頁)それにしては、小島さんは独立系書店の大井さんと長崎さんとも親しいようである。

同書は2001年に佐野眞一さんが上梓した『だれが「本」を殺すのか』のトリビュートだという。確かに同じプレジデント社の発行だが、ちょっと違うんじゃないかな。

佐野眞一さんの本はよくも悪くも陰翳がある。過剰なまでに。小島俊一さんの本は丁寧に書かれた学習参考書という感じがする。もちろんノンフィクション作家とコンサルタントの書いた本という違いもある。

同書が「ハレーションを起こす」本であることは否めない。安倍譲二が「塀の中」を赤裸々に書いたように小島さんは出版業界の諸問題を外部の読者にさらしてくれた。だから本好き読者に売れているのだろう。「内幕もの」は魅力的になることもある。

おっと、この文章は出版シンポの文脈レポートだった。本筋に戻ろう。第三分科会の司会はブックスキューブリックの大井実さん。本の学校の理事であり福岡の独立書店主。

出版業界では有名人であり独立書店界隈の重鎮。「2001年書店の旅」に出た人。ちなみに、その年に『本コロ』が出版された。出版業界の改革は待ったなし、と佐野眞一さんはすでに言っていた。大井さんは小島さんにプレゼンテーションを促す。

「ボンクラ評論家は書店衰退の理由をネット書店と活字離れなどといってますが、何の関係もない!」小島さんの言葉は強い。経産省の「国内外の書店の経営環境に関する調査」を示していく。

「書店がなくなっているのは日本だけなんです!」

正確に言うなら「激減しているのは日本だけ」ということだろう。調査を見ると、米国とドイツは「減少傾向」、フランスは「横ばい」、韓国は「増加傾向」にある。

「日本の本屋の産業構造は終わった。雑誌とコミック中心の産業構造だからつぶれた。諸外国は書籍だけの流通を持っている。日本の本屋は書籍中心でも回る粗利益を出さなきゃならない」

そのとおり。一読者である僕でも本屋ウォッチングをしていれば分かる。

話は図書館問題、書店からの納本へとジャンプした。「競争入札、絶対おかしいでしょ。本には定価があるのだから」

これも正論である。鳥取県立図書館は地元の本屋を絶対的に支援する。「鳥取モデル」は永井伸和さんから話を聴いていた。鳥取県内の本屋が選書する。司書たちが協議する。随意契約で本を買う。人と人が本を吟味していく。
もちろん、装備費の問題はある。しかし、図書館のベクトルが地元の本屋とともにある。


続いては、大井さんの自己紹介。福岡に行ったことはないけど、ブックオカの風景は目に見えるような気がする。のきさき古本市に行ってみたい。平野甲賀さんのブックカバーがほしい。「本のもりのなか」に入って本に関する名言を読みたい。キューブリックの文脈棚が見たい。

〈One for all,all for one〉といいたくなる。本のチカラを最大限にするためにトライが続いているようだ。

長崎健一さんも1889年創業の老舗書店を継いだ経営者。長崎だけど熊本県。絵に描いたように実直な話しぶりである。しかも熊本県書店商業組合の副理事長だという。読者である僕には書店組合の実情は分からない。でも、その運営が新旧組合員の葛藤のなかにあることは想像に難くない。

長崎社長は来店促進と売上増のための施策を考え続けている。マーケティングとして目新しさはないが、「継続は力なり」を信条にしているのだろう。〈ブックカルテ〉という選書サービスも始めた。

長崎さんは「地域の生活」でのニーズを重視したいと考えている。読者、特に子供がどんな本を読んでいるのか、簡便にデータを取得できる方法論があればよいのだが。マーケットインの書店経営に幸あれ。


「普段使いできて発見のある本屋」と小島さんが表現した長崎書店。大井さんの店づくり、棚づくりを参考にしたそうだ。

司会の大井さんが論点を整理する。

①来店促進 ②粗利の改善 ③流通改革 ④人材育成

この4つの問題が解決したら、書店消滅を防げるのは確かなことだろう。読者の立場からいえば①の来店促進を裏返して考えたい。

なぜ、僕は本屋に行きたいのだろうか? どうして、図書館に行くのが楽しいのだろうか?回答を端的にいえば、僕は〈情報〉ではなく〈場〉を求めているのだ。それはまた別の話にしておきたい。

②と③と④に関しては、読者の立場ではなにもできない。ただ、本の学校正会員としては、人材育成は書店人教育講座として、本の学校が30年前からやっていることでしょう、と言いたいだけである。

出版業界には3ナイがあると小島さんは言う。

「学ばナイ、変わらナイ、議論しナイ」

小島さんの大きな声を無視して、旧態依然として取次が見計らい配本する本をほいさっさと棚に刺していくだけの書店はつぶれるしかない、そんな気がしてくる。

「今こそ、タブーなしで議論しませんか」という小島さんの呼びかけに出版業界はどう応えるのだろうか。無視するのか。

「僕を講演に呼んでくれる出版関係者は少ない」そうだ。確かに小島さんの立ち位置は微妙である。トーハンの九州支社長、松山の明屋書店代表取締役というキャリアから経営コンサルタントに転じた。

「現在は出版業界とは何の関係もない、離れて10年」と言っても、半身は業界内部の人のように見えてしまう。

だから「トーハンにいてはったのに、よーいうわ」という声があったりするのかもしれない。「小島さんがいうほど悲観的ではない。本はまだまだ売れる、流通の改革も進んでいる」という会場からの声を信じたい。

産業構造としての出版業界を経営コンサルという視点で批判する。これが小島俊一さんのスタンスである。必然的に経済産業省と親和性が高い。小島さんは「経済産業省・書店振興プロジェクトチーム」に大きな期待を寄せている。2024年10月4日に経産省は「関係者から指摘された書店活性化のための課題(案)」を公表した。

https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/contents/downloadfiles/syoten_kadai.pdf

経産省の課題(案)を生情報として『2028年街から書店が消える日』を参考書籍にすれば課題は網羅されている。

「出版業界の一部では経産省に抵抗感を持つ人もいるが馬鹿げている。経産省は経済構造としての出版産業を崩壊から守ることだけが目的なんだから」

小島さんはそのように言うが、実は僕も抵抗がある。以下は、本の学校正会員という立場を離れて、半農半リベラル過敏派としての見解である。

問題は、経産省PTの母体が自民党の「街の本屋さんを元気にして、日本の文化を守る議員連盟」であることだと、僕は思う。

https://www.jpic.or.jp/topics/docs/e250d610845c5c900e527e17de8ccb9977a8ed45.pdf

悪いけど、僕は自民党という政党を信じることはできない。安倍一強政治がこの国をおかしくした。自民党の「街の本屋」議連の会長は塩谷立氏だった。安倍派の重鎮。現在は裏金問題により政界を引退している。

書店に関する議員連盟は、かつては超党派だったそうだ。与党も野党も本を読むべし。それは当然のことだったと思える。ところが、自民党だけの議連は、わざわざ「日本の文化」を強調している。文化は日本だけにあるのではない。半島にも大陸にも存在する。

書店を守ることは国力を守ること、と短絡されたら気色悪い。国防のために本を読む人もいれば、国家権力を監視して対抗する術を知るために本を読む人もいる。

考えすぎでしょ、と言われたら自民党政権が図書館の蔵書に指図をしたことを思い出してほしい。もちろん拉致問題の解決は急務であるが、政権の都合で「拉致問題に関する蔵書を増やせ」というのは大きなお世話だ。

さらに過敏派として見解を述べるなら経産省についてである。かの省庁は原発を背負っている。仮に街の本屋への補助金が決定したとしよう。その本屋の棚に反原発本がたくさん刺さっていたら、どうなるのか。

かつて、大日本帝国の出版業界は検閲を受けていた。その悪夢を忘れてはならない。

「経産省書籍振興PTに見棄てられたら本屋はおしまいです」と小島さんは言った。そうだろうか。読者に見棄てられたとき本屋は死ぬのだ、と読者である僕は思う。

本と本屋と図書館は文化の根元である。だから読者は、それらを三位一体で守るための不断の努力をしていこう。

「文化を守れ!社会的共通資本としての本屋を守れ!」

本と本屋と図書館は文化である。文化だから守っていこうというしかない。文化が守れない国には言論の自由がなくなる。

『2028年街から書店が消える日』は「30人目の識者」として読者を想定している。はい、読者としての感想を言葉にしました。そう簡単に言霊になるとは思えないけど。

このシンポジウムが開催されたのは2024年10月27日である。その夜、自民党は総選挙で大敗していく。自民の「街の本屋」議連と経産省の書店振興PTがどのような展開になっていくかは、まだ誰にも分からない。

同時刻、参加者たちは、それぞれのポジションを持ち寄って交流を深めていた。本は人間関係を編むこともできるらしい。

未知の明日に対応するために、私たちは今日も本を読む。本のチカラを信じて。

「浮上したい」と活字は言っている。

「よくこれだけのメンバーを集めたな」といわれるほどのシンポジウムを企画し実現させた〈NPO法人本の学校〉理事長の柴野京子さん、副理事長の前田昇さんと梶原治樹さんをはじめとする理事、監事、相談役、顧問の皆様に深謝いたします。


参考書籍

『本との出会いを創り、育てるために~本の学校・出版産業シンポジウム2012記録集』

(編者・NPO法人本の学校/出版メディアパル/2013年7月10日)

『本屋、地元に生きる』

(栗澤順一/KADOKAWA/2023年2月22日)

『ポスト・ムラカミの日本文学[改訂新版]』

(仲俣暁生/破船房/2024年9月1日)

『もなかと羊羹~あるいはいかにして私は出版の未来を心配するのをやめて軽出版者になったか。』

(仲俣暁生/破船房/2024年10月7日)

『めんどくさい本屋~100年先まで続ける道』

(竹田信弥/本の種出版/2020年4月27日)

『2028年街から書店が消える日~識者30人からのメッセージ』

(小島俊一/プレジデント社/2024年5月25日)

『だれが「本」を殺すのか』

(佐野眞一/プレジデント社/2001年2月15日)

『「本屋」は死なない』

(石橋毅史/新潮社/2011年10月30日)

『本屋のない人生なんて』

(三宅玲子/光文社/2024年3月30日)

『浮上せよと活字は言う』

(橋本治/中央公論社/1994年3月20日)


2023年12月25日月曜日

バリ・ベトナム縁脈旅

あれは長男が3歳の頃だったと思う。僕たち夫婦はどこかのサファリパークに行った。何かの事情で山の神(妻のこと)がいなくなって、僕と長男が二人で歩くことになった。そのとき、彼は「ついてこないで」と言った。素直な父親であった僕は手を離し、すたすた歩く長男を見送った。見失った。サファリパークである。ライオンに食われたらどうしよう、と焦る。

「3歳の子供についてこないで、と言われて手を離す父親がどこにいるの」と山の神に叱責された。おっしゃるとおりだ。結果的には迷子案内で見つかって、今に到る。

そして現在、父は71歳、長男は41歳。四度目の二人旅に出た。

2003年、スコットランド。

2010年、ネパール。

2013年、ブルネイ。

まさか、ブルネイから10年後にまた二人旅に出るとは思っていなかった。今の僕は「ついてこないで」と長男に言われても、ひたすらついていく。方向音痴の父親には、それしか道はない。

「転職するので長い休暇ができた。どこでも好きなところに連れていってやる」

はい、了解。でもどこに行く?

「豊かな自然があるところ」、これが二人旅の絶対条件である。豊かな自然にはマコモがからんでいるはずだ。2016年から「まこも研究者」のようになった父は考える。「そうだ、アメリカマコモを見にいこう」

この短絡感がたまらない。旅の醍醐味というやつなのか?

アメリカマコモは米国五大湖周辺でインディアンが生業としている。彼らの言葉では“Manoomin”という。ワイルドライスのことだ。オジブワ族がブランド化している。ちゃっちゃと検索してみる。オジブワ族にはデニス・バンクス(1937―2017)という有名人がいる。彼は、この旅のきっかけとなった。あらら、ここにも不思議な縁脈が。

『聖なる魂』(森田ゆり/1989)

結果的には五大湖は諦めた。余りに経費が掛かる。長男はアメリカの大学を卒業しているので、英語と車の運転は問題ないとしても、最寄りの空港から移動に手間取る。それでも「マヌーミン」に関する資料は集まった。もしかして3冊目のまこも本を書くなら、アメリカマコモのことも書かなきゃ。

「アメリカは飽きた。行ったことがない国に行きたい」という長男。アホノミクスを解消しない「増税メガネ」のおかげで円安。横に飛ぶには飛行機代が高すぎる。ならば、縦に飛ぶ。やっぱり東南アジアだ。バリ島、すなわちインドネシアはどうだ。

それならOKと答えた長男は、飛行ルートを調べる。エアライン・フリークでもある彼は最安ルートを見つけた。ベトナムまでJALのマイルを使う。そこからVetJetというLCC。

実はバリ島にはデニス・バンクスにゆかりの人物がいることを知っていた。堀越大二郎さん、「堀越おかん」の息子である。

本棚から井上理津子さんの『大阪下町酒場列伝』(ちくま文庫/2004年)を取り出す。その145頁の写真を引用しておこう。2002年、心斎橋にあった高級天麩羅屋さん「若松」をりっちゃんが取材したときのものだ。当時26歳のマスター大二郎とおかんシェフの図。


大二郎さんは小学校6年生のとき、「中学いかん!」と宣言したそうだ。母であるおかんが慌てたのかどうかは分からない。なにしろ彼女は僕たちが密かに「不思議の国の由美子ねえさん」と呼ぶ人物である。


1989年、デニス・バンクスは京都で堀越大二郎さん(当時13歳)をもらい受けた。
登校拒否宣言をした男の子を10分の交渉で預かり、アメリカ大陸に連れて行ったのだ。

「もらう方ももらう方だし、ついていく方もついていく方だし、あげる方もあげる方だ」
と、2023年夏、堀越由美子さんは語った。
「デニスがピンクのハンカチをくれた。ハンカチとひとり息子を交換するアホおるか?」
と付け加えた。

そんなわけで(どんなわけなのかよく分からないが)、大二郎さんは1997年までデニスと行動を共にした。ということはネイティブ・アメリカンの「七世代先を考えるコミュニティ」を彷徨したということだろう。

大二郎さんは3・11を経て2012年に夫婦でバリ島に移住。その何年か後、南部の高級リゾート地で、懐石料理店「匠 TAKUMI」を開店した。

そして、2023年9月2日、父と息子はTAKUMIのカウンターで素材を選びぬいた大二郎さんの絶品料理を味わい、旨口の酒をサーブされた。しゃべりたおす。


おっと、いきなり飯と酒の話になってしまった。もちろん旅することは喰うことであり呑むことなのだが、まだ8泊9日の旅程も紹介していなかった。

8月31日 伊丹から成田。成田からホーチミンへ。


9月1日 ホーチミン滞在。「戦争証跡博物館」訪問。


9月2日 バリ島に移動。クロボカン泊。TAKUMI飯。


9月3日~5日 バリ島ウブド泊。デワ・バンガローズ


9月6日 バリ島ジンバラン泊。


9月7日 バリ島からホーチミンへ。


9月8日 ホーチミンから成田。成田から伊丹。


もうお分かりだと思うが、これは短い旅の長いレポートになる。なんだったら年末年始に読んでほしい。

縁脈旅の目的はまず堀越大二郎さんに会うことだった。LINEでつながる。彼の友人、マデボギーさんを紹介してもらう。旅の足を確保した。きっといい人だと思っていた。そのとおりだった。

おっと、その前にベトナムである。バリへのエントリーがベトナムとなったのは偶然のようだが必然でもある。ベトナムすなわちサイゴン。ホーチミンという現在の都市名よりサイゴンの方に思い入れがある世代に僕は属している。1970年6月には東京で「ベ平連」のデモに参加していた。

10年前のブルネイ旅のレポートでも開高健に言及している。サイゴンに行くなら『輝ける闇』を持っていかねば。旅とは現地の本を持って現場に行くことでもある。
2003年のスコットランド、アイラ島には村上春樹の『もしも僕らのことばがウイスキーであったなら』を持っていった。
ベトナム戦争の闇を読みながら、かつて大東亜共栄圏という戯言を誰かさんたちが言った空を飛ぶ。

開高健は1965年、週間朝日の特派員としてサイゴンにいた。開高が滞在していたのはマジェスティック・ホテル。ベトコンのアンブッシュに遭遇して死にかけた戦場へも、このホテルから出かけていったのだろう。僕もそこに行ってみる。


伝統のあるホテルであることは分かる。でも、俯瞰してみればちっぽけな建物だった。歴史は川のように流れる。サイゴンのそれは泥の川だった。サイゴンでは「美しい自然」とは出会えなかった。


ベトナムでは、現在でもベトナム戦争と出会うことができる。


「戦争証跡博物館」。あの山本義隆と「10・8山﨑博昭プロジェクト」の一行は2017年にここを訪れていた。
「日本のベトナム反戦運動とその時代展」のオープニングセレモニーのためだった。

「ベトナムはフランス帝国主義とアメリカ帝国主義に勝利した世界で唯一の国であります」
確かにそのとおりである。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と北ベトナムのホーおじさんが南の傀儡政権とアメリカ軍を粉砕した。

でも、「輝ける戦争」などというものはない。
ベトナムの母子と同じように、我が子を抱きしめて泣いているウクライナの母子がいる。ロシアの母子がいる。パレスチナの母子も。イスラエルの母子も。

四國五郎の「ベトナムの母子」

戦車も戦闘機も機関砲も爆弾も、1975年4月26日にサイゴンから逃げ出したアメリカの残留物は館内のいたるところにある。もちろん、ソンミ村大虐殺の証跡もある。殺された村民の名前も刻まれている。


残留物のうち、最も人道上の罪が深いのは「エージェント・オレンジ」、枯葉剤である。


その非道い後遺症。奇形となった子供たちの写真を見るのが辛い。


僕のベトナム滞在はほんの僅かな時間だった。それでも戦争の記憶は確かに継承された。
それは、文字どおり命を賭けて記録を撮った写真家たちがいたから。インドシナ半島の戦争で殉職した写真家たちの肖像が並んでいた。


戦争証跡博物館には世界各地から観光客が来ていた。2023年末、戦火が止まず戦禍が拡大する世界で子供たちは何を持ち帰るのだろうか。


ホテルからここに来るまでは長男の背中を見ていた。


彼は早朝ランでホーチミンの地形を把握していた。翌9月2日は独立記念日だった。78年前にベトナム民主共和国が誕生した日。


国慶節を祝う看板を見ながら、息子は父を目的地まで連れて行ってくれた。バイクの川を横断させてくれた。


到着した戦争証跡博物館では父が息子に背中を見せていたような気がする。僕はここに3時間滞在した。

「客人、タクシーはどうでえ?」というおっさんの誘いには乗らずに、(行ったことないけど)パリのようなおしゃれな街を歩き続けたら腹が減った。


「お兄さん、ここの路地には旨い飯屋があるで」というホーチミンの放置犬の誘いには乗った。

ローカル食堂にたどりつく父の臭覚は、まだ少しは残っているようだ。


ホーチミンでは野菜は食べ放題みたい。


バーバーバービールは飲み放題ではないけど。


酔っぱらっている場合ではない。まだ先は長い。さあ、バリに飛ぼう。
ベトジェットはファミリアな飛行機だった。


バリ島、グラライ国際空港。迎えの人々。我らがドライバー、マデボギーとはすぐに会えた。ホテルに向かう。バリもバイクの川が流れる。渋滞の島。


ホテルから大二郎さんのTAKUMIに向かう。すぐそばのホテルを予約していた。
ここで話はプロローグにループしていくわけなのだ。バリの懐石料理店のエントランスはこんな感じ。


懐石料理と酒以外の話をつけ加える。
この夜の息子は嬉しそうだった。これは転職祝いディナーでもあった。
大二郎さんは優しい。「新しい仕事がうまくいきますように」と励ましてくれる。


僕はおかんから大二郎さんへのギフトを渡し、メッセージを伝える。
デニス・バンクスの話をする。
「インディアンはポトラッチ(贈与)するんです。だからデニスにもらったものは残していない。残した唯一のものがピアスです」
ステップ・ファーザーを懐かしみながら、シェフは左耳を見せてくれた。


「生き残るためにはまず何かを捨てなければならない」
なるほど。8年間、デニスとともに過ごした時間はそういうことだったのか。おかんは息子のアメリカ時代はよく知らないと言っていた。

続きの話は次回かな。次回は長男だけで、あるいは長男と次男の家族で大二郎さんの懐石を食べにくればいい、と父は思った。


ようやく、バリ島観光ができる。
観光の旅でけっして裏切らないところをあげろ、と言われたら躊躇なくバリ島といいますね。インドネシアのなかでは突出した「優しい島」だ。ここだけヒンドゥ教(本国はイスラム教)だが、インドのヒンドゥ教のような厳しい戒律はなく、万物に神が宿るという多神教の一種だ。山や木や花や風など、とにかく身の回りのあらゆるものを崇めるのだ。ソフトヒンドゥとも呼ばれている。 
『毎朝ちがう風景があった』
旅の達人、椎名誠はこのように書いている。
山川草木に宿る神々、というのはコンテキスターの「国つ神」定義にも通じる。
すなわち、「土着した神々」だ。
バリ島の山川草木を支えているのは水である。
ここは根元的には「水の島」だと思う。父と息子は、そのことを体感することになった。

旅に出る前には、現地にまつわる本を読む。実は違う視点の本も読んでいた。
『楽園の島と忘れられたジェノサイド~バリに眠る狂気の記憶をめぐって』(倉沢愛子)
バリ島の西北では1965年に政変とイデオロギーを巡る大虐殺があったという歴史的事実。
これはまた別の話にしておこう。


僕たちはまず山の町、ウブドに向かう。楽園のサーフィンにもショッピングにも興味はない。3泊したのは「デワ・バンガローズ」。番犬のような不思議な猫と雑多な神々がいる民宿だった。


「観光」すなわち光を観ることのキーワードは、聖地、沐浴、遺跡、棚田、夕陽。
ルートはマデボギーにお任せだ。全面的に信頼できるドライバーがいれば、旅は楽ちんだ。
初めての土地では遠くて高いところから行った方がよい。


バトゥール山麓、キンタマーニ。おお、確かに「豊かな自然」がある。


聖地入門。初めてサロンを腰に巻いて割れ門に入る。
今、気がついた。最初に行った寺院、「プラ・ウルン・ダヌ・バトゥール」も世界遺産だったのだ。この島には遺産があふれている。神々が豊饒すぎるからだろう。


以後、各地で豊満で過剰な神々と出会う。子供たちの笑顔にも。


そして、聖地のなかの聖地、ブサキ寺院へ。バリ・ヒンドゥーの総本山。


寺院内ガイドは日本で働き、日本語が話せるB君。名前を聞き忘れた。BはBesakihのB。
長男とB君はずっと話していた。


父は犬と子供の写真を撮るのに忙しい。


そして生活者も撮影したい。


B君は長男と同世代のようだった。家族と子供の話になる。
「僕の妻は上にいる」突然、空を見上げてB君が言った。
Because of COVID-19.
これは英語だったような気がする。
この島はウイルスの楽園になったこともあった。島の渋滞は消えた。彼の妻は失われた。


長男はドル札を探す。別れ際にそっと渡した。いいところがあるじゃないか。


マデボギーは次の聖地に僕たちを連れて行く。
ティルタ・ウンプル寺院。ここもまた世界遺産だ。


観光客の沐浴は見るだけにした。行列ができている。夕刻になり気温が下がってきた。


その水が流れ出る聖なる泉に行く。そこで僕は興奮した。
あれは、マコモではないか。あくまでも透きとおった水の中、ひとりすっくと立つ姿は「聖なる草」なのではないか。


できるだけ近づく。もはや息子の背中は意識から遠のく。
バリ島が水の島であるなら、どこかにマコモがいても不思議ではない。そんな気持ちは持っていた。だが、結局のところ、マコモらしきものを見たのはティルタ・ウンプルだけだった。


「おっちゃん、葉のかたちがマコモとはちゃうよ」
と現地の子に言われたような気もする。いいのだ。たたずまいがマコモであれば。


あの草が何であったのかを確かめるすべはない。ただ僕は夏の夕暮れ、澄んだ水に住む一本の草に魅せられただけである。


マデボギーと長男は父が満足するのを待ってくれた。


聖地3連発で始まったバリ島ツアーは、その深度を増していく。
次の日は遺跡巡りで始まった。ゴア・ガジャとは象の洞窟。


修行僧が眠った古代遺跡にはガネーシャがいてリンガがあった。


謎の蛇おっさんもいた。


素敵な磐座もあったが、気になったのは象の足のような根を持つ樹。ここは聖なる樹の聖地でもあるのだろう。


さあ来い、次の聖地!
「グヌン・カウィの石窟寺院へは約270段の階段を下りることになる。急な階段なので田園風景を楽しみつつ、休みながら下るのがおすすめ」
二人旅のバイブル『地球の歩き方』にはこう書いてあった。

この日は足腰の鍛え方が問われる日でもあった。日頃から走っている息子は問題なし。もしかしたらマデボギーはしんどかったのかも。父は黙って手すりを持って降りる、登る。


「じじ、がんばりや」とおばはんに言われたような。そのあたりの女の子が励ましてくれた。

田園風景を楽しむのは得意だ。


バリ島の遺跡は単なる遺跡ではない。現在進行形の祈りの場でもある。長い下り階段の底でも民草は祈っている。


ワンコに禁足地はない。


それから、人生初のムルカットに向かう。沐浴、しかも滝行。水着は忘れていなかった。
スバトゥの滝はガイドブックに載っている観光地である。ここも長い階段を降りる。


滝の脇では犬神様が睨んでいた。いささか緊張して滝に臨む父と息子。


マデボギーが防水カメラを構える。行くぞ、おそるおそる。


冷たいのだ。勢いがあるのだ。気持ちがいいのだ。スバトゥの滝でムルカットしたら、心に黒いものがある人は背後に黒い水が流れるそうだ。

背後を見る余裕もなく祈る。浄化のあとは祈るべし。


2023年9月4日は二人旅史上、まれに見る強行日程だったといえるだろう。ネパールでは、大きくいえばヒマラヤに向かって小さなささやかなトレッキングをしたことがあった。しかしながら、それは13年前のことである。

聖地と遺跡から棚田へと舞台は移っていく。
テガララン棚田。いささか観光客向けに演出をされているところではあるが、現役の棚田であることは間違いない。聖地も好きだけど棚田も好きだ、という父の趣味に息子はつきあう。彼だって稲刈り、ハゼ干しをしたことはあるのだ。


散策の前のランチタイム。棚田を見下ろしながらビンタンビール、よいではないか。


畔道を歩くのは得意だ。いつでも稲刈りできそうなくらい穂が垂れている。


おや、バリ島の田んぼにもコナギちゃんがいる。


耳慣れた草刈り機のエンジン音がする。


さすがに歩き疲れた。ウブドのバンガローに帰る。でも、まだ欲ばっていた。夜はケチャの公演を見たかったのだ。


でも、無理。サテー(焼き鳥)喰って寝ましょう。手回しよくディナーの前に買っていたチケットは無駄になった。そんなこともある。旅なんだから。


「ケチャとは、百人以上の踊り手と歌い手によって演じられる伝統的なダンスです。このパフォーマンスのユニークなところは、楽器は一切使わずに人間の声と手拍子だけで演じられるところです」とチケットの解説に書いてある。
口惜しいので、YouTubeで見ておこう。

チャチャチャと翌日になった。
9月5日はバリ島旅で最高のパフォーマンスを父と息子がした日。

Taman Beji Griya Waterfall タマン・ベジ・グリヤの滝。
また『地球の歩き方』に載っていないところに行けた。マデボギーの妻、ゆかりさんが情報をくれた。

ウブドの西へ1時間ほど走ると、水の島の源泉のような場所があった。


苔むす神々、もれる光、輝く水、花と聖水。命のお守り。




バリ島寺院の割れ門は、この洞窟を模したものではないか。岩の割れ目からもれる光と水に敬意を表したものなのかもしれない。ああ、アニミズムの極地。




グルとはヒンドゥ教の導師のこと。グルに導かれて、めくるめく聖水巡りができた。


ヒーリングとかセラピーとかごちゃごちゃ案内板に書いてあるが、そんなことはどうでもいい。ただ感じればいいのだ。

この石の遺跡はいつ誰が刻んだものなのだろうか。分からない。蛇がいる。猿がいる。獣がいる。掌がある。男神と女神がいる。


混沌と過剰の水際を父と息子は歩んでいく。


供物と祈りを忘れてはならない。青空に向かって手を伸ばす。世界はこんなに美しい。


昨日のムルカットは予行演習だったのだ。滝壺のスケールがまったくちがう。息子が手を引いてくれる。


鮮烈さに叫ぶしかない。水しぶきは天と地をつなぐ。


世界の輪郭がぼやける。


ああ、楽しかった。楽しいことは正しいこと、というキャッチフレーズがあったが、僕たちは正しいムルカットをしたのだろう。


浄化のあとは祈る。バリのコモンセンスである。


フルコースを終了したら、グルは右手首に3色お守り(Tri Datu)を巻いてくれた。


赤は火の神、白は風の神、黒は水の神。僕は星の神、ビンタンビールで乾杯する。


ツゥリ・ダトゥを見せたら、バリ人は微笑んでくれる。
焼鳥屋のおっちゃんもホテルマンも。


ふわっとした心持ちでバンガローに帰った。番猫は相変わらず気持ちよさそうだ。


ひと休みしたら、サテーを食って夜のウブド王宮に行く。ガムラン舞踊を見逃して帰るわけにはいかないと誰もが思うだろう。

ガムランとは端的にいえば「打楽器のオーケストラ」。


古代インドの叙事詩、ラーマヤナの物語。善(ダルマ)と悪(アダルマ)の闘いなのだろう。善悪二元論、そこには陰謀論も「ディープ・ステート」もない。単純でよかった。


さて、父と息子のバリ島物語は最終日となった。ウブドの民宿の女将と番猫に別れを告げる。


棚田へ。広大な棚田へ。ニワカ雨が降る天気ではあったが、気分は最高。
ジャルティルウィ・ライステラス。


ムルカットでバリ島の国つ神に祝福されたから父は上機嫌である。


田んぼと稲がある。しかも7月に田植えしたら9月に稲刈りができる豊穣の棚田なのだ。白い米は「ヒブリダ」という品種。赤い米もつくるそうだ。


お姉さんの笑顔も素敵だ。


バイクのおっさんにもご挨拶。


変な奴が来たな、と田んぼ猫に言われた。気にしないで、君はネズミを取りなさいと言ってみた。


ここは手植え、手除草、手刈りの田んぼである。牛は糞に尿をかける。現役の手押し耕耘機がある。


しかも、いたるところに、田の神を祀ってある。供物が絶えることはない。


「これで旨い米ができないわけはないがね」
「このあたりの稲は穂刈りするけんね」
「草は牛の餌になるでのう」
気分はバリ百姓。身分は観光客。そのような者でした。


発見があった。有能で陽気なドライバー、マデボギーは農家の子でもあったのだ。棚田の農民とも話があう。小さい頃は広い田んぼで草取りの手伝いをしていたという。


「バリの田んぼではネズミが稲の根を食うんです。でも、猫はネズミを取らない」
えっ、そうだったのか。ではあの田んぼ猫は暇なのではないか。


そんなことを話しながら、車は一気に南下する。何かの儀式が見えた。涙雨か。


バリ旅のスタートラインに戻る。「匠 TAKUMI」のある町、クロボカン。
マデボギーが妻のゆかりさんと住む家。そこに近所の大二郎さんも来てくれていた。


ゆかりさんは、バリ旅のコーディネーターであり情報源だった。感謝しかない。




嫁に来た実家を愛娘と愛犬とともに案内してくれる。豪邸だった。屋敷寺がある。おお、マデボギーは豪農の子だったのか。


これは集合写真を撮らねば。撮ったあと、大二郎さんは僕をハグする。やめてよ、泣けるから。


それから、父と息子は海に向かった。バリ島に行ったといえば、ワイン片手にリゾートビーチを楽しんだと誰もが思うらしい。はい、ワインはあちこちで呑みました。でも居場所は山でした。


ラストシーンは海というよりも夕陽。そしてイカン・バカール。海辺で、焼魚を食いながら夕陽が見たかった。しかもシーフードの村、ジンバランは空港が近い。夕陽と飛行機という長男の好みがふたつながらにしてある。


夕陽は旅の未練をたっぷりと残しながら落ちていく。心も波立つ。


雲がアートする。バリはアーティストたちが住みついた島でもあった。


父はワインを呑む。息子の背中を見る。


翌朝、9月7日、長男は砂浜を空港の近くまで走った。


僕はひとりで朝の海を散歩する。流れついたような木を見た。


守られた手を見る。僕の指はガムランダンサーのようには動かない。それでもキーボードを叩いて、見たこと聞いたことを書くことはできる。いつまでかは分からないが。


ケラトン・ジンバラン・リゾートはいいホテルだった。


いつものようにパンクチュアルに迎えに来たマデボギーの車に乗りこむ。空港までは短い時間だった。そして分かれた。
君のおかげでいい旅だった。「トゥリマカシ」、Terima kasih ! サンキュー。


青い空と海からバイクの川、ホーチミンに飛んだ。


最後のディナーで僕は長男にお礼を言った。
「ありがとう。これが人生最後の海外旅になると思う。おかげさまで楽しかった」


旅の最終目的は無事に帰宅することにある。旅の途上の子供もそう言っているように思えた。

9月8日、成田空港。また息子の背中を追いかけた。


2023年12月、父と長男の手にはまだ世界を守るものが巻いてある。息子は走り続けるだろう。父はもうついていけない。たぶん。



参考書籍
『大阪下町酒場列伝』(井上理津子/ちくま文庫/2004年)
『聖なる魂~現代アメリカ・インディアン指導者デニス・バンクスは語る』
(森田ゆり/朝日新聞社/1989年)
『輝ける闇』(開高健/新潮文庫/1982年)
『ベトナム戦記 新装版』(開高健/朝日文庫/2021年)
『観光コースでないサイゴン(ホーチミン)』(野島和男/高文研/2017年)
『週末ベトナムでちょっと一服』(下川裕治/朝日文庫/2014年)
『あやしい探検隊 バリ島横恋慕』(椎名誠/ヤマケイ文庫/2016年)
『毎朝ちがう風景があった』(椎名誠/新日本出版/2019年)
『楽園の島と忘れられたジェノサイド』(倉沢愛子/千倉書房/2020年)
『バリ島小さな村物語』(長尾弥生/JTBパブリッシング/2004年)
『地球の歩き方 バリ島2024~2025年版』(地球の歩き方編集室/2023年10月)
『コンテキスター見聞記~半農半Xから国つ神へ』(田中文夫/2019年)