2010年6月27日日曜日

小説「流れる」イントロ

【第一部は脱稿。現在第二部執筆中】未発表 奈良県吉野川川上村へのオマージュ

第一部 1993年

流介は、夜明けが好きだ。ジープ・チェロキーのアクセルを、めいっぱい踏みこむ。四千馬力のエンジンが心地よい唸りをあげて、真っ赤なボディが森を駆け抜ける。

透明な空気が流れる。生命が蘇る瞬間だ。河原流介は鮎師だ。六月から九月まで夏場のほとんどを鮎の川で過ごす。鮎の友釣り、この熱病を患ってから五年になる。川の石につく苔を一日中、食みまくる鮎の習性を見てこんな技法を発案した者を恨みたくなるほど、この釣りは面白い。

鮎は石についた苔しか食わない。美味しい苔のついている一等地の石の周りに自分の縄張りを持って、侵入してくる他所者の鮎を激しく追う。鮎師は縄張り鮎がいるポイントを見つけて、長い竿でコントロールしたオトリ鮎を近づける。野生の鮎が自らの餌場を守る執念はすさまじいもので、たちまち侵入者に体当たりをくわせる。その瞬間、オトリ鮎にセットされた掛け鉤で鮎を釣るのが友釣りだ。だからこの釣りは、友釣りではなく「喧嘩釣り」といった方があたっている。

「さーて、今年は、どんなシーズンになることやら」流介はつぶやく。六月一日は、鮎師の元日だ。今日の解禁日のために、流介は、デジタル・アートディレクターとしての仕事を整理した。オフィスのマッキントッシュには、秋まで、ひたすら川狂いをしても、あまりある情報をたたきこんである。新しいコンピュータ・グラフィックス・パターンのデータを小出しにしていくだけで、年収は確保できる見通しだ。

「時は今。いざ釣らんかな。鮎は愛。愛は河原に宿りたまう」でたらめな歌を口ずさんでいるとき、電話が鳴った。流介のチェロキーには電話とファックスがついている。夏中、気ままな生活をしている流介の必需品だ。

「流介、遅い、今どこだ」しわがれ声が受話器から飛びこんできた。「あっ、師匠。すみません。夕べちょっと遅かったもんで」

「女か」ぶっきらぼうに応対するのは、流介を鮎釣りの世界に引っ張りこんだ玉山秀次だ。「解禁前夜にそんな余裕あるわけないでしょう。ひと夏、鮎にのめりこむために、パソコンとにらめっこですよ」 「何でもいいが待ちきれん。蜂の巣ポイント、双子岩だ」それだけ言うと電話は切れた。

「師匠、気合い入ってるなあ」厳しいカーブが連続する林道を疾走しながら、流介の心も川に飛んだ。 玉山が電話をかけてきた杉山オトリ店まであと十五分。入漁券とオトリを仕入れて、指定された場所まで三十分。その間に師匠は五尾くらい掛けているだろう。

こいつは解禁日から厳しい勝負になりそうだぜ、と気持ちを引きしめた瞬間、バックミラーに飛びこんできた黒い車が、ブラインドカーブで追い越しをかけた。鋭いエアホーンをあびせながら追い抜いていったのはフルサイズのランドクルーザーだ。

解禁日には気持ちが焦る。他人よりちょっとでも早く良いポイントに入った者には、釣果が約束されているからだ。解禁日の鮎は、まだスレてなく、オトリ鮎が自分の縄張りに入ってくれば、必ず激しい追いを見せる。しかし、ポイントの選択を間違うと多くの人出のために移動もままならず、不本意な結果に終わることがある。

それにしても、解禁日から事故ったらどうしようもないだろうが、あの馬鹿。ブラインドカーブで追い越しをかけるのは、想像力がない証拠だぜ。

杉山オトリ店は、香美川の入漁券とオトリ鮎を求める鮎師でごった返していた。解禁日の興奮を楽しむ彼らの中にあって、長身に銀色のヴェストを着こなした流介の姿は、際だってスマートである。髪を後ろに束ねたその顔色はもう夏のものだ。

「流ちゃん、ええ友、持って行きや」流介を見つけた杉山のおっちゃんが声をかけてくる。鮎師はオトリ鮎のことを友と呼ぶ。その日の釣果を左右するのは最初のオトリだから、鮎師は誰でも、友の選択には慎重だ。

「おっちゃん、今年もお世話になります」  流介は笑顔で挨拶した。杉山が選んでくれた元気のいい友を二尾、オトリ缶に入れて、すぐにエアーポンプをセットする。「流ちゃん、今シーズンの目標は?」杉山が、友を鮎師に渡す手を休めずにたずねる。「目標千五百尾!」 と言いたいけど、自分で納得できる釣りができればいいよ」 「またまた、ええ子ぶってからに。ほんまは、今年こそ師匠を追い抜いて、リバーラン・カップの優勝、狙とんやろ」杉山の言葉にちょっと照れたような微笑みを返して、流介はジープ・チェロキーに乗りこんだ。

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