2010年6月1日火曜日

うどんとそうめん

小豆島新聞 2009年3月10日掲載 双葉要

讃岐といえば、うどん。小豆島といえば、そうめん。ならば、小豆島は讃岐ではないのか。そんなことはないはずだ。しかし、全県あげて、うどんで盛り上がる讃岐にあって、小豆島はそうめんという特異な麺類が喉にひっかかっているようにも見える。

統計学的に見てみよう。いまや、讃岐うどんツアーのバイブルとなった「恐るべきさぬきうどん全店制覇2008」の掲載店数によれば、香川県のうどん店は全県で658店、小豆島では9店。うどん店比は、1.4%。ちなみに、香川県の人口は100万3千人、小豆島の人口は3万2千人。人口比は3.2%。このデータによれば、やはり小豆島のうどん店は少ないのではないか。人口比に対して、半分以下のうどん店比だ。少し違う文化圏の匂いがする。

ここで、私のスタンスを明確にしよう。私は坂出生まれで丸高卒、現在は大阪在住だ。ただし、母は小豆島の大部に実家がある。ということは、どちらかといえばうどん寄りのスタンスでこの文章は展開されつつ、そうめんにも敬意をはらうつもりである。

まずは、敬意から。そうめんというものは、ある程度の年代になってから、うまさを感じるもののようだ。灼熱の昼、もしくは二日酔いの朝、冷たいそうめんほど癒される食物はないだろう。それから、かなり大人になってから知った味だが、温かいにゅうめんも捨てがたい。したたかに飲んだ後、ラーメンはいらない。うどん屋はとっくに営業時間が終わっている。そんなときに、北新地のとあるバーで食べるにゅうめんは最高だ。細い麺に上品なダシがからんでくる。そう、問題は麺の太さにあるのだ。ウィキペディアによれば、そうめんの麺の太さは直径1.3ミリ未満とされている。うどんは1.7ミリ以上だ。

若いときは、圧倒的に太いものがいい。夏の部活が終わったあとに、いい若い者がそうめんなど啜るわけにはいかないのだ。氷水に、ぶっというどんを大量に浮かべた冷やしうどん以外にエネルギー補給の道はないのだ。ところが、自慢の腹筋は跡形もなく、咀嚼力も衰えてくると細いものの価値も分かってくるのだろう。

とはいえ、讃岐育ちの場合は、生きている限りうどんを食い続けねばならむ業を背負っている。そうめんはヒーリング・フードにはなりえても、ソール・フードにはなりえない。このあたりは、小豆島育ちの皆様もご納得いただけるのではないか。

で、話は一気にうどん寄りになっていく。うどんをソール・フードにする原住民(元々、そこに住んでいた人の意)にとって、昨今の軽薄なうどんブームはいかがなものか。私が讃岐育ちだと知って、うどん談義をしてくる人々に対して、私は「まぼろしのうどん屋」の話をする。

宇高連絡船、と言って分かる方はどのくらいいるだろうか。私は1970年に18歳で坂出から東京の大学に行った。高松と宇野間の交通機関は、当然ながら船しかなかった。帰省する場合、東京から新大阪まで新幹線で3時間半。新大阪から宇野まで在来線特急で4時間、7時間半掛かって、ようやく宇高連絡船にたどりつく。船に乗りこむやいなや、飢えた若者たちは二階デッキに駆け上がる。そこにうどん屋があった。立ち食いうどんである。いわゆる、かけうどんである。ねぎと生姜とかまぼこが浮かんでいる。

うまかった。東京のうどんに虐げられた若者の胃袋に染みわたった。駆けつけ2杯は食べていた。いりこダシに涙した。宮武も山内も、何ぼのもんじゃ。宇高連絡船二階デッキの立ち食いうどんこそ我らのソールうどんなのだ。7時間半という郷愁のトッピングにかなうものはない。そのうどんって、どうやったら食べられるのかって。今となっては、誰も食べられぬ。食いたかったら、タイムマシンを発明しろ。と言って、軽薄なブームをあざ笑うのが快感だった。

ところが、である。2006年に「UDON」という映画ができた。さっそく見た。ところが、なんと、この私オリジナル秘話が、まったく同じ論調で語られていたのだ。丸亀出身の本広監督にこの話をした覚えはない。そもそもこの監督とは面識がない。1970年当時、5歳だった本広監督が郷愁うどんを体感したはずはない。

なのに……少しだけ口惜しくて、少しだけ嬉しかった。うどんにしろ、そうめんにしろ、気持ちを麺の腰とダシに練りこんだものが、いちばんうまいということなのだ。

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